まだ気怠そうな凛々子が乱れた胸元を直しながら、幸樹に『ついてきて』と立ち上がった。
彼女の後をついていくと、キッチンの勝手口へ向かっていく。彼女と一緒にそこから外に出ると、裏門のこの前置いたばかりの盛り塩があるところまで連れて行かれた。
そこで彼女がしゃがんで、その皿を手に取った。
「ここかな。よく覚えておいて。幸樹さんの手で置いて欲しいの」
またしても、奇妙な感覚を持つ彼女に出会う。
「毎日、確認してくれるかな。私がこの家にいる間。私が置くより、幸樹さんが置いた方が効果があると思うのね」
しゃがんでいる彼女が、立っている幸樹へと見上げながら、にこりと笑う。妙に不敵な微笑み。それに……なんだか口調がいつもと違う気がした。
「置いて。お願い」
「わかった」
塀のブロックの端や、裏門の鉄格子などを目印に、凛々子が細かに正確に教えてくれた位置に、幸樹は皿を置き直した。
その後、玄関にも。さらにはキッチンの四隅にも置いて欲しいと頼まれた。
この時、幸樹は既に信じたくないことを思い浮かべていた。
――これでは、霊を除けているみたいだ。
そして先日の、人影はないのに凛々子が襲われたように倒れていたこと、そして今さっきも。そうすれば、辻褄が合うじゃないか。彼女が怖れているのは、その霊が踏み込んできて、自分の身体を奪うこと。
最後に頼まれたのは、二階の彼女の寝室。元両親の寝室。そして幸樹のお気に入りの出窓があるあの部屋。
奇妙な疑惑に駆られながらも、『もし、それが本当ならとんでもない。凛々子を襲うなんて、許せない!』という自然な本心を塩の中に念を込めるようにしておいた。
「霊って信じる?」
出窓の白いカーテンがそよ風で揺れるそこで、凛々子がまた不敵な笑みを幸樹に見せる。
まるで、幸樹の疑惑を悟っているかのように。
「信じない。今までは――」
でも、幸樹は最後に置いた塩の小皿を見て言う。
「今はわからなくなった。でも、あんたが襲われるっていうなら、毎日、塩の皿を置き換えに来る」
笑みを消した凛々子が、じいっと幸樹を真向かいから貫くように見つめている。幸樹の背がぞくぞくした。悪寒とかではない。そのあまりにも気高い強い眼差しに畏れを抱いたのだ。
「ありがとう」
そんなおっかない顔で言うことかよ? 俺が知っている凛々子さんじゃない気がする! 俺が知っている凛々子さんはこんな時、おしとやかにゆったり優しく微笑み、ちょっと気後れしている申し訳なさそうな顔で『ありがとう』と言ってくれる。もっと柔和な雰囲気の人だと幸樹は感じていたのだが。
「……凛々子さん、だよな?」
ふいに、おかしな問いを投げかけていた幸樹。
だが、彼女はやっぱり、一人だけ何かを知っているかのようにフッと微笑んだだけだった。
・・・◇・◇・◇・・・
父親の拓真に連絡がついたと告げた後、美紅は凛々子から離れない。
まるで幼子のように『ママ、ママ』と凛々子の腕にしがみついたまま、リビングのソファーで二人並んで座っていた。
女二人だけで過ごしている一軒家。幸樹もこのまま家に帰っても気がかりなので、念のため薔薇の家に留まっている。いや、彼女等と一緒だ。同じくソファーに座って待っている。彼を。
ただジッと薔薇の庭を見ている凛々子。そんな彼女をどこにも行かせないかのよう駄々をこねている子供のように怯えている美紅。静かだった。誰もが言いたいことがありそうなのに、誰もなにも言わない話題にしない。そんな静寂の中、勝手口のドアノブがガチャガチャと音を立てる。幸樹と凛々子はハッと顔を上げ、見合わせる。勝手口のドアへと視線を馳せると、案の定、そのドアがあの日と同じように勢いよく開けられた。
「リコ、リコ!」
まただ。ちょっとばかり、幸樹はげんなりした。あのおじさんの落ち着きない慌て振りは記憶に新しい。あの時同様に、紺色の半袖ティシャツにオレンジの繋ぎズボンを着ているレスキュー隊員の格好で勢いよく上がり込んできた。
「また倒れたって本当か!」
