街路樹に、小さな光の粒が無数に輝き始める頃。
彼はそれをふと見上げて、『クリスマス』の記憶を辿ってみたが、なにも思い浮かばなかった。
師走の日暮れは、よりいっそう早い。
街並みは、白や青を基調にしたイルミネーションで溢れている。
今月に入ってからさらに、この雰囲気は増してきた。
もうすぐクリスマス。日本でも盛大に行われる季節がやってきたようだ。
横須賀市内のある場所に運転させていた車を停めさせ、純一は後部座席から外に出て腕時計を見た。
連絡した時に決めた時間はそろそろなのだが……。
暫くすると、目の前に見知らぬ白い国産車が停まった。
運転席には軍服を着た栗毛の青年。彼は車を停めると直ぐに外に出て助手席側にやってきたかと思うと、丁寧にその助手席のドアを開けた。
そして助手席から、これまた栗毛の軍服姿の女性が外に出てくる。
義妹の葉月だった。
運転をしてきたのは彼女の側近であるラングラー少佐。
丁寧に徹した大佐嬢の扱いに、純一は毎度、感嘆の溜息を漏らす。
しかも彼は純一にも丁寧な一礼をしてくれ、純一も礼を返す。すると彼はまた運転席に乗り込んでしまい、あっというまに大佐嬢だけ送り届けて去っていったのだ。
なんとまあ、風の如くの手際。もし純一が彼のボスだったなら、手近に置いて一緒に働いてみたいと思うほどだ。
純一の目の前にやってきた義妹。
これから二人で食事に行くというのに、義妹はいつもの軍服姿。
しかも、側近の後輩に送り届けてもらうとは……。
純一は葉月を見下ろして、そこまで後輩の男を私事で使ったことに、ちょっとした説教をしてみたくなったが、やめた。何故なら……。
「なんだ、そんなに忙しかったのか」
「そうよ」
まあ、忙しかったなら仕方がなかろう? ただ純一が義妹をみて眉をひそめたのは、彼女が初っぱなからぶすっと『不機嫌』な顔をしているからだ。
「どうした。なにか気に入らないのか?」
「別に。行きましょう」
葉月はさっさと運転手が待つ純一の黒い車へと乗ってしまった。
純一はちいさな溜息をついて、後部座席に戻り、葉月の隣に座った。
夕暮れの横須賀を走り、横浜へと向かう。
静かに車が走り出す。今夜は食事でも酒を楽しみたい為に運転手を頼んだ。その車がゆっくりと走り出したのだが、隣に座る義妹はむっすりと外の海を眺め、黙り込んでいる。
どちらかというと、二人きりの時、雰囲気を盛り上げてくれるのは無邪気な義妹。純一はそれを黙って聞いて、相づちを入れたり、時々笑ったりする。それがこの義兄妹が二人でいる時の雰囲気だ。
だからこうも義妹が黙ってしまうと、なんだか、純一も居心地が悪い……。
本島で泊まりがけの仕事があると聞いたから、『それなら、その晩の夕食は一緒にしよう』と純一から誘った。
その時、携帯電話の向こうの葉月は、小さな声で『うん……』と言ってくれただけ。だが純一も分かっている。その時、義妹が可愛らしく照れて黙っているのが直ぐに頭の中に浮かんだほど。そんな小さな反応だけの返事。
その後、義弟の隼人と連絡することがあって、その時も彼が──『葉月、あれは密かに楽しみにしていると思うなー。喧嘩なんかしないでくれよ。泣いて帰ってくるから』──なんて釘を刺さした程に、義妹は純一からの誘いがあった後、嬉しそうにしていたらしい。
実は、そんなふうに言葉も少な目な間柄の義兄妹。義弟はそこを良く見抜いていると、純一はぐうの音も出ず……。『喧嘩はしない』と誓った。
