-- 緋花の家 -- 
 
* 花にも色々あって *

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2-4 炎のスピリチュアル

 二十四時間体制の交替勤務。特別救助隊員もそのスケジュール。
 朝の六時に起床し、そして八時には大交替。
 そして非番となる。

 つまり、一日休みだ。

 昨日の夕方に訪ねてきた娘は、約束通りに消防署近くにある白い喫茶店にいた。
 拓真はそこで娘と一杯の珈琲を味わってから、薔薇の家へと向かった。

「ママにはなにも言っていないからね」
「そうか」
「わかるんだ、私。ママ、東京にいる時より、ずっと寂しい顔しているもん」

 今度は返事も出来なくなる父親。
 彼女の母親は、今、死んでしまった従姉凛々子の姿を借りているが、魂は間違いなく母親のままに存在している。
 子供達には『凛々子を妻にする』と告げた時に、従姉のこの身体の中身、魂は、死んだ母が戻ってきたもので『母親の緋美子は、従姉凛々子の姿で生きている』と告げた。
 その時の子供達はもう思春期の不安定な時期で、母親が突然、焼け死んだことだけでもショックだったろうに、それを告げるのは心苦しかった。だが次第に兄妹は、最初は呑み込めなくても、凛々子となった母親と数日暮らしていくうちに、すっかり信じてくれるようになり、『本当にお母さんだ』と泣いたものだ。
 その代わりに仲良くしていた従姉の死には気落ちしていたが……。それでもどのような状態でも母親が戻ってきたことの方が子供達には嬉しかったようだ。
 鳴海家の苦難はそこから始まる。しかしそれは『平穏な家庭』を守るための苦難。外では、母親のことは『従姉』と言い、その『従姉が父親の後妻』というだいぶ複雑になってしまった血縁関係に、時には友人達に『おかしな家庭』と突きつけられることもあったようだ。でも、子供達は耐える。『母親を失わないため』に。

「お父さんが、今は駄目だって言うならそれでもいいの。でも、ちょっとはママのことも考えてあげてよ。私、ママに帰ってきて欲しいけれど、ママが納得しないまま東京に帰ってきても困るから」

 やはり血の繋がった母娘だなと思った。母親を案ずる想うその気持ちがいじらしいあまり、だからこそ、拓真はそこで罪悪感も生まれもする。

 そんな娘の横顔は、亡くなった母親と雰囲気がかけ離れていると言えども、やっぱりふとした顔つきに女性らしい仕草は、拓真が愛した女性に似てきていた。
 ……だから、自分の子供でなくても愛せたのではないかと思う。【緋美子】の子だから。
 それにしても、何故、この娘が生まれることになったかは、時に思い返すと激しい炎のようなものが拓真の中で何年経っても渦巻くのだが、『拓真が聞かされた経過』を思えば、それは妻よりかは妻を奪った男『早紀の兄・正樹』へとその怒りの矛先は向く。
 隣にいる『お父さん』と慕い寄り添っている娘の顔は、間違いなく『長谷川の血筋』を濃く引いているのだ。だが、拓真がほっとするのはその父親というよりかは、あの華やかなお嬢様である早紀に似てきたとも思えることだった。

なるべく──そう思うことにしている。そうでなければ、拓真も一人の人間だ。娘は憎くなくとも、娘の向こうにどうしても許せない男の影を見てしまう。娘はあの『先輩』になんか似ていない。そうだ、あの華やかな妹の早紀に似ている。似てきた。そして『ミコ』の面影だってちゃんと引き継いでいる!

