-- 緋花の家 -- 
 
* 君は僕の白い花 *

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3-5 惚れた強み!

 毎朝、元気よく『遠回り』。
 これはもう、拓真の日課だ。
 勤めている消防署は、独身寮からの方が近い。なのに……通勤に使っている自転車は、大きく迂回して高台の彼女の家まで向かっていく。
 非番の朝も大交替が済んだら、署から独身寮へと直行せずに、先ずは薔薇の家を訪ねてから帰宅するようになっていた。

 兎にも角にも、先ずは恋しい彼女の顔を見るのが朝の日課なのだ。
 そして今日は、署に向かう日だが、やはり早起きをしてまで、高台の薔薇の家へと向かう拓真。
 そこには、二人の間ですっかり定着した『朝の挨拶』が待っているのだ。

 真夏の朝。気温が上がる前の庭で、彼女は毎日、垣根で待っている。
 ホース片手に、彼女が愛している薔薇達に水を撒きながら待っている。

「緋美子!」

 辿り着いた緑の垣根から、拓真が大きな声で彼女の名をはっきりと呼ぶと、彼女は拓真を見つけて、とても嬉しそうな笑顔をみせてくれ、先ずは拓真が現れた垣根ではなく縁側まで走って行く。そしてコップを片手に持って、拓真の目の前に戻ってくる。
 今日も大きなひさしがある真っ白な帽子を被っている彼女。その影から、輝くばかりの笑顔を見せてくれる。
 彼女が差し出してくれているのは、『冷えている麦茶』。氷も一緒に入っているコップを彼女が拓真へと丁寧な手つきで差し出す。

「はい。今日も一日お勤め、頑張ってください」
「うん。サンキュ」

 拓真はそれを当たり前のように手にとって、一気に飲み干す。

「ぷはっ。うまい! 今日も、頑張るぞ!」

 朝、恒例になったやり取り。
 本当に『元気の一杯』。
 毎朝、彼女が用意してくれている冷たい麦茶を飲んで、そして……。

「怪我もしないよう、気を付けてね」

 なによりも。朝、身体をしゃきっとさせてくれる冷たい一杯よりも、拓真の心を朝から元気良く走らせてくれるのは、彼女のその笑顔だった。
 話しかけた頃は気後れしていた彼女も、『恋人』となった今は、拓真にははつらつとした笑顔を毎朝見せてくれる。
 あの砂丘のデート……。いや、初めてのキスをお互いに与え合ってから数週間が経っているが、その間に、すっかり二人はお互いを求め合う仲になっていた。
 といっても、まだ肌は合わせていない。
 そんな状況が出来ないのだ。

 いや、正直──。
 拓真の方は、近頃、そのことを気にすまいと思っても、気にするし。
 男である分、どうしても意識してしまう。
 今朝だって。彼女が着ている白いフリルがあるブラウスの胸元に目がいって、一人ではっとし『煩悩』を振り払うのだ。

「タク……」

 拓真は彼女を『緋美子』と呼ぶようになり、そして緋美子は拓真のことを『タク』と……。いつのまにかそう呼び合い、そしてすっかり耳に慣れてしまっていた。
 そうしてもう、ずうっと前から一緒にいるかのように呼んでくれた彼女の顔を見下ろすと、そんな緋美子はちょっと寂しそうな顔をしていたのだ。

「どうかした?」
「今日から、お父さんが出張だから。私、本家に帰って、兄さん達と留守番をすることになったの」
「あ、じゃあ……。明日はここにいないんだ」
「昼間はいるわ」
「じゃあ、明日は非番だから。午後、会いに来るよ」

 緋美子は安心したように、うんと愛らしく頷いてくれる。

「そっか。じゃあ……明日の朝も明後日の朝も、緋美子は此処にはいないってことだよな」
「そうなの……」

 途端に、彼女の表情が寂しそうになる。

「夏休みももうすぐ終わるし……。会えるの、少なくなってしまうわね。寂しい……」
「今度、大学から帰ってくる時間とか、講義の時間割とかスケジュール、教えてくれよ。非番の日は、俺、学校まで迎えに行くよ」
「私……。この家で、庭で会いたい……」

