ファミリーでのクリスマス。 今年もとても良かった。
賑わったパーティーが終わり、招待した親類に両親は夕方になると帰っていった。
純一と真一は葉月の両親と共に横須賀へ。横浜の澤村ファミリーは和之がそうしているように小笠原一番のリゾートホテルで一泊してから本島へ帰る。隣の海野家では、泉の父親が宿泊。あちらはまた改めて家族でのイヴを過ごしたことだろう。
そして御園若夫妻も……。子供達が寝静まってから、改めて二人だけの時間でクリスマスを祝福する時間がやってくる。
「これ、俺からのプレゼント──」
イヴの夜が更けていく。
そして夫妻は寝室にて二人きり。
寝室は今、葉月がクリスマスの為に買っておいたアロマキャンドルを灯りにして、仄かに明るい。
ベッドサイドの小物置きにしている小さなテーブルに、グラスが二つ。
二人きりの静けさのなか、夫の隼人がクリスマスの包装紙で包まれた箱を葉月に差し出していた。
「有難う。貴方」
葉月はそれを笑顔で受け取る。
そして、その中身は判っていた。
「俺のクリスマスの贈り物は、毎年恒例で代わり映えなしってところだな」
「ううん、楽しみにしているわ。本当よ」
夫は毎年、同じ物を葉月に贈ってくれる。
それは大好物の『チョコレート』。しかもクリスマス限定のチョコレート。
この時期になるとどの菓子店でも必ず店頭に並ぶ『クリスマス期間限定品』。色々な趣向を凝らし、素敵なラッピングで店頭に並ぶ。もし葉月が買いに行くなら、どこのどれを買おうか……いいや、全部買っちゃおうかなと思うほどとりどりに発売される。
隼人はそれを知って、いつからから前もってそれを選びに本島へ出向き、彼なりにひとつだけ選んで買ってきてくれる。
葉月は、それを楽しみにしていた。全部欲しい。でもその中でたったひとつだけ。夫が妻のことを思って『これが良いかな』と選んでくる。それが毎年同じチョコレートだと判っていても、どのようなクリスマス限定の品を選んでくれるか楽しみにしているのだ。
「さて、これも恒例だ」
さらに夫の贈り物にはもうひとつある。
それは『シャンパン』。シャンパンの銘柄も決まっている。黄金色の『モエ・エ・シャンドン』。
香りがよいからきっと葉月も気に入ると、結婚してから隼人がセレクトしてくれた物だった。
二人だけの寝室。キャンドルの明かり。二つだけのグラス。
子供達が賑やかにしている日中とは違う、二人だけの……。
隼人の手でグラスはいっぱいに満たされ、二人はまた改めて乾杯をする。
「ああ、今年も美味しいー」
シャンパンとチョコレートの組み合わせは、葉月にとってはゴールデンコンビネーション。
葉月は次々とチョコレートを頬張る。
隼人は一つつまんだ後は、いつもシャンパンだけ。
貴方ももっと食べなさいよと勧めても、元々甘い物がそれほど好きではない為、『もういい』と食べなくなってしまう。
「ほんっとうにお前は、チョコレートには目がないな。もっと大事に食って欲しいよ。口が真っ黒になるんだ」
「ひっどーい。旦那さんからのプレゼントだから一気に食べて有り難く思いたいのに。それに真っ黒って何よ。その口にいっつもキスしている人は誰よ」
ついそんな事を言ってしまった後、隣の夫が静かにグラスを置いて葉月をじいっと見つめていた。
これも毎年恒例?? シャンパンとチョコレートの幸せの後は……。
シャンパングラスを持っている手を握られ、隼人は葉月の手を静かにテーブルへと落とす。
グラスを置いて、俺をみてくれ──。彼がそう望んでいる仕草。
望まれたままに、彼を見上げた。
恋人同士だった時からずうっと変わらない見つめ合い。
このひととき。熱い想いも変わらない。
そう心の底から身体の底から、熱い何かが湧き上がってくるこの瞬間。
グラスを置くように誘われた手。
静かに見つめ合う眼差し。
シャンパンとチョコレート。
そして心の泉から湧き上がってくる想い。
──毎年恒例。
その泉に二人で踏み込んでいく。
熱くなり始めた息と息を交え、そしてやがて肌と肌を。
