あのあられもない姿のままで目が覚める。
あの後、とろけるように眠ってしまったのは、目が覚めるととても不本意で、酷い敗北感に見まわれる。
凛々子は苦虫を噛みつぶすような思いで、起きあがる。
──油断した。
あとで、気休めかも知れないが『おまじない』をしておこう、凛々子はそう思った。
蒸し暑い朝だった。
今は初夏の気候だが、もう直に、この地方も梅雨にはいるだろう。
だが、今日も良い天気。
この懐かしい家に帰ってきて、薔薇の香りが漂うこの部屋で素敵な朝を迎えるだろうと楽しみにしていたのに。
──最悪の気分だ。
起きあがってみても、めくれあがったタンクトップからは乳房が顔を出し、そして片足にぶら下がった状態のハーフパンツにショーツ。
寝る前に感じていた湿った蜜の後は、すっかりなくなり、朝日の中、凛々子の秘密の園を隠している茂みは、凛々子の黒髪と同様に艶々と煌めいていた。
それでも身体中、べっとりしている感触。
凛々子はぶつぶつと独り言の文句を呟きながら、バスローブを探し出し、それを片手に一階の浴室へと向かった。
「……お墓参り、行こう」
シャワーを浴びながら、そう思った。
それで救われるのだろうか? 私も貴方も。
長く伸び始めた黒髪をくしゅくしゅと洗い、身体もごしごしと洗う。
そして凛々子は臍を見下ろした。
「ここを気にする男の人──」
凛々子は昨夜、襲ってきた彼が男狼と化する前に、まるで許しを乞うようにそこを口づけたことを思い出す。
そこにはなにもないのだけれど、凛々子はそこを口づけられることの意味を良く知っていた。
バスローブを羽織り、凛々子はリビングに向かう。
今日は、自炊が出来るようにキッチンを整える予定。
冷蔵庫には、昨晩にコンビニで買い揃えたミネラルウォーターを並べていた。そのうちのひとつを手にして、広いキッチンにあるダイニングテーブルに座って一息つく。
仕事を辞めてきてしまったから、暫くはこうしたのんびりとした朝を迎えるのだろう。
なんだかほっとする反面、やはり一人きりは孤独を感じる。
『リリ! 俺のシャツがないよっ』
『リリママ! 私、ご飯じゃなくてママのシュガートーストじゃなくちゃ嫌!!』
子供達の声がした。
同じように若い二人は、同世代でもしっかり者の凛々子に良く甘えてくれた。
それは彼等だけじゃない。
『リコ! 俺の作業着どこに置いた! ないじゃないか、遅刻する遅刻!』
『タクが寝坊するからでしょう! 言っておくけど、私、三回は貴方を揺すり起こしたわよ』
『揺するだけじゃ、俺が起きないこと知っているだろ! 叩き起こせよ』
『叩く? 頑丈な貴方を? 嫌よ、寝ぼけているタクに張り倒されそうになったことがあるのに!』
『だあっ。それを言うな。それを言われると困るっ』
そんなやり取り。
彼と『夫妻』となって七年、結構上手くやっていけたと思っていたのに。
やっぱり『あれ』がいけなかったのか。
凛々子は溜息をついた。
その途端だった。
凛々子がいるキッチンの天井の角、そこがどす黒く渦巻いた気がした。
(い、居る……!)
その気配が徐々に凛々子に近づいてきた。
そしてまた重苦しく、息苦しくなり……。
「い、いやあーっ!」
後ろから誰かに抱きつかれ、座っている椅子から床へと押し倒される。
軽く羽織っているだけのバスローブがはだけ、訳の分からない力で大きく足を開かれていた。
また、彼が来た!
「ど、どうして!? 昨夜、満足してくれたんじゃないの!?」
今度は強引だった。
一気に入り込んできたのが分かる。
「あ・・・っ」
そして悔しいことに、昨夜の潤いがそこに残っていた。
はたまた、自分ははしたなくも瞬間的に昨夜のとろけてしまった記憶を呼び覚まし、潤ってしまったのか。
強く、力強く入り込んでくる力に、凛々子の腰はキッチンの床の上を後ろへ後ろへと押されて引いていく……。
どうしよう、朝に夕にこんなに襲われていては、もうこの家には居られない!
