「もう、ごめんなさいね。凛々子さん」
「いいの。……こう言ってはなんだけれど、会えるの楽しみにしていたから」
早紀は、自分よりずっと若いその娘がとても遠い目でそう呟いた心境を知り、複雑な気持ちになる。
早紀自身そんな顔をしていたのだろうか。とても気のつく目の前の若い彼女が、はっとした顔に。
「あの……ご迷惑かけませんから。決して、幸樹さんには」
「大丈夫よ! 凛々子さんと幸樹じゃ、器が違いすぎるわ」
「そんなことないと思うわ……」
凛々子がそこで『だって彼は……』と呟いて、口を閉ざしてしまう。
艶やかな黒髪をふんわりと揺らし、その中に小さな顔を隠してしまう。そうすると早紀には、年齢よりも大人びている彼女が急に幼い顔になったように見えてしまう。
それよりも、彼女がそこで泣きたいのに泣こうとしない顔を見て、早紀は心を痛めた。そして……早紀自身も泣きたくなってくる。
「も、もう……やめましょう。ね、凛々子さん」
「え、ええ……」
年の割にしっかりしているこの彼女が、東京で暮らしていたなにもかもを捨て、生まれ故郷でもあるこの街に帰ってきた。
「拓真さんには?」
「知るはずもないわ。あの人、私から逃げられたと思っているんだから」
「そう……。彼、割と単純なのよね」
早紀は、『この度の彼女の事情』を思い返し、溜息をついた。
すると、若い彼女の顔がきつくなり、如何にもその男性が憎々しいとばかりに鼻に皺を寄せている。
「そう、単純属性の単細胞!」
彼女は『ふん!』と鼻息を荒くし、足下に散らばっている書籍を片づけ始めた。
その単細胞……。もとい、その男性『拓真』氏は、この彼女の『元夫』のこと。
彼女はつい最近、その夫に別れを告げられてしまったのだ。
そこらへんに散らばっている書籍は、すべて彼女の『仕事の資料』なのだろう。
この若い彼女は『学者の卵』。少し特殊な道筋で大学の研究室に在籍していたのだが、『この度の事情』でそこを辞めてまで、この故郷に帰ってきたのだ。
──そう、その『単細胞の逃げた夫』を、追っかけてきた。
一言で言えば、そう言うこと。
彼女は『幼妻』だった。
結婚は『正式にはしていない』。まあ、いわゆる『内縁』と言おうか?
ただ二人に言わせれば『籍を入れる、入れない』という感覚は元よりなかったとのこと。
彼と彼女がそれでも『夫妻です』と、世間に宣言したのは彼女が十六歳になってすぐだったと思う。
当然の如く、それはそれはもう、まわりは騒然とした。
特に彼の周りの人間が、とても驚いたのだ。
彼はその時、歳は三十代後半だったし、彼女はまだ未成年の高校生。
それなのに『今日から夫妻です』と宣言したのだから。
彼女の父親?
彼は少しは躊躇ったようだが、多くは言わなかったそうだ。
──と、言う話を聞いて『知人』である早紀自身はどう感じるかというと。
(まあ、周囲、世間が騒いだのは当然のところよね)
でも、早紀は二人が『夫婦になった』という報せをきいて、祝福した一人だったりする。
彼等の関係者は『やめておけ』と言っただろうが、早紀は賛成派だった。早紀だけじゃない、早紀の夫も同じく賛成し共に祝福をした。
だが、親子ほど歳が離れているという落差が障害だったのだろうか?
