彼が微笑んでいる。
奇妙で奇怪な性的関係を引き起こしてしまう縁を持ったが為に、なにもかもを犠牲にしてしまう彼が……。自分のせいだと密かに気負っていた親友の兄が、『大丈夫だよ』と微笑んでいる。
緋美子は白木格子の門を、ついに手にしていた。引き戸のそれをそっと引いて……。
でも、絶対に駄目。
緋美子ははたと我に返った。
どんなに互いに気をつけても、あまり傍にいるとどちらかが狂ってしまうに決まっている。
一度目は緋美子が先に。
二度目は正樹がそれになりかけた。
どちらも危うい接触だったが、なんとか大事にならずに済んだ。
でも、どんなに気をつけても……。
「そこにお茶を置いたから、飲んでいきなよ。俺は遠く離れているよ」
緋美子を欲する彼は悪魔のような欲情した顔をみせるが、そうでなければなんて魅惑的な……。女性が放っておかないと言うのも頷ける。緋美子だって少女の頃から『素敵なお兄さん』と思っていたのだ。
美人の早紀にお似合いのお兄さん──。その彼が、今はとても親しみを込めた微笑みで緋美子を誘っていた。
「では、お茶だけ──」
「うん。俺はリビングに隠れるとするよ。そこから話しかけるぐらいはいいだろう。……実は、以前から色々と話しておきたい事が沢山あってね。良い機会だ」
「そうですね。私も……」
気の迷いだったのか。
既に、引き寄せられていたのか。
なによりも、緋美子と同じように『離れて話しかければ大丈夫』と正樹も感じ取ってくれていたことが緋美子を安心させていた。『共感』というまやかしに、確実ではない安心感に既に騙されているかのように。
言葉通りに、正樹はそのまま玄関から家の中へと先に入ってしまった。
彼が閉じてしまったドアを緋美子は一人で開けて、中へとお邪魔する。
約束のまま、玄関にはいるとそこから奥へと伸びている廊下には、正樹の姿もなかった。ただし、玄関マットの上に、黒塗りの漆盆に丁寧に置かれた茶飲みがあり、綺麗な緑茶が注がれていた。
「悪いけれど、そこまでで。玄関先で申し訳ないが、召し上がってくれ」
姿無き、正樹の声が廊下に響いた。その声はドアが開いている様子だけが見えるリビングから聞こえてきた。
姿は互いに見ないようにして、積もる話をする──。正樹もそんな気持ちでいてくれたようだった。それは緋美子も同じ。特に仲違いをしている訳でもないのに、ご近所の縁近い男性と、どうしようもない理由で避けあっているのはとても辛い。親友の兄で夫の先輩同僚だ。早紀も拓真も『そう言えば、二人はあまり話す機会がない』と時折漏らす時には、引き合わせられることが起きないようなんとか誤魔化し、気を逸らすのに必死になる。それは……割と辛い事なのだ。
そんな縁になってしまったこの男性と、こんな時ではないと気持ちを通じ合わせることは出来ない。いつかの夏の公園での再会の時も、どうして二人はこんなふうになってしまったのかと話せた事は、緋美子にとっては少しは心が軽くなる出来事だった。ただし、最後に正樹が変貌した事で、『やはり危ない事なのだ』と痛感させられる出来事でもあったのだが……。
そして今回も、きっと。気をつけていれば、数年ぶりに彼と心を交わす事が出来るという緋美子の期待が大きく膨らんだ。
「では。早速ですが、頂きます」
その期待が、共感からくる安心感が、緋美子をそこに座らせ、茶飲みを手に取らせていた。
簡単に入れてくれた茶だろうが、緋美子はそれを丁寧に味わう。
いつか、彼が熱い夏の日にさりげなくくれた冷たい缶ジュースと同じ──。『そうだわ。あの時も彼が触れた物だったけれど、なにも起きなかったし……。家に帰ってから美味しく頂いたわ』──。緋美子はあの夏の日の、どうしようもない別れをしてしまった再会だっただけに、彼のたったひとつの心遣いであった差し入れの缶ジュースを大事に味わって飲んで哀しい気持ちを慰めたことを思い出した。