会いたい、あの人に会いたい!
助けてよ、助けて!!
「タク……、タクマ、拓真……!」
ついに夫の名を叫んでいた。
その時だった。
「おい! そこにいるのかよ! おい!! どうかしたのかよ!?」
勝手口のドアを叩く音──!
そして鍵穴に鍵を差し込む音がした。
「こ、幸樹……さ・・ん?」
幸樹が来ていたのか。
その途端、身体がふっと軽くなる。
霞んでいたキッチンのもやがすうっと晴れていく感触。
去っていったのが分かった。
「どうした!?」
制服姿の彼が、顔色を変えてそこに立っていた。
・・・◇・◇・◇・・・
勝手口のドアを開けると、キッチンの床に彼女が倒れていた。
……その姿を一目見て、幸樹は目を疑った。
彼女のあられもない姿。
バスローブの胸元がはだけ、そして裾はめくり上がり、彼女の両足はなにかをされたかのように開いていて……。そして彼女の顔が火照っているように見えた。
それを一目見て、幸樹が思い浮かべたのはひとつしかなく……。
目を逸らしたくなったが、幸樹はそれよりも直ぐに靴を脱いでキッチンにあがった。
そして力無く横たえている彼女の側に駆け寄り、跪いた。
「大丈夫。なにもないわ……」
幸樹の顔が青ざめているのだろうか。
彼女が心配させまいと小さく微笑みながら、震える手先ではだけているバスローブの胸元をきゅっと、閉じる。それが精一杯のようだった。
「本当に!?」
嘘だ。と幸樹は思った。
彼女の格好はまるで、男に襲われたような格好で、それでいてその潤んだ眼差しに火照っている頬は、まさに『抱かれた女の顔』だ!
遊んできた幸樹にはわかる。いろいろな女達が幸樹の前で見せた顔。
そしてなによりも、そんな匂い、女の匂いが彼女の身体から立ちこめている……。
「俺、見てくるから。じっとしていろよ」
制服のブレザーを素早く脱ぎ去り、幸樹は彼女の身体の上にかけた。
「ほ、本当になにもないのよ」
キッチンを飛び出す幸樹の背に、そんな彼女の声。
だが幸樹は構わずに玄関へと向かう。
朝、学校へいくために家を出てからも、幸樹は昨日と変わらずに合い鍵を握りしめ悶々としていた。
そうしてやはり、薔薇の家に来てしまっていた。
昨夜、思いついたように、この家に彼女の家族『旦那と二人の子供』が来ているか気になったのだ。
少しでも良いから、どんな奴らが住もうとしているのか覗こうと思った。侵入したのは勿論、勝手口だ。
するとそこから、奇妙な女性の声が聞こえ……。そしてその声が助けを求めるように叫んだので、思わずドアを叩いて、鍵を使って入ってしまったという訳だった。
そうしたら、彼女があんな姿で倒れていた。
しかし、玄関の鍵はかかっている。
そしてリビングの庭へと続く大窓も。一階の全ての部屋も鍵がかかっている。そして階段を駆け上がって、彼女の部屋も他の部屋も確かめたが、人影はない。ただ、幸樹が気に入っている出窓の窓だけが開いていた。
俺のようにここから飛び降りて逃げることができる男が来ていたのだろうか?
彼女の旦那? 旦那が彼女を襲う?
しかし幸樹が家の中を見渡した限り、誰かが侵入し彼女を襲ったという気配は、なかった。
「幸樹さん、私、めまいがして倒れてしまったの。だから、大丈夫よ」
階段の下からそんな声。
幸樹は出窓の部屋を出て、階段を見下ろした。
「本当に……?」
「本当よ。私、十代の時は身体が弱かったの。お母様の早紀さんに聞いてみたらいいわ。入退院を繰り返していたのよ。今でも気を付けてはいるけれど、時々、こうなってしまうの」
それを聞いて幸樹は、顔が火照っていくほど恥ずかしい思いが込み上げてきた。
一目見て、『襲われた』だなんて、彼女が力無く横たわっていただけで……。それを直ぐに想像してしまっただなんて!
