-- 緋花の家 -- 
 
* どの花にも毒はある *

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 ※【警告】※
当作品は、[性R18][反社会的R]指定を設けている作品です。 
特に『倫理』とは多少ずれた展開がある為、苦手な方は閲覧にご注意下さい。

14.薔薇家の当主

 

 白い雪に埋もれて、このまま消えても良いだろうか?

 倒れたまま緋美子はぼんやりと雪が舞い降りてくるのを眺めては、そのまま眠ってしまいたくなるような衝動に駆られるまま目を閉じてを繰り返していた。

「いいえ。駄目よ。ここで転んでいる場合じゃないわ」

 緋美子は起きあがろうとした。
 これも本能だというのだろうか。
 心引きちぎれそうな罪に苛みながらも、お腹の中から湧いてくるエネルギーが緋美子に『立て』と奮い立たせる。
 この時、緋美子は感じた。あのように荒々しい縁から生まれ出てくる子は、近代の子供のようになにもかもから見守られているような環境などなかったとしても、親がそうであったように『自然』という営みの力だけで生まれてこようとしているのだと。だから。緋美子も母体になった緋美子も、自然と立ち上がろうとしている。

 だが頭を打ったことはともかく。腰を打ったのはまずい。
 どんなに子供が自然の力で生まれてくる強い生命力を元々持っているものと感じても、ダメージを受けたらケアをする。これは現代の中でどの生命も受けることが出来る幸せなことなのだと思った。

「病院、いかなきゃ」

 一番に下った指令はそれだった。どうしても逃がしたくない男を追うことではなく、その母体を守ることだった。
 雪の中、緋美子は独り。なんとか立ち上がろうとした時だった。

「緋美子!」

 吹雪く中、見失ってしまった拓真が姿を見せた。

「タク……。戻ってきてくれたの……?」
「お前の声が、聞こえたから。その身体で飛び出してきたのかと気がついたら……俺、居ても立ってもいられなくなって……」

 それを振り切って出て行くことが出来なかった――。拓真はそう言いたそうな顔でそこに立っていた。
 そんな拓真は、緋美子が凍った路面で転倒したのだとすぐに気がついてくれ、側に跪いてくれた。

「頭、打ったか」
「打ったわ。ちょっと気が遠くなって」
「腰もか」
「ええ。お尻から落ちたわ――」
「まずいな。お前の頭も、お腹の子供も」

 滑って転んだ妻の頭と腰を触診で確かめるその顔は、まさに消防官の顔だった。

「すぐ病院へ検査に行こう。ほら、俺の背に乗れ」

 緋美子も頷き、躊躇わず拓真の背を頼った。
 彼が緋美子をそのままおぶさって、薔薇の家へとすぐに戻ってくれる。

 薔薇の家に戻った拓真はとてもテキパキとしていた。
 まずはタクシーを呼び、互いの防寒着を用意し、そして診察の為に必要な荷物を整え、戸締まり。その間も、緋美子の冷えを少しでも解消しようと毛布に包んでくれた。
 その姿に、緋美子が宿している命への憎しみは感じられなかった。ただ、彼は妻の子を守っているというよりかは、一人の消防官として。決してそこは見過ごしたくないと言うプライドで動いているようにも見えた。

 でも、緋美子はそんな拓真を誇りに思う。
 夫としての憎しみが勝っても、それも人として当然であり責めることなど出来ないと思う。でも拓真の中ではなによりも、救命を第一とする消防官としての誇りが最優先。それがごくごく当たり前に出せる人間が夫であることが緋美子には誇らしい。

 タクシーがすぐにやってきて、手際よい外出の準備をしていた拓真と共に緋美子は病院へと向かった。

 頭の骨も脳も問題なし。腰も打ったには打ったが軽いもので、胎児にも影響はないとの診断。
 『お父さん、良かったですね』と医師に言われた拓真だが、やはりいつものような無邪気な笑顔は見せてくれず、ただ『そうですね』と淡泊に答え、状況に合わせていただけだった。
 そんな夫と、あっけなく自宅に戻った。……拓真が飛び出したはずの家に。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「あったかいコーヒー入れるわね」
「ああ」

 なのに夫妻は、先程までの重い事実を挟んで泣き叫んでいたことなど既に終わったかのように、いつもと変わらぬ二人に戻っていた。
 緋美子がキッチンでコーヒーを入れるのも。ダイニングテーブルで拓真がそれを待っているのも。

