-- 緋花の家 -- 
 
* どの花にも毒はある *

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15.夫の運気は妻の道

 

 今年は、亡くなった父の『新盆』。
 それを無事に終え、一人きりで庭の手入れをする夏――。

 夏の日差しは強いが、高台に吹く風は心地良い。
 庭に出て薔薇の香りをかぐのは心が癒される。きっとお腹の子も……。

「土の匂い、草の匂い、お花の匂い。そして、風もね……」

 一馬がお腹にいる時も、そうして緋美子は自分が気に入っている匂いを教えた。
 だから今、お腹にいるこの子にも。

「緋美子ちゃん。お昼にしましょうよ」

 リビングの縁側から早紀が現れ、声をかけてくれる。
 彼女は白いエプロンをつけ、一馬と並んでそこから微笑んでいた。

「ママ、ごはんだよ。あかちゃん、つかれちゃうよー」
「カズちゃんが言う通りよ。暑いんだから根を詰めちゃ駄目よ」

 言葉が益々しっかりしてきた息子と早紀に誘われて、緋美子も土いじりは一段落、立ち上がる。

 せっかくだからと縁側で、早紀がこしらえてくれた冷や麦を頂くことにした。

「ここは良い風が入ってきていいわね」

 この庭に来るたびに、居心地が良すぎると早紀は言ってくれる。
 花の美しさと言い、香りと言い、少し時代が古くなってしまった白い小さな洋造りの家だが、そこがまたアンティークで良いと、早紀は結婚してから毎日ここに来る。

「実はね。うちのあの古い木造の家。建て直そうと父と相談中なの」
「まあ、とうとう。近頃、ご近所さんも次々と現代風の鉄筋立てに建て替えているわよね」
「うちもそれよ。まあ、言い出したの英治さんなんだけれどね……」

 冷たい氷が入っている冷や麦のガラス製つゆ鉢。それを手のひらでくるりと回して見つめている早紀は、なにかを持て余しているようだった。
 そして緋美子もそれがなんだかすぐに分かってしまう。
 早紀は結婚して『専業主婦』になった。つまり実家で家事を切り盛りするというわけだ。既に英治とも養子として同居中。穏和で調和がとれている彼なので、早紀の両親ともなんとか上手くやっているようだった。

「でも。英治さんもあの古い家の造りでは、ちょっと息が詰まるみたいなの」

 それでも早紀の実家、長谷川の家が和風の造りだからと言って、なにもかもが和式という訳ではない。二階は立派に洋式、早紀の部屋だって……そして、正樹の……。
 そこで緋美子は気がつくのだ。英治も早紀もなんとなく建て替えようと進めているのは、あの悪夢の兄の部屋を消し去ってしまいたいのだと。

「そうね。きっと……それがいいわ」
「ええ。なにもかも新しくしてしまいたいの。父もその気になっているし良い機会。でも少し父が躊躇っているのよね」
「生家だからよ。お父様にもそんな感傷があるのよ」
「たぶんね。だとしたら、私達、新婚の一時だけでもいいから、やっぱり近所のマンションでも借りて住めば良かったと言っているのよ。これじゃあねえ、跡取り跡取りと言われ続けられても英治さんにプレッシャーがかかるばかりだもの」

