あれからちょっぴり毎日が楽しくなってきた気がする。
だけれど、時々、落ち込む。
さらに、色々思い巡って一喜一憂。
誰にも言わない。
俺だけが知っている気持ち。
知って欲しい相手には、一番知って欲しくないような。けれど早く気がついて欲しいような、言ってしまいたくなるようなそんな気持ち。
『恋』の理屈は分かっていたつもりで、よその女子校の生徒とか、ワンクラス上の女子大生と『ゲーム感覚』で恋人をやってきた。
そういうものなのだと思っていたし、片思いで何日も進展しない恋に思い悩むなんて『あんな簡単な事なのに、堂々巡りのように思い悩んでいるなんて時間が勿体ない』とも思って馬鹿にしている部分があった。
だけれど幸樹は青空に向かって心で叫ぶ──『俺、間違っていました。謝ります!』。
仲間には絶対に見せられない姿と、聞かせられない言葉だった……。
今日も学校が終われば、薔薇の家に直行だ。
それも直行してきた事がばれない程度に、さりげなくあの家の前を通るのだ。
それに近頃はちょっと気持ちも軽くなっている。何故なら──その家の前を通れば、大抵は彼女に会えるからだ。
彼女は庭の手入れをしていたり、掃除をしていたり、あの外のテーブルでお茶をしていたり。時には母が訪ねていて、二人でお茶会をしている時もある。そんな時は母に声をかけられてそっぽは向けるのだが、母の『幸樹もいらっしゃい』というからかいじみた声が聞こえたら、『しかたねえな』と言う顔を作って彼女の庭にお邪魔したりして……。母と彼女の女性の話を無言で聞きながら、同じお茶を味わったりもした。
女のかしましい話。特に訳の分からない母の話し方には苛々することもあったから、おばちゃん同士の話は敬遠してしまっていたのに、凛々子と母の話はどこかかしましくなくて……聞き心地が良いのだ。
いや……言い換えよう。どんな話だって良いのだ。凛々子の声が聞けるなら。ただそれに耳を傾けて、聞き入っているだけだ。お気に入りの音楽を何度もリピートして聞くように、彼女が何を話しているかなんて関係なく、ただそのしっとりとした声色を堪能しているのだ。
『よかったら、食べてね』
その母と同席した日は、帰りに残った菓子を包んでもらった。
彼女が焼いたというクッキーだった。
まるで子供扱い。やっぱり子供扱い? だけれど、何故か嬉しい好きな女性の手作り菓子。
素直にもらった幸樹のことを、母はまた笑うのだけれど、幸樹は今度はムキにならずに……『無視』することにしたのだ。
そのクッキーを自分の部屋で、少しずつかじった。
美味しい。その時、幸樹の脳裏にあることが浮かんでしまった。
(彼女の大きい子供も、こういうのいつも食べていたのかな?)
母親の早紀が何かを作ってくれても、今は興味ないようにやり過ごしてしまうのに。
そんな彼等が少し羨ましくなってくる。
彼女の手料理とか、手作りの菓子とか、さらにはあの優しい笑顔の愛情を一心に受けていたのだろう。
そして──あの拓真も。
幸樹は、そう思うとちょっと胸が苦しくなって、苛ついてきて。大事に取っておこうと思うクッキーを一気にガツガツと食べてしまった。
そんな日々。
──今日は彼女はどうしているのだろう?
