ミコ、どんどん女らしくなるな──。
真昼の睦み合いの後、若い夫がそう言った。
その時、緋美子は素肌のまま、出窓にいた。
昼下がりのカーテンの向こうに透ける、水彩のような砂丘の海岸を眺め……。
そして、今日も夫が現れてくれた垣根に、誰もいないことを確認してほっとする。
いつまでも裸のまま、カーテン越しの出窓に立っているので、ついに拓真がベッドから起きあがって緋美子の背にやってきた。
「気のせいかな。時々、なにか気にして、そこに立っていない?」
夫、拓真の言葉に緋美子の胸がドキリと痛く脈を打った。
「好きなの。ここから見える景色が」
同じく裸のままの拓真は少し訝しそうに緋美子を見下ろしていたが、やがていつもの屈託のない笑顔になる。
「だよな。緋美子が子供の時から見ている景色だもんな。そうだよな。うん、そうなんだ……」
でも、どこか腑に落ちないと言いたそうに濁した語尾。
その不安をかき消すかのように、素肌の拓真が緋美子を背中から抱きすくめる。
「ミコ。俺、幸せだよ。早く結婚したこと、後悔していない」
俺、まだ新人だけれど。安月給だけれど。『頑張るから』、『お前達を守っていくから』。
そんな嬉しい数々の言葉を耳元で囁かれて、これ以上の幸せはないと緋美子は泣きたくなる。
だから今度は、自分からも彼を抱きしめる。
「いつまでも、いつまでも一緒よ。タク……一緒よ」
必死にそう伝える。
緋美子の本心で、心からの言葉。
でも、何かを振り切りたい為にも聞こえる言葉。
何も知らない拓真は、もうそれで充分のようで、とっても嬉しそうに笑って緋美子をきつく抱きしめてくれた。
そのうちにまた、側にあるベビーベッドに寝かせていた一馬が泣き始める。
「うわー。また、お前のまんまの時間か。ほら、ママを返すぞー」
父親の顔に戻りつつも、拓真は『既におっぱい丸出し。丁度良い』なんて言いながら、緋美子の乳房を先を指先でふざけて押した。
『なにをするのか』と怒りながらも、緋美子もそのまま息子のところにすっ飛んでいく。
ベビーベッドから抱き上げ、授乳の準備をしてそのまま息子に母乳をあげた。
ベッドの縁に腰をかけて息子に母乳をあげる姿を、拓真も微笑ましそうに眺めてくれる。
「へへ。パパも今日は初めて。ママのおっぱいを、ちょっぴりもらっちゃったぞ。甘かった」
また緋美子は『バカ』と言いたくなったが、一緒に笑っていた。
当分は男女の睦み合いの間には仕方がなくついて回ってくるだろう。
夫の拓真はいつだって明るくて優しい。
緋美子は夫によく似ている息子を見下ろして、ひしひしと感じている。
息子の一馬も、背後にある色が真っ白だった。
ほっとしている。まさか、自分のような重いものを引きずる宿命を持たないかと思っていたが、近頃、息子の背後が白く見え始めてほっとした。
しかもそれが父親そっくりで、ほんわりと暖かいもの。
そしてさらに感じている。
(カズ。貴方、運も強いわよ)
父親の拓真と同じだと思った。
この夫はまだ新人消防官ではあるが、緋美子は予感している。
この夫は、その運でこれからのし上がっていく。そして、決して事故には遭わない強い運を持っていると。
拓真の父親のように亡くなるような運命では無さそうだった。
緋美子の父親に拓真の母は、拓真の行く末を良く案じているが、緋美子は断言できるほど。
それもそのはずで、拓真の後ろには何か強い『護り』がついていた。
はっきりは見えないが、緋美子は確信していた。
きっと早くに逝ってしまった彼の父親だと……。
父親の自分が早く逝ってしまったのは、子供の憂いも全てひっさげて昇っていく運命だったのだろうか……。そう思えてしまう。
運命?
