駅前のいくつかある商店街の通りへ出た幸樹は、そこで自転車を止め荷台の凛々子を降ろした。
ちょうど日曜日の昼時で、観光客も含め駅前は賑わっている。
「わー。なんか見覚えがある」
自転車を手に引く幸樹の横に、大人っぽいシックなワンピース姿の凛々子が並んだ。
ウィンドーに映る自転車片手の自分と、お洒落をして並ぶ凛々子を幸樹は眺める。
長身の大人びた高校生と、おしとやかな黒髪の、一応……年上の成人女性。幸樹は思わず、にんまり。あれ、俺達ってけっこうムードあるじゃんと。
今やカリスマモデルの『ミミ』として知られている美紅が置いていったワンピースをまとった凛々子は、この地方都市の街並みでは、とても垢抜け品良く上質に見えた。幸樹が今まで付き合ってきた地元の、どの女の子とも違う、今まで以上の満足感と憧憬がわけもなく湧き上がってくるのだから。
だが、隣の彼女はそんな『自分より年上の、成人した大人の女性』のはずだったのに、今日は何故か子供のようなキラキラした目で、幸樹が見慣れた街並みに見入っていた。
「ねえねえ、幸樹さん。あそこにお蕎麦屋さんがあったのよね。今もあるのかしら」
「え、蕎麦屋? そんなのあったかな」
普段、そんな年寄り臭いところには興味がないのでうろ覚え。しかし凛々子が指さしたその場所へ行くと、本当に古そうな蕎麦屋があった。しかし店は繁盛のようで小さな店舗内は昼時ともあって満席だった。
「懐かしい! 私、死んだ母によくここに連れてこられたの。あ、薔薇の家のお祖父ちゃんにも。緋美子叔母ちゃんとも来たことがある。うちの御用達てところ」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、ここでメシでもしていくか」
『本当に、いいの!?』と、凛々子が嬉しそうに飛び上がる。
幸樹はクスリと笑ってしまったが。あれ、やっぱり『凛々子さん』じゃあないなあ……と、どうしても心肺停止後の彼女と、あまりにも大人っぽくてしとやかだった出会った頃の彼女が一致しなくて、また一人唸ってしまう。
そんな幸樹を、また猫かぶり凛々子さんが『ニタ』とした顔で見つめていた。
「そんなに猫かぶる前の私に戻って欲しいの」
何故か勝ち誇った笑みで、幸樹の戸惑いを楽しそうに観察しているようにも見えた。ここで負けてたまるか。こっちはただでさえ『学生で年下』。なんだか『まだまだお坊ちゃん』と見くびられているようで、幸樹も意地になる。
「まさか。もうそっちの正体がわかってしまったから、今更猫かぶり前の大人しい女に戻られても、おしとやかな品の良い女には二度と見えねえっつうの」
「と、言うことは。今の幸樹さんはもう、このおしとやかじゃない私にしか見えないってことよね」
「ああ、そうだよ。もう今の凛々子さんが正体、デフォルト、もう騙されない」
あんなに、大好きな旦那の為に猫っかぶりの情熱的な奥様を演じやがって。あのオジサンもオジサンだ。すっかり猫かぶり女の演技に騙されやがって。男としてだらしがない! 悔しくないのか、この野郎! と、幸樹はまたまたムキに。でも、やはりそんな幸樹を見透かしたように、あの生意気凛々子がニンマリと見上げているのだ。その顔は、やはり『上手の大人の女』そのもの。幸樹は初めて、今の凛々子にドキリとさせられた。
「ありがと。ここのお蕎麦屋さんにはいりましょう」
まだ『うん』とも言っていないのに、凛々子に手を引っ張られ、懐かしの蕎麦屋に二人で入った。
その途端、店内の誰もが幸樹と凛々子に振り返った。幸樹は流石に驚かされる。――やはり、凛々子って人目を惹くんだ。と。
「幸樹さん、天ぷら大丈夫よね。すみませーん、季節の天ぷらの、天ざる蕎麦、ふたつお願いしまーす」
またまた幸樹が椅子に腰をかけない内に、さっさと座った凛々子が勝手に決めて、勝手に注文をしてしまった。