懇々と湧いてくる泉の中で、二人は寄り添ってその想いを泳がせる。
『想いの泉』の中に飛び込んだら、もう、二人はシーツの中。
熱くて離れていかない隼人の唇が、チョコレートで濡れている。
葉月の口の中で、まだ溶けきれずに残っている甘い欠片を、隼人は何度も確かめるように舐めている。
そんな夫の胸の下で、葉月は何度も唇を塞がれて、口の中にいつまでもとろりと残っているチョコレートまで荒っぽい舌先に奪われてしまい激しく喘いでしまった。
「毎年だ。お前の身体中、チョコレートの味がしてしまう」
「あ、貴方が……。私が食べ終わるまで待ってくれない……から……」
隼人の唇についたチョコレートはそのまま葉月の身体中に塗られていく。
唇の周りから、頬に耳たぶに、首筋を降りて、胸元にも。特に乳房のまわりに、胸の先には執拗に……。やがて肌に筋を描くようにして葉月の下腹部へと降りていく。最後には身体の奥から湧いてきた泉の水が溢れているそこにも、隼人は甘い味付けを施してしまう。
そうして隼人は『お前の身体はチョコレートの味になる』と毎年言う。だからこれも恒例。
でも。今年の隼人は、少しだけ格別だった。
あの横須賀で刻みつけられた闇に囚われて、そこから戻ってきたばかりだからだろうか?
まるでトンネルの出口で待ち構えていた妻に飛びついてくるかのよう……。
私を確かめているの? そんな、強く痛くなるほどに、愛撫しないで。もっと、優しく……いつものように……静かにゆっくりにとろけるように、だいて……?
でも葉月は、強く求める夫が連れてきたその大波の中へと引き込まれ、甘い泉の奥へ奥へと急速に溺れていく。
恒例の、二人のイヴ。
それが結婚四年目。定着しつつある。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・・
丁度良く、イヴの日は休日だった為に、ファミリーで集まって楽しむことが出来た。
しかし翌日二十五日はまだクリスマスだと言えども、週明けの仕事。特にこの日、大佐嬢は昨日の幸せなイヴの余韻を楽しむ間もなかった。
昨日は、大佐室を仕切っている二人──大佐嬢と副隊長の海野中佐はカレンダー通りの休日を二人揃って取ってしまった。
つまり、昨日イヴのファミリーパーティの為に。
いつもなら、休日返上でどちらかが出ていることが多い。二人揃って出ていることもある。それもこれも、休日の翌日に手惑うことがないよう、休日もなるべく仕事をためない為だった。
その為、本日の午前中はとても忙しかった。
ランチタイムもずれ込んでしまい、いつもより遅い昼食になった。
しかもいつも一緒に食事をする側近のテッドは『私はまだ行けません。だから大佐、先に一人で行ってください』と、まだ仕事をしている。
だから今日の葉月は一人で食事。カフェに行っても、もう、殆どの隊員達が食事を済ませた時間帯でがらがらに空いていた。
でも……。今日は珍しく一人……。
そう考え付いた葉月は、ひとりでにんまり。いつものサンドセットを購入し、それを抱えてカフェに背を向け歩き始める。
そうそう、こんな時は『あそこ』に限る。
グラウンドの芝土手。
既に開放感いっぱいの葉月は、ご機嫌になってそこへ向かう。
……はずだったのだが。
上機嫌で連絡通路を歩いて、さあ、外に出てやると思った時だった。
「大佐、お疲れさま。どちらへ行かれるのですか」
その声に、葉月はどっきりと固まり立ち止まった。
聞き慣れた声。しかもこの声にいつも小言を言われ説教をされ、大佐嬢特有の妙な行動を差し止められたことが何度あったことか。
だけれど、この声はもう大佐室で聞くことはなくなり、それはそれは久しぶりと言うべきか……。
そう思いながらそっと振り返ると。そこには工学科に異動した夫が、もとい『御園工学中佐』がいた。
「は、やと……いえ、澤村中佐」
ランチタイムという気が抜けている時、しかも誰もいない廊下で声をかけられた為、思わず妻の顔で夫の名を呼びそうになった。
