-- 緋花の家 -- 
 
* ミツバチは花が好き *

TOP | BACK | NEXT  ||HOME||

5-11 情愛が火を招く

 

 朝のうちから蝉に声がけたたましい。とくにこのあたりは庭に樹木がある家が多いので尚更。

 期末試験も終わり、もう夏休み。
 滞りなく成績が残せても『それなりに受験生をやってみるか』といつもの調子で、とりあえず忙しい受験生のふりをして幸樹も夏休みを迎えていた。

 幸樹の日課も変わっていない。

「おはようございます」

 夏本番を迎えた薔薇庭は、今や盛りと花盛り。大輪も小薔薇も蔓薔薇も、どの種の薔薇も咲き乱れる。
 しなやかなビロードの花びらには、煌めく大粒の滴。朝方、彼女が水まきをした時の水玉が、よりいっそう華やかさを添えていた。

 いつもの薔薇の家へと、毎日欠かさずやっている『盛り塩』に。朝一にこれをやってから、幸樹の一日が始まる。

「おう、おはよう」

 リビング縁側で靴を脱いでいると、眠そうな顔の拓真がオレンジの作業着姿のまま出迎えてくれた。

「いま、帰ってきたんですか」
「あー。昨夜は出場回数が多くて参ったね。メシ食ったら寝る」
「ほんと消防官って大変な仕事ですね。ご苦労様です」

 一日置きに24時間勤務。朝帰ってきて少し寝るだけの拓真。生活のリズムは崩したくないから、絶対に丸一日眠るだなんてことはしないとか。もう身体に染みついた習慣とのこと。それでも帰ってくると、いつもひとまずそこのソファーにごろりと横になる。

「叔父さん、ご飯できたわよー」

 キッチンから凛々子の声。横になったばかりの拓真だったが『ういーっす』なんて、間の抜けた唸り声ですぐさま起きあがった。

 幸樹もキッチンへと顔を出す。

「リリ、おはよう」
「おはよう、幸樹」

 ボーダーのロングティシャツに、デニムのショートパンツ。どこかボーイッシュなコーデ。どうやらこちらの凛々子の好みのようだった。彼女はデニムパンツが好みのようで、キリッとした白いシャツなんかを上手く着こなす。今日もそんなスタイルに、エプロンでキッチンにいた。

 この家のダイニングテーブルには朝食が並べられている。焼き魚に、ワカメとお揚げの味噌汁。そして小皿に胡瓜の漬け物。白飯に、テーブルの中央には、海苔にふりかけに生卵、塩昆布に梅干しに納豆などの飯の友。この家は一日置きに和の朝食が出される。

「うわ、うまそう」
「今日も、塾で夏期講習なんでしょ。食べていきなよ。しっかり食べて来年の受験に備えないとね」

 どでかいどんぶりに、凛々子が白飯をこれでもかと盛ったので、幸樹はギョッとしたのだが。

「俺の茶碗、あっちな」

 つい数日前に、坂の下の大通にあるホームセンターで見つけた茶碗。凛々子と二人で出かけて買った。『薔薇の家での幸樹専用ね』。彼女がそういって選んでくれたものだった。

「わかっているって。あ、叔父さん、ご飯を食べてから寝てよね」
「その前に、ションベン」
「もう、やっだ。叔父さんったら。そういうの女の子の前で言わないでよっ。美紅がいたら怒られるんだからね」
「ういーっす」

 もさっとした拓真がオレンジのレスキュー服のまま廊下の奥に消えていった。

「先に食べたら、幸樹」
「じゃあ、遠慮なく」

 夏休み――。毎朝、盛り塩に通っているうちに、この家で朝食を食べるようになってしまった。自宅でも朝食は出るが、いままでろくに食べてこなかった。
 いまだって母もつくってくれるが、どうしてなのか……。せっかく母親が作ってくれても、いまはこちらで食べてしまう。
 凛々子と拓真がまるで親子のようにして楽しそうに朝食を食べているのを見ているうちに、いつの間にか幸樹もご馳走になり、なぜか……それが楽しいというか美味いというか。

「あのさ。早紀おば様が息子のためにって作った朝食もちゃんと食べた方がいいわよ」
「うーん。そうなんだけどなー。なんつーの、ワンパターンっていうか」
「一緒に食べてあげたら喜ぶと思うな、私」

 凛々子が言っていることも、重々わかっている。それに彼女が言うと重みが増す。

「お母さんを早くに亡くした凛々子に言うのは心苦しいんだけどさ。実際には、俺ぐらいの年齢の男は『母親と朝から食事』なんてウザイし……いや、照れくさくもあるんだよ……」
「ああ、なるほどね。そういうことなんだ」

