-- 緋花の家 -- 
 
* 君は僕の白い花 *

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3-7 出窓の花は何を見る

 あの日、一目で気に入ってしまった彼女を、こうして……。
 上から真っ白な彼女の柔らかい背中を見下ろしながら、いつしか思うままの睦み合いに、虜となっている自分がいた。

「……タク」

 彼女の腰をその背から抱き上げながら、腰を動かすことに夢中になっている拓真。その下にいる彼女が、悩ましい顔つきで肩越しに振り返る。
 そこから、あの綺麗な指が伸びてきて、拓真の顎に触れようとする。少しだけ、身体をかがめると、彼女の指先が拓真の顎に届いた。
 拓真に愛されているその狂おしさを、指先だけで伝えてくれる彼女。長い黒髪が頬に時々被り、彼女の漆黒の瞳は見え隠れするのだけれど、その悩ましい吐息と喘ぎ声を漏らしている唇は、ずっと拓真の目に見えていた。

「緋美子、ひみこ、ひ……みこ……ミコ」

 最後、どうしても彼女の名を何度も呼んでしまう。
 その背に後ろから、ぴったりと肌を合わせるように抱きついて……。この囁きを届けたい小さな彼女の耳、そこにかかる黒髪を指でなぞるように払いのけて、何度もそこに彼女の名を囁く。

「あっ、ああ……タク、タク、好きよ。愛している。もっと、もっと、呼んで……」

 愛せば愛すほどに、そうして熱い声を同じように返してくれる彼女。
 白かった花の肌が、すうっと赤みを差して燃えている。彼女の背に密着したまま存分に男の快楽を味わう拓真は、緋美子の胸元へと手を回し、ふっくらとしている乳房に爪を立てるほどに掴む。

 彼女のその熱さ、柔らかさ、甘い匂い。
 全てが拓真を取り囲み、本当にここは『薔薇の園』。
 一夏中、彼女と二人きりの時は、幾らでもこうして愛し合った。
 いつしか自然な行為になっていく二人の睦み合い。
 まだほんの僅かの経験のはずなのに、肌を重ねるたびに、二人の身も心も深く深く繋がっていくようだった。

 ほら、今、拓真はこうして彼女を思うままに抱いているし、己の身も心も熱く焦がしながら、彼女を翻弄しているし──。
 彼女は、もう。艶やかな花として咲き乱れるようにして、こんなにこんなに乱れてくれている。

 大人。──『大人になっていく』。
 どこかそんなことを、自分からも彼女からも感じさせられた。
 そしてそれが拓真をどんどん『男』にしていく。

 背中から愛した後、最後は必ず……彼女と正面見つめ合って愛し合う。
 そういうのも、必ずではないけれど、拓真が望んでいることで、その流れになる。
 下にいる彼女の身体を上に向かせ、構うことなくその足と足の間に拓真は果敢に挑む。

「い、やあっ・・。タ、タク、あっ、そ、そんなに……しないっで・・」
「はあ、ああ……。う、うん……そうだな。い、嫌なら……や、やめようか? と、言いたいけれど……」

 嘘だ。嫌じゃないだろう? だって、こんなに深く俺を受け入れて、繋がろうと……。今、お前の足にすごい力が入って、俺を締め付けて、離さないじゃないか? 拓真はそう言いたくて、でも、息が切れて言えない。実際に、緋美子だって口でそう言っているだけで、拓真に抱きつく腕に腰に絡まる足の力はかなりのもの。こう言ってはなんだけれど、彼女の身体は間違いなく悦んでくれている。そうだと拓真は信じて、絶対に勢いは落とさない。俺がこれだけのことを、お前の肌に身体の中に心に訴えたいんだと思っている情熱を、注ぎ込むだけだ。

「あ、あんあんっ。今日も、タク……すごいっ」
「ひ、みこ……も、すごいよ……。ほら……」

 拓真はそう言いながら、彼女の太腿を撫でる。
 そこは肌を重ねるごとに、敏感に湿る。そこを撫でると、他のところとは違う感触で滑る。
 そうすると彼女は、直ぐに頬を染めて顔を背ける。熱く愛されることに夢中になって涙ぐんだ瞳。その瞳が、部屋に零れてくる光で煌めく。