今味わっているお茶も、姿はない、離れたところにいるけれど、あの人のあの人らしい気遣い。優しさなのだ。緋美子はそう思って、ゆっくりとすすった。
「最近、早紀には会っていないだろう?」
奇妙な二人の距離だが、リビングドアの影から正樹の声が聞こえてきた。
緋美子も、手のひらに正樹の優しさを包み込むような気持ちで茶飲みを撫でてみた。
「はい。お式の準備で忙しそうで……」
「近頃はエステサロンでブライダルコースがあるらしいね。そこにまめに通っているんだ」
「そうでしたか。とっても高いらしいですから……。早紀さんの様なお嬢様ならいけるのかもしれませんね。素敵だわ」
「あの早紀がね。面食いかと思っていたら、……あの大人しい風貌の男性にあんなに惚れてしまうとは、兄としては予想外だったよ」
正樹の言葉が歯切れ悪くなり……。でも、緋美子はちょっと可笑しくなって『クスリ』とこぼしてしまった。
彼の言うとおり。早紀は見た目がハンサムな男と心より決めていたのだ。だけれど、気乗りしない見合いを父親に仕組まれたと緋美子に泣きついてきたのに、『いつものお遊びで行ってきなさいよ』と緋美子が後押ししたその見合いで、すっかりその『パッとしない男性』を気に入ってしまったのだから。
「長谷川のお父様の勝ちでしたわね。きっと……娘の早紀さんがどのような男性を心より必要としていたのか分かっていたのだわ」
「かもしれないね。それに英治君は、本当にいい奴だよ。寡黙だけれど、押さえ所はちゃんと押さえていて、早紀を自由にさせているけれど、注意すべきところはきちっと早紀に注意して譲らないんだ。兄貴の俺の手前でも、はっきりと注意してくれていた。早紀は最初は文句を言うけれど……英治君の目を見ているうちに、見る見る間に大人しくなってね。そして大人しくなった早紀をこれまた上手に慰めて、いつものお転婆に戻してくれるんだ」
──みかけじゃない、大した奴。
兄の正樹としても、太鼓判の婿殿のようだった。
「そうでしたか。まだ英治さんとは面と向かってお会いしていないので、どのような方かよく知らなかったのですが。早紀さんが夢中になっている事がよく分かりました」
それで、彼女も最近は薔薇の家にこないのだなと緋美子は少し寂しく思った。
「そのうちに。また……結婚生活が落ち着いたら、薔薇の家に押しかけると思うよ。その時はまた、妹をよろしくお願いします」
いつになく神妙な言い方の正樹の様子が、どこかいつもの彼じゃないような気がして、緋美子は座っている玄関から、ふと廊下を振り返る。
本当に正樹はこちらに少しも顔を出さない。声が途切れてしまえば、本当にどこにいるか分からないぐらい気配がなかった。
「お茶。飲み終わったかな?」
「いえ……。まだ……」
「おかわり、よろしければ」
「いえ。こちらだけで結構です」
そして緋美子はそのまま大事に包み込んでいた茶を飲み干した。
「……英治君がこの家に来るとなって、父と不仲の長男だけれど、安心したんだよ」
「まあ、そんな……」
それはきっと、私のせい。
緋美子はそれを言おうとして、やはり、言えなくて開きかけた口を閉ざしてしまった。
だが、正樹は緋美子が気にしていることとは少し違う話を聞かせてくれた……。
「何故。俺が消防官になったのか……判るかな?」
「いえ……」
「昔からどうしたことか『火』を見ると、血が騒ぐんだ……。身体がかあっとなる……。緋美子ちゃんなら、分かるかな。この感覚」
さらに緋美子は黙り込んだ。
『火』! 正樹はそれを既に感じ取っていたのかと、それを知って緋美子もざわっとした胸騒ぎを覚えた。
あの夏の再会の時。別れ際、彼の背から炎を見た気がしたのだ。
ということは? 彼はやはり『火』と繋がっているのかと緋美子は驚愕した。
