12.育てる大佐

 

 土産散策も終わり、千代紙にくるまれた箸をフォスターに手渡して

三人はまた、葉月の大佐室に戻ってきた。

「なんて書こうかしら?」

葉月はさっそく、先程見つけた桜柄の和紙カードを広げて大佐席に座った。

「英語で書くんだろ?」

隼人も席に座って、カードを広げた葉月に微笑む。

フォスターは、応接ソファーに座って、自分でも買った土産を眺めていた。

瀬戸焼の箸置きと、江戸切り子のお猪口を買ったようだった。

娘には、可愛いちりめんで出来た『お手玉』を、隼人に勧められて買ったようだった。

「うーんと、うんと……」

葉月が万年筆を手にして、サラサラと英語の筆記体を書いていた。

何を綴っているかは、隼人も覗きたいが知らん顔。

そこは、大佐お姉さんとフォスター嬢の『お嬢ちゃん同士』の触れ合いとして

首を突っ込みたくなかったのだ。

そうして、隼人もノートパソコンと、自デスクのパソコンを開いてマウスを手にすると……

「ね? 中佐は『筆ペン』持っている?」

「え? ああ、一応、持っているけど?」

外国よりの仕事をしているので『日本のしきたり』に触れることは少ないが

やっぱり小笠原は日本なので、時たま、『しきたり』に触れることもあった。

何処かの隊員が怪我をして入院したとか、結婚するとか、転勤するとか……。

そう言うときに日本人だった場合はやっぱりのし袋に署名をする。

葉月も常識は知っているが、そういう『署名』は

フランス暮らしが長かったとはいえ、隼人の方がやっぱり『年上』で

葉月に代わって手にすることがあるのだ。

父親や遠野に叩き込まれた『日本常識』として備わってはいる。

机の引き出しから、筆ペンをだして大佐席に持っていった。

「お前、『お習字』できるのかよ?」

フォスターではないが、隼人はやっぱり葉月は『帰国子女』と捕らえていることが多い。

隼人は15歳までは日本にいたが、葉月は10歳で日本を去った。

日本語は喋れるが、筆記はどうも葉月はアメリカよりらしいのだ。

漢字なんて、未だに辞書を手放せないほど、ウンウン唸りながら引いているし

『隼人さん……これ読めるけど、意味は何?』

なんて……時々聞いてくる。

そんな彼女が『筆ペン』なんて……違和感がありすぎたのだ。

「お習字はともかく……外国の人にお手紙をするときは、

相手の名前を日本語風に添えると喜ばれるかもって、右京兄様に教わったの」

「へぇ! さすが、芸術家!? そんな気遣いにセンスは思いつかないよ!?」

隼人はビックリ!

なにはともあれ……葉月がそうして『おにいちゃまの美意識』に従ってやって来た事ならと

すんなり筆ペンを渡してしまった。

葉月が一枚……メモ用紙を出した。練習書きをするようだ。

 

「隊長? お嬢様のお名前はなんて仰るの?」

お土産を楽しそうに眺めていたフォスターが顔を上げた。

「リリィだよ」

「リリィ!? 百合の花って意味ですか?」

隼人は自分が好きな花だから、思わず驚いて反応!

「まぁ♪ だったら書く漢字は決まりね♪」

葉月は、深く考えずにすむ名前でニッコリ微笑んで筆ペンのキャップを開ける。

「そうだよ。妻が『マーガレット』って名前だから、娘にも花の名前にしたんだ?」

『へぇ!』と、隼人と葉月は揃って感心!

花の家族に囲まれる幸せなパパらしい……。

「日本にもそう言う名前の女性はいるのかな?」

「マーガレットはないですけど、リリィっていう日本語名を持つ人は結構いますよ!」

隼人がそういうと、フォスターが『ほんとに!?』と、

娘の名前を漢字で記してくれると言う葉月の元にやって来た。

 

『百合』

 

葉月がメモ用紙に練習書き。

それをみて、フォスターは『へぇ♪』と嬉しそうだったが……。

「……上手いジャン??」

意外と筆文字が上手い葉月に、隼人はびっくり!