「や……やめてよ」
「やだ。ひ、みこが……こうなっていくの、俺、嬉しいから……」
「タク、拓真……」

 彼女が嬉しそうに抱きついてきて、拓真もそっと微笑みながら、そのままベッドの上、二人で固く固く抱き合い、最後を迎える。
 ……彼女はまだまだの気配だけれど。それでも拓真がその瞬間を迎える時は、二人にとっては最高の瞬間。彼女が声を荒げて、今度は拓真の名を何度も呼んでくれる瞬間だった。

 夏が終わろうとしている。
 彼女の長い長い夏休みも終わろうとしている。
 そして『俺達の初めての夏』も……こうして……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 来週になると、緋美子の大学生活が再開する。
 そうなると平日は会うことは出来ても、こうしてお互いの肌に溺れるようなことは出来なくなるだろう。
 彼女がそう言った訳でもないし、拓真からそう言った訳でもない。
 それなのに、今日はこんな事になっている。

 もう、朝からずっとだ。
 お互いが『もう思うままに愛し合う夏は終わってしまうのだ』と、『不安』に思っているのかも知れない?
 緋美子の長い夏休み、そして拓真の一日おきの交替勤務。このお互いが持っていた時間が上手く合っていたのは、彼女が一日中、この家で拓真を待っていられたからだ。

「少し、涼しくなってきたわよね……」

 また、彼女は臆することなく裸のまま、そこの出窓に立っている。
 だいぶ日が傾いてきて、もうすぐ夕方だ。
 そこでここのところ、急に大人っぽくなった緋美子が遠い目で呟く。
 この出窓から見える海を見つめているのだと、拓真には思えていた。

「俺、非番と休暇の日は、この家に来るから」
「うん。私も……学校が終わったら、こっちの家に来るから……ね……」

 そうして安心したように緋美子は笑ってくれたのだが、やはり語尾は不安そうに弱まっていく。
 会いに来ると拓真が断言しているのに、そんなに信じてもらえないのかと思いたいところだが、拓真にも同じように思う不安はある。そんな緋美子が不安に思う訳。

 この時代。『携帯電話』も『ポケットベル』もない時代だった。
 会うとなると、口約束の時間か、お互いの環境を気にしながらの電話連絡で交わすというものだった。
 二人の場合、拓真が彼女に連絡をするとなると、緋美子の家族、この薔薇別宅だと彼女の父親が電話に出る確率が高く、実家だと兄夫妻のどちらかが出てしまうし、緋美子が拓真に連絡する時は、二十四時間勤務中の消防署出張所にかけるだなんて余程でない限りは言語道断だったし、そうでなければ、誰が出るか分からない男子寮の共同電話と言うことになる。外から連絡するにしても、公衆電話を使うという……そういう『会う』と言うことにもどかしさがあり、そして別れた時に交わした『約束』を頼りにしていくしかなかった。

 だから拓真が、緋美子が大学から帰ってくるまで、この家の前で待っていなくてはならなくなる。
 彼女は学生で、拓真は既に社会人。しかも拓真の場合、拘束時間が長く、勤務形態も不規則な職業だ。その生活サイクルの差は大きかった。その時間のギャップを摺り合わせる為の苦労が来週から始まると言うことだ。
 しかし、少なくとも拓真は、そこはあまり不安に思っていない。何故なら、幾らでも彼女を待っているつもりだからだ。

「なあ、何処か俺達だけの喫茶店とか決めておかないか?」
「喫茶店? そこで待ち合わせるの?」
「そうそう。俺も緋美子も通いやすいところ」
「いいわね!」

 寂しそうに沈んでいた彼女の顔が、やっと明るくなる。
 拓真は寝そべって、出窓にいる色っぽい彼女の姿を眺めるのをやめて、ベッドから飛び起きる。
 そしてそこの下に散らばっているティシャツとジーンズを拾い上げる。

「そうと決まったら、今から探しに行こうぜ。その帰りに、夕飯の買い物に行けばいいだろう」
「うん、行く行く!」

 緋美子も喜んで着替え始める。
 二人は瞬く間に外に飛び出し、拓真の自転車に乗って出かける。

 まだ残暑厳しい九月の初めだけれど、夕方前になると高台を上ってくる風は、肌に心地良い。
 その風を感じながら、二人は笑いながら、二人乗りの自転車で下っていく。

「タク、今日もうちで晩ご飯していくでしょう」
「お父さんに怒られなければね」
「怒らないわよ。だってお父さん、タクのこと気に入っているもの! 賑やかでいいねって言ってたもの!」

