-- 緋花の家 -- 
 
* ミツバチは花が好き *

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5-7 異世界の彼女

 

 うずくまっている凛々子を腕の中でそっと抱き起こすと、なよなよとしてまったく力が入っていない状態。顔色も悪く、唇が真っ青になっていた。
 ついさっきまで、小憎たらしいことを言って、でも溌剌としたキラリとした笑顔を見せてくれいていたのに。

「リリ、どうした!」

 頬を叩いても反応がない。
 やがて道行く人々が『どうかしたの』、『大丈夫か』と心配そうに若い二人を取り囲み始める。
 周りを覆う大人達を見て焦り始めた幸樹は、その人混みをひと眺めした時、直ぐ傍の店先を見てぞくっと背筋を凍らせた。

「見ちゃ、だめ。目を合わせないで……」

 やっと聞こえてきた凛々子の力無い呟き。目を合わせるな――より、彼女の意識があると知った幸樹はもう凛々子の顔しか見えなかった。

「ごめん……。私、この街の『やばい場所』まだ知らないから……」

 やばい? 何が、と問い質そうとした途端、また幸樹の背に悪寒が走った。
 店先のぼうっとしている影が憎々しげにこちらを見ている。それだけじゃない。集まってくる人混みの中にも、奇妙な顔立ちの何かがニタニタとこちらを見ている。鼻息荒い女の顔も見えた。今にもこちらに襲いかかってきそうだった。

「幸樹さんがいるから、近寄れないのよ。助かった……。早く、ここから私を連れ出して。ここ……私があっちに帰っちゃう場所……」
「わかった」

 また不思議なことを言っているが、もうなんだっていい! 
 幸樹はすぐさま凛々子を抱き上げ、周りにいる人に『貧血です』と礼をして立ち去った。
 すぐさまタクシーを拾ってそれに乗り込んだ。

「丘の住宅まで」

 後部座席になんとか座らせた凛々子は、まだぐったりしていて幸樹の肩にもたれかかったまま。でも、顔色が戻ってきていた。

「びっくりさせるなよ」
「……油断しちゃった」

 額には冷や汗。それでも凛々子は幸樹の肩先でふっと微笑んでくれた。

「楽しすぎて、はしゃぎすぎちゃったかな。私。でも……嬉しかった」

 微笑んでいるのに。彼女の目尻には涙が光っていた。幸樹の胸に何かが込み上げてくる。
 本当に、自分のように『退屈になる程、上手く行きすぎる日』を送ってきたわけではないようだった。身体が言うことを聞かなくて、学校にも行っていなかった。友達もいない。年相応に遊んだことがない。だから、『嬉しかった』。

「夏休みになったら、俺の友達と美紅と一緒に、海に行こう」

 さっき言えなかったことを伝え、幸樹は気持ちのまま、凛々子の肩を抱いて引き寄せていた。
 彼女のすすり泣く声。頷くだけで、言葉にはならなかったようだった。あんなに小憎たらしい程に口が達者なのに。

 

 しかし幸樹も汗を滲ませていた。
 もしかして、あれが『霊』?
 急に見えた異形の人々。人混みに紛れ、凛々子を見て何かを求めているように見えた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 薔薇の家に着くと、凛々子も自分の力で立てるようになっていた。
 タクシーを降りて、直ぐに庭からリビングへと彼女を支え連れて行く。

「拓真さん!」

 訪ねれば、いつもリビングのソファーでくつろいでいる彼の姿がなかった。

「……別に、叔父さん。ここに住んでいるわけじゃないから。官舎に帰ったのかも」

 凛々子が力無く、そして寂しそうに呟いた。
 そんな。こんなひ弱な体質の姪っ子、いや妻か、そんな女を一人残して、さっさと帰ってしまうだなんて。そう思ったが、それはそれで今までとは違う気持ちを抱いている自分に幸樹は驚く。今までは、自分の手には届かない愛を彼女と分かち合っている、若い女を平然と妻にした変な男と思っていたのに。

