白装束、額に烏帽子。あの時と同じ姿の伯父が幸樹を引っ張っている。そしてその伯父の顔は別人のように変貌していた。目の下が真っ黒で、そう……まるで疲れ切っている拓真のようなクマを作って。僅かに信じられた正樹伯父の穏やかさも優しさも消し去った恐ろしい形相。
その顔を見て、幸樹は悟った。
違う。凛々子が拓真さんに近づいて姿を見せていたんじゃない。この伯父が純粋な拓真さんの中に入り込んで、わざと凛々子の幻影を見せ疲れさせ、幸樹か緋美子がこの部屋に来るのを待っていたのだと!
(油断した! この部屋は拓真さんのオーラが強く守っていたから!)
彼の気は幸樹と同じ白。彼の性格そのまま邪気がない美しい白だと凛々子が言っていた。
『でも拓真叔父さんのは、幸樹さんのように高い徳がある訳じゃないのよね。なんていうのヒーリング的なだけで』
当たっている。拓真は霊感はないが、人を癒す力がある。純朴で真っ直ぐで誠実。そして人を助けるための勘が鋭いのも、消防官という天職を選んだわけでもあるのだろう。
――それを逆手に取られた! 向こうも、正樹伯父も『賭け』に出ていると、幸樹は青ざめる。伯父にとっては一番苦手な部類なのでは? 苦手な拓真を介してこちらの世界と繋がるには力を使わざる得ない、自分も消耗せざる得ない『盲点』をついて勝負に出てきたのだ!
「お前を連れて行けば、緋美子が黙っていないはずだ。さあ、出てこい。緋美子!」
どうして! あの時は『早紀が泣くから、連れて帰れ』と言ってくれたじゃないか!
それでもやはり声にならず。ただ幸樹は腕を引っ張られている。
いま布団から起きあがった世界は真っ白。あの凛々子と抱き合った世界? でも白装束の正樹伯父の背後にはあの赤黒い不気味な空の世界が渦巻いて見える。
幸樹の身体が硬直する。嫌だ。あの世界には二度と行きたくない!!! とてつもない恐怖が幸樹を襲う。
そうだ。数珠!
腕に巻いていた数珠……が、ない!
望みをなくした幸樹は脱力する。その隙を見たのか、正樹伯父、いやあの執念深い男が甥の腕を冥界へと力強く引っ張り始める。
あああ、あの時と同じ感覚! 体なのか魂なのか、幸樹の全てが強く吸引されていく息苦しい感覚!
――連れて行かれる!!
「放して!」
ぐっと背中をひいてくれる優しい手が幸樹に触れていた。すぐ横に寄り添うように引き留めている女性の横顔は初めて見る顔。いや『写真で見たあの女性』!
――『ひ、緋美子さん!』
「これを持って」
その女性に持っていなかった数珠を持たされる。真っ黒いオニキス玉の数珠。それを受け取ると彼女が『いつものように』と言った。
「やっと来たな。緋美子。こっちに来るんだ」
目の下を黒くした男が緋美子さんの細い腕を掴んだ。その代わりに幸樹を手放した。
数珠を持って躊躇しているほんの少しの間に緋美子さんがすうっと吸い込まれるように向こうへ引っ張られていく! ただただ咄嗟に、幸樹も緋美子の身体に抱きついて連れて行かれること阻止していた。
緋美子さんがいなくなることは、留守にしている凛々子の肉体が死ぬことを意味している。
そう思ったから必死に幸樹もしがみつく。
そしてついに。邪悪な顔をした伯父に、いや男に幸樹は数珠を差し出し母から教わった経を唱える。
『うぐぐ……』。すぐさま男の顔が歪んだ。だが彼だけじゃない。彼と同化しそうな緋美子さんも苦しそうに唸り始め幸樹は焦る。
この世界で同化することを幸樹も凛々子と経験している。『つがい』の二人ならば、少しでも触れたなら本当にすんなりと同化できる。紛れもない『つがい』は伴侶の苦しみは自分の苦しみでもある。それを目の当たりにさせられる。
しまった。伯父が緋美子さんに触れた時点で、彼が有利になってしまっている!