 年頃の男の気持ちを解ってくれたようだった。だが幸樹も彼女が言いたいことをきちんと考えてみる。

「でもさ。ここで朝飯食うようになったら、塾に行っても調子がいいし頭が冴えているのも確かなんだよな」
「朝ご飯は大事ってミコおばちゃんも言っていたよ。この鳴海の家では、カズが和食派、美紅が洋食派で対立するから一日交代で出てくるんだよね。昔から」
「一馬さんて古風なんだな。こんだけガッツリ和食の朝飯、旅館でしか見たことねーよ」

 でも『うま、やみつき』と幸樹も白飯をかき込んだ。
 そのうちに拓真もやってきて凛々子も席に着き、三人での朝食。夏休みになってから毎朝この風景。

「あー、また失敗」

 卵かけご飯を食べると生卵を手にした凛々子が、殻割りを失敗し手を汚すのも恒例だった。

「なんかぶきっちょだな、お前」
「うるさいわね」

 ここがちょっと緋美子さんと違うようだった。長らく自分の身体を使っていないせいじゃないかと凛々子は言う。身体も叔母の緋美子に上手く使いこなされてしまい、どこかぎくしゃくすることがあるのだとか。

「もう貸せよ!」

 くずれた生卵を落とした小鉢を奪い取り、幸樹が箸で綺麗に混ぜてやる。

「ありがとうー、幸樹」

 差し出した小鉢を嬉しそうに受け取った凛々子を見ていた拓真が、そこでおかしそうに笑い出したので、若い二人はハッと我に返る。

「いやー、若いっていいなあ、なんて」
「ただ、俺は、こいつが子供っぽくてもどかしいっていうかっ」
「そうよ、この人が年下のくせに兄貴ぶって……」

 取り繕うようにムキになった若い二人にも、拓真が笑う。だがやがて、彼が急に寂しそうな顔になり、豪快に食べていた白飯のどんぶりを力無くテーブルに置いてしまった。

「いいよな。俺もそうだったからさ……」

 哀しそうに変貌した眼差しが、リビングを越え開け放している窓の向こう、薔薇の庭へと遠く向けられている。

「こんな夏だった。緋美子がそこの庭で薔薇を描いていたんだ。この近所で火事があった翌日。調査の為にもう一度現場に来た時、この周辺を捜査していた時にみかけたんだ」

 この家で、緋美子と出会った。
 そんな若い時の思い出話が始まり、若い二人は顔を見合わせる。

「俺は二十歳で新人消防士、緋美子は十九の学生だった。でもあっという間の夏。直ぐに緋美子の腹ん中に一馬が出来たんだ」

 それは幸樹も初耳だったので『すげっ』とおののいた。いまでこそ『デキ婚』とあっさり口にするし良く耳にするが、母の時代にしてはすごく若い……。いまだって、若者のデキ婚は珍しくないといえども、もし幸樹自身がそんな身の上を考えてみたら、やっぱり若すぎるし勇気が要ることだと思うから。だが拓真はそこは満足そうに微笑んでいる。

「俺達、後悔なんてなかった。すぐに結婚してこの家で暮らしたんだ」

 本当に愛し合っていた。奥さんの緋美子さんはその為に大学を中退はしたけれど、とても良い妻で母で。若くてもきちんと社会の中で家庭を営む若夫妻としてこの近所でも評判だったとか。

「そうそう。叔父さんと叔母さんて大恋愛だったんだよね。私が小さい時も、この家に遊びに来たら二人ともすっごくらぶらぶっていうの」
「わーははっ。だって俺、ミコに声をかけるのにわざわざ寮から遠回りして、この庭に水まきしている緋美子を見に来ていたんだ」
「すげー、拓真さんべた惚れだったんですねー」
「そう。だって、緋美子は俺の『白い花』――」

 彼女は白い花――。もの凄い古典的な例えにうっとりしている拓真を見て、幸樹は面食らってしまう。

「古典的……だけど、なんとなくイメージわかるわね。確かにミコおばちゃんは、儚げな日本女性て感じだったし」
「だろ。でも中身は真っ赤な薔薇なんだ」

 またまた。『それって情熱的ってのろけ』と幸樹はまたからかおうとしたのだが、そう呟いた途端、拓真がまた哀しい顔に変貌してしまう。そして一緒になってからかっていた凛々子まで、気遣うように笑顔を消してしまった。
 そこに。なにかあるのだろうか?