「あー、帰ってきたのか。もっと遅いかと思って、奥で昼寝してたー」

 ふあっと欠伸をかき、間伸びた声の彼が、これまたランニングシャツとジャージというだらけた格好で出てきた。それでも幸樹はほっとする。

「拓真さん。凛々子が貧血みたいに力が抜けて倒れたんだ。駅前の通りのすぐの商店街、えっと……書店の、もう少し先の、とにかくそこが『駄目なところ』とか言って」

 そのまま告げると、彼が急に青ざめた。そしてあんなにだらけていたのに、しゃんと背筋を伸ばし、あのレスキュー隊のオレンジの服を着ている時と同じ顔で駆けよってきた。

「本当か。凛々子、大丈夫だったのか!」

 力無く縁側にへたれた凛々子を見て、叔父の彼が覗き込む。腕をひっつかんで、それはそれは心配そうな顔。やっぱり夫なのかな。幸樹の胸が一瞬痛んだが。

「叔父さんが悪かった。お前が幸樹さんがいれば大丈夫って言っていたから。やっぱりまだ、この街は無理だったんだな。叔父さんと一緒に前もって危ないスポットを調べておくべきだった」
「違うの、叔父さん。幸樹さんといる時は、なんにも近寄ってこなかったの。この街に帰ってきたのが嬉しくて、懐かしくて、ちょっと幸樹さんと離れちゃって。知らないうちに危ないところ歩いていたの」

 ……あれ。やっぱり『リリと叔父さん』の間柄にしか見えなかった。

「とにかく、家に入ろう。ここなら大丈夫なんだろう。二階で横になって、気を整えた方がいい」

 叔父の拓真が、そんな凛々子を迷わず抱き上げた。逞しい消防官の大人の男に、すっと軽々とお姫様抱っこで抱き上げられた凛々子。叔父と姪でも、そこは妙に男と女に見えたから、また幸樹の胸がぎゅっと苦しくなった。
 逞しい背と腕に、長い黒髪がそよいで去っていくのを幸樹は見ていることしか出来なかった。

「待って、叔父さん」

 凛々子の声に、拓真が立ち止まる。そして彼の腕の影から凛々子が庭に立ち尽くしたままの幸樹を見た。

「一緒に来てくれる?」

 『リリの目』だった。それだけ分かれば、もう幸樹は何も考えなくても良いように思え、すぐさま靴を脱いで彼女の傍へと向かう。

「リリ」

 そこに彼女の夫がいるって、分かっている。でも幸樹は凛々子の黒髪を思わず撫でていた。
 このまま帰るだなんて、できない。傍にいたい。そう思ったから。それを彼女も求めてくれた。それが通じたこの気持ちが、彼女の黒髪を撫でている。
 夫の腕からしなやかに流れる黒髪の毛先だけが、くるんとクセで丸まっている。それがそっと庭の風で揺れているのを、拓真がじっと眺めていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 二階の寝室。幸樹が気に入っている出窓がある元両親の寝室。そこのベッドへと拓真が凛々子を寝かせる。

「叔父さんは下にいる。今日はここに泊まっていくから安心しな。じゃあ幸樹さん、凛々子になにかあったらよろしく」

 それだけ言うと、拓真は妻と若い青年を二人きりにして、あっさりと出て行こうとしていた。
 本当にいいのだろうか。彼は妻と本当に別れる気なのだろうか。勿論、そのつもりで東京から生まれ故郷に帰ってきたことも知っているつもりなのだが。
 幸樹が躊躇っていると、それを察したのか凛々子が拓真に話しかけた。

「叔父さん。幸樹さんに話してもいい?」

 姪が叔父にかける愛らしい声。妻が夫にという雰囲気ではない。それに、話してもいいとはなんだろうか。妙な胸騒ぎがする。そして拓真も戸惑う顔で振り向いた。

「凛々子がそれでいいなら、叔父さんは構わない。凛々子の身体は凛々子のものだ。凛々子の人生も凛々子のものだ。叔父さんは叔父さんとして見守っている。困ったことがあればなんだって助けてやる。お前は俺の姪っ子だ。なにも遠慮することはない。だけれど、よく考えて話すんだ。それぐらいいい歳をした大人になっているんだから分かるだろう。いいな」

