-- 緋花の家 -- 
 
* ミツバチは花が好き *

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5-12 咲いた薔薇は睦み合う

 

 予報通りの雨は、午後になるとさらに激しく降った。自転車を塾に置いて、バスに乗り幸樹は坂の下に辿り着く。凛々子が持たせてくれた傘をさし、足早に坂をあがった。
 長谷川の自宅に戻らず、今日も薔薇の家一直線。

「こんにちはー」

 キッチンは綺麗に片づけられ、そして静かだった。

 勝手口からリビングを覗こうと首を伸ばしたが、非番の日はそこでくつろいでいる拓真もいない。

「リリ、いないのか」

 今の凛々子なら、この雨の中、一人で出かけられるはずがないのだが。 叔父と姪で出かけたのかもしれない。待っていれば、すぐに戻ってくるかもしれない? 
 この家の鍵を持つことを許してもらい、勝手にドアを開けることも許してもらっている。拓真が『暫く俺が滞在するから』と幸樹の出入りを許してくれたことで、あの母親も渋々と了解してくれたのだが。それでも誰もいないこの家に上がってもいいものなのだろうか。
 だが『正樹伯父のこと』が、授業中も気になって気になって仕様がなかった。帰ってきたら話してくれるような口振りだった凛々子に期待して、急いで帰ってきたぐらい。そうだ。待っていよう。そう決め、幸樹は勝手口をあがった。

 雨の日の薔薇庭も、とても風情がある。これをあの寝室から眺めると、また雨模様の街とここ丘の住宅地がなんともいえない情景で浮かび上がる。そして彩りは雨露に濡れる薔薇。

 それを一目見ようと、凛々子が使っている寝室へと向かう。
 留守だと思ってノックもせずにドアを開けた幸樹は驚かされた。
 凛々子がいたからだ。いたと言っても、彼女は静かにベッドに横たわり眠っている。

 『なんだいたのかよ』。叔父の拓真も出かけてしまい、一人留守番。退屈で寝てしまったのかと呆れたりもした。
 ふーん、『リリ』になってからは、この上なく強気な口振りで、なのに女としてはちょっと幼くて、でも見た目は綺麗な年上のお姉さん。アンバランスで、でも幸樹がやり返されることも何度もあり、機転が利くのは彼女の素質でもあるらしく油断は出来ない。そんな『リリ』は、退屈させなかった。

 ――『恋人ごっこ』なんて、体の良い言い訳か建前みたいなものだった。『どうせ私は死んでいる、これからもどうなるかわからない』と決めつけている彼女のことだから、『短期間でも恋人みたいにして気楽に遊んでみよう』とダイレクトに言ったところで、余計に戸惑うだけだと幸樹は予測していた。それよりも、うんと子供っぽく馬鹿馬鹿しいくらいに『ごっこ』と言えば『これは悪ふざけだ』と割り切ってくれるはず。幸樹はそう思った。
 元より凛々子だって『年頃の女』。まったく興味がないわけでもないだろう。でも誰でも良いというわけでもないだろうし……。でも、どうしたことか幸樹のことは少なからずとも頼ってくれている。それなら『こっちは好都合』。何故なら……幸樹は『ごっこ』と言って、実は『本気』だからだ。
 でも、凛々子に本気でぶつかればぶつかるほど、幸樹のことを思って逃げていってしまう気がした。あまり踏み込むと、彼女が今の鳴海家の状態はともかく、東京に単身帰ってしまう気がしたのだ。
 それなら彼女の負担にならないようにすればいい。『ごっこ』という悪ふざけなら、そう『幸樹の遊びだ』と思わせておいた方が、彼女だって後腐れなく終われると……。

 無防備な彼女の寝顔を見下ろし、幸樹は人知れず胸を押さえた。

 こんなに一人の女のこと。自分の本気を隠して、馬鹿みたいに遠回りに扱って、彼女の負担にならないようになんてあれこれ考えて思い遣るだなんて――『初めて』だった。
 最初に恋をしたのは、この大和撫子美を放つ若い凛々子の姿をした、大人の緋美子さんだったはずなのに。彼女のことは遠く眺めてドキドキしているだけだったけど、それはとても魅惑の甘美な日々だった。
 でも今は、やっとキラキラ溌剌としている元気ではっきりとものを言う本当に若い凛々子と、なんの隔てもなく笑ったり言い合ったりしている方が、幸樹には実感がある。手に届かない甘美とはまったく異なるが、それは本当に『リリ』がそうであるように『キラキラ』とした白い薔薇のような眩しさは魅力的……。