 二人の時間は、この庭で育んできた。
 それを大事に思って、寂しそうな顔をする彼女を愛おしく思う拓真がいる。
 彼女に恋している。でも、その恋が熱くてもただ突っ走るだけのものなじゃない、徐々になにかが優しく柔らかく広がっていく初めての感触を拓真は感じ始めていた。

 

 それにしても、彼女の父親が今日から出張──。

 非番の日。この家を訪ねるのが拓真の近頃の予定になっている。
 そしてそんな中、彼女の父親にも対面し、緋美子から『あの火事の後に、ちょっとお話をして親しくなった“ボーイフレンド”』と紹介してもらった。
 学者の為か、穏やかそうなお父さん。だけれど、拓真は油断はしなかった。彼女の口に頼るだけでなく、自分からもちゃんと緋美子と出会った経緯を話し、恋人ではなく彼女という『ガールフレンド』にどのような好感を抱いているかを真っ向から告げ、そこは男同士にしか分からないような言葉で『真剣です』ということをしっかりと伝えたつもりだった。
 すると、あの着物姿の親父さんは……。

『あの時の消防士さんだね。大変なお仕事。頑張ってください。まあ、緋美子は大人しい子なのですが、内弁慶で実際は割と賑やかな子でもあります。相手にしてあげてください』

 と、言ってくれただけだった。
 それは父親として『OK』とも言えない、でも『NO』とも決めつけない曖昧さがあったが、拓真は同じように感じ取って許しが出た訳ではないが、拒否された訳でもないと受けとめた。緋美子との、しっかりとした交際を築く為に『焦らない』と言うことを決心していた。
 それから、非番の日には、この家の『庭』に遊びに来る。
 縁側で、緋美子が作ってくれたものをつまんだり、彼女が絵を描く姿を眺めていたり。時には失礼ながら、その縁側でまどろむ事もある。そして、ここ重要。庭で過ごさせてもらっているだけだから、雨が降ったら雨宿りのためと甘え、家に上がらせてもらうことはせずに、潔く帰る。そんな心積もりで、一切、彼女の父親が不在の時は勿論、在宅していても、家の中には勝手に上がらなかった。
 そして緋美子も、分かっているのか、強引に誘ったりもしない。
 父親に分かってもらう為の、拓真のさりげない気遣いを、ちゃんと理解してくれているようで、拓真としては深く話さずとも通じてくれている緋美子のそんな付き合いやすさにも信頼を深めていた。

 でも、『雨が降ってきたから帰る』と言うと、庭にいる緋美子の顔から笑顔は消える。
 拓真は緋美子に『好きだよ』と胸に抱きしめ、なだめて帰る。……少しだけ、人目を避けた口づけを残して。
 その夕立の別れを、ニ、三度繰り返した。だが、つい最近の日曜日のこと。その日は休日だった為に、この家に彼女の父親が在宅していた時の夕立だった。

『きっと、夕立よ。すぐに止むわ。雨宿りぐらいならいいじゃない』
『駄目だ。帰るな』
『……私、濡れたままここにいる』

 そうして雨宿りもしないで、直ぐに止むかもしれない雨の中帰ろうとする拓真を、緋美子はそうしていじらしく引き留めようとしていた。彼女らしくない『ごね方』だったと思う。
 それを知ったのか、娘の気持ちを眺めていたのか。二階の書斎に籠もっているという緋美子の父親が庭先の縁側に姿を現した。そうして帰ろうとする拓真に言った。