 つくづく大きな家は大変だなあと緋美子は同情してしまう。
 だが英治もどことなく。あの家の空気を良く思っていないのだなと緋美子は感じていた。
 あの事件を目撃してしまった家であることもそうだろうが。正樹という長男が抜けてしまって、どこか家の中が淀んでいる気がした。
 だからとて。あの正樹がいてもとんでもない強い力に振り回される運命を持っていたのだろう。それを当主の父親がどことなく感じて追い出してしまった気もしていた。正樹がいれば、運が良い時は炎が燃え上がる如く空高く上っていく運気もあるが、悪い時は本当に火種が消えかけてそのまま終わってしまうのではないかのかとハラハラしてしまう運気もはらんでいる。それを早紀の父親が敏感に感じ取ったのだ。正樹があれなら、父親にその性質体質があるような気がしている緋美子。
 亡くなった父はたまに呼ばれて酒の杯を交わしていたようだが、緋美子はあまり話したことがない。何度か見かけたことがあるが、確かに近寄りがたい恐ろしさを持っている人だった。
 あの家は、そんな大きな運気を抱え続けてきた家で、そしてそこの当主はそれを操っていかなければならない。では、婿養子を迎え入れたのは何故なのか。それも緋美子には徐々に分かってきた。
 やはり跡取りを手に入れるまでの『繋ぎ』なのだ。ただの『繋ぎ』では駄目だったと言うことだ。英治のように才気ある男で耐えうる男ではないと駄目だったと言うことだ。しかも次男坊か三男坊で。それを早紀の父親はきちんと見つけたのだ。英治を見れば分かる。彼が家に入っている間は、彼の補助的な運気と本家の血を持つ娘の早紀が持っている優しくそれでいて明るく華やかな運気で保持できるだろう。
 そう思うと、緋美子は改めて『長谷川の父は怖い』と思った。
 よく……この緋美子のような電気や火花が散ってしまうほどの衝撃を生む強い縁を持つ娘と、自分の娘を付き合わせてくれている物だと。そして長男とも。予感はなかったのだろうか?

(いいえ。お父様は気がついていないだけで、ただそれを自然とやってのけてきただけなのかも)

 緋美子でも細部の隅々まで見えるわけではないのだから、そうなってみないと分からない縁もいっぱいある。正樹ともそれだった。だから長谷川の父も気がつかなかったのか……。

「緋美子ちゃん、また考えているわね」

 その声にハッとすると、緋美子の手のひらの中にあるつゆ鉢が傾き、もう少しでこぼしそうになっていた。

「ママ、こぼれちゃうよ」
「ほんと、ほんと。お兄ちゃんになるカズちゃんの方がしっかり者」

 そう言われ、緋美子はばつが悪い苦笑いをこぼしてしまった。

「でも、私もまだ考える。だから緋美子ちゃんが時々考え込んでいるのは仕方がないと思っているの。ううん、拓真さんも、英治さんも。私達、共同体になってしまったのよね」

 今、早紀が言ったとおり。あの吹雪の日。拓真が『俺の子として育てる』とこちらの若夫妻に宣言してから、二組の夫妻はまるで手を取り合うようにして物事を運んできた。
 特に英治が、まだ自分より若い拓真にかなり感化されてしまったようなようなのだ。

「もうー、英治さんったら。拓真さんにべた惚れよね。あの日『筋を通すなら、そっちがうちの庭で土下座して謝って、この高台から一族そろって出て行け』と一喝したでしょ。あれ……しびれちゃったみたいで……」
「ごめんね。うちのタク、あの通り体育会系だから、火がついたら一直線になっちゃって」
「なに言っているの! 拓真さんの言うとおりなのよ。きちんと怒ってくれたから、だから英治さんもそれは無理だけれどなんでも協力すると。拓真さんだって言いたいこと訴えるだけ訴えたから、あとはなんとか折り合いつけてやっていこうと決めてくれたんでしょう」

 緋美子も『うん』と頷く。
 夫婦生活は日常通りだった。ただ、拓真が少しだけ無口になってしまった。もうあの汚れなき無邪気な笑顔は見せてくれない。
 それを思うと緋美子は今も泣きたくなる。あの笑顔は人が滅多に持たないとても綺麗なものだったからだ。でも、早紀が言う。

「大人になったということなのよ。その緋美子ちゃんが大好きだったという笑顔。誰だってそんなには長くは持ち続けられない物なのでしょう。たまにしか表せない物なのでしょう。それを人一倍純真だった拓真さんが人より長く持っていられただけなのよ」
「そうだけれど。タクだけは……」

 それも緋美子の過信だったというのだろうか。

「それが証拠に、ここ最近の拓真さん。なんだかすごく男らしくなって、セクシーになったというのかしら。緋美子ちゃんと結婚した時の初々しい少年の頃を思い返したら、ぜんっぜん素敵な男性になっているわよ。肝が据わったというか……」

