薔薇の庭で、薔薇の風の中、育ってきた情景の中で、黒髪の彼女とお茶。
彼女のことを意識しているのに、意識していないと思う程、幸樹も素直に笑って、彼女と毒舌で言い合って、最後にまた笑い合う。気負わない心地よい時間。
それは二人にとって、この家が、この庭が、幼少の時からずっと心と精神に刻まれているものだから? 簡単に共有できて、仲間のような気持ちで語り合えているのだろうか。
母の早紀が越してくる凛々子、いや親友の緋美子さんのために改装したキッチンで、幸樹はグラスを洗っていた。
「ごめんね。男の子に洗わせちゃって」
凛々子は既に夕食の準備に取りかかっている。ある程度の自炊はきちんと出来るとのことだった。
「いいよ、これぐらい。うちの母親は男でも自分が使ったものはきちんとするって厳しいから。家でもやっているんだ」
「早紀おば様らしいね。良いお母さん」
ボウルに量った米を彼女が準備する。今夜、拓真は消防署で夜勤。明日にならないと帰ってこない。一人分の夕食のはずなのに、かなりの米を量ったので驚いた。
「今夜、一人なんだろ。そんなに食うのかよ」
「まさか。明日の朝、帰ってきた叔父さんが大量に食べるの。すごいんだから。大きな身体ってわけでもないのに、すっごい食べるんだよねー」
「そっか。拓真さん、帰ってきてくれるんだ」
今となっては、彼女を一人にするより叔父の拓真が側にいてくれる方が安心に思える幸樹。
「またミコ叔母ちゃんと入れ替わったら官舎に帰るって」
「ふん……そうなんだ」
さも当たり前に言われたが、幸樹としては穏やかではない心境。またあの緋美子さんが凛々子の身体で拓真に情熱的な体当たりをして、その気になってしまったオジサンが押し切られ『元サヤ』になったりしないか。それに、その時はこの彼女とは会えなくなることも意味しているから。
「なあ、いつ。またどうなったら入れ替わってしまう可能性が?」
グラスを洗い終わった幸樹の手元を確認し、今度は凛々子がシンクにボウルを置いて米を研ぎ始める。慣れた手つきだった。
「さあ、わかんない」
冷めた横顔で言われた。明るく笑って、素直にあっけらかんと強気になんでも話すリリらしくない横顔。何か隠しているようにも見える。
「どうやって入れ替わるか、自分で判っているんだろ」
「思うままには入れ替われない。いろいろなキッカケがあってだから、その時次第」
「今回の心停止入れ替わりのキッカケは?」
「わからない」
またはぐらかされる。まだ何か秘密があるように見えた。
「俺がこれだけ凛々子の不思議な体質を信じているのに、今更なんだよ。隠すことあるのかよ」
こうなったら男友達感覚でなんだって話して欲しい。今の幸樹はそう思っているのに。
水を止め、米を研ぐ手も止めた凛々子がハンドタオルで手を拭きながら、静かに幸樹を見た。
あの魅惑の黒い瞳が真剣に幸樹を見ている。これまでの気軽なおふざけトークはなし、今から真剣なことを言うわよ――とでも言いたそうな、そんな瞳に囚われる。
「いつか全部話したい。でも、もう少し待って。考えさせて。叔父さんが言っていた『大人だからきちんと考えなさい』と言っていたあの言葉。いま、私はそれなの」
『ごめんね』。ふっくらとした小さな紅い唇が静かに詫びを呟いた。
「私だって本当は言いたいよ。聞いて欲しいよ。幸樹さんなら、いい相談相手になってくれる。私、ここのところ貴方と話してほんとにそう思っている。だからこそ……もう少し時間をくれる?」
幸樹が望む、そして、納得できる完璧な返答だった。
それでも、もどかしい。そうして一人で抱え込んでいる彼女が痛々しい。
「待っている。そして出来ることは力になるよ。リリ、今まで本当の自分でいられるのは拓真さんの前だけだったんだろ。……窮屈だったんだろ」
「別に……。生きにくい運命、一度死んだも同然。頑張ってもどうにもならないって諦めている」
彼女は笑ったが、その頬は不本意そうにひきつっている。当たり前だ。諦めねばと思っても、希望も持てそうなこんな宙ぶらりんの今。望むほどガッカリするなら、少しも望まない。そういうことなのだろう。
また幸樹の胸に込み上げてくるものが――。彼女は強がっているが、大人の叔父にはしっかり見抜かれているほどに、その想いで溢れている。それだけ望んでいる。この幸樹にもそう見える。