恥ずかしくなって、彼女の顔など見られたもんじゃなかった。
「有り難う。心配してくれたのね」
「いや。俺……びっくりして、その……」
また、昨日のように上手く喋られなくなる。
やっと彼女を見ると、とても優しい柔らかい笑顔で幸樹を見上げている。
そしてバスローブの姿はきちんと整えられ、彼女はその腕に幸樹の上着を手にしていた。
「お父様と同じね。とっても紳士なのね。嬉しかった」
また親父と似ているという彼女。
だけれど、今度は頷けた。確かに父は女性には優しい。穏和でソフトで静かな男。
似てはいないだろうけれど、父親のそんな良いところと似ていると言われると、幸樹もまんざらでもない気持ちになってしまっていた。
それに『紳士』だなんて、初めて言われた!
「学校なのでしょう? 遅れてしまうわ」
彼女がしっとりとした手つきで、幸樹の肩に紺ブレをかけてくれた。
また、胸が激しく鼓動する。早く、そして強く。血脈が激しく運動し、千切れるかと思うぐらいに。
『有り難う』と肩を撫でてくれる彼女のその柔らかい手先を感じた時は、もう、幸樹はフリーズしていた。
「な、なんでもないだなんて。そ、損した」
「そうね。ごめんなさい」
「き、気を付けろよなっ」
「はい。幸樹さん」
口から出てくる精一杯の意地を張った言葉が、何故かぎこちないばかり。
けれど、彼女はとてもすんなりと受け取ってくれている。
「じゃ、じゃあな」
「いってらっしゃい」
ぎくしゃくとした足取りで、幸樹は入ってきた勝手口へと向かう。
──そういえば。彼女の家族、居なかった。どの部屋にも居なかった。では、彼女は昨夜は独りで?
靴を履きながら、頭の中、そんなことを思い巡らせていたのだが……。
「あら、ちょっと待って。幸樹さん」
彼女に呼び止められて振り返る。
少しばかり心配そうな顔で歩み寄ってきた。
先ほどまで心配していたのは幸樹だったはずなのに、今度は彼女がとても心配そうに、眉をひそめている。
「幸樹さん。もしかして、煙草を吸ったりする?」
「吸うよ。それがなにか?」
間髪入れずに、やってはいけないことを平然と認め、言い除けた幸樹を見て、彼女が少しばかり驚いた顔。
毎日じゃないが、時々吸う。
未成年だから、吸っていいはずがない。
だが、それをこそこそと隠して吸うのも、単に臆病なだけ。正々堂々と言ったつもりだ。
そうして『煙草は良くない、体に良くない。成人してからではないと吸えないのだ』という説教をたれるつもりなら、こっちも思いっきり言い返してやるつもりだ。
だが、彼女はあの眉をひそめた顔のまま、幸樹を心配そうに見るだけで黙っていた。
説教を言いたいが、言えない。そういう性格かと幸樹は少しばかりがっかりした。
しかし黙ってみていた彼女はやがて、幸樹から離れ、キッチンの片隅に行った。コンロの横に置いてある白い袋の中に手を突っ込んで、それを幸樹のところまで持ってきた。
「後ろを向いて」
「え? な、なんだよ」
彼女に肩を掴まれ、後ろを向かされる。
なんだろうかと肩越しに振り返ると、彼女の細い指先が手のひらに山を盛っている『塩』をつまんでいた。
それを幸樹の肩に乗せて、すり込むように優しくこすっていた。
「あのね。幸樹さんは元々『火』とは相性が悪いの。今日は特に、性が合わないみたいね。出来るなら、煙草どころか『火』には気を付けた方がいいわよ」
「な、なんだよ。それっ」
「思い当たることはない? そうね。例えば、煙草を吸った時、落ちた灰でやけどした。あるいは制服を焦がした。あるいはお友達の持ち物に損害を与えてしまった。等々」
幸樹はどっきり固まった。