薔薇の家の前にやってきて、幸樹は胸の高鳴りを押さえながら、そっと庭を覗く。
「お帰りなさい、幸樹さん」
彼女は薄紅色をしている大輪の薔薇の植え込みの影にいた。
庭の手入れをしていた母がそうしていたような日射しよけの帽子ですっぽりと頭を包み、若さなどどこにかに隠してしまったかのような『おばさん的』な庭仕事の格好をしている。その上、その植え込みの影で、大輪薔薇の根元の土を軍手でいじっている。その顔は『幸樹さん』と言ってくれたのに、上を見てはいず、土ばかりを見ているのだ。
「凛々子さんの気配読みが凄いのは分かったけどさ。そこにある気配が見て確かめもしないのに、俺って判るのかよ?」
白い柵の外側から、幸樹は凛々子に声をかけた。
凛々子がやっと顔をあげる。
「幸樹さんの気配なら、もう判るわよ。判る人の一人になったと言えばいいかしら」
ほっかむりのような帽子に包み込まれた彼女の顔が、にっこりとした笑みを見せてくれる。
彼女がもう一度、『お帰りなさい』と言ってくれた笑顔に、幸樹はもうそこから動けなくなった。
ただそこに来ただけで『幸樹が来た』と判ってくれること、それだけで嬉しくて堪らなかった。だけれど、それが素直に顔には出せない。出したくない……。
本当は彼女が『幸樹』だけでなく、俯いていてもそこに誰が来たかと言うのは判ってしまうだろうことは幸樹も予想している。きっと母の早紀がそこに来ても、彼女は気配だけで『早紀さん、いらっしゃい』と言うのだろう。そしてもっと言えば、きっと彼女はあの『拓真』が来たら、一発で当てるだろう。それどころか、彼が来たなら、目の前に来た時でなく『手前』で分かってしまうほどに、愛している夫に関しては神経を勘を研ぎ澄ましているのではないだろうか。
そう思うと、また何とも言えない苦しい気持ちになる……。
でも、まったく感じてくれないよりも、そこに立っただけで『幸樹が来た』と判別してくれるレベルで、彼女の中に存在できていることは、セーフで嬉しいに変わりなかった。
彼女が立ち上がり、額の汗を軍手の甲で拭っていた。
少しばかり、彼女の額に土が着いてしまい、幸樹は顔をしかめる。
「そんな格好、やめろよ。庭の手入れなら、うちの親がしているんだから。また倒れたらどうするんだよ」
と、言うよりかは……。若い彼女にはそれなりに綺麗でいて欲しいというだけの理由で止めているのかも知れないと幸樹は後から思う。
そしてやっぱり彼女はそんなことを言う幸樹に呆れた顔を見せていた。
「なにを言っているの? この家を愛してくれている人の言葉とは思えないわ」
その言葉は、思った以上にぐっさりと幸樹の胸に突き刺さった。
彼女を心配して言ったつもりもあるし、彼女にはそんな手を汚すようなことをして欲しくなかっただけのことで言ったのだが、その言葉により『この家を愛していない』言われたことの方が、ショックだったのだ。
だけれどそう言った彼女も、直ぐに申し訳ない顔を幸樹に見せていた。
「ご、ごめんなさいね。私のことを心配してくれたのに……」
「いいや。俺……」
「分かっているつもりよ。幸樹さんはこの家が大好きなのよね」
また、彼女の語りかけてくる柔らかい声に答えられなくなる自分が情けなくなってくる幸樹。
どうしてなのだろう? 同世代の女性達とゲームのようなことを『恋』と思って楽しんでいた時には、こんな会話に詰まるだなんて事は一切なかった。
だけれど、今の幸樹なら言えることがある。それは『良く聞く会話』、『用意された会話』、『大人達が見せていた良くある光景の真似事』を背伸びをするように『演じてきただけ』なのだと。それを演じることで『大人ぶっていた』だけなのだと。一皮剥けば、幸樹もこんなもの。
──恋をすると何も出来なくなり、なにかにつけて自分は格好悪いと思ってしまうもの、なんだって。
凛々子に出会って初めて知った。
彼女は見るからに、幸樹の周りにはいないずうっと大人の女性だった。
と、近頃思うようになって、幸樹にはここ最近、一番気になっていることある。
(彼女……。いくつなんだろう?)
知り合ってから見れば見るほど、彼女は年齢不詳なのだっ!