だけれど夫の隼人は、眼鏡をかけた落ち着いた中佐の顔で、尚かつ、妻のことを『大佐』と呼び丁寧な言葉遣い。
だからこちらも、『中佐』と呼び直さずにはいられなかった。
婿養子に入ってから、隼人は『御園中佐』ではあるのだが、葉月は職場では隼人のことは『澤村』『澤村中佐』と呼んでいる。二人が一緒になるとどっちの御園の話をされているか分からなくなる為に、隼人がお前は俺のことは旧姓で呼んだ方が良いと言ったからだった。
その澤村中佐が、ちょっと怖い顔で妻を見ている。
「もしかして、『あそこ』に行こうとか?」
『当たり』と心で呟き、葉月はふいっと視線を逸らす。
その小さな仕草も、夫には見抜かれてしまった。
彼が口を開くその瞬間。葉月は言われる前に言い返す。
「だって、ランチタイムだもの。テッドが忙しいから私だけ先に……って。久々に一人だから、そこで食べたかったの!」
それはもう。大佐じゃなくて、いつものウサギさんになっていたと葉月は思う。
そんな自分になってしまったことに我に返り、葉月は二人きりの廊下でそっと頬を赤くしてしまった。
「俺、まだ叱っていないけど」
「うそ。今にも叱りそうな顔していたもの!」
そこもいつものお嬢ちゃんに逆戻り。
この夫妻の光景を、誰かが目にしていたら『あの冷たい大佐嬢が』と驚くか、夫の前では子供のようなお嬢ちゃんであるのを目にして笑うかもしれない? そんな自分になってしまっていた。
そして最後には、隼人の方がふっと小さく笑いをこぼしていた。
「なんだ。遅いランチタイムになってしまったんだな」
「昨日のツケ。午前中、テッドと達也と大わらわよ」
やっと隼人の表情がいつもの夫の顔になって、葉月はほっとした。
だがこんなところで鉢合わせをしてしまうだなんてと、葉月も隼人に聞き返す。
「貴方はどうしたの? こんなところで……」
工学科はもっと向こう。
人影もない、近くに班室も事務所もない廊下を一人で歩いているだなんて。何かの用事だろうが、それにしては離れたところにいると葉月は思った。そんな夫の答は。
「さあね。なんでだろうね」
『さあね』って……と、夫の口から出てきた一言に、葉月は眉をひそめる。
それって元は『私の口癖よね』と、言いたくなる。
近頃、夫もこのセリフをよく言うようになったと聞かされている。御園の人間になってきた証拠なのだろうかと思ってしまう。
なんでも大佐室にいた頃とは違って、風来坊的にふらっと何処かに行ってしまうのだとか。
でも、葉月には分かっていた。彼はこれからやろうとしている大きな仕事の準備の為に、自分なりに思うところへと足を運んで、小さな事からこつこつと積み上げることを始めているのだと。
この位置で鉢合わせたなら、二中隊か一中隊の本部か、空部班室か。どこかの先輩の元へ挨拶がてら出向いて、いろいろな話をしてきた後なのか。はたまた、あちこちにある図書室や資料室を巡ってきたかだろうと……。
「貴方も忙しそうね」
「ちっとも。暇なあまり、こうしてうろうろ。なんだか大佐室と四中隊の皆には悪いくらいだな〜」
最近、彼が見せ始めた姿だった。なんていうか『飄々』。
だが『飄々』と見せかけつつも、ちゃんと忙しく動いてくれていることは、一応妻の私には分かっていると労ったつもりなのに。この人は本当に天の邪鬼というか。妻の目の前でも、きちんと何かをやってきた帰りで俺も忙しかったと白状するつもりはないらしい。
だから葉月は、ちょっとふてくされて隼人から背を向けた。
「じゃあね、そういうことで」
彼は俺なりにやりたいことがあると、大佐室を自ら出ていったのだ。
もう葉月に関与させてくれないなら、これ以上、基地の中では家庭でそうである夫妻になる必要もないとばかりに離れようとしたのだが。
「なあ、良かったら科長室に来いよ。今、皆、出払っていていないから」
葉月は『はあ?』と、夫を驚きの顔で見た。
つまり。今、俺がいる部屋には誰もいないから、そこでランチをしたらどうだと、誘っているよう?