 確かにそうだった。拓真が無口になったのも、ふと見れば『寡黙な男』になったようにも見えた。
 でもあの賑やかしいばかりの夫が『寡黙』? 逆に緋美子が大笑いをしてしまいたくなる表現だ。
 でも本当に。黙って新聞を読む姿も、庭を見て物思いに耽っている横顔も。どれも今まで彼が見せたことがない、どこか落ち着きある『大人の男の顔』だった。

「だから英治さんが惚れ込んじゃって。おまけに英治さんは体力的なことは苦手だから、もうー『消防って格好良いなー』なんて少年のような顔よ。それでこのまえ、拓真さんに無理言って、とうとう消防署の見学に行ったでしょ。大興奮だったわよ。ああいうところ、男の人っていくつになっても無邪気よね」

 そこは緋美子も思い出して笑ってしまった。
 それからなんとなく、英治に不信感を持っていた拓真も『頭の良いお兄さん』という感じで明るく付き合うようになっていた。
 英治がそれとなくリーダーシップを取りはじめ、そこからこの二組の若夫妻に『共同体』という連帯感が芽生えてしまったのだ。
 今、夫妻はとにかく正樹のことを忘れ追い出そうと必死だった。そして緋美子のお腹にいる子供を鳴海家の第二子として迎えようと無理に盛り立てている。

 それがかえって拓真にとっては不自然なのではないかと思う。
 彼はシンプルな人なのだ。あれこれと理由をつけて物事を曲げるよりかは『他人の子だけれど、俺の子』ぐらいの方が丁度しっくりするのではないか。

 だけれど、無理に無理に嘘の世界へ溶け込んでいく拓真。それがかえって苦痛なのではないか。緋美子は彼の哀愁をそう見てしまうのだ。
 大人になった横顔が哀愁の横顔でなければ、緋美子は遠慮なくセクシーになったとか言う夫に飛びついていると思うのだが……。この大きなお腹では今はなんとも。しかも彼の子供ではないと思うと、なおさら。当然、夫妻の営みなど事件前、彼が神戸に出かける前、あれっきりだ。
 夫妻仲は悪くはない。ただ、彼の明るさがほんの少し陰ってしまった。会話もあるし、息子を挟んで明るい家庭は健在だ。だが、拓真はさりげなく『二人目の子』の話題には触れないようにしている。一馬が『弟かな妹かな』とワクワクしている顔を見れば『どっちだろうな』と目尻を下げてはいるが、決して長男の一馬がお腹にいた時のような喜びようは見せてくれなかった。緋美子も当然だと思っているから、そのまま流している。
 元々、父親なし母親が全面的に守ってサバンナで育てる。ライオンと一緒の気持ちだ。雄ライオンは縄張り守りには命を懸けてくれるが、子育てや狩りには参加してくれないという。さらに、ライオンは『プライド』という群れを他の雄に乗っ取られると『前雄の子殺し』が始まり、雌は新たに発情するように出来ているのだそうだ。
 なんて過酷な状況で生きているのだろう。そう思うと、緋美子は血が煮えたぎる思いに駆られれる。そんな血を持って正樹と子作りをしたというわけだ。それにそう考えると、人間もたまに似たような状況で子供を傷つけている大人達がいるが、それも獣の本能がそうさせていると言うのか? だけれど人間はそんなことは許されない。そして拓真は『命』には誠実な人間だ。子殺しもしないし、自分の種だけを残す為に新たに雌を発情させようという子供への攻撃もしない。そんなところは、この子供は人間として生まれてきて幸いだったというのか。
 そう思うと、獣の生き方は本当に過酷だ。命を継ぐ為に命を殺める。緋美子は怖くて堪らない。緋美子の頭の中にはライオンがいつも例えで浮かぶが、本当は私達はなんの獣だったのか。ただの獣なのか。考えれば考えるほど気が狂いそうだった。

