また薔薇の季節がやってきた。
夏──。
別宅だったこの薔薇の家。今は自分の新しい新居となり、毎日、家族と暮らしている。
父と二人で庭の手入れの為に通っていた頃、週の大半をこの家で親子生活をしていた頃は、とても静かだった。
なのに。今は『騒々しい』と言った方が良いかも知れない。
ほら、二階から子供の泣き声が聞こえてきた。
緋美子はエプロンのポケットに入れていた腕時計を取りだし、時間を確かめる。
そろそろ授乳の時間。規則正しくお利口な長男が、時間ぴったりに母親の自分を呼んでいるのだと思った。
「みこー! ミコ、緋美子、おーーい!!」
庭先で洗濯物を干していた緋美子は、その騒々しい声を耳にして、一人でそっと微笑む。
「一馬が泣きやまなーい!!」
非番で日中も家にいる夫に、家事をしている間、息子の世話を……といっても寝ている息子と一緒にいるように頼んでおいただけだが、それだけで大助かり。それでも『おっぱいの時間』だけは泣きやますことが出来ず、彼はいつもおろおろして緋美子を探す。それにも緋美子は笑いが堪えられなくなり、『ここにいるわー』と庭から二階の寝室へと声をかけた。
「ママー、早く、早く!」
「はいはい」
二階の窓から今にも死にそうな夫の顔が出てきて、緋美子はまた笑う。
もう息子の泣き顔を見ただけでおろおろ。いつもばたばた騒々しい夫。そして泣く時は元気いっぱいの息子。
この家は本当に賑やかになった。元は本家の別宅だったこの家に通っていた父も変わらずにやってくる。そして『賑やかになった』と毎日楽しそうに目を細めてくれる。
夫の拓真は大抵、非番の日の午前中はごろごろしている。ひどい時は夕方まで。それでも夜も更けてくるとぴたっと眠ることが出来るのは、彼も新米なりに消防官としての生活サイクルが身に付いているのだと、一緒に暮らすようになってから驚かされた。
ごろごろはしているが、緋美子の手がふさがっている間は、それなりに息子の面倒を見てくれていた。
それが学生と成人したての青年が、世間一般の適齢期婚ではない早婚をする時に約束したことでもあった。
夫の拓真は良くしてくれる。でも、それは約束というだけでもなく、彼は息子可愛さのあまり、ちょっかいをだしてばかり。休みの日は息子と一緒に寄り添ってごろごろするのを楽しんでいる。
それは妻となった緋美子にとっても、微笑ましい姿。そして……幸せを感じる瞬間。
(やっぱりこの人と結婚して良かったわ)
いつもそう思う。
そしてさらに、胸の奥に秘めていたものを思い起こしても思う。
(私は、抜け出られたんだわ)
庭から家の中に入ろうとして、緋美子はちらちと垣根へと見やる。
昨年の夏。目立たない地味な女であるこの自分を見初めてくれた夫の輝く姿が直ぐに浮かぶ。
『自分は貴女は白い花だと思います!』
やっと言葉を交わしたばかりの、声をかけてくれたばかりの拓真が、唐突にそう投げかけてくれた日から、緋美子の日々は激変した。
彼は緋美子のことを『白い花』と言ってくれたが、緋美子は拓真こそ『白い』と思っている。
彼が庭先に現れてから、この家のなにもかもを明るく照らしてくれたような気がしている。
あまりにも早い結婚と妊娠だったため、最初は渋っていた父ではあったが、拓真がこの家で暮らすようになり、さらに可愛い孫の一馬が生まれて賑やかになると、いつもは静かで淡々と過ごしていた父も、どこか突き抜けたかのように快活になった。
……真っ赤で、どこかどろっとして、不安だった日々。
でもある日突然。そこの垣根に現れた、まるで夏のように燦々と輝く彼。その彼がどろっとしてた澱みを、真っ白にして洗い流してくれたような感覚を日毎覚えた。
緋美子は夫が現れた垣根に、残像を見る。
昨年の夏の日、そこに爽やかに出現した夫は、今でも真っ白な光のなかで燦々と笑っている。
なのに暫くすると夫の背後から、真っ赤な気配を身に纏う違う影が、こちらをちらりと覗き見る。
途端に緋美子は、ぞっとし……。
身体中に鳥肌が立った。
『君は……、すごい、ね』
鳥肌が立ちながらも、緋美子の身体が一気に熱くなる。
これは緋美子の意識でなく、本能と緋美子は割り切りたいのだが、そんな簡単な一言ではくくれない『抗えない支配』。
しかも、それは『中学生』というまだ少女だった時に起きた『衝撃的な出来事』。
緋美子は途端に……。
家の中にあがろうとしていた縁側で、ふうっと意識が遠のき、そこにぺったりとへたり込んでしまった。
決して、恐怖から気を奪われたわけでもなく。その抗えない意識に囚われた訳でもなく……。
人には言えない、ちょっとした緋美子の勘の良さ、もっと言えば『霊感』に近いものに、たまにこうして囚われる。
なぜなら、夫の残像の影から現れた『赤い男』。これが緋美子にとっては『生き霊』に近いからだ。
その残像から感じ取った『男』が、夫の清い残像の後ろから、さあっと静かにこの庭に入ってきて、ほんの少しだけでも赤い魂の彼を思いだした隙をついて、緋美子にまとわりついた……。
(い、いや! ず、ずっと……なかったのに!)
