22.冷たい貴女
そこに一人の女性がリビングでたった一人きり……。
宴の後の片づけをしていた。
隼人はリビングのドアの外で立ちつくして暫く眺めている。
彼女は、エプロンもせずに、夕方出かけた時のよそ行き着のまま立ち回っていた。
中華の料理を盛っていたオードブル風のプラスチック容器を抱えて……
そして……取り皿を重ねて……細腕で一人で片づけている。
父と伯父の話し声は、ここに来る前に父の書斎から聞こえていた。
軽やかに……穏やかに……何を話しているかは聞こえないが、いつもの二人の様子。
弟は……彼の部屋からイマドキのラップ調の音楽が聞こえたから
いつもの一人夜時間を部屋で堪能していると聞き届けた。
彼女は今、一人。
気にする『恋人』は、深い眠りに付いたところ……。
「手伝おうか?」
隼人はリビングの扉に寄りかかって……腕を組み
彼女を見据えて無表情で呟いた。
その時……『緊張』は何もなかった。
何故なら……『決した』からだった。
「あら……」
彼女が驚いた顔で一瞬、忙しそうに動かしていた手元を止めた。
だが──
「彼女、眠ったの? あなたも疲れたでしょう? 早く休みなさい」
そう……いつもと一緒の彼女。
皆の前では屈託のない笑顔をこぼしてくれるが
いつの日からか……隼人とまったく一対一の時は
隼人に劣らぬ『無表情』を、優しい言葉と供に返すようになったのだ。
無論──彼女にその行動をさせているのは自分が『原因』だと隼人は重々承知の上。
だから……今となっては『傷つかない』
15年前ほど、純真な少年ではないから……もう……。
「眠ったよ。彼女は毎晩、早く眠る。俺より早く」
「そう」
手伝うと言いつつも、入り口で腕組み無表情のまま隼人は呟く。
そんな義理息子に美沙はお構いなし。
こちらも硬い表情で、また忙しそうにテーブルに散らばった物をかき集め始める。
「そのくせ……寝付きが悪い。時々……夢にうなされている」
「だったら、側にいてあげなさい」
「今夜は薬が効いている。疲れも手伝ってね。
怪我をしてから、彼女は薬を飲んだ後は暫くは起きる事はない」
「…………」
ハッキリした義理息子の……何かを決したような『安全を匂わす』言葉に
美沙が少し困ったような、おののいたような……そんな困惑した表情をやっと灯した。
「お姉様が一人で頑張っているのに、俊敏に反応しない男はいけないと彼女が言っただろ?」
隼人はそこでやっと動いて……美沙の向かいに座り込み
一緒に皿やコップを手元に集める。
「やめて。一人で片づけるなんていつもの事よ。構わないで」
そう……いつからか彼女にもそうして『拒否』されるようになった。
別に隼人側からだけ拒否しているわけではない。
いつもなら、こんな素振りを見せることはしなかったし、やろうともしなかった。
少年のあの頃を境に。
彼女に拒否されるのが怖かったから、傷ついたから。
「……相変わらずだな」
隼人がそっと手を引くと、美沙も俯いた。
「俺が怖いって感じだな」
「……そう言うワケじゃ……」
「確かにね。彼女を寝かしつけてこうして見計らったように来る。
親父も今は伯父さんとの会話に夢中。和人は部屋に籠もりきり
俺が何をするのかって?」
「……そんな事、考えていないわよ」
美沙は隼人の目も見ずに……サッと顔を逸らして立ち上がった。
彼女が盛り皿を手にしてキッチンに向かった。
隼人はその後は追わない。
テーブルで意味なく……側にあった布巾で辺りを拭きまくる。
「なぁ……美沙さん」
リビングから話しかけた義理息子の呼びかけに美沙は気だるそうに『なぁに?』と……