幸樹の予想では、二十五、六歳……いや、あの落ち着き方は二十八歳!? それでも歳の差なんて関係ないと思うこの頃。だけれど彼女の肌とか顔立ちとか見ていると、幸樹とそれほど離れていないと思う。この前、旦那が駆けつけてきた時に『大学の研究室を何故辞めてきた』と言っていたから、それぐらいの勤めをする年齢なのだろう? に、しても彼女はその二十代に見えないほどの落ち着きを度々見せる。特に母親の早紀と向き合って話している様子からも、彼女は決して浮ついていないし、落ち着いて堂々としていた。そして母もまるで対等のように認めている節があり、そこが不思議に見えるのだが、ともかく彼女はそういう大人と渡り合うのは慣れているふうに見える。やはり? あの年が離れている夫と生活してきたせいなのだろうか? 妻とか母という役割をこなすうちに、若い女性もそのような顔つきになってくるのだろうか?
ともかく、二十代に違いないだろうに、彼女は少しばっかり落ち着きすぎている気がする。
流行の華やかなファッションでもない。けれど、自分に似合うもの、着慣れるものを良く知っていると言った感じだった。その通りに、彼女が着ている服を見て、幸樹が『変なの』とか『似合わない』とか思ったことはない。これは恋は盲目視点ではないと……思う……が、幸樹はそう思っている。
それにまた凛々子に怒られるかも知れないが、遊び盛り、お洒落盛り、の世代のはずなのに、そうして庭仕事をしている母と見間違うような野良仕事の格好を平気でしてるし……。年頃の割には、その年頃が躊躇ったり敬遠することを平気でしている気がするその感覚とか性格が良く解らない。そんな彼女の暮らしぶりを見てると、『本当に二十代?』と思いたくなる時もあるのだ。若い幸樹の未熟な目線のせいなのだろうか?? ともかく、『不思議』なのだ……。
そんな彼女が庭仕事用に着ていた割烹着のような上着を脱いだ。
「喉が渇いちゃった。お茶にするけれど、幸樹さんもどう?」
「いいのかな?」
本当は二つ返事でこの柵を跳び越えたいところだけれど、とりあえず……間を挟んで聞いてみる。
彼女は『当たり前じゃない』とでも言いたそうな笑顔だけを見せてくれた。
幸樹はニンマリしたい頬を堪えながらも、心では喜んで白い門へと向かい庭に入る。
彼女は脱いだ上着と帽子を、窓を開け放しているリビングに放り、やっといつもの姿を見せてくれる。
今日は白いカットソーとジーンズ。なかなか、今日は年相応のような『女の子らしい』格好をしていて、幸樹は満足。
その彼女に見とれていると、彼女はリビングに上がる前に庭にいる幸樹に振り返る。そして、庭にある白いテーブルを指さした。
母と凛々子が近頃お茶をしている庭のテーブルだ。
「そこに座っていてね。いつものようなお茶で良い?」
「いいよ。俺、カフェに行ってもああいうの頼むよ」
「カフェ? 幸樹さんはそういうところに行くんだ」
「凛々子さんは行かないのかよ?」
「あまりいかないかな? 家にいることが多いから」
まただ。カフェなんて年頃の者なら誰だって行くだろうし。
凛々子のような女性なら、年齢関係なく行く場所だろうに……。
なんで彼女の話を聞いていると『世間とずれているなあ』と思ってしまうのだろう?
それとワザといかないのか。家にいたい性分なのか、訳があるのか?
(今度、誘ってみたら変か?)
幸樹なら好きな女性と日曜日の昼下がりに、落ち着くカフェで一緒にお茶をしたいと思うけれど……。
いや、待てよ? お茶なら彼女と何度か『ここ』でしているじゃあないか?