赤い魂が、べったりと緋美子に抱きついてくる感触。
実際にはそんな霊もいないのだが、人より違う意識が発達している緋美子にとっては、それはもう実像に近かった。
「ミコ! カズが呼んでいるんだぞ。何している……」
泣きわめく息子を抱いて階段を降りてきた拓真が、縁側でへたり込んでいる妻を見つけて驚きの顔に……。
「どうした? ミコ……! ミコ!」
息子の泣き声と共に、拓真の叫び声が重なり、意識を奪われかけていた緋美子はハッと我に返る。
目を開けると、心配そうな顔をしている夫がその広くて逞しい消防官の胸の中に、緋美子を抱き起こしてくれていた。
「……タク、」
「よ、よかった……ミコ……」
なんとか夫を呼ぶと、彼がとても安心した顔になった。
「疲れているんだ。子育てだって始めたばかりで……。なのに、こんな暑い日に外で洗濯物を干すから」
「……へ、平気」
そう言いながらも、緋美子は『違うの』と心の中だけで呟く。
ほんのちょっとの罪悪感が生まれていた。
「カズの、俺が粉ミルク飲ますから。お前、二階で寝ていろ!」
『だ、大丈夫』と言おうと思った。だって、本当に『目眩』とか『暑気中り』とか『貧血』とか、体調を崩した訳じゃない。
あと少し、ほんの少しだけじっとしていれば、身体にまとわりついたねっとりとした感は去っていくのだから。
なのに拓真はぐったりとしている緋美子を抱き上げる。鍛えたその腕で軽々と身体ごと抱き上げられ、二階の寝室に寝かされ閉じこめられてしまった。
でも、緋美子はほっとしていた。
一階で、新米パパの拓真が息子の泣き声に追い立てられながら、授乳の世話をしてくれている騒々しい音と声がする。なんだか気になってしまう。
でも、緋美子はあのまま拓真が傍にいたら、困っていたと思う。そしてまだ、彼の目の前でまともな自分でいられる自信がなかった。
……知られたくない。こんなに身体が火照ってしまった、はしたない女になっている自分を。
身体が熱くてたまらなかった。
『中学生だったあの日』以来、時折、こうなってしまう。
全て、あの赤い残像が悪い。いや、時折それは『生き霊』かと疑いたくなるほどに……。
こんな時は、静かに嵐が去るのを待つ。
緋美子はベッドの中にうずくまりながら、震えていた。
また、あの日の鮮烈な記憶が蘇る……。
・・・◇・◇・◇・・・
母が亡くなり、気落ちしている父と母の生前を偲ぶように、この薔薇の別宅に通うようになった。
それから暫くした頃、この近所に住む『長谷川早紀』が声をかけてくれ、同い年を言うこともあって、通っている中学は違うが女の子らしい付き合いが始まった。
早紀には、少しばかり歳が離れている兄がいる。
『長谷川正樹』。長谷川家の跡継ぎ息子として、近所では知られていた。
美人の早紀同様に、兄もまた端正な顔つきで、近所でも『優秀な息子さん』と囁かれていた。
緋美子が中学生の時、正樹は既に大学生だった。
自宅から国立の経済科に通っていたようだった。
中学生の緋美子から見れば、正樹はもう立派な大人で、近寄りがたかった。
それは早紀も一緒のようで、彼女はいつも『兄さんは偉そうで、堅物で、口うるさい。まるで親と一緒』と煙たがる。兄正樹との関係は年の差もあってなにもかもが敵わないようで、時には苦手に思って逃げているかのよう。そう、この薔薇の家に彼女がしょっちゅう居つくようになったのも、あの長谷川家の中での窮屈さから逃げてくるというのもひとつのきっかけだったようだ。
あまりにも早紀が長居をする為、いつも彼女の母親や祖母が頭を下げて迎えに来る。
だが、ある時。彼女が母親になにかひどく反抗したらしく、いつものように緋美子が薔薇宅に来ているのをみるやいなや駆け込んできて泣きついてきたことがある。
