-- 緋花の家 -- 
 
* 花にも色々あって *

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2-3 業の花

 死んだと思っていた。
 火の中で、あの人に抱かれたまま、死んだと思っていた。

 ──だけれど、ふと目覚めると、私は『凛々子』になっていた。

 一番最初に、目に飛び込んだのは『凛々子の父親』、つまり【私、緋美子】の『兄』。
 彼は驚愕し、そして次には涙を流して喜んだ。
 『凛々子』が、言葉を発するまでは……。

「お兄さん、どうしたの?」

 凛々子の声。若々しい愛らしい声で、【緋美子】は兄に問いかける。
 たちまちに、兄の顔が青ざめる。そして『なにを言っているのか』と恐ろしそうに投げ返してきたので……。

「……やだわ。とっても夢とは思えない夢だったのかしら? 火の中で死ぬなんて」

 しかも、一緒にいてはいけない男性と。
 そう言いたくても、兄の前でも決して言えないことを、【緋美子】は心の中で呟いた。
 そして、兄が呆然とした様で、震えながら言う。

「お前、ヒミコなのか?」
「そうよ。何言っているの? 兄さんは……。あ、いけない。リリちゃんのところに行かなくちゃ。あの子は、私が母親代わりなんだから──」

 身体が弱い姪は、既に亡くなっている生母の体質をそっくりに受け継いだのか、儚い日々を送っていた。
 入退院を繰り返し、学校にも行けず……。父子家庭で年頃の女の子を育てるのは、大変なこと。【緋美子】も早くに両親を亡くし、兄と二人力を合わせて生きてきた。だから、凛々子の気持ちも、兄の大変さも理解しているつもりだ。【緋美子】は若くして結婚をし……まあ、いろいろあったが幸せな家庭を築くことが出来た。それもあの『鳴海拓真』という男性に出会ったからこそと、夫に感謝している。二人の子供を育てている母親。姪のことだって娘同然に思って、兄の手伝いをしていた。【緋美子】も兄と同じ仕事をしていたが、兄ほどの重責はなく、仕事の合間に入退院を繰り返す凛々子の世話もしていたのだが……。

 そうだ、思い出した! と【緋美子】は手を打った。

「そう。嫌な予感がずうっとしていて……私……」

 思い出して、やっぱり【緋美子】は青ざめる。
 そうだった。嫌な予感──『正樹』に『嫌な影』があったのが気になって、気になって。
 あの人とは二度と会わないと決めていたし、あの人も二度と会いに来ないと言っていたのに。ふとした偶然で会ってしまった。その時に見た『死相』。
 彼とはもう無関係だけれど、彼は『美紅の父親』。それ故に──。

 【緋美子】は目覚めた自分の頬を、さすった。
 手触りがいつもと違う。やんわりと張りがあり、自分の頬よりふっくらしている気がした?

 そしてやっと気が付いたと同時に、兄が言った。

「緋美子、お前は死んだ。あの男と焼け死んだ! そして……凛々子もお前の後を追うように、『昨夜』。お前は、どっちなんだ? ええ? どっちなんだ!!」

 取り乱した兄が、『凛々子』に飛びつき、まるで化け物を振り払うかのように、襟首を掴み『凛々子の身体』を揺らした!
 【緋美子】だって、分からない! 目が覚めたら、こうなっていたのだから!
 それよりも、兄の言葉がこだまする。

『お前は死んだ』

 死んだ……。
 やっぱり、私は死んだのだ。
 夢じゃなかった。私はあの人と炎の中で死んだのだ!

『放して──! 私は帰るの! 子供達と拓真のところに!』
『緋美子、行かないでくれ! 緋美子……もう、駄目だ。俺と一緒に……俺と一緒に』

 ──死んでくれ!