ペン文字はおおざっぱでほそっこい、丸み帯びた女学生みたいな字を書く葉月なのだが

筆文字は結構豪快に跳ねが効いていて驚いた。

隼人の字も決して上手いとは言えないが……角張った大きな文字は葉月の丸文字よりかは

『社会向き』に身に付いていると思っていただけに……。

「じゃぁ……お手紙の最後に……『百合』へ……『葉月』より」

葉月は早速、和紙の筆記体の英語文字の下に、筆ペンで『署名』

「お嬢さんの『ハヅキ』ってどういう意味なんだい?」

フォスターが娘の漢字文字を眺めついでに尋ねた。

「ああ……私は八月生なので。日本では月に名前が付いていて、

八月は『葉月』っていうんです。葉の季節という意味だと思いますわ?」

「へぇ……月に名前ね? オーガストっていう感じで?」

「そうですわよ?」

「ウンノが娘にせがまれて、色々な単語を日本語に直して遊んでいたな?

娘が喜ぶよ。ありがとう、お嬢さん」

「いいえ……。そうですか……達也が……。だったらリリィはもう自分の漢字は知っているかも?」

小さなお嬢ちゃんにすっかりなつかれる所が……彼の気さくな性格を物語っていて

葉月はそっと微笑んで眼差しを伏せた。

(昔──真一も、達也にはすぐになついちゃったものね……)

そういう男なのだ達也は。

隼人が、葉月が練習書きをした筆文字を手にして『うーん』とまだ唸っている。

「俺もちょっと練習しようかな?」

「ああ、そういえば。達也はすっごく綺麗な字を書くのよ?」

「え!?」

あのあっけらかんとさばさばとした達也が、綺麗な字ということが意外だったのだろう?

隼人が珍しく『硬直』して茫然としてしまったのだ。

葉月も苦笑い。

葉月も最初は驚いた……。

あのズケズケとした同期生が、手にペンや筆を持つと驚くほど繊細で美しい文字を綴るのだ。

それをみて『日本文化大好き』である鎌倉の叔父と叔母が絶賛したほど。

右京ですら感心したほどなのだ。

『あー。ガキの頃習字習っていたから』

なんて達也は言うが、習っていた期間だって他の小学生が通っている程の事で

しかも彼も、幼少は父親の仕事の関係でアメリカにいたにも関わらず

帰国後、その一般並の期間でそういう字体を身につけたらしい。

右京曰く……『あれは持って生まれたセンスだな? あいつ軍人辞めても筆で食える』と言った程。

だけど……達也からすると

『俺の字が芸術? 大袈裟だなぁ』

なんて言って、『技術・芸術的』という感覚はまったくないらしい。

つまり──そういう細かいことも美意識にもさほど意識・認識はまったくないのだ。

だけど……持っているのだ。

おそらく、『習字のお稽古』に行っていたことが『美文字』の取得に繋がったと葉月は思っている。

そう──『感覚』がいいのだ達也は。

これが『習字』でなくても『野球』とか『水泳』、大袈裟に言えば『ピアノ』だって……。

達也は『サラッ』と収得するのだろうと……。

それが今は『射撃』に要する『感』で大いに役に立ち、誉れるようになったに違いないのだ。

苦労して手にするタイプでなくて、達也はそうして『サラッ』と物にしてしまう。

だから……『細かい地道な事は苦手、大嫌い』なのである。

そういう『器用さ』は、葉月も敵わない面がある。

おそらく、隼人もこの面では達也に敵うタイプではないだろう……。

「そっか……俺もちょっと考えよう」

隼人は脱力感いっぱいのようにして、葉月の練習書きメモを机に返して席に戻った。

 

(もう? 今から達也と自分を比べてそんな様子で大丈夫なのかしら?)

