すぐそこで美紅と別れ、幸樹は帰宅する。
本当に目と鼻の先の近所同士。彼女が言ったとおりに既に『幼馴染み気分』になってしまったのが不思議、というか、迂闊?
「あら、お帰り。遅かったのね」
いつも通り、二階の自室へ向かう通りすがりにあるキッチンにいる母に声をかけられる。
いつもは『ああ』とたった一言だけ返答して、幸樹は二階に上がっていくのだが――。今日はそこで立ち止まった。
「なあ、母さん」
母さんと呼んだだけで、母の早紀が驚いた顔で振り向いた。既に『母さん』と呼ぶのも照れくさい年頃、だからなるべく呼ばないか、言い返す時は『くそばばあ』になってしまうのだ。だからなのだろう。母の大きな瞳が、ぱっちりキョトンとして幸樹を見ていた。
「昔の、薔薇の家の写真が見たいんだけど」
「どうしたの急に」
「別に。あっちの家が凛々子さんに返されそうで俺が通えなくなったから。一枚だけでも俺にくれよ。机に飾るんだ」
嘘だった。あの家を返す気などない。机の上に、愛着ある薔薇の家の写真を飾ろうだなんてセンチメンタルもロマンも持っていない。だがそう言い分けるのが、一番自然だと判断したのだ。
しかし母は、もの凄く目を横長に細め息子を怪しむ眼差しに、しかめ面。
「幸樹にそんな感傷的なセンスがあったわけ?」
流石、母と言うべきか。だが幸樹も負けない。
「だったら、俺に薔薇の家の模型を作ってくれよ。それかうちの庭にも薔薇を植えてくれよ。俺の二階の部屋まで届く蔓薔薇。深紅の小薔薇がいい」
勿論、これもはったり。しかし、それだけ『らしくないこと』を言えば、母が笑い出してそれだけで細かいことは忘れてくれると思ったからだ。
だが、母はびっくりした顔をして、とても青ざめた顔になってしまった。
「なんで紅い薔薇なの。白でも良いじゃない」
「え、ああ。うん、白でも黄色でも好きだよ。だけど、あの家の二階の出窓まで登ってくる紅い薔薇が記憶に一番残っていたから」
「ああ、そうなの。そういうことなの」
急に、母がほっと胸をなで下ろしたかのように、いつもの大らかな顔に戻ったので、幸樹は訝しんだのだが。
「まあ、そうね。昔の写真を見て、あちらのご家族のことを知っても良いでしょうしね。仏間の棚に揃えているわよ」
やっと教えてくれたので、幸樹はすぐに仏間に向かう。母の様子で妙に引っかかったことなど、すぐに忘れた。
・・・◇・◇・◇・・・
仏間にしている和室に来た幸樹は、まずは仏壇へと足を向けた。
たまにしか来ないが、来たなら手を合わすようにしている。
この新しい家が建った時は祖母はまだ存命で、短い間だったが同居するようになった幸樹を可愛がってくれた。その祖母の遺影を見て、合掌と黙祷。
その次に視線が行くのは、消防官だった伯父の遺影。
伯父と話した記憶がない。抱かれた記憶もない。おそらく会っていなかったのではないかと思う。もしくは余程、幼い時に会っただけなのか。
なのに。母や同居している祖父が言うように、近頃の幸樹はますます伯父に似てきた。自分でもそう思う。その遺影と自分の顔。
「そう言えば。伯父さんと薔薇の家に住んでいた拓真さんは同じ消防官。ご近所同士で知り合いだったのかな」
ふとそう思った。
柄にもなく、今日は線香をあげる気分になって、そうした。
幸樹の家は、朝はこの匂いが漂っている。母が線香を立て、簡単なお経をあげ、白飯と茶を捧げ、なおかつ樒(しきみ)の葉をしおらせないように管理している。毎朝だった。
普段は大らかすぎて、あっけらかんとしている母。幸樹の友人の間でも『お嬢様ママ』と言われるほどに、まだ少女のようにふわふわしている母。その母が数珠を手にして経を読み上げている時だけは、とてもしめやかで、そして何処か寂しげな横顔。
だから幸樹はそんな母の姿から目を逸らしていたところがある。母はいつまで経っても無邪気で我が儘で、どうしようもない世話がやける母のままでいい。それがたまに鬱陶しくても、それが幸樹の母で、父の妻であるはずなのだから。
なのに仏壇に向かう母の横顔は、幸樹が知らない険しい母にも見えたものだ。
実の母を弔っているからか。あるいは、若くして不慮の事故で亡くなったとかいう兄との突然の別れに今も胸を痛めているのか……。
そんな線香の匂いに、いつの間にか囚われていたことにハッと我に返った幸樹。
「祖母ちゃん、写真を借りるな」
