-- 緋花の家 -- 
 
* ミツバチは花が好き *

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5-13 オヤジになっても待っている

 

 『簡単すぎて退屈だ』。もう二度といわないと決めた。
 『つまらない毎日』と思っても、小さなことひとつずつ丁寧に見て進んでいこうと思った。彼女のおかげ。

 またけたたましい蝉の声が鳴り響く午前。やっと起きあがれた幸樹は急いで薔薇の家に向かった。

「ちくしょー。母ちゃんの盛り塩でどんだけ効果あるんだよ」

 詳しい事情を知った母は、あの後。また『大人達』で綿密な話し合いをしたようだった。その中には幸樹の父も話し合いに入っていたと聞く。
 幸樹が動けない間『じゃあ、兄さんも私の盛り塩なら怖がってくれるかも』なんて言って、代理を務めてくれいていたとのこと。

「正樹伯父が凛々子に悪戯していないだろうな」

 だが。幸樹の脳裏に、六地蔵の傍らに佇んでいた伯父の顔が蘇る。
 ――『早紀が泣く』。『連れて帰ってくれ』。
 伯父のことなど物心つく前に家に寄りつかなくなっていたから記憶にない。だがあの顔は『妹と甥への確かな家族としての思い遣り』だったと幸樹には思えて仕方がない。
 そのうちにこう思うようになった。『伯父が悪いのではない』。『伯父の元々の本体が悪いんだ』。そして幸樹の想いもあるところに辿り着く。
 【どちらかが意識を変えれば、どちらにとってももっと良い来世があるのではないかと。私はそう思いたい。】
 凛々子がきっとそうだと信じていること。幸樹もそう思う。同じように信じたいと思いたくなった。

 そう思うと、伯父のことを哀れに思えてきてしまうのだ。

 薔薇の家、鳴海家。今日も薔薇の香に包まれて、そこらじゅう幸せな空気で満たしてくれている。
 なのにこの家は、時に妖しいオーラを放つ。美しすぎてありあまるものが、日常生活を営むただの空気に妬まれているかのように、たまに歪んで悲しみを呼ぶ。
 今日、数日ぶりにこの家にやってきた幸樹の目に見える薔薇の家は、近寄りがたいミステリアスな香を含んでいるように思えた。

 薔薇も元気がない。薔薇たちの主が不在だからか。

「幸樹君!」

 いつものリビングの縁側に、拓真が現れた。
 彼を見て幸樹は目を疑った。
 非番の日にいつも着ているジャージ姿、無精髭の顔、ぼさぼさの髪でやつれていたからだ。

 それでも彼が庭にあるサンダルを履いて、まっさきに幸樹の元へ駆けつけてくれた。

「よ、よかった。起きあがれるようになったんだ」

 母よりやつれているのに、それでも幸樹をがっしりと抱きしめてくれたので、びっくり固まってしまった。

「拓真さん。俺、大丈夫だから。それより、凛々子は……」

 尋ねると、いつもは溌剌若々しい彼が、いきなり歳をとったように項垂れ暗い顔になった。

「幸樹君と一緒だよ。眠ったまま目覚めない。もう凛々子なのか緋美子なのか分からなくなってきてしまったよ」

 身体は凛々子。目覚めない姪の看病をしているのに、目が覚めて欲しいと待っているのは姪でもあるし妻の緋美子でもある。彼が複雑な環境の中、たった一人で苛む様を幸樹も目の当たりにする。
 そんな予感がして、幸樹は拓真にあの手紙を差し出した。

「姪御さんの凛々子と何処まで話し合っていたか、彼女がどこまで叔父の拓真さんにお話ししていたか知らないけど。凛々子がこれに上手く話せなかったこと、たくさん書き残してくれていました」

 凛々子が残した手紙。だがそれは幸樹宛だったので、流石に拓真が躊躇っている。

「俺が決めたことなら、凛々子も許してくれると思います。それで……これを読んで……」

 寝込んでいる間、幸樹も覚悟を決めてきた。それを拓真に告げる。

「俺も一緒に、鳴海と正岡の、そしてこの薔薇の家の女性に関わってしまった男の甥として、長谷川の家の者として、この薔薇の家で起きていること一緒に考えさせてください。俺と拓真さんで、凛々子と緋美子さんがどうすればいいか。考えましょうよ」

 生意気を言っていると自覚している。でも、そんなこと言ってられない。
 それに幸樹の覚悟は、拓真と対等でなくてはならない。

「俺、凛々子を待ちます。愛しているなんて、簡単に言ってはいけないガキだけど。それでも俺の中は彼女でいっぱいなんです」

 男として。俺は凛々子を。拓真さんは緋美子さんを。二人で待つ。守ろう。そう言いたかった。

 すると憔悴していた拓真が急に、額に手をかざして太陽の光を見上げた。次に見えた彼の顔が、いつもの天真爛漫で元気いっぱい周りを明るくしてくれるオジサンの顔に戻っていた。

