9.悲愴
「なんだよ? 達也と喧嘩したのか?」
「べっつに……」
隼人とアンドリュー、ケビン、ダニエルといった解り合えた空の男同士で盛り上がっていたところに
葉月がツンとした顔でスッと輪に入ってきた。
だが……隼人は遠くでサムとおちゃらけて上機嫌な達也を見て
いつもの『どつきあい』で葉月が拗ねただけとすぐに判った。
(これから……騒がしいさは倍増なんだろうなー)
隼人はグラスを口に付けながら、『双子』になるだろう職場を思い……
ちょっとだけ身をすくめた。
「なぁー! レイ、今度お前と一緒に飛べる機会があればいいのになー!」
アンドリューと葉月が『クラッシュ後』、初めて言葉を交わした瞬間だったが
アンドリューは気まずい会話を嫌ったのか
自然な言い方で威勢良く葉月にスッと言い放つ。
「あ、その事でね? アンディにも言っておきたいことがあったの!
なのに、なによ! 班室で待っているって言っていたくせに不在ばかりだなんて
どーいう事よ!!」
「なんだ? お前は!?」
葉月も解っているのか、解っていないのか?
いつもの調子で、年上の同期生に恐れることなく言い返している。
葉月とアンドリューが額を付き合わせ、ケビンがアンドリューをなだめ
ダニエルが葉月をなだめようとしている。
(あー、そういうバランスなワケね……)
隼人はただ苦笑いで『ここもドツキアイかよ?』と、眺めるだけ──。
そんな中……。
「レイ……」
しっとりとした声が、熱している同期生の間にスッと冷ますように響いた。
勿論、ただの『どつきあい』をしていた青年達は、フッとその声に反応した。
「イザベル……」
葉月が会場の中をスッと一目眺めつつ、微笑んだように隼人には見えた。
「どうしたの? あの……マイクと、ううん……ジャッジ中佐とお話していたのに」
葉月がなにやらうかがうように、愛らしくイザベルを見つめる。
「え? ええ……レイと話したくなったから、もう、いいの……」
「そう?」
隼人は葉月の様子に少し違和感を感じて、首を傾げる。
でも、二人の女性はにっこりと微笑み合い、葉月は青年モードから
リトル・レイモードに顔つきが変わったようだ。
「レイ? 紹介して下さる?」
イザベルがスッと見上げたのは、隼人だった。
隼人もちょっと戸惑って、急に背筋を伸ばす。
「え? ええっと……ハヤト=サワムラよ?」
葉月のはにかんだ紹介に、隼人もスッと一歩前に出て
イザベルに手を差し出した。
「澤村です。ミセス=ドクターの研究室の方とお聞きしております。
お若いのに……博士だとか……素晴らしいですね?」
隼人のにっこり笑顔に、イザベルもニコリと微笑んで、隼人と握手。
「サンキュー、ミスター。私も博士からお聞きしましたわ? あの『澤村精機』のご子息と……」
「え! ご存じなのですか!?」
こんなフロリダに来てまで実家経営会社の名が出て、隼人はドッキリ!胸を押さえた。
するとイザベルがしなやかに笑う。
「ええ……一度、そちらの専務の設計を見せていただいた事があるわ?