『雨宿りぐらいしていきなさい。夕立でしょう。直ぐに止みますよ』

 そう言って、家の中に一度だけ入れてくれた。

『良かったら、今度、娘と一緒に食事をしましょう。緋美子、何か作ってあげなさい』

 それが家に入れてくれた日の夕方。雨が止んで帰ろうとする拓真に『正岡の父』が笑顔で言ってくれた言葉だった。
 それははっきりとした言葉でなくても『二人の交際は認められた』と思っても良いぐらいの言葉だったと、後で二人でそっと喜んだ。
 でも、拓真はまだ安心はしていない。せっかちな性格の自分としては、驚くほどに『慎重』だと思っている。
 それだけ、緋美子を手放したくないのだ。大事にして絶対に彼女の恋人であることを認めて欲しいのだ。そこは緋美子も分かっているから、あんなに拓真を恋しそうに引き留めても、ぐっと我慢してくれているようだ。
 寮の男先輩が言うには、こういうところで女性とすれ違ってくることもあるとか。恋に燃えて、周りも見えなくなって、彼女に言われるままに親をないがしろにすると、いざという時に恋人の親に辛くあたられるという話は良く聞かされていた。だから彼女が寂しがっても、一線を引けるところは引いておかないと後々やっかいになり、親とは上手くいかない彼女とはこじれると、泥沼になっていくのだそうだ。女は寂しがる生き物。だからって、それにつられちゃいけない。本当に好きなら、そこはぐっと男心は堪え、彼女を上手く安心させてやるコントロールも必要なのだとか。そしてこの時に手っ取り早く安心させてあげられるのが『そのうちに、結婚するつもり』という言葉。そして先輩達は、『一番、言ってはいけない言葉』とも言っていた。
 そんな話を酒を交えて聞かされていた頃は『めんどくせー。俺、恋愛御免』とか拓真は思っていたのだが、今となっては、あの先輩達の失敗談に愚痴。すっごく役に立っていた。
 でも、緋美子はそれほど、我が儘は言わない。
 でも、先輩達が言うように、拓真が帰る時は、本当に寂しそうな顔をする。

 しかし、正岡の父は、そんな拓真に敷居をまたがせてくれるところまで認めてくれたのだ。
 それがつい最近の事。それから正岡の父には会っていないから、『娘と一緒の食事』はまだ叶っていない。
 しかし、その父は出張とかでこの家に通えなくなるらしく、その間は緋美子も実家に帰るという。

 

 それでこの朝、父親が出張に行くからと拓真に告げる緋美子の、寂しそうに俯く顔。
 ここでも拓真は、先輩達の言葉の『寂しそうなその顔につられるな』を忘れずに頭の中に反芻させつつも、先輩達は口では言っていなかったが『この可愛さに負けたんだ』と拓真の場合は大いに思った。
 でも……拓真は素直な溜息をこぼした。それは『めんどうくさい』の意味ではなく……。

「なんだ。緋美子の麦茶が飲めない朝か……。俺も寂しいよ」

 そう言うと、彼女がちょっとだけ笑顔に戻る。

「タクもそう思ってくれるの? だったら、私、我慢する──。午後は会えるんだし」
「うん、そうだ。そうだ。……やっぱり、お父さんやお兄さんの心配、俺も分かるよ。お父さんが留守の間、緋美子が一人で留守番の間に、何かある方が俺は嫌だな。夜は危ないから、実家に帰って兄さんとお姉さんと過ごした方が俺も安心だから」

 心よりの切実な心配。本当に彼女の父に兄の心配は、拓真の心配そのものでもある。
 緋美子はしっかり者だが、それでもやはりか弱い女性だ。

(俺が、一晩一緒にいられたら……)

 と思い、拓真は頭を振る。
 それはまだ駄目だ。
 彼女の父親のお誘いがあった食事をして、気心知れて、そして『二人はお似合いの恋人』で『うちの緋美子には拓真君しかいないね』と言ってもらえるまでは……。しかも留守の間にそんな目を盗むようなこともしたくない。それに緋美子は、本家になる実家に帰るのだから、安心ではないか。

「じゃあ、明日の午後な」
「うん……。行ってらっしゃい」

 明日の午後はともかく。
 明後日の朝、明々後日の朝。この恒例の『朝の顔見せ。お見送り』が出来ないのは、緋美子にはかなり苦痛のようだった。
 でも、だ。大学が始まれば、緋美子はこの家からは通わなくなるのだ。だから、これは夏のひとときに過ぎない。恋人としての付き合いは続いても、これは季節的に出来ているだけのこと。もう夏だって終わるのだ。そろそろ、その気持ちの切り替えだって必要だと拓真は思い、心を鬼にして自転車に乗ろうとした。

