深夜、深く寝入っていたはずの凛々子だが、どことなく息苦しくなって目を覚ました。
まるで胸の上に誰かが乗っていたかのような……。
まだその気だるい空気が渦巻いているので、凛々子はふと心配になって起きあがった。
もし、そうならば。『また、来てしまったのか』と。
甥のおまじないも、遠慮無く破ってきてしまったか。
そこを越えてやってきた訳が凛々子にはすぐに思いつく。
凛々子にしたような『悪さ』はしないと思うが、それでも彼にとっては触れたくて堪らない存在だろう──『美紅』という娘は。
「ママ、ママ……」
案の定、ドアの向こうから弱々しい美紅の声が聞こえ、凛々子は直ぐにベッドを降りて駆けつけた。
ドアを開けると、怯えた顔の美紅がいる。
暗がりの廊下、その向こうを、美紅を寝させたゲストルームの寝室を見ていた。
「見えたの?」
低い声で凛々子が聞くと、美紅は首を振った。
この子は、気配取りは鋭いのだが、凛々子のようには見えない。
「でも、いた。いたわ。それに私に触った」
「優しく? それとも、乱暴に?」
「……優しく」
美紅は少し頬を染め、でも戸惑った顔で頬をそっと手のひらで包み込んだ。
「キスされたみたい……」
怯えてはいるが、美紅は嫌ではない……むしろ、驚きの中に初めての喜びのようなものを感じているように凛々子には見えた。
「怖かった?」
「怖かった。けど……嫌じゃなかった」
俯いた美紅を、凛々子はそっと抱きしめた。
美紅もほっとしたように凛々子にもたれてくる。
ここに義理の姿をした母と娘が二人。
凛々子は先ほど、美紅が見入っていた廊下の突き当たりを見つめた。
今日は見えた──。そこに切なそうな顔をした『正樹』がこちらを見ている。
彼はそのまま、すうっとこの二階の壁をすり抜けるように外に出ていった。
甥の手が施した弱い結界に遠慮していたようだが、今夜は娘に会いたくて飛び越えてきたようだ。
前よりも息苦しさを感じたのか、今日はそれだけで出ていく気になったようだ。
「明日。お墓参りに行ってくる。──『正樹お父さん』の」
「そうね。待ちきれなかったのね」
でも、こんな事、この家にいて初めて。と、美紅は亡き実父に口づけされた頬をいつまでも包んでいた。
彼女にとっては、ついに会えなかった実父。真実を知る前に生母を道連れに消えた実の父。
彼女は時には彼を憎み、恨み。そして、時にはあって当たり前の思慕を垣間見せる。
彼女の本当の両親は、もう、いない。
「ママ、傍にいて」
子供のように美紅が抱きついてくる。
凛々子はしっかりと彼女を抱きしめた。
・・・◇・◇・◇・・・
日が昇り、凛々子は早くから起きて、美紅と共にする朝食の支度に精を出していた。
あんなに毎日、毎日、騒々しい朝を一家で迎えていたのに……。この前から急に一人。独りで過ごしていた凛々子。だから、今日は自然と心が躍り、美紅の大好きなメニューばかりをこしらえていた。
兄の一馬は和食派。朝から焼き魚がないと機嫌が悪い。温泉卵もちゃんと作っておかないと文句を言われる。
妹の美紅は洋食派。パンが大好きで、目玉焼きは半熟にしてやらないと駄目。そして忘れてはいけないのはデザート。季節の果物とプレーンヨーグルト。そして蜂蜜を入れた暖かい牛乳。
いつしか兄妹がそれで喧嘩をするので、『一日置きに交互にね』と和食洋食和食と言ったようになり、日々朝のテーブルの支度は慌ただしい。
そして、夫の拓真はと言うと──。やっぱり何でも食べる。豪快に『うまい、うまい』と。ご飯はどんぶりに大盛りだし、パンだと足りないからと、朝から肉のメニューを欲しがった。
まあ、家族がいると主婦の皆の好みに合わせた朝食作りというのは一仕事。
だけれど、今は、それが恋しい。
それを忘れかけそうになっていたけれど、訪ねてきてくれた長女に思い出させてもらった気持ちで、凛々子は洋食メニューを作り上げる。
「うわー! リリちゃんの朝ご飯、久しぶりー!」
また昨夜の夕飯のように、美紅はとても感激した顔でキッチンに入ってきた。
彼女は毎日、朝、シャワーを浴びる。濡れ髪のまま首にバスタオルをかけた格好で椅子に座った。
早速、お気に入りの蜂蜜ミルクを一口。
「あーん! これこれっ。自分で作って飲んでいても、やっぱりママのがいい〜」
美紅のとろけそうな顔に、凛々子は幸せを感じる。
……そう、凛々子の幸せはそこにあったのに。
拓真だってそれを良く知ってくれていたのに。
何故、あの人から壊すようなことを、そして奪うようなことをしたのだろう?