私は科学専門ですけど……少しは工学も解るので……。
着眼点がちょっと変わっていらっしゃるというか……。
工学科にも知り合いが何人かいまして、彼等からも時々その名が出てきますし……」
「そうですか……。専務は私の母方の伯父になります。
次に会った時にでも、伯父に伝えさせていただきますね。
遠いフロリダで実家の会社の事が話題になったと知れば喜びますでしょう」
「ふふ……是非、よろしく申しあげてね?」
隼人とイザベルが柔和な対面。
『おおい? お前の相棒ってそういう筋の男だったのかよ!』
『会社御曹司』と解った同期生達が、葉月をつつくきまくる。
『それが? 彼はメカニカル専門じゃない。お家柄がそうだって不思議じゃないでしょう?』
葉月は、それがどうしたと鬱陶しそうにして、多くは取り合わない姿勢を示していた。
「えっと……皆、どう?」
なんだかぎこちない雰囲気でマリアがこの輪に入ってきたのだ。
こちらも『クラッシュ後』、初の会話になる。
アンドリューとマリアの視線がぎこちなく合わさった。
「えっと……ブラウン。悪かったな」
アンドリューが金髪をかきながらぶっきらぼうに呟いた。
彼なりに自分だけの頑固で譲れない思いを、感情的にぶつけた事に後悔をしている様子。
マリアはそんなアンドリューの言葉に驚いたのか、暫し、茫然としていた。
そしてマリアもフッと微笑んで、頭を振っている。
「ううん……私もやりすぎたわ。悪いのは私だったわ。
ほら……自分だけの手柄みたいにしていたんだもの。
その手柄を披露するみたな形が派手だったと思ったわ。
アンディ達は……私よりずっと前から葉月と仲が良くて支え合ってきたのにね?
私が全部しましたって感じに見られても仕方がなかったと思うの……」
マリアも頬を染めて、モジモジとしていた。
でもアンドリュー達の顔には、もう先程のマリアに対する険しさはない。
それどころか、アンドリューに限っては頬を染めてまた金髪をかいて照れているぐらいだ。
「私もごめんなさい……。せっかくマリアさんが一生懸命にやってくれたのに」
今度は葉月まで……。
「ちょっと……。もう終わって皆、納得したんだろう?
何もご存じじゃない博士の前で、失礼だろ……。そういう話」
隼人は、スッと止めに入った。
というのも……
イザベルが若者達の内輪もめの内容が話の中心になってしまって
なんだか戸惑っていたのだ。
「フフフ……そういう事だったのね」
だけど、しっとりとした大人の女性である寛容さで、イザベルがなんだか可笑しそうに笑いだした。
「あなたが主催されたのね? ブラウン大尉」
イザベルが横にいたマリアにスッと微笑んだ。
マリアがちょっと構えて硬直しているように隼人には見えたが?
「あ、はい──。至らない事ばかりなのに主催をしてしまったんです」
マリアがなんだか控えめな態度で、イザベルの笑顔にはにかんでいるのだ。
(なんだかなー? 彼女らしくないような?)
いつも輝く笑顔をこぼして、自分がすることには自信をもって行っているマリアなのに
隼人には『……らしくない』ように見えたのだ。
「大丈夫よ。だって……楽しかったわ。
私……今夜、レイのドレス姿がなくちゃ……ここへは来なかったもの。
男性達は、レイが大佐の姿でないと納得されない方もいたみたいだけど……」
イザベルが微笑みかけるほど、マリアが畏縮してはにかんでいるようで?
隼人はまた変な違和感を持ってしまった。
「私……あなたに感謝するわ。レイにドレスを着せる事を思いついたのは
あなたなのでしょう?」
イザベルはさらにマリアに暖かい微笑みを向ける。
「そうですけど──」
「……私ね。再来週……ロスにある研究所に転属なの。
最後にレイのドレス姿が見られて、とても嬉しかったわ……。
あなたのお陰よ……ブラウン大尉。有り難う──」
イザベルがニッコリと言った一言。
だがこの一言に、葉月が過敏に反応した。
「嘘……」
葉月は、急に哀しそうな表情を露わにしたのだ。
「──!?」
少し遅れて……何故か、アンドリュー達も顔つきが変わって
戸惑ったような眼差しを三人の男が揃えたのを隼人は見逃さなかった。
「イザベル……それ、本当なの!?」
かなり動揺した様子の葉月に、隼人はなにやらここでは『見えない事情』が
ある事を悟ったが、それが何かは解らない。
もう少し葉月の反応をうかがう。
「ええ……。今日は今までのお礼とお別れの意味も込めて参加する事にしたの」
葉月のあからさまな動揺とは違って、大人の先生は落ちついていた。
「でも! それだったら──!」
葉月が何かの為に『引き止めたがっている』事に、隼人は首を傾げつつも
葉月がザッと会場中を振り返って誰かを探している姿に胸騒ぎがした。
「あなたのママにね……。転属をお願いしても、引き止められていたんだけど。
私、どうしてもやりたい研究があって……。
それが今、一緒にプロジェクトを組んでいる軍契約会社と切り離せないの。
その会社と提携している小さな軍研究所がロス近郊にあるから……決心は変わらないのよ」
イザベルも、気後れした笑顔で言い難そうだった。
先生が決心を固めながらも去りにくい訳。
葉月が引き止めたい訳。
それが隼人にはまだ見えない。
マリアも隼人と同様の戸惑った感じで、葉月とイザベルのやり取りを眺めているだけだった。
だが──葉月馴染みの同期生達も、葉月よりは落ちついているが
どこかしら、納得できないような何とも言えない複雑な表情を浮かべているのは解った。
「いかないで! イザベル──!」
葉月が今にも泣きそうな顔で、彼女に抱きつこうとしたので
隼人は驚いた!