それでも七年も連れ添ってきたのに、今になって『破綻』だなんて……。
しかしそれも早紀としては『やはり、無理だったのかしら』とも思ってしまう、微妙なところ。
そんな事情を抱え、自分の将来を蹴ってまで逃げられた夫を追いかけてきた彼女が、私の息子とどうこうなるだなんて考えられなかった。
だが、それは早紀の『安易な判断』なのか。
母親である早紀よりも、息子と同世代である彼女の方が、妙に懸念しているようだ。
「──安心して、早紀さん。私、こっちで出来る仕事が見つかったら、他に住むところを探して出ていくから」
「な、何言っているのよ! ここは、貴女の……」
「違うわ。『亡くなった叔母の家』……そうでしょう」
「まあ、貴女ったら! いい? この家はね! あなたが……」
「今、薔薇を咲かせてくれているのは、早紀さんだもの。それに幸樹さんが育った家なのでしょう? 見た? あの顔。彼、この家をとても愛してくれているんだわ。そうよね、彼にとっては育った家だものね。それを知らない女がやってきて、急に奪うように住むと言いだしたのだから、怒っているのだわ」
「でも、ここは貴女が住んでも良い家なのよ!!」
豪語する早紀を、彼女はとても静かに……見ているだけだった。
なにもかもを諦めているようなその目を何度か見せられたが、彼女は今、その目をしていた。
それが分かったから、早紀は凛々子の手をすかさず握りしめる。そしてさらに彼女に『この家は──』と力説しようとしたのだが。その口を開けた途端、それを悟られたように彼女に先に言われてしまう。
「またこの家の花が見られるだなんて……。良かった。有り難う、早紀さん。こんなにいっぱい変わらずに咲くように大切にしてくれて、有り難う」
「リリちゃん」
彼女が息子が飛び降りた窓辺に寄り、そよ風が入ってくる中、庭を見渡している。
その幸せそうな顔を見たら、何も言えなくなる早紀……。
「少し、手伝いましょう」
早紀は段ボールの側に座り込み、中から分厚い書籍やファイルバインダーを外に出す。
凛々子も礼を言いながら、笑顔で戻ってきた。
なにも言うまい。
彼女もいろいろ考えてきたのだろう。
沢山の心配事があるだろうが、それでも彼女はなによりも『後悔はしたくない生き方』を選んできているはず。
それがこの薔薇の家に戻ってくることならば、早紀もなるべく協力したい。
若い頃。近所にあったこの家に憧れていた。
だから、兄の知り合いだった彼女の叔母がこの家を出ていく時に住まわせてもらうように必死にお願いをした。
彼女の条件は、薔薇をなるべく絶やさないことだった。草木の手入れなどしたことがないお嬢様だった早紀でも、この薔薇があるからこの家に憧れたのだ。
それからずっとこの家は『早紀さんの家』として、薔薇が咲き誇る名物館。早紀は庭を我が手で守ってきた。
その家で夫と可愛い息子と過ごした日々は、早紀の一番の宝物。
若い頃からの願いを叶えてくれた彼女の家族に、協力できるならそうしたい。
だから、彼女の姪である『凛々子』がこの家を頼ってきた時はふたつ返事で迎え入れた。
早紀もこの家を愛している。
息子も愛してくれていることは、母親としても嬉しいこと。
だが、この家を一番愛していたのは、彼女の叔母。そして、その家族。
この家を返そう。
今回、早紀はそう決めていたのだが。
「いい香り。この季節に来たのも丁度良かったってかんじ」
目をつむって微かに漂ってくる薔薇の香りを楽しむ彼女の顔。
早紀も今はその香りを彼女と楽しんだ。
・・・◇・◇・◇・・・
どこが、あの親父に似ているって言うんだよ。
幸樹はふてくされながら、結局、帰ってきた道を逆戻り、公園へと向かう。
あの『ドキドキ』は収まったが、今度は腑に落ちないことばかりが、頭の中を巡り始めた。
幸樹の父親は、冷めて無愛想な幸樹と違ってとっても穏和で大人しい人柄だ。
それで婿養子なもんだから、隠居している祖父さんには未だに頭はあがらないし、どことなくあの天然嬢様の母に振り回されているところもある。
それでも母は『パパー』と甘えた声で、未だに少女のように父にべったりだ。そんな母にべったりされている父を見ると、彼もまんざらではないようで、それで頼りなげな風貌なのに、急に頼もしい男性に見えたりする。
幸樹にとっては幼い頃から見てきた両親の当たり前の姿なのだが、我が子が言うのも変だが、あの二人はあれでお似合いだと思う。
あの訳の分からない天然嬢の母を、父が大らかに受け止めていると言った具合なのだ。
それに見たことはないが、父もあれで会社に行けば、頼もしい社長さんなのだろう?