取り合う隙も与えまいと言うような固い表情で蛇口をひねった。
水の音が対面式のキッチンからリビングへと響く。
「彼女……可愛いだろ?」
そう言うと、美沙が面食らった顔で水を流したまま静止した。
「あらやだ。のろけ?」
やっと……彼女がクスクスと笑ってくれた。
「けど……いつも振り回されている」
「……あら。良い事じゃないの? それだけ毎日、彼女の事ばかり考えているのだわ。
そうでなければ、そんなに一生懸命にならないでしょ?」
「そうだよな……この、俺がね……」
隼人はそっと微笑み……また意味もなく布巾でテーブルを拭く。
葉月の笑顔がそっと手元に浮かんで、また笑っていた。
「そうね……あなたがね。そんな風に笑えるなんて……。
あの子はたいしたお嬢さんよ。感謝しなさい」
「いつも大人ぶって、俺には偉そうだな。しゃくに障る」
隼人は唇の端をつり上げて、美沙に微笑み返した。
すると……また、彼女の顔が強ばった。
「当然でしょ。あなたより、『おばさん』なんだから」
「確かにね。おばさんだ」
隼人もシラっと言い返してやる。
美沙もムッとした表情を灯して、やっと水の中に手を突っ込んで
ガシャガシャと食器を洗い始めた。
「おばさんってさ……いいよな」
「え?」
美沙はまた面食らって手の動きを止めた。
「俺は……おふくろの『おばさん』って所が想像できない」
「……」
沙也加母の事を継母の前で口にするのは久しぶりだった。
幼い頃は彼女に平気で話していた。
周りの大人から聞いた……そして、父親から聞かされた『沢山の母のエピソード』
隼人にとって『動きを持つ母』は大人達の話の中の母だけだった。
それを彼女は笑って聞いてくれたのは子どものうち。
いや? 彼女は隼人が成長した青少年になっても笑って聞いてくれていた。
しかし……隼人が悟ったのだ。
いつ頃かを境に……彼女の笑顔の奥に『哀しみ』が漂っていて
聞いていて『辛い』というほんの僅かな表情のズレを感じたときから……。
『沙也加は禁句』だと悟ったのだ。
それから何年目か解らないが、今夜は口にしたのだ。
「母親って、いつかは『おばさん』になるんだろ?
和人が……美沙さんを『くそばばあ』って呼んだことに驚いた。
俺には『くそばばあ』には見えない。
だけど……俺もおふくろが生きていたら……
あの黒髪の美しい母親の事も同じように『くそばばあ』って呼んでいただろうな?」
「……そうかもね」
彼女の淡泊な反応。
彼女も『沙也加』が『くそばば呼ばわりの母親』である姿など想像が出来ないのだと伺えた。
美沙にとって、『沙也加』は『女性』なのだ。
女性として『ライバル』で、姿がなく一生言葉も交わせない『影ばかりの戦う相手』
『母親』として『ライバル』なんて事は絶対にない。
隼人はそれも知っていた。
だから……美沙が隼人の母親になりきろうとした時。
嘘の姿だと少年時代に知ってショックを受けたこともある。
その内に彼女が『女性』としての匂いしか出さなくなった。
彼女は『母親』よりも『女性』として戦っていた。
和之親父にいつだって『女性』として向かっていた。
だから隼人は、美沙から女性の匂いしか感じなくなった。
そして……『母親思慕』を失った。
失ったのに『求めていた』
だけど……彼女は気が付いてくれない。
それなのに彼女は女性として見る隼人に気が付いて『母親面』をするようになった。
その反応も変わらない。
「美沙さんは和人から見ると『おばさん』だ。
俺から見るとそうじゃない」
「言われても仕方がないわね。10歳しか歳も離れていないし?