まさか。有り得ない。仕事とプライベートをきっりちと分けることを信条にしていたはずの『澤村中佐』が。妻に俺の事務室においでよ。なんて、誘うとは……。
「まあまあ、いいから来いよ。そう固く考えなくてもいいだろう」
返事が出来ずにいる葉月を見て、隼人は躊躇っている理由も察したのか可笑しそうに笑っている。
固く考えなくてもいいだろうって。この旦那さんは、本当に工学科の副科長になってから変わったと思った。
「差し入れでもらったケーキが溜まっているんだ。吉田だけじゃ食べきれないらしいから、手伝ってくれよ。ミルクティーもサービスだ」
それを聞いて、大佐嬢はつい……。『行く。お邪魔する』と返答していた。
美味しいお菓子の話が出てきたら、即答の奥さんに隼人は苦笑いを見せた。
「ほんっとうに、甘い物好きだな。まあ、助かるよ。うち、男ばかりだから」
男ばかりの事務室。女性は今のところ小夜一人。
四中隊なら経理班の女性に手渡せば一気になくなってしまうところ、工学科では大変なよう。
葉月は思わぬデザートの収穫を得て、大佐嬢ってだあれ〜なんて思いながらご機嫌で旦那さんの後をついていった。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・・
「紅茶いれるから、座ってくれ」
本当に誰もいない工学科科長室にお邪魔して、葉月はソファーに腰をかけた。
大佐室より狭い科長室には、狭いだけでなく、デスクが数人分詰められ、その上はしっこに取って付けたような給湯スペース、そしてなんとか置いている応接セット。かなり窮屈な事務室に見える。さらには科長室メンバーの机の上も、資料や書類が積み上げられ、かなり雑然としている。
でも、もう数年前にここに行きたいと出ていった夫は、すっかり慣れた動きで壁際の給湯スペースにあるコンロにやかんを火にかけ鍋まで手にした。
ああ、丁寧にも。妻が大好きなミルクティーを入れてくれるのだと思った。
「その間に、サンド食べていろよ」
「そうね。では、頂きます」
あつあつのミルクティーが出てくるまで少し時間がかかるだろう。
その間に、いつもお腹を埋める程度に食べているサンドふたつぐらい、頃合い良く食べ終われる。
いつもの包みを解いて、葉月はもくもくと食べ始める。
その間、無言でお湯が沸くのを待っている夫の後ろ姿を眺めていた。
その背を眺めつつ葉月は思う。
恒例のチョコレートとシャンパンで乾杯するのは、夫からの決まった贈り物というよりかは、二人の儀式みたいなものだった。
だからプレゼント交換という意識は元々ない。恋人時代から特になにをする訳でもなかったが、結婚後は二人でそれをするというのが決まりつつあるのだ。
今年は四年目のクリスマス。それは決まりつつあると言っても、今年はいつもとは少し違っていたと葉月は思った。
夫の今年のあの言葉──『この時期は俺の目の前にいてくれ』。
気が付いたのは去年。少しだけ隼人の様子がおかしくなって、妙に葉月を傍に置きたがるような気がしたのだ。買い物に出かけるだけでも、隼人の見送る顔が違っていたような気さえした。
もしかして北海道旅行の帰りに遭遇したあの事件。あれを気にしているのかと思いついたのが昨年で、直ぐには『そうなのか』とは聞けず……。もし逆に自分だったら、敏感に感じている時にはあからさまに突っ込んで欲しくはないし、またはそれでパートナーを心配させたくないという思いで平気な顔を保とうとするだろう。