シンとしていた子供達だけのリビングではあったが、豪快な消防おじさんのけたたましい叫び声に、揃って耳を塞いだほど。
「パパ、声がおっきい! どーしていつも、そんなに慌てんぼうなのよっ」
流石、娘! 親父のそんなところ良く知っている、もっと言ってやれと、美紅の文句に幸樹も密かに頷いてしまっていた。
「リコ、熱は。また高熱が出ているのか」
別居状態らしき夫妻なのに、駆けつけてきた拓真は今にも若すぎる妻に飛びつきそうで、幸樹は顔をしかめる。そりゃ、彼が彼女を抱きしめたりするのは当たり前で、他人の幸樹が阻止するなど出来るはずがない。それでも目の前でそれをやられるのは嫌だった。
「ない。熱なんて。出ていないけど」
そして凛々子も、やはり。先日、凛々子がこの家に来たばかりで熱を出した時の彼女の様子とはまったく違っていた。
なんだろう。表情がなくなった気がする? 受け答えにも、抑揚がないと言うか。
しかし、それを感じたのは幸樹だけではなかったようだ。凛々子の返答を聞き届けた拓真が、もの凄く驚いた顔をして硬直している。
「凛々子? お前……」
惚けた様子の拓真は、ソファーに座っている凛々子の側へ静かに歩み寄り、なおかつ彼女の顔をまじまじと眺めながらゆっくりと跪く。
「お前、大丈夫なのか」
じいっと若妻の顔を覗き込み、彼女がなにか言ってくれるのをひたすら待っている。今は空気を震わせてはいけない、そんな拓真の凛々子に恐る恐る触れるかのような指先が、彼女の手に触れた。
「大丈夫。何も変わっていない。いつも通りよ」
また彼女の冷たい顔。目つきがいつもと違う気がした。幸樹だけなのか? いや、拓真も気が付いているような? だからあんなに窺うように静かに彼女に触れている。美紅、お前は気が付かないのか? いつまでも腕にべったり甘えて泣いてばかりいないで『リリママ』の顔をちゃんと見てみろよ? 幸樹はそう思うのに、今の美紅は本当に幼児返りしたかのように、ただ凛々子の腕にしがみついて何かを怖がったまま。
この消防のおじさんが、この家に初めて姿を現した時とだいぶ違う気がした。
だって、あの日は――。駆けつけてくれた旦那を見た凛々子は、待ちわびていたように彼に抱きついて泣いたいたのに。そして旦那もそれを宥めていたのに。あんなに、やっと巡り会った人にキスが出来たとあんなに熱くなっていたのに。
だが、今の二人は見つめ合っていても何か牽制し合っているように、静かで熱さがない気がした。抱き合っていた二人は、凛々子が大胆だったとはいえ、目の当たりにした幸樹が知恵熱を出してショックを受けた程、情熱的に見えたのに――。
「美紅、幸樹さん、心配かけてごめんなさい。今日は『お父さん』に泊まっていってもらうから、大丈夫」
夫妻での話し合いもしていないのに、この家に寄りついていない様子の夫の同意もなく、凛々子が無表情に告げた。
だが美紅はそれを願っていたのか『本当! パパ、泊まっていくの!』と途端に大喜びで、先程の落ち込みも何処へやら。そして拓真さんも、凛々子が勝手に決めたのに異論はないようで黙っている。
しかし。幸樹にはそれだけでショックだった。
別居しているようだったから、今まではなんとも思わなかった。だけれど、夫妻が一晩一緒にいるってことは、夜のアレだって誰憚ることのなく自然なこと……。
どこか熱を失ったかのように見えた鳴海夫妻だったが、ついに夫の拓真が妻凛々子の頬にそっと触れた。
「凛々子、どこも気分は悪くないのか」
「ないってば。やめてよ。良く知っているじゃない!」
なのに、凛々子がそれを突っぱねた。そしてどうしてか頬を染めて、そっぽを向く。
「悪い、凛々子。つい」
「いいのよ」
しなやかな彼女の白い手が、それでも夫が優しく触れた頬を大事そうに包み込む。まるで夫の手の感触が残っている余韻に浸っているように見えた。
「俺、帰る」
すぐさま立ち上がり、幸樹は縁側に脱ぎ放ったままの靴を履いて薔薇の庭を飛び出していた。