 彼は拓真と同じ、消防士だった。
 霊感ある緋美子の予感は的中した。
 とあるビルの火災の消火活動をしていた彼。彼に現場に行かないようにと知らせようとした緋美子は巻き込まれ、彼に引きずられるようにして……。

 その後を覚えていない。
 だが、徐々に肌がちりちりと痛くなってくる。
 そう、炎がまとわりつき、まるで彼の届かぬ想いが業火に捕まったように、緋美子は彼に抱きしめられて、その焼ける痛みを最期に──。

「い、いやーーー!」

 緋美子は『凛々子の頭』を激しく振った。
 何故、死んだばかりの姪の身体に乗り移ってしまったのか、分からない。
 そして可愛がっていた『姪・凛々子』が、後を追うように死んだという事実も一緒になって襲ってくる。

「何故、凛々子が。何故、リリちゃんまで!」

 すると、自分より先に取り乱した兄がいつのまにか緋美子をなだめるように抱きしめてくれていた。

「お前の死がかなりショックだったようだ……。毎日、お前の事を呼んで泣いていた」

 では、凛々子が死んだのも私のせい?

 緋美子の脳裏にそんなことが直ぐに過ぎったが、それを知ってくれたかのように、兄が『お前のせいじゃない。凛々子の寿命だったんだ』と──。
 だが、緋美子にはやっぱり自分が最後まで側にいなかったからだと、自責の念しか湧いてこない。

 数日後。兄がどう説明したのか知らないが、拓真がやってきた。
 彼は信じられない顔で、『蘇った凛々子』をただ見つめていた。
 拓真の顔も憔悴しきっていた。それもそうだろう? 妻が裏切りの男と共に業火の中で死を遂げたのだから。

「ミコ? ミコなのか……?」

 彼は【緋美子】のことを、『ミコ』と呼んでくれていた。
 緋美子はどうして良いか分からなかったが、でも、拓真の姿を見た途端に涙が止まらず……。

「タク……愛しているのよ。許して、私を……許して」

 凛々子の姿で涙を流す。
 どれだけ信じてもらえるのか。
 あの人の元に駆けていっただけでも『二度目の裏切り』になるのに。その罰か。焼け死んだと言うのだから。

 だが、次には拓真に抱きしめられていた。
 彼はおいおいと泣き、『凛々子』の身体を抱きしめる。
 そして姪の身体を抱きしめながら『ミコ、ミコ』と何度も緋美子を呼んでくれた。

「帰ろう、ミコ。子供達が待っている」

 緋美子はただ、頷いた。

 そして数年後、『凛々子』として生きる環境が整った十六歳の春。
 再び、『鳴海拓真の妻』となる。

 それが今の『凛々子』。

 不思議と、【緋美子】が宿ると『凛々子の身体』は生き生きとし、健康体になったようだ。
 まだ、いつどうなるか分からないが。そう身体だけでなく、魂も、いつ抜けてしまうか。

 身体は初々しく若く、心は甘さも苦みも味わってきた熟女。

 その曖昧さの中、鳴海凛々子としての人生を歩んできた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「改めて七年。貴女、一生懸命やっていたわよ」

 午後になっても早紀は薔薇の家に居座って、緋美子の娘……そして早紀の姪にもなる美紅を待っている。
 今日に限らず、こうして彼女と二人きりでお茶をする時は当然【緋美子】として『凛々子』は会話をする。
 それは彼女にも事実を告げた時はなかなか信じてもらえなかった。だけれど、【緋美子】としての生前は、彼女とは女同士の友情を培って来た仲。たくさんの苦しいことも、彼女の兄との関係によって、彼女とも難しい間柄になってしまう関係となっても、そこは『友情ひとつ』で乗り越えてきたと言っても良い。

 だから、緋美子が『凛々子』として生き返り、早紀の目の前に現れた時。
 緋美子は躊躇わずに、彼女に真実を告げた。
 彼女も最初は信じてはくれなかったけれど、二人にしか分からない思い出や会話を口にすると、青ざめた顔で黙ってしまい……。だけれどその次には、泣きながら『凛々子の身体』にすがって、新しく生まれ変わった【緋美子】を受け入れてくれた。

 それからも、凛々子として生きていく中で、存分に協力してくれている一人。
 だからこそ、彼女の大事な息子をかどわかすようなことはしたくなかったのに……。

 『凛々子』となった【緋美子】は、溜息をつきながら、午後のお茶をすすった。

 

 私【緋美子】は、死んだ。
 今は『凛々子』として生きている。
 そして、それを知りつつ、夫であった拓真が、もう一度『凛々子』として愛してくれた。
 そう、『凛々子』として……。

 あの単純明快な男である拓真。
 だからこそなのだろうか?