だが、父に似ているとは初めて言われた!
幸樹の顔立ちは、母にそっくりと言われ続けてきたし……。
それに風貌も、『お父さんよりかはお祖父さん似ね』とも言われてきた。
日頃、冷めた目で生意気いっぱいの幸樹と、穏和でソフトな父とは雰囲気だって全然違うのに──。
「あの女、はったり言ったのかよ」
本当にうちのことを知っているのかよ? と、急に腹立たしくなってきた。
突然、幸樹が生まれ育った『薔薇の家』にやってきて。
初対面の幸樹に、大人ぶった口をきいて。
それでいて、母と親しい様子。
なのに? 幸樹と父が似ているだなんて、とんちんかんなこと言いやがって!
「やっぱり、嫌だ! 絶対に、嫌だ! あの家は俺の家だ!!」
密かに狙っていたのに。
大学生になったら、社会人になったら、あの別宅に住まわせてもらおうと思っていた。
どうせ、祖父さんが築きあげたあの会社を継げとかなんとか言われるのだろう? そうなったら、あの大きな家を出て一人暮らしをしたいと言っても、どうせこの街にいるしかないのだろう? それなら、あの家が欲しい。あの家に住みたい。
それなら実家になるだろう今の自宅とは目と鼻の先。両親も祖父さんもきっと許してくれると思っていた。
なのに、母のお墨付きで、知らない女が掠め取っていったのだ。
ああ、そうさ? 住人となったあの女にめちゃくちゃにときめいてしまったさ。
だけれど『それとこれは別』!!
「──追い出す」
幸樹は大事な合い鍵を握りしめ、密かに誓った。
公園に行くと、帰り道に出会った仲間はいなかった。
いつものメンバーが揃って、街にでも繰り出したのだろう。
ここの公園はいつも風が強い。
近頃出来た近代的な公園で、海の直ぐ側だから、潮風が吹き込んでくるのだ。
向こうの砂浜に行こう。
幸樹は、砂浜からみられる砂丘が好きだった。
なんにもない砂丘が、風に吹かれてきめ細やかな砂がさらさらと風に舞ったり、そして綺麗な地模様を描いたり──。
それを制服姿で暫し眺めた。
あの薔薇別宅が思うままに出入りできなくなるなら、これからは『ここ』だけが、お気に入りの場所として残るだけとなる。
「雨の日はどうするんだよ。冬はめちゃくちゃ寒いし、雪も降るんだぜ」
今は穏やかな気候だが、北の海辺の冬は厳しい。
そんな季節こそ、薔薇はないがあの二階の部屋の窓辺でつつまれる木漏れ日が、幸樹の癒しになっていたのに。
「俺の気持ちなんて……」
俺の気持ちなんてあの天然母は考えちゃいないのだ。と、言いたいが、幸樹は自分の気持ちを母に言った覚えもないので、仕様がないかとも思うが、やっぱり諦めきれない。
だからとて、知らぬ女が一人暮らしをするならば、気が向いた時は出入りをさせて欲しいだなんて絶対に無理だろう。
「くそっ。また腹が立ってきた!!」
そう歳も変わらないだろうあの女が、幸樹の夢だった薔薇庭別宅で『一人暮らし』をするのだ。
と、幸樹はそこで頭を抱えて、一人悶えたのだが、はっとした。
「ん? 彼女の家族は──?」
まだ一人暮らしだなんて、誰も言っていないじゃないか?
