『彼女は多重人格みたい』、『霊が見える』、『昔は貧弱な身体で起きあがるのもやっとで、学校にも通えなかった』、『でも。叔母さんが亡くなった頃から、急に元気になり健康的な身体に』。
叔母さんも霊感があった。姪の凛々子にはもっと強い感がある。繋がったのは『叔母さんが死んでから』。
幸樹の中でひとつのことが、はっきりと浮かんだ。
「もしかして、『リコ』って……」
舞妓さんのようなしっとりとした日本美人。真っ黒い髪にキリッとした黒い眉。そして色白の肌に、小さな紅い唇。くりっとした丸い黒い瞳に、ピンと長い睫毛。まるで日本人形。そんな凛々子を一目見て、囚われてしまったあの日。でも、喋るとおしとやかな口調の凛々子は物腰も柔らかで、そして落ち着きがあり大人だった。そんな彼女が『二十三歳にしては、なんだか大人すぎる。落ち着きすぎる』と違和感を抱いてばかりいた幸樹。あの頃を思い返していた。そうすると、やはり釈然としなかったものが、しっくりきてしまうのだ!
「だから、あの人は。あんなに落ち着いていたのか」
血の気が引いた。その『リコ』というおしとやかな女性に焦がれていたことがあったから。姿は二十三歳の凛々子でも、中身は……。
「母さんと、同い年の女性だったてことなのか?」
あのギャップは、自分の母親ぐらいの年齢の女性が年若い姿でいたから?
母の友人をみて、俺は恋心を揺らしていた?
ショックだった。でも、こなれた女性が年若いとあんなふうに見えるのかとも思えるし、やはり『母の友人をみて揺れていた』ことが本当なら、それはそれでやはり血の気が引く思い。
そんな幸樹を凛々子はちょっと申し訳なさそうにみている。
「しようがないじゃん。私の姿で中身は大人の女性だったんだもの。幸樹さんみたいに同世代の女子に散々慣れちゃっている男子には新鮮に見えたと思うわよ」
「そーいう問題かよ」
とは言ったものの。大人の精神で身体が若ければ『もしかするとそれは非常に魅力的なのかもしれないな』と思う程、幸樹も否定できないものを実感していた。
「やっぱり。叔母ちゃんの凛々子の方が……魅力的だったんだね」
確かに。いま目の前にいる年相応の凛々子は、気安さはあるが、あの近寄りがたい大人の魅力は皆無だった。だが、幸樹はこうなって思う。
「いや、カラクリが分かったら冷めた。あの人が『凛々子そのもの』でなければ、惚れた意味はまったくない。別人だったてことだろ」
割り切りの速さに、凛々子が戸惑っているが判る。
「だって。すごく惹かれたんじゃないの? 一緒に住もうと言っていた時、中にいた私にも通じてきたわよ、幸樹さんの本気」
うわ……あの時の俺を、お前こっそり中で見ていたのかよ――と、幸樹は何処かに逃げたくなったのだが。
「本当にあの人が、凛々子の姿そのもので本物なら、今でもあの気持ちが続いていたと思う。でも実際は二重人格でもなんでもなく、片方は元々別人だったと判ったら、もうそれは自然じゃないし、既に俺の中では不自然になってしまった。だってそうだろ、『リリ』、お前が本物なんだろ。もう二人の凛々子を知っている俺には、凛々子は『リリ』にしか見えない」
「ほ、本当に? 本当にそう思ってくれるの?」
「リリの話が本当なら、全てが上手い具合に繋がる。それが本当なら、マジで『リコさん』が美紅の死んだ母親とかいう『緋美子さん』なら、もう母の友人にしか見えなくなると思う」
「叔母さんじゃない凛々子なら、もうどうでもいいんだ」
「わからない。どんな女かまだ判らないのに、一目見ただけでビリって来た。凛々子の黒い髪とか黒い目とか、全部が強烈に映った。それだけじゃ理由にならないのか」
本心だった。だから、凛々子が意外そうな顔で幸樹をみると、照れたようにさっと顔を逸らしてしまう。
「……よく、わかんない。私」
年上なんだけれど、こっちの『リリ』は自分でも言っていたように、どこか幼く見えてしまう。でも、そこを素直に口にしているのは可愛げはあるなあと幸樹の心は緩まってくる。
「そんなの、俺だってそうだもんな。いままで頭で整理して計算してから飛び込んできたところ、それが通用しない感触に振り回されているってかんじ」
「そうなの?」
「そうだよ。凛々子が来てから、俺は退屈じゃない」
真顔で彼女をみて言ったせいか、あの凛々子が初めて真っ赤になったので、こっちがびっくりしてしまった。
「あの、今更なんだけれど。私の中に叔母さんがいるってことも、信じてくれたの」
「信じざる得ないことがいっぱい目の前で起きていて、全てが納得できる程繋がってしまったから否定しない。けど、今後も静観していく」