その日はどんなになだめても、早紀は『帰らない、泊まっていく。緋美子ちゃんと一緒に寝る』と言い張った。
まだお互いに中学生。子供っぽい我が儘は存分に親兄弟にぶつけていた頃。特に早紀は市内でも有数の裕福な家に生まれた一人娘で末っ子故か、甘えているというよりかは、親や祖父母が可愛がるあまりの干渉から逃れているといったふうで、この頃はそれに対する反抗が特に強かった。
この時彼女は、母親とひどい喧嘩をしたらしく、いつになく頑なになってしまい、緋美子の部屋に閉じこもり出てこなくなったほど。
そんな時、いつもは母親の昌代が来るところを、兄の正樹が夕暮れの中迎えに来たのだ。
「こんばんは、緋美子ちゃん」
「お兄さん……。こんばんは」
大学生の彼。遠目に見たことはあっても、早紀と親しくなってから言葉を交わしたことはなく、これが初めてだった。
「妹がいつもわがままを言ってお邪魔しているようで……」
「いえ、私は仲良くしてもらって楽しいですよ。私も兄弟は兄だけだから、女の子の姉妹が出来たようで嬉しいです」
彼は早紀にそっくりな華やかな微笑みで『そう』と静かに言うだけ。
いつもそう。早紀と庭先でひそひそ話を楽しんでいる時も、彼がこの垣根の向こうを歩いているのを何度も見たが、彼は優しい笑顔で会釈をしたり手を振るだけ。
決して、お楽しみの訪問をしている妹の邪魔などしなかった。それはまるで『女の子の秘密の園』を遠くから見守っているかのような……大人の、静かな余裕。彼は早紀と緋美子との付き合いに踏み込んできたことはない。近づいてきたこともない。これが初めてだった。しかし致し方ない理由だろう。
だからこの時は、そんな訳にもいかず、なんとか妹を連れて帰ろうと兄正樹は初めてこの家の中へ入ろうと一歩踏み込んできた。
「悪いね。ちょっと中に入っても構わないかな?」
「はい、どうぞ」
緋美子も本当は知っている。
早紀は兄正樹のことをうるさがったり苦手に思ったりしているが、その分、とても頼り甲斐のある兄として甘えていることも。
緋美子にもマサルという正樹ぐらいの兄がいたので、彼女の妹としての気持ちは分かっているつもりだった。
そして彼女の母親である昌代も、自分が押して駄目なら、お兄ちゃんの正樹にと思って、向かわせたのだろう。緋美子も思った。今日は正樹がやんわりとなだめてくれた方が、早紀も心を開いてくれるはずと……。
だから緋美子は親友である早紀の兄を、なんなく薔薇宅に迎え入れた。
そんな正樹は、門から庭に入ってくるのかと思ったのに、緋美子と間を隔てていた緑の垣根を足を挙げて大股でまたいできたのだ。
あんまりにも真っ直ぐに大胆に入ってきたので、緋美子は呆気にとられた。
「まったく、早紀の奴!」
しかし正樹はそんな自分の行動はまったく気にしていない。彼なりの当たり前のアクションのようだった。
緋美子は暫し、ぼうっとした。
本当は、彼のこと素敵なお兄さんだと思っていた。でもそれは中学生の緋美子から見れば、大学生がすごい大人に見えるよう、手の届かない未知の世界にいる……そう、まるでテレビに映っているだけのアイドルを見ている感覚と一緒だった。
それにこの時の緋美子にだって、年相応に片思いの男の子がいた。自分の身の丈に合うクラスメートの男の子。正樹など、恋の対象と考えるにはあまりにも遠い人で、どうしても友達のお兄さんとしか見えなかった。
でも、長い足を振り上げて、ザッと緋美子のテリトリーに入り込んできた彼は、やっぱり素敵なお兄さん。見とれてしまったのだ。
早紀が言っていた。兄さんはすごくもてるんだと……。中学の時から、かならずガールフレンドがいて、その存在がなくなることはないほど。兄さんにその気がなくても、女性が押しかけてくるほどにもてるのだと。緋美子は『それ、すごくわかる』と、初めて実感した。