そうだ。『俺達』にとっては『ここ』が最高の場所なのだ。この家の庭、近所の誰もが溜息をこぼすほどのこの薔薇庭で、芳しい香りと清々しい風に包まれて飲むお茶は、ここの住人でなくては出来ない贅沢だ。そしてその『贅沢』を幸樹は幸運にも日常で体験してきたのだ。このような最高の場所で、気になる女性が淹れてくれるお茶で時間を楽しむことが出来るのは、流行のカフェにも勝るじゃないか。最高の時間じゃないか……。
だから、彼女は行かないのだろうか? カフェという場所に……。
白いテーブルに座ったまま、幸樹はそう思い、この庭の風を胸一杯に吸い込んでいた。
幸樹の目の前には、彼女が手入れしていた薄紅色の大輪薔薇が揺れている。今年も見事に花開いたようだ。
「おまたせ。この前、気に入ってくれたお茶よ」
幸樹の前に、冷たそうな水滴をつけている細長いグラスが置かれる。
母とお茶をしていた時に、凛々子が作ってくれたものだ。母と彼女は真っ赤な薔薇の実のお茶を楽しんでいたが、幸樹は男性だから……と彼女が作ってくれたのがミントの香りと風味のあるダージリンアイスティーだった。甘くはないそのお茶は、ミントのすっとした清涼感とダージリンの芳醇な香りだけで飲むさっぱりとしたもので、フレーバーティーとしてはとても飲みやすいものだった。これなら幸樹も飲めるし、楽しめた。それから気に入っていたのだ。
「やった。俺、本当に気に入ったんだ。この前、友達と行ったカフェにはなかった」
「ところによってはあると思うわよ。私も昔、喫茶店で飲んでから試したのだから」
──喫茶店かよ?
カフェでなく喫茶店と言う彼女。
本当にどこかが古風なのだ。
昔っていつだよ?
幸樹はちょっと憮然としてしまうのだ。
「なにを拗ねているの?」
「だってさ。凛々子さんって俺とそう年は変わらないと思うのに、なんだか古風なんだよな」
「……ああ、そういうこと」
彼女も『喫茶店』と言ったことに気がついたようだ。
悪気はなかったのに、彼女が急にやるせない表情になったので幸樹はドッキリとした。
「あ、別に。言い方なんてどうでも良いと思うよ。言いやすいだけなんだろう? ああ、そうか! おじさんが旦那さんだとそうなっちゃうんだ? うちの母ちゃんも喫茶店っていうもんな」
彼女の夫を引き合いにだしたのは、シャクだったが、それでも幸樹は必死になって取り繕う。
「そうね、きっとそうなんだわ。でも、やっぱり『カフェ』って言った方がいいのかしら。私の歳だと笑われる?」
ちょっと気後れした彼女の顔は、なんだか真剣に幸樹に尋ねているようで、幸樹はさらにドキリと固まってしまった。
「わ、笑わないよ。少なくとも、俺は──。うん、そりゃ、皆が『カフェ』と言うから、変わっているなとは思うけれど。笑わないよ」
「……有難う」
彼女は笑ってくれたが、でもちょっと元気のない顔になってしまった気がする。
せっかく作ってくれたお茶を彼女の優しい笑顔で楽しもうと思ったのに……。幸樹は余計なことを言ってしまったと後悔してしまった。
その間をやり過ごすようにミントティーを味わうのだが、いつものように味わえない雰囲気。
けれど幸樹の目の前に、同じお茶を置いた彼女も腰をかけ、ミントティーを味わい始める。
その彼女が急に、溜息混じりにぽつりぽつりと話し始める
「実は、私ね。高校に行かなかったの」
彼女が言いだしたことに、幸樹は驚き、彼女をまじまじと見てしまった。
「で、でも……この前、大学の……って。そういうのって大学生じゃないと」
「大検を受けて、大学に入ったの。早紀さんから聞いた? 私、十六歳になってすぐに結婚したの」
十六歳──!?