 拓真の青いマグカップに、コーヒーを注ぎ始めた時だった。

「俺さ。飛び出したはいいんだけれど。勢いで飛び出して、さあ何処へ行こうかと考えたら、どこも思い浮かばなかった」

 落ち着いた顔で彼がこちらを見ている。
 火がついたような感情は、もう鎮火されたかのように、拓真は淡々としていた。
 そして緋美子も。全てを覚悟しながら、静かな夫と向き合う。

 彼の手元に砂糖なしのコーヒーを置いた。

「思い浮かぶわけないよな。俺、実家なんてないし。ここはお前の家だし」
「持ち主は私だけれど、主人は貴方よ。お父さんが亡くなってこの家の名義を私に書き換えた時、大兄さんも『拓真が薔薇家の当主だ』と言ってくれたじゃない」
「分かっている。そういう気持ちの問題じゃなくて、実質的な。そうだろう。俺の親戚が県内にいるといっても日頃そんなに親しくしていないし。こんなでっかくなった甥が転がり込んできても困るだろうし――」

 この家だけが拓真の居場所。彼が戻ってくる場所。
 それは緋美子もよく分かっている。だからこそ、拓真はこの家も、緋美子の家族も、そして自分自身の家庭を大事にしてくれたのだから。

「私、出て行く覚悟ある――と、気持ちだけなら言える。でも……ごめんなさい。薔薇は捨てられない」
「当たり前だろ! 馬鹿言うな。二度と言うな。薔薇はお前の命だろ。出て行くならやっぱり俺だ」
「私は! 貴方とは絶対に離れたくない!」

 叫んだ緋美子に拓真が驚いて黙り込む。
 嬉しそうな笑みを一瞬、だけれどすぐに拓真は沈んだ表情に戻ってしまう。

「見ていてさ。分かるんだ。お前が嘘をついているかついてないか。お前、静かでそんなにお喋りじゃない。だけれど、お前の口から出てきた言葉はいつだって正直で誠実だった。俺、それちゃんと知っている」

 致し方ない微笑みを浮かべる拓真。
 そうして妻を信じてくれるのは、やはり数年間共に手を取り合って家庭を築いてきたからなのだろうか。だとしたら緋美子も嬉しい。

「だから。お前が言った『不思議なこと』も俺は信じられるよ。ただ、悔しくて悔しくて胃がちぎれそうだ……」

 身体を曲げてテーブルに突っ伏す夫を見て、緋美子は申し訳なく思うことしか出来ず。

「でも、だからってこのままで良いわけがない」

 拓真はすぐに背筋を伸ばして、しゃんとした。
 その切り替えが正に『鳴海拓真』とでも言いたくなるような潔さ。それを緋美子は知っているから余計に申し訳ないのだ。
 だけれど物怖じしているのは緋美子の方。そして夫はそれを良く知っていた。

「お前も、ここ座れ」

 急な強い命令口調だったが、緋美子は頷いて言われたとおりに拓真の向かいに座った。
 キッチンのダイニングテーブルに夫妻二人。ひとつだけのコーヒーカップを挟んで、二人で見つめ合う。

「さっきは気が動転しちまった。今だって本当は煮えくりかえっている。どんな致し方ない訳があっても、俺はいろいろな理由でお前に対して腹立たしい」
「当然のことだわ」
「でも、それはとりあえず横に置こう。泥沼はごめんだ。俺はうだうだしているのが一番嫌いだ。そんな状況に自分から足を突っ込むだなんて大馬鹿にはなりたくねえ」

 男らしい口調が拓真の怒りを表している。
 だが、拓真の目は既に冷静な輝きを持って妻に向かっていると緋美子には分かった。

「とにかく、お前が俺に今まで言えなかったこと。今、言いたいこと。全部、話しきってくれ。俺はお前が話し終わるまで口出ししないで聞くから」
「それで良いの?」
「隠されていたことがあるだなんて、ちっとも分からなかった。分かっていたらもっとどうにかしてお前を最悪の状況から避けることが出来たかと思うと、それが口惜しい」

 まずは『なにが起きているか知りたい』。
 それはまるで、何処が火元かを火事場で探している消防士の目のようだった。
 そして緋美子も頷く。まるで夫妻の真剣勝負のように、その時は始まった。