「わからないもんだ。女房のこと全部わかっていると思っても。俺は清楚な妻だと思っていても、緋美子が楚々とした大人しい女だと思っていても。あれでいて内面は赤いどろどろとした情熱を渦巻かせて、たった一人で俺にも言えず恥じるようにして悩んでいたなんて」

 何を言っているかわからなかった。そして拓真も思わぬことを口にしていたと言わんばかりに、急に我に返った顔。

「わるい。疲れているんだ。寝るな」

 毎朝大食らいの叔父さんが、茶碗も箸も置いて席を立ってしまった。

「なんだよ、いまの。赤いどろどろ……って話」

 知っているだろう凛々子に尋ねたが、彼女も知っているのは確かなのに少し困った顔をしている。

「……それも、まだ言えないってことか」

 言えないことを強く問わない。そう約束し、凛々子を信じて待っているという約束をした。だけど……やっぱりもどかしい。幸樹もいい気分ではなくなり、拓真のように箸を置いてもう出かけようかとおもってしまったほど。

「ミコおばちゃんは、真っ赤なの」

 おもむろに漬け物をかじりながら、凛々子がやっと一言。

「真っ赤?」
「そう。幸樹の背後が白いて言ったことがあるでしょ。それのこと」
「緋美子さんの背後が赤色ということなのか」

 真顔の凛々子が幸樹を急に見つめる。いつもの大事なことを言う時の彼女の黒い目に、幸樹はまた吸い込まれていく。

「名前の通り。叔母ちゃんは、緋色。火の動物みたいなもの。最高の相性を持つつがいの火の男がいてね。そいつと出会うとこの上なく燃え上がって『火』を引き寄せるの」

 火? どこかでなんか関わった気がする。幸樹はそう思ってすぐさま過去の記憶を探り……。

「そういえば。緋美子さんが、俺は火とは相性が悪いから気をつけろ……て」
「長谷川の家は、火と相性が良くない。そこへ火の相がはいると、不幸を招く。まあ、何処の家もそうなんだけど。この薔薇の家も火は駄目。なのに叔母ちゃんは火の女だったから……」

 そこまで話した凛々子が、これ以上は……と戸惑うようにしてまた口を閉ざしてしまう。
 幸樹ももどかしくなる。でも約束だ。無理に問いつめない……。気持ちとは違うが、彼女を困らせたくない。そう言い聞かせていると、凛々子がやっと決意したように言った。

「緋美子叔母さんは、火事で死んだのよ」

 火事? また……幸樹の中で、何かがひっかかった。

「はやく食べよう。塾に行っておいでよ。話は帰ったら、ゆっくりしよう」

 帰ったら話してくれる、そういう意味なのか。幸樹が帰ってくるまでに話すか話さないか考えておくという意味なのか。ともかく、凛々子が少しだけでも教えてくれたので、幸樹もそれで良しとして、彼女と食事を進めた。

 目の前に、食べかけのどんぶり飯。親子のように話す拓真と凛々子と一緒にしていた賑やかな朝食が、この日は静かに終わってしまった。

「いってらっしゃい。お昼から雨らしいよ。傘もっていきなよ」

 勝手口から出かけようとする幸樹を彼女が見送ってくれる。白い折りたたみ傘を、凛々子が差し出してくれていた。

「帰ったらまた、買い物に行こうな」
「晴れていたらね」

 拓真が姪の行動範囲を広げるために自転車を買ってくれた。それに乗って二人で並んでこいで、街中を走るのが近頃の楽しみ方だった。
 そして、幸樹は黒髪の彼女をみつめた。

「リリ」

 頬に指先をすべらすと、それが合図のように凛々子が静かに瞼を落とす。
 頬と頬がそっと触れ合い、互いの唇の間に微かな吐息が混じり合った。

「っん」

 まだ慣れていない彼女は、幸樹が唇を吸うたびに、そんな濡れた息をもらす。

 『恋人ごっこ』は、もうずっと前から始まっていた。あの夜からずっと。
 『ごっこ。なんだからさ。別に互いの気持ちなんて考えなくていいんだよ。とにかくそれらしく甘ったるいことやってみようぜー』
 そういって戸惑っている彼女の隙をみて、強引にくちづけたあの夜。びっくりしてすぐさま離れてしまった凛々子の腕をひっつかんで、幸樹は彼女に詰め寄った。
 どうせいつかは別れてしまうなら、いまだけでも恋人気分で遊べばいい。いつかいなくなってしまうかもしれない自分のことも、そして置いて行かれるかもしれない俺のことも気にするな。これは『ごっこ』なんだよ。子供のままごとと一緒なんだよ。ある役割があってそれの真似事をしてムードを楽しめばいいんだよ。
 そう凛々子に懇々と説いた。そんな自分が滑稽に思えた。『ごっこ』だ『遊び』だ『真似事』だ。そう彼女に言い聞かせ、気軽に始めて美味しいとこ取りで気分だけ味わって、後腐れなく――。そう力説しているのはなぜなのか。そんなくだらないことを、真剣に彼女の言い聞かせている自分が。――実は、誰よりも『真剣』なのだと。幸樹は自分で判っていた。