馴染みの先生だったとしても、帰省しなければ会うことも出来ない距離なのに
葉月が泣きそうな程、そして何故、必死になって止めるのか……
隼人には解らないから驚いたのだ。
葉月が抱きつこうとした、その時──。
「テイラー博士……ご結婚されるそうですね」
そこにスッとカクテルグラスを手に現れたのは、そう……マイクだった。
「結婚──!」
葉月がまた……驚いてイザベルを見つめた──。
「──!!」
アンドリュー達の顔も三人同時に信じられないと言った顔に──。
だが……隼人から見ても、マイクの表情も……
ここにいる葉月やアンドリューと言った者達と同じように固く……。
いつものソフトな微笑みを浮かべていなかったのだ。
『──まさか!』
隼人もやっと判った!
『……恋仲だったのか!』
マイクとこの若博士が……恋人だと。
昔なじみの葉月にアンドリュー達は知っているから……
彼女の転属……もっと言うと結婚に戸惑い、なんとか兄様分のマイクの元へ
とどめようとしていたのだと。
マリアだけが……驚きつつも、眺めることしか出来ない戸惑いで
落ち着きがなさそうだ。
「イザベル……結婚って……嘘でしょ! 誰と? ロスにいる人と!?」
葉月がいつになく感情的になってイザベルに詰め寄ろうとしたのだが。
兄様分のマイクがスッと静かに葉月の肩を押さえて撫でた。
「是非……博士のお心を射止めた男性との、素敵な恋物語をお聞きしたいのですが?
先生のような方がどのようにしてご結婚を決意されたか、興味がありますので……」
一切微笑みを見せない……仕事でここぞという時に見せている、あの冷淡なマイクの顔。
『いつものマイクじゃない』
葉月とアンドリュー達はそう思ったのか、無言で硬直しているだけ……。
「……あら? 私の他愛もない恋愛など、言うまでもありませんわ」
そして……先程までしとやかに穏和に微笑んでいたイザベルからも笑顔が消えて
とても素っ気ない返事。
つまり……隼人から見ても、イザベルの決心は変わることなく揺るがず
マイクに説明するつもりもないといった感じだ。
すると──
マイクがもの凄い険しい表情で、イザベルの細腕を片手でガシッと掴んだかと思うと──
「ああ、それでもいいだろう、イザベル──。
ただし、黙って去っていたとしてもロスまで押しかけるだろうな!