 そう言いきかせながら、ご機嫌な娘と共に薔薇の家に向かう。
 まだ朝、早い……。
 『リコ』、いや【ミコ】はまだ仕事は見つけていないようだから、今日も家にいるのだろう。緋美子の父親が『俺達夫妻』に譲ってくれた思い出の家。
 出会いもあそこだったし、愛を紡いだのだってあの家だ。幸せな日々を送ったのもあの家だ。だが、ある時にそこを捨てるようにして去っていった。この家に住みたかったと申し出てきた早紀に預けて、東京へと……。まあ、拓真の夢を叶えるために、そして【ミコ】にも夢があったから故郷を共に出たのだが。それはきっかけに過ぎず、本当の理由はあそこにいられなくなったからだ。
 ただ、あの家はいろいろあったが、やっぱり愛おしい場所。そこへ向かう足も少しは軽やかになる自分がいる。
 そしてやっぱり、目の前には艶やかな黒髪の愛おしい女の笑顔が浮かぶ。……その時はやっぱり『死んだ妻』の笑顔が先に浮かぶものなのだ。それだけじゃない。複雑なことに、本来愛している妻の笑顔を思い浮かべた後に、間違いなくすぐさま浮かんでくる女性の顔もある。『姪・凛々子』の笑顔だ。勿論、ここでは妻が姪の姿を借りて笑っているのだが、拓真はその姿を変えた女性の笑顔をすらも……。

「あっ。また来ている!」

 もうすぐその薔薇の家というところに来て、娘の美紅がなにか気に入らないような声を出す。
 拓真はハッとしてもの思いから覚めて、娘の声がなんだったのか彼女の視線の先を追った。

 早い朝──。
 薔薇の家の垣根に、制服姿の男子高校生が立っていた。

 幸樹だった。

 娘の美紅が、従弟となる血の繋がりのある青年を目にして、急に不機嫌になったその訳が拓真には分からないが、ともかくその『思い出の垣根』その位置に、あの麗しい早紀の面影そのままの青年が立っている。
 拓真がその昔。黒髪の美しい清楚な女性を見かけて、一目惚れし、そして落ち着かない気持ちを何日も何日も抱えては、その垣根を訪れ、黒髪の女性のスケッチ姿を垣間見ていた思い出の場所。
 それだけじゃない。そこに立っていたのは、拓真だけじゃない。
 あの『先輩』も、気のない振りをして、そこから密かに【緋美子】を見ていた場所。
 その場所に、あの男の面影を思い起こす『甥』が、その位置で薔薇の庭を見つめている。その熱く潤んだ目で見つめているのは、誇らしげに咲き誇っている薔薇じゃない。探しているものは同じだ。その家の中に咲いている『拓真の白い花』!

 その目。拓真には一目で分かる。
 どうしてなんだ。長谷川の男の宿命なのか。
 この薔薇の家の女に惹かれていくのは?

『俺と緋美子はスピリチュアルで生まれた時から結ばれているんだ』

 その昔、そこにいる青年の伯父が拓真に言った『言い訳』がそれだった。
 否定したい拓真の目の前で、それを証明するかのような出来事が二度も起こった!
 一度目はその身体を奪われ、二度目は命を奪われた! すべてを連れ去られた!
 それも二度目は妻からその男に引き寄せられるように駆けていって、命を落とした。
 現場に駆けつけた拓真が、二人が寄り添っている遺体を見つけた時のあの気持ち。あの気持ちは忘れない。忘れるものか!

 今そこに立っている青年は、妻の緋美子ではなく、姪の凛々子の色香に惹かれていることだろう。
 だがそのうちの気持ち半分は、中身の女性に惹かれていることも否めない。勿論、彼は何も知らぬところだが、中身が自分の母親と同い年の『親友』であった中年女と知ったらどう思うことだろうか?
 そう思うと、いくら十代の若青年と言えども、拓真の中に抗うことが出来ない業火が噴き上がる。
 しかし、それもこの歳になり、散々噛み砕いてきた今となっては、一瞬だ。
 目の前の青年の姿は、むしろ、一人の男として見守っていきたい尊いものへと変化する。
 拓真が業火を燃やし、焼き尽くしたいのは『スピリチュアル』とかなんとか訳の分からない理由で妻を奪い続けた男一人だ。

