今日のつまらない授業も終わって、やっと放課後──。
まったく世の中は簡単すぎて、面白くない。
彼はそう思いながら、自宅への道へと向かう。
通っている学校から自宅へ帰るには、緑の公園を通り抜けるのが習慣。
「幸樹! 帰るのかよ」
その公園の中央に位置する白い石畳の広場。
中央の噴水の辺りで、同級生達が数名、固まっていた。
そして幸樹は『ああ』と、ぶっきらぼうに答えて、また真っ直ぐに歩き出す。
「この前の女子大生とは、もう、破局?」
そこには男子だけでなく、女子もいた。
その中の一人が、からかうように笑い声をたてた。
遊ぶなら、いつも彼等彼女等と一緒にいる。
幸樹の遊び仲間だ。
勉強が出来るヤツもいるし、幼なじみもいるし、元カノもいるし、少しばかりワルいことを楽しむヤツもいる。
どうしてか解らないが、そんな仲間がいつの間にか、集まってしまったのだ。
そしてこのグループは、学校でも一番目立っている。
そういう『つるむ仲間』なのだが、幸樹は冷めた目で『退屈そうな』彼等を見つめ返した。
「たいしたことなかったな。女子大生も」
それだけ言って背を向けると、男達は面白がるだけのからかい言葉を投げつけてきて、女達は『コウキ、サイテー』と嫌味を含めつつも、やっぱり面白そうに笑い出しているのだ。
公園を出て、幸樹は少しだけ肩越しに振り返る。
今日は見逃してくれたらしい。
私服に着替えて遊びに行くなら『幸樹がいないと面白くない』が彼等の文句。
時にはしつこく誘ってくれるが、幸樹の性分を解っているのか、あまり束縛はしない奴らだ。
そこは付き合いやすい。
幸樹はホッとして、自宅へと向かう。
幸樹は割となんでも出来た。
まだ高校生だから『出来るね』と褒められる物はごく僅かなのだが。
まずは、勉学はさらりと『優秀』のポジションを得ている。
幸樹にしてみれば、もしかすると『男女の仲』より『勉強』の方が分かり易いと言えるかも知れなかった。
でも、その『男女の仲』も、もう既に刺激的ではなかった。
一昨年かな? 去年かな? いわゆる『大人と同じ恋愛』をするようになった時は、これは刺激的で新しい遊びを見つけた気分だった。
高校生じゃ物足りなくなり、私服姿で女に微笑みかけると、女子大生も見事に振り向いてくれた。
女子大生というハードル一個向こうの世界にいる女性との駆け引きは、これまた刺激的だった。
でも、それも慣れた。
だから、面白くなくなった。
そういう『出来るね』と言われる範囲では、もう『面白くない』世界の中に幸樹は辿り着いてしまったのだ。
ああ、早く学校を卒業して社会に出たいな。
でも、親父が大学だけは行けとうるさいし、確かに、大学で得られるだろう知識に触れないのは勿体ない。
そこで触れるだけ触れて、ステップ出来るならステップして早く社会に出たい。
幸樹はそう思っていた。
『日常』では──。
しかし、この日この後、幸樹のその願いが叶うが如く──。
平和な……いや『退屈な』日常を揺さぶる物に出会う事になるのだ。
・・・◇・◇・◇・・・
奴らの事は嫌いじゃない。
むしろ、彼等が頼ってくれたなら、お義理でもなんでもなく、素直に心から親身になる方だ。
つまり、リーダータイプで面倒見が良い──と、言う事になるのだろうか?