確かに、あの連中といると煙草なんて当たり前なのだが、実際に幸樹が『時々しか吸わない』のも、煙草を吸う度に、ろくな事がなかったからだ。もっと言えば、美容室にまで通って整えてもらっている自慢のヘアスタイルにも、ライターで火を付けた時に、妙に燃え上がった炎で前髪を焦がしたこともあった。
その間に、彼女の柔らかい手つきは、幸樹の両肩を清めるようにして塩をすり込み、最後には綺麗に払ってくれていた。
「はい。大丈夫。でも、未成年の煙草は駄目よ。法律がじゃなくて、十代の身体に入り込んだニコチンは、成人よりも依存症になりやすくなる原因だって……」
「知っている! そんなこと!!」
まるで母親に説教されているような腹立たしさが生じ、幸樹は彼女に吠えていた。
けれど、彼女が面食らったのは一時で、すぐに笑い出していた。
「ごめんなさい。ああ、そうだわ。これもついでにそこの勝手口の門の横に置いてくれる?」
そういった彼女が幸樹に差し出したのは小皿に盛った塩の山だった。
「な、な、な。何のつもりだよ!?」
なんてババくさいまじないをするんだろうと幸樹はおののいた。
肩を出かける前に清めてくれる古風な見送りは、ちょっと新鮮だったが、盛った塩を家の入り口に置いてくれにはちょっと退いた。
だが黒髪の彼女はにっこりと小首を傾げ、その小皿を幸樹に差し出していた。
「きっと私が置くより、幸樹さんの方が効果がありそう」
「どうして」
「幸樹さん、勘がよいでしょう? 時々、訳の分からない閃きとかない?」
それにも幸樹は驚いて、今度こそ彼女をまじまじと見てしまった。
「もしかして、アンタも?」
「ちょっとだけね」
「そういうのあるんだ。やっぱり!」
「でも、ふと閃いたことが、当たったり。それぐらいでしょう?」
彼女とその話をした途端に、幸樹はなんだか自然とその塩の小皿を手にしてしまっていた。
「置いておくよ」
「有り難う。でも、幸樹さんは火は本当に気を付けてね」
「分かったよ」
なんだか素直に頷いてしまっていた。
腑に落ちないが彼女にいいように動かされている気がしないでも。
そう思いながら勝手口を出ようとして、彼女に振り返る。
「アンタも無理しないで、横になっていろよ。きっと引っ越しの疲れが出たんだ。女一人でやったなら尚更だ」
「……幸樹さん」
「俺、手伝ってやるから。帰ってくるまで寝ていろよ!」
彼女が、急に泣きそうな顔に崩れて、幸樹はびっくりした。
「本当に優しいのね。有り難う」
何度、『有り難う』と言ってくれたのだろう? そしてそんなこと、久しぶりに言われた気もした。
「ほんと、気を付けろよな!」
また彼女の顔が見られなくて──。幸樹はそれだけ言い放つと、勝手口を飛び出していた。 彼女に言われた通りに、幸樹は勝手口の黒い柵で出来ている小さなの門、その傍らにそっと置いた。
置いたのだが、なんだか妙な閃きがあり、反対側に置いてみた。
そして門を出て、薔薇の家に振り返る。
その時、凄い違和感が生まれた。
昨日まではとても柔らかい優雅さを絶やさない家だったのに、少しばかりくすんで見えた。
これも、彼女が言う『勘』のせいなのだろうか。それとも気のせいなのか。
それにしても、彼女を追い出すどころか……。
彼女がこの家に居られるようなことを口走っていた。
ちっくしょう。なんでなんだ!?
だけれど、学校への道へと急ぐその間も、先ほどの匂い高き大人の女の姿がちらついてばかり。
バスローブで倒れていた姿も勿論で、『なんにもなかった』のだと判明し落ち着いてしまうと、結構良いものを見ちゃったかもなんて邪な男心。
だけれど……それ以上に、幸樹の肩には彼女の優しい指先の跡が残っている。
肩を清めてくれていた、柔らかい大和撫子の感じがずうっと幸樹の周りにまとわりついていた。
・・・◇・◇・◇・・・
なんと──! 彼女の予言が当たった?