「私と正樹さんは獣よ――」

 まずはその一言から緋美子は始めた。
 緋美子が一番言いたいのはそれだからだ。
 そこから緋美子は少女期の過去に遡り、早紀と出会ったこと、そして早紀が時々我が儘を言って薔薇の家に逃げ込んでくること。そして十五歳のあの日、正樹が妹を迎えに来て初めて緋美子と触れあい、衝撃的な性の目覚めを知ったことを話した。
 拓真は腕を組んでじっと緋美子から目を逸らさずに聞いている。緋美子が時々言葉に詰まって、一番伝えやすい言葉はなにか探している時でさえ、あの慌てん坊の夫は黙ってコーヒーに口を付けて待つ余裕さえ見せていた。そんなドンと構えている夫の頼もしさに包み込まれているような感覚になり、緋美子は安堵しさらに続ける。
 それから赤色に取り憑かれたようになった緋美子は、性的な甘い誘惑に堕落させられないよう必死に堪え、それを発散する術が赤い薔薇をスケッチすることだったとも告げた。
 そして赤い薔薇を描いている自分を、拓真が見初めてくれたことも。その時、赤い色に苛む自分を汚らわしく思っていたのに、貴方が『白い花』と言ってくれたことがとても嬉しかったことも。そして――拓真と一緒にいると自分は白くなれると実感し、幸せだったことも。
 さらに正樹と二度目に危ない目に遭った時の、夏の公園での出来事も、正樹との会話も全て話した。『離れてしまうと死んでしまうような種の男女』という話も、自分達の前世に関するような出来事がこの近所であったかどうかを調べ尽くしたことも。
 そして最後。満中陰の挨拶に出向いて、正樹に襲われた瞬間も――。何処まで意識があってどんなふうにして意識を取り戻したか。意識のない間、自分は薔薇の庭でお茶を飲んでる夢をぼんやり見ていた感触が残っていることも。そして――なによりも、緋美子が感じたのは『サバンナの獣たちが、生殖で求婚をする。そして子孫を残す』そんな古代から植え付けられている人間の奥底に眠る本能こそが、正樹と緋美子の古代から受け継がれてきた『縁』。それが巡り巡って、ついにこの砂丘の街にある坂の集落で近所同士として生まれた自分達に巡ってきたのだと。
 さらに、その逃げられなかった現場を早紀に目撃されたことも話した。そこでは流石に、持っていたカップをひっくり返しそうになるほど、拓真も驚いたようだった。だが、それでも黙って聞く姿勢を保っていた。だから緋美子は、その後の早紀の様子も婚約者の英治も関わってしまったことも報告。当然、長谷川家からの申し出として、養子にもらうと言う示談と、その示談を受けた際の契約として、薔薇の家を売るという条件を出されたことまで、あらいざらい緋美子は夫に話した。

 最後に緋美子は、今までのなにもかもは自分と正樹だけが感じ得るとても不思議な感覚で霊的な物なのだと言い切る。そこで夫に懇々と語った口を閉じた。

 話し終えると、緋美子は息を切らしていた。
 全て話しきった。今まで、どうしても言えなかったことを夫に全て吐き出した。

「も、もう……。ないわ」
「それで全部か」
「うん……」

 話しきると、緋美子の目には涙が浮かんでいた。
 それが意識なしに、ぼろぼろとこぼれ始める。
 今までつかえていたものが、胸や喉につかえていたものが、ころんと口から転げ落ちていったような感覚。そして背中が軽くなって羽でも生えたかのような開放感を感じたのだ。
 だから緋美子は泣いている。やっと一番知って欲しくて、でも一番知られたくなかった夫に言えたこと。それはほっとした瞬間でもあって、とてつもなく哀しい瞬間でもあった。
 なによりも、夫の言うとおり、『手遅れ』というのが一番哀しくて情けない。夫が言うとおりに、彼を信じて相談していれば、『そんなことあるもんか』と馬鹿にされて信じてもらえなくても、一度でも彼に相談していれば――。本当に拓真の言うとおり。彼を信じていなかった自分を痛感してしまった。

「分かった。お前がそこまで話してくれたから信じる」
「でも――」
「信じるか、信じないか。選ぶのは俺だ。その俺が信じるを選んだんだ。これ以上文句言うな」

 彼らしい選択、そして潔さだった。

「確かにまだ言いたいことも腑に落ちないこともいっぱいある。でも、それでも俺がお前を信じると言えるのは、今まで真摯に俺と暮らしてくれた緋美子の姿がそう言わせているんだ」