 

葉月は、頬杖、ため息……。

それでも、隼人の昨夜の『男の眼差し』が忘れられない……。

彼がああ言う眼をした時に『嘘』がないことは解っている。

きっと、隼人が言う様に、葉月が今更何を言ったところで、気持ちが変わらない事も……。

解っているから──。

 

信じているから、葉月も前に進む……。

今までもそうだったように……これからも……。

 

 

 「あ。トレーニングの時間だわ? 行ってきます」

そうこうしている内に、今日はお客様が来ているとの事で

いつもより遅いスケジュール組みになっていた葉月の『日課』がやってきた。

 

「いってらっしゃい。隊長と留守番しているから……」

隼人も笑顔で、『お着替えバッグ』を手にした葉月を見送ろうとした。

すると……。

「トレーニングって?」

フォスターが、不思議そうに尋ねる。

「あ、はい……。任務負傷でなまった身体を元に戻さないと、空に出してもらえないので」

葉月が、完治しかけた左肩を廻しながら微笑むと

フォスターが『なるほど?』と唸って、暫く俯いてしまった。

『?』

葉月と隼人は揃って顔を見合わせていると……。

「良かったら……そのトレーニング見学させてくれないかな?」

「え。勿論? 構いませんけれど……基礎体力作りみたいなメニューで

厳しい訓練をされている隊長には……物足りないかと?」

葉月はそう思って……フォスターを置いていこうと最初から思っていたのだが?

「結構ね。俺もジッとしているのが嫌なんだ」

彼が照れくさそうに金髪をかいた。

何もしないでいるよりかは、彼もちょっとでも動く方が性に合うらしい。

そこは葉月も共感した。

「そうですか。それでは、一緒に行かれますか?」

「ああ! 行く行く♪」

その上、フォスターは今日の『陸部見学』の為に持ってきていた

着替えの『訓練着』まで手にしたので葉月も隼人もびっくり……。

(わー。まさか……一緒に身体動かすつもり?)

葉月は苦笑いをこぼしつつも……隼人に見送られて

隊長と一緒に大佐室を出た。

 

室内の陸訓練場所は、四中隊棟から、隣の五中隊棟……そのまた隣。

管制塔の隣になるのだが……

教育隊を主に受け持っている『六中隊』棟と供に半々になっており

その一階が体育館程ではないが、何処かのカルチャースポーツセンターのように

ガラス張りのフロアが続いていた。

そいう意味では、六中隊棟は、他の棟より大きくて作りも変わっていた。

そこのロッカーで、男子用、女子用とフォスターと一端別れて着替える。

葉月が向かうのは、ジム用の器機が揃っているフロアだ。

葉月は私服のような白地に黒ラインになっているモノクロのジャージ姿で外に出ると

フォスターはいつも着ているのだろう?

