10.愛はひとつ?
『はぁ……』
葉月のヴァイオリンの音がずっと……柔らかに響いてきている。
その時マリアは、キッチンの調理用シンク台にある椅子に座って
ぼんやりとしていた。
ベッキーが少しずつ汚れた食器を、洗い始めている。
「ベッキー……。手伝うわ」
マリアは制服の白い上着を脱ぎながら、おもむろに立ち上がった。
「なんだい? もう、『主催の役』は免除になったんだろう?
そんな気遣わなくてもいいから……マリアも外で皆と楽しんでおいで……」
「そうじゃないの。なんだか──胸が詰まって……」
マリアは上着を椅子の背に掛けながら、フッと微笑んだ。
「……聞いてしまったのかい?」
ベッキーが黒くて太い腕で……食器の水気を払いながら
乾燥機へと詰めていた。
「……うん、葉月とアンディ達といたら自然と。
勿論、私の事『口が堅い』と信頼してくれた上で聞けたんだと思うけど……」
アンディにそう言われたのだ。
『レイの肩の傷のこと……アイツ自身から聞いたんだろう?
お前、口が堅いと思ってマイクのこと話したけどさ……解っているよな?』
まだ完全に信頼はされていないと少しガッカリしたが
話の輪の中で、マイクと若博士の恋仲について聞けたことは……信頼されているとも思えた。
「なんで……そんなお付き合いが出来たのかって、切なくなっちゃったの」
マリアはカッターシャツの袖をめくりながら、ベッキーの横へと並んだ。
「マイクが……なにもかもイザベルの思うままにしていたんだよ、きっとね。
別れたのは彼女の仕事の為だったのじゃないかな……と私は思っていたけどね。
そして、マイクも待ちすぎたんだよ……一度も、あの子は勝負に出ることなく」
ベッキーは横にいることを許してくれたのか、マリアに洗剤を湿らせたスポンジを差し出した。
「そうなの──」
(じゃぁ……私と一緒ね?)
並べてしまうのは、おこがましい気がしたが。
マリアは、つい最近愛していた夫を輝かせるために、気持ちにケリを付けたばかりだった。
納得する形で、ケリがついたから……。
今は達也と夫婦生活をしていた時よりも、とても糧になる『仲間』が逆に増えた。
葉月に隼人に……そして今夜はアンドリュー達にも認めてもらえた。
『私は東京大佐室のフロリダ支部でどう?』
『オーライ!』
今まで以上に自分も輝いていると思えた日々を迎えていた。
まだちょっと未熟なため、葉月の兄様につれなくされたりもしたけど──。
マリアは今夜のことは……きっと、後の自分のためにあった夜だと思えたから。
何も自分の事を知らなかった。
自分の正しさだけを胸に突っ走っていた。
そういう……『他人の思い』を無視してきた部分があった事も気が付いた。
そして──
『そんな男女もいるのだ』と……現実的に目にした。
先程目にした展開は『テレビドラマ』でもなく『小説』で見た世界でなく
本当に目の前で起きていた。
そういう事。
マリアの人生の中でどれだけあっただろうか?
勿論──葉月の肩の傷についてだって……衝撃的ではあったけれど。
『男女』という身近な問題について、こうも衝撃的だとなんだかやるせない。
(見たところ……あの先生。決心固そうだったわ)
マリアは食器を洗いながら、ぼんやり……宙を眺める。
あのマイクが『ふられる』
先程まではそれがとても『センセーショナル』で
マリアですら『ゴシップ的』にそわそわしていたのに……。
『ああ、それでもいいだろう、イザベル──。
ただし、黙って去っていたとしてもロスまで押しかけるだろうな!