まだ、理由は分からないけれど。凛々子はまだ彼を愛しているし、彼にも愛されていると思っている。
でも、どこかで微かにその『愛しすぎるが故に』何かが生じたような気がしないでもない。
この一ヶ月、独りになって振り返り、やっとそんなことに気がつけた気がした。
本当に、拓真という男は真っ直ぐ。
彼はなにかと複雑なことが起きても、すぱっと二つに一つをこれでもかと言うぐらいに気持ちよく潔く選ぶことが出来る男なのだ。そして決して、後ろは振り返らない。
美紅の時もそう。先妻が別の男の子供を身ごもった時も、『別れないお前は一生、俺の女房だ。子供は俺の子供。──それだけだ!』 と、言い切った男。
そう、『一生、俺の女房』。その言葉を聞いた時の感動というか、一人の男性の計り知れない愛を感じたのだ。
なのに、そういう男なのに。
やはり? 『緋美子』ではないと駄目だったのか?
凛々子は、溜息をこぼす。
なにもかも覚悟をしていたはずなのに。きっと過ぎるほどに幸せだったのだ。
それもあの拓真という男の妻になれたからこそなのに。彼のお陰なのに。
その彼が逃げたのだから、『自由』にさせてやるべきなのか。その時が、ついに来てしまったのだろうか?
「ママ? どうしたの?」
「え? うん。実は早起き久しぶりなの」
「ごめんね。お手伝いすればいいのに」
「いいのよ。私は美紅ちゃんに喜んでもらえると思って、張り切ったんだから」
「うん! とっても、美味しい! 食べたかったんだー。独り暮らしをして仕事を始めたら、なかなか食べられなくなっちゃったから」
そして美紅が言う。『ママ、早く東京に帰ってきて』と泣きそうな顔で。
「泣かないで。私も早く元の生活に戻りたいのよ。分かるでしょう?」
鳴海の家がすべての凛々子。
どんなにやっと掴んだ仕事があっても、凛々子には鳴海の家が一番なのだから──。
「お父さんはすぐには転属出来ないと思うけれど、次には東京に帰ってこられるように頼むからね?」
美紅はこの家に来てから、本当に幼児返りをしたように、時間が経つほどに泣き虫になる。
それでも凛々子に抱きしめられて、やっと安心するようだ。
朝食が終わり、今日の美紅はモデルのプライドを持った格好はせず、それなりのシンプルな服を選んだようだ。
美紅はバスの時間を調べ、一人で行くという。
凛々子は消防署までの地図と、墓地付近のバス停と花屋をメモ用紙に記し、娘に渡した。
「ねえ、ママ。お父さんには、正樹お父さんの事、お墓参りの事も言わない方が良いよね?」
凛々子は一瞬、戸惑い……『そうね』と言ってしまっていた。
美紅は凛々子がそう言ったことにほっとした顔をして出かけていった。
・・・◇・◇・◇・・・
本当は付き添っていきたかったが、美紅には美紅だけの想いがあるようだから、一人で行かせた。
それに拓真に会うとなると、彼は娘の訪問は喜ぶだろうが、切り捨てた妻が訪ねてくるのは喜ばないだろう。しかも彼が大事にしている職場に娘と一緒に行くだなんて、まるで娘を利用したみたいで。彼に会いたいが、そこまでは出来なかった。
きっと美紅は、拓真の笑顔を見て安心し、そして昨夜の思いがけない出来事を胸に秘め、密かなる娘としてのときめきを胸に、花束片手に墓地へと行くだろう。
その墓前に、なにを語るのだろう?