 だからこそ……。
 彼は【緋美子】と『凛々子』を愛せなくなったのだろうか?

 彼が訳もなく、ハイパーレスキュー隊を辞めて、故郷の消防署に戻ってしまった時。凛々子は愕然とした。
 訳も言わずに、ただ『この家を出る』と──。
 おかしな様子? あったと言えばあったかもしれない。
 ただ、あの夫。いつでも非常に明るいので、ふとすれば見落としてしまっていたかもしれない。
 情けない。見た目は『年端もいかぬ、幼妻』だから、『年の差が負担となって旦那が駄目になった』となるかもしれないが、実質的には中身は『二十年以上』も、連れ添った夫妻なのに。それなのに、あの愛する夫の心の変化を見抜けなかった自分が情けない。
 彼に甘えるだけ甘え、どんなことも許してもらい。こんな『事態』となっても、彼は姪の身体ごと、【緋美子】を今まで通りに愛してくれた。ううん、……今まで以上に。

 それでも、近頃の【緋美子】がふと思い起こすのは、若き日の自分と夫の出会いだった。

 この薔薇の家だった。
 そこの庭先、垣根に彼が立っていた。

『こ、こんにちは! きょ、今日は暑いですね!』

 良く通る元気な声。
 いつも消防の服を着て、彼はそこを通る。
 【緋美子】も気がついていた。

『そうですね……。お疲れさまです』

 消防の作業服を着ていたから、なにかの見回りかと思って【緋美子】はそう返していた。
 【緋美子】の手には、スケッチブックとパステルコンテ。
 いつも父の仕事家だったこの薔薇の家で、絵を描くのが好きだった。勿論、スケッチブックの中は薔薇のスケッチばかり……。

『よ、良かったら、その絵を自分にも見せてください!』

 まるで訓練でもしているかのようなその大きな声におののきながらも、彼のその真っ直ぐな声が清々しくて、【緋美子】はついに、通りすがりだっただけの男性にそのスケッチブックを見せていた。

 紅い花ばかりを書いたスケッチを、拓真は嬉しそうにめくって眺めていた。

『でも、自分は貴女は白い花だと思います!』

 ハキハキした声。
 初めてそんなことを言われて、【緋美子】の心が舞い上がり、そっと頬を染めた十九歳の夏。
 父と同じ大学に、兄と同じ大学に入って『考古学』を学び始めたその年に、拓真に出会った。

 娘の美紅はあんなに華やかな子なのに。
 母親の自分は、地味で古風で目立たなくて。そして絵ばかり描いて、父親の書斎の本を読みあさって……。
 だけれど、拓真が『白い花』と言ってくれた時から、【緋美子】の世界が、この庭の薔薇の如く、花開き始める。
 熱血で真っ直ぐな彼の求愛は、緋美子の心に真っ直ぐに届いて真っ赤に染まっていった。
 そして拓真は緋美子を熱く愛してくれた。若き日の情熱の全てを緋美子にぶつけてくれた。一直線な男の愛は、焼けるように激しかった。
 恋人になってすぐに妊娠した。躊躇わなかった。大学を休学して、結婚して母親になった。

 でも、緋美子には気になっていること、心にひっかかっていることが残っていた。
 薔薇の家の垣根。拓真が声をかけてくれたその場所に、もう一人の男性が、時々静かにこちらを見ていた。

 近所に住んでいる長谷川家の長男。
 早紀の兄。『正樹』だった。

 ただの近所の人、顔見知りだとおもっていただけのことが、数年後に大きく緋美子の人生を翻弄していくことになる……。

 

「緋美子さん、考えすぎは駄目よ」

 

 ティーカップを持ったまま、飲みもせずに、ただ見つめていたから……。
 目の前の早紀の方が、そんな【緋美子】を見つめて思い詰めた顔をしている。

「大丈夫よ。早紀さん」

 そして彼女の方が、泣きそうな顔になる。
 時には彼女の方が泣いてしまう。
 ──兄さんが、あんなことさえしなければ。
 彼女の少しだけ開いた口が、それを言いそうになって、いつもやめる。
 そして緋美子も言って欲しくない。