納得させてもらわないと、俺はロスの研究所まで行くぞ!」
そこに『恋仲』を隠そうとするマイクの姿はどこにもなく……。
そしてそこにいた後輩達は、滅多に取り乱さないマイクの様子に
ただ、ただ……驚いて見ているだけ。
そして──
「……解ったわ。行きましょう」
イザベルは表情を固めて……スッと葉月がいる輪から背を向けて歩き出した。
マイクも後を追うように──。
二人は芝庭へと向かって……さらに……
御園家の門を越え、宅前の道路も横切っていった。
向かいにある渚へと向かうフェニックス群衆の影へと人知れず身を隠したようだ。
「……」
突然の大人のやり取りに、一時一同は無言だった。
そして何よりも、いつも笑顔で余裕で落ちついている先輩の感情的な様子に
戸惑っていた。
「……葉月、知っていたのか」
隼人がフッとその沈黙を破った。
だが、隼人は葉月が知っていても不思議には思わない。
どちらも両親の部下で、葉月はどちらとも親しい様子だったから──。
特に……フロリダに来てから隼人も痛感したのだが
マイクと葉月の姿は本当に『兄妹』と言っても良い程だから。
「……」
葉月は心配そうに、フェニックス下に広がっている暗闇を見つめていた。
「……まさかね。マイクまで今夜トドメを刺されるとはね……。
マイク……『ベタ惚れ』だったのに、大丈夫かよ?」
アンドリューも壁に背を持たれつつ、ポケットに手を突っ込んで気の毒そうに溜息──。
「そんなに? あの中佐が──?」
隼人も『ベタ惚れ』とまでくるほど、あの秘密主義の彼が女性を愛していることに驚いた。
「そんなに……ジャッジ中佐は……」
マリアも茫然としているだけ。
ケビンもダニエルも知っていたのか、苦い表情で俯いている。
「アンディ──。知っていたの……」
葉月もやっと言葉を発した。
アンドリューは『チッ』と致し方なさそうな舌打ちをしながら金髪をかく。
「そりゃ……長年の付き合いもあるし、一番親しい兄貴だし。
お前よりかは、兄貴にいつだって会える距離でもあるしなー」
「……マイクはアンディが知っていることは?」
「ああ、知っているよ。なんたって俺達が見抜いた時も、かなり動揺していたぜ。
ほら……俺達はさ。お前の近況が知りたくて時々お前のママに挨拶に行っていたから。
差し入れ持って科学科の研究所に顔出すと……
ある時、マイクと頻繁に鉢合ったんだよな……。
おかしいな? とは思っていて……ちょっとからかったんだけど……」
『おい、マイクー? 最近、ここで良く会うよな? なんかあるのかよー』
『別に? パパ将軍の言づてを伝えに来ているだけだよ』
『まっさか、テイラー先生が目当てだったりして! あの先生、眼鏡を外したら結構美人じゃん?
童顔でー、華奢だし、色も白いし……髪もほどいたらちょっと俺、クラッてくるかもしれないぜ!』
ただ単にからかった事をアンディが話してくれる。
「そうしたらさぁ……マイクの奴、俺の襟を掴んでもの凄い真剣な顔で。
『まさか、お前達も……じゃないだろうな!?』なんて怒るんだもんなぁ?
あのマイクがあんな安易に顔に出すって、俺も驚いたぜ?
その後も、食事をおごってやるって言うから『口止めかな?』と……。
マイクは結構騒がれるから、別に誰にも言うつもりなんてなかったんだけどさ。
なのにマイクの奴……何かと思ったら『あの先生の事で知っている事、全部教えろ』って……」
「そこまで!?」
アンディの昔話に、マリアが一番驚いていた。
隼人もちょっとだけ驚いたが、逆にあの完璧すぎる先輩にも
そんな『弱み』があると判って、なんだかホッとした方が多いような気がした。
「でも……別れた感じだったよね」
ダニエルがポツリと呟いた。
「でも……切れていないって感じもあったよな?」
ケビンも眼を上に向けて、思い出しているように──。
「そうそう……。だってあんなにベタ惚れのマイクが別れたとしたなら
取り乱さない方がおかしいと思っていたんだ。
たぶん──あの先生が同じ基地内にいて、仕事ばかりで……
自分以外の男には興味がないと思って……時々でも会えると思ったんじゃないか?
