29.糸解き
窓際の隼人のデスク……。
その目の前には栗毛の美女が一人、向かい合い……
その彼女の背中の向こう……本部員の席に隼人の栗毛の相棒が一人座り込んでいた。
本部員、皆は何喰わぬ顔で業務を続けながらも、好奇心がこちらに向いているのが
隼人にも伝わった。
「それで? ブラウン大尉、どうかした?」
隼人は面倒くさそうに呟いて座った位置からマリアを見上げた。
「……あの」
栗毛をスチュワーデスのように綺麗にまとめているマリアが
なにか躊躇うように深紅のルージュでキッチリと形を描いている唇を動かす。
「こちらの様になりました」
マリアがサイン書を隼人に差し出した。
「……」
隼人は眼鏡奥の瞳の様子を変えずに、マリアが差し出したサイン書を手に取る。
「……一人、足りないね」
昨日、隼人がサイン書をマリアから見せてもらった状態からなんら進展がなかった。
「はい。父だけが……」
「そう、残念だったね」
隼人は、マリアの肩の向こう側……ドナルドの席に背を向けて座っている葉月の様子を
確かめながらマリアにサイン書を返す。
だが……隼人が差し出したサイン書をマリアは受け取らなかった。
「……」
実は隼人……、彼女がアシストになる事を不安に思いつつも、
あのマイクが『サインした』という事の方が今となっては一番気になるところで……。
マイクがサインをしたと言う事は?
『サワムラ君、やってみた方が良いと思うよ』
彼のそんな声が聞こえてくるのだ。
そこがどうも引っかかる。
だから、そのサイン書を自分の手元にいったん引き寄せる。
だけど……一度、口にしたこと。
ましてや、マリアは『私情』を挟んでこの計画を持ち込んできたのだ。
そこは言い出した自分が中途半端に受け入れては、
やっぱり『中佐』としての威厳もプライドも無いように感じる。
そこで二人一緒に黙り込んだのだが──。
マリアからその沈黙を破った。
「父には説明できない訳があります」
「訳?」
かなり真剣な表情であって、最初に見せていた強い眼差しではなく、
どちらかというと何か憂いを秘めているような……真剣な眼差しだった。
「ジャッジ中佐には正直に申しあげました」
「!?」
隼人は『やっぱり』と思った。
マイクにも『一度は、はね除けられた』という事が解った。
だが──マリアが言うように『父親には言えない本心』を正直にマイクに伝えたところ
マイクはそれによってサインをしたのだと。
こうなっては隼人も『一緒に組むしかない』と思えてきたが
やはりまだ『条件を出したケジメ』が捨てられない。
「それを俺にも説明してもらおうか?」
一応、気になるから尋ねてみたのだが……。
「それは……言えません」
マリアが苦しそうに呟いた。
「ああ、そうなんだ」
そんな顔をされては、隼人も深入りがしづらい。
「だけど、それを説明してもらわないことにはね?
説明が出来ないなら、それは『サイン不足』の理由にはならないよ?
説明が出来ないなら、やっぱり少将のサインを、許可をもらわないとね……。
お父上である少将も父親としても、将軍としても許可してくれなかったんだろう?」
隼人の尤もな言葉にマリアはシュン……と、俯くだけだった。
昨日はあれだけ一生懸命で、輝いていた凛々しい女性が
こうしてしんなりしてしまうと隼人もなんだか心苦しくなるのだが……。
ふと──マリアの向こうにいる葉月を確認すると、ドナルドの席で
彼が使っているペンなど握ってチラリと肩越しに振り返ったりしていた。
隼人はため息をついた。
だが──まだ葉月には報告はしていないのに、彼女の落ち着きを見ると……
(ジャッジ中佐から聞いているかも知れないな?)
そんな風に思えてきた。
さて──?
葉月はこの件についてどう受け止めているだろう?と、隼人は考える。
付き合っていた恋人、同期生が結婚していた相手が
現側近で恋人である男に近づくことや……
そして──職務として……。
そして──兄様分のマイクがサインしたことについて。
どう考えているのだろう?