「それでいいのかよ。じゃあさ。仮に凛々子が『成仏』出来るほど、満足できる人生ってどんな人生だよ」
聞いても、幸樹にはわかっていた。
それは自分がつい最近まで『なにもかも上手く行きすぎて退屈だ』と思っていた人生。それを手に入れたくても入れられない彼女がそこにいる。そして彼女もそれが言いたいけど、望んではいけないことだからと黙って堪えている。よく見ると、その黒目が濡れていた。
そんな彼女を、ついに幸樹は抱いていた。自分の両手いっぱいに。
「リリ、今だけでも、今だけでも……自分のしたいことしたらいいじゃないか」
俺の友達にも紹介するよ。美紅と海に行こう。勉強したいなら俺が教える。バイトしたいならどうしたら出来るか考えてみよう。この街のヤバイ場所、俺と調べて地図にしよう。
ありったけのこと、幸樹は並べ立てた。流石に凛々子も堪えきれなくなったのか、幸樹の胸元に顔を埋めて泣き始めてしまった。
「今だけでもいいから抱きしめて。ここにいるって安心させて」
その通りに幸樹は凛々子を抱きしめた。黒髪の頭をきつく抱き寄せ、身体に寄せた。
凛々子の頬は熱い。涙も。息も。彼女は存在しているし、生きている。そして、幸樹も――熱い。
彼女の強がりは、独りぼっちに耐えるための強がり。それを今、幸樹は抱きしめて。
・・・◇・◇・◇・・・
「一人で大丈夫なのかよ」
日暮れと同時に、凛々子のささやかな夕食が出来上がる。
そんな時間になれば、幸樹も母が待つ長谷川家にとにかく帰らねばならない。
でも、凛々子はもう清々しい微笑みをみせてくれていた。
「大丈夫。さっきは有り難う。頼もしかった」
そんな照れること、さらっと言うなよと思いながらも、幸樹もついつい笑みが浮かぶ。
「なんかあったら直ぐに俺のケータイに連絡しろよ」
傍にいる。一緒に少しだけでも頑張ってみよう。そんな話をした後、彼女に携帯電話の番号を知らせた。
「また明日、盛り塩にくるからな」
「うん、またね」
やっぱり、ちょっとばかり寂しそうな顔。だけれど、それは凛々子自身がよく解っているのか、気にする幸樹が直ぐに背を向けて家路につくよう、彼女から背を向けて家の奥に消えてしまった。
庭を出て垣根から薔薇の庭を覗くと、遠く見えるダイニングのテーブルでひっそりと食事をしている凛々子の姿が見えた。やはりそれは寂しそうだとしか言いようがなかった。
『夏休みになったら、真面目に夏期講習に通いなさいよ』。
夕食後、いつもの如く『母から本日のお達し』を耳にし、それなりの返答をして幸樹は席を立つ。
「待ちなさい」
自室がある二階へと階段を上がるところを、ダイニングから出てきた母親に呼び止められた。
「なんだよ」
「凛々子さんは身体が弱いんだから、あんまり訪ねて気を遣わせては駄目だからね」
以前ならここで不満に思っていただろう。あの薔薇の家に行くことが、彼女が越す前から幸樹の楽しみで憩いで癒しだったから、それを差し止めようとすることにはそっぽを向いた。
だがもう違う。拓真の話では『早紀さんと緋美子は深い縁がある仲で、緋美子も自分の死後、早紀さんのことをとても気にしていたので打ち明けた。英治さんとも家族ぐるみの付き合いだったので、信じてもらえるもらえないはともかく、凛々子の中に緋美子が蘇ったことは告げた。二人は緋美子の不思議な能力を良く知って理解してくれていたから、蘇りも信じてくれた――だが、』――拓真と凛々子と話し合った結果、『自分達以外にはまだ凛々子が戻ってきたことを知らせるのはやめよう』ということに落ち着いたのだとか。やはり混乱をこれ以上招くのを怖れているようだった。それなら、この九年。奇妙な現象でも蘇った緋美子の方を『真実』としようとしたのだと。
だから、母は知らないで言っているのだ。彼女の身体が弱いだなんて口実。実際は『幸樹、身体は若くても、中の魂は私の親友なんだから。手を出さないで』と遠回しに言っているのだってよく解る。
しかし幸樹ももうそんなこと、重々知り尽くしている。母と持っている秘密が違うだけ。
「わかっている。でも母さん。あんな若い彼女一人を、あれだけ古い家に一人きりは、今の時勢では危ないと思うけどな」
常に落ち着いている息子に言われ、母がハッとした顔になる。