休み時間だった。
いつものように、裏庭でたむろしている奴らと連んでいた。
そのうちの一人、幸樹の隣にいる『俊夫』が、煙草を吸おうと口の端にくわえ、ポケットから出したライターで火を点けようとしていた。
そういう光景はいつものこと。ただ幸樹の仲間は、自分が吸っているのだからお前も吸えとか、俺は吸わないからお前もやめろとかそういう事はいちいち言わないようになっている。
だから、いつも吸っている奴が吸い始めても、幸樹はなんら気にならなかった。
だが、今日は少しだけ、そいつから一、二歩離れようかと思った時だった。
「うっわっ」
彼が点けたライターの火が、いつか幸樹が前髪を焦がしたように彼の黒髪の頭まで燃え上がったのだ。
それは彼がくわえていた煙草の先も、ぼうっと燃え上がった。
それどころかそこで風が吹き込んできて、その炎が彼ではなく幸樹に向かってきたのだ。
幸樹も声を上げそうになった! それと同時に彼女の落ち着いた声の忠告が聞こえてきて、とてつもなく重いものに思えてきたのだ。そしてその火の先は、本当に幸樹を意識して襲ってきているかのように見えたぐらい!
だが幸樹の目の前で、またもやその火は生きているかのように、ふうっと退いていったのだ。それも何故か恐れを成したように退いていき、本当に生き物のようにみたいに……。
ライターの火は消えていったが、俊夫がくわえている煙草は、まだ彼がくわえているままに先端を燃やしている。
びっくりして固まっているだけの俊夫だったが、はっとした顔で煙草を口から取り去った。その勢いで、燃えていた先端がぽろりと落ちていく。
「あっちいっ!」
「お前、俊夫──気を付けろよ!!」
彼の制服スラックスの上に、見事に先端の燃えかすが落ち、瞬く間にそこを焦がしていく。
それを幸樹ではないもう一人の仲間が驚いて、あたふたしている俊夫の代わりに払い落としていた。
「幸樹。お前、大丈夫だったか」
「あ、ああ、リョウタ。俺は、なんとも……」
俊夫の焦げたスラックスから、燃えかすを払った彼が焦げた部分をつまみ上げながら、幸樹のことも気にしてくれた。
「前も一度あったよなあ。そうそう、幸樹がヘアカットしたばかりなのに前髪を燃やして、大騒ぎしただろう」
「そうだった。そうだった。うへえ! 俺もちりちりになってるじゃん!!」
偶然なのだろうか?
幸樹は血の気が引く音を聞いた気がする。
彼女の忠告が頭の中にこだましていた。
「俊夫、ライターの火力調節、最大になっているじゃないか。気を付けろよ」
「あれ、いつも最小にしているのに。さっき悪戯している時に、直すのを忘れたか」
涼太と俊夫の会話も、幸樹にはもう聞こえていなかった。
「俺、もう帰る」
幸樹はふらりと立ち上がって、彼等に背を向けた。
「幸樹? お前、大丈夫か?」
「おっ。幸樹が帰るなら俺もっ。ズボン焦げちゃったしー。このまま出るのまずいもんなあ」
涼太と俊夫が話しかけてくれるが、それも耳に入らなかった。
まあ、彼等にしてみれば『いつも自分世界の幸樹だから』と思って、必要以上には追いかけてきたりはしない。
適当な理由を付けて、早退した。
ただ帰りに、ズボンを焦がした俊夫も早退し、下駄箱で鉢合った。
なんとなく一緒に帰り、彼と公園で別れた。
幸樹は真っ直ぐに家に向かう。
違う。凛々子がいる薔薇の家に向かっていた。
・・・◇・◇・◇・・・
母に言われたとおりに、幸樹は白い門がある表から薔薇庭を通って玄関へと訪ねた。
そして呼び鈴を押したのだが、インターホンには誰も出なかった。
買い物に行っているのかも知れない。
あの身体で? それともあれはめまいなんかではなく、本当は何かあったのだろうか?