仏壇の下にある小さな襖の戸を開ける。そこに家族のアルバムがしまってある。だがそこにはだいぶ古いアルバムしか見あたらなかった。
では仏壇の隣にある和風の小さな戸棚の中かと思い、そこを開けると、今度は母の趣味らしい柄で揃えているアルバムが見つかった。
「母さんの、学生時代……。あった。ここら辺りから見てみるか」
母は大学卒業と共に、見合いで父と結婚したと聞かされている。見合いでも、互いにかなり気に入ったらしく、母は今でも『見合いは単なるキッカケで、正真正銘、パパとは恋愛結婚よ』とのろけてくれる。
そんな母の方が、母らしい。いつも無邪気な母のそんなところを思い浮かべながら、幸樹はそれを手にとって畳の上に座り込んだ。
「げ。すっげーバブル。めっちゃストライクじゃねーか、これ」
真っ黒なストレートヘア、ワンレングスで胸元までのロング。その上、前髪はスダレみたいになっているくせに、その直ぐ上で大きくカールして立てている髪。白いブラウスには派手な金ボタン、ぴっちぴちに腰のラインにフィットしているタイトスカート。しかもミニスカ! たまにメディアで見る、いわゆる『バブル時代』に見られたファッション。
「バリバリじゃん……。すっげー派手!」
お嬢様だったと父から聞かされているだけに、おそらく、当時の女性にしてみるとこの派手さがとってもお洒落で、一番のファッションだったのだろう。
2000年時代に十代を生きている幸樹には、別世界だった。しかし今より煌びやかな時代だというのは、母のキラキラした派手さから窺えた。
白いブラウスには、ブランドものらしき大判のスカーフをショールのように肩に羽織って、胸元で結んでいる変わった格好……。そのスカーフの柄も。訳の分からない大柄模様が派手に描かれているし。
ある写真では『ボディコン』と呼ばれていたとかいう、これまた身体のラインを露わにする程フィットしている真っ黒なワンピースで、またミニスカ! 『母ちゃん、いい加減にしろっ』と叫びたくなるほど、これでもかってくらいに足を出しているし!
「あー、駄目だ。もうこのアルバムは、やめよう」
妙な毒気に当てられているような気分になってきて、幸樹は次のページをめくって閉じようとしたのだが。その捨て鉢な気分で開いたページに釘付けになる。
バブルを謳歌してる母の姿ばかり並んでいたのに、そこではあの薔薇の家の写真が並んでいたからだ。
あの清々しい芝生に立ち並ぶ薔薇の木立。古めかしい洋造りの家の前で、しっとりおしとやかな黒髪の女性と、これまた正反対に派手な母が並んで映っていたのだ。
「美紅の死んだ母さんか」
今日、砂丘で見せてもらった写真の女性とまた会った。
姉妹のようだったと聞かせてくれた美紅が言う通り、まったく正反対の雰囲気なのに、二人の女性は寄り添い腕を組み合って、とても楽しそうに微笑んでいる。
「凛々子さんに、本当に似ている」
素のままで、飾り気がない女性。でもだからこそ、そのおしとやかな品が滲み出ていると幸樹には感じられた。
そして幸樹は、美紅の母親をじっと見ているうちに思ってしまった。
「似ているけど。凛々子さんの方が美人だな」
彼女の叔母は、本当に地味な顔立ちだった。まだ凛々子の方が、はっきりした顔立ち。同じ大和撫子的な顔でも、凛々子を一目来た時に幸樹は一目惚れしたほど。しっとりと古風な美人だと思ったのだから。
しかし彼女の叔母と凛々子の何が似ているかというと。服装の雰囲気か? 二人とも揃って地味だった。
美紅はあんなに華やかな顔立ちで、現代的ファッションに染まっているのに。凛々子だって、美紅ほど華やかにしなくてもイマドキの格好をすれば結構目を惹くようになると思う……。なのに。
暫くページは薔薇の家が続いた。母と緋美子さんと、着物姿の年配男性。まだ拓真さんは見あたらない。母が学生の時は、まだ出会っていなかったのだろうか。
そうしてめくっている内に、幸樹はある一枚の写真を目にして、それを何度も何度も眺めていた。
今度は釘付けとかではない……。何か気になって、その写真を見ていた。
緋美子さんと母が、やっぱり薔薇の家の縁側で、菓子を食べている写真だった。緋美子さんがふわりと微笑んでいる隣で、菓子の包みを開けようと俯いてい微笑んでいる母の横顔。そんな写真――。
ものすごくひっかかった。あれ、なんだか見たことがあるような? 今日、何処かで見たような?