ただ、幸樹自身──時々、どうしようもなく『独り』になりたくなる時がある。
どちらかというと、沢山の人間の中で賑やかにしている方が楽しいと思っている。
なのに? 本当にどうしてか……時々、すとんと孤独に浸りたくなるのだ。
まるで自分ではないような違和感を持ちつつも、やっぱり自分なのだと思わざる得ない。
今日はどうもその日のようで。
そして、どうしてか胸騒ぎがする。
幸樹は『勘が良い』と言われる方で、時々あまりにも勘が当たるので、両親が震え上がる時もあるぐらいだ。
特に、いつまで経っても、若々しくて無邪気な母親が、冗談じゃなく怖がる時には、息子として流石に参る時もある。
だが、無邪気な母親はすぐにいつもの調子に戻って、笑い飛ばしてくれるのだが。
その『勘』が──『早く家に帰れ』──と、命令しているかのような気分が、昨夜からしているのだ。
幸樹の自宅は、いわゆる『高級住宅街』と言われる高台にある。
ちょっとばかり傾斜がある道路の両脇に、広々とした土地に思うままに設計しただろう粋なたたずまいの住まいが並んでいる地域だ。
幸樹の家は、祖父が事業をしていて今は父親が経営者……つまり社長をしている。
だけれど、父は社長とは言っても……祖父の息子ではなく、婿養子。
そう、いつまでも無邪気なあの母親が、祖父の実子『娘』──つまり、母はちょっとしたおおらかなお嬢様なのだ。
今、幸樹が家族と暮らしている家は、祖父と同居する為に新しく建てた家だった。
今の自宅は、祖父が住んでいた古い家を取り壊し、父と母が家の設計を決めて今の家を建てたのだ。
確か──幸樹が小学生の時だった。
それまでの家は……と言うと……。
幸樹は丘の途中で通りすがる、ある家の前に辿り着こうとしていた。
今住んでいる、今一番新しい家が建ち並んでいる一本道の裏通りに面している旧道と言っても良い区画。
アールヌーボー調の曲線模様がある白い門。
その向こうには、芝庭。
そして……この家の一番の特徴は『薔薇園』だ。
夏間近になると、とりどりの薔薇が一斉に見事に咲き誇る。
道行く人々は、芝庭に広がる薔薇の木の華やかさと、そのむせるばかりの香りに囚われたように立ち止まる。
白い鉄柵を飛び越える薔薇の蔓の咲きに揺れる小薔薇。
そよ風に可憐に揺れる白薔薇、赤薔薇、ピンク薔薇。
そして幸樹は、その薔薇の庭を両親の寝室にある出窓から眺めるのが好きだった。
その家は、祖父とは別に暮らしていた時の家で、両親が結婚して新婚住まいとして住んでいたようだ。
今住んでいる建て直した家に住んでいた祖父母も、頻繁に訪ねに来ていた。
幸樹の今の住まいは、広くて今風の高級感ある家なのだが……。
『薔薇の家』にいつまでも執着を持っている。
生まれてからそれまでに住んでいたせいもあるかも知れないのだが、幸樹は今の大きな家よりも、この古めかしさを醸し出す薔薇の家がとても好きだった。
薔薇園は母が通って、懸命に手入れしていた。
だから、母と一緒に時々は出入りしていたのだが……母親に伴われての行動なんて、せいぜい中学生までが限度。
いくら薔薇の家が恋しいとて、そんな姿をいちいち見られるのは、幸樹の『男子としてのプライド』が許さなかったのだ。
そして──中学生のある日。
母が持っているその家の鍵を、そっと拝借し、自分で『合い鍵』を作ってしまった。
それから、時々──親にも内緒で、この家に出入りしている。
やる事は決まっている。
お気に入りの出窓で本を読んだり、その部屋で昼寝をしたり、好きな音楽を聴いて薔薇園を眺めたり。
薔薇が咲かない季節でも、その出窓から入る木漏れ日に身を委ねる瞬間が……一番、癒される瞬間。
そして『孤独』に浸れる瞬間。
今日の幸樹もそんな気分。
幸樹は制服のポケットから、その鍵を取りだす。
今は五月、薔薇が咲き始めた時期で、幸樹のお気に入りの季節がやってきたのだ。
その出窓と薔薇園を思い描いた途端に、幸樹の硬い表情に、誰に見せる事もない微笑みがそっと浮かんだ。
もう目の前に、白い門が……見え……る……。
「!」
白い門が目に入った瞬間!
幸樹は我が目を疑う。
その白い門に、引っ越し業者のトラックが停まっている!?
幸樹は思わず走って、門に向かった。
白い門は開けられ、広い芝庭に行き交う引っ越し業者の従業員。
白い古めかしい家の窓も開け放されている。
そして、幸樹は上を見上げた。
「あー、良い眺めね」
『!』
人影は見えないが、そんな女の声が聞こえた!
あの出窓からだ。
幸樹のお気に入りの窓も開け放されている。
「これで終わりか」
「みたいですね」
「意外と早く済んだなー」
「本当に。荷物、少なかったですしね」
トラックに戻ってきた従業員のそんな会話。
「あの、この家に誰か引っ越してきたのですか?」
ブレザー制服姿の幸樹の声に、業者が振り向いた。
「ああ、そうだよ」
主任らしき男性が、にこやかに応えてくれたのだが。
(嘘だ……!)
幸樹は心でそう叫んだ途端に、まっしぐらに走り始める。
向かったのは、もちろん──新しく建て直した今の自宅だ!