 彼女を初めて抱いて暫く経ったある週末。
 彼女の父親が言っていた『一緒に夕食をしましょう』という食事を、ついに共にしていた。
 学者肌の、無口でおっとりしているお父さんだけれど、やはり父親としての娘を思う心配は、その時にやんわりと釘をさされるようにして言われた。
 だが、拓真はそれはちゃんと覚悟をして聞き入れた。

『お父さん。俺、彼女のこと、本当に大事に思っています。決して、おろそかにしません』

 彼の目を見て、拓真は堂々と言った。
 その時の正岡の父の目は、やっぱり怖かった。
 しかし、その次には何事もなかったかのように、彼は笑ったのだが……。

『その言葉、ずうっと忘れないで欲しいね』

 笑っていたが、声はずっしりと拓真の胸に響いた。
 勿論、拓真は畏れを抱きながら、もう一度真剣であるという眼差しで訴える。
 それだけじゃなかった。帰り際、緋美子がいない隙にも、もう一声があった。

『若さだけでは、済まないこともあるからね』

 それだけ。それだけでも、正岡の父は何処か言い難そうな顔をしていた。
 きっと言いたくないだろうけれど、言ったのだろう。
 本当はじっと黙って男として大きく構えていたいだろうに、それでもやはり娘の為に言ってしまいたくなったのだろう。
 拓真にはそう感じることが出来たから……。

『分かっています』

 拓真も、その一言だけ。
 でもここでも決して正岡の父の目から逃れずに、きちんと彼の目を見て言い切ったつもりだった。

『また、来なさい。いつでも緋美子と待っているよ』

 最後に言ってくれたのは、その言葉だった。
 拓真は嬉しくなり、その夜、妙に興奮して眠れなかったものだ。
 これは『男と男の交わし合い』だから、拓真は決して緋美子には『こんなことをお父さんと話した』とは言わなかった。きっと正岡の父も、そんな話を娘が慕う男と話しただなんて知られたくないだろう……そんな気もしたからだ。
 勿論、緋美子は『お父さんと何か話したの?』と、一度は聞いてきたが、拓真は『別に』と返しただけ。そして緋美子も父親の様子だけで分かっているのか、拓真にそれ以上は聞いてこなかったし、緋美子もその後、父親とどのような話をしたとは伝えては来なかった。

 だが、それから二人が一緒に、拓真をあの庭から迎え入れてくれるようになった。
 緋美子が買い物に出ていて留守にしていても、あの父親が迎え入れてくれるようになったのだ。
 しかも緋美子が帰ってくるまで、休んでいればいいと、あのお父さんからお茶を入れてくれるので、とっても恐縮する。

『昨夜、サイレンが聞こえたけれど、拓真君の出張所からかい?』
『はい。でも、ぼやで済みましたから』
『そうかい……。くれぐれも気を付けてくれよ。どうもね、最近、サイレンを聞くと落ち着かないよ』

 そのちょっと気疲れをしている顔を見ると、拓真はちょっぴり心が痛む……。拓真を心配してくれているのも本心のようだけれど、実際は拓真に何かあって娘が哀しむことがあったらどうしようかという心配であるのも通じていた。既婚の先輩達も、そうして嫁さんの父親に『くれぐれも』とよく言われるそうなのだ。

『消防官は……。自分の命を守る訓練もしています。そして、俺も決してそうはなりたくないです。俺が、その辛さと悲しみ、母と味わっていますから』

 その時、正岡の父の顔がハッとしていた。
 拓真もドキッとした。緋美子がそこまで話していないことに、この時、初めて気が付いたのだ。

『お父さんは亡くなっていると、緋美子からそれだけ聞いているのだけれどね?』
『父も消防官でした。俺が中学の時に……』
『そうだったのかね』
『だから俺。絶対に彼女には、母が哀しんだような目には遭わせたくないと誓えます』

『ただいまー。あら!? タクの靴! タク、来ているの?』

 いつも緋美子が間に現れると、正岡の父との会話はぷっつりと切れる。
 だけれど、そんな僅かな時間に交わす言葉はお互いに貴重な物だったのか、近頃、本当に緋美子の父親は拓真を快く迎えてくれる。