しかし義弟の隼人が心配するのも無理はないかも知れない。ただでさえ、お互いがあまり喋る方ではない義兄妹。なのに素直じゃない義兄の純一がちょっと心とは裏腹の意地悪い一言なんかを『これぐらい義妹は大丈夫』と思って呟いてしまうと、時には葉月は哀しそうな顔になり、時にはむっすりと怒ってしまうという事もしばしば起きる。そんな時も純一は取り繕ったりはしないが、『しまった、やってしまった』と思ってしまうのだ。まあ、その後は不思議と自然な仲直りをしている。純一がそれとなく歩み寄ることもあれば、義妹からいつもの無邪気さで明るい雰囲気に戻してくれる。
だから、隼人が言うには『そんな義兄妹をみていると、時にはめちゃくちゃじれったい』らしい。だが『それが兄さんと葉月らしさでもあるのだな』とも彼は言う。
そんな喧嘩をした時などは、葉月は夫の隼人には『兄様とこんな哀しいことがあった』と直ぐに気づかれてしまうようで、彼に隠し事をするのは苦手で、それ以上に素直にありのままの自分を自然と見せてしまうようだった。もしくは、義弟の隼人が敏感に妻の様子を察してしまう。義兄妹が喧嘩をすれば、もう、隼人にとっては一目瞭然。しかも彼は妻が可哀想になってしまい、でも慰めるのはちょっと腹が立つらしく、『喧嘩の元は、兄さんだ。兄さんが悪い』と勝手に悪者にされてしまい逆に純一が小言を言われたり説教をされたりするのだ。
純一もそれは御免だし、義弟の隼人も『腹立たしい』ので、義兄妹が喧嘩をすると、葉月じゃない男二人がフラストレーションを男の間だけでぶつけ合ってしまうのだ。
(それもダメージだ。絶対に、喧嘩はしない)
……と、純一は思うのに。義妹は既にご機嫌斜め、危うい雰囲気だ。
そしてこの日の義妹は、制服姿。
これにも純一は『まったく……』と、溜息をこぼしたくなる。
この義兄と食事に行くというのに、なんだろうか? その、義妹の少女から二十代前半頃の意地っ張りな面を突きつけられているような気にさせられる。
意地になって『女性らしくしたくないから、制服だけ』というその心理を、この日もこの義兄に当てつけているような気がしてならない。
「お前、着替えは持ってこなかったのか」
「持ってきたわよ。でも、忙しくて着替えられなかったの。見たでしょ。テッドが送ってくれなかったら遅刻」
淡々とした横顔で葉月は呟き、さらに携帯電話を手にした。
あろうことか、この義兄の横でどこかに連絡をしようとボタンを押した。
「私よ。そっちはどう? そう、ええ、分かったわ。明後日には戻るからよろしくね」
どこに連絡しているのやら……。
小笠原の本部だろうか。それでも葉月の携帯電話の向こうから、若い青年の声が立て続けに聞こえる。
葉月はそれを黙って頷きながら静かに聞いている。隊長の用事は留守の確認程度でも、向こうの青年は葉月からの連絡を待ち構えていたかのように、沢山の報告に質問をしているようだった。
「分かったわ。大丈夫よ。貴方の判断で……。嘘じゃないわ。もし、間違っていたら私もちゃんと言いますから。安心しました。それではまた連絡しますね」
そうして義妹は、部下を安心させる一言を付け加えて電話を切った。
横目で眺めていた純一も、ここは『ふむ』と唸ってしまうところだった。
「なるほど。うるさい指示はせず、彼が不安に思って下した判断でも自信をもたせる。それを繰り返していけば、彼も成長するだろうなあ」
「別に。彼はもともとちゃんと実力はあるんです。助けられているのは私の方なんだから……」
うむ。良く言った! と、ここも褒めたいところ。ただ、葉月の横顔がこの義兄と出かけるというのに不機嫌な顔に対し、部下を安心させようとするその横顔はとても柔らかいものだった。そこも褒めたいところだが、隣にいる男としてはちょっと気にくわない。『なんだい。その冷めた横顔は……! 俺がなにをした!』と、心の中だけでは純一は義妹に抗議していた。