朝食の片付けをしながら、凛々子はふと手を止めた。
凛々子も、ここに越してきて数日中に墓地へと行った。
正樹の墓前に、彼の冥福を心から祈り、まだ彷徨っているようなその心を思いやる。
彼が彷徨っている訳を知っている、凛々子。
越してきた時に、凛々子を襲った『男』。
叔母の……。
「おはよう。凛々子さん、いる?」
急に勝手口からそんな声が聞こえて、凛々子ははっとする。
深く考え込んでいて、ちっとも気がつかなかった。
勝手口のドアを開けると、早紀がいた。
「おはよう、早紀さん」
「おはよう。もう片づいた? ねえ、お茶しない?」
「ええ、いいわね」
「貴女が来たら、もう、毎日、楽しくて。ついつい。だって貴女の作る薔薇のお茶、すっごく美味しいの。この前、うちでしたお茶会でも評判だったのよ!」
「そうなの。それは、良かったわ! それなら、また少し作ったから持って帰って」
「本当に! 分けて欲しいという人がいたの。あ、それでね、これは私からのお礼!」
いつものように、賑やかにやってきた早紀。
彼女はいつもこうして頻繁に凛々子に会いに来てくれる。
彼女は『私の暇つぶしに付き合って』と、我が儘なお嬢様のままでいる振りをしているのだが、本当はひとりぼっちになった凛々子を気遣ってくれているのを知っていた。そういう気配りがきちんと出来る本当はしっかり者お嬢様。
彼女がそう言って差し出したのは、大きな密閉瓶。
「まあ。らっきょうね!」
「貴女、大好きでしょう」
「それは、そうよ。だって、私だってここで育ったんだもの。それに早紀さんのは本当に上手に漬かっていて。これだけは、拓真にも『早紀さんには敵わないな』と毎年言われて……私も、貴女から分けてもらうのを……待っていて……」
「リリちゃん……?」
今日も華やかな笑顔で現れた早紀を見ているうちに、凛々子はどうしようもない気持ちになり、涙を流していた。
そして今度は、早紀が何も言わずに若い凛々子を抱きしめてくれる。
何も言わず、ただ、彼女も同じように哀しそうな顔で。
「ごめんなさい。まだ、片づいていなくて……。ちょっとのんびりしていたの」
凛々子は涙を拭いて、早紀から受け取ったらっきょう漬けの瓶をダイニングテーブルに置いた。
早紀がそのテーブルを見て、気がついた。
「あら。二人分ね……? もしかして、拓真さん?」
やっとそれらしく距離が取れたかと、早紀が少し喜び一歩手前の微笑みを見せようとしていたが、凛々子は首を振った。
「──美紅が来たの」
そう言うと、早紀はとても驚いた顔をし、辺りをきょろきょろと見渡した。
それどころか、彼女はダイニングからリビングへと向かい、その娘を一生懸命に探し始めたのだ。
「何処!? すっかり素敵な女の子になったじゃない! 私、雑誌を切り抜いて取って置いているのよ! ねえ、美紅ちゃんは何処!?」
早紀には『姪』である美紅。
そんなに頻繁に会える間柄でなかったので、早紀が美紅にあったのは何年前か……? その頃は美紅は子供だっただろうか?
だけれど、早紀はいつも美紅のことを気にかけてくれていた。叔母として。とても、とても。
「拓真に会いに行ったわ」
「そうなの〜。あーん、残念! もっと早く、押し掛ければ良かったわ!」
その喋り方が、よく似ていて、凛々子は思わず笑ってしまっていた。
そして二人の匂い、華やかな美貌、こうして改めて見るとよく似ている。幸樹も、あの整った顔つきは母親似であるのは一目で分かる。もしかすると、この三人は並ぶとそっくりなんじゃないかと凛々子は思った。
「美紅も、早紀さんに会いたいと言っていたわ」
「本当に〜! よーし、今日は一日中、居座っちゃうわよ! いつ頃、帰ってくるの?」
その問いに、凛々子は少しだけ躊躇し……。しかし、早紀だからこそ正直に言った。
「──『正樹さん』にお参りをしてくると言って出ていったわ」
「兄さんの……?」
流石に、早紀の表情が強張る。
大らかな彼女の顔が、こんな時はとても怖くなるのだ。
「何故、行かせたの? いい? 美紅は拓真さんの子なのよ。たとえね、美紅ちゃんが真実を知っても、それを貫いて欲しいわ!」
「……分かっているわ」
途端に心を燃やしたような早紀の叫びに、凛々子はいつだって、何も言えなくなる。だけれど強く言いきる彼女のその姿勢の裏には、迷惑をかけた兄だから、拓真さんに申し訳ないという妹の気持ちが、死んだ兄の代わりの懺悔が含まれているのがとても良く分かる。
そしてそれ以上に、凛々子はもっと申し訳なくなる。正樹の妹を目の前に、兄の代わりに罪を背負っているかのような彼女を目の前に──。何も言えなくなる。
だからそんな凛々子を見た早紀も、我を忘れた自分にハッとしたのか『ご、ごめんなさい』と、いつものおっとりした彼女に戻って凛々子に寄り添ってきた。