あなたがそんな立派な大人になってしまって……
『おばさん』ってみられる私もしゃくに障るわよ。
あんな若くて可愛い恋人を連れてきたら、なおさらね」
美沙はツンとしてまた……食器洗いに戻って行く。
「それ……ヤキモチ?」
隼人はまた意地悪く美沙に微笑んだ。
「冗談いわないでよ?」
美沙も強気で言い返してきた。
「彼女……綺麗だろ? 親父が凄く気に入ってくれて良かった」
美沙がまた、ムッとする。
隼人はもっと余裕で微笑む。
「……もっと、我が儘でどうしようもない上流社会のお嬢様かと思っていたわ」
「…………」
美沙の口調が急に緩やかになって
隼人はまた……テーブルを……意味なく拭き始める。
「親の七光りで、綺麗なだけで周りの男性を動かすなんの力もない令嬢大佐だと思っていたわ」
「……」
「あなたが……人の良いあなたの事。
誰も相手が務まらないお嬢様の面倒見として目を付けられて
無理矢理、転勤させられて……それで帰省する間もないほど振り回されているって」
「そう思っていると……俺、解っていた」
「意地悪い継母ですものね」
「そうじゃなくて……彼女はそう見られがちなのは軍隊内では一緒だからな。
俺もそう思っていた。彼女がフランスに俺に会いに来たとき」
「……そうなの」
「でも、違った」
隼人が布巾を動かす手元を止めて……何処ともなく真っ直ぐに前を見据えると……
美沙が何故だが、そっと微笑んだのが視線の端に映った。
そして……隼人が語ろうとするところ、彼女が話し始める。
「……お父さんが、彼女から誘いを受けて『小笠原へ行く』と言い出した時。
やっと隼人ちゃんが彼女から解放されると思ったわ。
そう……お父さんから『任務に行く』と聞かされたから余計に。
なのに……和之さんは……『そんなに悪そうなお嬢さんじゃなかった』と言いだして
私は……任務にいけなくなるようにお父さんが何とかしてくれると思ったのに……
和之さんは帰ってくると私の期待とはまったく反対の事を言いだして……。
『隼人が男としての価値を問われる大事な仕事だ。送り出してきた』……
そう言って帰ってきた時は耳を疑ったわ……」
美沙も水道の蛇口を急に閉めた。
リビングに……静けさが宿る。
「お守り……くれたじゃないか。あれ、結構、効いた」
でも、隼人は言いたい『有り難う』が上手く滑り出てこなくて黙ってしまった。
「……本当に行ってしまうなら、今しかない……。
ううん? 本当はそれを見て任務を断って欲しかった。
『ママにもらった命を無駄にしたくないでしょ? 戻ってきて』
そう言う意味も含まれていたの。
でも──私は間違っていたわね」
美沙は自分の愚かさに自分自身で気が付いていたのか、疲れたように……
キッチンのダイニングの椅子を引いて座り込んでしまったのだ。
そうされると……リビングのテーブルで座っている隼人から見ると
彼女の黒い頭しか見えなくなる。
だけど、隼人は動かなかった。
「……おふくろなら、『行くべきだ』と言ったかもしれないもんな」
「そう……。任務に行くのが和人なら、
心配しつつも母親として、『使命全う』を勧めている。
それでも、心配だったの……あなたにもし、万一のことがあったら……
もう、二度と会えないし……色々とやり直すことも出来なくなるじゃない?
でも……それも私の『エゴ』
自分が今まであなたに与えてきた苦しみを、帳消しにしたいが為の
僅かな『守り』に……沙也加さんの形見を利用したような気がして……後悔していたわ」
「──!!」
隼人は……今までになく心内を見せる継母に驚いて……
やっと立ち上がりキッチンに向かっていた!
「……そんな事ないよ。あのお守りのお陰で……彼女は!」
急にキッチンに駆け寄ってきた大きな義理息子に驚いて……
美沙は椅子に座ったまま……背もたれに背を押しつけて後ずさりをした程。
その『拒否反応』のような彼女の反応を見て、隼人はやっぱり……
少し胸に痛みが走って立ち止まった。
だが──ここまで彼女とやっと言葉を交わしている
会話の『キャッチボール』をやっと掴んだ!
だから……ここでまたひねくれて、天の邪鬼になって
思ってもいないいつもの『くせ悪い暴言』を吐いて逃げてはいけない!
なんの為に葉月とここへ来たのかが……意味がなくなる!
隼人はそこで……紺色のカットソーの心臓の辺りを握りつぶして
『落ち着け!』と、自分に呪文をかける。
息苦しいが……
(彼女が……ライフルで撃たれたこと、俺に沢山の告白をしてくれた事!)
それに比べれば……まだ序の口だ!
隼人はそう言い聞かせる!