だが、彼女だけではなく他の誰かも住むのはもっと耐え難い。
そうすると益々、あの家には近づけなくなる!
「どうするかー」
砂丘を見つめながら、幸樹は腕組み、悶々と考えていた。
時が経ち、夕暮れまで──。
どう考えても良い方法が浮かばず、イライラしながら幸樹は家路につく。
もう一度、薔薇別宅の道を通ったが、まだ窓を開け放したままの状態だ。
彼女の姿はないが、やはり二階のあの部屋からバタバタと片づけている音だけが聞こえた。
そのまま唇を噛みしめ、幸樹は離れがたい思いで、今の自宅へと辿り着く。
「どこをうろついていたの? 遅かったわね」
キッチンを通りすがる廊下を歩いていると、夕飯の支度をしている母に声をかけられる。
母は背を向けたまま、コンロで揚げ物をしているようだ。テーブルには、天ぷらを盛っている大皿が。
それを目に留め、幸樹は母の声かけには反応せず、二階に上がろうとした。
階段を一段、踏みしめた時だった。
「幸樹。合い鍵、返さなくていいわよ」
その一言に、幸樹は動きを止めたが、だからとて『どうして』とも聞く気にはなれなかった。
砂丘の公園で、考えたのだが。いくら幸樹が切り札のように、勝手作った合い鍵を手にしていても、あちらが新しい鍵穴を設置してまえばそれだけのこと。替えられてから合い鍵をまた作るのは、今度は犯罪に足を突っ込むようなもの。そこまで出来る訳がない。
だから母の『返さなくて良い』というのは、『鍵穴替えるから、持っていても無駄よ』と言う意味なのだろう。
(終わったな……)
そう思った。
あっけないもんだ。
こんな合い鍵を握りしめていたって、切り札にもなりやしなかったのだから。
仕方がない。これからじっくりと『奪回策』を練らねばならないだろう……。
「凛々子さんがね。ちゃんと訪ねてくるなら、いつでもいらっしゃいと言っていたわよ」
母のそのひとことに、幸樹は目をまん丸に見開き、『はあ!?』と階段からキッチンへと走り込んだ。
「鍵、新しいのに替えないのかよ!」
「ああ、その方法があったわね。凛々子さんにもそう言っておかなくちゃ」
「はあ!? アンタ達、それ思いつかなかったのか?」
母がこっくりと頷いて、幸樹は唖然とした。
いや、まて! 今、それに気がついたなら、ちゃんと訪ねてこい、どころか、鍵穴を替えられてしまう! 言うんじゃなかったーー! と幸樹は心で叫ぶ。
「ああ、でもきっと凛々子さんは替えないわね」
「ど、どうして? 俺、これ使って、勝手に入っちゃうぞ!」
「ふふ。やれるものなら、やってみなさーい」
妙に余裕げな母の笑みに、幸樹は固まる。
不気味だ。天然嬢の母ではあるが、時にこういった余裕を見せる時がある。こういう時の母こそ『最大の切り札』を隠しているのだ!
