父親が突然逝去したことに合わせるかのように、この時期に国内で大変なことが起きていた。
消防の作業服姿の夫を見送る玄関先。
彼の肩には大きなボストンバッグ。少しばかり長い旅に出るところだった。
「緋美子、大丈夫か。お前、一人で……。なんなら、実家に帰った方が良いのではないか」
「大丈夫よ。もう四十九日も納骨も済んだんだから。少しずつ、心の整理もついてきたし……。タクこそ、私とカズのことを気にかけすぎて、事故を起こさないで」
この街ではないが、国内で例を見ない震災が起きていた。
隣り合わせの県ではないが、とにかく消防員の手が足りず、今、あちこちから手伝いを借りるような状況になっている。
拓真も県消防から辞令がおり、田畑の小隊で長期の応援に出る事になった。つまり、出張ということだ。
「心配だな。だってお前、お父さんが亡くなってから……」
「でも、被災地の人々だってどれだけの気持ちでいる事か。私より貴方の方がその気持ち、うんと考えているのじゃないの?」
気後れした顔で拓真が小さく頷いた。
震災は戦後最大のもので、ここのところテレビをつければその惨状を物語る映像ばかりが流れていた。
現地の消防だけでは手が回らない状態で、消防だけでなく自衛隊の応援もかけつけている。とにかく、不眠不休で倒れた消防官もいるぐらい。だから他の都道府県の消防官にも応援要請が出ているのだ。
テレビの映像を見て、拓真は震えていた。
燃え上がる炎の前そして瓦礫の山の中、なにも出来ずに立ちつくしている消防官を見て、歯ぎしりをしていた。
訓練されている消防官でも手の打ちようがない惨状とはいえ、だからこそ救助を使命にしている男達には歯がゆくて、そして口惜しい状態なのだろう。
オレンジの作業服白いヘルメットで火災現場で必死に救助をしている消防官の映像を見ている夫は、今にもそこから駆け出していきそうな背中を見せていたのを、妻である緋美子は感じ取っていた。そして、自分も……。
「でも、約束して。お願いだから……貴方までいなくならないで」
「勿論だ。お義父さんと約束したんだ。お前を置いて死ぬような消防官にはならないとね……」
急に彼も哀しそうに表情を崩す。
訪ねてくるのは週に数回だったとは言え、やはり父はこの家の中にいつもどっしりと存在していた人だったのだと、二人はここのところずっとその思いを共に噛みしめていた。娘の緋美子ならまだしも、婿の拓真の方が散ってしまった薔薇庭をみつめてぼんやりしていたり、溜息をついたりしていた。『寂しいな、寂しいな』と息子の一馬に意味もなく何度も話しかけたりして気を紛らわしていたり……。そんな夫の姿に、緋美子の悲しみはさらに増したりもした。
父がいなくなって、この上、最愛の夫が可愛い息子を置いて殉職するなど……。緋美子は頭を振って気を改める。
「タク……!」
夫、拓真に、緋美子は強く抱きついた。
「ミコ……。大丈夫だ。俺、お前とカズを残して、おふくろのような思いをさせない。俺自身がそう誓っているんだ。俺のような思い、一馬には絶対にさせない」
そんなの絶対に嫌。絶対に帰ってきて。
緋美子の頭の中に、壊滅した都会の街を放映していた映像が浮かんだ。この夫はちょっとせっかちで慌てんぼうのところがある。使命を感じたら危険を顧みずに一直線に行ってしまいそうで怖い。
「絶対よ」
「ああ、絶対だ」
いつものように逞しい胸元、そして力強い腕で彼が抱きしめてくれる。でも、逞しい彼はいつも緋美子を潰さないようにと気遣ったとても優しい力でふんわりと抱いてくれる。それが彼の、妻への愛し方。
緋美子はいつもそんな拓真を傍に感じて幸せに思っていた。
やっぱり彼が好き。夏の日、突然に垣根に現れて、びっくりするぐらいの大きな声で話しかけられて、とても戸惑った。なのに言葉はしどろもどろ。ちょっと奥手そうで純情そうな消防士の人。