「嘘だろ。俺、拓真さんと一緒じゃねーかっ」

 奥さんの緋美子さんを『白い花』と例えたオジサンを心で笑っていたが、凛々子を何かに例えようと思いついたのが自分も一緒で幸樹はがっくり項垂れた。
 男って……。そんなところ一緒なのかもなあ、と初めて痛感。

「……っん」

 雨音の中、無防備に眠っている凛々子が小さく唸った。

 悪戯でもしてやろうか。なんて幸樹は思ってしまう。
 どこか『いくらごっこでも、これより先はいけない』とブレーキをかけている、この幼いお姉さんを驚かせてやろうと思った。それもまた意地悪い『おふざけ』。

 雨の午後。一人の留守番。まどろんでいる。
 彼女の寝顔をみつめたまま、幸樹は側にあるスツールに座った。背後には雨雫に揺らされている赤い蔓薔薇。
 キスでもしてやろうか。それともまたオッパイを揉んで怒らせてみようか?
 『おふざけ』。目が覚めて驚くその顔を見て笑ってやるんだ。いつだって、俺のこと何もかも分かっているような顔で意地悪い口をきくくせに、でも、時に変に頼りなげで放っておけない……。
 しかし実際に、無抵抗で意識のない女性にそんなことをするはずもなく。幸樹はただシーツに広がっている艶やかな黒髪の毛先に触れてみただけ。
 ――『はやく目を覚ませよ』。そうでないと本当にキスをするか、身体を触るかしてやとうかと思ってしまう。それでもし、目覚めた彼女が切ない目で許してくれたなら。それならそれで流されてしまっても良いと思う。
 もしそうなって良い方に転ぶのか、悪い方に転ぶのか幸樹には分からない。
 だが、幸樹の中に、妙な焦りがあるのも確かだった。

 ――彼女は、またいついなくなるか分からない。

 また緋美子さんと入れ替わったら、今度はいつ彼女の番が来る?
 その間に、緋美子さんの情熱的アタックで拓真が奇妙な夫妻生活を思い出して、元のサヤに戻ってしまったら凛々子の身体はどうなる?
 緋美子さんが成仏してしまったら、残された凛々子は生きていられるのか?

 いつまで、彼女は幸樹が知っている元気で意地悪いままの姉さんでいられる?

 幸樹の悪戯は、悪ふざけであって、心の底ではいつだって『本気』だった。
 あの夜の、この部屋そこの窓辺での『ごっこ開始』の軽いキスだって。
 毎朝『いってきます』のキスを強引にねだるのだって。
 今朝のように、知らぬ存ぜぬ顔で彼女の柔らかな乳房を弄んだのだって。
 全て『本気』。本当は彼女の肌を撫で回したいし、唇もいつまでも吸い付いていたいし……。なにもつけていないはずなのに、甘い匂いを放っている身体で幸樹を誘っている。その肌を隠している衣服を剥いで飛びつきたい。それが出来たら、本気で全力で優しく愛してやる。そう思っている。
 だけれど『男と愛し合うこと』は叔母に譲って、彼女は少女のまま意識を眠らせていつの間にか大人の身体に。女の悦びを知らなければ、男と接する戸惑いは少女のまま。もし幸樹がこのお姉さんを愛そうとするなら、『16歳の後輩』を手込めにするという感覚で臨まねばならないことぐらい分かっていた。
 だから『ごっこ』。……でも、そんなところは彼女も年上の女。幸樹が『ごっこ』と上手く乗せてくれたことを分かってしまっているようで、だから、興味はあるからそこは遠慮せずにキスをしたり抱き合ったりを体感してみるが、流石に『胸は触るな』と一線を越えるガードは固い。

「む、うん……っ」

 そっと見守っているだけだったが。急に彼女の表情が苦しそうに歪んだ。眉根を寄せ、どこか色香ある顔に。

 そんな女の顔を見た幸樹はハッとさせられる。
 ――『もしや、また!?』
 また、何か得体の知れないものに凛々子が襲われている?
 そう慌てた幸樹は、後先考えずに、凛々子の身体を揺すった。