――美紅?
今日、砂丘でソフトクリームを食べていた時の顔。急に俯いた時の横顔?
え、違うよな? いや、違う?
しかし、そう気が付いた途端、なにもかもが母と美紅が似ているように見えてしまい、今度は見ていられなかったバブルファッションの母の写真が並ぶページに戻っていた。いや、これだけ時代の特徴を顕著に醸し出している母と、イマドキの美紅ではあまりにも似つかない。また見れば見るほど何かが引っかかる写真に戻ると。やっぱり? 似ている!?
その写真をいつまでも見つめていると、仏壇から『カタリ』と何かが動いたような音がした。
振り返るとなにも変わっていなかったが、どうしたことか、幸樹の身体中鳥肌が。それにちょっとぞくっとしたので、幸樹はアルバムを閉じ、直ぐに戸棚にしまって仏間を出てしまった。
「どの写真を選んだのー」
いつも通り、呑気な母の笑顔が幸樹を待っていたが。
「別に。もういらない」
まだ続く寒気に急かされるようにして、幸樹は自分の部屋へと階段を駆け上がった。
「どうしたの。まったく。あ、そうそう。薔薇の家に凛々子さんの従妹が東京から来ているから、明日にでも挨拶に行きなさいよ!」
階段の下から大声で叫ぶ母に、幸樹は『もう会った』と言い返す。
すると母はとても驚き『やだ。ママより先に会うだなんて、なんなのよ! ちょっと私も挨拶に行ってくる』と慌てて玄関を飛び出していってしまった。
「くそ。だから仏間は嫌いなんだ」
部屋に入り、幸樹は制服を急いで脱ぎベッドに横になる。肌掛けにくるまって、気持ちを落ち着けようとした。
どうしたことか。母と美紅の声すら似ているような気がしたのは、本当に気のせいだったのか。
・・・◇・◇・◇・・・
次に薔薇の家の彼女達に会ったのは、その週末、休みの土曜日だった。
ゆったり寝坊をして起きた幸樹は、自転車に乗って坂の下のコンビニエンスストアまで向かう途中、薔薇の家の前を通ったのだ。
自転車を止めて、薔薇の家の様子を窺うまでもなく、そこを差し掛かっただけで呼び止める声。
「幸樹!」
美紅だった。幸樹の父が住んでいる時に庭に備えてくれたあの白いテーブルで、美紅と凛々子が向き合ってお茶をしているところだった。
「この前は有り難う! どこか行くの」
美紅の元気な声に、幸樹も答える。
「坂の下のコンビニに行くだけ」
すると美紅が緑の垣根に向かってすっ飛んできた。
「いいなー、私も連れて行ってよ」
「いいぜ。後ろに乗れよ」
すんなりと美紅を受け入れたので、彼女がちょっと意外そうな顔をした後、とっても嬉しそうに輝く笑顔。
幸樹も気分が良くなってしまったのは、どうしてなのだろう? 本当に本当に、こいつに『ときめき』なんかないのに。
だけれど、妙に心地が良かったのだ。なんて言うか……気兼ねないっていうのか。
「ママ。幸樹と買い物に行ってくる。直ぐに帰ってくるから」
美紅が叫んだ先、白いテーブルの椅子に静かに座っているあの人がいる。
「いってらっしゃい。気をつけてね。幸樹さん、この間は美紅を砂丘に連れて行ってくれたとかで有り難う。美紅をよろしくお願いしますね」
「いえ、そんな。俺も楽しかったから」
キスをして以来。初めて交わす言葉。なのに彼女は何事もなかったかのようにして、悠然と幸樹に微笑む。
あのキスなんて、やっぱりなんてことないものだったのだ。大人の彼女には、蚊に刺されたぐらいの。もっともっと情熱的で官能的で、とろけてしまうような甘いキスなら、あのおじさんと幾らでも重ねてきた。若い幸樹の勢いの一瞬のキスなんて。