真っ白な光の中で『自分は貴女は白い花だと思います!』と言ってくれた人。心の中で淀むばかりの赤い愛欲をスケッチブックにぶつけていた緋美子だったからこそ驚かされ……そして、嬉しかった。
緋美子という少女は既に『女』だった。処女でも女を知っていた。それはまだ異性に破瓜はされていないのに、突発的な事故にあったかのように、それこそ犯されたかのように、既にその壁を乗り越えてしまったかのような口惜しさもあった。
処女として最初に男性と肌を合わせる時は、もっともっと白くて素敵な空間の中で、光の粒が舞っているような……そんなものではなかったの? そんな無念がどこかで渦巻いていた。
なのに。身体は正直で。いや、変に覚えてしまって少女であっても緋美子は欲情した。そしてその欲情を消化する為に決して変な方向へ流されてはいけないと、緋美子はひらすらに赤い花を描き殴っていたのだ。
赤い花は緋美子の中で渦巻く愛欲。誰か、私の中で重く渦巻くこの麻薬のような甘美な欲望を受けとめて。その願いはなんて浅ましいものであることか、そしていつもそれを抱き続け……。逃れられずに支配されてることに甘んじているだけの自分に嫌悪すら覚えた。
なのに彼は庭でスケッチをする緋美子を『白い花』と言ってくれたのだ。心の中に『そうではない』という否定が真っ先に起きたが、でも、緋美子はどこか救われたような気持ちになったのだ。
それに拓真という青年の笑顔を見ていると、心がとても軽やかになる。白い羽がついて、砂丘の浜辺からすうっと飛んで行ってしまいそうな爽快感を得られる。
この人となら、私『白くも赤くもなれる』。
そう思ったし、それは正解だった。
彼との恋、結婚、そして出産、夫妻生活。家族。
緋美子が恋した男性は間違いなく、緋美子を白くしてくれた。そして赤い愛欲も彼は受けとめてくれた。
「拓真。愛しているわ」
出かける夫の唇を自分から塞いだ。
また、彼が不意打ちを食らって驚いた呻き声を漏らす。でも、暫くの別れだから彼も強く吸い付いてきてくれた。
一時の、情熱的な口づけ。今にも、二人揃って衣服を脱ぎ合って肌を合わせたい衝動に駆られる。少なくとも緋美子はそうなっていたし、夫の手つきも……そう、いつもその気になった時のように彼は両手いっぱいに緋美子の小さなヒップを鷲づかみにしていた。彼が欲情した時の手つき。
でも、彼から離れていった。
「やばい、やばい。『暫くお別れエッチ』も昨夜ちゃんとしたのに」
「……もう。そんな大きな声で言わないでよ」
いつものように、ふっと湧き上がった情熱を、無邪気な顔をした夫が茶化して濁して吹き消してくれた。
きっとこれも、無意識なのだろうけれど、夫なりの妻を笑わせたいが為の気遣いなのだろうなと思った。
「待っているわ。いってらっしゃい」
「ああ、気をつけるよ。時間があったら電話する」
いってきます。
夫が玄関のドアを開けた。
だがそこで拓真が立ち止まった。不思議に思った緋美子が首を傾げると、彼が振り返り言った。
「……時々思っていたんだけれど。お前がさ、赤い花を描いていたのがなんだか最近分かるようになった気がするよ」
緋美子はドキリとした。
でも……そんな自分を隠したつもりもない。それに赤いものを秘めている自分は夫のものでありたくてぶつけてきたのも間違いはない。あの人じゃない。夫に受けとめて欲しかったから……。だが分かっていた。夫のイメージに合わない女の部分を持っている事。それを知った夫がとても驚いて戸惑っていた事も。でも、拓真はちゃんとそれを受けとめてくれた。
「今のキスも、それだったな。俺は……今ではそんなお前のこと、すごく気に入っているよ」
「拓真──」
「俺が見つけた時は、グラミス・キャッスル。結婚してから知ったミコは、アメリカーナ」
いきなり夫が薔薇の名を呟いたので緋美子は驚いた。
そんなこと。『女が好きそうな事、俺が解るわけないだろう』なんて硬派な振りをして、『薔薇の名前まで覚えられるか』と言っていた拓真が……。
「じゃあな。行ってくる」