「待って、幸樹さん」
凛々子が呼び止めてくれた声が背に届いたが、それを振り切るように幸樹は走った。
夜が苦しい。今夜、あの二人はあの寝室で愛し合うのだろうか。
その夜は、とても蒸し暑く、季節柄、雨も降った。
・・・◇・◇・◇・・・
それでも翌日の日曜日。なにか嫌なものをまた目の当たりにするのではないかと思いながらも、午前の内に薔薇の家へと幸樹は出向いた。
また凛々子になにかあったら……。得体の知れないものに襲われたかもしれないというのも衝撃だが、何よりも心肺停止みたいに息をしていなかったあの感触が幸樹の中から抜けきらない。あれはまさに恐怖だ。
それ思ったら、自分の気持ちを楽にするために、頼まれたことを無視するだなんて出来なかった。
雨も降った。外に置いた塩は汚れたり崩れたり溶けたりしているはずだ。
雨上がりの庭は、曇り加減の空の下でも、銀色の滴を沢山まとい、朝の風に揺れている。青い芝が薫る風。
白い門を開け、幸樹は庭に入る。いつものようにリビングの窓が開け放してある。きっとこの家の特徴だ。幸樹が住んでいた時も、両親自らその窓を開けていた。こんなに立派な薔薇の庭なのだから、開けないわけがない。
それは住人としては先輩格になる鳴海家も当然のようだった。
幼い頃からそうしていたように、幸樹は縁側から上がろうとした。
「おはようございます」
挨拶をしてリビングを見ると、テーブルに新聞を広げソファーでくつろいでいる拓真がそこにいた。
「ああ、おはよう。昨日は悪かったね」
白いポロシャツにデニムパンツ姿の拓真。幸樹の父親もよくしているオーソドックスでカジュアルな格好をしているが、オレンジの隊員服姿でなくなると、ようやっと年相応のおじさんにみえたから不思議だった。それなら『うちの親父と同世代』としっくりするものだった。
「ええっと。凛々子さんに頼まれていたことがあって」
このおじさん、いや、旦那さん。自分の若妻が『霊』を信じていることを知っているのだろうか。そう思って何を頼まれたのか言えなかったのだが。
「盛り塩のことだね。すまないね。わざわざ」
あれ。知っている? 幸樹は拍子抜け。それなら、もしかして別居の理由って妻の霊感がとか、妻がちょっぴり風変わりかと思っていたら本当にそうだった。とかが原因? 勘繰る幸樹を見て、拓真が察したように少し笑った。
「どうもこの家の女には、そんな感が備わってしまうのが家系のようでね」
「家系、ですか」
「うん。俺はからきしなんだけれど……」
そこで、拓真がちょっとため息をついたかと思うと、縁側に立っている幸樹を通り越し庭の薔薇を遠い目で見る。
「死んだ女房も見えた質だったもんで。どうも姪の方にもそれが強く出たみたいだな」
「それ本当ですか! そんなこと、本当に」
「俺は信じていたよ。女房はもし見えてしまっても、そのことを知らせても他人を怖がらせるだけだから見なかったことにするようにしていたみたいで、旦那だった俺にも『そこにいる』だなんて滅多に言わなかったけど、まあ……よく見えていたんじゃないかな。じいっと見ている時があると『あ、見えたんだ』と妻の様子で俺も判るようなったもんだよ」
この世に本当に、そんな世界があるんだ! 幸樹の驚愕。
だが怖れおののいている幸樹を見て、拓真がまた笑う。
「見えない俺には別世界。俺には霊なんてあると言われても無に等しい日常。だけれど彼女達には身近で見えてしまう感じてしまうのが日常なんだよ」
自分は見えない。でも妻が見えると言えば、それを信じていた。それが夫。夫としての正しい言葉。幸樹はそう思った。
だからなのだろうか。もしかすると、思いこみが激しいエキセントリックな精神を持つ変人扱いされそうなところ。だけれど拓真は亡くなった妻のそんなところを疑わずに信じて、そして理解していた。だから姪の凛々子も、叔母亡き後、そんな叔父の優しい懐が居心地良くなってしまって男と女の関係になってしまったのだろうか?