そんな隼人のもの思いに対して、マリアが再び話しかけてきた。
「サワムラ中佐さえ、宜しければ……許可していただきたいのです。
父がいては問題解決にはなりませんし」
『問題』とか『私情』とか『ジャッジ中佐がサインした』とか『大佐嬢が落ち着いている』とか……。
そういう自分には不可解なことを『理解しろ』と突きつけられているから、よけい苛立つ。
「問題? どういう問題なのかな? それも業務とは関係なさそうだね?」
ちょっと面倒くさそうにマリアに突き返した。
「一緒にお仕事していただければ、中佐ならいずれお解りになると思いますけど」
そこはマリアは顔を上げて、妙に自信ありげに瞳を輝かせたのだ。
『女の挑戦』
それを叩き付けられた気分に隼人は陥った。
マイクがサインしたことが気になる。
だけど、簡単に職務として受け入れたくない。
そんな狭間で隼人は揺れた。
「はぁ〜今日は、外部署とのミーティングやらなんやらでちっとも落ち着かない!」
隼人の目の前の本部員席、一列目。
隼人の窓際のデスクの目の前の席。
その席の『ドナルド』が、遅いティータイムから帰ってきた!
隼人は、自分の席に知らない女性が座り込んでいる事も知らないドナルドが帰ってきた事で
急にマリアの向こう側の事にハラハラとしはじめたが、何とか平静を保った。
「中佐?」
マリアが『心ここにあらず』の様な眼差しをしている隼人に気が付いたのか
訝しそうに見下ろしていた。
「あ、ああ……なんだったけ?」
隼人が急に眼鏡の笑顔をこぼしたので、マリアは益々首を傾げていた。
(まーったく、どうするんだよ!?)
マリアはきっと……『御園葉月』を意識している。
だから……ここに葉月がいるとなると『本心』も語らない。
葉月はそれを解った上で、ああして本部員になりすましたのだ。
それも隼人には解っていたから放っておいたが、ここでドナルドを鉢合わせると……。
「はぁ。後少しだなーーぁ!?」
ドナルドが一列目の席列に辿り着き、自分の席を確認したようだ!
「ちょっと! そこの君!? 誰!?」
葉月と視線があったようで、ドナルドが驚き、ちょっと怒ったように葉月に向かっていく!
ドナルドが自分の席まで辿り着いて、顔を上げた葉月と視線が合ったようだ。
葉月はそれでも、まるで自分の席の様にして落ち着き払っていた。
すると──
『ドニー! ちょっと……!』
『な、なんだよ……』
葉月の隣の席にいた本部員が上手く察して立ち上がり、今ドナルドが帰ってきた道を
腕を引っ張るようにして連れ去っていってくれた。
隼人はホッとしたが、葉月はそれでもペンを振って何喰わぬ顔で座り込んでいたので呆れたり……。
「ええっと。なんだっけ? 一緒に仕事をすれば……俺もきっと解るって言ったね?」
隼人は苦笑いでマリアを見上げた。
「……はい。失礼ですが……ジャッジ中佐なら解ることでしたので申しあげました。
中佐は……『最近』の方ですから、申しあげたところで今はご理解いただけないかと」
『最近の方』=『新参者』と聞こえて、いつも隼人が葉月に対して一番気にしている事なので
なんだか急にムッとした。
そこに『葉月の過去』が急にちらついてきたようで隼人は、また心が揺れる。
だが……こういう女性の言い分で職務を動かすことだけは絶対にしたくない!