緋美子が驚いているうちに、拓真が照れくさそうに出ていった。
そんな時だけ、体格良い体をすぼめるように、背を丸めて出ていくのだ。でも、ドアが閉まる頃、朝の光が射し込む中、消防官の背中で出ていった。
「……まったく、もう」
もっと堂々と格好良く決めてくれたら満点なのに。
でも──。自分の夫らしい、『拓真らしいわ』と緋美子はそっと微笑んでいた。
父ももう来ない家。
夫がいないと静かだった。如何にあの彼が賑やかにしてくれていることか、救われている事か。
リビングではまた相変わらず。パパのお見送りに出そびれた息子がすやすやと眠っている。早朝なので仕方がないと拓真も残念そうだったが、寝顔を見て少し寂しそうでも優しく笑っていた。
そのリビングのローテーブルの下。緋美子が暇な時に引っ張り出しては何度も眺めている本を数冊重ねて置いているのだが。その内の一冊を手にとって見た。
緋美子の『薔薇図鑑』。結局これを見て、薔薇の名前を覚えようとしていたんじゃないかと思うと、笑みが止まらなかった。
しかも、『私のイメージの薔薇を探してくれていただなんて……』。薔薇の花束をもらうより、嬉しいかもしれない。
グラミス・キャッスルは白い薔薇。気高いイメージの白い薔薇。
アメリカーナは赤い薔薇。『色めかしい』というイメージの……。
結婚前の清らかな恋人。
結婚後の色めかしい妻。
そんなところなのだろうか。
『今ではそんなお前のこと、すごく気に入っているよ』
彼がどちらの自分も知ってくれていること、実感した。
白い花は彼が与えてくれたもの。
ずっと、そんな妻でいたい。白い花の妻で、赤い花の女でいたい。夫だけの──。
彼の無事を祈りながら、緋美子は愛おしくて堪らない溢れる気持ちを強く抱きしめていた。
愛してる、愛している、愛しているわ。
何度も呟く。今度は言い聞かせじゃない。本心の……。
・・・◇・◇・◇・・・
「では、里佳子姉さん。行ってきますから、一馬をよろしくお願い致します」
「大丈夫よ。今夜は泊まっていくでしょう? 待っているわ。いってらっしゃい」
拓真が震災の救援に出かけて暫くした頃。
この日、緋美子は薔薇の家を出て市内の実家に戻っていた。
「ままー、“いったらっしゃい”」
「いってらっしゃいよ、一馬ったら」
「ミコおばちゃん、いってらっしゃい」
「凛々子、カズをよろしくね。お土産を買ってくるからね」
姪の凛々子は『ほんと』と目を輝かせた。
可愛い姪の小さな鼻先を、緋美子はちょんと指先でつついて『本当よ』と微笑み返す。『ケーキかもしれない』とほのめかすと、もう凛々子は大喜びで一馬と一緒になって飛び跳ね、緋美子を見送ってくれた。
用事があり、緋美子は一人で動く為に息子の一馬を実家の義姉に預けて出かける。
四十九日の法要が済んだ為、『満中陰』の挨拶回り、つまり『満中陰志(香典返し)』を届けに出かけるのだ。
近年、配送して届ける事も一般的になってきたが、地方の古い町、旧家との付き合いも多い為、土地柄、この時代もあって、縁が深い知人の家はその足でお返しに向かう事にしたのだ。
だいたいは当主になった兄と義姉が済ませてくれたが、緋美子が住まう薔薇の家の近所は妹夫妻の付き合いが深い為、そちらは緋美子が顔を出す事にした。
しめやかに黒いワンピースを着て、緋美子は出かける。
せっかくなので、この日は一馬を迎えて薔薇の家に戻るのではなく、そのまま兄夫妻の本家に泊まる事にした。
薔薇の家がある丘に戻る道行き、緋美子は拓真からの連絡を思い返していた。
『ミコ。元気でやっているか』
『大丈夫よ。今、満中陰志の準備で忙しいの。結構、気が紛れているわ。それにこのために実家にも通っているしね』
『満中陰の挨拶回りか。ごめんな。俺も顔を出したいのに……。ご近所さんに、俺の分も、そして俺が行く事が出来なかった理由もちゃんと伝えてくれよ』
『分かっているわ。それにご近所の皆さんも、貴方が震災の救援に出かけた事を尋ねるほど……貴方の留守の事を良く知っているのよ。皆さん、気をつけて帰ってくるようにと言っていたわ』