「ったく。格好悪いって言ったのに。懲りていないんだから」

 ふと気がつくと、娘はやっぱりご機嫌斜めのまま。

「美紅。もう、幸樹君には会ったのか?」
「え!? う、うん。来た時にね。ちょこっとだけ。『そこにいたから』。凛々子ママに会いに来た鳴海の娘って自己紹介したわよ」

 拓真がふと尋ねただけなのに、何故か美紅はぎこちない返答をしてきた。
 何かを隠しているような感じではあるが、拓真は娘の『そこにいたから』の一言にぴくりと反応。
 そしてやっぱり思った。『あー、早速。そうなったのか』と。
 まさか、緋美子の姪である凛々子と、正樹の甥である幸樹まで『すぴりなんとか』なんじゃあないだろうかと、こうなってくると拓真は思ってしまう。そうなるともう『既に遅し』なのか。

 ……いや、それすらも拓真は分かっていたはず。
 姪の凛々子がここに来て、そして同じように近所に住まう長谷川家の長男である幸樹と出会うとどうなるか。
 それを知った時に、俺はなんと思った? さあ、言ってみろ。拓真。──そう思って、拓真は自分の心の中で答える。
 ──『そうなるなら、そうなればいい。俺はもう関係ない。俺はリコを手放した。後はリコの自由だ』。
 まだまだ若い彼女を手放して、彼女が新しい人生を選べばいい。『もう緋美子じゃないんだ。凛々子なんだ』と、そこまで独りよがりに決めつけて、そんな捨て鉢な気持ちで東京での生活を捨てたと言えば、皆はなんというだろうか?
 勿論、それは『ひとつの理由』に過ぎなくて、他にも理由はあるのだ。

「幸樹さん、おはよう!」

 機嫌の悪い娘が、大きな声で幸樹に挨拶をした。
 すると薔薇の向こうをじっと見つめていた青年はどっきりとした驚きの顔を見せ、瞬く間に逆方向へと走り去っていってしまったのだ。

「なに、あれ」

 娘の呆れた声。
 正直、拓真も『おいおい、それってみえみえだぞ?』と逆にアドバイスしたくなる心境に。

「ほんっとうに。あの素敵な早紀叔母様の息子で、『従弟』だからって楽しみにしていたのに、最低」

 どうやら美紅の期待は──大きく外れていたようだ。
 そして幸樹はまだ、この娘が実は血の繋がりがある従姉とも知らないだろうに。『もしかして一番可哀想なのは何も知らない彼だろうか?』と、今後、巻き込まれなければいいがと思ったりもしてつい溜息をついてしまった。
 すると隣に寄り添っていた美紅が、とても申し訳ない顔になっていた。

「ご、ごめんなさい。お父さん。えっと従弟って言っちゃいけないんだよね?」

 自分は拓真の娘で、長谷川とは血の繋がりがない。
 それを認めることは、父の恋敵で宿敵となった自分の父親である正樹を受け入れることになる。
 そんな娘の気遣い。拓真は拳を握って娘に怒鳴った!

「この馬鹿娘! お前はなんにも気遣わなくて良いんだ。早紀さんはお前の叔母さんだろう? 幸樹君は血の繋がりのある従弟だ! 大事な家族じゃないか!」
「お、お父さん……」

 美紅がわあっと泣き出して、拓真の胸に抱きついてくる。
 そのままでいいのだと。あるものを、受け入れたいものを受け入れて良いのだと。この父の目の前で遠慮はいらないと……。

「大事にしなさい」

 生きている家族を大事にしよう。
 鳴海家では家訓のようなものだ。
 だからお前は長谷川の親戚を受け入れて良いのだと、拓真は抱きついている美紅の背を優しくさすった。
 ただ……娘には甘えていることが一つ。彼女が正樹のことは一切口にしないこと。そして拓真もそこは口にしたくないことを、お互いに感じ取りながら。