「だからといって。火をつけて……つまり『放火して燃え上がるのを見て快感を感じる』でもないんだ。それとはまた違う。こう、火の中に飛び込みたくなる。あの赤色が……俺を……」
どこか苦しそうな声を聞いた気がして、緋美子はまた廊下の向こうへと目を凝らした。
「だから、俺は消防官に。だが親父には散々反対されてね。家を出て疎遠になったのは、なにも君から離れるだけではなかったんだ。辞められなかったんだ、この仕事を」
「でも、今は……! 現場ではなく、事務局の……」
「今となっては、火に飛び込める飛び込めないはどうでもいいんだ。この仕事を気に入っているし、この家に縛られて、火を恋しく思う日々を送るのが嫌だっただけだ。それに俺はもうすぐここを、この街を出ていくんだ」
「出ていく?」
それを緋美子に告げたくて、だから今日はこのようにいつになく側に招いてくれたのかと。腑に落ちなかった緋美子だが、だんだんと正樹の意図が分かってきた気がした。
「広島へ」
「広島へ?」
「ここの地方一帯を統括している本部の事務官として、転属するんだよ。そんな試験に受かったんだ」
「そ、そうだったのですか……!」
それはもしかすると! 正樹にとっては明るい前途ではないだろうか。緋美子は思わず、頬をほころばせていた。
現場を退いた彼だけれど、事務官として、キャリア組への前進を始めているということになる! つまり消防庁のエリートだ。
「それでしたら栄転ですね!」
「……うん。おふくろは褒めてくれたよ。親父も、本当は消防官の仕事をしていることは……密かに……認めて……今回の……ことも……」
「そ、それは良かった……です……ね……?」
──私、気にしていたんです。貴方が、現場を退いた事を。
と言いたいのに、ろれつが回らず、尚かつ声があまり出ないことに緋美子は気が付く。
そして急に? 正樹の声が途切れ途切れに聞こえ始め、緋美子は頭を振った。
「……ちゃん……。全部……飲んだ……んだね」
やはり正樹の声がはっきりと聞こえなくなってきた。
そして足下から『がちゃん』という音が……。遠く聞こえる。
しかし、緋美子が見たのは、足下に落ちて割れている茶飲み。つまり自分の手から抜け落ちてしまった茶飲みが割れている。
でも、緋美子にはそれは激しい音でもなく、とても驚く事ではなく。遠い向こうで起きているものを、ぼんやりと眺めているようなそんな鈍い感触しかない。割れてしまった茶飲みが、鮮烈に見えたかと思うとぼんやりと蜃気楼のように緋美子の目の前で消えてしまう。
自分の身体がふわりと浮いたかと思うと、ぐんっと下に引っ張られるような重たさも感じた。やがてぐらぐらと揺れているのが分かったが、それをどう止める事も出来そうになく、緋美子は突然襲われた感覚に身を任せるままに横になってしまったようだった。
徐々に、見えているなにもかもがぼんやりとしてきた。でも真っ暗になることも気を失う事もない。変に一欠片の意識だけを残して生かされているような気持ちの悪い感覚。
今、緋美子の目で見えるのは、磨りガラスの向こうに見える景色のような、やんわりとしたはっきりとしないものだった。
「大丈夫だよ。緋美子ちゃん。少し、身体が動かないようにしただけだから」
次にはっきりと見えた光景。それは緋美子のすぐ目の前に正樹の笑顔があったのだ。
──だめ。わたしたち、ちかづいたら、おしまいよ。あのときのように、あのときのように。わたしたち、『人』じゃなくて動物のようにおかしくなってしまうのよ!
しかし緋美子の声は届かない。心の中でもあまりろれつが回っていないような気になったほどに、意識がぼんやりする。
「……まさ、き、さん?」
目の前にあってはいけない彼の笑みが、徐々に唇の端に邪気を含み始めている。
「広島に行く前になんとかならないか、ずっと考えていたんだよ。緋美子ちゃん」
──うそ!