「こんにちは。やはりお二人そろっていたね」

 そこを救ってくれるかのような柔らかな男性の声に、緋美子は我に返る。
 いつもの垣根に、ネクタイ姿の英治がにこやかに立っていた。

「エイ兄ちゃんだ」
「英治さん――。どうしたの?」

 すっかり懐いた一馬も喜び勇んで庭を駆け出し、新妻の早紀も旦那さんへと駆けていった。
 英治は緋美子にも手を振ってくれ、緋美子もほっとした気持ちで微笑み返す。

「またこの家でお昼でもしていると思ってね。営業の通りかかり。冷たい蕨餅を買ってきたんだ。デザートにどうぞ」
「まあ、英治さん。素敵!」

 新婚の二人は本当に仲が良い。
 聞けば、英治は見合い写真を一目見た時から早紀を気に入っていたらしいし、早紀に至ってはもう既に英治一筋。彼女こそ英治にべた惚れだった。
 もうそれを毎日毎日、この薔薇の家で見せつけられて、流石の拓真も『すっげー新婚さんパワーだなあ』と圧倒されていたぐらい。最近は生意気な口をきくようになった一馬まで『らぶらぶ』とか言って二人をからかっている。だが新婚の二人はそれがまた嬉しくて仕方がないようだった。
 今、この薔薇の家をなにが明るくしているかと言えば、この『明るいオーラ夫妻』の新婚さんオーラかもしれなかった。
 長谷川の家では窮屈なのか、早紀だけじゃなくてこうして英治まで通ってくる始末。それでもこちら夫妻も二人きりでは気まずいし、父も通ってこない家になってしまった為に、長谷川若夫妻が通ってきてくれると賑やかで間が持ってなんとか鳴海夫妻も過ごしている。
 近頃では、拓真と英治がビール瓶片手に晩酌をすることも増えた。それに合わせて元々親友同士の妻も夜遅くまで語らっていることが多い。時には夕食を共にし、時には泊まっていく。今は若いし新婚だからと、長谷川の親も大目に見ているようだった。そうでもしなければ、『マンションを借りて出て行く』と言われてしまうからなのだろう?

 そんな英治は日中もこうして、奥さん二人の様子を覗きにやってくる。
 たいていは『おやつ』を運んできてくれるのだ。

「冷たいお茶を入れますね。英治さん、暑かったでしょう。こちらに座って」
「有り難う。緋美子さん」

 英治はすっかり慣れたふうに、白い門から薔薇の庭に入ってくる。
 その垣根を越えた男は二人だったと、緋美子はふと遠い目になる。
 正樹は今、広島で益々その能力を発揮して管理職に務めているとのことだった。早紀の結婚式は、緋美子は身重と言うことで欠席させてもらった。だが聞けば、正樹も実兄だというのに仕事を理由に欠席したと言うことだった。早紀は『欠席ならそう言ってくれたら、緋美子ちゃんに出席してもらったのに』と、晴れの式に黒いシミがひとつついたようだととても不満げだった。その怒りは全て兄に向かっている。でも責めきれない妹の思いも見え隠れし。そして親友を責めることも出来ない早紀の苦しさを見ると、緋美子も顔向けが出来ない気持ちになる。でも早紀もそこで考えてはしまっても、彼女は上手く流して前へと進み始めていた。

 そんなことを日々どこかでかすめつつ、緋美子も過ごしている。
 誰も何事もなかったかのように。それとなく修復を試みている若夫妻達。

「どうぞ。お茶です」

 英治に楚々と冷たい緑茶を差し出した。
 それを彼が満足げに手にとって飲み干してくれる。

「いやあ。緋美子さんのこの冷たい緑茶がことのほか美味しい」
「あら。もう一杯入れて差し上げましょうか」
「では、遠慮なく。こちらにある食器や器、全てが季節に合わせてあってとても趣がありますね。気に入っています」

 英治は毎回、そういって褒めてくれる。
 すると新妻の早紀が、ぷっと頬を膨らませてしまうのも毎度のこと。

「だから私、毎日この家に来て、緋美子ちゃんのおうちのセンスをお勉強しているのよ」
「あはは。早紀だってそのうちだよ。緋美子さんはお父さんとこの家のお手伝いをしている時から手ほどきを受けてきたんだから」