緋美子はそれを良くこの目で見てしまう。
でも、そうなると嫌な予感がつきまとう。
運命は良い運命ばかりじゃない。
だから、否定したい。
だけれど、夫と息子がそんな庇護を得ていることには、とても安心していた。
・・・◇・◇・◇・・・
小倉の義母がやってきた。
「カズちゃんー、お祖母ちゃんが来たわよ〜」
拓真の母『聡子』は、二週間に一度、まめにこちらに帰ってきてくれる。
初孫の可愛さが恋しいのが一番でやってきてくれるのだろうが、息子の拓真が夫として父親として家を空けることが多い仕事であることを案じてくれているようだった。
そこは流石、元消防官の妻だった故か。緋美子の新妻としての不安を良く知り抜いてくれている。
「お義母さん、お疲れさま」
「あら、慣れているのよ。今回も、明彦さんも来たがって大変だったのよ」
血の繋がりのない、拓真の義父『明彦』。
時折、こちらに付き添って顔を見せてくれる。
「お義父さんも、すっかりお祖父ちゃんですものね」
「そうそう。昨日も、カズのところに行くなら、これを持っていけって……」
聡子がバッグから出したのは、ベビーおもちゃ。
それもとりどりに沢山。
緋美子は感激して、早速手にとって眺めた。
「明彦お父さんたら……」
「優しい人なのよ……。本当に。拓真の前ではあんまり言えないことかも知れないけれど、本当に、支えてくれたの。長い間……」
緋美子は『そうですか』と頷きながら、義母の聡子がそこは女性としての気持ちを素直に教えてくれたような気がした。
そんな義母に、緋美子は教える。
「でも、タクは明彦お義父さんが近頃は一馬のことばかり気にしているので、怒っている時もあるんですよ」
「まあ、そうなの。可笑しいわね。あの子ったら。私が去年、小倉へ出ていった後なんて、ちっとも連絡をくれなくて気を揉んでいたのよ」
男の子ってまったく……と、聡子はぼやきながら、傍で寝ている孫を優しく抱き上げた。
「カズちゃんは、ママにはちゃんと連絡するのよ。お祖母ちゃん、そう教えるわ」
まだ若いお祖母ちゃんである聡子。
でも一馬のことをとても可愛がってくれていた。
「あら、いけないわ。ママのお手伝いに来たのに、のんびりと……。貴女、眠っているの? この前、貧血を起こしたんですって?」
緋美子は苦笑いをこぼした。
連絡をしない息子といいつつも、拓真はそんなところは母親に報告しているんだと……。きっと緋美子が子育てで疲れているから、母さん手伝いに来てくれと泣きついたんだろうと思った。優しい夫だけど、ちょっと大袈裟。でも、そこが憎めない温かい人。緋美子も嬉しい。だが、本当の理由がそうではないことが、心苦しいところ……。
「いえ、暑気負けですから。大袈裟なんだから、タクったら……」
「なにいっているの。あなた、休んでいなさい」
緋美子は首を振る。
この前、久しぶりに赤い気配にまとわりつかれてから、じっとしている方が怖くて仕方がなかった程。まだ動いて家事をしている方が気が紛れた。
「でしたら、お義母さん。カズを見ていてくださいますか? 私、買い物に行ってきたいので」
その方が、義母も一馬を嬉しそうに抱きしめ、嬉々とした笑顔を見せた。
今から孫と二人きり。じっくりとお祖母ちゃんとして傍にいられるからだろう。
「いってらっしゃい、いってらっしゃい。貴女もまだ若いのだから、ゆっくりと年頃のショッピングでもしてきなさい」
緋美子はその気は全くないのだが、聡子に礼を述べ、出かける支度をした。
友人は皆、大学に行っている。早紀もまだ学生の生活。誰とも時間が合わない日々を過ごしていた。
それでも緋美子は満ち足りている。友人は早婚の緋美子の様子を気にして時には顔を出してくれるし、早紀も変わらずに良く訪ねてくる。そして一馬を見れば、甥っ子が出来たかのようにして可愛がってくれていた。
大学は……休学状態にしているが、緋美子は子育てを始めて見て、今の状態だと無理かと思い始めていた。義母が手伝いに懸命に来てくれても、やはり女手がないと言うのは否めないところ。父親も仕事があるし、拓真に至っては非番があると言っても常に緊急に備えて置かねばならない職業。決して全面的に頼れる状態ではない。
まだ誰にも言ってはいないが、退学を考え始めている。なによりも、やっぱり息子が可愛い。今はまだ、自分が手塩にかけて育てていきたいという母親としての気持ちが強くなってしまったからだ。
久しぶりに、夏のワンピースを着て、緋美子は出かける。
薔薇が良く咲き誇っている真夏。聡子は、薔薇の庭を目の前にして、とても喜んでいた。
・・・◇・◇・◇・・・
消防官とは、使命と気力で続けているものだとつくづく思う。
現実的なことを言うと、ほんっとうに『安月給』なのだ。
聞けば、キャリアを重ねている先輩消防官のおじさん達ですら、それほど高給取りではない。