だけれどその反面、『水くさいな』とも思う。それは今までは夫の隼人の方が、暗闇を独りで彷徨う葉月を見守っている中で何度も感じたことだったのだろうとも思った。
言って欲しい。でも、きっと彼は言えないだろう。さあ、今年のこの時期、私はどうしたらよいのだろう……。
また幽霊に塗り込められた忌まわしい時期がやってきてしまう……。
そんな時。本島の出張の際、葉月も百貨店を歩いてみた。プレゼントなんて。自分達には自分達のスタイルで過ごすクリスマスがある。今年もきっとプレゼントというよりかは二人でチョコレートを食べる。それが一番の幸せなんだと。
でもそう思っている時、マフラーが目に付いた。小笠原では役に立たないマフラー。でも葉月の中でずうっと封印していた物が奥底から湧き上がってくる感覚があった。
──そろそろ。良いのではないだろうか。
そんな思い。
私達にとっては、新婚旅行にも等しかったあの北海道旅行。その時に交換したマフラー。
でも片割れが血塗れになって手元から消えたから、葉月が新千歳空港で買った隼人への白いマフラーは、彼はどこかにやってしまったようだった。捨てていないような口振りをみせている隼人だが、それでも葉月はあれから目にしたことがない。それはきっと隼人もしまい込んだまま出したりしないのだと思った。
もしかすると意識が遠退く葉月の手を握りしめてくれたあの時に、彼のマフラーにも血液が付着したのかも知れない。……だったら捨ててしまったのか。
悪い出来事に遭遇するとなかなかそれが消えてくれないことは、葉月が一番良く知っている。あの時のことは私達にとっては最高の旅、そして最悪の想い出。それとワンセットになってしまったから、素敵な想い出の一部まで血で汚されてしまい隼人は奥底に封印してしまっている。
血だらけになった自分を見て、隼人はどう思ったのだろう。そんな時、葉月の脳裏にはぼろぼろになった姉が思い浮かぶ。──きっと、こんな気持ちでいるに違いない。葉月は自分のことと重ねそう思うことが出来る。それは本当に最悪の記憶に違いない。
それでも、葉月はこの年、敢えてそのマフラーを手にとって買っていた。
様子を見て、良さそうだったら渡そう。そんな程度で買った。渡せなくても良い。でもマフラーというあまり良くない記憶の中にあるアイテムになってしまった物を、いつか自然に持てるようになったら。そんな思いで包んでもらった。
──あっちはもうだいぶ寒いだろうから、暖かくなれるものでも買おうか。
ある日。横須賀に出張に行くことになった夫がいきなりそんなことを言い出した。
この時期に、彼が横須賀に行く。あの最悪の場所に降り立つ飛行機に乗って。葉月は密かにそれを案じていた。
案の定、一緒に眠る夫の様子は少しおかしかった。寝付きが悪くて、溜息が多くて、落ち着きなく寝室を出ていっては書斎に出向いて本を持ってきたりと気を紛らわしている。それでも本も読めない状態に直ぐに陥る。本を読み始めたら、隣にいる妻などお構いなしというほどに集中できる彼らしくなかった。
そんな夫が、冬のアイテムが欲しいと言いだしたのだ。
既にクリスマスの贈り物として持っていた葉月。すごく躊躇った。イヴに渡したい為の躊躇いではない。イヴに渡そうとしたのは、封印されたアイテムを良い想い出を思い出すアイテムとして取り戻すきっかけに過ぎない。