 その手ほどきを、英治がいつも感心してくれるのだ。
 そんなことを気にもとめなかった拓真も、それで初めて気がついたと言った感じだった。
 緋美子は母や父に教わってきたままに自然にやっていただけなのだが、体育会系の拓真には細かい季節感の変化は分からなかったらしい。
 英治がそれに気がついてから、拓真も『本当だ、春になったら桜の皿になっている!』と気がついたようだった。

「では。せっかくですから、私達もお菓子を頂きましょうか」
「わーい! つめたいおもち、つめたいおもち!」

 冷や麦の器を片づけて、縁側で冷たい夏のお菓子を頂く。
 一馬は大喜びで、また英治にまとわりついてはしゃいでいた。
 英治は子煩悩のようだ。一馬が庭を走り出すと、彼も走って追いかけて賑やかな声が響く。
 早紀は本当に素敵な旦那様を捕まえたと、緋美子はつくづく思う。

「みーつけたぞー、カズ!」
「わーー、エイ兄ちゃんがいたーー」
「こっちは、サキちゃんよーー。捕まえちゃうわよーー」
「うわーー、きゃーー」

 蕨餅をとりわけた小皿と、冷たい緑茶を縁側に持っていくと、薔薇の木立の中を若夫妻と一馬が走り回っていて緋美子は笑ってしまう。

「あー、いいなあ。俺もやっぱり男の子がほしいなあ」

 捕まえた一馬を抱き上げて、英治は眼鏡を上げながら額の汗をひとぬぐい。
 跡取り云々なしにしても、やっぱり元気な男の子と戯れてみたい夢があるようだった。
 英治はこの家にくるとのびのびしていると、早紀が言う。だから二人はこの薔薇の家に来てしまう。

 一息ついて、昼のデザートを食す若夫妻と、鳴海親子。
 今年も薔薇が咲き誇っている。

「いやあ。この薔薇、素晴らしいですね。外から通りすがりで見るより庭から眺めるのが一番良い。神秘的だ。いいなあ」
「でしょう。英治さん。私もお花いっぱいの家に住みたい!」

 薫る風、花の色。
 移りゆく季節を感じる家。
 寄り添う新婚夫妻も、薔薇の家を愛してくれている。

 やがて早紀が薔薇の庭の手入れを手伝ってくれるようになる。
 身重の緋美子を手伝うという気持ちの他に、自分も新しい家を建てたら庭に植えるのだと育て方を勉強し始めたのだ。

 しかしそれがやがて、早紀の手ひとつにかかってくることになるとは。まだ誰も……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 非番の夫がまた、庭を眺めながらぼんやりしている。
 ここのところずっとだ。

 この前も早紀と話したように『いろいろあって大人になった』とは、緋美子には思えなかった。

「タク、なにかおやつでも食べる?」
「……うん、そうだな」
「フライドポテトがいいかしら、それとも」
「それでいいよ」

 あっさりした返答。いつもなら、緋美子がどんな手料理を提案してくるか息子と同じようにワクワクした光る瞳を見せてくれたのに。
 でも。こうした夫妻のぎこちなさも緋美子は甘んじねばならないと思っていた。彼が物思いにふけてしまい、妻の知らぬところで、妻に見えぬように苛む姿を垣間見てしまうのは自業自得で、さらには自分はそれに対して触れてはいけないとも思っている。

 しかたがない。フライドポテトでいいわと、緋美子が背を向けた時だった。

「今日は静かだな。早紀さんと英治さん、こないんだ」
「早紀さんは今日は用事があって出かけているわ。でも夕方、顔を出すって。英治さんもお仕事から帰ってからじゃないかしら」

 拓真はまた『ふうん』と気のない返事をして、庭の薔薇を見つめている。

「今夜の晩飯、なに」
「うーんと、まだ決めていないわ」
「奮発して焼き肉にしてくれ。それで早紀さんと英治さんを誘ってくれよ」

 それにも緋美子は驚いた。
 なんとなく自然に集まる四人になっていたし、なにか名目を作って夕食会をしたりするのはだいたい女の妻達が言い出すことだった。それを、この家の主である拓真が初めて口にしたのだ。
 なにかあるのだろうか? だが緋美子は頷いた。