そして、凛々子はさらに報告をする。
「私もそれだけなら、行かせるつもりはなかったのだけれど……」
「だけれど……? どうしたの? 何かあったの?」
何かあったの? 早紀の顔が青ざめる。
何故なら、凛々子なら『有り得る』ことを、早紀も良く知っているからだ。
だから、凛々子は『あった』と頷いた。早紀の顔がますます青ざめ、息が引いたようだ。
「昨夜、来たの。私のところではなくて、美紅のところに」
「まあ……! に、兄さんが!?」
「初めてだから、美紅は怯えていたけれど、でも……時間が経つにつれて、喜びも感じていたみたいで」
早紀がついに黙ってしまった。
そして今度は彼女が涙をぼろぼろと流し始める。
「ご、ごめんなさい。泣くつもりなんか。そう、それは許されないことなのだけれど……でも、兄さんが……」
「そうね。私も、望んではいけないもの。それは」
決して、言ってはいけないことだから、二人は言わずに黙った。
だが、その言葉の裏で『美紅には良かったことだったのだ』と……。どちらの口からも出てきそうで、二人は互いにそれを分かり合っていた。
凛々子に会いには来なかったのか? その早紀の問いに凛々子はまた固まる。
だが直ぐに答えた。それを悟られない内にと……。
「ええ、来ないわ。私のところにはね」
「本当に?」
来ないと、凛々子は言い切った。
越してきたその晩、一番に奪うように抱かれたことも、襲われたことも……。彼の妹である早紀には、やっぱり言えなかった。
「いいえ。私、分かるわ。兄さんは貴女に会いに来たはずよ!」
急に確信を得ているかのようなそのはっきりした叫び声に、凛々子はドッキリとさせられる。
「そうでなければ、あんなに盛り塩の小皿をあちこちに置くはずないわ」
「それは……」
でも凛々子は、そこで降参したようにうなだれ、唇を噛みしめた。
早紀が溜息をこぼす。
「昨夜から、幸樹の様子もおかしいのよ」
それにも凛々子はドキリとした。
美紅のこと、正樹が現れたことで頭がいっぱいだったが、そう、幸樹のことも大変なことだったのだから。
「何かあったの?」
「ええ。あったわ」
決意をしていた凛々子だから、今度は正直に告げる。
だが早紀は母親なのに『そう』と淡泊に答えただけだった。
凛々子はそれが意外だったので『それだけ?』と言ったように彼女を見つめた。
「なんていうの? 幸樹は私が何も知らないと思っているみたいだけれど、これでも母親よ? ちゃーんと知っているの」
凛々子は益々降参するように『そうなの』と俯いた。
だけれど、早紀はサバサバとした顔で喋り始める。
「もーう、なんて言うの? 高校生になってから生意気になってね。あの子は上手くやっているつもりかも知れないけれど、うちに女の子からの電話が良くかかってくるのよ! それも何人も! 真似事で済んでいるのか、危ないことしているのかこっちはハラハラよ」
「まあ、本当にませているのね」
「そう。ああいうところ『兄さん』にそっくり! だから、ハラハラするの」
幸樹が、伯父の正樹にそっくりと、正樹の妹である早紀が、幸樹の母である早紀が、そう言う。
凛々子はなんだか固まってしまった。
「だからね。最初から分かっていたのよ。幸樹はね、きっと貴女のような落ち着いた女性に新鮮さを感じて、すぐに気になるだろうなと」
「私がこの家に戻ってくる前から!?」
「ええ、そうよ」
「早紀さん! それが『危険』だとか『お兄さんと緋美子の二の舞になる』とか危惧しなかったの?」
「したわ」
短く『したわ』と言い切った早紀の顔は、恐ろしいまでに『母親の顔』だった。
だったら、何故? そこまで母親の顔で心配しているなら、絶対に緋美子の姪である凛々子が『帰ってくる』と聞いた時、『もう貴女は戻ってくるべき人間ではないのだ』と言い切ってくれなかったのか? 凛々子はそう不思議に思う。
だが、早紀の顔は母親の顔から、徐々に彼女特有の秘めたる『強き芯』の目を、凛々子に恐れずに向けている。
「でも、私は思うの。避ければ避けようとするほどに、引き合ってしまう『強い縁』。凛々子さん、貴女はそれを良く知っているはずよ」
凛々子はそこは強く頷いた。
だから、幸樹とはこれ以上に関わってはいけないと。
だが、早紀の考えは違った。
「確かに私は一人息子の幸せを願う母親よ。私だって最初は怖かった。だけれど、兄のことを思うと、『封印』ほど怖いものはないと思ったの。あの兄が封印をすればするほどに、その燃えた気持ちを何年も抱えたままの『結果』はどう? あんな悲劇になったじゃない。私は──それが息子にも再来する方が怖いわ!」
「だから、早紀さん。私、決めたのよ。出ていくわ、すぐに出ていくから!」
凛々子も叫んだ。
だが、逆に早紀は『逃げるの』とばかりの怒りを見せる目に変わった!