『そうか……』
拓真の報告では、テレビで見ている以上に酷い有様であったらしく、彼自身、そんな現実を目の当たりにしてかなり気が滅入っているようだった。
報道でも、救助の後手についての検証がされている。拓真はそれを聞いては、腹立たしい思いをしているようだった。──『一番に必要とされている時に、県下の消防だけじゃいけないんだって、皆で痛感しているんだ。結局、組織しているはずのものがきちんと起動せず、救助要請のシステムも組織的構成の問題だけじゃなく、非常時だというのにこんな時に政治的なしがらみまで邪魔して、スムーズにならなかったことが、かなり問題になっている』。拓真がそう言っていた。政治的トップの指令が後手になった事も問題になっていたが、それ以上に被災地の消防官も被災者であり被災地では消防が機能しにくい事が今回の震災で分かった事。その上、都市自体が壊滅し機能せず、ましてや、道路があんなになっては動けた消防隊も渋滞などに阻まれて早急な到着が出来なかったとか……。戦後最大の、都市直下型の大震災。それがどのような被害や救助障害を起こすか、これで初めて分かった状態になったようだ。
この震災を教訓に、救助の要請するシステムが改善され、のちに『パイパーレスキュー隊』が結成されるきっかけとなるのだが、この時はまだ……。
『街の音が、すべて悲鳴に聞こえるんだ……』
なにもかもが崩れ去ってしまった悲しみを目の当たりにしている拓真には、一生忘れられない体験となっていくことになる。
酷いものを目の当たりにして落ち込んでいる様子が声色で分かってしまうのだけれど、拓真は決してそれを緋美子の耳に生々しいまま惨たらしく伝える事はなかった。だけれど緋美子には伝わってくる。いつも明るくて賑やかで無邪気な彼だからこそ、悲しみを目の当たりにしたその時も本当に素直にどんと暗くなるのだ。そして報道で見聞きしただけでも胸に迫る悲しみを覚える惨状である現場。そこには報道では決して届ける事が出来ない現実を、消防官は見ているのだろう。
『一馬が、いってらっしゃいを言うようになったのだけれど、“いったらっしゃい”なのよ』
『なんだ、そりゃ!』
いつものように息子の話をすれば、拓真も直ぐにいつもの明るいパパに戻ってくれた。
『うん、電話して良かった。お前の声を聞いただけで……』
『嬉しいことを言ってくれるわね。たまには離れるのも悪くないわね』
『なんだよ、その言い方。……でも、本当だな。俺達、こんなに長く離れているのは初めてだよな』
そう言われ、緋美子も初めてハッとした。
でも……。早く帰ってこないかと待ってはいるからたまにはとても寂しくなるが、でも緋美子はいつでも彼が傍にいる感触を覚えていた。
『……うん。でも、タクが傍にいる感じがちゃんとある。離れていても』
『うわ、お前も。どうしたんだよ? ほんと、そんなこと言ってくれるだなんて、離れてみるもんだな!』
もう少し、次の交替時期に帰るよ。
拓真のその言葉に緋美子は笑顔で頷く。
初めて離れても、ちゃんと傍にいる感触があるほど、二人は夫妻になれていたのだと実感する事が出来た。
薔薇の家に戻り、緋美子は早速、ご近所廻りを始める。
祖父母の代から親しいご年輩さん、父と同世代で知り合いになったご家庭。さらには近頃開拓された新興住宅地で知り合った緋美子世代の若いご家庭も廻った。そのご自宅の都合で、玄関先で済む場合もあれば、『よく来てくれたわね。どうぞ、あがっていって』と誘ってくれるご自宅もある。その時は緋美子もそのお誘いのままお邪魔させてもらう。たいていはご年輩のご自宅。父の代で知り合いになった家が殆どだった。
話題もほぼ一律だった。
「本当に、突然で驚いたわ。貴女もびっくりしたでしょう。可哀想に……」