 それなのに。と、拓真は自分のことを振り返る。
 生きている家族を大事にしなさいと娘に言いながら、今の俺はなんなのだろう? と。

 今ならまだ、引き返せる。
 あの姪の顔をした妻に会わなくて済む。
 だが、こんなに泣いている不安になって日本海のこの街まで来た娘を安心させてあげたい。
 そんな沢山の迷いを抱えたままの今の自分が、とてつもなく嫌だった。
 いつもなら、二つに一つをきっぱりと選ぶ。選んだら後悔しない。それが『俺流』だった。
 そのつもりで『東京での生活』にピリオドを打つ選択をしたはず。もし妻が会いに来ても、その心は揺らぐことなく、追い返す覚悟のはずなのだ。

 薔薇の家、そこの玄関先からふわっと懐かしい花の香りが舞い込んできた。

「まあ、騒々しいと思ったら」

 玄関先に、ノースリーブの黒いワンピースを着た凛々子が姿を現した。

「美紅、出かけたと思ったらお父さんに会いに行っていたの?」
「だってママ! 二人に会って欲しかったんだもの!」

 今、父親の胸で泣いていた娘が、今度は母親の胸へと飛んでいく。
 その甘えっぷりはちっとも変わらない。美紅にとっては母親の【緋美子】が一番なのだ。それは拓真だって見ていて微笑ましい。……すぐに母親のところに飛んでいったのは、すかすかになった胸に風が吹き込んでくるお父さんは寂しい思いもあるのだが。

「娘ちゃんの突撃には、敵わなかったよ」

 拓真は、凛々子に笑って見せた。

「まあ、お父さんは本当に美紅には弱いわね。お願いは美紅にしてもらうのが一番だわ」

 って、それでお前は本当に美紅を差し向けたんじゃないだろうなあ? と、拓真は思ってしまったのだが。
 でも娘は『ママには何も言っていない』と言っていたから、それはないだろうと拓真も思う。 
 それにここまで追いかけてきてくれた妻の情熱は良く知っているが、そのような手を使ってまで物事を引き寄せようとする女じゃない。夫の俺が一番よく分かっている。
 だからこそ。妻がこの家から暫くは出ていかず、東京にも帰らないことをも分かっていた。

「タク、大交替の後なの?」
「え? ああ……」
「朝ご飯、食べていく? 起きたら美紅がいなくて。朝ご飯を作って待っていたら、貴方が──」
「お父さん、食べていくよね!」

 妻のあからさまじゃない、さりげない誘い。
 そして娘の期待に満ちた顔。

「……そ、そうだな」

 まただ。東京で決してきた俺の心は何処に行った?
 妻と娘にはどうしても弱くなってしまう。
 だから、だから……。あの決意で東京を……夢を……妻を……。
 しかし目の前には、にっこりと微笑む姪の姿をした妻と娘の喜びに満ちた顔。
 拓真をいつも幸せにしてくれていたその二つの麗しい笑顔。

「た、食べていくかな。ミコの飯」

 【ミコ】と呼べば、姪の顔をした妻の笑顔は輝き、娘も嬉しそうに弾ける笑顔を見せる。
 なによりも。先ずは東京に帰らねばならない娘を少しだけでも安心させてやらねばならない。──と、思ったのに。

「あ! そうだ、私ね。幸樹さんに言いたいことがあったんだ。ちょっと行ってくる!」

 まるで父を送り届けたかのようにして、娘の美紅が幸樹が去っていった方向へと走り出してしまった。
 驚いたのは拓真だけじゃなく、妻も一緒で、二人そろって「あっ」と口を揃えていた。
 つまりは娘は元から、父親を母親に引き渡したら『二人きりにする』と決めていたのだろう?