「緋美子ちゃん?」
妹の我が儘に業を煮やし、今すぐ引きずり出したい勢いで、正岡家の薔薇庭に踏みいった正樹。
そんな彼が夕闇の中、緋美子がそこでぼんやりしているのに気が付いて、振り返った。
緋美子も我に返り『はい』と動き出す。
「ごめんな。女の子の部屋を覗くみたいで」
「いいえ、大丈夫ですよ。たまに父と泊まるだけの部屋なので、何もないんです」
その時だった。
正樹が緋美子のつむじのあたりを見下ろして『あれ』と首を傾げた。
「こんなところに、小さな赤い花びらが……」
「え?」
庭中に咲いている薔薇の手入れをしている時についてしまったのか。
良くあることだった。それを自分の手で払おうとしたのだが、背が高いお兄さんの手の方がそれより先に……。
「さすが、薔薇の家。住人は花人そのものかな。一度、じっくりみてみたかったんだけれど、庭に入ると格別……」
そう言いながら、正樹が緋美子のつむじにあるという花びらをつまもうとしていた。
彼の指先のぬくもりが、少女緋美子のつむじに、触れ……。
その時だった。
なにか『ばちん!』という衝撃が緋美子の身体を駆け抜ける!?
それは大きな音ではなかったが、確かにそんな音が聞こえたかのような衝撃だった。
しかし、それは緋美子だけではなかったようだ。
「……っい!?」
正樹も、予想外のなにかに襲われたような呻き声を漏らしている。
緋美子も同じ……。だが、衝撃は電撃というよりかは、なんとも喩えようのないゆっくりと膨れあがる津波がざざっと身体の中で海面を盛り上げ、緋美子の胸から下半身に向かっているという感じ。緋美子はそれに逆らえず、襲われるまま力無く口を開けてしまい、そこから湿った吐息を、あらぬ声と共に漏らしていた。
震える唇。
急に乾く喉元。
身体中の血が、まだまだ未発達の下半身へと容赦なく集結する感覚……。
震え始める足、そしてうっすらと滲む汗。
柔らかく、でも『ぼわっ』と急激に火が灯ったように上昇していく体温。
そして、いたいけな乳房の先までもが、敏感に反応しているのが生々しく緋美子を襲っていた。
目の前の正樹も、とんでもないものに出くわした顔で緋美子を見ている。
そして緋美子は悟った。これは……女性として突き抜けた時の感覚なのだと。
官能的な……。柔らかく柔らかくとろけてしまう、なんて甘くて切なくて、淫らな快楽。
それをあからさまに正樹にみせびらかしているのも同然の……。
心の片隅で『いや、誰か止めて』という恥じらいもあるのに、彼に見つめられたまま、緋美子はその快楽にのまれてしまう。そしてその波が二度三度一気に押し寄せ、緋美子はそこに倒れ込みそうになった。
だが、正樹がそんな緋美子を抱き留めてくれた。
「な、なんだ。い、いまの……は……」
彼の腕さえも震えている、そして、彼の声も……。
そして意識が遠のきそうな中、彼にしっかりと両肩を握られ無理矢理に立たされる。
ぐったりとしている緋美子は、正樹の力に従うまま、だらりとした呆けた顔のまま彼と向き合う。
正樹の手も、まだ震えている。
だが、彼の方が先に正気に戻った顔をしている。
そしてその眼差しは既に緋美子に注がれていた。
「き、君……、すごい、ね」
……初めての快楽、それも一気に二度三度も襲ってきた。
『初体験』の少女には、それはあまりにも酷すぎる、急激すぎる、身体の神経が壊れてしまいそうな一歩手前。
その状態に追い込まれた『女』を見る正樹の目は、既に『男』だと緋美子は感じた。
身体に力が入らない為、正樹に支えられたままだが、緋美子の生き残っているほんの僅かな自己が『女性としての危機』を感じ取っていた。