 それだけ強く言い切ると、なにかを振り払うように拓真はさっと出て行ってしまった。彼の豪快な階段を下りる足音も、今日は早く聞こえる。
 そして、ベッドに横たわっている凛々子が泣いていた。

「叔父さん、ごめんね」

 彼を思って泣いている。その気持ちが今の幸樹には見えなかった。

 それから凛々子は黙って出窓に揺れる赤い小さな薔薇を、暫く眺めている。何を話して良いか分からない幸樹も、そのまま彼女と一緒にその薔薇を眺めた。

「小さい時、この家によく遊びに来た。良く覚えている。叔母さんと叔父さんのこの部屋に入ると、窓にはその赤い蔓薔薇。いつもその赤い薔薇だけがこの窓まで伸びてくる」
「一緒だ。俺も、親父と母さんのこの部屋の窓辺に見えるこの赤い薔薇がこの家のシンボルみたいに思っていた」

 同じ場所で同じ想いを抱く者同士。確かに、この家を通じて二人は縁があったのだと幸樹はしみじみとした。
 だが、凛々子はそんな感慨深さを感じてはいないようで、どこか険しい目でその薔薇から目を離さない。やがて凛々子が起きあがり、幸樹が腰をかけていた隣りに。よそよそしい隙間を空け、それでも傍に腰をかけた。そのまま幸樹を見ず、やはり出窓の蔓薔薇を見つめている。睫毛だけが見える横顔。この部屋で、初めて彼女を見かけた時と同じ瞳が見えそうで見えない横顔。幸樹はそれを思い出していた。でも……もう、あの時の彼女とは別人に見える。

「見えたんでしょ。いろいろなのが」

 それが『霊』のことを言っていると、直ぐに解った。

「見えた。初めて見た」
「常に見えている訳じゃないけど。私の場合、ああいうのよく見えてしまうんだよね」
「拓真さんから聞いた。この薔薇の家の女の家系みたいなもんだって。叔母さんも見えたらしいな。拓真さんは当たり前のように信じていたみたいだけど」

 今なら、凛々子が『霊がいる、見える』と言っても、そして拓真の『正岡家の女の体質』と言った言葉も信じられた。
 そこでやっと、出窓を見ていた凛々子が幸樹へと振り返る。顔色が戻り、いつもの凛々子だった。

「信じてくれるの」
「見えちゃったもんな。正直、スゲー怖かった。でも、近寄れなかったみたいだな。凛々子になにか求めているみたいだったけれど」

 すると、凛々子がなんだか疲れたように微笑んだ。

「私が引き寄せて、でも、幸樹さんの白い光が神々しくて近寄れなかったのよ。幸樹さんはそういう徳を持っているからね。きっと長谷川のおじ様も早紀おば様も、自分達の分相応をしっかり見極めて生きているからそれだけ上手く徳を積んでこられたの。きっとご夫妻は結婚された時から円満で今も。そして生まれた貴方はもっと平穏無事に暮らしている。どころか、何でも上手く行く。だから貴方に盛り塩を頼んだの。そして、お出かけも。貴方のような徳を持っている人と一緒なら平気と、拓真叔父さんに言っておいたから。だから叔父さんも貴方と二人で出かけてこいって言ってくれたの」

 徳とか。自分ではまったく分からない。だけれど両親も平穏無事に上手くあの長谷川の家で暮らしてきたのは凛々子の言葉通り、そして自分も。

「俺って。そんなにガード力があるわけ」
「とってもね。逆に私は、霊を引き寄せやすい。身体が弱かったのは母譲りであったのも本当なんだけれど、それに上乗せで、だいぶ強い感を備えてしまっていたみたいで、こっちの世界では生きにくかったみたい」