「そうね。賑やかにしましょうか。タクも、夏ばて防止にスタミナつけないとね。じゃあ、お買い物行かなくちゃ」
「俺も行く。お前、そろそろその身体で坂を下りるの危ないぞ」

 緋美子は『有り難う』と、小さく呟いてしまう。

 

 その買い物の時間になって、親子三人で外に出た。
 夏も盛り、砂丘の浜辺が見える坂。いつもの景色。

「パパ、今日もみんなで、ごはん」
「ああ、そうだ。サキちゃんにエイ兄ちゃんもくるぞ」
「やったー」

 緋美子と手を繋いでいる息子。そしてその子供と楽しそうに笑う夫。その笑顔はまさしく拓真の笑顔。
 それを久しぶりに目にできた気がして、緋美子も微笑む。すると夫と目があった。

「お前、笑ったな」
「え? タクだって笑っていたわよ」

 互いにそう言って、二人ははたとした。

「もしかして……。タク、私がずっと笑っていないって思っていたの」
「ミコ……ずっと前みたいに笑っていなかった。暗い顔してずっと自分を責めて。お前の世界には俺入れないんだもんな。その時、お前がどれだけ辛かったか聞くのも酷だし」
「嘘。タクだってぜんぜん。カズとそっくりの子供みたいな笑い声、全然出さなくなったじゃない」
「お前が笑っていないのに出せるかよ。それに俺の笑い声がカズみたいに子供っぽいってなんだ、それ」

 二人で言い合って、そしてまた二人は我に返って見つめ合った。
 先に涙が出たのは緋美子の方。自分の笑顔を待っていてくれていただなんて。それも一緒に『あ、その笑顔戻った』と思った瞬間も同じだったなんて。自分達の子供を挟んで。そして子供が与えて微笑んでくれる夫と妻の笑顔を見て、幸せを感じるところまで一緒だったなんて。
 緋美子はついに、拓真の腕の中に飛び込んでしまった。

「拓真……! 私が愛しているのは貴方だけよ」
「ミコ……。俺だって。もう俺以外に誰も見て欲しくない」

 もう終わったのよ。終わったの。
 この子が生まれたらきっと終わるわ。
 緋美子は拓真の胸の中で叫んで泣いた。
 やっと泣けている気がした。たった一人で背負い込んできたものが引き寄せた悪夢の日まで苦しかった自分の為にやっと泣いている気がした。
 この人を傷つけて辛い目に遭わせたことは分かっている。だけれどもう……。この夫が神戸から帰ってきて泣きすがったあの時のように、緋美子が疲れて帰りたい胸はこの男の胸なのだ。

「ほら。足下、気をつけろ。ここの坂は急だからな」

 夫の優しい手が腰に添えられる。
 そして腰を引き寄せられ、寄り添って歩いてくれる。

「僕だけ、外側やだ!」
「はいはい。パパがだっこしてやるよ」

 逞しい腕が息子を抱き上げ、なおも、妻をも抱き寄せる。
 こんなに柔らかく夫と密着したのはいつぶりかと、緋美子はいつになくドキドキしてしまった程。それに見上げる夫の顔が、確かに男らしい頼もしい青年の顔になっている気もして、緋美子は目があって久しぶりにときめいてしまった。

「女の子が良いな。なんか生まれたら早紀さんに似た美人になるような気がするな。お前の血も引いて、姉妹みたいなお前達の可愛い娘になると思うんだ」
「そ、そうね」
「名前。俺が考えて良いかな。母親のような名前にして良いかな」
「赤い色はいやよ。白い色にして」

 だが、夫は首を振った。

「いいや。母親のように悪い縁があっても切り開いて、俺のような男と出会うような情熱的な名前にしてやるんだ」
「やだ。やめてよ!」
「定められた運命に逆らっても、お前は幸せだと思えたんだろう」