納得させてもらわないと、俺はロスの研究所まで行くぞ!』
なんでもパーフェクトと思っていた彼のあの顔。
なにもかも捨てても良い、誰に気付かれても今は構わない。
ただ『必死』という思いだけが、あの冷静な彼を動かしていた。
そんな『人間味』ある彼もいたなんて──。
『あんなにベタ惚れのマイクが別れたとしたなら、取り乱さない方がおかしいと思っていたんだ。
たぶん──あの先生が同じ基地内にいて、仕事ばかりで……
自分以外の男には興味がないと思って……時々でも会えると思ったんじゃないか?』
アンドリューのあの言葉も──。
彼は決してポーカーフェイスの『プレイボーイ』ではなく
仕事の息抜きに女性を必要としていただけでもなく……
噂もなく、独り身が長かったのも……。
『彼女を待っていたんだわ』
ただそれだけの事だったのだと──。
マリアはなんだか唇を噛みしめていた。
自分の姿勢は絶対崩さず、仕事は仕事。
恋は恋──。
彼は何年も……自分の中にある情熱をどれだけ押さえ込んでいたのだろう?
そう思うと……マリアも苦しかった。
だって……自分は『思いついたら突進』 『感じたら伝達』
自分の感情を殺す事なんて、した事はなかった。
相手の気持ちを見た上で、自分の気持ちを殺すだなんて……。
多少は達也を送り出すために、自分の中にある『未練』があったが
『殺す』というより、『綺麗に拭い去った』と言った方がよい。
それも引きずりたくないから、自分でそうしたかったから。
なのに彼は何年も彼女だけを見つめて、彼女だけを待っていて。
そういう『情熱』が人並みにあった事も……そしてとても一途な事も驚いた。
『私って……全然解っていない!』
人と接する時の『感覚』がまったくもって『未準備』で『距離感』がなく
良いと思えば、突っ走るだけの自分が未熟なだけのような気がしてきた。
それに気が付いたからこそ──。
とても彼の気持ちも、若先生の気持ちも
どちらも間違ってなくて、やるせなくて……そしてそうせざるえないだけの事が痛くて。
他人事なんだろうけど、マリアにだって痛さが切々と伝わってきた。
そこへ──。
「ベッキー。イザベルが帰るそうだから二階にいるわ。マイクが……」
登貴子がとても無念そうな顔でキッチンに入ってきた。
マリアがいるのを見て、登貴子が言葉を止めた。
「ああ……マイクは任せて下さい。奥様」
ベッキーもやるせない笑顔をこぼして、登貴子を見送った。
どうやら……二人の『決着』がついたようだ。
マリアはサッとキッチンの外を覗くと。
登貴子が脱力したようなイザベルを二階へと連れて行くところ。
マイクは──?
別々に戻ってきたのか、今、丁度……庭先からリビングへ上がってきたところ。
その彼の顔……。
どう見たって……ポーカーフェイスの彼ではなくて
打ちひしがれた痛々しい泣きそうな顔をしていた。
『いや……』
マリアは胸を押さえた──。
あんな彼……見たくない!
あんなのあの人じゃない!
もっとポーカーフェイスで笑ってよ!
いつもの余裕たっぷりな意地悪な微笑みを浮かべてよ!
あれでは『負け犬』じゃないか!?
皆が知っているジャッジ中佐は……あんな人じゃない!
見ていられなかった!
目を背けたけど……。
でも……あれも本当の人間としての『マイクという人』なのだと
マリアは目を開けることにした!