「早紀さんが泣くと、私も辛いから……」

 貴女の兄を追い詰めたのは、緋美子という女性だったのだから。
 一度きりの、彼の熱愛を受け入れてしまったが故に。
 なにもかも、彼女等彼等を苦しめているのは【死んだはずの緋美子】なのだ。

 なのに、何故──。
 もっと生きて欲しかった姪を乗っ取るようにして、魂だけが入り込んでしまったのか──。

 緋美子に与えられた罪と罰。
 それでも尚、二度も捨てたに等しい行為を味わわせた夫とやり直したいという『業』を捨てられずに、生きている。

 緋美子は罪深き女。
 炎に巻かれても尚、生きている。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「た・い・ちょ・う。何を見ているのですか?」

 その声に、デスクワークをしていた拓真はギョッとして、開いていた書類をばったりと机に伏した。

「な、なあんにも?」
「お茶、置いておきますからね」

 若い所員が、妙に意味深な笑顔を浮かべ、拓真の手元に湯飲みを置いていく。
 去っていくその背が、笑っている。

『知っているかー? 今度来た隊長っ。女のファッション雑誌を買っているんだぜ』
『うはあっ。どういう趣味だよ?』
『噂では、二十も歳が離れた奥さんと別れたばかりらしいぜ。それも自分から別れてきたんだってさ』
『二十歳? 俺等と変わらないじゃん?』
『しかもさあ。死んだ最初の奥さんの後にもらった後妻なんだってさあ』
『すっげー? じゃあ、元々ロリコン?』
『なんじゃねーの? なのに別れるだなんてさあ』
『やっぱ、オレンジって女にもてるのか? 俺もめざそうかな〜』
『有名なレスキュー隊員だって聞いていたのに、がっかりだよな〜。鳴海隊長』

 宿直調理場で交わしている若い彼等の会話。
 拓真は『聞こえてるっちゅうの』と一人ぼやきながら、知らぬ振りをする。
 本当のことだ。
 二十も歳が離れた『妻』がいたことも。その『妻』を、『可哀想なこと』に俺から捨てたのも!
 さらに、さらに、『ファッション雑誌』が気になってしようがなくて、コンビニに行けば買ってしまうことも!
 ああ、そうさ? ぜ〜んぶ本当さ?

 拓真は、机に伏せた書類を開いて隠していた『女性ファッション雑誌』を、そっと抜き取って引き出しにしまった。
 今月号の表紙は『我が娘』だった。
 まったくひやひやする。胸の空いた服! 足が殆ど出ているショートパンツ! やって欲しくない仕草!
 それでも娘が生き生きと輝いているその美しくなっていく姿には、何故か目元が緩まってしまう父親のこの複雑な心境。

(お前等若僧に、分かってたまるかってんだっ)

 そのくせ、彼等は拓真が持っているその雑誌に出ている【美々】のファンだとかなんだとか、ぬかすのだ。

 その【ミミ】は、俺の娘の『美紅』だ。
 参ったかーーーー! と、叫びたいが叫べるはずもなく。
 来たばかりの署で、『ロリコンおじさん』としての風評に耐えている日々。

 拓真は頬を引きつらせながら、今度は真面目にデスクワークをする。
 今日は平和な日だ。『出場』もまだない。
 いつもこんな穏やかだと良いのだが、大きなことでも小さなことでも消防署に平和はない。

 平和はないはずなのだが。

「あのう、隊長。外に隊長にお会いしたいという女性が来ていて……」

 先ほど、お茶を持ってきた若い隊員が、少し戸惑った顔で教えてくれる。
 その『会いたいという女性』の一言に、拓真の顔はぴりっと引きつり、若い隊員を鋭く見据えていた。流石に、若い彼もビクッと固まる。

「俺に会いに来るような女性はいない。そう言っておけ」
「はあ……。でも、あの……」

 なにか言いたげな若い彼に、少しばかりイラッとしてしまう拓真。
 実際に、このようにキビキビとして欲しい職場でそのような煮え切らない男の態度は、拓真は好きではない。
 男はどんな時も、ハキハキ、キビキビ! が、一応……モットーではあるが? しかし、その彼が小さく呟いた一言で拓真は一変してしまう。