マフラーという最悪の記憶を携えているアイテムを、横須賀へと出かけることに敏感になっている夫に、今渡すべきかどうかだった。
封印されたアイテムを手渡すことが、良い方へ転がるのか悪い方へ転がってしまうのか……。 葉月はその決断を迫られる。
そしてついに出張へと出かける隼人を見送る時、こっそりとクリスマスの包みをといて、さりげなく夫に渡した。
隼人は不思議そうな顔をしていたけれど、特になにか気にする訳でもなく『有難う』と笑顔で出かけていったのでほっとした。
大袈裟な考え方かもしれないけれど、あのマフラーが彼を守ってくれたらいい。そんなことを葉月は思いながら、横須賀へと出かける夫を見送った。
それは成功したと言っても良かった。
ただ、夫はやはり過敏になって帰宅してきたようで、それを感じ取っていた葉月は早退して正解だったと思った。
でも、嬉しかった。
やっと夫が寒かったという心を葉月に見せてくれた。
そして、いつまでも俺の目の前で生きていて欲しい。そう言ってくれたのだと思った。
隼人が自分の為に、さらには妻の為に願っている一言。今年のクリスマスはそれが一番、印象深い。
そして昨日のイヴ、幸せそうに楽しんでいた夫をみて、葉月も幸せになる。
彼には出会った時から気苦労をかけている。なのに、葉月を失いそうになったトラウマまで抱えてしまって、申し訳なく思っていた。
だから、葉月は自分よりも彼に幸せになって欲しいと思っている。
それならば、いつでも自分も笑っているべきだと、妻になってから強く思うようになった。
だからこそ。昨夜の熱いひとときも……格別だった。
未だに彼はあんなに葉月を強く求めてくれて、あんなに必要としてくれて……。
紅茶を淹れている夫の凛々しい中佐の背中を見つめていたら、また昨夜の熱いひとときを激しく思い返してしまった。
甘ったるいチョコレートに、きゅっと胸を焦がすシャンパン。
それに似た、夫との睦み合い。
熱い肌に甘いショコラの匂いが漂って、そしてとろりとした彼の愛撫に……。
また今淹れてくれるその紅茶も──。上官をもてなす訓練をしてきたそのままに、中佐のシビアな背中と凛とした横顔で真剣に作ってくれているけれど。実際にその手先は、妻好みに甘ったるく味付けをしてくれるのかしら? なんて。葉月はちょっと嬉しく微笑みながら、そんな隼人の背を中佐ではなく愛しい夫としてうっとりと眺めてしまっていた。
そんな時、コンロにいる夫がふっと振り返り、目がばっちり合ってしまった。
これは不意打ちだった。基地では絶対に夫のことは『澤村(御園)中佐』。大佐室で共に勤めてきた時のまま、葉月は妻でもはない大佐嬢の冷たい横顔を常に保ってきたつもり。
なのに今日は、夫からその法則を崩しかけてきたから、こっちも緊張感が解けてしまっていたじゃないか。……しかもあらぬことか。昨夜の熱いひとときを、事細かに思いだして、もしかしたらにやけつつ、お昼のサンドウィッチを食べていたかもしれない。
その瞬間を見られた気がした葉月。一気に頬が身体が熱くなってしまった。
「どうした。そんな驚いて」
「え? な、なんでもないわよ……」
大佐嬢が大佐嬢らしくなくなっていることに、隼人も気が付いたようだ。
ちょっと呆れた顔で、出来上がった紅茶カップをトレイに乗せて持ってきてくれる。