葉月の父が着ているような迷彩柄の訓練着で出てきて

急に雰囲気が変わったので、葉月は驚き──。

逆にフォスターは葉月が、軍服以外の姿で出てきたので違和感があった様子。

思わず、二人揃って眺め合ってしまったのだ。

「隊長は……制服より絶対に訓練着がお似合いって解りましたわ」

「いやいや? そちらもイマドキの私服だとやっぱりお嬢さんだね?」

「最初は毎度の飛行服で出ていたんですけど……。

教官が軽い服装で構わないと言ってくれたので……」

葉月が照れて俯くと、フォスターはそっと微笑んだだけ。

そこで二人はジム室へと廊下を歩き始める。

「教官は陸教官かな?」

「はい。ベテランのおじ様です。六中隊で基礎体力訓練の教官をしています」

「そう。日本人?」

「はい。お父様みたいな感じの方です」

葉月はフォスターの質問に答えながら、廊下を歩いていると……

その途中で、広いフロアで基礎体力の訓練を実施している一隊が見えるフロアに差し掛かる。

「何処の隊かな?」

フォスターが、教官の元、列を組んで片手腕立て伏せをしている一隊の訓練に目を馳せた。

「……あ!」

フォスターが声をあげたので、葉月もガラスの向こうで行われている訓練風景に視線を移した。

ガラス越しに、私服ジャージの大佐嬢と金髪の迷彩男がいたせいか

教官が少し驚いたようにこちらを見たのだ。

その教官の視線に連れるように、前列で腕立て伏せをしていた訓練中の男性がこっちを見た。

「あ……」

葉月も、同じように気が付くと……ガラスの向こうの男性も驚いたようにして

腕立て伏せをやめてしまったのだ。

「クロフォード中佐だ!」

そう……任務の時に『特攻隊隊長』と『通信班隊長』として

連携した突入を果たし合った仲の二人だ。

『……』

『……』

ガラスの向こう……綺麗なフローリングの上で腕立て伏せをしていたクロフォードが

それをやめて、教官となにやら一言、二言、言葉を交わしていた。

教官が急に……葉月とフォスターに向かって敬礼をしたので

二人揃ってビックリ……思わず敬礼を返してしまった。

その間に、あのクールな表情ばかりのクロフォード中佐が笑顔で駆け寄ってきた!

彼はとうとう、訓練フロアのドアを開けて廊下に出てきたのだ。

「フォスター隊長じゃないか!? 来ていたのか!」

「お久しぶり! その節はどうも!」

二人も『戦友』になるのだろう……。

満面の笑顔で握手を交わし合ったのだ。

「第一中隊の通信科の訓練でしたの?」

葉月も笑顔で、滅多に基地内でも顔を合わすことのないクロフォードに挨拶。

「ダメじゃないか? 来ているなら、来ているって俺にも知らせてくれないと!」

葉月にとってはクロフォードは大先輩。

時々すれ違えば挨拶はするが、なんだか『大佐』となっても同じ任務にて

いつのまにか『お嬢扱い』になっていたのは解っていた。

そんなクロフォードにお兄さんのように叱られて、葉月は思わず、おののいてしまった。

「す、すみません……」

「いやいや……ちょっと、お忍びみたいな出張でね?

将軍と一緒で、そうは自由に動けないんだ」

フォスターがそうかばってくれたのだが、『お忍び』の一言で

クロフォードは『何事?』と、一瞬『お騒がせお嬢』の葉月を見下ろすのだ。

でも……その驚いた表情は『突っ込みはタブー』とすぐに悟ってくれたよう。

すぐに彼はニッコリと微笑んで『そうなんだ』と交わしてくれた。

(さすが、大人で中佐だけある)

葉月はそう感心すると供に、ホッと胸をなで下ろした。

「残念だな……少しでも時間があればね。任務後も慌ただしく帰還したから」

「まぁ……夜なら少しは」

フォスターも残念そうだった。

「なぁ? お嬢さん。夜にでも、コイケとか声をかけて倉庫バーで集まれないのか?」

クロフォードの申し出に葉月はびっくり!

あの優秀な第一中隊の大先輩である。

その滅多に触れることのない先輩が『皆で集まろう』と、気さくに声をかけてくれたからだ。

「あ、あの……では、後で小池にも尋ねてみます」

「本当に!?」

「そうか! 解った。後で連絡くれよ? 待っているから!」

フォスターは元より、クロフォードも輝く期待顔になったので

葉月も何も言えなくなってきた。

「じゃぁ……俺は、しごかれ中だから、これで!」

トッド=クロフォードはそういうと、笑顔で体力作りの訓練に戻っていってしまった。

 

「そうか……コイケもトッドもここにいるんだよな」

フォスターが、嬉しそうに微笑んだ。

「そうでしたわね……あの任務で緊張を一緒に分かち合った仲……。

気が付かなくて……申し訳なかったわ」

「いやいや……それより、何故? 来たって言う理由を突っ込まれると困るね?