まだそういう隼人の強い『主義』がなんとか持ちこたえさせていた。
『ええ!?』
『しっ! 声大きいだろ!!』
ずっと向こうに行ったドナルドとその同僚の声が聞こえて、隼人はまた苦笑い。
どうやらドナルドは、自分の席に居座る『女性』の正体を知ったらしい。
ドナルドはしばらくあたふたしていたが、隣席の同僚と一緒に
恐る恐る……葉月が居座っている自分の席に戻ってきた。
隣席の同僚が葉月に『すみません』と一言耳打ちをしてから
にこやかに着席すると──。
『ごめんなさい。しばらく……』
葉月もちょっとだけ微笑んでドナルドに会釈をしていたりする。
『いえいえ……いや〜驚きました。どうぞ、どうぞ!』
気さくなドナルドの調子はすぐに戻った様子──。
それも葉月とニコリと視線があうと……満更でもないようで、
ドナルドはニコニコと同僚の席の側に座り込んでしまい、
隼人の方をジッと観察を始めたので……隼人は溜息が出てくる。
だが、隼人はドナルドがなんとか葉月がそこにいる騒ぎを起こさなかったことに
ホッとして、マリアに集中を戻す。
『新参者』の続きからだ。
「そこまで『私情』で、俺をねじ伏せようとしているなら、俺も言わせてもらうよ?」
隼人が眼鏡の奥か冷淡な視線を向けると、マリアがそっと顎を引いて息を呑んだのが解る。
「それは……海野中佐に説明できること?」
隼人がシラっと尋ねると、マリアがちょっと驚いたように固まった。
その反応から見ても、達也にも説明が出来ないと言う事だと隼人は悟った。
「……夫は、いえ……彼は関係ないことです」
「海野中佐が多少は関わっていないと、俺と関わる意味もないような気がするけどな?」
「それは……」
急にマリアの歯切れが悪くなったように感じる。
新参者の隼人には『説明できない』。
元夫の達也にも『説明できない』。
だけど──昔なじみのマイクには『説明できる』。
そこでマリアがこだわっているのはやっぱり『葉月』なのだと隼人は確信できた。
隼人と達也には説明できない。
この男二名は『葉月』という女性とは異性関係がある、もしくはあった。
マイクは葉月と関係があると言っても、やっぱり異性関係からすると『第三者』になる。
そういう立場の男には『説明できる?』
『説明できない』のであるのならば、今隼人が言えることはやっぱり『ひとつ』
彼女の父親同様、『理解したいが、理解する要素が足りなすぎる』という結論だ。
マリアがちょっと怯んだ所を見抜いて、隼人は続ける。
「確かに昨日の職務的な『動機』は、立派な言い分だと俺も認めるよ。
だけど、昨日も言ったけど、俺じゃなくてももっと素晴らしい指導者が他にもいるはずだ。
工学科の君が、空軍の『メンテナンスチーム結成』の仕事に携わって何の利がある?
あるとしたら『一つ』──やっぱり『俺達の関係の』……」
『俺達の関係のもつれ』……そう隼人が言葉にしかけた時……
「もう、いいわ。澤村中佐」
マリアの向こう側にいた葉月がやっと席を立ってこっちに向いたのだ。
マリアはその声を聞いて……誰がそこにいたか解ったようで……
大きな瞳が見開いたまま……『振り向きたくても振り向けない』状態のようだった。
葉月が上着をきちんと羽織りなおし、金ボタンを丁寧に留め……
やっといつもの大佐らしい姿になって隼人の横にやって来た。
ドナルドが……いや、本部員全員が大佐嬢が動き出した事でこちらに注目していた。
「ブラウン大尉」
隼人の横に、大佐姿になった葉月が……いつもの冷たい顔つきで呟いた。
マリアは……葉月に『一部始終』、隼人とのやり取り、アシスト願いを聞かれてしまって
とても動揺したようだ。
マリアにしてみると葉月には一番聞かれたくなかっただろうし……
『大佐』と『大尉』では差が有りすぎる。
ここで葉月に『大佐』としてはね除けられては、マリアのプライドはずたずたになるだろう──。
そうなると隼人はちょっとマリアがいたたまれなくなるのだが、
やっぱり葉月が職務的にはね除けても、それは葉月が正しいと思う。
葉月がジッといつもの『大佐嬢』の眼差しで、