車が走る中、純一はもう一度葉月に聞いてみた。
「お前、なにか怒っているのか?」
「なーんにも」
やはり無表情に答える義妹。
『ほう』と純一は葉月に向けて目をすがめてみたが、今度はよく分かった。
その言い方、お前、やっぱり何か怒っているな──と。純一は、確信した。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・・
さて。その義妹がなにを怒っているのやら。
流石の義兄も考えあぐねたまま、予約したレストランにたどり着いた。
高層ビルにあるフレンチのレストラン。夜景が美しい店だった。
「いっらしゃいませ、谷村様、御園様」
純一も右京も出入りしているレストランの為、いわば、御園家御用達と言おうか。
なのでここのスタッフは、葉月の顔も、夫である隼人のことも良く見知っていた。
今夜もいつものマネージャーが出迎えてくれたのだが、彼は葉月を一目見てちょっと驚いた顔。
「今宵は、軍服ですね。お嬢様、珍しいですね」
葉月はちょっと苦笑い。
「それが忙しくて着替える間もなくて……」
「それほどまで。ですが、ご活躍されている証拠ですね」
マネージャーの程良い接し方、そして顔見知りである為、ここでは葉月はいつもの気の良いお嬢様の笑顔を見せていた。
なのに、窓際の席につくなり、また純一に対してはむっすりとした顔。
もう一度、聞きたいところだが。あまりしつこく聞くと意地なる義妹だと分かって、純一も徐々に不機嫌になりながら、メニューを眺める。
さて、今宵はどのような飲み物にメニューを組み合わそうか……。葉月には軽めのグラスを一杯、そして彼女の好物をさがし……。いつもリードを任せてくれる義妹の為にあれやこれやと試行錯誤中……。やっとまとまりかけた時、流石のタイミングでマネージャーが自らオーダーを取りに来てくれた。
さて、今宵のご馳走は──と、純一が口を開きかけた時だった。
「私、コルドン・ロゼ」
いつもは『お兄ちゃまにお任せ』という葉月が、勝手に注文をした。
純一は眉をひそめ、向かい側にいる葉月を見たが、彼女は素知らぬ顔。
いつもと様子が違うことを察したマネージャーすら、純一を確かめるように一瞬見下ろしたが、そこは上手く機転を利かせてくれ葉月のオーダーににっこりと返答をして流してくれた。
「私も同じもので……」
「あとはお兄様にお任せ」
同じようにメニューを広げている葉月が、その影から妙に勝ち誇ったにんまりとした眼差しを差し向けてきた。
(お前、ワザとか!?)
やっぱり、なにか怒っている!
益々、純一は確信した。
純一はどちらかというと、こういうことはきっちりとしていないと気が済まない質。
この飲み物にはこれが合う。元々、そんな組み合わせになるようなものがメニューに載っているものだ。
その中からさらに相手の好みに合うものをチョイスして……と決めるのが、実は得意で好きだったりする。それを義妹の葉月も良く知っていて、だからこそ、そこは気持ちよくこの義兄に任せてくれ、それを互いに楽しんだりするのだ。
なのに、今夜の義妹ときたら、会うなり不機嫌な上、それが何かの仕返しでもするかのように、義兄の選択に水を差したのだ!
(俺が選んだ物を総崩しか、このチビ!)
ここでいつもの口悪を叩いては大人げない為、ここはちょっと悪戯な顔をしても義妹という立場で許される葉月の思うままに据え置かれた。
しかも、選んだワインは、ピンクのシャンパン『コルドン・ロゼ』と来た!