「おい、凛々子。おいっ」

 お前、いま何処にいるんだよ。まさか『あっち』にいるんじゃないだろうな。なにをそんなに苦しそうにしているんだよ。
――『こっちに帰ってこい!!』

 彼女の身体を揺すっていると、凛々子の目がうっすらと開いた。薄目を開けた彼女が、ゆっくりと幸樹を見た。

「よかった、目覚めた……」

 ホッとしたのも束の間。凛々子の両目がカッと大きく見開き、何かを憎むような目つきで幸樹を凝視。その眼に気圧され幸樹が絶句していると、ぐっと喉元に何かが飛びついてきた。

「っう、ぐぁあっ」

 凛々子の両手だった。彼女の手が幸樹の首を絞めている!
 何故? 考える間も与えないほど、女の力とは思えない、なにか巨大な鉄の機材に挟まるかのような重さと力に潰されそうだった。

『また、来たわね! いい加減にして!!』

 凛々子の声。あの強気の声。だが幸樹は何も言い返せなかった。唇から血が引いていく感触、首から上へと流れていくはずの血流が全て止められた感覚!

「リリ……どう、して……」

 ぎゅっと絞られている苦しさから、なんとかしてうっすらと目を開ける。そこで見えた光景に、幸樹は絶句する。

 首を絞めている鬼気とした凛々子の向こうに、あの無防備な寝顔の凛々子が寝そべったままの奇妙な絵がそこにあった。
 首を絞める手を除けようと、彼女の手首を握っている感触はある。なんだこれは? また苦しくて目をつむったが、なんとかしてこの不思議な光景をもう一度確かめようとして、また幸樹は言葉を失う。

『やめろ。その手を放せ!』

 今度は男の声が幸樹の耳に飛び込んできた。薔薇の家、白い明るいお気に入りの出窓の部屋にいたはずなのに。今度は赤黒い空が広がるおどろおどろしい空気の中にいた。

『それは俺じゃない!』

 赤黒い空。鴉が飛ぶ雲間。細い砂利道。道脇の彼岸花。そしてその向こう、小さな地蔵が並んでいるそこに白装束の男。

『離せ! お前と違って一度こっちに来たら戻れなくなるだろ!!』

 目を見張った。よくある『幽霊』と同じ白い着物と白い烏帽子の格好をしたその男は、自分にそっくりの男。
 そして幸樹の目の前には、黒目をきらりと輝かせ、長い髪をゆらゆらと炎のように逆立てている凛々子。飾り気のない黒いワンピース姿の彼女が幸樹の首を絞めている。
 頭が朦朧とする。息苦しいとかではなくなっていた。締められている首から上、脳天からなにか飛び出していってしまいそうな感覚。

『よく見ろ。そいつは、幸樹だ』

 男が幸樹と叫んだ。そっくりな男が幸樹と……。
 その名を聞いた途端、鬼気迫っていた凛々子の表情が一変する。逆立っていた髪がしっとりと彼女の頬と身体に沿い、そしていつも知っている凛々子の顔に見る見る間に戻っていった。

「うそ、だって、そっくり……だった」

 幸樹の首から、凛々子の両手が離れていった。息が出来るとか出来ないとか、そういう感覚ではなかった。
 だが幸樹はもう、分かっていた。あの男と凛々子がいて、なんだかこの異世界じみた光景。よく話しに聞く景色。そう『幽体離脱』をしかけているのだと!

『はやく連れて帰れ』

 落ち着いた大人の男が、凛々子に静かに言った。そこで戸惑っている凛々子がいる。

「はやく、連れて帰ってくれ。早紀が泣く」

 そこだけ、なんだか実感がある音で聞こえた。

 空にギャアギャアと耳をつんざく鳴き声が聞こえてきた。赤い空遠くから、人のような鴉の大群が見えてきた。

「行け」

 幸樹とそっくりの男が凛々子を急かす。やっと凛々子が頷いた。

「幸樹」

 まるで喪服のような格好をしている凛々子に抱きつかれた。

「ごめんね、幸樹。本当にごめんなさい」

 幸樹の肩先で、凛々子が泣いた。だが幸樹は彼女の涙よりも、彼女の向こうにいる男に釘付けだった。
 六体の地蔵がいるそこから動かない。だが明らかにあの男性は……。幸樹は手を伸ばし、彼に叫んだ。