彼女がほっとした顔をみせ、そして次には嬉しそうに微笑んでいる顔があった。
その顔は初めて見る表情だった。いまの『リリ』の雰囲気で、本当の凛々子が心から微笑んだら、彼女のその顔は彼女のものだから。彼女の心が微笑むから、その微笑み顔は一番しっくりして見えた、初めて。
やはりあの大人っぽい『リコ』さんが微笑んだのでは、他人の心で微笑んでいた違和感ある顔にしか見えなかったのかも知れない。
「リリ。俺が初めて会った時に心をひっつかまれた女の本当の微笑みってそれだったんだな」
本当にそう思ったから、自然に口にしたまでだった。なのに凛々子がとても驚いた顔をして、また頬を真っ赤にした。
「ほんっとに女が喜ぶことは知り尽くしているってカンジ。いいわよ。こんな変な私まで持ち上げなくてもっ」
「あっそう。素直に受け取らない女は可愛げないと思うけどな」
「まだ高校生のくせに生意気っ」
そらきた。どこか子供っぽいくせに、こんな時、幸樹よりも姉貴ぶる『本性凛々子』が現れたと幸樹はふてくされる。
でも――。それってすっごく『リリらしいなあ』と、次にはもう幸樹はおかしくて笑いが止まらなくなっていた。
「な、なんで笑っているのっ」
「年上のくせに、なんだか男と女が分かっていないお姉さんには内緒」
初めて余裕で切り返したら、言いくるめられて悔しそうな凛々子の顔がそこにあった。
「もう休めよ。まだ怠そうだ」
初めて心にあることを人に話したのだろう。どこか興奮しているようにも見える凛々子を、幸樹はなんとか横に寝かした。
「少し眠る。そうしたら私、また元気になる。……明日も会える?」
彼女から手を伸ばし、幸樹の手を欲していた。
彼女の目が、やはりまだ幼い少女に見えた。寂しい、不安の中、でも年相応になろうと必死に堪えていまにも押し潰されそうな女の子の顔。そこに女の色気もなければ、女としての下心も幸樹には感じ得ない。
だから、その手を取って、シーツの上でしっかり握り返した。
「学校の帰りに、美味いクッキーを土産にここに来る」
そう約束すると、やはりあの凛々子らしい笑顔を見せてくれた。
安心したのかそのまますうっと、瞬く間に凛々子は眠りについた。
・・・◇・◇・◇・・・
眠った凛々子をそのままに、幸樹は二階から一階へと下りる。
いつものように、リビングのソファーには拓真が座っていた。でも、新聞もなにも読んでいない。ただ庭を見て、もの思いに耽っている横顔。あの天真爛漫そうな彼から、大人の男の哀愁を見た気がする。
「聞きましたよ」
そう告げると、彼がハッとした顔で幸樹へと向いた。そして戸惑いの顔。
「どう思ったんだろうか」
信じられないだろう? そう言いたげな困った顔。そこに彼が苦悩してきたものを僅かに幸樹は垣間見た気がする。
「いきなり聞いたら『おかしな女』と思ったかもしれない。でも彼女がここに来てから不思議だったものが全て繋がってしまった。信じがたいけど、信じてしまう」
そして幸樹は一番の核心を拓真にぶつけてみた。
「ここに彼女が越してきた時。俺が初めて見た凛々子さんは、亡くなったはずの『緋美子さん』。凛々子の姿をした貴方の奥さんだったんですね」
直ぐには答えてはくれなかった。彼はまた窓の向こうに揺れる薔薇を見ていた。
「姪の中に、ずっと前に死んだ妻が? そんな信じられるわけがない」
馬鹿馬鹿しいと言い捨てるかのように、彼は呆れた笑みを見せるだけ。だけれど幸樹は思う。『俺は試されているんだ』と。
「街中で凛々子が倒れた時、彼女に触れた途端、俺にも『見えた』んですよ。この世でないものが」
そう告げると、流石に拓真が驚いた顔でやっとこちらを向いてくれた。
「すごい。やっぱり幸樹君もそっち系なんだ!」
そっち系ってなんだ。と、今度はいつもの軽やかなオジサンに戻っていて面食らった。
「じゃあじゃあ、幸樹君も見えたから、凛々子の霊感を信じたっていうのか」
「そうですね。あれがあったから凛々子が言っている『あっちの世界にいた叔母さんを引き留めて、私の中に入れちゃった』という話も嘘ではないとは思えた……」
でも。急に幸樹の額が汗ばんでいくのがわかった。
「俺……。凛々子が本気で俺に話してくれているから、なるべく受け止めてあげたいと思って聞いていたけど……」
辻褄も合う。筋も通る。でも、やっぱり霊感があるってだけで、そんな……叔母さんと同化してしまうだなんてこと、あるのだろうか。
今になって幸樹は震えた。
「いいんだ。無理をして信じてくれなくても。そう、単なる『二重人格』であるだけなんだ」
違う! それも違う!