それを見ることが、本当の彼を理解する為なのだと。
マリアがフッと目を開けると……。
葉月はヴァイオリンのボウをスッと降ろして……『もう、おしまい!』と
わざと疲れた顔でおどけて……集まっていた観衆を納得させようとしていた。
その間に、ただフラフラとマイクがキッチンへと向かってきている。
『……どうしよう?』
だぶん……言葉はかけない方が良いとマリアは思った。
すると……葉月が皆に微笑みながらお礼を述べると、
サッとマイクの後を追いかけて来たのが見えて『ホッ』とした。
「ベッキー……一杯もらえるかな?」
彼はいつもの笑顔で……でも、疲れた笑顔で一言そういうと……
マリアの存在にも気が付かないと言う感じで、グッタリと……
マリアが上着を背に掛けた椅子に座り込んでしまった。
「……」
ベッキーは戸惑いつつも、何も言わず、側にあったブランデーを
適当なグラスに注ぎ入れて彼の手元に置いた。
置いたのだが──。
マイクはグラスだけ握りしめて、ヤケのように飲み干すこともなく……
それから口に付けることもなく……
ただ……握りしめたまま、どことも解らない視点のグッと強い眼差しをしているだけ。
怒りなのか──。
後悔なのか──。
悔しさなのか──。
哀しさなのか──。
どれともつかない、どれも入り混じっているような……
マリアには計り知れない眼差しをジッとしているだけだった。
「マイク──」
葉月が心配そうにキッチンに入ってきた。
その時だけ……フッと彼が葉月を見上げたのだ。
葉月があたりを見回して、キッチンのドアを閉めようとした。
「外にいるわ」
マリアは気を遣って、葉月のドアを閉めようとする手を止め……外に出た。
キッチンのドアが閉められた。
ふと会場を見渡すと……秘書室の彼の部下、アンディ達、隼人、達也──。
そしてフォスター隊長。
これだけの人間だけがなにか悟っているのかキッチンへとさり気なく
気になる視線を向けていて……マリアは焦った。
『ねぇ! リョウ……あれを弾いてよ』
『ああ、いいね? 他にリクエストはないかな? リョウ将軍に要望を言えるのは今のうちだよ!』
『あー、ドンと来い♪ トリッシュは何が良いかな〜? レディファースト!』
感づいているだろう内輪の大人達。
オリビアやジェームスなどは、若い隊員達の目を逸らそうと
ワザとピアノの周りに集まっている隊員達の目を引きつけようとしているようにも見えた。
アンドリューに手招きをされて……心配そうな彼等の元へと
マリアは自然と足が向いていた。
その代わりに……隼人がこちらに向かってくる。
「いいよ。俺がなんとかしよう──」
隼人はすれ違いざまにマリアにそっと微笑んで、キッチンの側へと行ってしまった。
そして一人で酒を呑む振りをして……
今までマイクがそうしていたように、キッチンの横壁に背を持たれて
何喰わぬ顔をしているのだ。
マリアはホッとして……アンドリュー達と合流。
『兄貴は?』という彼等に、そっと首を振ることしか出来なかった。
イザベルが登貴子に付き添われて……凛とした表情で階段に現れた。
そして勝手口から人知れず帰る為か、二人はキッチンのドア前へと立ったのだ。
「今、葉月と彼が一緒なのですけど」
隼人がそっと言葉を添えた。
でも──イザベルは構うことなくドアノブに手をかける。
マリアは決着が付いただろうけど……またハラハラしていた。
×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×
「イザベル……」
キッチンのドアが開いて、葉月の目に飛び込んだのは凛とした表情のイザベルだった。
彼女の背後には、やるせなさそうな顔をした母親と……
そっとキッチンを心配そうに覗き込んだ隼人だった。
葉月はイザベルの表情から『決心は変わらない』と悟って、愕然とした。
「レイ……。今まで可愛いあなたが、私を和ませてくれたことにお礼を言うわ」
イザベルはとても優美な笑顔を浮かべて、正装姿の葉月と
そっと柔らかく抱きしめてくれる。
「レイ……最後にあなたのドレス姿も、立派な大佐姿も見られて嬉しかった。
ママとパパを大事にね? 無茶をして周りの兄様方を困らせちゃダメよ?
ロスで……あなたの活躍を祈っているわ」
「イ、イザベル……」
『兄様を困らせちゃダメ』
そこにマイクが含まれているかと思うと、葉月はなんともいえない気持ちになって
彼女を捕まえるように背中に腕を回して抱きついた。
「いかないで……お願い。いかないで──!」
「レイ──」
葉月の側には、ブランデーグラスを手に握ったまま、反応を失ったマイクがいた。
キッチンのドアが再び閉められて、母だけが中に入ってきた。
「イザベル! 私……待っていたんだから。
いつかきっと私のアメリカ兄様と幸せになるって……待っていたんだから!
