ついに恐れていたことが起きてしまった──。
凛々子はリビングのソファーにぺたりと力無く座り込み、熱く塞がれた唇を手のひらで押さえる。
……熱い。
そう、分かっていた。あの子は『火のように情熱的な子』。
だって、『あの人の甥』なんだから。
そのくせ、『火』とは相性が悪い。
だから、あの人は業火の中で燃え尽き、命を絶った。
──凛々子の叔母、『緋美子』と一緒に。道連れに。
凛々子は思い改める。
そうだ、早紀のあの『居ても良いのだ』と言う言葉にやっぱり甘えていたのだ。
早く、早く、ここを出て幸樹との関係をさりげなく終わらせるのだ。
……私だって、少し、残念。とても真っ直ぐで素直な子。まだ味気ない世の中だと、生きる喜びを見つけることが出来ない青年だけれど、彼ならきっと見つける。凛々子なんかじゃない。もっともっと沢山の素晴らしい物を。彼は若いのだから、最初は心を痛めても、やがて──押し寄せてくる青春のめくるめく日々の中で忘れていくことが出来るはず。
今なら、間に合う。
仕事を見つけてからだなんて、いつになるか分からない。
先にこの家を出よう!
凛々子は立ち上がり、まだ捨てず部屋の隅にたたんで重ねている段ボールを手に取った。
そんなとき、玄関のチャイムが鳴る。
どことなく花のような匂いがふうっと漂ってきた気がする。
早紀が来たのか……? 幸樹の様子がおかしいと思い、原因は凛々子だと思って訪ねに来たのか?
だが、玄関の鍵が勝手に動く。
まだ、早紀にスペアのキーは渡したままにはしているが、それでも彼女は勝手に鍵を開けて入ってきたことなど一度もない。
それとも大事な息子が、あの叔母と彼女の兄の悲劇の再来が、姪と甥の間に起きると危惧してきたか……。
凛々子が一番最初に危惧していたこと。
早紀は大丈夫と言ってくれたが、彼女もやっと心に押し迫ってきたかと、凛々子は目をつむり覚悟をした。
「なにやってんの。ママ」
だが目の前に現れた花の匂いの主は、なんと……『義理の娘』だった。
「美紅ちゃん!?」
「きちゃった」
無邪気な笑顔を見せる娘を目の前に、凛々子は唖然とした。
彼女は東京の下宿先から大学に通う生活をしているのだが……。何故、この遠く離れた砂丘の街にいるのか!?
「美紅ちゃん、学校は!?」
「んー。まあ、いつもの如くというか」
「駄目じゃない!? ただでさえ時間が取れないのだから、『お仕事』がない時はちゃんといかないと、いつまでも単位がとれないわよ」
すると美紅はまた『んー』と唸りながら、ほんのりとしたチェリーブラウンの髪をくしゃくしゃとかき上げる。
こうしているとそれほど歳も変わらない従姉妹同士であるのに、美紅は凛々子から最もらしい小言を聞いても、拗ねたり言い返したりすることはままあるが、それは普通の子供がみせる反応であって、決して『あんた従姉で、継母じゃん!』とそちらを持ち出してごねることはない。むしろ、何処か家を守る専業主婦という立場と役割に徹してきた凛々子のその感覚が馴染んでいるのか、きちんと言うことは正面から聞いてくれた。
それともうひとつ。凛々子は、美紅がやりたいと言い出したことを、後押しし、彼女の夢を叶えてあげる応援をしてきた。
自分がそうだったから、そしてそうできなかったから。美紅には、枠に縛られない自分らしさで生き生きと青春を生きて欲しかったのだ。危なげなこともありハラハラすることもある。だけれど、凛々子は美紅を信じて、見守ることに徹し、美紅が助けてと胸に飛び込んできたら大いに守る意欲をここぞとばかりに発揮した。そうして出来た関係がある。
凛々子よりもすらっと背が高い。
そして均等の取れた長い手足、引き締まったウエストに程良い大きさのバスト。
なによりも彼女の着ている服は『最先端』の流行を着込んでいる。シンプルなジーンズの上に、小花プリントのシャツを羽織っていても、大きく開けている胸元から見え隠れする白いレエスは下着のようでそうでないお洒落なビキニビスチェ。そして誰もかぶっていないような大きなキャスケット帽。どことなく個性を取り入れている彼女は──『モデル』をしていた。
ちょうど、この美紅と同じような女子大生がこぞって購読するファッション雑誌の表紙を何度も飾る程の売れっ子になっている。何年かかっても大学は卒業するという条件で、凛々子は許したが。やはり実父である拓真は猛反対した。──たぶん、この子の生母である亡くなった叔母の『緋美子』も、生きていたら反対しただろう。当然、親子ほど歳が離れている凛々子と拓真の間でも論争は続いた。だが、最後に凛々子が強引に美紅の背を押し『思う存分やりなさい』と、後押ししたのだ。しかし、不思議と拓真はそうなると腹を据えたようにして、何も言わなくなった。そして凛々子を責めることもなかった。
『血筋なんかな……』