 生きにくい? まるで死んでいるみたいに聞こえたので、幸樹は強ばった。

「生きにくいって……?」
「私が生まれた時にはもう、お祖母ちゃんは死んでいなかったんだけれど。どうも嫁いできたお祖母ちゃんの家系からそうだったみたい。だからお祖母ちゃんも緋美子叔母ちゃんのことも併せて、霊感を備えた分『早死しやすい』みたいなんだよね。私は特に強く備えてしまって。だから成長すればする程に、こっちの世界では生きにくくなってどんどんあっちに吸い取られていくっていうか」

 午後の陽射しに映る凛々子の横顔が、急に能面みたいに固まり青白く見えたので幸樹はゾッとする。

「それって。こっちの俺達が生きている人間の世界では生命力が保てなくて、その代わり、霊界みたいなところでは生きやすいって言っているのか?」
「うん。霊界みたいなところでは、私の力はすごく強いみたい。だからああやって霊が寄ってきて、私に何か言いたいことを言おうとしたり、襲って食べてしまおうとしたり」
「食べる!?」
「そんな時は、こっちで人間みたいなことをしていたら駄目なの。あっちに行って連れて行ったり追い返したり。そういうことをしている時、私はこっちの世界では昏睡状態で眠っていることが多いみたい」
「それが、まさか、あの心肺停止!?」

 『たぶん』。凛々子が小さく呟いた言葉に、幸樹は驚きを隠せなかった。今までの不可思議なこと全てが繋がって『それならば、今までのなにもかもが理解できる』ことばかりだったから。

「私は夢を見ていると思っていた。奇妙な夢。道にお地蔵さん。白装束の旅人。彼岸花の岸辺。大きな河。時には綺麗な花畑。こっちでは意地悪だった小さな動物が、あっちでは優しい遊び相手になってくれたり。全部、夢だと思っていた。だから眠ったまま死んでいくんだって。学校に通えなくなった頃からそう思っていた」

 そして凛々子は、美紅が残していったワンピースに包まれた身体を見下ろした。特に、彼女はふっくらとしている乳房を見下ろし、それを幸樹の目の前だろうと大事そうに両手で包んで軽く持ち上げた。

「こんなふっくらした身体じゃなかった。皮と骨ばかりのがりがりの貧相な身体で、顔も……とてもじゃないけど、あの頃の写真なんて誰にも見せたくないし自分でも見たくない。それが……ある時からこんなに健康的な身体になって。初めて『これが本当の自分なんだ』と知った時の嬉しさはもう……」

 それを今でも鮮烈に思い出すようで、凛々子の目尻にはまた涙が光っていた。

「その健康的な身体になった『ある時』て、いつなんだよ」

 少し離れて並んでいるが、それでも隣で座っている凛々子が少し身体を強ばらせたのがわかった。躊躇いをその唇に見せている。そして、やっと凛々子が呟く。

「緋美子叔母ちゃんが死んでから」

 『そうなんだ』。ただ、親しかった叔母さんが亡くなって、その後。時期的なものの目安としか幸樹には聞こえなかった。だが『叔母さんが死んでから、急に健康的になった』と繋げた瞬間、幸樹の中でチカッと何かが光るような閃きみたいなものが生じた。

 霊感ある叔母と姪。そして起きあがることも出来なかった凛々子。それが叔母が死んでから急に健康的になった。霊界のような異世界と人間界を行き来していた凛々子と、霊に近い叔母さん。
 死んだ、死ぬんだと思った。霊を見る。向こうだと強い。もしこれらが、本当にあることだったら?

 何故、凛々子は二人の女性に変貌するのか?

「私、叔母さんに向こうに行って欲しくなかった。それ以上に、あの男と縁を切って欲しかったから」

 まさか。リリ……お前。

 幸樹は愕然とする。異なる世界を信じるならば、全てが繋がってしまうから。

 

 

 

Update/2010.10.18
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