カウンターにいる店主までもが、威勢の良い凛々子の掛け声に気の良い笑顔で『天ざる、二丁ね!』と軽やかに答える。そのハキハキとした変貌にも、幸樹は目を見張るばかり。
「なんか、すっげー変わりよう。マジ、俺、夢でも見ているみたいだ」
この時になってようやく、幸樹はぞくっとさせられたのだ。
すると、やはり。あの幸樹を子供扱いするような大人ぶった年上目線で、凛々子はゆったりと微笑むだけ。
幸樹が最初に恋した楚々とした女性とは明らかに違っている……。心肺停止で、そんなに変わる? おかしい、絶対におかしい。すると、そんな幸樹の顔色を気にしたのか、彼女が急にため息をついて店の外へと視線を向けた。
「だよねー。不思議だよねー」
そして今度は、遠い目。寂しそうな、哀しそうな。そこだけは、幸樹が『一緒にいてやりたい』と胸迫る思いに駆られた、夕暮れの庭で孤独に水まきをする彼女と重なった。やはり同一人物なのだと。
やがて凛々子の表情が冷たく凍っていくのを幸樹は眺めていた。本当に今にも泣きそうに見えた。
「どうしたんだよ」
俺で良かったら、なんでも言えよ――。そう言いかけて、幸樹はその言葉を飲み込んだ。『一緒にいてやりたい、だから、一緒に住もう』。そこまで勢いで告白したばかりなのに、強引に唇も奪ったのに、それでも彼女に拒否をされていたからだった。所詮、彼女は奇妙な血縁でも、叔母の夫だった義理の叔父と、内縁でも夫妻。しかも別居状態でも、きちんと話し合いも決着がついていない。その上、彼女はあの拓真に『会いたかった、会いたかった』と再会するなり抱きついて、彼女からあのオジサンにキスをしたのだから。
「24人のビリー・ミリガンて小説、知っている?」
「読んだことないけど知っている。うちの本棚にある。親父の本かな。あれだろ、ノンフィクションの多重人格の話」
「そう、それ。それと同じだと思ってくれたらいいわよ」
え、二重人格!?
そう教えられ、幸樹は驚くのと同時に、そう言ってもらえたらなんだか飲み込めなかった塊が、やっと飲み込めるどころか、以上に最初からなかったかのようにすうっと消えた感触を得ることが出来た。
「もしかして、学校に通えなかったとかいうの。その症状のせいだったのか」
「ちょっと、違う。本当に身体が弱かったの。えっと、それは今の幸樹さんの目の前にいる私のことね」
すっきり感を味わえたのに、また幸樹は眩暈がしそうになった。
「まてまて。ええっと今、俺の前にいるのは心肺停止後の意地悪な……」
「意地悪って何よ」
「心肺停止前の凛々子さんは、もっと大人っぽくて近寄りがたくて、なんていうのかなー、物静か?」
前の自分と比べられて、今の凛々子がムッとしたのがわかった。だがそれも一瞬、彼女はムスッとしながらも幸樹に文句は言わない。
「んー。そうなんだよね。心肺停止前の凛々子さんは、まさにそんな女性だもの」
「あれがもう一つの、人格?」
「そうね。あ、そうだわ。心肺停止前の凛々子は『リコ』、今の私のことは『リリ』でどう?」
「リコとリリ?」
今目の前にいる、猫かぶりでいけ好かない姉貴ぶっている彼女が『リリ』。
心肺停止前のおしとやかな大人っぽいあの人が『リコ』。
また幸樹の中で、『それぞれの女性が別人であるなら納得』という安定感を取り戻す。でも、それでもかなり奇妙だった。まだ完全には飲み込めない。
それでも凛々子は淡々と続ける。
「そうね。『リコ』という女性はね、拓真叔父さんが大好きで大好きでしようがないの。幸樹さんも見たことあるでしょ。叔父さんが彼女のことは『リコ、リコ』て呼ぶの」
そう言えば。今の彼女に豹変してから、あのオジサンが凛々子を『リコ』と呼ぶのを聞いたことがないと、幸樹も気が付いた。
「リコさんは拓真叔父さんを愛しているから、彼を見つめるだけで目がうるうるしてしまうの。だからそんな目で見つめられると、拓真叔父さんも堪らないみたい。つい抱きしめて『リコ』て言うの」