自分より大人の雰囲気を醸し出している女性を視線で威圧していた。
流石のマリアも、葉月の事は良く知っているのだろうが、気圧されたようにして俯いたのだ。
「お疲れ様です。大佐」
それでもマリアはサッと顔を上げて、礼儀正しく葉月に敬礼をする。
「お疲れ様」
葉月も微笑みもしないが、やんわりとした口調で返答した。
「その計画書……見せて下さる?」
いつもの涼やかな眼差しで葉月がマリアに呟いた。
「いえ……大佐にお見せするほどの物では……」
あれだけ隼人に突撃してきたのに、マリアは葉月には
何を悟られたくないのか、怖じ気づいたように謙虚になってしまった。
勿論、隼人も解っている……。
そこは『女』として、葉月には隼人という男に近づく事、
そして業務的にも『大佐嬢』には許してもらえない事。
だけど──それだけの事なら、葉月は何もマリアを戒めるようにこうして出てくるはずはない。
あのまま、ドナルドの席で隼人が切り捨てるのを黙ってみていたはずだ。
なのに──あれだけ羽織りたがらない上着をわざわざ羽織って間に入ってきた。
そこに……『隼人の揺れ』を葉月が見抜いて『決定』を促しに来た……。
隼人はそう思ったから──
「……しかし、俺と組みたいなら『大佐』に見せるも同様だと思うけどな?」
マリアに葉月には見せるように促した。
「見せていただけないのなら……それならそれで宜しいけど」
葉月は『強制じゃない』という事をやんわりと付け加える。
「……」
マリアは少し躊躇った後……。
「お願いいたします」
葉月に計画書を丁寧に差し出した。
マリアのナチュラルでさり気ないネイルが施された手から……
葉月の白い手にその冊子が渡った。
「どれ?」
葉月が冊子をめくり始める。
「こちらへどうぞ、大佐」
隼人は席を立ち上がって、上官である葉月に椅子を譲る。
「有り難う」
葉月もそこは隼人を『立派な側近』として立てるように椅子に腰をかける。
隼人はその後ろに控えて、『気を付け、休め』の態勢で規律正しくたたずんだ。
ここはリッキーやマイクに習っての事。この目で充分見てきた動作だった。
葉月が隼人のノートパソコンの前に冊子を置いて順次ページを追う。
このメンテ本部にやってきて『さすが、大佐嬢の側近中佐』と言われ始めていた隼人。
その『さすがの中佐』が、若娘に低姿勢に従う。
それだけで、本部員全員が急に葉月の『権威』を目の当たりにしたようにして
ジッとこちらを伺う視線を感じ始める。
周りの隊員の反応がこれだから、マリアは目の前にして余計に緊張したようだった。
葉月の一言が……マリアの計画を『判断』するのであるから。
「如何ですか? 大佐?」
隼人は黙々とページをめくる葉月にちょっと尋ねてみる。
隼人も気になるところだ。
「中佐、ちょっとよろしい?」
葉月が計画書を畳んで立ち上がった。
「あ、はい……」
「ちょっと、こっちに来て」
葉月が計画書片手に、窓辺へと隼人を連れていく。
窓辺外側に葉月と隼人は並んだ。
「どうするんだよ?」
「どうするって?」
「……許可するのか?」
葉月がマリアの目線を気にしながら、さも計画書について話しているかのように
隼人の目の前で冊子をパラパラとめくり始める。
「マイクから聞いたわよ」
「やっぱりね……そうだと思った」
「マイクが言っていたわ。確かに私情だけど、『女性観点』として面白い点もあったって。
そこは男の隼人さんには解らないだろう……と」
「……ああ、そういう事。それなら俺も気が付いていたけど。
あんな風に工学科から突然やって来たんだ。
それ以前の問題として計画内容は無視したんだけど」
「そりゃね。確かに隼人さんは『職務的』には正解だわ」
葉月がぱたんと計画書を閉じた。
「その姿勢で行くと『大佐嬢』も勿論、無許可だよな?」
「隼人さんはやっぱり……許可したくないの?」
葉月が大佐嬢の眼差しを取り払い、いつもの女の子の瞳で隼人を覗いた。
「……そのつもりなんだけど……」
本当は『引っかかり』があるから……『絶対無許可!』とは、隼人も言いきれなかった。
「これから毎日、彼女と一緒に仕事するのよ?