皆に再会できるのは嬉しいけど……」

「将軍のボディガードで宜しいのではないですか?」

葉月がシラっと答えると、何故かフォスターが笑い出したのだ。

「まったく、人を騙すのは結構、いけてるね?」

「あら? 失礼ね? 隊長の立場を考えて言ったのに!」

「その嘘は、使わせてもらうよ」

余裕で、笑ってばかりなので葉月はなんだか適わなくて思わず膨れてしまったのだ。

そんな葉月にもフォスターはそっと笑うだけ。

でも──

葉月は変に『大佐』と気遣う隊員より……

大佐なんだけど……『お嬢だね』と接してくれるフォスターやクロフォードには

もう、自分の本来の姿は受け止めてもらっていると気が楽なのだ。

だから……フォスターの笑い声にも、最後には微笑んでしまっていた。

 

「おはよう……ございます」

葉月がフォスターを連れて、ジム室に行くと……

「お、おはようございます! 大佐!」

見慣れない若い男性が、訓練着で待っていたので、葉月は眉をひそめた。

 

「あの? 伊藤教官は……?」

いつも葉月に、丁寧に……そして、甘えさせる事なく上手に接してくれる

『おじ様教官』がそこにはいなかった。

細川が手配してくれた教官だから……信頼して接していたのだ。

それが……見慣れないお兄さんだったから。

「申し訳ありません。大佐の訓練のお時間がずれたので……伊藤は出て来れなくなりまして

本日は……わたくしが任されました!」

彼は隼人ぐらいの歳のようだが……妙に葉月に緊張しているようだった。

ハキハキとしているところは『若教官』らしいが、

あまりにも、葉月に対して下手なので、葉月は益々眉をひそめた。

「中嶋と申します! 宜しくお願いいたします!」

そう……初めてフォスターと接したときの『行き過ぎた礼儀正しさ』

あの時の事を思い出す……。

「そう……解りました。お願いいたします。

今日は、フロリダからお客様でいらっしゃったフォスター中佐も

こちらの見学をされたいとのご要望で、お連れしました。宜しくね?」

葉月がいつもの冷たい令嬢大佐の顔に戻る。

「ヨロシク」

フォスターも葉月と隼人に教わった簡単日本語を早速使って挨拶をした。

中嶋は、フロリダの……しかも迷彩服の中佐が一緒で益々緊張したようだ。

解っている……彼等は軍人としての分をきちんとわきまえているのだ。

だけど……葉月はいつもそこがもどかしい。

フォスターにクロフォードはもう、解ってくれている『人達』の『域』に辿り着いてくれていた。

だが……それを初対面の『若教官』に求めるのは無理と言うことも葉月は解っている。

 

「では……伊藤からメニューを預かっております。まず、ストレッチから……」

大佐嬢にマンツーマンで指導するという事も珍しい事。

それもあってか、若教官の中嶋はかなり固かった。

伊藤から預かっただろうメニューのバインダーを眺めながら

葉月とフォスターの前に向き合って、体操から始める。

「では……少しばかり身体を柔らかくしましょうか?」

中嶋の固いながらの指導に従って体操をした後……

葉月はマットに促されて、そこに足を広げて座った。

伊藤といつもこなしていたメニューの柔軟体操。

『イタタタ!』

『これぐらい我慢だよ? 大佐嬢』

今日は、穏やかな笑顔で、それでいて父親のように譲ってくれない教官ではない。

 

「失礼します」

中嶋は、マットに向けて身体を折り曲げる葉月の身体に恐る恐るといった風に接する。

葉月の背中を、遠慮がちに押すのだ。

(なーんか……調子狂うっ)

だが、葉月も若い男性と二人きりの訓練にならなくて良かったと思いながら……

だが……この若教官なら、変な気も起こすはずもないことも解っていながら

伊藤の人選を信じられたが、どうも? お互いに波長が合わない。

(仕方ないわね……今日は我慢)