「任務中……。彼女がたった一人で現場に潜入してきた。
その時……俺は大きな外人の男達に仲間と捉えられて……
ライフルを頭に突きつけられて……『システム起動のパスワードを吐け』と……
撃たれそうになった時だった」
隼人が静かに話し始めると、美沙はその生々しい非現実的のような光景に顔を強ばらせた。
「彼女がこなければ……彼女がそんな大胆な事をしなければ
俺達は『死んでいた』
俺、思った……『お守り』なんて信じていなかった。
だけど? こんな事ってあるだろうか?って。
彼女があの細い身体で……誰の命令で誰と一緒にここまで来たかなんて事以上に。
女性がこれほどの決心をして乗り込んでくるその『強い決心』に驚いた。
そんな女性を……おふくろが連れてきたような気がして……。
助かった後、彼女のお父さんの命令で『犯人を追い込む班』と『システムを復旧する班』に別れた。
勿論、俺は『システム班』。彼女はお父さん直々の命令で来たから『追い込み班』だ。
犯人に接触する可能性が高いのは『彼女』の方だ。
心配で仕方がなかったけど、俺のやれる事、使命は『システム』しかないから同行は諦めた。
その代わり……ここに連れてきてくれただろう『おふくろのお守り』を彼女に渡した」
「……お父さんからだいたいの事は、聞いていたけど……。
彼女が一人で乗り込んで助けたって聞いたけど……」
美沙はおそらく『現実の話』として解っていても
おそらく日常主婦生活の中からでは
遠い国で起きている事件の如く『漠然』としか取れていなかったのだろう?
それを目の前の任務に出向いた『当人』から聞かされると余計に現実味が湧いて
初めて『実感、震撼』しているのだと隼人には伺えた。
「彼女は……仲間を助けるために自ら犯人の手の中『人質』になった」
「……それで、仕方なくフロリダの隊員が犯人事、狙撃したって聞いたわ?」
「そう。その恐怖感が解るかな?」
美沙は当然首を振る。
「俺も解らない。だけど、彼女を取り戻すには、そして……彼女自身も戻りたいなら
『それしか方法がない』
彼女をあんな傷を負わせるような目に遭わせた。
だけど、彼女は倒れた後も何とか生きて帰還した。
犯人を狙撃して彼女が捕らわれている現場に……彼女のお父さんと一緒に向かった。
彼女は……お父さんの背に背負われてやっと俺達の所に戻ってきた……
その時、彼女がこう言った……」
「……なんて?」
美沙は……葉月と気が通じたためか、もう感情移入しているようで
痛々しいばかりの葉月のした事に共鳴するように目を潤ませていた。
それを見て……隼人は何処か安心感を得た。
『沙也加ママ、来てくれたわよ? こっちに来るなって。
私の幻覚だったと思うけど……隼人さんが持たせてくれたから
なんだか──そんな風な幻覚を見て、自分を励ますことが出来たと思うの
だから──隼人さんに返す……隼人さんも持っていた方が良いわよ?』
隼人はあの時、葉月が呟いた言葉を、そのまま美沙に伝えた。
「初めて……『お守り』の意味が解ったような気がして。
死んだ人が霊力でどうしてくれるかでなく……
『存在感』が、生きている人間に力を与える。そういう事だったのだと。
美沙さんがそれを渡してくれなかったら、彼女からこんな言葉を聞くこともなかったし
……彼女も自身がそう言っていたように幻すら見なかっただろうと……」
「そんな……私は、そんなつもりで渡したんじゃないのに……
言ったでしょ? エゴが混じっていたのよ」
美沙が急に涙を滲ませて顔を両手で覆い始めた。
「……いや。俺を心配してくれた事に変わりはない。
だから……その『有り難う』」
隼人がそういうと、美沙はもっと驚いた顔をして……
声を洩らしながらすすり泣き始める。
「……一目見て、あの子から感じる『訳が解らない気品』に驚いたわ。
なんだか……とても頼りなげに見えて……
私が今まで心配していたイメージなんてすっ飛んでしまっていたの。
この子が……ライフルで撃たれて、犯人狙撃に貢献した子?って。
全然、そんな強さが見えなかったの。
普通のお嬢さんに見えるのに『本当に?』って。
和之さんが小笠原から帰ると……『とても良い隊長だった。隼人を任せて安心だろう』とか
『気だての良い……人の気持ちを爽やかにするお嬢さんだった』ともの凄く気に入っていて……
『騙されている』となんだか、自分の思い通りに行かなくて『悔しかった』
あのお父さんまでにも、ここまで言わせるのは……
本当に良い子なのか? でなければ……そんなに『魔力』を秘めている女性なら
私が……なんとか食い止めないとって……
でも──違った……。本当に素敵な小さなお嬢さん……。
和之さんが言ったとおりに人の気持ちを爽やかにする子だった。
なのに……和人を思いっきりお転婆に投げ飛ばしたりして
そんな所まで……憎めなくて、逆にこっちが助けられるなんて……!
なのに──あの子が何故? 『あんな傷』をいくつも背負っているの?