「いえ、だいぶ落ち着きました。生前、とてもお世話になっておりましたのに、きちんとお別れが自身で告げられなく父も残念に思っていると思います。父に代わりまして、とてもお世話になっていた事を御礼申し上げます」
「まあ、そんな……。正岡さんにはとても良くしてもらったのよ。昔からあのお宅に通っていたでしょう。私がここにお嫁に来た時分から、お父様もお庭の手入れを頑張っていらっしゃったものね。お声をかければいつでも薔薇を分けてもらって……」
そうだったな、と、緋美子も振り返る。
静かで穏やかで、そっと薔薇を分けてくれる紳士。父は近所ではそう言われていた。
「貴女も若いのにご苦労が重なるわね。でも貴女、ご結婚が早かったけれど、花嫁姿もお父様に見せてお孫さんのお顔も見せて、ちゃんと親孝行なさっていたわよ。だからしっかりなさってね」
有難うございますと、緋美子はどこでもそうして礼を述べた。
さらに話題は消防官の夫へと移っていく。
「ご主人は今、被災地へ応援に行っているのよね。あの地震は本当に酷かったわね。あの朝、こちらまで揺れたものね」
そして被災地での拓真はどうかと聞かれる。
今、どこでも話題になってしまう出来事。緋美子はどのような酷い状態が被害があったかという話は拓真からもあまり聞かなかったので、二人で話題になった『救助の遅れ』についてあたりさわりなく話してみた。それでなくても今、報道でも問題視され、連日特集として放送されている。誰もが気になる問題だから、その話題で間が持った。
少しの訪問。でもそれが何軒も繰り返される。予想していた事だった。昨夜からなにを聞かれ、何を話題にすべきか想定を組んでいたから。
だが、別れ際。どこの家でも同じ事を聞かれる。それは緋美子の中では予想外の──。
「薔薇の庭は貴女が継いでくれるのでしょう? 無くなってしまったら哀しいわ」
靴を履いた玄関先、誰もが不安な顔で緋美子の背に尋ねる。
その問いに、緋美子は嬉しく感じていた。あの薔薇の庭がこの地域で愛されていると感じられて。
「勿論です。小さい頃から父の手伝いをしてきて良かったと思っています。あの薔薇の庭は私が守っていきます」
笑顔で答える緋美子に、誰もがほっとした顔になる。
「本当ね。お父様も若い頃からお祖母様についてこられていたけれど、貴女もそうだったわね。奥様がなくなった後も、親子でこられて……」
そこでどうしてか涙する奥様が数名。
父は『薔薇の家の息子さん、旦那さん』と呼ばれていた。そして緋美子も『薔薇の家の娘さん、奥さん』と……。きっとそうして引き継いでいくのだろう。
なによりも緋美子はあの庭を愛している。
誰に言われずとも守っていく決意を固めていた。
でも、こんなに愛されているだなんて。
「また来年も沢山咲かせますから、覗きに来てくださいね」
「ええ。行くわ。楽しみにしているわね」
父の縁から自分の縁へ。そんな挨拶も含まれていたのだろうか。
そんな気にさせられた。これから、あの家の当主は拓真であって、密かに緋美子であるのだ。
拓真もきっと『薔薇の家の旦那さん』になっていくのだろう?
「なんか、似合わないわね」
緋美子はそっと笑った。あの賑やかな体育会系の夫が『薔薇の家の旦那様』!
薔薇の名前を覚えているようだけれど、やっぱり似合わないと思った。
「薔薇の家の消防士さんで、良いのじゃないかしら」
そう思うと、夫の代名詞はやっぱり『消防官』なのだなと思った。
現に近所でも『消防の旦那さん』と呼ばれているのだから。
そして最後の一軒になる。
この家とは縁が深い為、ゆっくりと挨拶を交わしたく、緋美子は最後に残していたのだ。
大きな土地、大きな日本家屋。その家の門に立った。
表札は『長谷川』。早紀の家、正樹の実家だった。
きっとこの家に上がったら、余所でしたような話も含めつつ、いろいろな今までの父を偲ぶ話も長引くだろうと思っていた。そして緋美子はここでこそ、自分の中にある父を存分に話す事が出来ると思ってきた。一番親しいご近所さんだ。
(早紀さん、いるかしら?)