「あの、『鳴海の娘です。東京から来ました』と言っていましたよ?」

 その一言に、拓真は『なにっ!?』と、大袈裟に飛び退いてしまった。

「む、娘? 俺の娘は東京の大学にいて」
「だから、そのお嬢さんが会いにいらっしゃったのではないのですか?」

 そしてその若い彼がちょっと頬を染めて言う。

「綺麗な可愛らしいお嬢さんですね」

 そのうっとりと見惚れたかのような青年の顔を見て、拓真は『美紅に間違いないっ。リコじゃない』と確信し、があっと一直線! 事務所の外へと出た。
 いつも装備を揃えている通路を走り抜け、消防車や救急車が待機している車庫を抜け出した。
 するとその車庫の前に、黒い大きな帽子を被り、モノトーンで揃えている服装の女性が一人。その地味な服装を一目見て、あの華やかで若々しい娘らしからぬ格好だと思った拓真は、『騙された! やっぱり凛々子じゃねーかっ』と、叫びたくなった。それにその女性が被っている大きな黒い帽子も見覚えがある。間違いなく、あの控えめな凛々子が外を出歩く時や庭の手入れをする時に被っている地味な帽子だったから……余計に。
 しかし、その妻の帽子を被っている女性が振り向いた。

「お父さん!」

 その地味な大きな帽子のひさしから、輝く初々しい笑顔と、つややかな茶髪がキラリと舞う。
 白黒にまとめていたその女性から、ぱあっと明るい色合いの花が咲いたようだった。
 間違いなく。先ほど、雑誌で眺めて唸っていた『我が娘』だった。

「美紅──!? いつのまに?」

 東京で大学に通いながら、モデル業を頑張っている娘が、こんな遠い日本海の街にいる。
 それが何故か、拓真には分かっていて、でも、娘がここまで本当に来たことが直ぐには信じられなくて。
 そうして驚いている間に、目の前の娘は拓真を見てぱあっと輝かせた笑顔をすぐにくしゅんと悲しげに崩した。
 そしてそのまま、泣きそうな顔で駆けてくる。

「お父さんの馬鹿! 会いたかった!」

 オレンジ色のレスキュー作業着を着ている拓真の胸に、その娘がどんっと強く抱きついてきた。

「美紅……」
「お父さん!」

 東京を出ていく前に、この娘にもちゃんと別れを言った。
 何時会いに来てもいいんだと。これでお別れじゃないし、俺はずっとお前の父親だよと……。
 血のつながりはなくても、この娘を生まれた時から二十年近く妻と育ててきたのだから、本当の娘同然だ。

「会いに来てくれたのか?」

 拓真はそのまま、美紅を優しく抱きしめた。
 美紅が拓真のオレンジ色の胸の中で、こっくりと頷いた。
 そして濡れた瞳で、娘がすぐさま言った一言。

「お父さん、ママに会いに行ってよ。私と会いに行こうよ」

 娘のその切実な願い、そしてその切羽詰まる気持ちは、拓真だって充分理解している。
 だが……。ここは『鳴海拓真』という一人の男の問題として、それは娘の願いにも今は応えられない心境。
 『すまない、美紅。お父さんは……』と、心苦しいままに口を開こうとした時だった。

 背後の車庫から『うおーっ!』という、男達の声。
 振り向くと、若い隊員達も上司も同僚も、皆が消防車の影などに隠れて、こっちを興味深げに見ているのだ。
 女性と抱き合っている鳴海拓真隊長の、衝撃的な姿と言ったところか? 拓真の頬がかあっと熱くなる。

「む、む、娘なんですよー!」

 なんて、唇を噛みながら笑ってみたりして。
 しかしそうなると、途端に娘は『しっかり者』になった。

「鳴海の娘です。父がお世話になっています」

 甘えていた父の胸から離れて、ぴしっと大人びた落ち着いた挨拶。
 向こうの男共のほうが、恐縮しちゃって遠巻きに頭を下げているだけだ。

「やあやあ、せっかくだから寄って行きなさいよ」

 拓真の直属の上司であるレスキューの大隊長がそんなことを。

「いえ。父の顔を見に来ただけです。あ、これお土産です」

 これまたしっかり者の美紅は、出てきた大隊長に持っていた包みを差し出したりして。

「美味しそうなコロッケを見つけたので、いっぱい買ってしまいました。父が大好きなので。お菓子よりもきっと皆様も、お腹が埋まるものが良いと思って……」
「いやー! 鳴海君、いいねえ。気が利く娘さんじゃないの。しかも父親思いで羨ましい!」