「おじ……」
「駄目よ! 呼んだら駄目!!」

 凛々子の手が幸樹の口を塞いだ。

「私の目を見て」

 薔薇の家で見ている凛々子と少し違った。
 肌がもっとしっとりしていて、甘い匂いがむせかえるほどに幸樹の鼻をくすぐっていた。頬もほんのり染まり、唇はもっと紅く艶っぽかった。そして、とても女っぽい。どうして? これが凛々子の本当の姿?
 そんな彼女に見とれていると、凛々子も幸樹の目をじいっと見つめてくる。彼女の白い手がそっと幸樹の頬を包んだ。

「そう……私だけを見て。ほかをみちゃだめ……」

 なんだか誘われるような甘い声にも、幸樹はうっとりと瞼がとろけて眠ってしまいそうだった。

「そう、そうよ。私をみて」

 こんな綺麗な女だったんだ、『リリ』。
 それは幸樹がときめいていた、中身は大人の『リコ=緋美子さん』とはまったく異なる色香漂う美しい女。

 さわってもいいかな。
 口にはしないが、もうとろけてしまいそうな心地よさに囚われた幸樹の心がそう言っている。指先が、彼女の唇に無意識に向かっていく。

「気持ちいいの? 幸樹」
「ああ」
「いいわよ。好きなだけ……」

 指先が触れると、凛々子が同調するようにツンと唇を尖らせる。柔らかな弾力に、もう、そのまま吸い寄せられそうだった。

「私を触っていれば大丈夫。そのまま離れちゃだめよ」

 言われなくても。幸樹にぴったりと抱きついてくるその女の熱さとまどろみそうないい香り、柔らかい身体、そして綺麗な瞳と黒髪と紅い唇。言われなくても、こっちから抱きしめて離してなるものか。幸樹は吸い付くようにぴったりと抱きつく凛々子を思いっきり抱きしめていた。

 その途端だった。抱き合う凛々子と幸樹の周りに一陣の風――。
 赤黒い空が渦巻き、カアカアと聞こえていた鴉の鳴き声が遠くなる。そして凛々子の肩越しに見えていたあの人も遠くなる。赤と黒の渦の中、白装束の人々が幾人も幾人も通り過ぎていく。凛々子と幸樹は逆走しているのか、道行く人々の誰もがおかしな顔で振り返っていく。
 やがて、真っ白な気流の中にいた。その時、凛々子が……凛々子が裸になっている。いや、自分も、幸樹も裸体になって抱き合っていた。

 穏やかな暖かい陽射しに包まれているような浮遊感。そこで抱き合っていた凛々子がやっと幸樹の顔を覗いた。

「幸樹。ありがとう」

 そこにいる彼女は、本当に、どんなに恥ずかしい表現だと言われても、真っ白な薔薇のように眩く煌めいていた。
 裸の彼女はもっと綺麗だった。艶めく白肌に、煌めく真っ黒な長い髪。それが宙にキラキラと舞い、真っ黒な瞳は輝いていた。ふっくらとしている乳房は幸樹が触った時より豊満で、そして甘いピンク色の胸先が小さく尖り、それだけで男に吸わせたいと誘っているようだった。

「ごっこ、なんて。私が気楽になるように気遣ってくれて有り難う。でも、もういいわよ……もう、いい」

 幸樹のあごさきで凛々子が致し方ないふうに微笑んでいた。

 そんなことない。俺は『本気』だったんだから。
 それよりさっきのあれ、なんだよ。あれ、俺の伯父さんだったんじゃ……。

「私は大丈夫だから、幸樹は戻って」

 喋られない! 凛々子だけが声が出て、幸樹の声はまったく出なかった。

「勝手なお願いだけど。叔母さんをお願い。盛り塩、忘れないで。叔父さんと一緒に叔母さんを守って、お願い」

 幸樹の唇を彼女の指先が、愛しそうに優しく撫でてくれる。でも、その顔が哀しそうに歪んだ。
 それを見て、幸樹は慌てる。彼女が今からどうなるか解ってしまったから!