『ごっこ、なのよね』

 だが意外だったのは、凛々子の反応。『これが遊びなら、もう一度平気な顔でキスをして。私もそうするから』――。あの夜、彼女の黒目が夜明かりの中妖しく光った。それに囚われるようにして、幸樹は二度目のキスを彼女にした。凛々子の唇は、ぎこちないのに……懸命だった。
 本当は。リリも。本当は……?
 慣れていない固いキス。でも一生懸命になって『それなりになりたい』と背伸びの彼女を抱きしめる。

 そしてこの朝も。凛々子は幸樹を追うように、唇を吸い返してくれる。
 ぎこちないくせに。『あん、っん、んん、っんく』なんて、夢中になって愛してくれるもんだから、幸樹もついうっとり……。

「やっ、幸樹。やめて、まだ、そんな」

 気が付けば、彼女の乳房を幸樹の手が揉んでいた。

「あ、つい」

 まるで当たり前のように触れていた乳房から平然とした顔で手を放すと、凛々子がちょっと怒った顔になる。

「ついって、なに。まだ私、見せてもいないのに。どこの誰のオッパイを握っていたことがあったのよ」

 そういうところ、敏感に気にするのは『女らしい』と幸樹は苦笑い。

「だったら、早く見せろよ」
「サイテーっ。なにもかも慣れちゃって。『キスのつぎはオッパイ』なんて、当たり前みたいに言って」

 それでも怒っている彼女の唇をもう一度、柔らかく塞いでおく。それだけで、やはり凛々子は頬を染めて黙ってしまった。

「恋人ごっこ、いいもんだろ」

 『まあね』と口では言うが、桃色の頬のままはにかんで俯く凛々子が、幸樹には急に女っぽく変わったように見え、けっこうな見応えだった。

「男役に徹した俺のこと、忘れんなよ。もし、なにかあっても……」

 強がっているのは幸樹も一緒だった。毎日出かけて、帰ってくる時。この薔薇の家のドアを開けたら、その生意気で強がりのリリはまだいるのだろうか。でも『ごっこ』と仕掛けた男がメソメソしては、せっかくこの世に戻ってきた彼女が楽しくなくなってしまう。

「最初から最後まで。『ごっこ』に付き合ってくれるのは幸樹だけだよ。きっとね。たった一人、私を知っている人」

 艶やかな長い黒髪に包まれている小さな彼女の顔、にこりと微笑みながらそういってくれた彼女を見て、また抱きしめて口付けたくなったが幸樹はこらえて靴を履く。

「行ってくる」

 振り払うように勝手口から出かけた。

 自転車に乗り坂道を下る間も、幸樹の胸の鼓動は強く早く打っていた。それだけ、リリにときめいている。
 昼からと聞いていたのに、もうぽつぽつと雨粒が落ちてきた。

 大粒の雨が落ちてくる空を見上げ、幸樹はふと何かを思い出した。

「俺の伯父さんも火事で。緋美子さんも火事で? 近所同士の二人が火事で。これって偶然?」

 そしてもっと驚くことを幸樹は思い出す。

「あれ。確か伯父さんが死んだ火事って。東京に出張している時だったって……」

 その時、言いたくても言えないともどかしそうにしていた、凛々子の困った顔が浮かんでいた。

 最高の相性を持つつがいの火の男がいてね。そいつと出会うとこの上なく燃え上がって『火』を引き寄せるの。

「最高に相性がいい、つがいの、火の男と火の女。火を引き寄せて不幸になる?」

 まさか。

「一緒に死んだっていうのか」

 あの男と縁を切って欲しかった。凛々子が言っていた叔母から引き離したかった男とは――。

「正樹伯父のことだったのか?」

 

 

 

 

Update/2010.11.18
TOP | BACK | NEXT  ||HOME||
Copyright (c) 2000-2010 Yuuki Moriya (kiriki) All rights reserved.