あなたがやっていけないなら……私の『我が儘』は押しつけられない」
葉月が何かにすがるような……切なそうな眼差しで隼人を見上げたので驚いた。
先程まで、涼やかな大佐嬢の眼差しだったのに──。
その雰囲気が他の隊員に見られていないか隼人は思わず周りを確認してしまった。
「ど、どうしたんだよ? いつもは自分でとっとと進める大佐嬢が……」
「……」
葉月がいつもの涼しい眼差しに戻してスッと窓外の空を見上げたのだ。
「……忘れ物取りに来たの……」
「忘れ物?」
「そう、糸を解きに来たの……」
葉月がスッとマリアを栗毛の隙間からチラリを一瞬だけ見つめた。
「忘れ物を取りに来て……糸を解きに来た?ねぇ?」
どういう忘れ物と糸解きかは、解らないが……。
隼人にはなんとなく解った。
昨日の『リョウタ』もその一つだったんだろうな……と。
葉月はリリィに触れて、忘れ物を取りに行く決心をしてフロリダに来たはずだ。
それと一緒のことが……『許可する事』で近づくのだと隼人には理解できた。
『糸解き』
きっとマイクも……それに気が付いて『兄様』としてサインしたのだろう。
『私情混じり』に許可した『共犯者』という事になる。
あのジャッジ中佐がそうしたとおもったら……なんだか隼人も片意地張っているのが可笑しくなってきた。
「解った。お前、以前言ってくれたよな?
俺は……『糸を解く説明書を付けてくれる』ってね……」
隼人がそっと致し方なさそうに微笑むと、急に葉月が輝く笑顔をこぼしたのだ。
「いいの!?」
「大佐嬢が最終的に決めることでは?」
隼人がおどけると、葉月がさらに笑顔をこぼした。
「ああ言われた手前、糸を解くのはお前自身だけど、解けないときは説明書、考えるよ」
隼人は、計画書を葉月の手から取り去る。
「もう一度、見直しておく」
「勿論……私だって、ダメな計画書ならNOを即座に言うつもりだったんだけど」
「解った。職務的にもやや利点あり……。それが大佐の仰せですね?」
「……」
隼人が真顔で部下として呟いた。
葉月もまた元の大佐嬢の眼差しに戻って行く。
「では……澤村中佐。後はお任せしますよ」
「職務ではね。イエッサー」
二人は頷きあって、窓辺から席に戻る。
日本語でやり取りしていたので、マリアを始めとした本部員達は
二人が下した『決断』の行く末が気になって仕様がないような……異様な雰囲気が漂っていた。
葉月が再度、隼人の席に座り込む。
隼人も後ろに控えた。
「……中佐。サイン書は?」
「こちらですが……」
隼人は先程、自分の手元横に除けたサイン書を手にして葉月の手元に置いた。
「……」
葉月はそれを暫く凝視して……。
「ブラウン大尉」
マリアの顔を見ずに葉月が呼んだ。
「はい……」
「私の側近は、たとえ女性であれ容赦はしないわよ」
「……はい」
「それから、わたくしも若輩とはいえ大佐ですから……」
「はい……」
マリアの表情が益々暗くなり、打ちひしがれたように俯いた。
額にはやや汗が滲んでいるように隼人には見えた。
マリアは葉月に真っ向からこの計画を『無』にされる覚悟を決めたようだった。
葉月は、胸ポケットにさしていた青いペンを取りだした。
葉月が小笠原で愛用している『印鑑付きペン』だ。
「よろしい? 大佐として許可しますから『職務』として遂行して下さいね」
「──!?」
マリアが顔を上げた。
葉月が、まだブラウン少将がサインをしていないその下、一番下に
ローマ字筆記体で自分の名前を署名する。
葉月がサイン書になにやらペンを動かしているのを見て、ドナルドがちょっとうめき声を出し
本部中の隊員からも、なんだか押し殺したようなざわめきが漂った。
「そして印鑑」
葉月はローマ字の横にペンの頭に付いている『御園』という印鑑をポンと押した。