マイクとじゃなきゃ……祝福しない!」
葉月が泣きながら引き止める。
「葉月……おやめなさい……」
部下に抱きついて離れない娘を登貴子が引き離そうとした。
「葉月──。ちゃんとお礼を言って……祝福してあげなさい……」
そういう母も涙声じゃないか?
それも今……そこで打ちひしがれている兄様の前でそんな事を言うなんて!
葉月は母に逆らって、より一層……イザベルをきつく抱きしめた。
「レイ……。マイクを宜しくね?」
「イザベル……」
その声には『愛情』を感じた。
葉月が彼女の顔を覗き込むと、イザベルは笑顔で……
そして、先程葉月を抱きしめる時に彼女が見せてくれた優美な微笑みだった。
暖かくて、瞳は澄んでいて……マイクへの愛は色褪せていない様に感じたのだ。
その隙に……イザベルに腕を解かれてしまった。
「レイ……」
イザベルが葉月の頬の栗毛をしとやかにかき上げる。
「レイ……私は死ぬまでマイクを愛するわ」
「……」
愛しているならどうして離れるの!
葉月はそう叫びたかったが、イザベルの微笑みはあまりにも美しく
葉月が知らない何かを超越してしまった未知の人に見えたのだ。
「死ぬまで愛するのに……行ってしまうの?」
葉月の側にいるマイクは……ただ、グラスを握りしめて俯いているだけ。
イザベルの今の言葉すら……兄様には聞こえていない気がした。
「そうよ、レイ──。レイには……解らないかもしれないけど……。
『愛は一つじゃない』って……私は今回思ったのよ?」
『愛は一つじゃない──』
「!?」
葉月はその言葉に、何故だか身体が硬直した──!!
「マイクを死ぬまで愛してゆく。だけどね? レイ……。
『一緒にいられる愛、供にいられる愛』はね……『一つしか選べない』のよ。
『一緒にいられる人』が……ロスの彼だっただけ──」
「……!」
葉月の中で、また何かが弾けたかのよう!?
まだじっくりと自分の脳に浸透してこないけど『激しい振幅』だけが伝達してきた。
「愛は……一つじゃない。だけど……供にある愛は一つだけ……?」
葉月が茫然としていると、イザベルがマイクをやるせない眼差しで見下ろした。
「さようなら……マイク」
マイクは無反応だった。
でも、イザベルは構わず続ける。
「マイク……今、レイに言った通りよ。あなたがそれを受け止めてくれなくてもいいわ。
でもね? 最後に言わせてね?
愛に辿り着かなかった私達だけれども、今の私はあなたなしではなかったの。感謝しているわ。
そして──忘れないで? あなたの幸せをずっと願っている事。
そして……いつだって私は『あなたの最後の味方』にだってなれるわ……」
それでもマイクはイザベルのその言葉に無反応。
「レイ……さようなら。また会えたら素敵なレディになっていること願うわ」
イザベルの最後のキス。
もう……葉月には止めることは出来なかった。
葉月が解らない、なんだか衝撃的な想いを秘めて彼女は行こうとしている。
「博士……タクシーを捕まえますから、ここで結構ですわ。また、明日」
「気を付けて……イザベル」
登貴子も引き止めなかった。
ママとしては、最後にマイクにチャンスを与えたつもりだった様だが
それも……マイクにとっては決定的な打撃になってしまい……
とても辛そうな顔をしていた。
そして……イザベルは今朝方ミーティングのためにロスからやって来た
婚約者の元へその足で行くことも……登貴子には解っていたから。
「イザベル、身体に気を付けて。あんたは没頭しすぎるとなにもかも忘れるから。
そして……お幸せに」
ベッキーも涙声で見送ろうとしている。
「ベッキー。今まで有り難う。最後にあなたの手料理が食べられて嬉しかったわ」
イザベルの笑顔に、ベッキーもエプロンを手にして目元を拭っていた。
イザベルが勝手口のドアに立って、扉を開けようとした。
「待ってくれ……!」
やっとマイクがザッと立ち上がって、イザベルに駆け寄った。
葉月は『そうよ! 引き止めなさいよ!』と心でマイクを応援した!