どうする。どうやって緋美子さんを連れて帰る? それとも……。このままでは……。
「離せ、幸樹。お前も連れて行ってしまうぞ」
あの伯父じゃない。六地蔵の傍らで寂しそうにひたすら緋美子さんを待っている伯父ではない。邪悪な顔。悪霊。そうだ。伯父はなかなか緋美子と成仏が出来ないうちに悪霊になってしまおうとしているんだ。幸樹はそう思った。
それでも幸樹は諦めなかった。緋美子の背にしがみつき、数珠を掲げ経を唱えた。
苦しそうでも力が緩まない伯父、そして彼に溶け込み意思を働かすことが出来ず共に唸っている緋美子さん。そして伯父に負けそうな甥の幸樹。
『緋美子を取り戻すためなら。お前も道連れにしてやる』。邪悪な男の声が響く。もう伯父じゃない。緋美子というつがいの為に魂を燃やしている男。それが伯父の元素。
ダメだ。未熟な俺ではダメだ。
念だけでは勝てない力なさをこの不思議な空間で幸樹は噛みしめる。
赤黒い空の世界が目の前に迫ってきていた。
だがその空から、一陣の風。
いつか身体に感じたことがある突風が、もつれている三人に吹いてきた。
「私がいない間に、増悪していたわね」
もつれている三人の目の前に突如として真っ黒いワンピース姿の黒髪女が現れる。
長い髪が突風で彼女の顔を半分も隠してしまいはっきりは分からないが、声と姿だけですぐに誰か分かった。
『リ……っ』
呼ぶのと同時に、黒髪の彼女が長い黒数珠を大きく振って一声大きく放った。
たったそれだけ。
なのに、彼女の数珠が方々に散りそれが絡まっている三人に弾丸のように襲ってきた。
伯父の悲痛の叫び声。そして苦痛に喘ぐ緋美子さんの悲鳴。そして幸樹にも無数の黒い珠がぶつかってきた。真っ白い光が現れた黒髪女から放たれ、まぶしく目をつむってしまった。それと同時に身体が吹っ飛ぶばされた感覚。
でも幸樹は見た。目をつむる瞬間。あれだけ離れなかった伯父と緋美子が簡単に引き裂かれたのを。
『幸樹、ごめん。もう少し時間をちょうだい』
その囁きで幸樹はバチッと目を開けた。
汗をびっしょりかいて目覚める。そこは薔薇の家。
静かな夜、いつも庭から聞こえる薔薇木立を揺らすそよ風の音。そして微かな花の香り。
いつものこの家にある、清らかな夜の姿。
もしかしてまた起きあがれなくなっているのでは……。そう思ったが。今回は難なく起きあがれる?
「ミコ、ミコ。それとも、凛々子か。大丈夫か。おい」
そんな声がして起きあがると、拓真と幸樹が寝ていた布団の側に凛々子が、いやリコさんが倒れていた。
「拓真さん」
「どうして俺だけ間に入れなかったんだ」
彼も汗びっしょりかいているのを目にして、そしてその言葉と口惜しそうな顔を見て幸樹は驚く。
「まさか。拓真さんも来てしまっていたんですか」
「幸樹君が必死に緋美子を渡さないよう戦ってくれていたのに。俺は三人のところに近づけもせず、ただ傍観者のようにしてうろうろすることしか出来なかった」
彼に力はない。でも正樹伯父が彼を使ってしまったので、霊気帯びた拓真も引き込まれていたようだった。
「凛々子でしたよね。最後にすごいパワーを使っていたのは」
「ああ、たぶん。遠くから見ていたから判らなかったけれど。あれだけの力を持って緋美子を助けてくれるのは凛々子しかない」
そして二人は気を失って倒れている【凛々子】を同時に見た。
「ミコなのか。凛々子なのか。どっちでもいい。この身体を空っぽにしないでくれ」
拓真の悲痛の声に、幸樹も涙が出そうになる。
どちらでもいい。とにかくどちらかでも助かっていてくれ。何も出来ない男の悔しさと情けなさを滲ませて……。
そのうちに【凛々子】がうっすらと目を開けた。
どちらか? 拓真は緊張していたが、幸樹には誰か分かっていた。
『もう少し時間をちょうだい』。あの凛々子らしい声が耳に残っていたから。
目を開けた【凛々子】が心配そうに覗いている拓真と幸樹を確かめ、ホッとした顔。
そして彼女が呟いた。
「知っていたのね。私が凛々子ではなく叔母の緋美子だって……。幸樹さん」
あんな猛烈に不可思議な世界を共に体感し、もう隠すなんてことは何一つない。幸樹は静かに頷いた。
その途端に、リコさん……いや、緋美子さんが顔を覆って泣き始めた。
「凛々子が、リリちゃんがいたわ。あの子、生きていたのね」
その涙に濡れる顔は、優しい母のようであり、またはどこか絶望も垣間見れる哀しい色も含み、とても複雑なもの。彼女の胸に去来したものは――。
緋美子さんの身体の周りには黒い珠が。幸樹の腕にあったはずの数珠が、部屋に散らばり壊れていた。
しかも真っ黒な魔よけの数珠が、白いまだらが入り交じるように変色し、幾つかは割れていた。
なのに。後で拾い集めると、幸樹が持っていた数珠とは違う大きさのオニキス玉が混ざっていた。その珠だけが黒々と艶やかに輝いて漆黒のまま残っていた。
凛々子の忘れ物。あの時、彼女が護ってくれた珠が確かにここにある。
さらに気高く力強かった漆黒の彼女が、幸樹の中で微笑んでいる。
その漆黒の石を握りしめ、幸樹は思う。
あいつ変わっていた。ほんのりと頬が紅色になっていて、なんだか生き生きしていた。
もしかしてリリも、俺がただ待っていなかったように、あっちでなにかしていた?
そんな気にさせられた。
To be continued. → 6章【愛でる花はひとつでいい】 現在の拓真編です
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Update/2011.1.13