彼、正樹は、前もってこの機を待ち構えていたのだと、緋美子はやっと気が付く。
──『お茶。飲み終わったかな?』。正樹の先ほどの、茶を飲んだかどうか確かめた問い。
──盛られていたってこと?
『彼の気遣い、優しさ』と信じて疑わなかったあの一杯に、薬を盛られていた事に気が付いたのだ。
緋美子は自分を呪った。この家の門に手を伸ばした事、彼に誘われるまま、この家の敷居をまたいだ事。そして、彼の気遣いと、お茶までご馳走になってしまっていたこと!!
やはりあの時、引き返していれば!
きっと彼は緋美子がそろそろ満中陰志を持ってくることで、この家を訪ねてくる事を判っていたのだろう。そして、偶然にも彼の両親が家を空け、そして妹の早紀も兄に留守を頼んで。しかもこれまた偶然か、緋美子の夫である拓真も長期の派遣で出かけている。同僚であった正樹が拓真の留守を知るにはそれほど難しいことではないはずだ。
これだけの『好機』が重なったことに気が付いた正樹が、『万一の賭け』を胸に秘めて、この家での留守を引き受けて、『来るのか来ないのか判らない彼女』を虎視眈々と待っていたのだと──。
だとしたら? やはり、どんなに避けても。緋美子と正樹はこうして強く惹かれ合っていた事になってしまう!?
(なんてことなの!? このままでは──)
どうしよう。目の前に、最悪の事態が緋美子に忍び寄っていた。彼に触れられたらお終いだ。
緋美子は『人』ではなく『雌』になってしまう! そんなのは絶対に嫌だ!
(タク……! タク、助けて!!)
遠い街にいる夫を心で懸命に呼んだ……。
彼と『夫妻』であることを確かめ合うような暫しの別れをした朝を緋美子は思い浮かべていた。
──『俺は……今ではそんなお前のこと、すごく気に入っているよ』
彼の清らかな笑顔が、緋美子にふりそそぐ朝、毎日。
しかし、今、緋美子の目の前に君臨する笑顔は、男のぎらついた笑顔。
「大丈夫。緋美子ちゃんはなんにも悪くない。全て、俺の悪さだ」
彼が満足げな微笑みをやんわりと緋美子に見せ、ついに彼はそこに横に倒れてしまった緋美子に触れた。
──あっ!
彼が触れたのは、緋美子の頬。
たったそれだけ。彼の指先が触れただけ。
でも身体がふんわりとした曖昧な感触を維持している為か、いつかのような電撃的な感覚には襲われなかった。しかし、緋美子は確実に感じていた。
たったそれだけなのに……。緋美子の足のつま先から脳天まで、じわじわとゆっくりと何かが遡ってくるのが解ったほどに。
「やっぱり。俺達は余程相性が良いみたいだな。緋美子ちゃん、こんなに震えて……。もう頬が真っ赤だよ」
──やめて。
正樹が言うとおりだった。彼が指の腹で頬に小さな円を描いているだけなのに、緋美子はゾクゾクしていた。
自分が今、どのような格好をしているのか、どのように反応して動いているのかはよく分からない。それほどに正樹から送られてくる快感に頭がぼんやりと麻痺してしまっているのだろう。自分の身体が恥じらいもなくふるふると反応している様など、今の緋美子には認知できないし、止める事も出来そうになかった。
「さっき、話したね。俺は火を見ると胸騒ぎがすると……。実はね、緋美子ちゃんも『赤く見える』んだよ」
──私が、赤い!?
「名前の如く、君は緋色、火の色。あの日から、触れてしまった日から、ずうっと……。君は俺を誘っていた」
──誘ってなんか、いない!
いや、でも緋美子は心の何処かでそれを容認してしまいたくなる気持ちになった。
赤く見える女。それを言われるとどこか否定できない。自分もあの日から、赤色にまとわりつかれていたと思う。そして正樹を拒みながらも、身体の奥では彼を求めていた……のかもしれない。
しかしそれは、理性というものに属さない為に、緋美子は人としてその本能を恥じ、懸命に封印してきた。正樹だって同じだと思っていた。なのに彼はその『禁忌』に負けて侵されてしまっていたのだ……!