 そして大隊長は美紅の顔を眺めて、本気で呟いた『美人だし』と。
 拓真はそう言われると、もうなし崩しに嬉しくなってしまう男親で、『わはははは』と照れてしまうばかり。
 そのうちに、若い青年達もちらほらと遠慮がちに近づいてきた。

「あれ? 鳴海隊長のお嬢さんって、ほら……なあ?」
「うん、似ている」

 その一言に、拓真は勿論のこと、流石の美紅もドッキリとした顔。
 そして青年達が思っていたとおりのことを口にした。

「モデルの【美々】に似ている!」

 拓真がヒヤッとしたその瞬間。

「うふ、よく言われるんです〜。そんなに似ています? 嬉しい」

 美紅が上手く誤魔化した。
 実際にモデルの美々はたくさんのことを『不詳』としていて、そこがまた売れてしまった要因のようなのだ。
 だけれど、青年達は美紅を見て浮かれている。拓真はつい『そんなに見るな、近寄るな』と言いたい反面、『可愛いだろう〜』とも言いたくなる親ばかな気持ちが胸の中で渦巻いているが、隊長の顔、隊長の威厳と唱えて、とりあえずにこやかにしているだけ。

「そっか。だから、隊長はお嬢さんに似ている美々が載っている雑誌を眺めていたんですね」
「寂しかったんですね。隊長も……」

 若い青年達のその発想に、拓真はなんと言って良いか分からず、やっぱりそこも『実はそうかも』とも言えずに笑って誤魔化すだけ。
 そして美紅がそれを聞いて、嬉しそうな顔で拓真を真っ直ぐに見つめてきた。

「お父さん、美々の雑誌を見てるの?」
「え? ええっと……」

 女性ファッション雑誌を、この硬派の俺様が買っているだなんて言えるかと思ったのだが……。

「それが買っているんですよ! どうして隊長たる人がそんな雑誌を見ているのかと俺達も不思議で」
「なんだか、納得だな」

 美紅の嬉しそうな顔。私が頑張っている姿を見てくれていると言いたそうな顔に、拓真はここでもただにこりと微笑み返すだけ。
 そして青年達が口を揃えて言った。

「隊長って、良いお父さんっすね!」

 拓真はまた『いやはははっ』と笑い飛ばすだけ。
 鳴海拓真隊長。なんとか少しは『ロリコンおじさん疑惑』が晴れたよう?

 青年達は暫くは美紅を見て、浮き足立っていたが、美紅もここはいつなにがあるか判らない職場と心得てか、『もう、帰る』と言い出した。

 すぐそこの曲がり角の交差点まで、娘を見送る。

「薔薇の家にいるの。お父さん、明日来て。私と一緒に行こうよ。ね、お願い。じゃないと私、明日の朝もう一度ここに来ちゃうから」

 娘の今にも泣きそうな顔。
 事情はともあれ、それは親の事情。
 娘には本当に罪はない。特にこの娘は、自分は鳴海の血が流れていないことを気にしているはず。ちょっとしたことでも『私のせい?』と思うことだろう。そして何よりも、娘のそんな悲しそうな顔は、やっぱり辛い父親。

「分かった。じゃあ、明日そこに白い喫茶店があるから、待っていてくれ。『大交替』が終わったら携帯に連絡を入れる」
「本当? それってママの家に私と一緒に来てくれるってこと?」

 少し躊躇って、拓真は娘に向かって微笑んだ。

「……ああ。父さんと一緒に行こう」

 娘の顔が輝く。
 彼女は納得して、元気良く横断歩道を渡ってその喫茶店確かめに行くと駆けていった。

 そう、なにもかもが、この俺の勝手だった。
 妻も何も悪くない。

 もうすぐ暑い夏が来る。
 生まれ故郷での夏は久しぶりだった。

 そうだな。【緋美子】に惚れたのも、ここのこんな夏だったと、拓真は空に浮かぶ白い雲に目を細めるのだが……。
 一目惚れした白い可憐な花を思い出し、その切ない想いをそっと胸の奥にしまい込む。

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