それが今度は、『ロス転属で結婚』じゃぁ……ね?」
アンドリューの見解に、ダニエルとケビンは頷き、
葉月は黙り込み、マリアは唖然としている。
「そうだろうね、きっと──」
隼人もアンドリューの見解に納得だった。
きっと……先程のマイクの感情の表し方だと、今度こそ『離れて行く』という
『焦り』だったと隼人も思った。
中途半端な付き合いをしていたかもしれない事は
想像しか出来ない隼人にはとやかく言えないが……
確実に『まだ愛している』と、感じ取れた。
隼人の相づちを最後に、そこにいた青年達は皆シン……とした。
「ヴァイオリン……弾くわ」
葉月はやるせなさそうな顔をしつつも、この話を続ける気持ちはなくなったようだ。
先程、テーブルに置いたヴァイオリンケースがある所へと向かって行く。
だが……葉月は、フェニックスの木陰の暗闇を、暫くせつなそうに見つめていた。
「ドナルドのリクエストから始めましょうか」
だけど、葉月は笑顔を浮かべてヴァイオリンをケースから出した。
知っている者はときめきの笑顔を浮かべ、知らぬ者は驚きの顔を浮かべ始める。
『パパ、伴奏してよ』
『おお、葉月! ついにやるか♪』
すっかり上機嫌で頬を染めている亮介と供にピアノへと向かっていった。
×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×
夜空には小さくて白い星が散らばり、夜灯りの中遠く見える渚には
白い波が幾重と砂浜を濡らしていた。
ささやかな夏の夜風──。
ざわざわと囁くフェニックスの葉。
細かい砂の上を、マイクの目の前……イザベルが長い髪をなびかせながら歩いていた。
フェニックスの群衆を抜けて、渚が開けた所でイザベルが立ち止まった。
マイクもそれを確認して、立ち止まる。
「……」
マイクの目には、彼女の白い頬がなびいた栗毛に見え隠れするだけで
眼差しも表情も確認することが出来なかった。
彼女はずっと黙り込んでいる。
「昨夜のは……最初から『さよなら』のつもりだったのかな」
そう──昨夜、彼女が激しかったのも、朝までいつまでもマイクを求めていたあの違和感。
そして……今朝方『またね』のキスをした時、震えていたような彼女の唇。
あの違和感は……この事だったとやっとマイクは判った。
「ごめんなさい──。昨夜はそんなつもりはなかったの」
「……今の男の為に?」
「……」
イザベルが黙り込む。
「当然じゃない。彼は私を愛してくれているのに……」
『昨夜は裏切った』
彼女がそう言いたいことが理解できる。
「……でも、昨夜の君はとても一生懸命だったけど……」
『俺をあんなに求めて、愛していると何度も口にしたじゃないか』
まだ、彼女の愛はマイクにあると……言いたかったが自信がなかった。
「ええ……あのままの私で偽りはないわ」
やっと彼女が笑顔で振り向いてくれた。
その瞳は暗闇で、いつのような明るい透明感は見ることが出来なかったが
僅かな灯りでもキラリときらめいていたのだ。
その彼女の笑顔を見て、マイクはなんだかホッとしていた。
そして──微笑みが浮かび、そっと彼女の側へ行くことが出来た。
隣に並んで彼女のか細い肩をしっかり抱いた。
「イザベル……無理に決めた事なら……」
きっと……何かあって、何か思い詰めて、どうしようもなく彼女が
他の男に傾いただけだとマイクは思いたかった。
今なら……そんな事どうでも許せる。
いや! 許せるだなんて立場ではない!