それって。今、目の前にいる『アンタ』がそうしていて、愛してもらっているんだろ? 幸樹はそう思ったが、『リコは私じゃない』とでも言いたそうに、夫に愛される自分を他人事のように言う凛々子の言葉を聞くことしか出来なかった。
「リコは旦那さんのことを『タク』て呼ぶ。でもね、拓真叔父さんはもう、そんな『リコ』に愛されるのが辛くて堪らないの」
「でもさ俺、あの二人が熱烈に抱き合ってキスするところ、母親と見たことある。オジサンもまんざらでもない様子で『リコ、リコ』て必死になって会いに来たしさ」
「たぶん。キスした時はリコさんだけが盛り上がっていて、叔父さんはその勢いに負けただけよ。叔父さんだって本当はリコさんを思いっきり愛したいけどダメなのよ」
「どうして……」
そう聞くと、また凛々子が寂しそうに笑った。でも今度は幸樹の目を見て。
「本体が、私『姪のリリ』だから。叔父さんはそれに気が付いて、姪の方は愛せないと思って逃げたのよ」
言っている意味、わかんね? 幸樹は首を傾げた。
「そして本体の『私』、リリ。私は生まれた時から母親譲りで身体が弱くて。成長すればするほど起きあがれない身体だったの。学校に行けなかったのはそういうこと。でも、ある日。私の中に『リコ』という人格が出来てから、急に生命力が備わってこの通り。まともに学校は通えなかったけれど、それなりにこの世の中で暮らしていることを満喫しているのよ。『リリ』である私は、恋人なし。社会経験が少ないし、学校生活もしたことがないから、きっと幸樹さんより経験値はなくて、私の方が子供っぽいかも」
『私の方は、恋人なし』という言葉が幸樹の耳にとまった。
「恋人なしって、人妻なんだから当たり前だろ。あの叔父さんと血の繋がりがないけど、叔父という近しい関係だから籍は入れず内縁でずっと夫妻だったんじゃないのかよ」
「だからそれは『リコさん』の方で。叔父さんがうっかり愛し合っちゃった『凛々子』は、『私、リリ』じゃない『おしとやかなで大人のリコ』の方。だからね、叔父さんは今は『リリ』が表に出てきているのがわかっているから『叔父さんとして接している』わけ。だから今は叔父さんとエッチはしていないわよ」
『エッチ』と憚ることなくあっけらかんと言われ、流石の幸樹もびっくり仰天、周りを気にしてしまった。
「凛々子さんはそんな話し方絶対しないと思う! やっぱりお前、別人だな」
「だから言っているじゃん。私はリリで、あっちの凛々子『リコ』は、今は私の中でお昼寝中」
信じられない――。声にもならなかった幸樹だが、しかし、今の話が本当なら不思議に思っていたことが全て繋がり、多重人格だなんて信じ難い話なのに見事に今までの出来事に現実味が帯びる。そんな感覚。
混乱している中、二人の前に天ざるが運ばれてきた。
「大将、頂きます。私、ここで育って小学生の時に引っ越して、最近この街に帰ってきたんです。ここが残っていて嬉しかった」
「そうかい。有り難う!」
初老の親父さんは凛々子にそういわれ、とても照れた笑いを浮かべ嬉しそうだった。
ひとまず、二人で割り箸を手に取り『頂きます』と共に唱えた。
「美味い」
「でしょう! お祖父ちゃんが大好きだったんだよね〜」
見れば見る程、彼女は幸樹と同じ年相応の二十代の女の子だった。
あの年齢に似つかわしくないしっとりとしていたあの人が、目の前の彼女とは別人格――と言うのを信じざる得ないと幸樹も折れかける。
蕎麦を食べていると、そんな混乱のまま、ただ凛々子と居るだけで戸惑っている幸樹を彼女も同じように見ている。
「なんだよ」
「幸樹さんといると、すごく楽」
何を思ってその言葉? 幸樹は勘繰る。ほら、気を引こうとする女が、一緒にいる男を褒める時によく使う言葉。それを言った凛々子の意図に思いめぐらす。だが凛々子は割り箸で、幸樹の後ろを指していた。思わず振り返ったら、凛々子がおかしそうに笑った。