『やめて……』
先ほどは拓真が実父と説明したが、実は美紅は拓真の子ではなかった。
緋美子の子であるのは確かではあるのだが……。
「いいわ。せっかく来たのだから、今夜は一緒にご飯を食べましょう」
「やった〜! だって、もうずうっとリリママのご飯食べていないんだもん〜」
途端に美紅は、自分より小さな凛々子に抱きついてきて、甘ったれた声でごろごろとしてくる。
凛々子もそっと目を閉じ、柔らかく美紅を抱き包み込む。どんなにとびきりの気取った女の子の格好をしていたって、彼女だってまだまだ子供なのだ。
彼女はいつもこうして甘え、頼ってきてくれた。
当然、凛々子には可愛い存在。かけがえのない家族。拓真と血のつながりがなくても、この緋美子の姪である凛々子とはちゃんと血が繋がっているのだ。ううん──血のつながりなんて私達『鳴海一家』には関係ない! 拓真が大黒柱で、凛々子はそこの妻で母で、そして息子と娘。ただそれだけ。それだけで、ちゃんと普通の家庭生活を築いてきた。
なのに、突然、あの大黒柱が『逃走』したのだ。
・・・◇・◇・◇・・・
「ねえ、お父さんは今、どこの消防署にいるの?」
「うん……。この近所なんだけれど、でも歩いて行くには遠いかしら?」
凛々子がこしらえた夕飯を、キッチンにあるダイニングテーブルで向き合って食べている。
美紅は『美味しい、美味しい』と、もうとろけそうな笑顔で喜んでくれ、途端の一人暮らしを始めていた凛々子には久しぶりにホッとできる団欒だった。
「地図を書いてあげるから、明日にでも顔を見せてあげたらいいわ。きっとお父さん、喜ぶから」
「そうかな」
いつも太陽のように明るい美紅。なのに、拓真のことになると時々、そうしてしおれる顔を見せる。
凛々子は拳を握って言う。
「タクは、美紅ちゃんが生まれた時から『パパ』だったわ。ううん! 生まれる前からよ!」
「うん……。分かっている。でもね、時々、思うんだ。リリちゃんとタクは、すっごく愛し合っているのに。むしろあのタク父さんの方が、リリちゃんにぞっこんだって思っていたのに。なのに急に逃げるように、レスキュー隊まで捨てて出て行っちゃったんだもの。お父さんは、凛々子とはやっていけなくなったとか言っていたけれど、でも、本当はそうじゃなくて、私のこと──『この家から巣立ちして、やっと肩の荷が下りたんじゃないか』とか。よく考えれば、うちって相当複雑な家だから。単純なお父さんには、やっぱり普通じゃなさ過ぎたのかも──」
「……美紅ちゃん」
いつにない美紅の思い悩みように、凛々子は驚き、そして言葉が出なくなる。
実は美紅は、既に自分が拓真の娘でないことは知っていた。
だけれど、拓真は本当に彼女が『先妻の緋美子』のお腹にいる時から『俺の子供』と豪語していたし、美紅だって本当に『私は、お父さん子』と自負するほど、拓真になついていた。そしてそれを知ることになっても、拓真は『お前は何があっても俺の子だ』と言ったし、『お前の死んだ親父ともそう約束した』と言い切ったし、美紅はそんな真っ直ぐな拓真の父性愛を何とも変わらずに受け止めてきた。父子の関係が歪むことはなかった。それは拓真だけじゃない、父親違いである長男の『一馬』だって、本当の妹として『お前は今まで通り、帰ってくる家は俺と同じだ』と──。
一家は安泰だった。幸せだった。
ところが──あの熱血で真っ直ぐで燃えるように突き進むあの拓真が、『逃走』。何事も当たって砕けて、ぶつかってみないと分からないじゃないかと『俺に逃げ道無し』と言った一直線の生き方をしてきたあの逞しい炎のような男が、『逃げた』のだ。
あの時の、凛々子を始めとする子供達の驚きとショックは計り知れない。
『ううん。なんとなく、私が原因だって分かっていたのよ』
凛々子は子供達にそう言って、何が原因であるか不安がらせないようにした。
少なくとも『夫婦の問題』とすれば、子供達はまだ納得できそうだと思ったのだ。それに二人の子供だって、子供と言えども成人した青年と成人を迎えようとしている娘。ある程度は理解できるはずだ。
だが、本当のところ、凛々子も『何故?』と思っている。
本当になんの前触れも無しに、密かに準備をしたかのようにして拓真は『転属する。この家を出る。凛々子とは別れる』と言いだし、凛々子には有無も言わせない状態で、生まれ故郷であるこの砂丘の街へと行ってしまったのだ。
凛々子は子供達に言う。
『私が、なんとかするから。貴方達は自分達のすべき事をしなさい』
長男の『一馬』には、消防学校に行くように。
そして長女の『美紅』には、仕事と学校をきちっと両立するように。
二人の子供は不安そうな顔をしながら、拓真を追いかける決意をした凛々子を東京の自宅から送り出してくれた。
だけれど、凛々子がなかなか帰ってこないので、さすがに女の子である美紅は不安に思ったのだろう。