顔に出ていないか……さっきは心配で彼女を傷つけなかったかと心配で」
美沙が……『左肩の古傷』の事を嘆いている事が隼人には解った。
そう──隼人は美沙に『わざと見せた』のだ。
「何? ライフルの傷の下に……もっと違う大きな傷が……
あの子は、あんな小さなお嬢さんに見える彼女が何と戦っているの?」
美沙は特に隼人に問い詰めるという風ではなく……
自分一人で自問自答しているように俯むき、涙声で囁いていた。
「……あの傷が……『葉月のすべて』だから……。
だから……美沙さんに見せた」
「わざとだったの!?」
美沙が恋人としての男が……他の女性に恋人の気にするタブーを無断で見せた事に驚いたようだ。
「……別に、美沙さんの反応を試すために、そうしたわけじゃないし。
そうしようと決めていたわけでもない……。
そうじゃなくて……もっと言うと……『美沙さんなら受け入れてくれるだろう』
そう信じていたから、見せた。美沙さんは顔には出していなかった。
彼女は見られた事は、当然、気にしただろうけど……。
その後……特に落ち込んだりナーバスになる様子も見せなかった。
それも……確かめたかったから……あの時、瞬時に自然に見せる結果となっただけ」
「……何故? 私に見せたの!」
美沙は、それが自分だったら『恋人がそんな事を勝手にする事は許せない!』と、
我が事のように、怒ったようだ。
「だから……これからも彼女と付き合っていく上で……大事なことだからだ」
「どういう事?」
「……俺は……彼女のお陰で、沢山の仲間に出逢えて、良い仕事にも巡り会った。
彼女に振り回されている、確かに……。
でも……美沙さんも夕方、解っただろう? 和人が投げ飛ばされて……。
彼女に振り回されていると、台風に巻き込まれている気分なる。
だけど、彼女につられて……台風の中にいて……その台風が過ぎると……」
「過ぎると……?」
「そう……空が晴れ渡って……『おまけ』が必ず降ってくる」
「おまけ?」
美沙が一瞬呆けたのだが……
彼女はすぐにそっと笑い出した。涙顔で……。
「本当ね……。だってあの和人をやりこめちゃって……
本当に久し振りの家族揃っての『食事』が出来たわ」
「……だろ? 親父が言うところの『爽やか』はそれだと思う。
だから……出来るなら、親父と一緒に彼女の事、『共感』してほしい」
真剣に隼人が申し出ると……
美沙がクスクスと笑い始めた。
「な、なんだよ? また、俺を子ども扱いかよ!?」
ムキになる隼人に美沙はさらに……声をくぐもらせて笑い出す。
「私をバカにしないで」
急に彼女が……真顔になって隼人と初めて視線を合わせた。真っ直ぐに──。
「和人が投げ飛ばされた後……あなた、彼女を部屋に入れなかったでしょう?」
「……え? ああ……うん。あの時は」
「ダメね」
美沙の咎めるような年上の厳しい眼差しに隼人は、おののきつつも……
それがやっぱり『しゃくに触って』ふてくされ、俯いた。
「彼女……そこの階段で独りぼっち……座っていたわよ」
「そ、そう……悪い事したと思っている」
「反省しているならいいのよ」
美沙の偉そうな言い分に、隼人はまた腹を立てそうになったのだが……
美沙が……
美沙が……
隼人がずっと憧れていた『あの優しい笑顔』をフッと……
黒髪の中、浮かべたのだ。
あさっての方向を何処ともなく見つめて……空気の中、何かを思い描いている。
その『憧れの笑顔』を見たのは久し振りだったから……
急にすべての思考回路、身動きが止まったほど……。
見とれてしまったのだ。
だけど……その笑顔は『隼人の為』の物ではないようだった。
「独りぼっち……スカートの裾で膝を包んで、猫みたいに丸まっていたわよ。
そんな彼女を見つけたとき……本当に大佐とか、魔物の女軍人とか……
そんな事……本当に何処にもなくって……ううん? 『そんな子じゃない』と思ったわ。
捨てられた子猫みたいに……うずくまっていて……
『小さなお嬢さん、いらっしゃい』ってそう自然に思えたわ。
そんなにあなたが真剣に改まって説明しなくても……
私はあの子の……『隠れた姿』を見つけたような気がしたの。
こんな私が見つけてしまったから、声をかけたら、嬉しそうに近寄ってくれて……
その上……『亡くなった姉様に似ている』って……彼女……泣いたのよ。私を見て……」
「え!? そんな事になっていたのかよ!?」
隼人は自分が変に殻に籠もっていた間の出来事に驚いた!