 そして、三人で食卓を囲む夕べも増えてきた。
 今日はその正岡の父が、大学の仕事を終えて、薔薇庭別宅にやってくるというのだ。

「じゃあ、お父さんの好きな魚にしようぜ。俺、緋美子の煮付け、もう一度食いたいな〜」
「活きの良いお魚があったらね」
「魚が駄目だったら、俺、トンカツ!」
「もう、タクはいっつもトンカツばっかり! しかも食べる量、半端じゃないんだから。お父さんも、すっごく驚いていたわよ」

 それはもう、身体を使う仕事をする者の宿命だと、拓真は笑い飛ばした。
 徐々に空が夕暮れて来た見慣れた街並みを、二人の自転車は走っていく。

「俺の出張所じゃなくて、中央署の側に新しい喫茶店が出来ていたと思うんだ。あそこだったらきっと、緋美子の学校帰りの通り道……」
「うん……」

 先ほどまで、拓真はトンカツばっかりと笑い飛ばしていたのに。
 緋美子の声が、また寂しそうにしぼんでいる。

「緋美子?」

 自転車を止め、後ろの荷台に載っている彼女へと振り返ろうとした時だった。

「私、私は……タクとは『運命』だって信じている!」

 ぐっと力強く緋美子が抱きついてきた。

「ど、ど、どうしたんだよ?」

 彼女は、どちらかというと拓真より落ち着いていてしっかり者だった。
 歳はひとつ下でも、殆ど同い年という対等な関係だったし、逆に彼女の方が大人だったり現実的な判断をして、まだぼやっとしている拓真を助けてくれることもある。
 あのように、母親がいない家庭の中で男親と兄と共に力を合わせて支えてきた少女という生い立ちが彼女をそのように成長させていると拓真は思っていた。そんな彼女だから……そんな『運命』なんて、ちょっと非現実的で大袈裟な……と、拓真は一瞬思ったのだ。
 でも……と、拓真は思い改める。
 そう。彼女は時々、そんな普段のしっかり者の姿を逆転させるようなギャップがあることに拓真は気が付いていた。
 それが、あの『霊感』のせいなのかどうかは分からないが、時々、ほんっとうに非現実的なことを、ぽんといきなり口にすることがある。
 それだけじゃない。拓真は少し気にしていることがある。
 彼女があの出窓で、外を見る癖があること。まだ癖とは決めていないが、そうすることが多いことに気が付いたのだ。その時、彼女は『遠い目』と言うよりかは、少しばっかり計り知れない何とも例えようがない目をしているような気がする。
 拓真の心の中で、そんな彼女の姿が少しだけひっかかり始めている。ほんの片隅にひっそりと息づき始めている。
 今、その『不可思議な彼女』が、急に拓真の目の前に現れて、抱きついている……いや? 何か助けを求めているようにも見え、その思い詰め具合が今までにない気迫だったので、拓真は少しだけひやっとする。

 しかし、そんな『不可思議な彼女』をふと感じつつも……。今日、こうして彼女の不安を解消する為に『待ち合わせの場所』を探しに出かけている程、さらに徐々に黄昏れていく夕空、女心を不安にさせても仕様がないかと、拓真はすぐさま考え直すことができた。

「緋美子、大袈裟じゃないか。運命じゃなくても、俺はきっと緋美子のこと、みつけていたよ」
「運命じゃなくても……?」
「いやっ、う、う、運命だって思っている……よ?」

 きーっ。なんで俺が『運命』なんて言葉を口にしているんだと、町中の道路際で自転車を止めている場を思うと、拓真は照れくさくてしようがない。
 それに運命なんて、そこまで大袈裟に考えていない。だけれど、彼女は『運命』と言ってくれるから、それを尊重したいだけで……。しかし、緋美子の顔を確かめると、彼女は泣いていてびっくりした。

「わーっ、緋美子! 泣かなくても良いじゃないか? 明日も会えるんだ。明後日も。お前が会いたくないと言っても、俺、会いに行くぞ!」

 彼女の部屋で二人きりなら平気で言えるのに、この街でも大きな通りの一本にはいる公然としている場で叫んでいるのが、すっごく恥ずかしい。だが、そこはきちっと彼女に伝えなくてはいけない瞬間だと思ったから……。