「遅いわ! いい? 凛々子さん。私はね、息子を信じているわ」
「信じる?」
「そうよ。あの子はまだ恋に身を焦がすことを知らない。いいえ? もう、知ってしまっているかも。貴女に出会って知ってしまったかも。それなら、もう遅いわ。だったらそのまま真っ直ぐに行かせる。兄を止めたようなことはしない! そしてあんなことばかりしている息子に知って欲しいの。兄のような結果ではなく……」
兄のような結果ではなく?
凛々子は首を傾げ、待つ。
「兄のような結果ではなく。幸樹には『人を愛する素晴らしさ』を知るよう。そこの高みへと乗り越えてくれると」
「相手が私でも──?」
「誰でも! きっとあの子は、見つけてくれる」
思わぬ早紀の気持ちに、凛々子は正直、呆然だった。
もし、凛々子だったら絶対に、避けて通る。だから早紀もそうだろうと思って、早紀に迷惑がかからない内にここを出ていこうと思ったのに。だが、早紀は『避けて通らない。乗り越える』と言っているのだ。その強さに、凛々子は感服するしかない。
そしてそんな放心状態になっている凛々子の手を、早紀がやっと友人の顔に戻ってやんわりと握ってきた。
「それに貴女。貴女もよ。もう逃げられないでしょう」
「逃げている? 私が?」
すると早紀は凛々子が思ってもいない事を突きつけてきた。
「鳴海凛々子としての幸せも、勿論、大切よ。だけれど、貴女は『この家』で全うしなくてはいけない事がある!」
まるで、早紀から強烈な電気を送られたかのように、凛々子は繋がれている手をぎゅっと握られて、ビクッと震えた。
そう、今の凛々子には『鳴海家で得た幸せ』ばかりを追っている。もっと言えば、それ以外のことは考えたくないのだ。
それを──早紀は見抜いていた。凛々子が見ないように努めてきた『そこ』をはっきり言おうとしている。
彼女のその手を振りほどいて、凛々子は逃げようとしたが、やはり彼女の方が今は強い。手を離すどころか、引っ張られ、彼女の目の前へと引き寄せられる。
額がひっつきそうなほど、目の前にいる早紀に強く見据えられる。
「いい? 貴女は『罪』はあれど、『生きている』からには、貫き通さなくてはいけないことがあるのよ」
「……さ、早紀さん」
「ここでしっかりと拓真さんを捕まえて、『妻と母親』を全うするのよ! その為に、貴女は『生きているのだから』。そうでしょう? その為に貴女はここにいるのでしょう?」
そして、ついに早紀が言う。
誰もが避けている、決して口にしてはいけないことを。
夫の拓真も滅多に言わないことを、彼女はなにも恐れず凛々子に突きつけた。
「そうでしょう? 緋美子さん」
『緋美子』──。
その響きに、凛々子は目を見開く。
身体から、力が抜けていきそうだった。
そして『緋美子』と呼ばれた女はそこに泣き崩れる。
それを友人である、本当に昔から心からの友人であった彼女に優しく抱き留められていた。
そう私は『緋美子』。
蘇りの女。
体が弱く、儚く逝ってしまった『姪・凛々子』に乗り移ってしまった──蘇りの女。
だから、この家に居なくてはならないと、早紀が一緒に泣きながら呟いた。