「まさかなあ。一人で……?」
また男子特有のちょっぴりエッチな想像をしてしまう。
身体の体温がグッと上がってしまったが、自分で我に返り、その『煩悩』を振り払うかのようにして、幸樹は庭へと歩き出す。
今日も天気が良くて、青い空の下、風にそよぐ薔薇達が囁くように揺れていた。
芝の瑞々しい匂いと風に漂う薔薇の香りは、幸樹がここで育ってきた記憶の奥に深く刻まれている物。
ものすごく心が落ち着く。
そのお気に入りの庭をリビングの大窓へと向かい、そこから中を覗いてみた。
そうしたら、リビングのソファーで彼女がぐったりとした様子で横になっていた。
段ボールなどは開けっ放しで、ちっとも片づいていない。むしろ、昨日より散らかっていた。
そんな中、彼女がぐったりと横になっているのだ。
(やっぱり、具合が悪かったんだ)
そう確信した幸樹は、そのリビングの大窓を拳でガンガンと叩いてみた。
すると、彼女がふと寝返りこちらを見たのだが、それだけで、またくったりと横になってしまったのだ。
幸樹はまた驚いて、一目散に玄関へと向かう。そうしてまた合い鍵を手にして玄関を開けてしまった。
「俺が帰ってくるまで休んでいろと言ったのに! 動き回ったんだろ!」
リビングに駆け込むと、彼女は幸樹を見て、ちょっとバツが悪そうに微笑んだだけ。
言葉も出ない様子に、幸樹はすかさず彼女の側に寄って額に手を当てた。
──すごい熱だった。
「母ちゃん、呼んでくるからな。待ってろよ!!」
幸樹が咄嗟に思い浮かんだのが、早紀を呼び寄せることだった。
自宅へと飛び出していく幸樹の背に『大丈夫だから』というか細い声が聞こえたけれど、幸樹はもう真っ直ぐに家へと走り出していた。
自宅に戻り、のんびりとお茶を楽しんでいた母に凛々子のことを告げると、流石の母も驚いた顔をして、幸樹と一緒に薔薇の家に急行してくれた。
「彼女、身体が弱かったって本当なのか?」
「本当よ。学校に通うのもままならないほどの身体だったのよ。今は元気だけれど、またいつそうなるか分からないでしょう?」
薔薇の家に着くと、ぐったりとしている凛々子を見つけた母は、悲鳴でも上げそうなほど大袈裟に驚いて、凛々子に駆け寄っていく。
「幸樹! ドラッグストアに行って、頭を冷やせるものとか、解熱剤を揃えてきて」
「分かった!!」
制服姿のまま、また薔薇の家を飛び出した。
あれ……。うちの天然母。学校をさぼって早退したこと、気がつかなかったみたいだな?
ふと急にそう思ったのだが、母のあの慌てぶりからすると、やはり彼女の体質はあまり健康体ではないようだと思えた。
・・・◇・◇・◇・・・
近所のドラッグストアで、母に言われた物や見て回って自分が気がついた物をありったけ買い込んで、幸樹は薔薇の家へと急ぐ。
白い表門に辿り着いて開けると、今朝、幸樹が凛々子に頼まれて置いたような『盛り塩』の小皿が置いてあった。
彼女が置いたのだろうか?