確かに見たことがないものをこの目で見たのだ。それに彼女の豹変振りも目の当たりにしている。
「いや、違います。嘘じゃないと信じられたんです。でも、嘘じゃないとしたら? 現実的にそんなこと本当に。しかも俺の目の前で、そんな」
そこだけだ。こんな超常現象って本当にあるのだろうかと。だが、と幸樹は拓真を見た。
「拓真さんはどう思ったんですか。凛々子の中に奥さんが戻ってきていると知った時」
彼はやはり困った顔をしている。それでもウンウン唸って、どう説明しようか一生懸命に考えてくれている。黒髪をくしゃくしゃとかいて、大人の彼がまるで少年のように落ち着かない。
「どっから説明したらいいんだろう」
言葉で上手く説明できない人のようだった。身体が先に動いてしまうタイプかなと幸樹は見た。それならばと、僭越ながら若輩の幸樹がちょっと整理してみる。
「奥さんが亡くなったのは凛々子が何歳の時なんですか」
「じゅ、十四歳? 女房は三十ちょっとだったかな」
「奥さんはどうして亡くなられたんですか。凛々子がお祖母さんから流れてきた霊感の血は早死を招くと言っていたけれど。奥さんも凛々子のように、霊に引き寄せられることが多くてこの世では生きにくくて亡くなったんですか」
「それは……」
彼の顔色が変わり、そして口ごもってしまった。幸樹は素早く切り替える。
「叔母さんが亡くなった後、凛々子はとても健康的になったと言うけど、それは叔母さんの生命力を伴ったからと見ていいんですかね」
「た、たぶん……」
「凛々子の中から出てくる『緋美子さん』は、凛々子が演じているとは言えない程、夫の拓真さんから見ても『そのもの』なんですね?」
答えられないことには拘らず、さっと質問を切り替えた幸樹の素早さに、中年の彼の方が置いてかれて戸惑っている。だがついに幸樹を真っ直ぐに見据えしっかりと答えた。
「そのものだ」
さらに幸樹は問う。
「だから。姿が姪の凛々子でも、夫妻として生きていく約束を交わしていたんですか。奥さんの方と……」
「やり直そうと、約束した」
「その時、凛々子にはどう説明したんですか」
その問いに、また拓真が動揺したように幸樹から目線を逸らしてしまった。幸樹もそこで胸騒ぎが起きる。
「凛々子のことは……。死んだと思っていた。妻の緋美子は事故で亡くなったのだけれど、それまではひ弱で入院生活を続けていた姪の凛々子を母親代わりとして面倒を見ていた。凛々子は叔母の緋美子が死んだと知りとても嘆いていた。その悲しみようは尋常じゃなかった。母親を早くに亡くし不自由な体で生きていた凛々子にとって、叔母の緋美子は一番頼りにしていた存在だったから――」
それが十四歳の頃、とのことだった。
「緋美子が亡くなって直ぐ、後を追うように凛々子も息を引き取った。衰弱はしていたから、それに伴っての『心停止』だったと思う。蘇生の甲斐なくそのまま」
『心肺停止』――! ピリッと幸樹の身体に何かが走る感触が起きた。胸騒ぎを起こした予感が小さなものから確信へと変わっていく。
「医者が心マ(心臓マッサージ)をしても心拍が戻らなかった。医学的にも凛々子は死亡したと判断された。だけれど、その翌朝だった……」
幸樹の胸の鼓動が早くなる――。もう拓真が言おうとしている光景が、幸樹にも見えてきた。
「凛々子の父親である義兄に呼ばれ駆けつけると、凛々子が息を吹き返していた。医者も驚き、そして義兄も俺も。なによりも、その目覚めた凛々子が『緋美子の意識』で蘇っていたんだ」
「り、凛々子は……その時は?」
拓真が静かに首を振った。まるで『死んでしまっていたよ。彼女はいなくなっていた』とでも言いたそうに。その意味が幸樹には分からなかった。
「でも。今、二階で寝ている彼女の意識は姪の凛々子そのものなんですよね? 今のあの彼女はその時、叔母さんの意識が入り込んでしまった時、どうなっていたんですか」
また拓真がやるせなさそうに首を振ったのだが。
「緋美子の意識を身体に取り込んだまま、凛々子は戻ってこなかった。だから、もう彼女はいなくなったと思っていた」
「でも今は……!」
「そう、今は。もっと言えば二年前から。急に凛々子が緋美子と入れ替わって出てくるようになった。それまで五年、五年も――。俺も蘇った女房も『凛々子は犠牲になって、緋美子の代わりに冥土に行ってしまったんだ』と思っていた」
そして拓真が口惜しそう拳を握って言った。
「……知っていれば。例え妻の魂がこの世に奇妙な形で残っていても、姪を妻になんてしなかった。姪を……愛すことなど……しなかった……」
大人の彼が心の底から後悔し、苦悩している姿がそこにあった。額を抱え、父親の年齢ぐらいの彼が、まだ大人になりきっていない幸樹という男の目の前で今にも泣きそうな顔。
だがそれを聞いて見て、幸樹は全てを見てしまった。
何故、この男性が愛する妻を捨てるようにして、この砂丘の生まれ故郷に帰ってきてしまったのか。
「凛々子を、姪の身体を、もう愛せないんですね」
十八の男が憚ることなく突きつけた一言に、拓真がビクリと身体を強ばらせた。
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Update/2010.11.1