「やられたっ! あのやんちゃ娘にやられた!」
「あの子ったら……もう」

 そうそう。あの子はそうして私達を楽しませてくれていたと、緋美子が笑い出す。
 だが、拓真も笑っていた。ああ、久しぶりだよ。家族と触れてこんなに心が和むの……。と言いたいが、そこは家庭を出てきた者として堪えた。

「幸樹君がそこにいたんだ」
「知っている」

 途端に緋美子の顔が、凛々子の顔で冷たい横顔になった。
 何故? この前会った時は、そんな顔をしていなかった。
 やっぱり何かあったのだと、拓真は悟った。

「そっか。お前は気配で分かるんだもんな。幸樹君が来ていたのも分かっていたんだ」
「そして、私は出なかったわ」

 『どうして?』と拓真は聞こうとして、やっぱり口をつぐんでいた。
 何故なら、あの青年の切ない熱い視線を見てしまった今なら、この妻がそんな冷たい顔で素っ気なく『知っていて知らぬ振りをした』と言うのは、そんな青年の視線を『拒否』をしたからだと分かるからだ。
 そして妻も、夫に悟られていることを否定しない。否定しても無駄なことぐらい、もう、分かっていることなのだろう。

「二の舞にはしない。もし私じゃなくて、この身体の本当の主である凛々子が生きているなら……。それでも良かったと思うけれど」

 二の舞にはしない。
 それは緋美子としては長谷川の男にはもうそよがないと言うことなのだろう。
 拓真は何も言えなかった。いや、言いたくなかった……。

「飯、あるんだろう。どうせだから食っていく」

 触れたくない。この先、凛々子と幸樹がどうなるかだなんて。
 二の舞になるとかならないとか、そんなこと、考えたくない。
 妻の飯を食って帰る。妻の飯を……。食っているうちに娘が帰ってくるだろう。それで娘をとりあえず安心させて、二人で東京行きの列車に乗せて帰らせればいい。それで娘は満足するはずだ。

「有難う、タク。来てくれて」
「美紅の泣く顔は見たくない」
「私もよ」

 今日の拓真は、そう思って薔薇の家に上がった。
 今年も見事に咲いている庭の薔薇。瑞々しく芳しい香り。爽やかな初夏の風。
 この中で、どれだけあの妻と愛し合ったことか。遠い昔にトリップでもしたかのように、この香りに包まれたら気が遠くなりそうだ。

 変わらぬその家に上がって、拓真はリビングでその初夏の元我が家の風情を眺めていた。
 キッチンのダイニングテーブルには、和の朝食が並んでいる。なんて懐かしい食卓だろう。
 自ら切り捨ててきたとはいえ、そうして黒髪の彼女が楚々としたエプロン姿で焼き魚にお新香に味噌汁を並べている姿はやはり『いいな』と思ってしまった。

「一馬が喜びそうな献立だな」
「そうね。昨日は美紅好みの洋食だったから、今日は和食」
「懐かしいな。喧嘩しないように一日置き。『我が家の決まり事』だ……」

 と、拓真もつい……。目を細めて懐かしく言ってしまっていた。
 すると目の前の、愛らしい姪の顔をしている妻の目が熱く揺らいでいた。
 その目に、拓真はいつもどっきりとする。
 凛々子も、妻の緋美子とは血の繋がった姪と叔母だ。その顔に仕草がたまには重なることもある。特に目。目つきが似ていた。大和撫子のしっとりとしたその眼差しは、拓真が薔薇庭の片隅で見つけた小さな白い花そのものだ。
 だから拓真も彼女を熱く見つめていたのだろう。気がつけば、姪の姿をした妻が、そっと拓真の胸に寄り添ってきた。

「タク……。会いたかった」

 その声も、ワンオクターブ低ければ、時には妻の声と重なりそうだ。
 直ぐ目の前に良く知っている匂い。愛してきた黒髪に、拓真の胸を隙間無く埋めてくれたその漆黒の濡れた目の眼差しに、艶やかなまつげ。そして小さな紅い唇。
 黒髪の質感も似ている。いや、妻・緋美子の手触りには敵わないかも知れないが……。
 しかし、この姪の姿で勝っていることが、どうしても勝っていることがあり、拓真はそれを存分に味わってしまっていたものがある。
 それが今、この胸の中、直ぐ傍に、向こうから差し出されている状態──。