幸樹は拳を握って、歯を食いしばる。
一番最初に、憎々しく思い浮かべたのは、あの『天然嬢』の母だ!
絶対に売らない──と、言っていたじゃないか!?
誰にも任せられない──と、自分で一生懸命に手入れしていたじゃないか!?
夏の炎天下でも……あの『お嬢様』の母が、日陰帽をかぶった姿で、手を泥だらけにして、水をまめに撒いて、誰よりも大事にしていたじゃないか!?
「あのクソばばあーー!」
ぼんやりしている脳天気な母親と、呆れる事は多々あったが……!
『ここまで、ぼけたか!?』と、幸樹は猛然と自宅へと──いいや、あの脳天気な母親の笑顔に向かって突進していた。
・・・◇・◇・◇・・・
「そうよ、譲ったの」
幸樹の目の前に、悠然と微笑む母がいた。
「ゆ、譲った!?」
売ったのではなく『譲った』に、幸樹は柄にもなく大声を上げてしまっていた。
すると目の前の母が、可笑しそうに笑いだし、おまけにピースサインまで突きだした。
「やった。幸樹が慌てたわ。ママが一本♪」
「こっ……の……」
この野郎と叫びたいが、母親がさらに面白がるだろうから幸樹はやめた。
まさか、それだけの為に? いつも淡々としている息子を驚かす為だけにやったのか? と、幸樹は思いたくなり……首を振る。
が、『この母親ならやりかねない』とも思えて仕方がない。
そんな幸樹の必死に動揺を抑えている努力とは裏腹に、ただニコニコしている母が、さらに手の平を幸樹に突きだしてくる。
まるで、何かを『ちょうだい』と言いたいばかりのその手……。
「そういう事なので、幸樹──『合い鍵』を返しなさい」
「!」
「あそこはもう、他人様の住まいよ。出入りは禁止です」
幸樹は『知っていたのか!?』と、さらに動揺した。
母のにっこり笑顔は崩れないが、それまでとは少し違う笑顔に変化したのを幸樹は感じた。
まるで、幸樹のなにもかもを見通しているという『母親特有』の確固たる笑顔に……。
そして、母が幸樹をここぞと言い聞かす時の『決め文句』を言い放った。
「幸樹・ちゃ・ん、分かったわね?」
「……嫌だ」
幸樹はすっかり『子供』の立場に据え置かれてしまい、それしか言い返せない。
そして母の勝ち誇った微笑がさらに広がった。
そして母は拗ねた少女のような顔で、ツンとしてキッチンへと戻ろうとしていた。
その背に、幸樹は悔しさを滲ませた声で、静かに尋ねる。
「……どうして、手放したんだよ。アンタが一番大事にしていたんじゃないのか」
「……」
拳を握りしめ、肩を震わせてる程に感情を露わにしている幸樹を、母が静かに肩越しに振り返り暫し見つめていた。
その時の母の顔。
初めて見た気がする?
なんだか哀しい眼差しで、いつもの脳天気な母ではなく──。
いつもの無邪気でふわふわしているのではない、年相応の麗しい女性に見えた事に、幸樹はドッキリしたぐらいだ。
「……譲ったといったけれどね。本当は返したのよ」
「返した?」
「そう。私とパパが結婚した時に……貸してくれていたから。その貸してくれた人の『縁の人』がこの街に来たから、『こちらから是非に』と言ってお返ししたの」
「どういう事だよ!?」
「そういう事よ。解ったなら、あちら様にご迷惑をかける様な事は『私』が許しません。解ったわね、幸樹さん」
「!」
母が母として譲らない時の顔になったので、幸樹は黙ってしまった。
「くそ!」
幸樹は鍵を握りしめたまま、また外に飛び出していた。
そんな突然の『別れ』を受け入れられるものか。
幸樹はそう叫びながら、やっぱりまた『薔薇の家』を目指していた。
どういった事情があるにせよ、あの家は幸樹の家だ。
……それでも幸樹にでも、どうにもならない訳があったとしても。
新しい住人を拝まない事には、もっと気が済まない!
・・・◇・◇・◇・・・
迷いはない。
不法侵入だ?
そんなもの、関係ない!