「行ってきます。凛々子さん」
美紅が嬉しそうに荷台に乗ったところで、幸樹は彼女から逃げるようにして自転車をこぎ始める。
夏が近い風が、坂を下る幸樹の頬に強く当たる。
「ちょっと幸樹、早いよー。怖いじゃないーーっ」
幸樹の背に、美紅がしがみついた。勿論、ふんわりとした柔らかな感触が背中に伝わる。なのに、感じない。ドキドキしない。
「もうー、そんなにママに構ってもらいたかったの? だから言ったじゃん。ママは若い子のキス一つじゃ、なーんにも動じないって」
「うるさい。黙ってろよ!」
美紅にもしっかり見抜かれているのに、幸樹は言い分ける気もなかった。
だから言い返してこないで、無言でペダルを踏み込むだけの幸樹を不憫に思ったのか、美紅の心配する声。
「ママはやめたほうがいいよ。ほんとに、パパだけなんだから」
「わかっているから、黙れよ!」
なんだよ。あの何事もなかったかのような笑顔。ちょっとは困った顔とか、会いづらい顔とかするもんだろ。夫以外の男に唇を奪われて、慌てて、意識して。
だけれど彼女にはもうなかったことになっている。
『一緒に暮らそう』と勇気を振り絞って告白した俺の真剣さや懸命さを無視された気分。幸樹の心が軋んだ。初めての痛み。惹かれる相手に男として見てもらえない苦しさ。これが恋?
まるで子供扱いだった。自分が娘として面倒を見ている美紅をお願いします――だなんて、『お友達の母親』みたいな顔をして。
あの人の、ああいう年齢にそぐわない妙に大人ぶっている、母親ぶっている、奥さんぶっているところが、幸樹は気に入らなかった。
・・・◇・◇・◇・・・
美紅と一緒にコンビニで買い物を済ませ、上り坂の帰りは自転車を引いて、二人でゆっくりと歩いて帰る。
「大変だね。この坂。でもここからの眺めはすっごくいいね。薔薇の家から見える海、サイコー」
この数日間だけの滞在で、美紅もすっかり坂の上の住宅地が気に入ったようだった。
「美紅は今、どの部屋で寝ているんだよ」
「二階の突き当たり。死んだお祖父ちゃんが書斎に使っていた部屋」
「俺の昔の子供部屋だ」
「ほんとにー!? 幸樹もあそこで寝たり遊んだりしていたんだ!」
「うん。今の家が建つまでな」
またそんな共通点を見つけ、二人は共に笑い合った。
「いつまでこの街にいるんだよ」
「来週いっぱいで。次の週末には東京で『アルバイト』が休めないから、帰るんだ」
「そうなんだ。凛々子さん、寂しがるな」
「また夏休みが出来たら、すぐにこっちに来るよ。その時は、また一緒に遊んでね。幸樹」
明るい美紅の笑顔を見ると、幸樹もホッとする。
「うん。今度は街の商店街とか、海辺の隠れ家カフェとか、自転車で行ってみるか。美紅も乗れるように自転車を用意しておく」
「えー、幸樹って本当は優しいんだね! うんうん、楽しみにしている。じゃあ、本当に夏休みにまたこれるよう、帰ったら直ぐに計画を立てなくちゃね」
彼女が来れば、あの薔薇の家が明るくなる。幸樹の直感だった。
そしてきっと幸樹も。気兼ねない美紅は本当に従姉ならば、姉弟のよう。一人っ子の幸樹にはまた新しい楽しさでもあった。
そんな夏休みの計画を楽しく話し合って薔薇の家に到着。
「ママ、ただいまー」
もう庭に凛々子はいなかった。美紅が直ぐに開け放している縁側から、リビングに入って凛々子を探しに行った。
「ママって言っても、それこそそっちが本当の従姉妹同士だろ」