彼女が結婚したとしても、つい最近だと思っていた。
彼女と拓真は『別れる、別れない』みたいな話をして彼女はいつもの落ち着きなんかぶっ飛ぶぐらいに取り乱してたから、もしかしたら『歳の差』が原因で破綻寸前なのかと、一人で勘ぐってもいた。
だが彼女が十六歳で結婚したなら、もう、かなりの年月が経っていることにならないか!?
彼女がもし二十八歳なら結婚して十二年!? だとして……? そんなことをぐるぐると目が回りそうなほどになった幸樹は、あれほど躊躇っていた疑問を彼女にぶつけていた。
「り、凛々子さんって今、何歳?」
「え……? 二十三歳……かな?」
うっそだろうー!? と、幸樹は叫びたくなった。
じゃあ、あの旦那とは……七年? それでも七年も連れ添っていたのか! とか。それでも五つ年上か! とか。いや、思った以上に若かったことの方がショックのような、嬉しいような!? もう心ははちゃめちゃにかき混ぜられていた。
その間にも凛々子がやるせない溜息をつきながら教えてくれる。
「それで家庭のこと、つまり主婦に専念したの。これも聞いたかしら? 彼の前の奥さんの子供は、私と歳が少しか変わらないし『いとこ』になるのだけれど、私が家に入ったから良く頼ってくれて……」
「どうして!? 学校に行きながらでも、家事は出来たんじゃない?」
「そうね。でも……私は彼の妻でいたかったし、子供達の母親にはなれなくても、お世話をしたかったの。それに身体も弱かったから……」
身体が弱かったと言うのを思い出し、幸樹は『ああ、そうか』と頷いた。
それに母の言葉も思い出した……。
──『彼女には彼女が決めた生き方があるの。それがたとえ、同世代の幸樹には分からないことでも』── 急にこの言葉が浮かんで離れなくなった。
「だからなのかな? 私はちょっと同じ世代の子達とは、ずれているの……」
凛々子が笑う。
だけれど、彼女はもうなにも気にしていない顔をしている。
そこまで幸樹に話して、自分自身で『やっぱり私はこの生き方で良かったのだ』と再認識し、それを誇りに思えている笑顔に見えた。
その時、ざあっと風が吹いてきて、薔薇の低い木と蔓と葉と花が一斉に揺れた。そしてその風に乗って、二人が向かい合っているテーブルにもこの家の者だけが堪能できる『芳醇な花の香り』に包まれる。
その風の中、やってきた香りの中で、彼女が深呼吸をしている。
彼女の影ある顔が見る見る間に、明るくなり、庭にある花に負けない紅色を頬に差し始める。
──それだけなのに、彼女が綺麗で幸樹は見とれてしまっていた。
そして幸樹も、詰まらないことを言った後悔がざあっと流されていくのだ。
やがて彼女とそれだけで微笑みあっていた。
薔薇の香りが成せる二人だけの時間のよう。
その彼女が、グラスに差しているストローを回しながら、幸樹に言い出した。
「幸樹さんはこの家、大好き?」
「え……。うん、まあ……好きかな」
「安心してね。私、もうすぐ出ていくから。そうしたら二度と戻ってこないと思うから。早紀さんに今まで通りに『叔母のこの家』を守ってもらおうと思うの。ううん……今度こそ、早紀さんさえ良ければ譲るつもり。そうしたら、お母様は、いつかは幸樹さんに譲ってくれるわ。私からもそう言っておくからね。この家を愛している人の手に渡るなら、私はそれでいいの」
幸樹は固まっていた。
それはつい最近まで、彼女が突然越してきた出会った頃に幸樹が願っていたことだった。
なのに、彼女がそう言ってくれたのに、今の幸樹はちっとも嬉しくない! それどころか真っ白になるぐらいにショックだった。
彼女が出ていく……?
二度と戻ってこない……!?