「それもそうね。拓真さんが気にしてくれているようだからここのところ安心していたんだけど」
「ある程度のセキュリティはした方がいいと思うんだよな。そこんとこ、今度、拓真さんと話してみてくれないかな」
「ちょっと幸樹、貴方、時々すっごくいい提案をしてくれるわね!」
「っていうか。凛々子さんの保護者面すんなら、越してきた時にそれぐらい思いつけよ」
『ほんとね、ほんとね』と母は感心しきり。『ねえ、パパ〜。聞いてー』と、すっかり違うことで頭がいっぱいになった様子で、口うるさい母の撃退に成功。幸樹もニンマリ。
「まあ、俺も本当にそう考えていたんだけどな」
まだ未成年故、こういう仕事を遂行させるなら、上手に大人を使うしかない。こんなところがもどかしい。やはり早く大人になって、自分で思ったことは自分で実行できるようになりたかった。大学生になればあるいは……。それももうすぐだ。
部屋に戻り、いつも通りに机に座り参考書をめくった。いつもなんとなく眺めるのは習慣だった。
「夏期講習か。ちゃんと通わないとまた『薔薇の家に行くな』と言われそうだな。やっておくか」
そこもそつなくこなすことが、自分がやりたいことを上手く叶える近道。女に夢中になって成績が下がるとか、そんな格好悪いことは絶対にしたくなかった。今までもそうしてきた。
『薔薇の家に行きたい』。それだけ。たとえ、彼女がいてもいなくても……。
いつもの習慣を終えた幸樹は暫くの間、机の上にある時計を眺める。
もう夏。薔薇の季節。空かしている窓から入ってくる夜風に微かな薔薇の匂い。いや、するはずなんてない。いくら近所でも。だけれど幸樹にはそう感じてしまう、五感が勝手にあの家を探している。
立ち上がり、幸樹は部屋を出た。そして自宅からも。
・・・◇・◇・◇・・・
薔薇の家に来てしまった。
夜空の下の薔薇は闇に溶けて紫色に変貌し、どこか妖艶な夜の女のよう。ところどころ、薔薇の家から漏れてくる灯りにあたってぼんやりと浮かんでいる薔薇もいる。
拓真は交代制で夜勤中。凛々子が頼れる親戚が不在の留守番。大丈夫だろうか。
なぜこんなに不安になるのか。幸樹はわかっていた。
またあの男に襲われたように乱れて気を失い、若い彼女から大人のあの人に入れ替わってしまうこと。
玄関前に立ったが、幸樹ははたと我に返る。――『いいか、凛々子。チャイムが鳴っても絶対に出るな。わかったな』。叔父の拓真が幸樹の目の前で、姪の凛々子に言い聞かせていた言葉を思い出したのだ。その時幸樹も『そうだ。絶対に開けるな』と念を押した。
デニムパンツのポケットから、幸樹は鍵を取り出す。じゃあ、勝手口の……。まだ鍵を交換したとは聞かされていない。いや、やはりダメだ。いくら顔見知りの男でも、勝手口が急に開いたら凛々子が怯えるだろう。
やっと閃いて、幸樹は携帯電話を取り出す。そこから薔薇の家の番号を押した。
「電話ぐらい、出ろよ」
俺の時だけな。他の電話は出るな――なんて、勝手なことを頭に浮かべていた。
やはり、出ない。あれだけ男二人で釘を刺したから、流石に凛々子も用心深くしてるのだろう。
しかたない。今夜はよそう。きっと……大丈夫だ。そう諦めようとした時。幸樹が立っている玄関ドアの鍵が『かちゃり』と開いた音。どうして……と驚いていると、ドアがゆっくりと開き、そこから恐る恐る覗き込む凛々子がそこにいた。
「なにしてるの。私がどれだけ用心深いかテストしに来たの」
なんて……また口悪いうえに、目つきまですごく悪い彼女を見て、幸樹は笑ってしまった。
「なんで笑うのよ」
「いや、悪い、悪い。驚かせちゃって」
口は気強くしているが、本当は心細くしている女の子。やはり強気の鎧で留守番をしていたのだって……。
「電話、出なかったな。それだけ用心深いのはいいことだ」
「電話なんかかけてくれなくても、玄関に誰か来たことはちゃんと解ったもの」
そんなことを聞いて、幸樹はふとデジャブに陥った。
「あ、叔母さんの方も気配取りすごかった」
「人間か霊かわかるまでドキドキするんだからね」
「えー、そうなんだ。大変だな。っていうか霊がチャイム押したり電話かけたりするわけないだろっ」
他人事のように淡泊に呟きつつも、幸樹は玄関ドアを開けするっと家の中に入ってしまう。その素早さに凛々子は驚いた顔をしたが、靴を脱ぐ幸樹を見て少し安心した顔。