 今日まで共にいた妻を見てきて、『お前は嘘を言う奴じゃない』。今までの妻を振り返っても信じられるから、その話を信じる。拓真はさらにそう言ってくれている。

「それにお前の霊感も信じている。赤い色の話も、獣の話も、古代から持っている人間の性も。全部、頷ける。現代でそれを言うには感じるにはあまりにも突拍子ないことばかりだけれど、それもある意味では現代人の偏見かもな。だから頷けた。言い訳にしては良く出来すぎてる。それに――お前は今度こそ、俺を信じて、正樹先輩との間に起きたことも話してくれたし……」

 そして拓真は何故か、そこでコーヒーカップを微笑みながら包み込んだ。

「こんな事になって初めて赤い色に悩んでいた話を聞いて、今でもどうあってもお前に相応しく運命付けられているのは正樹先輩の方だって突きつけられているような気分だったけれど」

 そのまま拓真は何故か照れているようで、緋美子からそっと顔を背け口元を穏やかに緩めている。

「嬉しかった。赤い薔薇を描いているお前がそんなに苦しんでいたとは知らなかった俺だけれど。俺がそんな苦しんでいるお前を少しでも、苦しさを和らげて幸せにしていたと言ってくれて……」

 だが嬉しそうだった彼の唇が悲愴感を漂わせるように青みがかり、ぶるぶると震え始める。
 見れば、拓真の目が少しだけ潤んでいた。
 でも『男は泣かない』とでも言いそうな彼はそこで堪えている。

「でも、俺は。そんなお前を知りもしないでしっかり者の嫁さんだと思って、ただ呑気にお前を愛していれば幸せにしていると思っていた馬鹿野郎だったんだ。それが情けない」
「だって、それは私が貴方に――」
「いや、もっと! 俺はまだお前のことを知りもしていなかったんだ。本当のお前を! 俺は馬鹿だった」
「タクは、馬鹿じゃないわ! 私が、貴方に信じてもらえなかったら怖かっただけ――」
「信じていれば、お前は俺を頼ってくれた。今日まで俺は、お前が霊感を持っていることを信じてあげている夫――だと、それだけで俺は理解ある夫だと思いこんでいたんだ!」

 拓真は言う。そうじゃなかった。その霊感を背負っている妻が、不思議な体質で見える物をどれだけ重く感じているかを考えてあげもしなかった、と。
 拓真はそう言うと、ついにそこに泣き崩れてしまった。居ても立ってもいられなくなり、緋美子は拓真の側に駆け寄り、丸まっている彼の背に抱きついた。

「お願い。自分を責めないで。タクは私をうんと愛してくれて幸せにしてくれたのよ。謝るなら私だわ! こんな体質を持っていると分かっていたのに、交際を申し込んでくれた時に断っていれば、貴方を赤色の因縁に巻き込むことはなかったんだもの!」

 夫のうちひしがれている背を、緋美子は必死にさすった。
 いつも真っ直ぐに伸びている背がこんなに泣いている姿は、まるで日が当たらずに首をもたげてしまった向日葵のように見えた。それが余計に緋美子の胸を痛め、責める。

「でも。私、貴方とならちゃんとした憧れていた恋が出来ると……。それに貴方が一目でとても純真で誠実な人だって分かったから、飛び込んでしまったの。巻き込んだのは、私よ。その上、子供まで貴方から授かって……」

 今日までのめくるめく日々が、緋美子の中で、輝き光るフィルムとなって通り過ぎていく。

「もしかするとあるはずなかった幸せを、私は手に入れてしまっていたんだって。ほんの一時しか味わえない幸せを、逆らって手に入れてしまったんだって――」

 そして緋美子はそのまま夫の背に頬を埋め、共に泣き崩れた。

「そのあるべき縁に逆らった罰なのね。貴方をこんなに苦しめるはめになってしまったのは――」

 それでも、愛している。
 貴方を愛している。
 縁で繋がれている人ではない、貴方を愛している。
 私が今も求めているのは貴方よ。貴方の妻でいたい。ずっと、今日まであった『白い家庭』で生きていきたい!

 緋美子は必死になって、座ってうちひしがれている拓真の背を抱きしめた。
 すると、しおれていた拓真の背がしゃんと起きあがった。

「緋美子」

 その夫に、今度は緋美子が抱きしめられる。
 その力はとても強く、そしていつも緋美子が安堵していた暖かさが包み込んでいた。
 そのまま、今度は拓真がそっと話し始める。