少し歳は離れているが、美紅がべたべた甘ったれた声で『ママ、ママ』と呼ぶのは、かなり違和感だった。そしてあの母親面をする従姉の凛々子にも。
今日も、この家の芝には沢山の薔薇木立。良い季節を迎え、夏間近の丘の風に、様々な色の様々な顔を持った彼女達が静かに可憐にたおやかに揺れている。
「ママ、ママ! どうしたの!? 何があったの!!」
家の中から急に、美紅が叫ぶ声――。
幸樹はすぐさま自転車を放って、薔薇の庭に入る。そして自分も縁側から靴を脱ぎ捨てて、家の中に駆け込んだ。
美紅が『ママ、ママ』と泣いている声がするのは、キッチンから。嫌な予感がした。キッチンと言えば――。
「ママ、目を開けて!」
予感は当たった。キッチンの床の上に、また凛々子が越してきた翌日と同じように、妙に乱れた格好で倒れていた。
その通りに。彼女の頬は熱そうに火照っていて、顔は惚けているようにしてだらしなく口を開けている。まさに……そういうことで、気を失ったとでもいいたくなるような顔。
「美紅、どけ」
母親代わりの従姉の身体を揺するばかりで泣き叫んでいる美紅を押しのけ、幸樹は力無い凛々子の身体をそっと腕の中に抱き上げた。
―― 息をしていない!
それに気が付き、流石の幸樹も凍り付いた。
「美紅、救急車を呼べ!」
「いや! そんなの絶対に嫌!! ママは死んでいない!」
あの気が強そうな美紅らしからぬ、取り乱しようだった。
そうだ。母親の早紀も凛々子も『昔は学校に通えないほど、身体が弱かった』とか言っていたと幸樹は思い出す。じゃあ、発作かなにかか? いったいなんの病気だったのか! だがこうしはいられない。この人をなんとしても助けなくては!
幸樹が救急車を呼ぼうと、彼女を床に降ろそうとした時だった。
「大丈夫よ、幸樹さん」
いつの間にか、凛々子が目を開けていた。そして今にも電話へと駆けていってしまいそうな幸樹の手を握って、引き留めていた。
「ママ! やっぱり、ママは死なない」
妙に大袈裟だなと思ったが、取り乱していた美紅がそのままくったりと弱っている凛々子へと抱きついた。
「ごめんね、美紅。ちょっと気が遠くなって……。ほら、私はどこにもいかない」
抱きつく美紅の頭を、凛々子が優しく撫でて宥める。
「でも、ちょっと心配だから。美紅、拓真さんを呼んでくれる?」
「うん、わかった。待ってて、絶対にパパに来てもらうから!」
美紅はそう言うと、使命感たっぷりに勇ましくキッチンを飛び出していった。
また妙に女の匂いを充満させて、しっとりと色気だけが漂っている凛々子が、気怠そうに自分の力で起きあがった。
「凛々子さん。俺、やっぱりおかしいと思う。この前だって。そんな何度ものぼせたように気を失うようなことがあるなら、うちの母にも、いや、病院に行った方が」
だが、弱々しく見えた彼女が、そこで急に『ふ』とふてぶてしい顔つきで笑ったのだ。
「病気に見える? はっきり言ってよ。この前だって思ったんでしょう。まるで『男に犯された後みたいだ』って……」
しっとりと汗ばんでいる胸元がはだけて見える。湿っている黒髪をかき上げ、あの黒い瞳が今まで以上に強く光り、幸樹を見つめている。
「凛々子さん?」
「惜しいのよ。貴方の盛り塩。ちょっとだけずれている。だから来ちゃったみたいね。追い払うのに時間がかかってしまった」
あのおしとやかな人には見えなくなったような気がして、幸樹は困惑する。
Update/2010.2.1