幸樹は躊躇わずに、薔薇の家の裏門に向かい、鍵を差し出していたのだが。
『鍵』は必要なかった……。
裏門も開いていたし、勝手口も開けっ放し……。
まさに引っ越ししてきたばかりの様子で、家全体の窓という窓、ドアというドアは開け放たれていたからだ。
(なんて無防備な……)
かえって呆れたぐらい。
それでも迷わず、敷地内に入り、キッチンの勝手口から家の中に上がり込んだ。
長い間使われていなかったキッチンが、いつの間にか綺麗にリフォームされていたので驚いた。
それも母の仕業と直ぐに分かる。
そこまでして? と、幸樹は新たな驚きを隠せない。
キッチンは対面式で、目の前には広々としたフローリングのリビング。
ソファーにテーブルは、幸樹が住んでいた時のままで、今となっては少しばかり懐かしき時代を思わせるデザインの物だ。
そして、床も綺麗にワックスがかけられている。
幸樹が数週間前に上がり込んだ時とは違い、どこもかしこもに磨き上げられている。
それだけ母が、迎え入れる心積もりをしていた事をうかがわせた。
リビングの大きな窓も全て開けられている。
そのリビングを出ると大きな藤棚がある縁台。
昔はそこに白いテーブルを置いて、太陽の日差しの中、薔薇が揺れるのを眺めながら、父と一緒におやつの時間を楽しんだ想い出もある。
そして──芝庭の薔薇園。
それを眺めつつ、幸樹はリビングを横切って、廊下へと出る。
廊下に出ると、直ぐそこに階段がある。
幸樹がその階段を見上げると……物音がした。
どうやら『主』は、二階で荷物の整理に没頭中のようだ。
勿論、迷わずに階段を上がった。
当然──足音を忍ばせて、だ。
階段を上がれば、また各窓から燦々とした光が二階の廊下を照らす。
裏庭の桜の木の葉がザワザワとさざめいている様子がちらちらと見える窓達。
物音は、やはり両親の元寝室から聞こえてくる。
(さっきの女か?)
声は若かった。
母親よりトーンが高めの声だった気がした。
家族で越してきたのか?
それとも──新婚なのか?
女がいるという家族構成を思い馳せながら、幸樹はその部屋にそっと近づいた。
そこもドアが開いていたのだが、今度は半開きだ。
その隙間をそっと覗いた。
ゆるいくせのある黒髪の波が、太陽の光に艶々と煌めき、初夏の風にはふんわりと柔らかになびいている。そんな黒髪の女が一人。
開いている段ボールから、ファイルバインダーを何層にも重ねて取りだし、立ち上がった。
だが、後ろ姿。
オリーブ色のカーゴパンツに、白いタンクトップの格好。
華奢な後ろ姿だが、彼女はそのバインダーを腕いっぱいに乗せて、父が使っていた古めかしい木造の机の上へと持っていった。
彼女はそれを置くと、暫く……机の直ぐ隣にある『出窓』の方に視線を向けて外を眺めていた。
出窓──幸樹が気に入っている出窓には、遠く海が見える。
それも気に入っている理由の一つだったのに。
自分だけで密かに隠している宝物のつもりだったのに……その宝物を、知らない女が勝手に覗いている!
顔が見えない横顔。
まつげだけが見えるその横顔が、幸樹が気に入ったように、彼女も当然の如くその眺めに『今、気に入っている最中』で浸っている事に気が付き、幸樹は我慢が出来なくなってくる!
幸樹はついに……! 扉をそっと手にとって一歩、部屋に入った。
それと同時に、その女が振り返る。
「!」
「……」
彼女の驚いた顔。
当然だろう。幸樹はこうして母親を驚かす事が時々あるぐらいに、静かに人の側に寄る事が得意だった。
目の前の彼女も、母親が驚いた時とまったく同じ顔をした。
いつもなら、ニヤリと密かに心で微笑みたい幸樹だが、この日は違う。
目があった彼女を真っ直ぐに睨み付けていた。
睨んだのだが──。
今度は、幸樹の胸がどくりと脈打った。
彼女の顔。
顔立ちは間違いなく、日本的──いや、言い方を変えよう。絶品と言いたくなる『大和撫子』。
真っ黒の髪に、真っ黒な瞳。着物、そうだ、着物が似合いそうな雰囲気。
京都の舞妓さんのように、しっとりとしたニュアンスを醸し出す表情。
「こ、幸樹さん……?」
「! なに? 俺の事……」
最初の一言は『アンタ、誰なんだよ』と敵意を込めて言う自分を想像していた幸樹としては、この会話はあまりにも予想外の展開だった。
彼女の『幸樹さん』という呼び方には、初対面のような言い方ではなかった気がした。
まるで、以前から知っているかのような……。
そうして幸樹が驚きのあまり、今度はそんな彼女をマジマジと眺めてると、そんな彼女はとても落ち着いている。
だけれど彼女が幸樹を知っているとしたら、いったい何時会った?