だが遅い! 緋美子がここまで己の女体を追い込まれてしまったように、既に正樹も正気ではない。彼も男の本能を目覚めさせていた。
無言の彼が、またたくまに緋美子を抱き止めたまま、ずるずると庭の片隅へと突き進んでいく。
「ふ……あ、や、いや……まさ、き・・・さ・・・」
声になっても、小さな呟き。正樹の激しく突き進む足音にかき消され……。
ついに緋美子は庭の片隅にある薔薇の植え込みの影につれこまれた。
「はあ……なんだ、これは。す、すごかったよ」
彼の声もうわずり、息が荒くなって……。
緋美子が良く知っている大人の、落ち着きある、素敵なお兄さんではなくなっている。
そして緋美子も分かっていた。自分が突然訳も分からずにこんなになったように、正樹もまたどうしようもないものに支配されてしまったから、こんな無茶をしているのだと。
薔薇の植え込みの影。そこで感情のない、ただ肉体だけが目覚めてしまった男と女が抱き合っている夕暮れ。
正樹の手は、迷うことなく緋美子の真っ白なブラウスを手荒く開き、まだ愛らしいだけの小さな胸の膨らみに迷うことなく、大きな手を忍ばせていた。
夕暮れの、蔓薔薇と薔薇木立の影。
混じり合う息は、少女と若青年ではなく、それはまったくといってよいほど、熟した男女のもの。
なのに、夕焼けに染まる少女の肌とブラウスは、まだ幼い。それを健全なはずの青年が留め金が外れ勢いに任せるかのように荒らしていた。
声を出したかどうか。
緋美子にはよく分からなかった。
でも、身体が胸が焦がされるような切ないものが駆けめぐり、その手を受け入れていた。
彼の手首を掴んでもそのまま乳房へと、その先にある大きな男の手を押し当て、そして、唇を合わせて……。弾む息を交えながら、やがて正樹の手は当たり前のように、緋美子の下半身へ滑り落ち、最後には緋美子の下着の中へと潜り込んだ。
指先が、ゆっくりと泳ぎ始め……。
彼の指がねっとりと熱く濡れるのと、自分がもの凄く濡れそぼっていることに気が付く。
その途端だった。
「……冗談じゃない!!」
真っ赤な顔をした正樹に、突き飛ばされていた。
そして、緋美子は無惨にも土の上に倒れ込む。
そのままゆっくりと、彼の方へと顔を向けた。
「どうしてだ、なんだ、これは」
正気に戻った彼は、自分がほぼ乱暴に近い行為を働いたことに信じがたい顔をしている。
そしてその所行を働いた両手を広げ、眺め、震えていた。
だが緋美子も同じだった。正気に戻れば、それはまだ幼い十五の娘。大人の男に襲われたに等しい恐怖が襲ってきた。
でも、正樹を責める気にもなれない。だって、彼もすごく困った顔、ショックを受けた顔をしている。
もし。大人の彼が、正樹が正気を取り戻してくれなかったら……。
どうなっていた?
自己を失いかけていたまだ精神が未熟な緋美子より、成人しかけている大人の彼の方がまだ後戻りできる気力を持っていたと言うこと。
それで、なんとかお互いに思いとどまったと瞬時にそう思えたから。
だが、緋美子は燃え上がるものがまだ身体の中に疼いたまま……。
何故、こんな事になったのかと、その答を大人の彼に求めるように見つめた。
彼も、それを知りたいがために、緋美子を穴が空くほど眺めている。
そして正樹がやっと、聞いてきた。
消え入るような、掠れた声で……。
「緋美子ちゃんは……『見えたり感じ取れる人間』だったりするのか……?」
その質問に緋美子は驚いた。
では、正樹も?
でも声がまだ出なかった。その代わり、小さく頷いてみせた。
それだけで正樹はとても驚き、緋美子から顔を逸らしてしまった。
「だったら、今ので分かっただろう?」
まだ、緋美子には分からなかった。
なにが分かったのか。
「もう、君には近づかないし、触らない」
二度と……!