そんな呆然としている幸樹に、彼女が呟いた。
「薔薇の手入れは難しいのよ。お母様、本当に良く守ってくれたわ。綺麗に眺めることが出来るのは、早紀さんがあの綺麗な手を泥だらけにして薔薇のお世話をしたからよ。それに薔薇も綺麗なままじゃない、いつかは朽ち果てる時も来るわ。それを幸樹さんには知っておいて欲しいの」
そして彼女は幸樹を真っ直ぐに見据えて、言い切った。
「この家を愛する者として、この家を守る者として」
お願いね……。
彼女の最後の一言は、哀愁に満ちていた様な気がする。
でも幸樹を見る目は真剣だった。
なんだか衝撃的だった。
彼女がここに居続けるつもりがないこと以上に、彼女がどこかへ消えてしまうようなそんな『危機感』が幸樹に迫ってくるようで……。
・・・◇・◇・◇・・・
あの後、彼女のお茶を心あらずという呆然失意のような状態で、すするだけすすって『じゃあ、また』と力無く、今の家へと帰宅した。
二階にある広い一人部屋。
一人っ子の幸樹だから、広々と使わせてもらっているこの部屋で、幸樹はベッドに横たわる訳でもなく、制服も着たままで机に座っていた。
そしてそこで悶々と考えていた。
嫌だ、嫌だ。
凛々子がいなくなるなんて、嫌だ!!
心が叫んでいる。
幸樹の心がこんなに取り乱した事なんてなかった気がする。
全部、凛々子のせいだ。
彼女が来てから、心の起伏は激しいし情緒だって乱れっぱなしだ。だけれど些細なことが、空の青さとか、風の匂いとか、日射しの色とか、雨の日の景色さえも、なにもかもが綺麗に見え幸樹の心を弾ませていた。つまりそれは今までにないほどに『楽しい日々』だった。
それもこの頃、自覚し始めたばかり。自分でも認めている!
凛々子が好きだ。
俺は彼女に恋している。
だけれど、それを押さえてしまわねばならない切なさだってあるし、幸樹だってそれほど子供じゃない。
彼女には愛している男性がいる。
彼女には、彼女自身が愛している家族がいる。
彼女はあの歳が離れている旦那を、仕事を捨ててまで追いかけてきたのだ──。
きっと幸樹が、彼女のその情熱的な心に入る隙間など、少しもないはず。
それなのに何故なんだろう?
彼女が恋しい。彼女の笑顔をみていたいだけなのに。
それなのに、諦められなくて。その想いは日に日に強くなっていく……!
(駄目だ……! このままじゃ、俺……)
そのうちに、彼女を抱きしめたくなるだろう。
ベッドでどうとか、肌とか、彼女の裸とか、それ以前のこと。
──ただ、抱きしめたい。
あの優しい微笑みで、しっとりと落ち着いている彼女は、抱きしめたらうんと柔らかそうだ。
それならば、いっそ……!
彼女が言うように、彼女が目の前からいなくなってしまえば……。
暫くは苦しくても、忘れられる日々がやってくるのだろうか!?
それならば、彼女を見送ってしまえばいい!
「違う! 違う! そうじゃない!!!」
幸樹は勉強机の上にまとめていた教科書やノートを、ザッと払いのけ、床へと落としてしまった。
そのままその机に突っ伏した。
「違う……。もう彼女じゃなくちゃ駄目なんだ! あの家には……」
あの薔薇の家が欲しい。
幸樹がずっと願っていたことだ。
彼女は幸樹の望み通りに、あの家を譲れる者、守ってくれる者と認めてくれた。
……彼女はいずれ出ていき、二度と戻ってこないと言う。
その後、母と一緒にあの家を守っても、きっと幸樹の心の中には『この家に一番似合っていた女性』をずっと忘れずに、それどころかいつだって思い出してしまうだろう。
あの家は、もう……。あの家にはもう『凛々子』という女性が住み着いているのだ。
幸樹にとって、あの家に彼女がいてやっと! 『薔薇の家』になるのだ。もう、手遅れなんだ!