また、どうしようもない先にある大人の関係に、どうしても入る隙が見つからなくて幸樹はもどかしくて仕様がない。なのにそんな幸樹の恋心など知るはずもない拓真が、何も知らないから屈託なく幸樹に言った。
「姪の凛々子は、学生生活が出来なかったから同世代の友人がいないんだ。出来たら、仲良くしてやってくれないかな」
なにいってんの、このおじさん! 幸樹の頭に血が上りそうになった。
てめえの女房だろ。姪でも女房にしたんだろ。今は別居状態のようだが、凛々子はアンタを追いかけてきたんじゃなかったのか? それを同世代だから仲良くしてやってくれって、自分より若い男に易々と!?
「それって。『奥さん』の気持ちを踏みにじっていませんか。奥さんは東京からここまで旦那さんを追いかけてきたんじゃないんですか。なのに、他の男に仲良くしてくれって頼みますか? それとも俺みたいな高校生なんかは、女に手など出すことも出来ないまだ無機能な男の子だと思っているんですか」
あんまりにも無神経なので、ガキだと言い返されても良いから、父親と同世代の彼に突き返していた。
すると、拓真も急に我に返った顔になった。
「そ、そうだったな。そっか。そう言うことになるんだよな。馬鹿だな、俺は……。すまない、幸樹君。その、ほら……」
なんで、おじさんほどの大人の男が、そんな幸樹でも分かる人の気持ちを思いやれ無いだなんて。美紅とその兄貴二人、成人するまで育ててきた親だろ? しかも。拓真は知らないから仕方がないが、密かに人妻に思いを寄せている幸樹には、恋敵の旦那に『妻をやるよ』と見下されたようで、腹立たしいことこの上なかった。
「お邪魔しますね。キッチンを借りますよ」
怒り心頭、どこか狼狽えて幸樹を窺っている拓真を横目に、幸樹は薔薇の家にあがる。
正直、ガッカリだ。あの凛々子が夢中になっている逞しい消防官の大人の男だから、清々しい爽やかな男だと思っていたのに。それとも男ばかりの職場で、女心を考えてあげるだなんて皆無でスキルが低いとか。そうだったら、笑えるな! まだ腹の虫が治まらない。
「やばい。こんな雑念だらけでは、良い塩にならないはずだ」
馬鹿馬鹿しいと思っていたことなのに、今の幸樹は真剣だった。
真っ白な塩に俺の邪念を入れてはいけない。真剣勝負だった。心を落ち着けて。いいか、二度と彼女の身体に負担をかけるような暴挙は許さない。
これを毎日、欠かさず。よく考えると良い口実であることにも気が付いた。これで毎日、いつだって薔薇の家に来ることが出来る、凛々子に会える。
「やだ、こんな時間まで寝てしまったわよ。どうして起こしてくれなかったの」
無心になってキッチンで盛り塩を作っていると、凛々子が二階から降りてきたようだった。
「昨日、あんなことがあったから。お前もゆっくり眠った方が良いだろうと思って。俺も今日は非番だしな」
「美紅も起きていないの?」
「ああ。どうも昨夜、あまり眠れなかったみたいで、何度かぐずって俺のところに泣きに来たからな」
「やだ。美紅ったら。子供じゃない」
「そうだ。あれはまだ子供だ」
夫との会話に、凛々子が可笑しそうに笑った声が聞こえた。
「ごめんね『叔父さん』。お腹空いたでしょう。もうすぐお昼だから何か作るね。蒸し暑いから、冷たいお蕎麦か素麺でも食べる?」
匙で塩を掬っていた幸樹の手が止まる。キッチンとリビングの間にある廊下に立っている凛々子の後ろ姿を確かめる。
あの艶やかで長い黒髪が、しなやかに彼女の背で揺れている後ろ姿を……。確かに彼女なのに、彼女が『叔父さん』と言ったのを耳にした途端、ますます幸樹の違和感は増していく。
なおかつ、凛々子はそのまま続ける。