それでも市民の為に、なにも厭わずに懸命に向かうことが出来るのは彼等の『誇り』としか他に言いようがないと、緋美子は消防官の妻になってから痛感していた。
『好きだからやるんだよ。消防官は使命感がなきゃ、続かないんだよ!』
拓真はいつもそう豪語する。
拓真だけじゃない。彼の上司に先輩も皆、そう言う。
それを目の当たりにしたのは、二人の結婚式の時。市内の有名寿司店の宴会会場で行った披露宴では、ここぞとばかりに羽目を外した消防官達が酒を呑んで皆が口を揃えて叫んだからだ。
(本当に、あの時は賑やかにしてくれて……)
嬉しかったわ。と、緋美子はそっと微笑む。
でも、今……目の前で手にしている流行のワンピース。
やっぱり買うのはやめようと思った。
まだ新人消防官である夫の給与が少ないというのもあるが、それ以上に思うのは『どうせ。着る機会などない』ということだった。
持っていてもシーズンに何度、着られることか。そのうちに流行が過ぎてあっと言う間に着なくなる。それは勿体ないことだった。それなら汚しても構わないちょっとお洒落なカットソーが一、二枚増えた方が実用的だと、緋美子はセールワゴンの方を覗き……やはり買うのはやめた。
結局、買ったのは、夫が消防作業着の下に着るティシャツと、息子の新しいベビー服だった。これを着た一馬は可愛いだろうと、そっちの方が楽しみだった。
喫茶店で冷たくて美味しいものを久しぶりにじっくり味わおうかとも思った。
でも、一人きり。静かな平日の喫茶店に一人きり。
もしここに早紀がいたり、もしここに拓真でもいれば、もっと美味しいだろうに。
ついそんなことを思って、緋美子は空いている喫茶店の入り口からその足を遠のける。
やがて、緋美子は地元の繁華街を通り抜け、海辺の公園へと足を向けていた。
学生の時は、良く通った公園。
噴水の広場にあるベンチに緋美子は腰をかけた。
丁度、木陰で気持ちがよい……。日射しは強いが、緋美子が選んだ席は涼しかった。
結局、自分が楽しめることをなにもしないままここに来てしまった。
でも、少しだけぼんやりしても良いだろう。きっと、それがしたかったのだと思った。
賑やかな家にいることはとても幸せだった。静かな父があんなに快活になって、小倉の義父と義母も良くしてくれ、早紀も良く来てくれる。
でも、一人で本を読む時間がなくなったと思った。緋美子にとっては静かに一人の世界を堪能するのも楽しみであるひとつだった。
バッグに忍ばせていた読みかけの本を、手に取る。しかも読みかけていたのは、随分前。一馬を出産する前、お腹が大きかった時以来だ。それをそっと開いてみた。
蝉の声がする中、少しだけ前を読み返し、そして新しい文字と文節を追う。徐々に高まってくる集中力……。だが、途中で子供の泣き声がして、緋美子はハッと文庫本から顔をあげた。
噴水の向こうを、ベビーカーを押している母親の姿。緋美子よりもう少し大人であろう女性が、ベビーカーを覗き込んであやしていた。
それを見たら、本を閉じてしまった。『やっぱり帰ろう』。一馬が待っている。ママのおっぱいを恋しがってくれているだろうか……と思うと、なにも集中できそうになかった。腕時計を見ても、割と時間が経っている。バスで帰って、近所のスーパーで夕飯の食材を買って帰ろうと思った時だった。
腕が、片腕が『ちりちり』と熱くなった感覚がした。
直射日光に当たっている訳でもないのに……。砂浜で海水浴をしている時のような、あの熱さが緋美子の素肌を襲っている?
そこに誰かがいて、緋美子を見ていた。
逆光でよく見えなく、緋美子は手をかざしてやっと見えたその男性が誰か判ってハッとした。
「久しぶり」
正樹だった。
夫と同じ、紺色の消防官の作業着姿で彼がそこにいる。
緋美子の身体が固まった。もの凄い緊張で身体が固まる……!
あの夕暮れの、決して、二度とあってはいけないと正樹が判断し、緋美子も幼心にそう感じたあの『毒々しくも甘いひととき』。
それがぎゅうっと身体を占めていってしまいそうな感覚。
「二度と、近づかないって!!」
いつもは静かだと言われる緋美子。
だが、うわずった声で叫んでいた。恐怖から出た声だった。
正樹の方はとても落ち着いていて、とても思慮深い顔つきで緋美子からはかなり離れた場所にいる。そう隣の、そのまた隣のベンチがある位置。そこから彼が声をかけてくれたのも、あの時の衝撃を考慮してのことだろう。
だが緋美子には、彼が目の前にいるに等しかった。
それはきっと、正樹も同じ事だろう。
彼の魂には威圧感がある。
それだけ離れているのに、もの凄く、側に来た感じになるほどに。
真夏だが、真夏が理由にはならない汗が、緋美子の身体中から滲み出てきた。
それはとてもひんやりとしていた。
この前、垣根の赤い残像が緋美子にまとわりついてきたのは、これを予感させていたのだろうか?
言葉を交わすのは、あれ以来だと思う。そんな再会。
Update/2007.12.12