『美沙さん……素敵なお姉様ね。皐月姉様を思い出しちゃって……。
大人で懐が深くて……甘えたくなるっていうか……』
先程……彼女がそう言っていた事を思い出した!
「なんだ……そうだったんだ」
「そうよ! 隼人ちゃんがそんなに『しゃかりき』になって力説しなくても
私は、ちゃんと彼女の事、解りましたよ! 底意地悪い『継母』ですけれどね!」
美沙はそういうと、急に元気になり……
隼人にまた『ツン……』として立ち上がった。
「……なんだよ。俺、美沙さんの事、意地悪い継母だなんて思っていないよ」
「……嘘つきね」
美沙はさらに『つん』として、再びキッチンの水流し台に向かう。
「……俺の事、どう思っても構わないけど……。
彼女の事……だけ、『台風』に巻き込まれたと思うなら、宜しくな。じゃぁ……」
やっぱり……自分の『思い』は簡単に言えそうにないと隼人は今回は諦めた。
ただ一つ……。
『恋人の葉月』の誤解だけは解いておきたかった。
父親があれだけ気に入ってくれたから……妻である美沙にも認めて欲しかっただけ。
最低限、それだけはしておきたかった。
なのに……
『俺が躍起にならなくても……葉月一人……充分、美沙さんを引き寄せていたのか』
なんだか拍子抜けした。
それが『彼女の魅力』、そして『御園の持つ魅力』だと解っていたのだが……。
『美沙さんにあんな笑顔をさせるなんて……葉月は凄いな』
あの笑顔は自分には向けてもらえない。
隼人はそっとキッチンの出口扉から出ようとした……。
すると──
「良かったわね。あの子なら、私、大歓迎。
あの子が頑張るなら、私も応援できそうよ。しっかり守りなさいよ?『お兄ちゃん』」
『ガシャガシャ』と食器を洗う音ともに……美沙のそんな穏やかな声。
隼人の背に『せつなく』届いた。
「美沙さん……俺」
そっと振り向くと美沙も丁度、隼人の背中を見つめていた所らしく
視線が『ばっちり』合ってしまった。
「美沙さん??」
彼女も泣きそうな顔をしていた。
「どうして? 俺に? そんな顔を??」
「だって……もう、私の『隼人ちゃん』は何処にも居なくて……
もう……ここに帰ってこなくて……すっかり大人になって……飛び立って行くから」
「!!」
久し振りに『素』である……あの優しい彼女と向かい合えた気がした!
隼人の脳裏に……輝いていた彼女との日々が駆けめぐる。
脳の奥、鼓膜の奥で何かが弾ける音がする!
「あんなに可愛くて、なついていた小さな男の子が……
もう、いないって『たった今』解ったから……」
美沙の黒くて美しい瞳から、一筋だけ……涙がこぼれていた。
「もう……遅いよ」
「解っているわ。時は経つのだし、あなたが大人になるのが嫌だった
なのにあなたは、どんどん立派な大人になって、この家から遠ざかって……。
あなたの匂いが全然、この家に残らない……」
「俺は……美沙さんの子供にはなれない」
「解っているわ。私のあがきよ」
「母親は……おふくろだけで充分だ」
「解っている……」
「だけど……俺は……『貴女』に優しくしてもらいたかったし……
いつまでも……和人と同じように甘えていたかった!」
その時……隼人は自分がどうなっているかなんて冷静に考えようとはしなかった。
ただ、赴くままに動いていた。
「は、隼人ちゃん……」
彼女の懐かくて暖かい黒髪が……自分の頬を埋め尽くしていた。
この自分の腕の中に……か細い黒髪の女性が収まっていた。
彼女が肩先で……自分の名を昔と同じように涙声で呟き続けている。
「ごめんね……はやとちゃん。本当に今までごめんね?」
『美沙さん……』
言葉にはならなかったけど……
彼女の身体そのものに……暖かさにしがみついている感覚だけが自分で解っている。
そして……隼人の背中には……
そっと優しく彼女の指が……食い込むように包んでくれているのも……
噛みしめるように感じていた──。