自分達は『別れた恋人』という現状なのだから、イザベルが誰を選ぼうとそれは自由。
だが──マイクは今更ながら『衝撃』と供に自覚した。
『手放したくない。愛しているんだ!』と──。
「もう一度、申し込むよ。愛している……だから、もう一度俺と……」
マイクはイザベルの両肩をしっかりと胸に抱き寄せて、彼女の髪に頬を埋めた。
「は、離して──」
なのに……彼女は今朝方、フッと逃げていった小鳥のように
マイクの胸を力一杯突き飛ばして、飛び出していった。
「イザベル──」
マイクの目の前で、また背を向けてしまった彼女。
御園家から、ヴァイオリンとピアノの音色が聞こえてきた。
『煙が目に染みる』だった。
その音色が暫く響いて、やっとイザベルが言葉を発した。
「マイク……」
「なに?」
「私達が、数年前──何故、別れることにしたか覚えている?」
イザベルは背を向けたまま、俯いて……益々彼女の顔が見えなくなる。
マイクはイザベルの質問に、ため息をついた。
「ああ。君から言い出したんだ……『縛られるのは嫌だ』と……」
そう……。
仕事ですれ違いばかり。
『会おう』としても……どちらかが相手の自宅で一晩待っても
『約束』は守られないことなどしょっちゅうだった。
イザベルは研究熱心で、その向かい合っている『問題以外』の事に
気を捕らわれるのがとても鬱陶しいという性分も、マイクは良く解っていて付き合っていた。
彼女と約束がすれ違って……怒ったことは一度ない。
ちょっと冗談交じりに『不満』をこぼしたくらいで、喧嘩になった事もないこともないが
数は少なかった。
だからこそ『上手く行っていた』と思ったし、『彼女以上の女はいない』と
今でも思って、他の女性に興味もまったく湧かない状態だった。
イザベルも同じ状態だった。
なのに……彼女がそう言いだした。
勿論──マイクは『今まで通りでいいじゃないか』と引き止めたが
イザベルは頑として言い分を撤回しなかった。
『解った。縛られる事が嫌なんだな……。
俺と会わなくてはいけないと言う義務が嫌になったという事だろう?』
『そうじゃないけど──』
『じゃぁ、別れよう。恋人という肩書きは今日から解除だ。
約束もしない──。それでいいだろう?』
マイクはそれでいったん、引き下がったのだ。
『でも……イザベル。俺にも君にも誰も気になる人がいない時。
そして……お互いの気が向いたとき……声をかけてくれるかな? 俺もそうしていいかな?』
マイクはそうしてイザベルを繋ぎ止めようとした。
最後の『関わり』だけ……残しておきたかった。
その後──。
彼女は思う存分仕事をして……『博士号』を取った。
マイクも心より祝福をして、彼女のお祝いを申し込んだ。
彼女も応じてくれて……その時が別れてから初めての『再会』だった。
その後は……昨夜の様に……。
たまにどちらかが声をかけて、断らざる得ない時もお互いにあったが
強制はせず、時間が合えば『愛し合う』
そういう状態が数年続いた。
途中で、マイクも何度も彼女を取り戻そうと思ったが……
同じ繰り返しのような気がして……。
彼女に逃げられるのを恐れて……。
だけど……『信じていた』
彼女は仕事熱心なだけで、今は……『恋人』は煩わしい事柄として彼女が捕らえているだけ。
いつかきっと……彼女はマイクが必要でしかたがなくなる時がくる。
なぜならば……彼女も相手はいないことを会えない間はちゃんとチェックして来た程。
彼女はマイク以外の男には興味がない。
マイクがイザベルを必死に振り向かせようとした時の努力を思い返せば
他の男は途中で諦めるだろう……と、言うほど……彼女は本当に外への興味が稀薄なのだ。
そう思っていたのに──。
それが……マイクの思っていた事をすべて覆すような結果が目の前にあるなんて──。
「……マイク。本当にあなたしか愛せない日々だったの」
イザベルが震えるように両腕を自分で抱きしめて、身をかがめた。
「……あなたは知らない。私がどんなにあなたを愛していたか」
「──!? でも! 君から『束縛されたくない』と言い出したんだぞ!」
「……愛していくのが『辛くなった』の」
「──!?」
マイクには彼女が何を言いたいのか解らない。
「あなたの事しか頭に浮かばなくて……何も手に着かない時もあったわ。
仕事中、ぼんやりしていてミスをした事も何度かあったわ……。
だから──博士が気が付いてしまったんだと思う」
「イザベル──?」
そんな彼女、想像が出来なくて……マイクは驚いた。
マイク以上の余裕に、マイクに負けない仕事への姿勢。
いつだって冷静沈着で、マイクの方が翻弄されていたぐらいの女だった。
と……思っていたから!
「あなたに愛されるようになって、私にとっては人生最大の喜びだったわ。
あなたは……私の事を、仕事熱心で『対等』だと見てくれた。
それも嬉しかった……。だから──博士号、絶対に取りたかったの」
「それが……別れたかった理由!?」
マイクはさらに衝撃を受けた。
だったら……取得した後、いつだってそう言ってくれればマイクだって
すぐに寄りを戻すつもりはあったのに──!?