とりあえず、平静を保って先ほど決めておいたメニューをオーダーした。
また二人きりになって、純一はもう一度、意を決して聞いてみる。
「だから、何が気に入らない」
「なーんにも」
「そんな子供じみた誤魔化しなんか俺には通用しないぞ」
そこは昔から変わらないチビの顔で、葉月がふてくされた。
きっとこれ以上『お兄ちゃまに仕返しの意地悪』をしても、もう通用しないと悟ったのだろう。
「……気が付いていないなら、いいの」
「わからんな。俺はお前が怒るようなことをした覚えはない」
「ふーん。じゃあ、一生、分からなくて結構!」
ついに葉月がつんと顔を背けてしまう。
純一も小さく、溜息をこぼした。
最悪だ。やっぱり最悪の夜になりそうだ。
きっとお前のことだから、無口な攻撃でこの夕食をつまらないものにして俺を困らせるのだろうなあと、純一は今から繰り広げられる光景を思い浮かべ、自分もふてくされた。
やがて葉月が頼んだシャンパンがやってきて、二人は淡いピンク色に染まったグラスを静かに合わせた。
ところが、シャンパンを一口味わった途端に、葉月は明るくなった。
「はあ。美味しいー」
「ったく。もっと辛口のワインにしようと思ったのに。お前はいつからコルドン・ロゼなんだ」
「山崎先生が以前、ご馳走してくれたの。今日はね……ちょっと、そんな気分」
薔薇のラベルのワイン。ピンク色のシャンパン。
どのような気分だというのだろうか。
純一はあまり選ぶことのないシャンパンが入っているグラスを見下ろした。
「ほんっとうに忙しかったのよ。遅刻しても、兄様はなにも言わなかったと思うけれど……」
「怒るものか。着替えてくれば良かったんだ」
「私だって楽しみにしていたわよ。ちゃんと……お洒落に揃えて、それを着るの楽しみにしていたのに。この前、お兄ちゃまが買ってくれたピンク色のお洋服よ。着られなかったから、じゃあ、シャンパンだけでもってね、思ったの」
それを聞いて、益々純一は惜しく思った。
すっかりお洒落を好むようになった義妹には、たまにこうして一緒になった時にサロンで洋服を合わせて買ってあげることもある。
この範囲は、旦那の隼人が『俺の範囲じゃない』と放棄してしまい、義兄の純一に譲ってくれたと言うべきか? 彼はいつも『そこは義兄さん達に任す。俺、センスないから無理。うちの奥さんを綺麗にしてあげてくれ』と頼まれている程だ。
最近、彼女と一緒に見立てた淡いピンク色のあの服は、葉月にしては珍しい色合いだったが、とても似合っていて純一も満足していた。それを着ることができなかったのか……と、それなら純一もかなりがっかりだ。葉月がそれを着ることを楽しみにしていたのに、出来なかったことで不機嫌になるのも頷ける気がした。
葉月が一人で選んだ服ならともかく、自分と一緒に選んだ服を用意していたと聞いては、それを見てみたかったと思う。
「でも、ほら。本当に着替えなんかしていて呼び出しかかったら怖いから。直ぐにお兄ちゃまのところにすっ飛んでいったのよ」
「そ、そうだったのか」
大佐嬢として忙しい身の葉月。
せっかくのプライベートも犠牲にしてしまうことは良くあること。
今日もそれだけ忙しかったなら、片を付けて出てくることも、抜け出すことも必死だったのだろう。
今の輝くばかりの女盛りの姿で来ても欲しかったが、そこから必死に抜け出してどうしても義兄との時間が欲しいと一直線に駆けつけてくれたその気持ちも、純一はじわりと感動してしまった。
「まあ、そうね。私が不機嫌な理由はまず、それがひとつよ」
「なに? まだ他に訳があるのか?」
『ええ、そうよ』と葉月は澄ました微笑みで答えるが、あとの不機嫌な理由は『秘密』を言い切った。
「もう、いいわ……。たいしたことじゃないの」
「本当か〜? 後でぶり返しても俺が困る。言いたいことは言っておけ」
「……いいの。きっと私の我が儘だから」
ふと眼差しを伏せた葉月は、夜景が煌めく窓へと顔を背けてしまった。
その切なそうな顔。何故、そんな切なそうな顔をする? 俺の何かに対して不機嫌になったことがあって、それを上手く飲み込もうとしている裏でなにを切なく思っている?