「せっかくだから、縁側で食べてみない。私も覚えているわよ。私四つだったのかな三つだったのかな、死んだお母さんとお祖父ちゃんも、そしてお父さんも、小さい一馬、そしてミコ叔母ちゃんと消防服姿の拓真叔父さん。夏になるとその縁側でみんなで素麺を食べたよね。そうそう、拓真叔父さんはミコ叔母ちゃんの、炒飯が大好きで……」
「凛々子、幸樹君が盛り塩に来てくれているぞ」
拓真が急ぐように、姪の話を遮ったように見えた幸樹。
姪らしい昔話を、夫に軽やかに話す様子は、昨日に彼女が幸樹に見せていた妙にふてぶてしい様子の女性とは異なった。そして凛々子は、拓真に知らされ、非常に驚いた顔で振り返る。
「いたの。分からなかった」
あ、初めて会った時と同じ顔。幸樹はそう思った。あの時も、幸樹の気配に気づかなかった彼女は、そんな顔をしていた。
でも、何か違う。
「そうだ。幸樹君も一緒に庭で食べていかないか。凛々子、そうしてあげろよ」
「そ、そうね。おじさ……拓真……タク」
ぎこちない凛々子の口振りも妙だった。
「蕎麦が良いな。天ぷらも頼む。何でも良いから少しだけでも」
「わかった」
「美紅を起こして手伝わすんだ。甘やかすな」
「う、うん……」
「下のコンビニに行って来る。出来るまでにすぐに帰ってくるから」
そういうと、拓真は新聞をたたみ直ぐに庭から外へと出かけてしまった。
ぽつんと残された凛々子が佇んでいた。夫に軽くあしらわれて途方に暮れているのだろうか。
「悪かったな。ご夫妻で仲の良いところ、タイミング悪く俺なんかが来ちゃって」
自分でこんな口の利き方をしてしまうだなんて、自分で信じられなかった。こんな悔し紛れの嫌味がつい口をついて出てくるなんて今までにない。
だがそんな素直じゃない幸樹を見て、振り返った凛々子も呆れた目でため息をついた。
「本気で思ってんの。私が叔父さんと熱い夜を過ごしたとか、いやらしい想像をしていたんだ」
思いっきり図星。その上、痛いところをつかれ、心の中の幸樹は一発的中、失神寸前。だが負けるものか。クールで動じない慌てない、さらりとかわす長谷川君と言われている顔を、幸樹は凛々子の前でも誇示しようとする。
「本当のことだろ。良かったな。東京から追いかけてきて、やっとあの旦那さんがこの家に泊まってくれたんだから」
「別に。私は二階の部屋、拓真さんは一階の和室で寝たけど」
「え、そうなのかよ」
今度は素直に反応してしまい、幸樹は『しまった』と顔を背けた。だが横目で見ると、やっぱりあのふてぶてしい凛々子が『私が勝った』とばかりににやついた顔。
「よっぽどなんだ。でもやめときなよ。私だけは」
「あのな、」
「だって私のこと、好きなんでしょ。一緒に住もうとか言っていなかった?」
その通り。もう告白済みで、幸樹は逃げようもない。
だけど、おかしい? 俺、こんな嫌味な女を好きになったんだっけ? また凛々子をまじまじと見た。
「いいわよ。この薔薇の家を守ってくれるなら、この家を幸樹さんに譲る。でも……本当にもし一緒に住む気になっても、私はきっと貴方の思いに応えられない」
あの寂しい顔をした。やっぱり、凛々子さん……?
「嬉しかったんだけど。でも、きっと違うね。幸樹さんは私じゃなくて……」
訳の分からないことを呟いて、そのあと消え入る声。幸樹には聞き取れなくて首を傾げた。
彼女の様子が変わった気がしたのも本当だし、幸樹との関わりの過程を知っているのだから、やっぱり幸樹が知っている凛々子だと思いたい。
でも、拭えない何かが幸樹の中にぽつんと黒い点で残ったまま。
今日の鳴海夫妻は、本当に叔父と姪に見えたんだけれど。気のせいか。それとも幸樹がそんな二人の姿があることを知らなかっただけなのか。
Update/2010.2.11