「俺の子じゃない。それは腹立たしい。でもな――。俺……」

 なにか躊躇っている拓真の顔を見下ろしてみると、どこか遠い目。そして少しばかり震えていた。今度は緋美子がぎゅっと抱き返す。するとまた拓真は話し始めた。

「俺、この前、赤ん坊が死んでいくのを見た」

 急に始まった内容に、今度は緋美子が驚き拓真の顔を確かめてしまった。

「助かった子もいた。でも死んで行く子も見た。母親と一緒に死んでいる子も見た」

 どうやら、震災での惨い場面の数々をフラッシュバックさせているようだった。

「赤ん坊だけじゃない。大人も子供も皆。焼けた現場、崩れた現場。運ばれても助からなかった患者――。容赦なかった。助けに間に合わなかった俺も、悔しかった。どんなに救助しても、駄目な時は駄目。そんな残酷な瞬間も容赦なくあることをまざまざと突きつけられた毎日だった」

 そこまで言うと、拓真は黙ってしまった。
 そして遠い目をしていたのに、急に、拓真は抱きついている妻のお腹に手を当てて、暫く優しい手つきでゆっくりと撫で始める。
 やがて、そんな彼が唐突に言った。

「子供は俺の子だ。いいな」

 緋美子は驚いて、座ったまま妻を抱きしめる夫を見下ろした。

「もういい。雄と雌が生命をひとつ生み出したという馴れ初めは、もう二度と口にするな」
「拓真……?」
「そして正樹先輩のことも忘れろ。お前は俺の妻で、妻として俺の子供を産むんだ。それだけだ」

 苦しいながらも、拓真は拓真自身に言い聞かせているようだった。
 それが痛々しいばかりだが、緋美子にはなにも言えない。ただ申し訳ないだけ。彼を抱き返すだけ。

「いいな。二度と今回の出来事を口にするな。今から俺とお前は二児の父親と母親になることになった。めでたいことが判明した。いいな」

 ただ緋美子は項垂れる。
 夫が受け入れてくれて嬉しいだなんてことはない。安心したわけでもない。ただ申し訳なく、そして自分が妻としてこのような事態を引き起こしたことが情けない。
 でも、緋美子は静かに答えた。

「……はい。あなた」

 それでも申し訳ないあまりに、その声は小さく掠れていた。
 緋美子の返事を聞いても、拓真は暫く渋い顔のままで、そこに座っていた。
 抱きしめていた緋美子を離すと、拓真が言い出した。

「薔薇の家を売れと言ったんだ。長谷川の婿さん」
「ええ……」
「名前、なんだったかな」
「英治さん」

 それだけ聞くと、拓真は立ち上がった。

「俺がカズを迎えに行ってくる。俺たち夫妻の腹が決まったことは俺から早紀さんに話すから。その婚約者さんもいるのか」
「ええ。早紀さんと一緒にカズを迎えに来てくれて……。上手に機嫌を取ってくれていたわ」
「いいか。お前、腹くくってここで待っていろ。俺が逃げないっていうんだから、お前も逃げるなよ。分かったな」

 迫力ある夫の顔に気圧され、緋美子はそのままこくりと頷く。
 その拓真がキッチンを出て行こうとする。言葉通りに、落ち着きを取り戻した拓真は、息子を迎えに行くようだった。
 だが彼は廊下を出る際、そこで立ち止まって緋美子に振り返った。

「安心しろ。薔薇の家はお前の物だ。その英治さんが勝手に出した示談とやらは必要ないと突き返してくる。向こうがこっちの嫁に襲いかかっておきながら、なんで緋美子が苦しむだけの条件を突きつけて『長谷川の世間体を守る為にのみこんでくれ』なんて勝手なこと言い出すんだ。納得できねえ、てめえの一族がこの高台から出て行けと怒鳴ってくる」
「でも……。この地域では長谷川の家が一番古くて大きいもの。だから英治さんが波風を立てないようにする為にこれが一番だと考えてくれたことは理に適っていて……。なによりも子供の為で……」
「理屈を先に振りかざすスーツ野郎らしい。まだ結婚もしていねえのに婿養子気取ってなにが『示談』だ。義兄の不始末っていうなら、俺と俺の嫁と息子に、この薔薇の庭の土を額にくっつけて土下座しろっつーの」

 それだけ言うと、拓真はすっと出かけていってしまった。
 だが、彼が背を向けた時小さく呟いた一言が、緋美子にはちゃんと聞こえていた。

『この薔薇の家は、俺とお前の家だ』

 出て行った拓真の背は、まさにこの家の主だった。
 妻を守ろうとする夫であり、家庭を守ろうとする父であり、そして家を守るとする主でもあった。

 緋美子はただ、そんな夫であることに涙を流さずにはいられなかった。

 

 

 

Update/2008.7.23
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