ほとんど食べ終わったサンドウィッチの包みの側に、澤村中佐はそのカップを置いてくれた。
「頂きます」
「どうぞ、どうぞ。基地でお前にミルクティーを入れるのは久しぶりだな」
本当だわと、葉月もまた嬉しくなってカップを手に取った。
一口味わうその姿を、夫が見下ろしている。毎朝、作ってくれるから味の保証はばっちり認定済。でも今の『澤村中佐』は、大佐嬢には久しぶりに入れたんだとばかりに緊張した顔をしている。
「美味しいわ。流石ね。この基地で私に一番美味しいお茶を入れてくれる隊員さんだものね」
「だろ。でもプライベートではジュールには負けるみたいで」
「彼は、年季が入っているもの。お祖母ちゃまが元気だった頃から淹れているのよ」
「いつかは越えたいね。亮介お義父さんにも、レイチェルママと同じ味だと言わせたいな」
父の亮介も、子供の頃は好物だったというミルクティー。
今、御園家で一等賞はジュールのお茶だった。エドも隼人も追いつけ追い越せとばかりに腕を磨き合っている。なのに、どういうわけか──あの義兄だけはそこはのんびりしていて、適当に淹れてしまう。あのエスプレッソ好きの義兄が淹れるもんだから茶葉が多すぎて渋かったり、砂糖少な目で甘くない味になってしまうよう。葉月と同じように真一も、幼少から慣れ親しんできた御園のミルクティーが大好きな為、そこだけは『親父のへたくそ!』と言っているらしい。実は葉月も同感。きっと義兄のことだから、そんな甘い物は淹れられない。ジュールにお任せで安心しているのだろうと思った。
それにしても、やはり主人が淹れてくれるミルクティーは、今では葉月の日常の味。格別だった。
特に基地でこのお茶が食後に飲めるとは、これはまたクリスマスも仕事の奥さんとしては、とっても嬉しいアフターサービスと思ってしまったほど。葉月はまたご機嫌になってしまいそうだった。
妻が美味しそうにお茶を味わっているのを確かめて、隼人も笑顔をみせてくれる。
そしてお約束のデザートも持ってきてくれた。
可愛らしいショコラデコレーションのブッシュドノエルに、クリスマス向けのクッキーなど。営業さんや出張から帰ってきた工学科隊員のお土産などでもらったとのこと。
「好きなだけ食え。あー、でもそうなると、またお前が甘ったるい味に匂いになって……」
隼人はそこまで言って、黙ってしまった。
彼もつい……昨夜の『甘い味』を思いだしてしまったようで、うっかり口が滑ったとばかりに頬を赤くしている。
でも……葉月もそんな旦那さんをみて、胸を熱くしていた。自分も、甘い味付けをされた昨夜を直ぐに思い返してしまうから……。
「い、頂きます」
「ど、どうぞ……」
基地の中では、大佐嬢と工学科副科長の中佐。
それを保たねば。でも今、ここにいる二人は紛れもなく夫妻の気持ちになっている。それも、昨夜の熱愛の余韻をお互いに引きずっている夫妻。
葉月だけじゃなく、隼人も、まだチョコレートの匂いから解放されず、職務中も甘い疼きに密かに溺れている。
いけない、いけない。
葉月はそう思いながら、なんとか熱を冷まそうと目の前にある美味しいお菓子に集中する。
なのに……。小皿を手にして無言で美味しいケーキを食べ始めた葉月の隣に、隼人は静かに座ってしまった。
向かいの席ではなくて隣。だから葉月はかなりどっきりとした。この事務室のソファーは小さくて狭い。隣り合って座ったら肩と肩が触れてしまう。なのに、隣?