妙に気にしているのだなと思ってしまう。
『幸樹さんの方が効果がありそう』
そう言っていた彼女の言葉を思い出し、幸樹は白い門の影にある小皿を手にとって、もう一度、そこに何を念じていいか分からないけれど、おそらく『来るな』ということなのだろうなと思い、それを念じて置き直した。
それは玄関にもあった。それも同じように手に取り、ふと思う場所に置き換えておく。
買った物を手にしてリビングに入ると、ソファーでぐったりしていた彼女の姿はなく、そこには散らばった小物を片づけている母がいた。
「彼女は?」
「幸樹、お帰りなさい。有り難うね、知らせてくれて。凛々子さんは二階の部屋に寝かせたわ」
あの母が、不安そうな顔をしていた。
そして驚きのあまり、気力を使い果たしたと言ったような疲れた顔。
「これ、買ってきた」
「ああ、有り難う。お小遣いから払ってくれた分は返すからね」
色々なものを詰め込んだレジ袋を、幸樹はそこの低いテーブルに置いた。
母が散らかっている小物を、適当に段ボールにしまい込んでいる。
幸樹も床に膝を落として、母がしていることを手伝った。
「あら。幸樹、学校は!」
「ええっと……」
「・・・まあ、いいわ。今日は、凛々子さんがこうなっているのを見つけてくれて、手伝ってくれたから。今日だけは大目に見てあげる」
母は笑いはせず、本当は『怒っている』と言った硬い表情で『次はただじゃおかないわよ』と呟いた。
いつもなら、幸樹も反抗するところなのだが、今日はこっくりと頷いていた。
家族は呼ばないのだろうか?
彼女は何故、身体が弱いのに一人で引っ越してきたのか。
旦那は今、何処にいるのだろうか。
子供達を放って来てしまったのだろうか。
いろいろな事が無言の中、頭に浮かんでくる。そして浮かんできては、隣で同じように片づけをしている母に尋ねてみようと思うのに、出来なかった……。
「さあ、片づいたわね。さて、ママは凛々子さんの食事になるものを買い出しに行って来るから、幸樹、ここでお留守番していてくれる」
「え? あ、うん……解った」
「時々、覗いてあげてね。何かあったら、ママの携帯電話に連絡してよ」
その言いつけにも、幸樹はこっくりと頷く。
母はそう言うといそいそと二階に行き、もう一度、彼女の様子を見に行ったようだ。
やがて、二階から下りてきた母は、溜息をつきながらキッチンへと入っていく。
なかなか出かけないので、どうしたのだろうかと覗いて見ると、母は携帯電話を耳に当てているところで、どこかに連絡をしているようだ。
「ああ、貴方。早紀です。お仕事中に申し訳ありません──」
いつも少女のようにふわふわしている母が、急に落ち着いた口振り。それも連絡した先は、会社にいる父のようだ。
「凛々子さん、すごい熱で。ええ、少し様子は見ようと思っているのだけれど、やはりご家族に連絡した方が良いと思うの。けれど、私……『拓真さん』がどこに転属になったかまだ知らなくて……。貴方ならすぐに調べてくれるかと思って、『消防署』当たってみてくださいますか? ええ……きっと今までの疲れが出たのじゃないかしら。彼女は誰にも言わないでくれと言うのだけれど……。そうよね、貴方もそう思ってくれる? そうなの、口ではああいうけれど。彼女……とっても寂しい顔をしているの。見ていられないわ。そうね、それまでは看ていますから、お願い致します」
母はそれだけ言うと、電話を切った。
そして『じゃあ、よろしくね』と忙しそうに薔薇の家を出ていった。
「旦那……消防官?」
『タクマ』と言うんだ。
そして、親父が探し当てて連絡がついたら、『ここ』に来るんだ。
そう思ったら、なんだか妙な緊張感が走った。そして、落ち着かなくなる。
『とっても寂しい顔をしているの……』
母のそんな言葉が浮かんできて、幸樹は二階に上がってみた。
昨日、勝手に忍び込んだ部屋。その部屋のドアを、静かに、静かに開けてみた。
その隙間から見えたのは、ぐったりとした顔でベッドに大人しく寝ている凛々子の姿。
熱が出たからとてうなされている様子もなく、先ほどよりかは少し顔色も戻った気がする。でも、ぐったりとしている顔。
『寂しい顔を……』
あれが寂しい顔?
幸樹には、ただ熱でぐったりしているようにしか見えない。
母には彼女のそんな表情がすぐに解るのだろうか。
それとも、幸樹が鈍感なのか……。
そう言えば、他人様の『嬉しい』とか『哀しい』とか、向かい合っている人間のきめ細かい感情なんて気にしたことがなかった。
なのにどうしてだろう。
昨日、初めて会ったばかりの彼女の表情が読みとれなかったことに悔しさを感じ、そしてもどかしくも思った……。