「日本では、サインよりこの『スタンプ印』の方が重視されているの。
つまり、認めましたってこと」
葉月は、印鑑の箇所を指さし急に女の子口調になってマリアにサイン書を差し出した。
「後はサワムラに任せましたから……宜しく」
葉月がサッと席を立ち上がった。
「あの──!?」
マリアは『信じられない!?』という面食らった顔でサイン書を眺めていた。
今度は隼人が席に座る。
「それでも、俺が出した条件だからね。それだけはクリアしないと」
「ですが……!」
マリアはそれでも父は『少将』
『大佐』が後押ししてくれたぐらいでは、『許可』しないとマリアはまだ父は強敵と思っていた。
葉月が時計を見た。
「私がサインした手前……」
すると隼人が葉月の言葉を遮る。
「大佐。私が勝手に出した条件です。私がケジメを付けます」
隼人が座ったばかりの席を立ち上がった。
「……そう? じゃぁ……中佐にお任せしようかしら?」
葉月は素早く察知してくれ、自分でけじめを付けるという律儀な隼人の
やりだした事に満足そうに微笑んで見送る。
そして隼人は、ドナルドの方へと向かって行く。
「ドニー……基地内の内線表貸してくれるかな?」
「え、あ、ああ……ええっと」
ドナルドは目の前で展開した出来事から、急に現実に引き戻されたかのように
あたふたとデスクの上にあるプリントを探り出す。
「サワムラ君……これ」
ドナルドが『内線表』をおずおずと隼人に差し出してくれる。
「内線も……貸してもらえるかな?」
隼人はドナルドにニコリと微笑む。
「ど、どうぞ……?」
「お邪魔するよ」
隼人がドナルドの席に座り込んで、電話受話器を手にした。
隼人が座った横に葉月がやって来て様子を伺う。
「まだ、終業時間ではないわよね?」
葉月はドナルドに問いかけた。
「え? はい……まだ、30分はありますしね」
「でも……急いで? 中佐!」
葉月は内線表を指さし捜す隼人と一緒にある部署を捜した。
「見づらいな? 部署がありすぎだ」
「これこれ! パパの近くだから」
「ああ」
二人が急いで何かを始めたのを、皆がいよいよ作業の手を止めて見入っていた。
隼人が内線ボタンを押す。
そして──
「お疲れ様です。小笠原連隊第四中隊のサワムラと申します。
はい! 先日はお世話になりました」
「誰? トンプソン中佐?」
そう……隼人が内線をかけたのは『ブラウン少将秘書室』!
葉月がそう隼人をつつくと、隼人は知っている人間が出たのでホッとしたように
葉月に無言で頷いた。
「大変恐縮ですが……ブラウン少将にお会いしたいのですが……。
本日、お時間ありますでしょうか? ご都合悪いのなら明日でも構いませんが……」
「……」
暫く隼人が相手の話に耳を傾けている沈黙が続いた。
「……今、少将に聞いてくれるって……」
隼人が間が出来た隙に葉月に伝えてくれた。
その様子が何か解ったマリアも葉月の横にやって来た。
「まさか……父の所に!?」
「アポは取らないとね? 強敵だけど、この際、皆『共犯』だ」
隼人はマリアにニッコリ微笑みかける。
「そ、私もね。マイクだってそうよ」
葉月も急にニヤリと微笑んだのでマリアは驚いた。
「共犯って……」
「……まぁ……そう言うこと」
葉月はそっと微笑むと、マリアからヒラリと身体を交わして
隼人の席へと行ってしまった。
「あ、はい……解りました。すぐにお伺いさせていただきます」
隼人の声がそう言ったので、マリアは急に身体が硬直した。
隼人が内線をチン……と切った。
「ブラウン大尉、すぐに行こう。あちらは終業前にも関わらずお時間を割いて下さったんだから」
「え……!」
葉月がサインをしてすぐに、あれよあれよと言う間に、事が展開したので
マリアは途方に暮れた。
しかも──!