「本当にやっちゃうぞ!」
「やっちゃうまえに、誰かがやっちゃうかも? 凛々子さんはそれを望んでいたりして」
「はあ?」
もう、なにを言っているのか分からなくなる。
彼女は鍵穴を替えるつもりはないし、幸樹がそれをする前に、それをしそうな人間がいるようなことをほのめかす母。
そこで幸樹は気になっていたことを、母に尋ねた。
「彼女、家族は……?」
すると母がコンロの火を止め、揚がった最後の天ぷらをテーブルの大皿に盛り始める。
それが終わると、幸樹にニンマリと、またもやあの余裕顔。
「家族? 彼女の家族はね。旦那さんと二人の子供さん」
「だ、だ、旦那!? け、結婚しているのかよ!?」
「そうよ〜。残念だったわね、こ・う・き・ちゃん」
母の核心をつく一言に、幸樹はついに……頬を染めてしまった。
耳が熱くなったのが分かって、おもわず両手で耳を隠してしまうのだが、後の祭り。
な、情けない! 俺がこんなに母親に手玉に取られたのは久しぶりだった。
当然、母は久々の完全たる勝利に、勝ち誇った微笑みを満面に浮かべている。
「旦那さんはね、再婚で。凛々子さんは後妻さん。子供さんは、先妻のお子さんなのよ。あの通り、凛々子さんは若いわ。旦那さんより、子供さんと歳が近いぐらいなのよ。彼女、旦那さんを愛しているの。それはもう熱烈にね」
「そ、そうなんだ……」
力が抜けていく。腰から下の脱力感。
とてもときめいてしまったとは言え、それはついさっき、ほんの少しの時間のこと。
まだ深い思いなど到底、存在はしない。
そんな状態で、彼女には夫と家族がいて、彼女がその家族を愛していると聞けば、まだ高校生の幸樹にはどうしようもないことで、もし自分が成人している大人の男だったとしても割り込む隙もないのだろうし、ここで気持ちを切り替えることが普通なのだろう。
そうするしかないし。
そして……そうするだろう。
だけれど、今度はまた違った意味で、幸樹の中で大きく膨らんでいた気持ちが、あっと言う間に潰された気になった。
それがとても重い感触。脱力感。
もしかして、いきなり『失恋』?
俺、失恋ってしたことがない。
女と別れる時だって、そんなものだと思っていた。
だけれど『失恋』とも思えない。だって、幸樹は『俺、恋している』と、まだ自己認識さえしていない。
キッチンを力無く出て、二階の部屋に向かう。
その重い足取り……。
徐々に強くなる脱力感。
ああ、やっぱり恋だったのかな?
だとしたら、とっても短い恋だったな。
でも、きっと忘れないだろうな。この衝撃的な気持ち。
幸樹はそう思った。
だが、二階の自分の部屋に入り、制服を脱ぎながら幸樹ははたと振り返る。
「あれ? じゃあ、今日は旦那は??」
まさかあの家に? 今夜は旦那と二人の子供が集まって、つまり『四人家族で暮らす』ことになったとか!?
──ぜ、絶対に!
「認めない、認めない!!!」
静かで優雅なあの家に、見知らぬ人間が土足でどかどかと上がり込む光景。
それが幸樹の脳内にもどかどかと入り込んできて、幸樹は激しく頭を振った。
・・・◇・◇・◇・・・
今夜は独り……。
まだ荷物も解き終わっていないこの家で、凛々子は独りの夕食を済ませたところ。
今日は綺麗にリフォームされていたキッチンには立たなかった。
とりあえず、英治が書斎として使っていた部屋を自分も書斎兼寝室として使うことに……。
叔母は……寝室として使っていた。と凛々子は思い返す。
夕食は外に買いに出た。
自分がここにいた時よりかはだいぶ拓けていて、コンビニや大型の郊外店が建ち並ぶようになっていた。
良く知っている故郷の道。案内がなくても自然と足は行きたい場所へと進んでいける。
そこで前はなかった場所、割と近所にコンビニエンスストアが出来ているのを見つけ、そこで適当に夕食を見繕って帰ってきた。
そのコンビニ店は、坂を下りたすぐそこにあった。
帰りは上り坂。凛々子は『懐かしい』と思いながら、振り返る。