そんな夫が何を考えているのか確かめるように顔を見上げると、これまたどうしたことか、なんだかとても思い詰めた顔をしている? なにか言いたそうにしているけれど躊躇っているような口元。まるで思い人を目の前にして、言いたいことを言えずにいるような若青年のような雰囲気で──。
そんな顔をされたら……。
結婚四年目だというのに、二人きりの事務室というだけで隣の男性にドキドキしてしまっている葉月。
そこを誤魔化すかのように、葉月はケーキを頬張った。
そのうちにやっと隼人が躊躇っていたことを口にした。
「マフラー、本当に有難う……な。心強かったよ」
マフラーの話が出てきて、葉月は少し緊張しながら『うん』とだけ答える。
隼人は出張から帰ってきた日も『暖かかった』と優しく伝えてくれたけれど、それっきり。やはりまだ繊細を要する問題かも知れないと葉月もあれ以来触れていない。
「良かったよ。葉月の手から渡してもらえたことで、これはこれで良い想い出でもあるあの時を、嬉しく思いだせそうだ」
「貴方……」
「次回の横須賀出張では、あの時葉月に選んだような若草色のマフラーを探しておくよ。お返しにプレゼントするから楽しみに」
それを聞いて……。葉月はふと泣きそうになった。
自分の中でも、あの色のマフラーを見ると哀しくなることがあった。
彼が選んでくれた色なのに、どこか遠くなり、隼人もその色を選んでくれなくなったり……。さらには葉月はその色のものを買うことを躊躇ったりした。
出来れば、もう一度、隼人に選んでもらいたいから……。
そうしたら、彼がついにあの色を取り戻してくれると言ってくれたのだ。
「あの色、気に入っていたの」
「うん……。俺も今でも葉月に似合っていると思っているよ」
失ったのは、マフラーというアイテムだったかもしれない。
でもそれは二人にとっては、なくしてしまった時間に想い出を取り返せたという意味だった。
また来年も隼人は、少しばかり心を痛めるだろう。そんなに簡単に忘れられる物ではないことが、事件で傷ついた葉月にはよく分かるから……。
でも、二人で少しずつ取り戻している気がした。
「じゃあ、楽しみにしているわ」
「ああ、楽しみにしていてくれ」
夫妻の会話はそこで止まる。
繊細な問題だから、またこれ以上触れまいとか、この話題を警戒しているから言葉が出にくいのではなく……。
もう、これで充分、二人の間では解決できたと思えたからだ。少なくとも葉月は。そして隣の夫もきっと同じように分かってくれていると葉月は信じていた。
二人は無言になってしまったけれど、肩を寄せ合って微笑みあっていた。
どこかしみじみと。お互いに噛みしめているようなじんわりと温かい空間に、また二人揃って寄り添い泳いでいるような感覚だった。
そのぬくもりを感じながら、葉月は最後の一口を頬張る。
これを頬張ったら、大佐嬢の顔になって、ここを出て行かねばならない。
チョコレートが大好きで、甘ったるい匂いに味のする奥さん。だけれど、ここを出たら冷たい横顔の大佐嬢になって……。
『ご馳走様』と言いかけた時、隣で黙っていた隼人が急に小さな笑いをこぼしていた。
「ちょっとお前、こっち向いて」
「え、なあに?」
隼人のしっかりとした骨格の指先が、葉月の顎に優しく触れた。
「まったく、子供みたいだな。カイと杏奈と変わらない」
「え、どうして?」
「ここ、クリームが付いている」
隼人の指が口の端をつついた。
葉月の唇の端に、チョコレートのクリームが残っていたようだ。
それをその指先で拭おうとしてくれている……と、思ったのだが。
ふいに。隼人の唇がそこに触れ、すうっと軽くクリームを吸う音……。
また澤村中佐らしからぬことを!? と葉月は驚く。今、葉月のランチタイムと言えども、誰もいない事務室に二人きりと言えども、職務中なんだけれど!? 葉月の身体は一瞬強張った。
「い、今はここでは、だ、だめ……でしょ。ね、貴方」
「たまにはいいだろう? 馬鹿みたいに甘くてもいいさ、今日までは」
まだ職務中の身であることを捨てきれない葉月の迷いなど厭わず、隼人にはそのまま唇までも吸われてしまった。
葉月は小さな呻き声でちょっとだけ抵抗したが……。
そうね、今日まではクリスマス。
馬鹿みたいに甘くてもいいわよね、今日までは──。
明日からはまた、甘くない毎日。
だからほんのちょっとだけ。
葉月はそのまま、再びチョコレート味に染まった唇を夫に捧げる。
来年も、私は貴方の傍に目の前にいるわ。
そしてまた私達を脅かす黒い夜を越えて、甘い匂いの一夜を迎えましょう。
熱く湧き出る想いの泉をどこまでも、二人で漂い寄り添って泳ぎたい。