父に『将軍』として正式な『アポ』を取って『将軍室』に行くと言うこと。
そんな事は初めてだったのだ。
だけど、隼人は素早く動くばかり!
葉月が座り込んだ自分の席から、マリアの計画書とサイン書を手にして
彼は出かける支度を始める。
「大佐。悪いけど……一通、二通でも良いから小笠原に返事を出してくれると助かるな?」
隼人はマウスを動かして、葉月にパソコン画面を指さした。
「えー……うーん」
「大佐から返事が届いて喜ぶよ」
「うーん……解ったわ」
隼人がお兄さんのように葉月にマウスを手渡した。
先程まで堂々としていた大佐嬢が急に小さな女の子のように渋々とパソコンに向かう。
「さぁ……行こうか!」
「は、はい……」
マリアはただ、二人に動かされているだけだった。
そのまま、メンテ本部を隼人と急ぐように飛び出したのだ!
「えーと、木田君から……にしようかしら?」
後は隼人にお任せの葉月は、隼人の席でぎこちなくノートパソコンに集中。
「お疲れ様」
「?」
目の前には、葉月が席を奪ってしまった本部員がニッコリ立っていた。
「相変わらずで、驚きましたが……。しかし、君も全然変わっていないみたいだね?」
「え?」
変に砕けた口調で話しかけてきたので、葉月はあまりない感覚を得て戸惑った。
「私はドナルド。皆がドニーって呼ぶから宜しく。
あ、サワムラ君とは席が近くて初日から仲良くしているんだけど」
「あ、ええ……そうなの」
『こら! ドニー!?』
ドナルドの隣の席の男性が大佐に容易に話しかけるので恥ずかしそうに止める声。
『君も全然変わっていない』に……葉月はかなり警戒し表情は崩さなかったが……
「ヴァイオリン、まだ弾いているかな?」
彼がそう言ったので葉月はドッキリ……動かしていたマウスが止まってしまった!
「時々、校舎の裏で弾いていたでしょ? 一回だけ見たことがあって……忘れられなくてね?」
「──!!」
そう、葉月は訓練校生の時……良く訓練校内の目立たない所で演奏した時もあったのだ。
「これ、良かったらどうぞ? ティータイムの残り物だけど。大佐嬢は甘い物はお好きかな?」
彼が差し出してくれたのは小袋に一枚入りのクッキー。
ドナルドの顔をデスクから見上げると……『大佐嬢』に接しているという顔ではない。
昔から『君知っているよ』という先輩、お兄さんの顔だった。
「サ、サンキュー……」
葉月はとりあえずニッコリ、それを受け取った。
「……」
ぎこちない態度の葉月を確認して、ドナルドは諦めたように……
でも、大人の気の良い笑顔を浮かべて背を向けた。
「あの……時々だけど、まだ弾いているわ」
葉月は背を向けたドナルドにそっと呟いた。
「そうなんだ!」
ドナルドが嬉しそうに振り返った。
「でも……皆には内緒」
「それが良さそうだね?」
ドナルドはそれだけが知りたかった様で、満足そうに微笑んで席へ帰っていった。
そんな事が面識もない隊員にスッと言えた自分に葉月は驚いた。
なんだか彼がのっけから『大佐嬢、大佐嬢』と腰をあまりひくくせず、
気さくすぎるぐらいの『お兄さん顔』で接してくれたせいもあったのだろうか?
葉月は……そっと微笑んで、クッキーの袋を開けた。
アメリカのクッキーの味。
それもなんだか急に小さな糸玉を、ほぐしてくれたような気がした。