「俺、十九歳だったなあ。いま、幸樹君が立っているところで、緋美子を抱きしめたんだ。俺も『愛している』なんて言葉は思い浮かばなかったし、言えるわけもなかった。でも……今の俺なら言える」

 幸樹が立っているその場に、まるで在りし日の妻がいるかのようにして、彼が言った。

「俺はあの時から、緋美子を愛してきた。彼女だけを愛していたんだ」

 彩りがないと思っていた幸樹の胸に、また熱い衝撃。拓真という中年男性の今でも瑞々しく育まれているその想いがぐんっと幸樹の胸にぶつかってきたようだった。
 これが鳴海夫妻の情熱。彼に抱きついて愛しているとキスをしていた緋美子さん。そして、出会った日からずっと長く一人の女性を愛している拓真さんの強い想い。
 そんな二人に幸樹は教えられる。

「若さなんて関係ないよ、幸樹君。有り難う、姪も嬉しいんじゃないかな。分かっていたんだ。凛々子が幸樹君を一目見て、気に入っているのがね」

 だから『同世代の友達になって欲しい』と拓真はお願いしたのだという。そして彼はさらに幸樹に言った。『愛していると、次には言ってあげてくれ。迷わず』。おじさんに言われ、幸樹は頷いていた。

 

「タク。そこにいるの」

 

 男二人は、その声にハッとし顔を見合わせた。
 目の前で拓真がとても緊張した顔をしている。そして幸樹は愕然としい今にも崩れ落ちそうになった。

 いつもの白い縁側、藤棚のポーチ、アフタヌーンティーを楽しんでいる白いテーブル。そこに白いルームワンピース姿の彼女が立っていた。

「タク」

 ――その呼び名、呼び方、呼ぶ女。
 戻ってきたのは『緋美子』。叔母の方。

 愛する妻に呼ばれているのに、拓真が硬直したまま。だが彼もどこか残念そうな顔でうつむき、そして拳を握っている。
 そんな拓真が意を決したように顔を上げると、幸樹を見据え小さく囁いた。

「凛々子はもう俺の女じゃない。たとえ緋美子が宿っていても。幸樹君が心配するようなことはしないと約束するから」

 彼がなにを言っているのか、幸樹にはすぐに分かった。それは自分が以前からとても気にしていたこと――『もう二度と凛々子の身体を借りて、妻と愛し合うことはしない』、つまり夜の営みはしないと誓ってくれたのだ。さらに拓真は付け加えた。

「緋美子が戻ってきたことで、俺達も対応の仕方を統一しておかなくちゃならない。英治さんと早紀さんと話したことを、あとで幸樹君にも教えるから」

 それは尤もだと、幸樹も頷いた。

「ねえ、拓真。ちょっと聞きたいことがあるの」

 戻ってきた『緋美子さん』も戸惑い、混乱している様子だった。

 きっと目が覚め、意識がなくなった時とは違う状況に気が付いたのだろう。
 日付を見たなら、自分がどれだけ眠っていたか疑問に思うだろうし。その時いたはずの娘の美紅が既に東京に帰っているし。

「また長く眠っていたな、リコ」

 いつもの明るい屈託ない笑みで拓真がそう言った。それを聞いた彼女も、少し納得できたよう。

「私、また……長く眠っていたの?」
「ああ。その間に美紅を飛行機で帰らせた。だから安心してくれ」
「そう、なの……?」

 夫妻の会話を聞いて、幸樹は知る。『また眠っていた』、『また?』。凛々子と入れ替わるようになってから、拓真がそうして『妻がいない空白』を誤魔化してきたのだと。

「幸樹さん、いらっしゃい」

 夫の肩越しにみえただろう青年に、緋美子が笑いかけてくる。

 頭の中が真っ白になった。

 拓真が言っていたことが、いま正に幸樹にも襲いかかってきている。
 『凛々子なのか緋美子なのかわからない』。
 だって。この前まであの顔のあの姿をしたあの声の女と、ズケズケと言い合って、それでちょっと子供っぽい表情で拗ねたり、そして……遊びなのに、本気でキスして、それで……。でも目の前にいるのは、確かに『俺が好きになった凛々子』なのに、雰囲気も表情も喋り方も『全然、アイツじゃない』。その愕然とする脱力感。『魂』が異なるだけで、同じ人間の身体を使っていてもこんなに雰囲気が変えられるのか。
 凛々子が入れ替わった時、拓真は一目で見破っていたようだが、いまの幸樹にもきっとそれが出来ると確信した。それほど。『俺達がそれぞれに愛している凛々子は違う女なのだ』と痛感。