そんなふうにして、『幸樹生涯の記憶』を探ったが、彼女を思わせる記憶は湧いてこない。
きっと会っていたとしても、印象に残らなかったか?
しかし……正直に言うと。
(……やられたか、俺!?)
古風な日本美人的な顔立ちのせいもあるかも知れないが、幸樹の生活テリトリーで彼女がいたならば、声をかけてみたい女性だ。
そこには高校生でもない、学生ではない、とても落ち着いている大人の女性の匂い……。
これほどに心を奪われてしまうなら、ガキの頃に会っているなら覚えているかも知れないのに?
なんて、幸樹があれこれと思い巡っているその目の前で、彼女がクスリと笑みをこぼした。
「やっぱり、幸樹さんなのね。随分と男らしくなって!」
「は!?」
年上だとしても、それ程、歳も変わらないだろう彼女から、まるで子供に言いかけるかのような一言。
幸樹はムッとしたのだが……!
「早紀さんに怒られたでしょう? ここには行ってはいけないと」
「……!」
「私は、構わないのだけれどね」
『早紀』とは、あの天然嬢母の事だ。
それよりも、その幸樹の母の事を『サキさん』などと、年に似合わないどっしりとした声で呼んだ彼女の顔にも、幸樹はまたもや固まらされる。
彼女が話し始めたその声、喋り方もとっても落ち着いている……。
そして眼差し……。
幸樹が日頃、接する女性達の中にはない、なんだか幸樹の目の奥を見通してしまうかのような、とても鋭い、とても力強い眼差し……。
その『見透かされている?』という恐怖心は、本当に怖いのではなく、ドキドキとする『スリル』と例えた方が良いかも知れない?
幸樹の心は、そんなふうに震えてしまっていた。
「お、俺は……」
なんて、情けない事だろう!?
女子大生だって、余裕で付き合ってきたのに。
幸樹は目の前のお姉さんに、術でもかけられたように声も思うように出せなくなってしまった。
『幸樹!』
母の声が下の階から聞こえてきた。
幸樹はそれに気が付き、チッと舌打ちをする。
連れ戻されるだろうが、そんな事が嫌なのではなく、母の訳の分からない小言は妙に支離滅裂っぽくて、正直、頭がおかしくなるぐらいに『とぼけている』。それから逃れたいだけだ。
「早速、お迎えのようね」
「うるさいっ」
「あ、やっと口をきいてくれたわね!」
いちいち余裕げな女に腹を立てながら、幸樹は窓辺に向かった。
出窓のいつも腰をかけて座る場所に足をかけて登る。
そして、開いている窓に身を乗り出した時……。
「そんなところから、飛び降りるの?」
また、彼女の驚きもなさそうな落ち着いた声。
幸樹はまたもやそんな落ち着き具合に腹が立ちながらも、『いつも通り』にヒンヤリとした視線を肩越しに向けた。
また、幸樹の胸がざらついた。
彼女のその落ち着いた口振りから出てきた、間違いない父親の名前。その言い方、ずっと前から知っているような様子。
窓枠に足をかけたまま、幸樹はまた彼女をじいっと見つめてしまう。
だけれど、彼女も真っ直ぐに真っ直ぐに幸樹のその目を逸らさずに見てる……怖いぐらいに。
ついに幸樹から目を逸らしてしまった。
「こら! 幸樹!!」
そこに無言で幸樹を見送ろうとしている黒髪の彼女の後ろに、母が現れた。
幸樹はそのまま窓枠を掴み、ひょいと軽々と薔薇庭へと舞い降りる。
『わあ、さすがねっ!』
『凛々子さんたらっ!!』
──リリコ?
それが彼女の名前?
芝の上に着地した幸樹は、そこから日射しが射し込む二階を見上げた。
「幸樹!! 合い鍵を返しなさい!!!」
幸樹は母に舌をべっと突き出して、庭を駆け抜ける。
今日のところはここで退散。
だけれど、胸がドキドキしていた。
彼女の匂いがまだ残っている。
この家の花々に負けない、瑞々しい花の香り。
そして声、眼差し。
赤い花の中、その香りの中。
幸樹が気に入っているその薔薇の家に、住人が現れた。
そうなのかもしれない。
彼女は、元々あの家に住んでいた家人なのかもしれない。
今まで幸樹には見えなかったけれど、ずっとそこに住んでいたかのような、そんな気持ちにさせられていた。