 その問いに緋美子は一瞬、言葉に詰まったが。
 でも夫の目を見てはっきりと言う。

「ええ。強く引き合うものに頼らない。私は『緋美子』は貴方の妻という人生を選んだのよ」
「お前の死んだお母さんがお守りのようにつけた名前なんだ。だからお前、俺のところに戻ってきたんだ。だから娘が生まれたら赤い強い名前にする」
「私は……この名前……」
「俺は好きだな。初めて聞いた時から素敵な名前だと思った。ミコって呼ぶのも気に入っている」

 本当にこの白い夫に浄化されていく心地になっていく緋美子。
 もうその胸は思いは真っ直ぐに夫への愛ではち切れそうだった。

「ちょっと寄り道しちゃったんだ。この可愛い子が余所にいっちまったから、ママが探して拾いに行ったんだ」

 その例えにも緋美子は涙が溢れて止まらない。
 やがて夫妻は、息子が指さす方へと目を向ける。
 夏の夕風が吹き上がってくる高台。向こうに見える砂丘の浜辺に、入道雲。

「俺とミコの夏。また巡ってきたな」
「ええ、そうね」

 緋美子もそのまま拓真の肩の頬を寄せ、やっと微笑む。

「薔薇の庭、砂丘。そして……白い花」

 赤色に染まりきってしまった罪ある妻を。
 夫はまだそう言ってくれる。
 それならきっと夫にはそうなのだ。
 いつまでも。いつまでも。自分は白くいられるのだと――緋美子はまた唇を震わせながら涙をこぼさずにはいられなかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 だが夫のここ最近の物思いはそれだけではないことが、その晩に発覚する。
 やはり拓真が長谷川若夫妻を呼んだのには訳があった。

 早紀も英治も喜んで、手みやげ片手にすっ飛んできてくれた。
 すっかり気持ちも和んだ鳴海夫妻の明るさも手伝って、焼き肉とビールの豪勢で賑やかな食事会はいつも通りに盛り上がり時間も過ぎていった。

 さて。そろそろ。デザートの西瓜でも切ろうかと緋美子が立ち上がった時だった。

「あの、俺。皆に相談があるんだ」

 それを待っていたのか、拓真の今夜の酒の進み具合は遅かった。
 いつもお兄さんの顔をする英治はいつも落ち着いていて、彼がすぐに拓真に向かってくれた。

「どうしたんだい。改めて。なにか悩みでも……?」

 彼が眼鏡の縁を通り越してふと緋美子を一瞬見た。
 だが、緋美子は首を振る。夫妻としてのわだかまりはこの夕方消えてくれたと思ったからだ。

「拓真さん、言って。私達なんでも相談に乗るわよ」

 早紀も親身になって身を乗り出してくれる。
 拓真からなにか相談を持ちかける。これこそ、珍しいことでもあるからだろう。

 そんな拓真が、ちょっと気まずそうに一時、俯いていたのだが――。

「実は。東京にこないかと誘われている」

 その一言に、長谷川夫妻が驚いた顔を見合わせた。
 もちろん、妻の緋美子もここで初めて聞かされて驚いた。

「東京消防庁が、神戸の震災を教訓にして新しい特殊部隊のレスキュー隊を組織するらしいんだ。それで俺、この前の震災の活動で、どうもそこの東京の隊長に目をつけてもらったらしくて。まだオレンジの試験を受けていないなら、東京に来て訓練をして資格を取って、その特殊部隊に来ないかと……」

 その話に、緋美子は息が止まりそうになった!
 やはりこの夫。この仕事が天職で、なおかつ『運』を持っていたんだと。
 そしてそれは緋美子だけじゃない。英治も興奮して拓真に詰め寄った。