「……頑張って。怪我、しないでね。行ってらっしゃい、タク」

 同じ事をさっきも言ってくれたのに。
 今度の見送りの言葉は、妙にしおれている。

「そんな顔、しないでくれよ。俺、ちゃんと会いに来るよ」
「朝も?」
「違うって。明日の昼! 何か食わせてくれよな! じゃあな」

 『何か食わせてくれ』の一言に、幾分か緋美子に笑顔が戻った。
 拓真も安心して、ペダルに足を乗せ、彼女への愛しさを振り切るようにして自転車を発進させた。

「行ってらっしゃい!」

 今度は元気ないつもの声が届き、拓真は嬉しくなって肩越しに振り返り、白い彼女に手を振った。

 彼女と二人きりでゆっくりと過ごすチャンスかもしれなかった。
 だが、二人で過ごす方法なんていくらでもある。あの家でなくても……。

「そういえば。あの家から出たデートって……」

 あの砂丘のデート一度きりだったと、拓真は振り返る。
 緋美子は『どこか行こう』とは余り言わない。彼女はあの家で静かに過ごすのが好きなのだそうだ。
 拓真も、そんな彼女の傍にいられたら、それだけで大満足。中でも彼女が赤い花を描いている姿が一番好きだった。その時の横顔に、真剣な眼差し。彼女が愛しているものを見つめる目。……俺のことも、あんなふうに見つめてくれているのだろうか? そう思うと、拓真はとてつもなくドキドキするのだ。

 なによりも、拓真もどうしてか、あの薔薇の家の虜になりつつある。
 あの庭で、夏の午後の昼下がりを、もの静かな恋人と過ごす時間は、日頃の激務も過酷な訓練も忘れさせてくれる。
 白い彼女が異世界に拓真を連れて行き、くつろがせてくれるから。どこにいかなくても、二人はそれで満足しているのだ。
 そして時々、あの穏やかなお父さんがちらりと顔を覗かせる土曜、日曜。
 まだ言ってはいけないかも知れないが、母を信頼できる男に預けてしまった息子としては、久しぶりの家族感覚なのだ。

 そんな安らぎを拓真は大切にしたいと思っている。
 自分のためだけじゃない。愛する緋美子のため。そして、彼女が愛する家族も、傷つけてはいけないと思っている。
 もしかすると、そんなところは、母の再婚相手のじっくりとした距離感を長年見てきたせいもあったかもしれない。
 あの男性は、本当に拓真と母、死んだ父の形を大事にして付き合ってくれていた……。こちらの母子を傷つけないようにと、強引なことはしなかったし、拓真の大事な囲いには土足で上がってきたことは一度もない。

「元気かなー。九州は、ここより暑いのかな」

 盆には帰ることが出来なかった。
 元より、そこは拓真の故郷でも何でもないのだが……。
 それでも急に、母と新しい義父に会いたくなってしまった。

 もしかすると、こうした緋美子の家との付き合いは、あの義父から教わったのかもしれないと、ふと思った。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 翌日、大交替を済ませた拓真は、いつも通りに自転車に乗って……。

「あ、そうか。今日、彼女は実家だった」

 と、気が付き、いつの間にか『朝の習慣』になっている『薔薇の家通い』へと向かう車輪を、独身寮へとUターンさせた。
 出勤をする日も、大交替をした非番の日も、先ずは『高台の薔薇の家』へ──だったのに。
 急に、ペダルが重くなる。溜息が出る。彼女のあの笑顔が浮かぶ。

「そうそう。午後、会えるのだからいいじゃないか」

 でも昨日の朝の、緋美子が見せた寂しそうな黒い目を思い出す。
 あの綺麗な黒目が、じいっと拓真を見つめて見つめて、見つめている……あの濡れた黒目。
 それを思い起こすだけで、拓真の胸は焦がれる。きゅうっと締め付けられる。
 どうして? 午後、あの庭で会う約束をしているじゃないか。きっと緋美子は拓真が好きな『炒飯』と彼女特製の野菜中華スープを作って待っていてくれるはずだ。