「早紀おば様に怒られないの」
「心配したらケータイに連絡してきて怒鳴るって」
「うちにばかり来ていたら心配するって。一応、年頃同士。私はとりあえず成人しているけど、幸樹さんはまだ高校生でお母様も大事にしているでしょう」
だが幸樹はそこでも笑った。
「うちの母ちゃんの心配ってさあ。自分の親友の魂が宿っている若い女に、息子が恋に墜ちてしまうことかよ。同い年の親友が息子とどうにかなるだなんて、現実にあったら流石にあののんびり母ちゃんも堪らないだろうな。まあ確かに、ちょっと危なかったけどなあ」
靴を揃え、良く知っている廊下を歩き出すと凛々子もついてくる。「もう、その心配もなくなっただろ」
「でも、早紀おば様はまだ私のことを親友の緋美子だと思って物事を考えているんだから」
もっともなのだが。
「知るか。ぜんぶ大人の都合ばかりじゃないか。大人だけで秘密を持って支え合ってきたつもりかもしれないけど。なんで凛々子が犠牲になるんだよ」
緋美子という彼女の叔母がその身体に住み着いているから、大人が勝手に幸樹と凛々子に様々な規制をする。凛々子は自分が現世に戻ってきていることを隠すために美紅の前では寝込んだ振りをし、そして幸樹は凛々子に、いや【緋美子さん】に気のない振りをして過ごして行かねば母が警戒するだろう。
それを考えただけでややこしい。救いは拓真と話が通じるようになったことだ。
「元々、私もこっちには長くはいられなかったと思うの」
「だからって。凛々子の身体を借りて夫妻になるってなんなんだよ! 凛々子の身体で……身体を……」
急に湧き上がった感情を吐き出している自分に幸樹は驚く。……こんな声を荒げ、把握していなかった気持ちを口にして取り乱している自分。
しかもその怒りは、凛々子『リリ』の身体が様々な思惑の中で犠牲になったこと。
だからってどうすれば良かっただなんて――。胸の息すらも荒げている幸樹は、そこで額を抱え俯いた。
なにもできなかったのだろう。凛々子自身も。そして思いがけず生き返ってしまった緋美子叔母。そして突然、愛する妻を死という形で引き裂かれたが故に、そのぶつけ場のない愛と情熱を姪の身体にぶつけることでしか妻を愛せなくなった拓真も――。誰もどうにも出来なっかったのだろう。
「やめて、幸樹さん。なんで、そんなに……貴方が苦しそうにならなくちゃいけないの」
階段の手前で立ち止まっている幸樹の背に、そっと彼女の指先が触れた。彼女の息も哀しそうに震えている。どうしようもないこと。きっと凛々子は、いま幸樹が感じている『理不尽な運命』と向き合って、こうして何度も苛立ち憤りそして泣いてきたのだろう。それを繰り返して、繰り返して。もう抵抗することもやめてしまったのだろう。
「二階、上がってもいいだろ。俺の好きな窓から外を眺めたいんだ」
「いいわよ」
そよ風がすうっと足下を撫でていく階段を凛々子と上がる。
二階の彼女の寝室に入ると、凛々子が出窓のガラス戸を開けてくれる。
「灯りはつけなくていい」
「わかった」
暗い部屋、そこの出窓に幸樹は腰をかけ、遠く見える海をみつめた。
少し下に、いつもの赤い蔓薔薇が揺れていた。
「気持ちいい風ね」
「そうだな」
凛々子も。ずっと遠い海をみつめている。そして彼女も赤い薔薇を見下ろした。
「この家の空気はとても綺麗なの。だから、私はこの家にいるととても力が湧く」
「俺も落ち着く。リセット出来るんだ。ここで、なんでも」
きっとこの家の薔薇が、ずっとここで咲いてきた薔薇がこの家の空気を浄化している。
二人は一緒にそう思っている。少なくとも幸樹はそう信じている。同じものを感じることが出来る彼女なら……。
座っている幸樹の足の直ぐ側に、凛々子の手があった。青白く浮かんで見える凛々子の手の上に、幸樹はそっと自分の手を重ねた。
冷たい手だった。まるで……。だけれど、そっとこちらを向いた彼女の黒い目が幸樹を見つめている。その目が夜明かりにひときわ黒々と煌めく。
「せめて意識があるうちに、好きなことをするんだ。凛々子」
「うん、そうする」
笑った彼女を見て、幸樹は彼女の手を強く握った。
「俺と。ひと夏でもいい。恋人ごっこしないか」
『ごっこ』。なぜ『真似事』なのか。そう考えた訳がある。
Update/2010.11.12