「それって、もしかして滅多にないイレギュラーなタイプの大チャンスってことじゃないか!」
「そ、そうだわ。だって東京消防庁でしょ」

 早紀も夫に合わせて興奮し始めた。
 カズは大人達の驚きの顔を見比べているだけで、まだ肉をもそもそと食べている。

「……でも、一度、断ったんだ」

 拓真が言いにくそうにそう言うと、長谷川夫妻が『えーー!』と声を上げた。
 そして夫は一番伝えなくてはいけなかった妻からも顔を背けてしまう。そして緋美子も気がついた! ここ半年、夫が時に塞ぎ込み、そして何故そのチャンスを一度断ってしまったか、なにもかも分かってしまったのだ。

「まさか、タク。私に子供が、出来たから?」

 拓真は顔を背けたまま答えない。
 でもそれが答だと妻は思った。

「私の気持ちが乱れているから。私を優先にしてくれたの?」

 あんなに自分が一番心引きちぎれそうな状態に陥れられても、彼は妻を――。

「答えて。タク……」
「地元でだってオレンジで活躍できるよ。どこで大地震が起きるか台風がくるか大火事が起きるか分からないんだ。だから、もう少ししたらここでオレンジの訓練を受けようと田畑隊長と決めていたところだったんだけれど。やっぱりあっちの隊長が、俺が『鳴海二世』だと知って……どうしてもと言っているそうなんだ。最初だから精鋭部隊にしたいから可能性のある若い男を集めているんだって――」

 でも、今度も断る。

 拓真が最後にちいさく呟いた言葉に、緋美子は一気に胸を貫かれたような痛みが走った。

「だったら拓真君は俺たちに何の相談をしたいんだい?」

 英治のその問いにもあの溌剌とした夫が俯いて黙り込んでしまった。
 だが、大人英治がその先を言い当ててしまう。

「つまり。拓真君は、この薔薇の家が捨てられないと言いたいんだな。奥さんとこの薔薇の家は一心同体だ。その夫である拓真君はどうあっても『地元の人間』として生きて行かねばならないと思っているわけだ。でも、俺たちに相談した。その中にはもしかして『どちらも上手くいく方法がないか』という相談?」

 お兄さんである英治にそこまで言ってもらえて、拓真はやっと顔を上げた。

「そんな方法あるかな?」

 少し期待を込めた夫の声。
 緋美子もハラハラしてきた。そして自分がどこか居心地悪いような感触も。そんな緋美子を見て、早紀が隣に寄り添いに来てくれる。

「あるよ」
「それ、どんな方法。英治さん! 教えてくれ。俺が東京に行っても、緋美子がこの薔薇の家を捨てずにすむ方法!」

 すると英治はこんな時は鋭い眼差しを眼鏡奥から光らせて、拓真に突きつけた。

「単身赴任だよ。この西国の日本海の街と東京を、単身赴任。君は東京で一人暮らし。寮暮らしでも良いかもね。そこで孤独に訓練に耐えて男としての夢を実現。生活費は仕送りにしたらいい。東京からでは毎週は無理だな。しかも特殊勤務だ。ひと月に一度帰ってこられるか来られないか。その間、緋美子さんは二人の子供を抱えて、この薔薇の家で母子家庭。薔薇の世話をしながら、夫の身を案じつつ、この日本海の街で夫をひたすら待つ」

 英治の現実的な話に、一同はしんとしてしまった。
 それは『家庭分離、夫妻別居』を意味していた。

 薔薇の家を手放す?
 緋美子に思いも寄らない事態が突きつけられている。
 拓真が英治に怒鳴ってまで、『この家は緋美子の家。俺たちの家』と言って守ってくれた家。

 だが、緋美子は首を振る。
 よく考えて。緋美子。妻として、愛する夫の為に。その夫が何の為に苦しんでいるのか。夫が今まで自分にどれだけのことをしてくれたのか!

 緋美子という妻は、ここでついに叫んでいた。

「行くのよ、拓真。私も、行くわ。東京に!」

 その声に、誰もが驚いた顔で緋美子に振り向いた。

 もう夫がこの妻の為に、そんなに思い悩んでいる姿は見たくない。
 それにこれからが『夫』の運試しじゃないか。これは私達夫妻の新らしい運に違いない。

 

 

 

Update/2008.7.27
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