そして彼女は、そうして形だけの両親であろうとも、何故こんな事になったのかと思い悩んでくれているうちに、やはり『本当の娘ではない私が原因なんだ』と思ってしまったのかも知れない。
きっと、その思いが募って、この遠い日本海の街に来てしまったのだろう。
凛々子は席を立ち、向いにいるしょんぼりとしている美紅の元へ行き、その腕に胸いっぱいに抱きしめる。
「美紅ちゃんのせいじゃないのよ。本当よ。だって私は来てくれて嬉しいし、きっと拓真も……。明日、会いに行ってみなさい。お父さん、きっと喜んでくれるから」
美紅は途端に泣き出し、凛々子の胸にすがってくる。
涙声で彼女は頷きながら、『うん。明日、お父さんに会う』と言った。
「ママは? ママはもう会ったの?」
雑誌で皆の羨望の眼差しを集める美貌など何処に隠してしまったのかと思うほどに……。美紅はすっかり幼児返りをしたように、凛々子の胸にしがみつきながら聞いてきた。
「会ったわ。何も変わらなかったわよ。相変わらず、騒々しいお父さんだったわよ」
「でも、駄目だったの?」
「……まだ、ゆっくり話していないの」
「相変わらず、忙しいんだ。仕事一番だもんね」
『そうね』と凛々子は笑う。
それでも、拓真という男はどんな繋がりであろうと、家族として一人一人を大事にしてきてくれた。
そしてこの美紅も『仕事第一』である義理の父親を尊敬しているのも、彼が決して仕事だけの冷徹な男ではないからだ。
そう、彼はとても熱くて純粋で……。
いつまでも少年のような人で、若々しい。
私達は、彼を同じように愛している。
一家の父親として、凛々子はさらに夫として。
美紅は気持ちが落ち着いたのか、またいつもの愛らしい顔で夕食の続きを始める。
凛々子も向いの席に戻り、そんな娘をほっとした気持ちで眺め、見守る。
だが、越してきて一ヶ月経っただろうか? 拓真と会ったのは、あの時、凛々子が高熱を出して駆けつけてくれた時だけだ。
消防署で、若い隊員の面倒を見ているという彼の仕事の邪魔はしたくはない。だが携帯電話の番号まで変えられてしまい、本当に切り捨てられた形になっている。あの拓真がこうまでするのだから、余程なのだろう? 凛々子は今は攻め込むことはしないで、一呼吸置いている段階だった。
そしてとりあえず心穏やかに過ごそうと思っていったら、あんなふうに──幸樹と、あんなふうに……。
すると美紅が思わぬ事を言いだした。
「安心した。ママがやっぱり、タク父さんの事を愛していて」
「え?」
「だって、見ちゃったんだもの」
凛々子の胸が爆発しそうにドクドクと動き、さらに顔から火が出そうなほどに、かあっと火照った。
その思いは的中した。
「ちょっとの間に何があったか知らないけれど、あの『幸樹さん』と『まさか、惹かれ合っちゃったのかな?』なんて。でも、ママ、ひっぱたいていたし」
「え、ええっと、あ、あれはね? 美紅ちゃん」
「大丈夫よ。ママと幸樹さんなんて絶対有り得ないもの。だから、私、彼に言ってやったの」
「な、なな、なんて?」
「ママはタク父さんにぞっこんなんだから、百年早いってね」
凛々子は、あの場面を娘に目撃されただけでも顔面蒼白……いや顔面炎放出の思いなのに、娘がなんとあの幸樹と対面し、『初対面』でなんと『百年早い宣告』をぶちかましていたことに、気が遠くなりそうになった。
「そ、そうなの。ふふ……み、美紅ちゃんらしいわね」
「もっと落ち着いている『従弟』かと思ったのに。ちょっと、がっかり」
そう、幸樹と美紅は『いとこ同志』にあたる。
つまり、美紅は早紀の……長谷川家の血を引いている。
拓真の先妻であり凛々子の叔母でもある『緋美子』。そして業火の中で彼女を道連れに亡くなった『早紀の兄』──『正樹』。
美紅はその間に出来た子供だったのだ。だから、美紅は『早紀の姪』にもなるのだ。美紅が訪れた時、花の香りが漂い、この凛々子が『早紀が来た』と思ったのも、二人が同じような美貌をもつ『花』だからだ。
今、ここでその『緋美子』がどのような人生を送ってきたかは、凛々子の口からはあまり語れない訳もある……。
だが、美紅はもう、それはよく心得ている。
知らないのは幸樹。
彼はまだ何も知らない。
そして『凛々子の正体』も、知らない。
凛々子は願う。
『緋美子』の姪である自分と、『正樹』の甥である幸樹が、二の舞にならないようにと……。
火の中で死を遂げた二人のように、惹かれ合ってしまう何かがあっても、共になれば負を生む強すぎる運命を生んでしまうこともある。この二人がまさにそれだった。
凛々子の感は、凛々子は叔母に通じすぎているし、幸樹はあの正樹の匂いにそっくりだ。それが凛々子が懸念していること。
明日、早紀に言わねばならない。
凛々子は心に決めていた。