──『私、私……貴方とは別れない。絶対に別れない!』
──『駄目だ、リコ……。俺なんか、駄目だ』
──『拓真──。愛しているの!』
──『リコ……。すまない、すまない、本当に』
二人は夫婦だけれど。
何があったか知らないけれど。
幸樹の心に、大きな炎が燃え上がる!
そのまま、また部屋を飛び出していた。
そして家を飛び出し、一直線に薔薇の家に向かっていた。
外は既に夕暮れていた。
オレンジ色に染まる雲と、まだ少し青さを残している夕空。
薔薇の家の白い柵までくると、丁度、凛々子が水をまいているところだった。
だが、今度の彼女は真っ黒なワンピースを着ていた。
まるで喪服のような……。
そして今度は、幸樹が来たことに気がついてくれなかった。
様子も少し違うように見える。
夕暮れの優しい風に、その喪服のようなワンピースの裾がふんわりと広がり揺れている。
その中、彼女は虚ろな眼差しで、ひたすら薔薇庭に水をまいているのだ。
まるで何かの弔いのようにも見え、そして、幸樹はその姿に胸迫るものを感じずにはいられなかった。
「凛々子さん!」
いつも彼女が気がついてくれるか試しているようなところがあった。
でも、今度は自分から『俺から来た』という意志を伝えるように、白い柵から叫んだのだ。
凛々子も直ぐに気がついてくれた。
「あら、どうしたの? 忘れ物?」
いつもの笑顔を直ぐに見せてくる。
ホースの水を止めた彼女は、すぐに幸樹がいる柵に向かってきてくれた。
そして幸樹はその凛々子の姿に目をこする。
先ほどは喪服に見えたワンピースが、側に寄ってくると割と今風のシックなデザインのもので、彼女が急に華やかに見え始めたからだ。
どうしてだろう? こんなにシックでお洒落なワンピースなのに、なんでさっきはあんなに暗く喪服にまで見えたのだろうか? 彼女の様子も、とても重かったのに、今、目の前に来た彼女はいつもの大人っぽくてしっとりと優しい撫子の彼女だった。
その幸樹が恋した女性が目の前で恋した笑顔を見せてくれる。なのに……彼女の孤独な姿を見てしまった。
「どうしたの? まだ制服のままで。あ、分かった。あの後、また何処かに遊びに行ったのね? やっぱり忘れ物?」
幸樹にはいつでもその笑顔を見せてくれる。
だけれど、きっと彼女はそれだけじゃないんだ……!
幸樹は、部屋を飛び出して走ってきた勢いのまま、柵を挟んでそこにいる彼女に抱きついていた!
「……こ、幸樹さん!?」
「凛々子さん! 何処にも行かないで、この家にいてくれよ!」
「え……!?」
「この家は、凛々子さんじゃないと駄目なんだ!」
彼女をきつく抱きしめ、幸樹は心のままに叫んだ。
幸樹の肩先に頬が当たっている彼女は、きっと驚いた顔をしているだろう。それほどに驚いているようで、幸樹が抱きしめるほどに身体の力が抜けているように思え……。そして予想した以上に、やっぱり柔らかい身体だった。
「どうしたの? 幸樹さん。どうしてそんなことを言うの?」
幸樹が恋したその顔、声色、表情、雰囲気。そのままの彼女が幸樹の胸元から顔を上げ、訝しそうに顔を覗き込んでくる。
「い、いて欲しいんだ……そ、側に……」
違う! 幸樹の気持ちは後回し! ただ『この家に居て欲しい』。それだけを言いに来たはずなのに。
なのに、本心が口に出始めていた。
もう、どうようもない。今、幸樹の胸は空の夕焼けのように焦がれている。だって、あの大和撫子の顔が、あのふっくらとしている赤い唇が綺麗に幸樹の目の前にある。手の届くところ、唇の届くところ……。薔薇の香りの中に……。
ついに幸樹の手は、いつしか慣れてしまった『男の手つき』になっていた。
その手は彼女の顎を掴み、そして柔らかい黒髪をもうひとつの手に一杯にかき上げるように彼女の頭を抱き寄せ……。やがて彼女の唇の隙間から『ン・・』という声が漏れ聞こえた。それでも幸樹はさらにそこを強く塞いでいた。
彼女の身体も柔らかかったけれど、唇はもっと……とても、極上に、柔らかい。
「……だ、だめ。やめて・・」
彼女が幸樹を突き飛ばしたけれど、幸樹はやめなかった。
それでも彼女の唇を強引に塞いで、今度はこじ開けてしまっていた。
凛々子さん、恋しちゃいけないのかな。
だって、あの旦那。凛々子さんを捨てたんだろう? 捨てようとしているんだろう?