時折、義妹と水面下で交わす淡い想い。それが交差しているような気がし、義妹が選んだシャンパンを一口飲み干す胸が、ふと熱くなってくるのは気のせいかと純一は自分をなんとか誤魔化そうとした。
暫く、顔を背けている義妹の様子を窺っていたが、徐々にその表情がやわらいできたのを純一は感じた。
葉月はこのビルの階下に広がる夜景を眺め、徐々に口元を緩めているようだった。
「そう言えば、もうすぐクリスマスね」
以前の義妹の口からは、決してそんな一言は出てこなかっただろうし、気にする余裕も気持ちもなかったことだろう。
だが、今はもう違う。そう……ここに来る前に、純一が街並みのイルミネーションに気を取られたように。きっと義妹の葉月も……。
「今年も子供のために賑やかにやるのだろう?」
「もちろん。隼人さんが一番、張りきると思うわ。お隣の達也だって黙っちゃいないわよ!」
「わかる、わかる。隼人は料理にこだわって精を出してなあ。達也はでっかいクリスマスツリーを準備する為に大騒ぎだったな。それだけじゃない、横須賀の御園ジジババも、横浜の澤村お義父さんも美沙さんも……」
「しんちゃんも和人君もすっ飛んでくるわ!」
「右京に、ジャンヌ先生もな」
去年の賑やかだった小笠原クリスマスパーティを思い出して二人は笑い出していた。
そして最後に葉月が静かに言う。
「もう一人、忘れちゃいけないわ」
純一が誰だろうかと呟くと、葉月が柔らかい微笑みで言ってくれる。
「純一おじ様もいなくちゃ、海人も杏奈も、晃も、寂しがるわ」
忘れずに付け加えてくれたことに、純一は黙り込んでしまった。
こう言う時……俺も素直に笑顔が見せられないと、純一は自分が嫌になるのだが、そんなことは幼い頃から共にいる義妹には分かりきっていること。彼女はただ微笑むだけでそれ以上は純一には触れようとはしなかった。
そして何故か二人は同時に窓辺へと視線を向け、同じ夜景を見つめる。
さらに、同じようにどこか感慨深げに思える溜息をついていた。
あんまりにも揃っていたから二人とも驚いて、互いを見つめ合う。そこで純一も葉月もまた同じように笑い合った。
「同じ事を考えたかもな」
「きっとそうね」
また二人の間に沈黙が。
だが、いつも純一が心地良く思う暖かな間だった。
「……長かったな。お前、クリスマスの記憶とかあるか?」
「あるわよ。でも、最近ね。思い出せるようになったのは」
「俺もだ。ただ、あんまり記憶にないと初めて感じたな」
長い間、幸せなひとときを感じる為の余裕がなかった。
味わおうと思えば出来ただろうけれど、その一歩手前で家族を襲う悪夢に縛られ躊躇ってきた年月。
純一は裏世界の一歩手前で、いつも最悪の事態になるまいかという不安を打つ消す為に、幽霊を追い。義妹は刻みつけられた恐怖に縛られ……。
「私のクリスマスの記憶というならば、どうしても姉様が生きている頃だもの。遠すぎるわ……」
「俺もかな。俺も真が生きている時、ガキの頃だな」
また二人は顔を見合わせる。
せっかくの、二人だけの時間なのに。目の前の義妹が、昔良く見せていた哀しい色合いを浮かべた目を伏せた。
だが、たまにはそれもいいだろうと、純一は無理にこの雰囲気を打開しようとは思わずに、静かにグラスを傾ける。
楽しい日々がやってきたのも良いことだが、二人でこうして過去を振り返ることもあって良いのではと思えた。その当時、お互いの心を上手く開けずすれ違ったことも多々あった程に、よく話し合ったことも少なかったと思う。だから、たまには良いだろう。こうして一緒に思い出すのも。同じ痛みを抱えて長年共に生きてきた『義兄妹』。お互いがいれば痛みも共に味わって、やわらげることも出来るだろうから……。
街を彩る青と白のイルミネーションは華やかだが、時にはこんな義兄妹の今までを切なく哀しく彩る。