婚約を果たした早紀は、婚姻の準備に忙しそうで近頃はあまり顔を見せなくなっていた。
お嬢様だから、きっと盛大な結婚式で準備も大変なのだろう。そう思って彼女を待っていたのだが、緋美子が落ち込んでいないか電話連絡は入れてくれるが、訪ねてくるのはやっとと言ったところらしい。
婚約者の英治は婿養子になるだけでなく、この大きな自宅にも同居する事が決まっているとかで、長谷川家では本当に願ったり叶ったりの婚姻のようだった。
だとしたら。正樹は……。もう本当にこの家から追い出されてしまったのか。
そう思うと、インターホンを押す指が、少し躊躇った。
この家の長男を奪ったのは、この女だと誰が思うだろうか。誰も知ってくれないから、自分の中だけに秘めるしかない罪悪感が、ここでどっと襲ってきた。
しかしもう日が傾いている。早くご挨拶を済ませないと、こちらのお宅にもご迷惑だし、凛々子のお土産も買えないし、一馬も待っているだろう。
緋美子はそんな自分だけしか知らない罪悪感を払いのけて、インターホンを押した。
『はい』
しかし、そこから聞こえてきた声は男性の声。
しかも、『正樹』の声だった。
「あの、正樹さん?」
『緋美子ちゃん?』
向こうも驚いているような声。
「父の四十九日が終わりましたので、満中陰のご挨拶に来たのですけれど」
『そう』
いつもの如く、落ち着いている声だった。冷めている、淡々とした声。
『でも、今、うちには誰もいないよ。俺、その為に留守番頼まれているぐらいだから』
「え? どなたも?」
『急な商談で親父は東京に出てしまってね。おふくろも連れていかれたんだ。早紀はご存じのお転婆で、両親がいない事をいいことに英治君と外泊なんだよ』
「え! もしかして早紀さんに頼まれて?」
『そうだよ。まったくあの我が儘娘め。自分が頼まれた留守番を、親と不仲になった兄貴に押しつけるとは良い度胸だよ』
緋美子の目に、早紀が奔放に振る舞って兄を困らせているのが浮かんだ。そして、そうされて困りながらも、可愛いあまりに受け入れてしまった兄の姿も。
「まあ、お二人とも相変わらずなのね」
『成長していないってことだよな。俺も、早紀も』
インターホンの向こうで、彼の笑い声が聞こえた。
何故か、それを耳にして緋美子は嬉しくなってしまった。
本当は、こんなお喋りが出来るはずの……ご近所で幼馴染みで、そして一番のお友達のお兄様のはずだったのに。
でも近頃、緋美子が感じていたとおりだった。
こうして距離を置けば、触れあわなければ、正樹とはちゃんと付き合えるのだと。
「あの、それでしたら。また改めてお伺いしますね」
少し名残惜しいが、門前で引き返す事にした。
だが、インターホンから思わぬ言葉が聞こえてきた。
『待って、今、玄関開けるから。満中陰志だけでも置いていきなよ。きちんとした時期に訪ねに来たという証拠になるだろう。ここらの家はこういうのうるさいからな。遅れて来ただなんて言われても困るしね』
「いえ、でも……」
それはそうなのだが、でも、だからこそ、きちんと顔を見て挨拶を届けたいし直接手で渡したいのだ。
だが、インターホンの音がぷつりと切れ、正樹の気配が無くなった。
緋美子の胸が、早く鳴る。
でも、どこかで『距離を置けば、上手く接すれば、普通に話が出来るはず』だと。近頃の期待が、駆けめぐった。
やがて玄関が開けられた。
「いらっしゃい。緋美子ちゃん。そこを開けて、こっちにおいで。大丈夫、俺は近づかないから」
白木格子の門。その向こうに、正樹がいる。
彼が笑顔で、緋美子を手招きしている。
それはいったい?
::::参照:::: ◆薔薇についての文献◆ *わたしだけの愛のバラ(誕生日のバラ365、あなたの名前のバラ100)* 著者/鈴木せつ子 出版/集英社 ※バラの写真と共に、日本女性の名前にイメージしたバラ、誕生日に合わせたバラやそのバラに合わせた言葉が添えられています。 ◆満中陰志◆ 関西から西の地方でよく使われているようで、関東、東北、北海道ではこの言い方はあまり耳にしないようです。 四十九日を終え、満中陰。香典返しが『志』なので、満中陰で届ける香典返しに志をつけて満中陰志と言うようです。 ちなみに、作中、舞台にしている土地は名言はしていませんが(笑) 中国地方の砂丘の街でも、そう言われているようです。 |
Update/2008.4.19