 一眠りし、すっきりしてから彼女に会いに行こう。
 ……そう思うのに。

「行こう。行くだけだ……」

 寮へと向いたはずの自転車の前輪が、いつも通りに高台住宅地の道筋へと向いていた。
 そうだ。彼女がいなくても……。あの薔薇の庭を見ただけで、きっとそこには恋しい彼女の顔が今よりももっと鮮烈に浮かぶはずだ。
 ただ、それだけのために拓真は自転車を走らせる。いや……もう、違う。走っているのは拓真の心だ。自転車より先に先に、拓真の心は拓真の目の前を疾走している。いるはずもない彼女を求め、ただただその気配を側に感じたいだけのことで。
 こんなに一生懸命になるのは何故なんだろう? 恋をすることはだいぶ分かった。でも! それでも、どうしてこんなになれるのかは、まだ分からない。
 いつの間にか彼女の何もかもが傍にあって、いつの間にか彼女の何もかもが拓真の心を占めている。庭先で共にしている時間でさえも、彼女の姿は存在は拓真をどんなことも切なくさせる。

 時に、その拓真の頭の中で、手が彼女へと伸び、手先が指先が彼女に触れたくてどうしようもなくなる。
 優しいキスも、慣れてきた深いキスも。彼女を優しく抱きしめることも、彼女をどうしようもなく壊れるくらいに抱きしめることも。
 もう、拓真の中では『それだけじゃ、足りない』のだ。
 拓真が自然と欲していることは、年頃の青年には当たり前の、健全なことだ。

 俺は細かいことは、あまりよく分からない。
 恋とか愛の境目なんてまだ分からないし、分からなくても良いと思う!
 ただ、『会いたい』のだ。
 ただ、彼女を感じたいのだ。
 それだけ!

 その思い一つで、拓真は晩夏の強い日射しが照りつける高台の坂を、今日も登る。いつものように登る。
 たとえ、そこにいつもの白い花がなくても……。

 やがてその上り坂が終わる場所、砂丘の浜辺が見えるほどの高さにあるあの家の垣根が見えてくる。
 そして青空の下、朝の爽やかな風に乗って、拓真の鼻先にいつものように、甘い花の香りが届いた。
 しかし、拓真はその目の前に来て、ふと自転車を止めた。
 耳を澄ませば、水の音。目を凝らせば、朝日に散って煌めく水玉。そして、真っ白いワンピースを着ている彼女の後ろ姿。

「ひみこ……?」

 まだ垣根に辿り着かないその場所で、驚きのあまりに小さく呟いたのに、いつものように彼女の手先は拓真が来たのを知ったようにして止まり、振り返った。

「タク……?」

 彼女はホースを投げだし、垣根に走ってくる。
 そして拓真は自転車を放り出し、いつもの垣根へと走った。
 そこでいつもの位置で向き合う二人は、何故かお互いに驚きの顔を見せ合って息を切らしていた。

「緋美子、どうして? 実家に帰っていたんじゃ……」
「タクこそ、どうして? 朝は来ないって……」
「緋美子こそ、何故? まさか……。昨夜……」
「ううん、実家に帰ったわ。でも、落ち着かなかった。一晩中、もうあの家が自分の家じゃないみたいに、ここに来たくて堪らなくて……! 朝早く来てしまったの」

 途端に、彼女が少女のように泣き出してしまい、拓真は驚き困惑した。

「な、なんで泣くんだよ?」

 拓真と会うこと、恋すること、付き合うこと。そんなに苦しいこと、彼女の負担になっていることなのかと拓真は不安に思った。
 もし彼女が拓真のことを、この短期間でそこまで思ってくれるようになっているとしたらこの上なく嬉しい。
 でもそれによって、とてつもなく彼女の心に負担をかけているとしたら、これからどうして良いのか拓真も分からなくなる。
 でも、ぐずぐずと少女のように泣いていた彼女が、急にその綺麗な目で拓真を痛いくらいに強く強く見つめてきて、どっきりとさせられる。
 それは、恋する者のときめきなんてものではなくて、どこか切羽詰まった緊張感のようなもの……。その目で拓真をしっかりと捉え、今度はいつもの落ち着いている女性の顔で緋美子は言った。

「好きだから、泣いているの」

 その凛とした顔、でも切なさをこぼす涙、そして愛らしく濡れた瞳で見つめられ、拓真は彼女に一目惚れした時の衝撃以上の波動で胸を撃ち抜かれた感覚に陥った。
 そして緋美子はまだ言う。何か確信を得たように言った。