でも、彼女の彼を愛する気持ちを尊重するつもりだった。
なのに幸樹の心は、そんなコントロールが出来なかった。
いつしか慣れてしまっていたその恋遊びで覚えた口づけだったのに、今はこんなふうに、どうにもならない気持ちで彼女を愛していた。それが今までにした出来上がったようなままごとのような口づけとはまったく違う、熱くてとろけるようで、熱風にさらわれるようで、やめられないもので、とまらないものだったなんて……。初めてだった。
凛々子がそのうちに抵抗しなくなったことには気がつかなかったけれど。
やっと解放した彼女と見つめ合う。彼女の目が潤み、そして頬が染まっている。
確信する。その顔は、少なからずとも、幸樹を男として受けれてくれた顔だって……。その熱烈なキスを受け入れてくれた顔だって……。
そんな彼女に幸樹は言っていた。
「俺が凛々子さんを守る。この家ごと守る! 俺はまだガキかも知れないけれど、でも、卒業したらこの家に住む!」
──凛々子さん、一緒に、住もう!
素直にそう叫んでいた。
凛々子のとても驚いた顔。
だがやがて、彼女はとても哀しそうな顔になり、それ以上に涙をぽろぽろと流し始めていた。
「分かっているよ。俺だって……凛々子さんが人妻……」
そう言った時には、彼女の平手が幸樹の横っ面を叩いていた。
凛々子はそのまま幸樹に背を向け、薔薇の家へと走り去っていく。
リビングに駆け込むとそのまま窓を閉め、カーテンも閉めてしまった。
幸樹はその白い柵の前で、呆然とたたずむ。
そして自分も泣きたい気持ちになってくる。
自分の中にある彼女への気持ちをめいっぱいぶつけて、もう空っぽだ。そして思いっきり出した幸樹の初めての熱い思いは無惨にも散ってしまった。
もう、なにもないという、なにもかも失ったようなこの大きな喪失感はなんなのだろう?
「カッコワル。最悪だね」
そんな声が直ぐ側に聞こえてきて、幸樹はびくりとする。
横を見ると、そこには幸樹と同じぐらいの背丈があるすらっと長身の女が立っていた。
凛々子と違ってイマドキの弾けた格好をしている彼女は、きらきらとしたメイクを施した涼しげな目で幸樹を見ていた。
あんた、誰? と、言いたかったが声にならなかった。
「ま、あったりまえだね。うちのママにちょっかい出すなんて百年、早いよ」
「まま・・・?」
「凛々子ママは、うちの父親に惚れているのを判っていて、あんなことしたの? その度胸は認めても良いけど」
「アンタ、誰!」
判っていて聞いた。
凛々子をママと呼び、父親に惚れていると言った。
つまり……!? 彼女の『娘』!?
「鳴海美紅」
ミクという彼女も、あのお決まりのような一言を言った。
「案外、直線馬鹿だったみたいでがっかり。ね、『幸樹さん』──」
幸樹を一目見て、また『幸樹』と判る者が一人。
彼女の娘になんかあったことないはずなのに、この鳴海家の者は皆、一目見て幸樹と判る。
この一家はいったい……?
その前に、彼女の大きな娘がやってきた!?