「違う、違う。幸樹さんの背中にある『光』。すっごく暖かい白色。アイボリーかな。きっとご両親の徳を引き継いでいるのね。お父様とお母様に感謝しなくちゃ。その光にすっごい守られているよ。今まで上手く行かない事なんてひとつもなかったでしょう。勉強も出来るし、お友達もいるし、学校では一目置かれて、女の子にもモテる。でも、それが故に『簡単すぎて退屈』って思っている」
ドッキリと幸樹の胸が貫かれる。
ここまで言い当てられたのは、初めてだった。しかも全て図星。
「これだけ徳が高いと、変なものもすごく近寄りがたいみたい。すっごい遠巻きにして。いい気味」
「うわっ。また、そういう不思議ちゃんチックなことを言って、変なキャラになろうとしてるだろっ」
「失礼ね。キャラ分けする男は、結局はその女一人をよーく見極められていない見る目がない」
うわー、この小憎たらしい切り返しは、絶対に絶対に『リコさん』の方じゃない。確かに『リリだ』と幸樹は憤った。
だがここでも、幸樹は奇妙な感覚に囚われた。
「問題。コーヒーや紅茶を飲む店のことはなんて言うか」
「カフェじゃないの」
血の気が引いた。幸樹が知っている凛々子は、あの『リコさん』はどこか年寄り臭く『喫茶店』と言っていたとを良く覚えていた。
やはり違うのか。あの人と、この目の前にいる彼女は、人格が違うのか。
「そうだわ。ここを出たら、次は幸樹さんがデートで女の子を良く連れて行くカフェに行きたい」
「人を遊び人みたいに言うな」
「あら。遊び人だと思っていた」
「連れて行かない」
「うそうそ。ただすっごくモテてしまうだけよね!」
なんだその子供っぽい取り繕い。年上ぶったり、本当に幸樹より経験値がない子供っぽさを見せたり。
それでも、目の前の彼女は丁寧に行儀良く蕎麦をすすっている。躾が行き届き、きちんと育てられた品の良さが滲み出ていた。あの薔薇の家の、『正岡家の血筋』と思うとすごくしっくりする。
幸樹も蕎麦を食べながら、ぶっきらぼうに呟いた。
「ケーキは、チーズケーキとショートケーキ、どっちが好み。その好みで連れて行くカフェが変わる」
「断然、ショートケーキ!」
彼女が元気よく溌剌と微笑むと、そこが急にキラリと弾けるようだった。それは本当にあの『リコさん』とは全く異なる。
同じ姿なのに、同じ人間なのに。こんなことあるのだろうか。
だが幸樹は今、それを目の前にしている。そしてそれが不自然ではなくなっている。それがまた信じられないことなのに、やはり彼女といると今までと違うと引き寄せられているのはどうしてなのか。
蕎麦屋での昼食を終え、凛々子のリクエストに沿って、いつも行くカフェへと向かっている。
商店街の街並みを、また自転車を引きながら。
「いいわね、この優しい街並みが心地良い。私、東京なんか帰りたくないな」
「いいんじゃないか。元気になったとかいうけど。それでも身体が不安定みたいだし、この際、ゆっくりこっちで養生して行けよ。そのうちに美紅も夏休みを取って、遊びに来ると言っていたから。今度は俺の友達と、美紅と一緒に、浜に泳ぎに行こう。あ、『リリ』は浜辺に出て直射日光に当たっても大丈夫なのか……」
すっかり人妻だと言うことを忘れ、同世代の女の子を誘うように幸樹は後ろをひっついてくる凛々子に振り返る。
……いない!
もう少し後ろのアスファルトの上で、凛々子がまたうずくまっていた。
――嘘だろ。いまさっき『心地良い』て言っていたじゃないか!
幸樹は自転車を手放し、慌ててうずくまっている凛々子へと駆けよった。
「リリ!」
また、心肺停止!?
今度はあのおしとやかな大人っぽい『リコ』が戻ってくる!?
幸樹の心が揺れる。
あの人は大人っぽい。近寄りがたくて話しかけられなくて見ているだけでせいいっぱい。でも、見ているだけで胸がドキドキする。あんなトキメキは初めて。
でもこっちの『リリ』も――!
Update/2010.10.12