「……会いたくて。会えないのが苦しくて。貴方が来ないと分かっていても、それでも私、会えるような気がして待っていた」

 それはとどめの一発だったような気がした。
 それ、俺が言いたかったこと、俺が感じていたこと、だからここに俺がいるって彼女に伝えたかったのに。
 彼女に先に言われてしまった気分だった。

「タク、やっぱり来てくれたのね。私も、貴方が大好き」

 その一言を聞いた時、拓真の身体中がかあっとなった。
 彼女と上手に付き合っていこうとか、この家に来るために守らねばならぬことがあるとか、大人の顔で冷静に距離感を保って誰も傷つけないようにとか──。そんな彼女を大切に想うが為の、拓真の『賢い恋するための冷静な考え』、『大人の考え』。
 それが、粉々に砕け散ったと思った。
 先輩達が言っていた『失敗談』は『失敗なんかじゃない』と思った。
 何故なら──『本当の恋に冷静なものはなし! 冷静なうちは恋じゃない!』。だから、皆、恋をして失敗をするんだって、誰かを傷つけてしまうのだって、やっと分かったのだ。

 だけれど、拓真はここで強く拳を握った!

「緋美子!!」

 初めて会った時、訓練で出したような大きな声で彼女に話しかけて驚かせた。その声で、拓真は叫ぶ。
 緋美子がビクッと硬直し、まるで拓真に従えられたようにして『はい』と答えている。
 拓真はそんな緋美子を目の前にして、ついに足を振り上げ、そこにある緑の垣根を大股でまたいでいた。
 すぐ目の前に、体格の良い男が力強く垣根を越えてきた姿に、緋美子は固まっているだけ。だが拓真はそんなか弱い体つきの緋美子にさらに向かう!

「緋美子、もう、俺は止まらないぞ」
「拓真……?」
「嫌なら止めてくれ。今、すぐ! この家の垣根を越えてきた男なんか、突き飛ばしてくれよ!」

 まるでそこにいるか弱い女性を襲うかのような勢いで、拓真は緋美子の小さな肩をがっしりと掴んでいた。
 あまりの力だったのか、彼女が痛そうに顔を歪めたけれど、拓真はやめなかった。

「今までは、惚れた弱みがあった。でも、垣根を越えた俺は違う。これからは、惚れた強みで、お前とどんな時も一緒にいたいし、それを守りたい!」

 自分でも驚きの『熱血』だったと拓真は思う。
 まさか、こんな言葉が出るだなんて思わなかった。
 それは彼女に声をかけた時とは違う、今度こそ本当の『惚れた告白』だと拓真は思った。

 その熱き声はどう届いたかだなんて、拓真にもう不安はない。
 そこには頬を染め、瞳を濡らし、唇を艶っぽく潤ませ、拓真を熱く見つめ返してくれる彼女の顔があった。
 たとえ、その顔をしてくれなかったとしても、この愛を告白した拓真に後悔はない。
 目の前には『愛しい人』だけ。他の沢山のしがらみは、『後からドンと来い!』。惚れた強みでなんでもはね除けてやると言う『決意』が出来た瞬間だったと思う。

「タク、止めないわ。私のところに来て……」

 愛しい彼女が、そのまま拓真の胸に飛び込んできた。
 拓真ももう迷いはないから、そのまま彼女を抱きしめた。

 暫くお互いの熱い想いをぶつけ合い、抱きしめ合う中、それこそ自然と、二人は薔薇の家へと手を繋いで歩み寄っていった。
 一線を守り通していた拓真は、白い花につられるままに、ついにその家に踏み入れる。

 彼女に『本当にいいのか?』なんて、聞かなかった。
 蔓薔薇がちらちら風に揺れて見え隠れする窓辺がある二階の部屋。
 朝早く、二人はそこで静かにお互いの衣服を解き合い、肌を見せ合う。

 出窓からは、二人が歩いた砂丘の海が見える。
 そこからそよいでくる風に、彼女の長い黒髪が揺れる。

「緋美子……」

 その耳元に口づける男は、初めてだったけれど、それほど緊張はしていなかった。
 ただ目の前に紛れもなく存在する『白い花』が、本当に俺だけの『女』になろうとしているその瞬間を迎える感動に震えていた。

 

Update/2007.4.5

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