いくつかの店舗が建ち並ぶようになり、この辺りも便利になったことだろう。この坂の界隈は新築の家がだいぶ増えている。凛々子が越してきた叔母の家はずうっと前からこの土地にあるから少しアンティークな佇まいを醸し出しているけれど、新しい家々は皆、近頃の近代的なデザインと設計のものばかり。
だがこうして振り返って見える砂丘の海はちっとも変わらなかった。
いつもこの美しい砂丘の海を、家族と楽しんでいた日々。
凛々子はふと切ない思いで目を細め、薔薇の家に戻る。
今日はテレビもない。
といってもあまりみることはない。
読みかけの資料に目を通しながら、侘びしい夕食を取った。
また荷物をほどいて片づける。
少ない荷物だが、今夜は片づけられそうもない。
そう思って、キリの良いところでシャワーを浴びて眠る支度をする。
リビングの灯りを落とし、戸締まりをする。
寝付きの一杯であるグラスを手にして、書斎兼寝室へ向かった。
窓を開け、そこに腰をかける。
夕方、一輪だけ摘んだ赤い薔薇。その花びらを白葡萄酒の上に浮かべて、ひとくち呑み込んだ。
遠く見える海も、庭の風情も、そして匂いもちっとも変わらない。
この雰囲気。懐かしくて涙が出てきそうだ。
とても幸せな気持ちにつつまれるのに、その後にはすぐに切ない思いが胸を締め付ける。
ああ、そうだわ。
あの時は、うんと幸せだった。
凛々子は泣いていた。
白葡萄酒と赤い花びらの香りに慰められながらも、涙が溢れて仕方がない。
この家に来るしかなかったけれど、懐かしい思いを取り返せた反面、今の自分の境遇に泣かずにはいられない。
ああ、私が自分で選んでしていることだけれども。
泣かずにはいられない。
『なんてことない。何度かやった事あるからな』
ふと、そんな男の子の声。
凛々子の涙は止まり、急にクスリとした微笑みをこぼしていた。
今、自分が腰をかけているここから、軽々とカモシカのように飛び降りた男の子。
生意気そうな顔、俺はなんでも出来るんだと思っていそうな顔。
それを思い返して凛々子は笑っていた。
けれど、また泣きたくなる。
彼に会ってみたかったけれど、会うべきではなかった気がする。
「仕事、見つけなくちゃ」
この家は好きだけれど、凛々子はここにいてはいけないような不安にかき立てられる。
この家にずっといたいのだけれど。もう、いてはいけないのだ。きっと……。
出窓で、風と花の香りと葡萄酒を味わい終え、凛々子はそこを離れる。
水滴をまとったグラスは、机の上に置いて、シーツを整えたベッドへと潜り込んだ。
眠りは直ぐにやってきた。
疲れていたのだろう。どんなに昔から知っていた家でも土地でも。
深い眠りの向こうで、夢さえも見えなかった……。
夢など見ていなかったと思ったのだが。
「……あっ」
妙な感触に凛々子は目を覚ます。
おもむろに目を開けたのだが、そこは確かに今日越してきたばかりの家で、そして自分が良く知っている書斎部屋だった。
だが、とても重苦しい空気を感じた。
そして、とても息苦しい。
さらに、それ以上に──。
「あ、あんっ。い、いや……っ!」
狂おしい感触が身体中を這い回っていた。
凛々子の首筋に何かが這う感触。
それがとてもおぞましいものではなく、知っている感触だった。
柔らかく押したかと思うと、いきなり強く吸い付く。その繰り返し。
そしてそれは首筋だけじゃない。凛々子の胸元をきつく握りしめ、そしてその手は柔らかく撫でているのだ。
「やめて!」
寝る前は『居なかった』。
だったら、来てしまったのか、呼び寄せてしまったのか!?
起きあがって逃れようとしたが、これがこれがいわゆる『金縛り』か。
ベッドに貼り付けられたように、身体は動かなかった。
もしここに男の実像があるならば、今、彼は凛々子の身体の上に馬乗りになり、凛々子の両腕を強引に押さえ付けている格好をしていることだろう。
そうして凛々子は彼の愛撫から顔を背け、身体をよじり、彼の馬乗りの下で必死に逃れようと腰を左右に動かして、足をばたつかせていた。
こんなことは初めてだ。
凛々子はこの類の者と波長があってしまうことがある。だが襲われたのは初めてだ!