「それだけじゃなかったの。あなたと約束をして、あなたが仕事で帰ってこなくて
あなたの部屋でいつまでも待っている時、本当は泣いていたわ。
辛くて、寂しくて……いつまでこんな思いを続けたらいいのかって……」
「──!!」
彼女が女性としてそんなに崩れるほど、マイクを切望していた事も初めて知った。
(もしかして……俺は?)
随分と見当違いなイメージを彼女に押しつけていたんじゃないかと
マイクは急に自分の中にいる『好都合な自分』の存在に気が付いたような……。
「もう……嫌なの。あなたを『待つ』ばかりの私が嫌になったの。
苦しいの──。解放されたいの」
「……何故、そういう自分がいるって事を、俺にぶつけてくれなかったんだ」
いや……きっとマイクが『彼女は物わかりがよい』と決めつけていて
イザベルは嫌われたくなくそういう『マイクにとって都合の良い女性』を演じさせていたのだ。
だけど……彼女がそういってくれたなら、それでもマイクはイザベルを愛せる自信がある。
何も……彼女のマイクに合わせる姿勢を愛していたのではない。
彼女だから愛していた。
彼女がマイクによって辛い思いをするなら、マイクの方が何とか合わせる事も
マイクはいとわなかったと……思いたいが。
それも……手遅れなのだろうか?
「……それで、相手の男性は俺とはまったく違うって事なのか」
「……彼も仕事熱心よ。だけど……どんなに大変な仕事をしていても
必ず、私が片隅にいつでもいる事を伝えてくれる」
「そんな事! 俺だってどんな仕事をしている時も君のことは忘れた事なんてないぞ!」
マイクは声を大にして叫んだ!
「なんだ! 離ればなれで仕事をしている時に、俺が連絡をしなかった事に対して
怒っているのか!?」
イザベルが首を振った。
「俺が……いつまで経っても君にプロポーズをしないから!?」
また、イザベルが首を振る。
「仕事なんかより、私を見て! そう言いたかった……」
「!!」
マイクは今度こそ……驚いて声が出なくなった。
彼女が今言い出した一言は──。
マイクがイザベルと出逢う前に付き合っていた……ごく一般的な女性達が
必ずマイクを追いつめて来たセリフと『同じ』だったから──。
「マイク……私は、仕事をしているあなたをとても愛しているし。
今までも、これからも……そんなあなたを奪いたくない。
なのに私は、そんなあなたを奪おうとしている。
あなたは私に博士号を取る余裕を与えてくれたのに──。
私は『嘘つき』で『矛盾』していて、そんな『未熟な女』だって
あなたは気が付かなかった……ううん、私はそんな女なのだと、あなたに気付かせようとしなかった。
あなたの深い愛に溺れて、私はあなたから奪うことしか出来ない女になっていこうとしていて
それが……我慢できなくて……そんな自分が忌まわしい。
あなたが『恋人』という肩書きを解除してくれた後、寂しさはあったけど
私、以前の自分を『取り戻した』とホッとしていたわ。
でも……あなたに愛されたい、愛したい……。
あなたとたまに会って、愛されている私は『夢の私』
仕事をしている私に……あなたは『不必要』だったのよ……!」
「イザベル……」
マイクはついに砂場に膝をついてすすり泣くイザベルを茫然と見下ろしていた。
「……『彼』と出逢って……気が付いたの、色々。
私はそういう『女』だったと──。
彼とは同じ専門という事もあって、気心はしれていたんだけど。
最初は彼のアプローチはとても鬱陶しかった。
私はあの人にアプローチされる度に、あなたの事を思い出していたし。
だけど……彼とは仕事をしていても、ロスとフロリダで離れていても
彼が営業で基地に来て……一緒に食事をしても……一緒に『寝て』も。
私はいつだって……『私らしかった』のだもの。
彼に癒されている事を知ったの……。彼といると『自分らしい』と。
彼に会えない間も……私はとても穏やかな心で彼を待つことが出来たのだもの。
彼は離れていても……私の側にいるって初めて感じたんだもの……!」