「ごめんなさい。急に……。ただ、ちょっと『どうしても不安』で」

 そんなに俺を信じてくれないのかと言いたくなり、だが拓真はそれは彼女を責めるようだとぐっと飲み込んだ。
 だけれど緋美子はそこで涙をぐっと拭くと、いつもの落ち着きあるしっかり者の彼女の顔に戻っている……。

「もう、大丈夫。行きましょう」
「あ、ああ……」

 また緋美子が背中に抱きついてくる。
 それにほっとして、拓真は再び自転車を走らせる。
 それでも彼女の頬は、ずっと拓真の背にひっついたままだった。

「タク……ごめんね」
「いいよ。今までのように朝から一緒という訳ではないから、無理もない。俺だって緋美子の昼飯が食えなくなるのは寂しいもんな」
「でも、嬉しかった」

 彼女が落ち着いたようで、拓真はほっとした。
 しかし、緋美子は安心はしたようなのだが、また……不可思議なことを言い始める。

「嬉しかった。だって『運命』じゃなくても、私をみつけてくれていたって。私、運命じゃない方が良い……。運命じゃなくて、私が拓真を自分で選んだ。そう言いたい。でも……それでも『運命』が怖いの。だから、タク、私を離さないで。お願い」

 今度は『運命じゃない方が良い』ときた。
 こんなエキセントリックだったかなあ? と、ふと違和感を感じたのだが、それでも拓真は『私は自分で拓真を選んだ』という彼女の確固たる意志を知り、ついに頬が緩んでいた。その勢いで『ああ、離さないよ』と……。でも、外だから小声で呟いた。
 それが自転車の後ろにいる緋美子に聞こえたかどうかは分からない。
 だけれど、もう……彼女は何も言わなかった。

 緋美子がどれだけ、その『運命』とやらに怯えていたか。
 この時の拓真は知る由もなく、この年頃の女の子らしい思い込みだと軽く思っていた。

 窓辺を見つめるあの目に、本当はどのような気持ちを抱えているかだなんて……。
 まだ、心の片隅でひかっかれど、拓真はその重さに気が付いていなかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 中央消防署の側。本当に目と鼻の先に白い喫茶店を見つけた緋美子。
 女性向けの最近の流行を先取っているお洒落な喫茶店で、どうも開店したばかりの店のようだ。
 拓真は出張所勤務だから、この本部がある消防署には滅多にこなくても、それでも目と鼻の先は流石に気にする。

「近すぎる! もし、誰か上司に見られたら大変だ! いや、先輩の可能性もある」
「大丈夫よ! 消防士さんって、こういうケーキとか紅茶とか女の子がいっぱいのお店に入ってくるの? タクが言っていた署の近くの喫茶店って……あっちの方がおじさん達がランチに入っていきそうな喫茶店じゃない!」

 拓真が目星を付けていた喫茶店は、もう少し離れている場所にあるが、男の拓真が目を付けただけあって、確かにおじさんのランチ向けの喫茶店のようだ。その分、拓真も入りやすい雰囲気とも言えるのだ。
 だから緋美子の言い分にも、拓真は否定できないものがあった。

 しかしそれにしては目と鼻の先。署の横断歩道を渡った角から数軒なのだ!
 しかもこんな白いお洒落な喫茶店!? 俺、明日からここに通うのかと拓真はおののいた。

「でも、もうここから先、私の学校までなかったじゃない」
「そうだよな〜。俺の出張所方面も、緋美子が待っていられそうな店はなかったし……」
「ね! じゃあ、とりあえずでいいじゃない。明日はここね!」

 元気になった彼女に押し切られた。

 それでもこの喫茶店が後に思い出深いものとなっていく。
 そう、娘の美紅に『待っていて欲しい』と教えた喫茶店。
 拓真が東京からこの中央署に帰ってきて、ふと気になって確かめると、流行は過ぎているが佇まいも変えずに残っていたので驚いたぐらいだ。
 あまりの懐かしさに、オレンジの消防服のまま、ふうっと入って珈琲を一杯頼んでしまったほどだった。

 この街で、彼女と愛し合った夏が終わる。
 そして二人は『運命』なのかどうかは分からないが、激動の秋を迎えることとなる。

 

 

 

Update/2007.4.25
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