でも──!!
「君も……忘れるな! 俺が……いつだって君の味方だって事を。
君の栄光を誰よりも……誰よりも……願って……」
マイクの声も涙ぐみ始めていた──。
そして彼の深い青色の瞳から、初めて涙がこぼれていた。
「そして……俺も同じように君を愛し続けるって事を。
君は俺を選ばなかったけど、君が泣いて助けを必要としていたら
何処にだってすっ飛んでいくよ!」
「マイク──」
葉月はそんな兄様の激しくてとても熱い声に涙が溢れてくる。
イザベルがフッと振り向いて、とても輝く笑顔をマイクに向けた。
でも……今度は彼女の瞳からも溢れるばかりの涙が流れていたのだ。
「有り難う……嬉しいわ。解ってくれて……。
でも、あなたの幸せを一番に願うから……私より自分の事を大切にして……」
イザベルはそういうと勝手口のドアを開けてしまった。
「幸せに……」
マイクがそれだけ呟いた。
それ以上は何も言えないようで……やっと言っているという感じだった。
「さようなら……イザベル。ごめんなさい……あんな事言って。
兄様と一緒に……願っているから。幸せを──」
葉月もマイクと一緒に涙を流してやっと言えていた。
「……さようなら、とても楽しかったし、幸せだったわ」
『さようなら』
イザベルは最後にもう一度呟くと……勝手口を飛び出していった!
「……イザベル」
彼女の長い髪……くせかかった毛先がすっと筋を描いて消えていった。
マイクの目に最後に焼き付いた彼女の一部。
「ママ!」
葉月は登貴子に抱きついて、泣き出していた。
そして……マイクも椅子に倒れるように座り込むと……
『うっう……』
今度は構うことなく額を抱えて、嗚咽を洩らし始めた……。
登貴子も娘の頭を撫でながら、ただジッと涙を浮かべ、
ベッキーのすすり泣く声がキッチンに響いた。
『愛は一つだけじゃない。マイクを死ぬまで愛するわ……』
でも、一緒にいられる供にいられる愛は一つだけ。
そんな事……葉月は初めて知ったような気がした。
そんな愛もあるんだと。
彼女と兄様の恋が教えてくれた気がする。
そんな事、こんな形で知りたくなかったけど──。
でも──葉月はフッと何かが急に胸に迫ってきて、そしてそれが何であるかを
見つけられそうなそんな気もしていた。
キッチンのドア越し。
隼人は聞こえてきた会話と、すすり泣く人々の声に──。
ジッと瞳を閉じ、拳を握って唇を噛みしめていた。
『愛はひとつじゃない──』
そんなイザベルが残した言葉を、隼人もジッと噛みしめていた。
×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×
「あーあ、なんだかすごい脱力感」
22時が回っていた。
明日も平日で仕事があるため、御園家から徐々に人々が帰宅しはじめて
この時間には皆が去っていった。
葉月と亮介は供にお見送りに捕らわれていたので、
マリアは率先してベッキーと一緒に、食器を洗っていた。
「本当だねー。楽しいこともあったり、哀しいこともあったり」
ベッキーもやるせなさそうな溜息をこぼしたのだ。
「アイツがいるとさ。何かと起こるんだよな? 嵐」
そんな事を呟いたのは、流し台と背中合わせになっている調理シンクに
座り込んでいる達也。
達也も後かたづけを手伝って、乾燥機に収まらない食器を布巾で拭いていたのだ。
「マイク……ダメだったみたいだなー」
隼人から聞いたと達也が呟き──。
ただ単に、マイクの『今夜のターゲット』じゃなかった事を知り
そして、その結果を同じ男としても痛切に感じたようで、溜息をついていた。
そして……マリアとベッキーは顔を見合わせて俯き、
誰もその後はこの話について口にしなかった。
マイクはあの後、人知れず帰宅したようだった。
秘書室のロビンが一番勘鋭く気が付いたようで、とても心配していたが
葉月がそれとなく誤魔化して、なんとか納得させたようだった。
そして──葉月は……。
「もう、あんた達もいいよ。リビングの片づけは、明日私がするからさ」
「でも……」
「まったく予想はしていたけど、軍人さんの祭りの後を見たかい?