妙に生やさしく背中を押す若教官に従ってストレッチをしていると……

「ちょっと、君。俺と代わって!」

フォスターが、妙に真顔で中嶋教官に詰め寄ったのだ。

英語は使えるのが小笠原隊員の最低条件。

そこは中嶋も通じたよう……しかも、迷彩服のフロリダ中佐の一言に

サッと素直に葉月の背から退いた。

「そんな生やさしさじゃ、物足りないだろう? お嬢さん?」

「イタタタ!!」

中嶋が退いたと思った途端!

なんとフォスター隊長が、思いっきり葉月の背中に乗り上げてきたのだ。

「イタイ! 中佐!」

「なんだって? これぐらいで音をあげるようじゃ、空の復帰はまだまだだな!」

マットに向けての前屈ストレッチ。

大きな身体のフォスターが乗って、葉月の額は今にもマットに付きそう!

(うー!)

葉月が、これは限界! と、うなり声を漏らすとサッとフォスターが背中から退いた。

「さぁ……お嬢さん、深呼吸……」

その声が、とても真剣で穏やかだったので葉月は素直に深呼吸を繰り返した。

「少しずつ……息を吐きながら、痛いときは痛いと言う事。もう一度!」

やっと解った!

フォスターが真剣に、葉月の身体を鍛えようとしていること。

そして……中嶋に『本来の指導』の程度を解らせようとしていること!

フォスターがまた思いっきり、今度はゆっくりと葉月の背中に体重をかけてくる。

葉月も、真剣にフォスターの指導に従った。

『さっきより……痛くない!』

しかも……先程痛みを感じた位置よりもっと下に額が沈むようになったことを感じた。

そう……伊藤教官はこれぐらいの指導をしてくれたが……。

もっとゆったりとした無理のない指導だった。

でも……これなら……『回復は早く得られる!』

葉月はちょっと急激だが、確実に先に導いてくれそうなフォスターの

『フロリダ式』を……なんだか昔を揺さぶられるように肌で感じた!

 

そのフォスターのストレッチ指導で、葉月の額は最後にはマットにつくようになった。

「隊長! しばらく身体が固くなって困っていたのに! 元に戻ったみたい♪」

葉月が、汗を拭いながら喜んで立ち上がると、フォスターも嬉しそうだった。

「ちょっと、君。そのバインダー見せて」

「イエッサー」

中嶋が致し方なさそうに伊藤教官のメニューバインダーをフォスターに渡した。

「うん……身体に負担がかからないように組んでいるね」

「大佐は女性ですし……怪我も完治してませんから」

フォスターが暫く、バインダーを眺めて静止していた。

「お嬢さん……復帰の目処は?」

「え? ……それは、監督の細川中将からもまだ、聞いていませんけど?」

「じゃ、なくて……『お嬢さんの気持ち』だよ」

「!!」

「中将の目処を待っているから、大事にされすぎるメニューを組まれるんだよ?

勿論、身体に負担をかけないことも大事だが。

このメニューで行くと……まだ先かもね? 今のストレッチで感じたけど。

身体もだいぶ、なまっている。運動は一日休むと三日の遅れが出るんだ。

任務帰還から、三ヶ月、どれだけの遅れになっている事やら?」

「!!」

「空は、俺達が走っている陸より酷だと聞いている。

上空の重力のきつさが半端でない事は、お嬢さんが一番解っているだろう?