 いやだ。いくな。まだ、あともう少し!
 まだ地図も出来上がっていないし、書店に自主勉強をするためのドリルだって探しに行っていない。
 それにお前、まだ俺と……俺と……。

 いま、ここでお前を抱いたらだめなのかよ!
 今のお前、すっげーいい女。だめなのかよ。俺達まだ『本気』で愛し合っていない。
 言葉も、唇も、身体も……。こんなに凛々子と一緒になりたいっていま、こんなに俺の身体中から溢れているの解るだろう!?

 でも、身体も動かなければ声も出なかった。

「じゃあね、幸樹。楽しかったわよ」

 幸樹が出来ないことを彼女がしてくれた。
 その真っ赤で綺麗な唇が、そっと幸樹の唇に重なったのだ。柔らかに遠慮がちに……。いつもの慣れていないぎこちないキス。まだ覚えたての。
 優しいだけのキス。凛々子が泣いていた。彼女も悲しんでくれているのか。だったら……。何も出来ない幸樹は強く念じた。『だったら、俺を好きなだけ激しく愛してくれよ!』。

「許して、幸樹。今だけ……」

 そしてそれは、通じた。何も出来ない幸樹が何を考えて望んでいるかなんて判っていないはずの凛々子が、幸樹の唇に激しく吸い付いてきた。
 それは幸樹が毎朝強引に奪っていたようなキス。何も出来ない相手の唇をこじ開けて、そこに熱い想いを差し込んで、そして欲しい相手が隠し持っている甘美を、奥の奥まで侵略して絡め取ってしまおうと果敢に奪う激しい愛撫。
 あの綺麗な唇がしゃにむに幸樹の唇をどこまでもどこまでも愛してくれていた。
 それはもう……。ぎこちない少女のような口づけではなかった。妖艶に成熟した女の、情熱と渇望と愛欲で溢れていた。

 ああ、こんな。胸が焦がれる甘くて苦いキス、初めてだ。

 幸樹は目をつむった。そして……僅かな抵抗、そこで凛々子を抱き返す想像をした。それから、お返しに彼女の唇を奪う自分まで想像した。
 溌剌と眩いばかりの身体を抱き返し、今度は俺がお前を奪うよ。泣いて泣いて凛々子が困るぐらいに貫いて貫いて、お前と溶け合ってしまいたい。

 彼女の恍惚とした幸せそうな女の顔がそこにあった。まるで幸樹が想像したまま、愛し抜かれた後のように……。凛々子の肌が上気し、ほんのりと染まって見えた。
 これは夢、異世界、それとも何でもアリの、嘘、でも真実? うっとりとしたまま眠ってしまいそうなのは幸樹だけではなく、凛々子も。男に愛し抜かれたように切なげな声をそっと漏らし、身体を震わせながら幸樹に抱きつき一緒に漂っている。

 幸樹、好き。
 凛々子、どこにも行くな。

 想像だと判っているのに、凛々子に抱かれ唇を愛撫される幸樹の心がそう叫んでいた。

「私も好きよ。貴方のこと」

 いつ俺が。お前のこと好きと言った? 目を開けると、綺麗な彼女が馥郁とした艶やかな笑顔を見せ、その指先で幸樹の黒髪を撫でて……。

 

 雨音。

 

「っく、は……っ」

 目が覚めた? なにから覚めた? 目を開けたが身体に力が入らなかった。
 うっすらと見えるのは、良く知っている部屋。そして……幸樹は床にへたれたまま、上半身だけベッドの上に倒れていた。
 目の前には凛々子。眠っている凛々子。だが、彼女のあの艶やかな唇を確かめ、幸樹は息を止める。『真っ青』だった。

「凛々子、凛々子」

 不思議な浮遊をしていた時と同じだった。手を伸ばそうとしたが動かない。

「まだ、いく、な……」

 俺を置いていくなよ。愛し合っただろ。あれは……俺と凛々子の……。

 また気が遠くなっていく。
 ただ雨の音だけが、幸樹の耳の奥をくすぐり続けた。

 

「幸樹!」

 目が覚めると、長谷川の家の、自分の部屋、ベッドの上だった。
 そこで、幸樹を見下ろしている女は……『母』だった。

「どうしたっていうのよ。幸樹、三日も眠ったままだったのよ!!」

 母がすがって泣いた。

『早紀が泣く』

 正樹伯父さんが言ったとおりだと、幸樹は思った。

 

 

 

Update/2010.12.6
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