あんなに散らかっているのを今から片づけたら、夜中になるよ!
あんた達も明日仕事だろう? 早く帰って寝ることだね」
ベッキーの言葉に、マリアはそっと頷いてお言葉に甘えることにした。
「あー、オヤジさんとくたばっている!」
帰り支度を始めた達也が、ソファーで寝ている葉月を確認しに行きそう言っていた。
マリアもダイニングテーブルで荷物をまとめながら視線を向ける。
そこにソファーの隅で、腕組みうたた寝をしている父親の肩に
頭をもたげて寄り添うように葉月が眠っていたのだ。
二人はそれを息をひそめるように笑顔で眺めて……そっと遠のいた。
「可愛いわね。ああしていると葉月って」
マリアも急にそんな葉月が愛おしくなって微笑ましくなる。
「でもさ……こういうの、葉月はずっと我慢していたんだぜ」
「……そうなの?」
「ずっとオヤジさんは……葉月にとって将軍様だったからな」
「そうだったの──」
達也がとても嬉しそうに遠くからもう一度眺めていた。
マリアも暫く眺めながら考えた。
『誰も……助けにきてくれなかった。パパもママも兄様達も……』
あの時の言葉を思い出したのだ。
(葉月──。パパは戻ってきた?)
マリアもそう……最後に助けてくれるのはパパだった。
一番強くて頼れる人。
その人が助けに来てくれなかった『裏切り』を胸に秘めていたのだと──。
そんな風に思って……マリアはちょっと切なくなった。
(でも、だいじょうぶそうね。もう──)
あの姿を見れば……マリアもそう思えて笑顔が浮かび、バッグに荷物をまとめる。
「ご苦労様。博士はとても疲れていたみたいだから、無理に先に休ませたよ」
二人の後ろに毛布を手にした隼人が立っていた。
登貴子はマイクを送った後、とても顔色が悪くて隼人が二階に付き添っていたのだ。
達也とマリアも、解っていたので顔を見合わせて俯いた。
「なんだろうね? 子供みたいに見えるだろう?」
隼人も笑いながら、ソファーへと向かっていった。
「なんだかなー。兄さんって時々『父親』みたいに見えるんだよな?」
「あー解るわ? 歳が離れた兄様と小さな子供に見えるときあるもの」
「兄さん、曰く──。葉月はマイナス10歳なんだってさ」
「マイナス10歳? つまり……今は17歳ぐらいって事!?」
そう思えるときもあるし……でも、大佐嬢の葉月はとても賢いし……。
マリアも複雑さを感じる言葉だった。
「うん……そういうつもりで接しているから、訳わからないアイツの『矛盾』も
受け止められているんじゃないかって思っているよ、俺は──。
きっと兄さんには色々な『枠』がないんだろうな?