二人が交えてきた恋や愛だけじゃない。家族として歩んできた苦しみも……。
聖夜が来るというのなら、それを綺麗に忘れさせてくれるというのだろうか? 純一は華やかな街を見下ろして溜息をついた。
「お互いに、たった一人の兄弟姉妹を亡くして、俺達がいつの間にか兄妹になっていたな」
「本当ね……」
葉月がしみじみと言いながら、彼女もグラスを傾ける。
気のせいか、茶色の瞳が濡れているようにも感じた。
自分が選んだピンク色のシャンパン。そのグラスを揺らし、葉月は暫く黙り込んでしまった。
純一はただそれを見つめるだけ……。いつもそうだった。義妹が感じるままに見守ってきたつもりだ。今夜もそのまま、彼女が哀しいというなら俺も哀しくなるだろうと、純一は黙って葉月を見守る。
だが、やがて彼女はグラスを見下ろしたまま笑顔になった。
「そして、私にとって素敵な人よ」
……一瞬、純一はグラスを持つ手が固まった。
そのまま唖然としているだろう顔を、葉月に向けて。
そんな義兄の驚きようが、向かいにいる葉月には可笑しかったのだろう。葉月はクスクスと笑いながら、純一に向けてグラスを掲げた。
「……ずうっと、私のお兄ちゃまで、憧れの人。そして、素敵な恋人……だった時もあったわね」
葉月は笑顔ながらも、ちょっと致し方ない微笑みを見せ、小さく『乾杯』とたった一人で呟いた。
ずっと兄貴で。
憧れの人で。
そこまでは、まあ、義妹に言われても気分が良く終われるが……。
素敵な恋人、だった?
「お前、本当にそう思っているのか?」
「私はね」
葉月はふてくされるような顔で、純一から顔を背けてしまった。
空になったグラスに自分の手でシャンパンを注ごうとしているのに気が付いて、純一は直ぐにボトルを奪い取って、葉月のグラスに二杯目を注いだ。
黙ってしまった義妹。思わぬ義妹からの言葉に戸惑っている義兄。しかし、やっぱり無口な義兄からではなく、義妹の方から口を開いた。
「二度と言わないわ」
言っては迷惑だったかもしれない。そう思ったのか、そこは何かを取り繕うかのような葉月の、痛々しい笑顔。
思い切って言ってくれたのだろう、この義兄の為に。純一はそう感じた。
嬉しかったかどうか?
嬉しかったに決まっている。
自分達のことを『恋人』だなんて言葉で表したことなどない。いつだって義兄妹だから……と、言い訳してきたはずだ。
クリスマスを二人で過ごすことだって一度もなかった。彼女の想いに気が付きながら、大人の自分がコントロールせねばと必要以上に冷たく切り捨て、彼女を待たせて泣かせてきた。その間に、葉月は幾つかの恋をした。表の世界で真っ当に生きている清潔感有る青年の方が俺より合っている。だから葉月がそれで幸せになるならその男とそうしたらいい……。俺は単に義兄としての、努めだけ惜しまず……。そう思ってきた。
だが、やはり。己も恋だったとこの歳になって思う。いつからかは分からない。分からない程に義兄と義妹として生きてきたのだと思う。しかしその中で、密やかに咲いた恋の花。
純一はやっと、息だけの声で……『そうか』と呟き、自分もグラスを大きく煽って一杯目を飲み干した。
今度はお返しに、葉月が純一のグラスを満たしてくれる。
外の夜景が美しく目に映るように配慮しているのか、いつも来る時よりフロア全体が薄暗く感じた。
しかし二人のテーブルには、柔らかいキャンドルの灯りが広がっている。
その中、煌めくコルドン・ロゼの薄紅色で純一のグラスは輝き始める。
それを見て、いつの間にか純一の頬も心も優しくほぐれてくる。
そうだった。いつもそう。俺の心を満たしてくれたのは、この義妹だったと。彼女の手がグラスを満たしていくその姿に、純一は今宵、幸せを感じていた。
葉月が満たしてくれたグラスを手にして、今度は純一が彼女に向けてグラスを掲げる。