いつ、復帰したい? それに合わせてメニューを組み直してあげるけど?」

「!!」

気持ちを揺さぶられることをフォスターが言い続けるので

葉月は、おもわず……びっくり……無言になってしまった。

勿論……代理で来ていた中嶋教官も……目を見開いて

変な方向に事が流れ始めていて硬直していた。

「早くて1ヶ月……遅くても1ヶ月半。二ヶ月じゃ遅すぎる」

葉月が、自信なさそうにポツリと呟くと……

「よし! ベストは1ヶ月、ベターは1ヶ月半……それで行こう。

ナカジマ君、今から、大佐嬢の今の基礎がどれくらいか測定しよう」

「え? あの……」

直属の上司に任された事を、簡単に変えられようとしていて彼は困惑していた。

その若い陸教官の反応がもどかしいようで、フォスターが顔をしかめる。

「いいか? 君……? このお嬢さんは、大佐かもしれないが、まだ『不完全』なんだ。

大佐と言えば、なんでも出来ると思ったら大間違いだ。

特に彼女は別。勿論……認められる経歴はお持ちだが……

見ての通り、若いし女性だ。この子は……」

フォスターがあまりにも自分のことを力説するので、葉月は固まって耳を傾けた。

『この子は──?』

自分のことを、どう捕らえてくれているのだろう? そういう緊張だった。

「この子は……『育てる大佐』だ。俺達、男達の支えと指導力を上手く吸収する。

この子が『育たない』と言う事は、俺達先輩、そして男達の指導が足りていない事になる。

この子はちゃんと指導すれば、必ずやり遂げるから!

彼女が1ヶ月後、もしくは1ヶ月半、甲板に復帰できなかった場合は……君の『汚点』となるぞ?」

(わ! そこまで言う!?)

葉月は思わず……苦笑い。

やっぱりアメリカ仕込みのフロリダ隊長だけある。

言う事、ハッキリしていて、日本人である中嶋はもう何も言い返せない様子。

「そういう心積もりで指導しないと、このお嬢さんを少々やりこめる『先輩』にならなくちゃダメだ!」

中嶋はすっかり意気消沈、俯いてしまった……。

「それから!」

今度はフォスターが葉月に向いた。

葉月もどっきり!

「中将の目処なんていうのは必要ない。

中将が目処を言い渡さないのは、君が大佐として自分で目処を立てると

判断は任せていると思う。

自分で目処を立てて、教官に自分の目処に間に合うように動かす。

上から指示を出せるのは、君の場合は将軍しかいない。

後は全部、自分の判断になる立場になった事は忘れちゃいけない!」

「!!」

『確かに!』

細川の『指示』を待っていたが……そう、そんな事はもう自分で判断して

流れを作って行かなくてはならなくなったこと……。

解っていたはずなのに──。

 

葉月はしょんぼりしている中嶋をそっと見上げて笑った。

大佐嬢が笑ったので、中嶋は訝しそうにして顔を上げたのだ。

 

「先輩に……怒られちゃったわね……『私達』」

葉月が微笑むと、中嶋もやっと笑顔をこぼしてくれた。

「いいわ……中嶋教官。メニュー変更は私から伊藤教官に説明するから。

私のこれからの目処……付き合う気ある?」

葉月は、その気になっていた。

葉月の瞳が輝くと……中嶋もつられるようにその気になったよう……。

「解りました。真剣に取り組みましょう」

「担当にしてくれるように、説明するから……宜しく」

「こちらこそ、光栄です」

急に中嶋の顔が頼もしいお兄さん顔になったのだ。

「新しいパートナーの誕生だね? お嬢さん」

「はい」

どちらにも『喝』を入れてくれたフォスターは……

やっぱり『特攻隊』を持っているベテランの隊長だった。

 

葉月は……思った。

『この人なら……本当に私の為に動いてくれる。見守ってくれる。動かしてくれる!』

 

『達也』を選ぶと決めたものの……

こうもしっかりした指導を目の当たりにしては……心が少し揺れた……。

 

「よし! ランニングのタイムから行こうか? 1000メートルから!」

「では、フォスター中佐、私がタイム計りましょう」

「きゃー、いきなり1000メートル!? 鬼!」

若おじ様と、お兄さんが揃って真顔の指導。

葉月は、この日のトレーニングは、いつも以上に汗を流すこととなった……。