今、上で襲いかかっている男以外にも、男女年齢(?)を問わずに、時には気配を感じたり、うっすらと姿をみることもある──つまり『霊感』。それにより凛々子は人とは違う敏感な閃きを備えていた。
この家に越してきて、懸念はしていたが『こんなすぐ』に!? それもこんなにリアルにかき乱されるだなんて!
それほどにこの男と波長があっているのだろうかと、凛々子は『そんなはずはない』と、否定したくなる。
ああ、もう遅い?
なんだか柔らかいねっとりとした感触が、腿と腿の間を這い上がってきて、やがて……。
だが、その手前で止まった。
『・・・子』
微かな男の声が聞こえた。
聞き覚えのある声。だが掠れていて彼が呟いた女性らしき名は聞き取れなかった。
でも、女の押さえ所である既に蜜で溢れてしまったそこを目の前にして、その男の唇が凛々子の臍の横を口づけたのだ。
それを知って、凛々子は確信した。
やっぱり、彼が来てしまった!!
「お願い。やめて……。お願い、許して……」
泣きながら彼に許しを乞うたが、それがかえって彼を怒らせてしまったのか?
恐れていた攻撃が始まった。
「やだ、やだっ……いやあ」
こんな一人きりの夜に、大声を出したって誰もいない。
いつも側にいてくれた夫も。親しんでくれた彼の子供も……。
誰も、いない。
それに誰かが助けに来たって、相手は存在しない霊体なのだ。
そして凛々子は、情けないことに、徐々に彼を受け入れようとしていた。
だって……知らぬ感触ではなかった。そして彼を知っている。
でも頭の中に、愛している男を必死に思い返す。
でもその名を叫んだら、目の前の男がより一層、怒りを露わにするかと思うと言えなかった。
『・・・子、待っていた』
待っていてくれたんだ……。
凛々子は、涙を流しながらそう思ってしまった。
気がつけば、もう彼と交わっていた。
実際にそこに『人』はいないけれど、分かる。
凛々子の中で、男が存分に暴れているのが分かる。
「もう……だめ……」
彼は激しく乱暴だったけれど、時々、女を悦ばすような意地悪な優しさを忘れていなかった。
これは身体の抵抗というよりかは、理性という精神との闘い。
だが……それは脆くも崩れ去る。
快楽に呑み込まれた後の、乱れようは凛々子でももう分からない。
かけていたタオルケットは床に落ち、独りで悶えた跡がシーツの波となり皺となる。そして身につけていた衣服は、あられもなく乳房が覗くほどにめくれあがり、ハーフパンツも下着も殆ど脱げた状態だった。
実体のない彼がやったと言うよりかは、我を忘れた凛々子が無意識に乱れつつ脱いだとしか思えなかった。
「あ、ああんっ」
我を忘れて漏らす濡れた声は、同居人が居たならば確実に聞こえてしまう声。
その切ない声を何度も、何度も凛々子は荒げた。
何度も凛々子を襲った快楽の波……。やがて凛々子が彼を受け入れた事に満足したのか、彼が凛々子の身体の中から去っていく……。そして力無く横たえるだけの凛々子に長い長い口づけをして、消えていった……。
出来れば、とてもリアルな夢を見ていただけだと思いたかった……。
「……なんてことなの。ああ、許して」
ベッドの上で、汗だくになった凛々子はシーツの上に力尽き、そのまま眠り込んでしまう。
どうしてか、身体中、汗以外の濡れる筋が走っていた。そして腿の間はぐっしょりと濡れ、その周りのシーツに染みついた蜜の跡。
微かに男の匂い。
夫しか知らないこの身体を、実体のない男が通り過ぎていった。
もう二度と抱いてくれないだろう、私の若い身体。夫に別れを告げられた身体。
それを知っているかのように、あの男が味わっていったのだ。
凛々子の頬に涙が静かに流れ落ちた。