マイクは目を閉じて……拳を握った。
『決定的だ』
イザベルが『男と寝た』事ではない──。
『自分らしい』
『癒される』
そして……『穏やかに待つ事が出来る』
イザベルが本来から求めていた物が全て揃っていて
そして……マイクが何一つ彼女に与えられなかった物。
『俺ももう一度、努力する』
そう言いかけたのだが……何故かマイクは言えなかった。
「あなたとの事は……身も焦がれる情熱的な『恋』だったわ。
でも……私はあなたより『仕事』を選び、そして……『愛』を彼から知ってしまったの……。
でも……昨日、最後に一目だけでもあなたの姿を見たくて。
ふらりと軍部隊の方へ歩いていたの。
あなたが……なんだかとてもやるせなさそうな顔をしていたから
つい……声をかけてしまったの。あなたの深海の瞳は怖いわ。
その目で見つめられたら……もう、止められなかった。
最後に……もう一度だけ、もう一度だけ……だから……私……」
『許して──』
最後にイザベルがくぐもる涙声で呟いた。
「苦しめて……悪かったね。俺も……何一つ君を幸せに出来なかった事。
何一つ……君に安らぎを与えられなかった事……許してくれ」
「マイク……?」
「君は何も悪くないし……自分を責めることはない。
俺が……君に『背伸び』を要求しすぎていた。俺が一番悪い」
マイクは遠い水平線を見つめて、淡々と呟いていた。
素っ気なく──。
そうでなければ……マイクも狂いそうだった。
イザベルを抱きしめて、その男の所に行って……『彼女とやり直すから返して欲しい』
そんな事を……彼女をさらって何もかも捨てても良い気持ちを必死に押さえていた。
誰もが……それが正直な気持ちなら『それが一番大事ならそうしろ』と言うだろう。
それが出来る人間は、たいしたものだ。勇気があると思う。
だけど……マイクも一緒だった。
イザベルとなんら変わらない。
マイクは……イザベルも大事だが……
彼女がマイクより仕事を選んだように、マイクにも捨てられない数々の『もの』がある。
大切な物が『一つ』だなんて限らない。
だけど、ある時……
今のマイクやイザベルのように……『どちらも大事だが、ここでは一つしか選べない』
そんな究極の選択を迫られる場合もあるのだと。
そしてイザベルが出した答は……マイクより『彼』だった。
マイクの側で仕事をするより……『自分がやりたい研究への前進』だった。
そしてそんな『選択』とかいう煩わしい事より、なによりも……。
彼女が──『女』になった。
マイクの手でなく、違う男によって『愛』に目覚めた。
あんなに……ぼんやりしていたのに。
『たとえばだけど……テイラー先生と食事をしたい男性がいたらどうします?』
『……はい? そうね……どうしようかしら? 困るわそんなの。
お化粧もしなくちゃいけないし、綺麗な格好もしなくちゃいけないでしょう?
その間に、シャーレのサンプルに変化が起きるかもしれないし、困るわ。
あ、中佐? どいてくださる!? そこに今、さっき閃いた薬品調合のメモ! 置いていたの!!』
『え? え?? どれですか?』
『もぅー! あれがないともう一度、思い出さなくちゃ!!』
『わ……一緒に探しますよ!?』
『テイラー先生? 先生の側にいたいという男性がいたらどうしますか?』
『え? そうね? レポートのタイプ打ちをやらせて、私は薬品調合に没頭するかしら?』
『先生らしいですね〜。ええっと……』
その彼女が……こんなに鮮明に女性としての感情を宿していたなんて。
彼女を愛しているなら、彼女が望んだ幸せを見守る事も……
それもまた……『愛』なのかもしれない。
マイクは唇を噛みしめて空を仰いだ。
恋を目覚めさせたのはマイクだったが……
愛は……マイクは与える事に辿り着かず、他の男の手によってだった──。
葉月のヴァイオリンの音が響いている。
イザベルのすすり泣く声と重なり合った。
聴こえてくる曲は……『悲愴』
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