こうであったら、こうでなくちゃいけないっていうこだわりもルールも緩やかで
けど、閉めるところはきちんと閉めることが出来ていて、柔軟なんだよ。
それが固く閉じこもってしまった葉月を徐々に外に導いているような気がするな。
俺……これからそういう所を兄さんから学びたいと思っている」
達也の小笠原転属への意欲は徐々に高まっているかのような真顔。
「でも……それ、すごく私も感じたわ」
隼人に出逢って、葉月と触れて……マリアは今までない得られなかった物に出逢えて
今後の『課題』も沢山見つけることが出来たのだから。
『あわわ……隼人君! ふぁ……寝てしまっていたか』
隼人が父娘事、毛布で包もうとしたところ、勘良い亮介だけが目覚めたようだ。
『お? いつの間に──!?』
自分の側に娘が寄り添っていて驚いたようだ。
『自然とそこにいたんですよ。そっとしておいたのですが……』
『……そうか。こんなリトル・レイは何年ぶりかな?』
亮介もとても嬉しそうに葉月の栗毛を撫でていたので
達也とマリアも一緒にホッと微笑んだ。
『では、僕が上に連れていきますね』
寄り添っていた父親が目を覚ましたので、隼人が毛布にくるんだ葉月を抱き上げていた。
『ううん……』
葉月はちょっと眠りが浅くなったようだが、そのまま何かに安心したように
隼人の肩にもたれてそのままだった。
「お父さん、お母さんがとても気に病んでいたので、側に行って下さい」
隼人が力無く微笑んで、亮介に告げた。
「あ、ああ……そうだね」
亮介もやるせない事を思い出したのか、急に固い表情に──。
そして、急に心配になったかのように急ぎ足で階段を駆け上っていく。
「兄さん、俺達──帰るよ」
「中佐、また……明日。おやすみなさい」
「お疲れ様。そして──有り難う、葉月のために」
彼の腕の中、安心しきって眠っている葉月の代わりとばかりに
隼人が笑顔でお礼を言ってくれた。
二人は一緒に『とんでもない』と、頭を振った。
そのまま、達也とマリアは御園家の玄関を出た。
「なぁ? マリア……」
門を出て、達也が星空を仰ぐ。
「なに?」
マリアは楽しかった事、辛かった事、哀しかった事、切なかった事。
全てが詰まったパーティが終わってとても疲れ切った声で応える。
「兄さんから聞いたんだ。テイラー博士が『愛はひとつじゃない』って言っていたんだってよ」
「愛はひとつじゃない?」
マリアは眉をひそめた。
「マイクには気の毒な一言だったかもしれないけど。
なんだか……解るような気がするな……俺」
「……」
マリアはちょっと解らなかった。
でも……達也が次に言い出した事。
「だってさ。俺だって……お前を置いて小笠原に行くこと決心した訳だけど。
俺だって……お前の事、嫌いになった訳じゃないし。
昔みたいな情熱はなくなったかもしれないけど、ほんのりとした『愛』ってまだあるし」
「達也……」
達也は照れくさいのか、ずっと夜空を見上げているだけだった。
「マイクも言っていたらしい。お互いに最後まで味方だって──。
そして……博士が泣いていたら何処でもすっ飛んでいくってさ──」
「……中佐。そんな事、言ったの?」
いや──言えた──と、言う事にマリアはとても感動していた。
急に告げられた別れに、どんなに引き裂かれる想いだっただろう?
なのに、それが言えた事がすごいと思った。
そして……なんだか涙がまた溢れてきた。
「俺も……そんな感じ。お前がフロリダで泣いたり、困ったりしていたら
誰も助けてくれなかったら、俺の事、思い出してくれよな」
達也はそれだけ言うと、スッと自分の車の方へと歩き出してしまった。
「達也……」
彼の背中に抱きつきたかったが……マリアは出来なかった。
彼ももうすぐ旅立つ。
そしてマリアも一人歩きで再出発する。
もう……彼の背中には甘えられそうになかった。
「達也! 一緒に頑張ろう! 私もあなたの味方だから!」
マリアが叫ぶと、達也は笑顔は見せてくれずにぶっきらぼうに手を振っただけ。
車に乗り込んで、エンジンをかけてしまった。
達也の車がマリアの目の前、風を切って走り出す。
『愛はひとつ?』
マリアには解ったような、解らないような──。
でも……幸いマリアの胸には憎しみなく達也に対する『愛』は残っていた。
もう夫婦愛でも、異性愛でもない──。
友情ともいえない……そんな達也がいうような『ほんわり』としたもの。
でも──マリアは達也と話し合うまでに半年は考える期間があった。
答は小笠原にあると思って、隼人の所に押し掛けた。
そして幸い答が良い形で見つかった。
だけど──あのマイクは?
突然降って湧いた『別れ』
思いもしなかった急激な『衝撃』
彼は今夜、どんなに苦しんでいるだろう──?
マリアも夜空の星を眺めた。
星の数だけ泣いたら……終われるのだろか?と──。
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