やはりこうして封印は解かれてしまうのか!
「大丈夫。きっと今から起こる事は、俺にとっても君にとっても『待ちに待っていた瞬間』だ。だが……君は望んじゃいない。そりゃそうだ。君は『鳴海の妻』だ。貞淑な奥様が、こんなことをしてはいけない。望んではいけない。そしてそれに負けてはいけない。俺だって、健気な奥さんで優しい母親である君を誘惑して、こんな道に引きずり込むような事はしたくない」
正樹に両頬を包まれる。そして彼の指先が緋美子の唇を愛おしそうに撫で始めた。その時に、いつか襲われたあの激痛にも似た衝撃が身体中に走った。それは緋美子という人格を打ち破るかのような、脳に突き抜ける痛さ……。その後に残る自分は……。
やがて緋美子はもう……。唇をゆっくりとさすってくれる正樹の指を求めるように舌先がクッと尖り始め、そのまま彼の指を吸い込み咥えてしまった。
微かに残っている緋美子の意識が、脳の泉の底に沈みながら呟いていた。
──終わったわ。
もう、抗う事は出来ず、あとは崩壊していくだけだった。
まるで彼に触れられたら、無条件に彼を求め彼の言われるがままに支配されるような感触に。もし薬を盛られていなければ、あるいは? だが今の緋美子は虚しい事に体を理性で歯止めする術を封印されてしまい、為す術もなく崩れていくだけだった。
目の前で正樹の目が輝いていた。
彼が嬉しそうに笑っている。
「そんなに俺が欲しい?」
緋美子の舌先は、正樹へと向かっていったようだった。
正樹も自分の指先をしつこいほどに、緋美子の舌先に絡ませてくる。
「あ、……うん……」
「良い声だ。懐かしい。あの頃より女っぽい声になっている」
正樹の指先を……。きっと……厭らしいほどに愛撫しているのだろう?
そして緋美子はそんな自分を嫌に思いながらも、身体中を駆けめぐる緩く甘い電流に取り巻かれ、絡め取られ、思うままに欲していた。
身体がくねくねと、正樹へと寄っていくのが分かった。
しめやかに着込んできた喪服同然の黒いワンピースの裾が徐々にめくれあがって、夫以外には決して見せない腿を露わにし、あられもない姿になっている気がした。
そしてそこを彼に愛でられている感触。それがもう、大好きな飼い主に『いいこだ、いいこだ』と撫でられている時の猫のように。愛猫の満ち足りているあの顔。それが脳裏に思い浮かぶほどの気持ちよさを緋美子は堪能し始めていた。
「緋美子。君は何も悪くない。俺が君を……こんなにした。薬を盛られて、君はおかしくなったんだ。君は悪くない」
さあ、行こう。
彼に口づけをされ、緋美子はそのまま暫く彼と熱く唇を交わし合った。
緋美子だけじゃない。正樹も、既にとろんとした眼差しで緋美子から視線を離さない。
ああ、その眼差し。私も懐かしい。薔薇の匂い、夕闇。そして潮風。あの日、その目に侵されるかのように頭が甘く痺れて、虜になってしまったあの眼差し。
緋美子は彼に抱き上げられていた。
「今夜は誰も帰ってこない。君と二人きりだ」
彼が階段を上がっていく。
だが緋美子にはもう、それは分からなかった。
彼に抱き上げられて、余計に身体が燃え上がり、彼の唇ばかりを求めていた。
彼がそれに応えながら、階段を上がっていく。
二階には、彼が少年の頃から過ごしてきた部屋がある。
そこには……。闇があるのか。花色の世界があるのか。それとも……。
・・・◇・◇・◇・・・
彼の部屋に入るのは初めてだったが、緋美子にはあってないような風景だった。
身体があまり動けないようにされてしまったが、正樹はそれほど乱暴でもなかった。
彼は静かに夕の茜に染まり始めたベッドに緋美子を寝かせると、優しい手つきで緋美子の黒いワンピースのファスナーを降ろしていく。
「緋美子、聞こえるか?」
彼の問いに、緋美子はようやっと頷く事が出来るだけだった。 今、緋美子に見えているのは茜に染まっている窓と天井だけ。それすらもここが『誰かの部屋だ』という意識さえもはっきり出来ず、ただ茜色のふんわりと暖かな場所に連れてこられたのだと、それだけ……。
彼にどのように服を脱がされているのか分からなかった。
だけれど、どうしたのだろう? どこかでとてつもない『開放感』を覚え、緋美子は喜びを感じているような気になってきた。
今、一枚、一枚。正樹が緋美子の裸体を包む余計な物を取り払っているからなのだろうか?