 拓真の指先が、ふっと断ち切ったはずの花へと伸びていく。
 永遠に俺の物だと思っていたその花に。
 なのに自分から踏みにじるように切り捨ててきたその花を……。

 薔薇とは全く違う清らかな匂いが、彼女の黒髪から漂ってくる。
 その艶やかな黒髪に指先が触れたら、もう、お終いだ。
 この前は、この彼女が久しぶりに熱にうなされ儚く消えてしまいそうだったから必死に引き留めるように看病に費やして、そんな気は起きなかったけれど。

「リコ──」

 黒髪に指先が触れたその時。
 庭から香って気が遠くなってしまう拓真がここで育んできた『愛の匂い』に、トリップしたその時。
 無意識に呼んだその名は『姪』の名だった。
 最愛の妻じゃない。指先に触れているその先にある『姪』の名を拓真は呼んでいる。
 一瞬、姪の顔をした妻の表情が固まったのには気がつかない。

「タ、タク……っ」
「り、り……こ」

 この家の匂いに、麻痺をした。

 指先に黒髪が触れた一瞬が、いつもの合図のように。
 彼女の長い黒髪を、この手一杯にすくい上げるようにして小さな頭を引き寄せ、己の唇へと向かわせる。
 触れそうになった唇に、彼女の悩ましく熱い吐息が降りかかった。
 その瞬間に、拓真はハッとして、『リコ』を引き離さねばならないと我に返りそうになったのに、もう……遅い。
 今度は向こうの『姪』から、熱く拓真の唇は塞がれる。
 細く長い腕が、拓真の首に巻き付き、そしてその柔らかな身体が拓真の胸に吸い付いてくるように。

「タク。うれしい……」

 妻、姪の目尻に浮かんだ涙の小さな粒。
 どれだけの思いをさせているか、分かっている……分かっていて、それで……。
 なのにどうだろう? やっぱりまだ心はこんなにも熱く彼女を愛している。
 熱い口づけに頭もとろけてしまえば、その拓真の手先は『姪』の柔らかな身体をなぞっている。
 あんなに痩せていた姪は、妻の魂が宿ると急に大人びた体つきになり、そしてとても愛らしい顔になった。本当にあの『凛々子か』と思うほどに。そして仕草に表情に、言葉遣い。拓真に触れてくるその指先の癖なんかは、みんな、死んでしまった妻そのものなのだから。
 やまない口づけの中、そこはもう今まで通りにお互いを求め合う中、拓真の手は当然のように、姪の乳房を包み込み、時にはその切なさを訴えるかのように柔らかに握りつぶし、やがてその手は体の線をなぞって、彼女のぴんと張っているヒップへと降りていく……。いつも拓真がそうしている癖で、今日もその黒いワンピースの生地の上から、彼女の尻を両手で鷲づかみにして……。

「あ……タク……タク。拓真……」

 その声も変わらない。
 いつもお互いに求め合う時に、妻が夫に求められて喜んでいる声を耳元で囁いて届けてくれるのも。

 きっと……。この後、娘が帰ってくるというのが頭の隅になかったら、間違いなく、この姪の身体を奪っていたと思う。
 この若々しくも愛らしい姪の身体を……。
 そして反応してくれるのは、妻で、良く知っている妻で。

 ああ、頭がおかしくなりそうだ。
 東京ではいつしかそんな日々になっていた。
 いつしかその目の前に咲く白い花は、妻ではなく姪になる。

 もし、そうなっても……。
 【緋美子】は平気だというのか?
 『凛々子』に実は夢中になりそうで、そしてこうして打ち勝つことが出来ない情けない男。
 きっと皆は言うだろう。『お前はひどい男』だ──。

 拓真が探している白い花は、そうではないのに。
 あの夏の日の笑顔は、やはりもう何処にも存在しないのだろうか。

 

 

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