正樹はそれだけ言い切ると、緋美子のことなどお構いなしに、走り去っていってしまった。
その途端だった。身体が軽くなって、呼吸が楽になって、身体の中に渦巻いていたどろりとした快楽がさああっと波退いていったのが。
そして緋美子も分かった。
人には縁というものがあると、こんな感を備えてしまった緋美子は信じていた。
だが様々な輪廻の中で、その縁も様々に形を変えていく。細く繋がっている縁もあれば、極太に近く永久を見せつけるかのようにがっしりと繋がっている縁もある。どこにいってしまったか分からない縁もある。
そして、この日の、緋美子と正樹は。
まさに遠くの輪をずっと廻りに廻っていたのに、巡り会ってしまったかのよう。
巡り会い? この言葉に緋美子は違和感を覚えた。
違う。がっちりと合う『符合』を持っている二人が、それまではなかなか合わない人々との出会いを繰り返して生まれては消えていった中、ついにがっちりと合う環境に巡り会って、今日、この夕暮れ、まさに『その符合ががっちりと噛み合った』のだと。そんな感覚──!!
「違う、こんなの、違うわ!」
正樹が否定したように、緋美子も叫んだ。
身体が魂が重なり合った衝撃的な感触は、その後、二人を苦しめていく。
でも、緋美子も正樹も、既に分かっていた。
そこに心と情熱と愛はないと。
正樹があの時、決したことは間違っていない。
もう近づかない。触れあってはいけない。
そして正樹も緋美子も知ってしまったのだ。
どんなに符合があっても、これは『悪い縁』だと。
二人が本当に重なり合うことが起きたならば、きっと悪いことを引き寄せる。
それが緋美子が持っている『第六感』。
きっと正樹も、同じものを持っているから……。
正樹は獣のような男になり、緋美子は自らそれを受け入れこの身体を差し出していた。
しかしそれはきっと禍をもたらす行為。
まるで甘い果実をちらつかされ、それを目の前に抑制を強いられる拷問に似たようなものに、二人は縛られていくことになる。
あの日の記憶を辿って、緋美子はまだ震えていた。
まだ身体の中に僅かに残っている『疼き』。
それに耐えに耐えていると、拓真が様子を見に寝室を覗きに来た。
「ミコ、大丈夫か」
正樹と約束したわけではないが、あの夕暮れの時彼が決めたことは、緋美子も守っていた。
だが、彼は時々。緋美子の目に触れないよう、垣根に立って緋美子を探しているのを知っていた。
そしてあれがきっかけだったかのように、それ以降、正樹の女癖が悪くなっていったのだ。それを早紀がとても嘆き、今に至っている。
拓真に出会って、緋美子は穏やかな真っ白い光に包まれて愛されることを知った。
……それは、あの焼けるような快楽を得られるものではないという、僅かな落胆はあったが、あれを得たら自分が破滅する予感の方が勝っていた。
きっと正樹も同じなんだと緋美子は感じていた。だから彼は、緋美子ではない女性の身体を渡り歩いて憂さを晴らしているのだと。
「……カズ、は?」
「お腹一杯になったら、また直ぐ寝てしまったよ」
清らかな夫の声は、緋美子の心を直ぐに綺麗にして、ほぐしてくれる。
「タク、お願い……」
「緋美子?」
緋美子は泣きながら、拓真に抱きついた。
そして構わずに自分から夫の唇を塞ぎ、乳房に大きな手をあてた。
出産後、まだ一度も二人は抱き合っていない。真面目な拓真は緋美子の身体をこれでもかというぐらいに労ってくれ、遠慮して……。
「でも、ミコ……」
「お願い、タク。去年の夏みたいに、抱いて、抱いて。お願い、タク……!」
彼の唇を愛しながら、緋美子はきつく抱きついて懇願した。
まだ戸惑う夫の目の前で、ついに緋美子はブラウスもスカートも脱いで、彼の目の前に素肌をさらけ出した。
彼の目の前に、去年のように……夏の日射しにくっきりと浮かび上がる自分の肌、乳房。
「俺……」
拓真はついに降参したかのように、妻の肌にその手を吸い寄せられ……。
「抱いて。タク、いっぱい愛してよ」
「いいよ……。俺、本当は俺も、待っていたんだ……」
うんと、我慢していたんだ。
拓真らしい、清い心に愛されている実感が緋美子を包み込む。
やっと交わし合う口づけ。
瞬く間に互いに素肌になって、去年の激しかった睦み合いを取り戻す。
彼はあの時のように、真っ直ぐに必死に愛してくれた。
そして、緋美子も我を忘れて、夫との睦み合いに没頭する。
……でも、それが。緋美子のその激しさが、実は『赤い残像』が僅かな媚薬になっていることを、まだ夫は知らない。
そんな新妻の、罪悪感。
Update/2007.11.15