肌だけの姿になって。自分の本質である動物のような本能。それを抑えに抑えてきたが、ついに我慢することなく解放される。そんな喜びを感じているような気がした。
この時、緋美子は僅かに残っている自己意識の中でふとある光景を思い浮かべていた。
草原のサファリだ。ライオンの、群れ。ヌーの群。フラミンゴの大群。
自然の中で生きとし生けるもの達が、次の世代へと自分達の種族を残す為に『自然』と交尾をすることを。
あの時、いつも不思議に思っていた。
雄はダンスをしたり、いろいろなアプローチをして雌の気を惹いたりする。あれってなにが基準なのだろうかと。
人間なら、容姿だったり性格だったり、好みだったり。色々ある。でも、大自然でそのままで生命を繋ぐ彼等はなにを思って、自分達の遺伝子を残すパートナーとして交尾の相手に選び、求婚をするのだろう??
──正樹と緋美子は。まさにそんな『結びつき』のような気がしたのだ。
大自然の中で、自分達の次の命を残す為に手を取り合う。ただそれだけの為に『霊長』の波長が合ってしまった雄と雌。
人間が持ち得る理性など。それには及ばなかったということなのだろうか?
「悪く思わないでくれよ。俺、二年前から他の女が抱けなくなったんだ。だから余計に……」
はっと気が付くと、夕暮れの窓辺を背にしている正樹が、荷造り用の白いビニール製の紐を手にしていた。
一瞬、緋美子は怯えたが、しかし、彼の手にかかってしまうとどこか素直に従って、元々動けなくされた身体ではあったが、心は『それもそうね』と従っていた。
きっと今から始まる事は……。緋美子も我を忘れて乱れるからだろう。
現場にいた消防官である彼の手捌きは慣れているようで、緋美子の細い手首にはがっちりとした結び目で両手を合わせて縛られ、ベッドの頭にくくりつけられた。
そして彼の顔が恐ろしい形相に変わる。今度は笑みひとつない顔。それは今から大事な儀式でも始めるかのような緊張感を漂わせている男の、勝負を目の前にしているような顔。
その顔で正樹がガムテープをビッと左右にひっぱりピンと張ると、それで緋美子の口さえも塞いでしまった。
やはり緋美子も『それでいい』と思ってしまっていた。きっと大声を出すに決まっている……。彼と交わる事は、今までの想像に絶する狂気になるに違いない。
「緋美子はなにも悪くない。君は、俺に襲われて、犯されてしまうんだ。君は俺など求めていない」
その一言に、微かに残る緋美子は泣いていた。実際に大人しく裸体を横たえている緋美子の目にも一筋の涙がこぼれていたようだった。
彼の、精一杯の気遣いだったのだろう? 男だけじゃなく女である自分もあられもなく性欲に支配される恥を女性の彼女には犯させてはいけない。それなら無理矢理、男に襲われたなら……。それは彼女に罪はない。
外目で見える形だけでも。緋美子の身体に眠る恥ずべき本能を正樹は隠してくれたのかもしれない……。
夕闇が迫るベッドの上に横たわる黒髪の真白き素肌の女に、男が重なっていく。
禁忌の一夜が始まろうとしていた。
Update/2008.5.18