「一足早いクリスマスプレゼントをもらってしまったな」
その一言に、葉月の表情が固まる……。
そして、今にも泣きそうな茶色い瞳がこちらに真っ直ぐに向けられた。
もう既に、ずっと前に終わった二人。お互いの勝手ばかりで終わらせた恋。
しかし時が経ったからこそ、こうして……。素直にお互いのあの頃の心を受け止め合うことが出来るようになったのだと思った。
やがてオードブルが運ばれてくる。
ゆっくりめの準備を好んでいる純一のペースを知っている店故か、やっと……だった。
それでも、これも二人で過ごす時のペース。会話を楽しんで、懐かしい話も交え、家族の話をする。それが今の二人、変わらぬ義兄妹。
「では、今年のクリスマスもファミリーで盛大に。招待などの準備は俺に任せてくれ」
「本当? 助かるわ。流石、お兄ちゃま」
お兄ちゃまと頼もしそうに見てくれるのも、純一には幸せなこと。
さて、今年はチビ達にはなんのプレゼントを用意しようか。明日から急いでリサーチをして入手せねばならないと、急に心が浮き立つ純一。
そして食事を楽しみ始めたのだが、やはり葉月は時折、街並みの華やかなイルミネーションを気にするように見下ろしている。
でも、今度は笑顔で。
「私達、やっとね……」
ようやく、純一の目の前にクリスマスを感じても良いだろう花が咲いた気がした。
「そう。そして、これからだ」
笑顔で幸せそうに頷く義妹と、二度目の乾杯を交わした。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・・
やっと和やかないつもの会話を交えた食事が進む中、純一はもう一度、葉月に聞いてみた。
「お前、本当になにを怒っていたのだ」
「ぜったいに、言わない!」
今の和らいだ雰囲気なら、もう素直に言ってくれるかと思ったのに……。
そこだけ意地になっているようなので、もう純一もそこは降参して忘れることにした。
しかし、その理由を後のクリスマスパーティーで、義弟の隼人から怒っている理由をやっと知る事になる。
食事が終わり、二人は揃ってこのレストランのビルを出る。
今度は、目の前に広がる街路樹のイルミネーション。
いままでそんな彩りも目に移らなかっただろう葉月は、とても清々しい笑顔でそれを見上げている。
制服の上に、真っ白でエレガントなダウンのロングコートを羽織った葉月。イルミネーションを見上げているはずなのに、何を思ったのか……。雪でも降ってきたかのように夜空へと手のひらを向けた仕草。純一はその仕草をする義妹に見とれていた。
純一も、そんな義妹の横で、一緒に街路樹のイルミネーションを見上げてみる。
やはり、直ぐには幸せな気持ちはやってこない。思うのは、今までがあって、今ここに染み入る幸せがあるということだった。それからやっと幸せな気持ちになる。
特に、今夜は……。
「どうだ。少し……歩くか?」
純一は自然に、義妹に腕を差し出していた。
葉月も頷いて、躊躇うことなくその腕に手を通してくれた。
歩く街並み。そんな中、隣の柔らかい義妹のぬくもりを感じながら、純一の心にはあの一言が何度も蘇ってきていた。
『素敵な恋人、だったわ……』
きっと今夜は、その一言ばかり思い出して眠るだろう。
隣に確かにある小さなぬくもりは……。
もしも、お前が……。
あのまま俺の恋人だったら、俺の……だったら。
それぐらい、少しは思ってみても良いか? 今夜だけは。
ただ傍にあるそのぬくもりを感じながら、純一は青や黄金の聖なる光に目を細める。
「雪、降らないかしら。小笠原では絶対に無理なんだもの」
『そうだな』と、純一も笑う。
横で『お兄ちゃま、お兄ちゃま』と呼ぶ義妹の笑顔を見下ろしてみる。
純一の心にもひとつふたつと明かりが灯る今宵。
Update/2007.12.10