「幸樹さん?」

 その声で、『幸樹さん』なんて仰々しく呼んで欲しくない。アイツみたいに『幸樹』と、如何にも『私の方がお姉さんなんだから』みたいに図々しく呼んで欲しい。

 もう、凛々子はいない。

 自分でも判らないうちに泣いていたようだった。頬に熱い涙が伝っているのに幸樹には気が付かなかった。こんなに泣いたこと、ない。でも泣いていることがわからない。

 そんな泣いている少年を知り、拓真も心中を察してくれたのか、その顔を緋美子から隠すようにしてまた幸樹の正面に戻ってきてくれる。
 彼の手がそっと優しく、幸樹の肩を掴みさすってくれる。それは正に『父親のような手』だった。

「一度、家に帰ったほうがいい。そうだ。お母さんを、早紀さんをこっちに呼んでくれるかな」

 頷いた幸樹は、そこから逃げ出すように駆けだしていた。
 こんな俺を見たら、また凛々子が笑う。『大人びて冷静でなんでも出来る長谷川君なんでしょ。みっともないよ』。それでも幸樹は泣くだけ泣いて長谷川の家まで戻った。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「ど、どうしたの。幸樹」

 キッチンで家事をしていた母。なにも言わずにそこに立っていたら、泣きはらしている息子の顔を見てさすがに仰天してる。

「拓真さんが呼んでる」
「凛々子ちゃんになにかあったの?」

 言いたくないが、認めたくないが、幸樹は母に告げる。

「母さんの友達が戻ってきたから。行ってやれよ」

 引いた息が暫く止まったかのようにして、母が目を見開いている。

「緋美子ちゃんが……」

 驚き、でも、母がすぐにハッとした顔で息子を見た。
 そんな母が、息子の気持ちを察したのか同じように哀しそうな顔で、拓真と同じように肩を撫でてくれる。

「あなた、会えなくなっちゃったのね」

 みっともない。母親の前でこんなに泣きたくない。でも、案ずるように覗き込んでくれた母の顔は……薔薇の家で幸樹を天真爛漫に育ててくれた『気ままなお嬢さんママ』の、あの安心できる優しい顔だったから。とめどもなく涙だけが溢れた。

「どうなるんだよ。どうしたら、凛々子は凛々子として生きていけるんだよ」

 そこは母も答えにくいようで、幸樹から目を逸らし唇を噛みしめている。恐らく、母としては『お友達の緋美子ちゃんと別れたくない』という思いがあるのだろう。

「幸樹。薔薇の家で親しかった私達が無くしたはずなのに認めなかったこと、そして凛々子ちゃんの身体を借りることで甘えてきたこと。これからきちんとケジメを付けていく。拓真さんとお父さんともそう話し合ったから。安心しなさい」
「でも。緋美子さんの生命力がなくなったら、凛々子が……」

 だがそこには毅然とした母の顔があった。

「凛々子ちゃんはまた戻ってくる。でもね、幸樹。よく考えて。あなた、待てるの? いまの凛々子ちゃんが表に出てくるまで何年もかかったらしいじゃない。それも緋美子ちゃんを身体に取り込む時に力を使いすぎて。幸樹を向こうに連れて行ってしまって戻してくれたんでしょ。それならまた何年もかかるかもしれない。戻ってきたら戻ってきたで、人並みに生きていけるかも保証できない体質を持ってしまった女の子よ。それでもいいの」

 だが幸樹の気持ちは決まっている。

「待つに決まっているだろ。俺、薔薇の家で育った者じゃないとわからない安心感を彼女から感じていたんだ。彼女とあの薔薇の家で暮らしたい」

 唖然としている母。だが次にはふと呆れた顔をしていた。

「だったら。そうなれるように、泣いてばかりいないで、やることやりなさい。戻ってきた凛々子さんをガッカリさせないようにね」

 如何にも息子の気持ちを理解してくれたような言葉だったが、どこか投げやりな言い方に聞こえた。つまり『若い勢いだけで言っている。まだ現実を知らない。でもそれをいまの息子に説いても解りはしない。理解した振りをしておこう』というように息子には見えた。

 くそ。俺は……俺は……。幸樹は拳を握る。
 だが、どこか降参していた。そうだ。やはりまだ『子供』なんだ。俺は。

「拓真さん達と何を話したか俺にも教えて。凛々子のことはひとまず忘れて、緋美子さんとうまく付きあっていきたいから」
「わかったわ」

 母、早紀はそういうとエプロンを解いて、すぐさま薔薇の家へと出かけてしまった。

 母を見送り、幸樹の涙も乾く。そのまま、自宅の階段を上がった。
 自分の部屋に入り、机に座る。そこに何冊も重ねている参考書と問題集を開いた。

「大学にいかなければ」

 凛々子と次に会う時、彼女が『大学生になっている!』と驚いてくれるように……。

 だが。なにもかもが霞んで見えなかった。
 今日はダメだ。どうしてもダメだ。出来るわけないだろ勉強なんて。

 凛々子のバカヤロー。
 絶対に大学に行ってやるから、待っているから、早く戻ってこい。
 俺が『おじさん』になってもいいのかよ。
 でも。オヤジになっても俺待っている。

 薔薇の家で、砂丘の海が見える出窓で待っている。

 

 

 

 

Update/2011.1.2
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