彼女はスケッチブックを眺めている拓真を、ただ俯き加減に黙って見ている。風の音がするだけの、とっても静かな向き合いだった。
どうしてか。いつもはどちらかというと『うるさい』とか『落ち着きがない』と言われる拓真なのだが、この落ち着いている彼女といると、心がふうっと鎮まり穏やかになれる。
「同じ薔薇、同じ赤い色なのに、いろいろな花に見えますね」
率直な感想を述べると、彼女がまた嬉しそうに笑ってくれた。
「そうなの。皆、違うの。だから、それを書きたくて」
初めて、年相応の可愛らしい口調で答えてくれたせいか、拓真の心臓はまた落ち着くなく踊り出しそうだった。
微笑んでいる彼女、そして薔薇の匂い、風にそよ長い黒髪──。清楚な大和撫子を目の前にしてしまった拓真はまた声が出なくなる。
(い、言わなくちゃ。好きだって!)
告白をしに来たんだ。
お喋りをしにきたんじゃないんだ。
まだ言っていない。本当に伝えたいことがあって、ここまで来たことを……。
「あの、よろしいですか?」
もう最後の絵も見終わっているのに、いつまでもスケッチブックを手にして返してくれない拓真に、彼女が気後れした顔で手を差し出している。
「あ、ああ。はい……有難うございました……」
返したら、なにか終わってしまうのではないかという気持ちになった拓真は、惜しむように彼女に返した。
しかし、彼女は受け取ってもそこに立っていてくれた。今度は自分でスケッチブックを手にして眺めている。
「私、『ひみこ』という名前なんです。ヒミコの『ひ』は、赤い色の一つである『緋色』の『緋』。亡くなった母が付けてくれたんです。きっと似合うだろうと。でも、私も思っているんです。私、赤色、ちっとも似合わないって。だからかしら? 赤い花ばかり描いてしまう……」
急にすらすらと自分のことを話し始めた彼女に、拓真はもう……硬直していた。
彼女が、話してくれた! それだけじゃない。名前まで、そして名前の由来まで、そして赤い花を描いている訳も……。この初めて話した拓真に!
『じ、自分は……鳴海──』
自分も名前を言わなくちゃ、言わなくちゃ! そう思って落ち着かない心に振り回される中、なんとか口を開けたのだが。
「そう思っていたこと、少しばかりコンプレックスだったのかしら。貴方に白いと言われて、とても嬉しかったです。私にも色があったのですね」
そして彼女が、あの綺麗な黒い瞳で、拓真をとても真剣な目でじいっと見つめた。
拓真はどっきりとして、言おうと開き掛けていた口がまた、ぎゅっと閉じてしまう。そして激しく動く心臓の方がばくばくと、なにか訳の分からない賑やかなお喋りをして騒いでいるだけだ。
目の前に、一目惚れした憧れの彼女が、拓真をじいっと見ている。
「有難う。本当に嬉しかったです……」
もう、目眩がしそうな程に──。
その眼差しも、声も、そして……自分が率直に言ったことで彼女が喜んでくれたことも。
なにもかもが舞い上がってしまっていた。
『好きです』──。その一言が出てこない所か、もう何処かに行ってしまった。
でも、それで良かったような気がした。
そうだ。なにも慌てることはない……。こうして感じたことを、『好き』という気持ちを一言じゃなくて、こうして彼女に伝えていきたいと思った。
「俺、鳴海拓真と言います」
「なるみ、たくま、さん……ですね」
彼女が初めて拓真の名を、笑顔で呟いてくれた。
それにも心臓が激しく動き、拓真の声はやや震えていたような気がした。
でも、拓真は正直に今度は彼女に真っ正面に向かい合うように言った。
「また、スケッチを見に来ても良いですか? 俺、もっと『ひみこさん』の事が知りたいです」
声は震えていたかもしれない。
でも、自分にしては落ち着いて言えたと思う。
彼女の綺麗な濡れているような真っ黒い瞳を、真っ直ぐに見つめて……。その『好き』という密かな一言を訴えるかのように、拓真は本当に真っ直ぐに彼女を見つめた。
そしてとても緊張する。ただ単に通りすがった一度だけのお喋りなら許されても、また会いに来たいとなると、彼女もどう思うだろうか!? これは『好きです』と告白したのと同じような心境。拓真は目を微かにつむった。
だが、目の前の彼女が、にっこりと微笑んでいる。
「どうぞ。お待ちしております」
その快い返事を聞き届けて、拓真はこの日マックスの満足感を得てしまった。
彼女に『また』と手を振ると、品の良い話し方ばかりだった彼女が、また一瞬警戒を解いてくれたかのように『またね』と可愛らしく呟いて、同じように手を振ってくれた。
もう胸がいっぱいだった。
唐突に『好きです』と突撃する以上の、もっと欲しかったものが得られたような気がした。
赤色の名前、彼女の色、それを喜んでくれた彼女。俺の気持ちで喜んでくれた彼女。
もう飛んで跳ねて、大声で叫びたいところを、拓真は楚々と姿勢を正したまま、その薔薇の家を後にする。
玄関の表札を見ると『正岡』とある。
──『正岡緋美子』か。と、拓真は心の中でうっとりと呟き繰り返しながら、坂を下りる。
坂を降りきったところで、拓真は拳を握って空に掲げる。
「よっしゃ! やった、俺、やった……!」
身体全体が、武者震いを起こしている。
彼女をもっと知りたい。彼女にもうすぐ会いたい。もっと喋りたい。
きっと明日も来てしまうだろう、と。
・・・◇・◇・◇・・・
本当に、これこそ毎日が薔薇色だ。
拓真の心の中は、薔薇、緋美子、緋美子、薔薇、緋美子、薔薇、薔薇──。
頭の中は桃色で、そして鼻先にはいっつも彼女の髪から香ってくる微かなシャンプーの匂いと、薔薇の匂いがつきまとっている。
もうもうと拓真を取り囲む白い煙。
そしてそこに横たわっている人。
「要救助者、発見!」
煙を吸い込まないように低い姿勢でそこに辿り着く。
ロープを掛け、しっかりと結び……そして……。
「い、行きます!!」
「ま、待て……なる、み……」
「よっしゃーーー!」
雄叫びをあげ、拓真は窓枠に足をかけ、ロープを握って外側の壁へと飛びついた。
その途端だった。『ぼた』という鈍くて重たい音が聞こえ、気がつくと肩が軽くなっている。
「やっちまったな。要救助者、落下。知らないぞ、俺」
「ひええっ」
目の前、拓真が足をかけている窓には冷ややかな顔をした先輩、正樹がいる。
そして、拓真は恐る恐るぶら下がっている窓の下を見た。
そこには、いつもの『田端小隊長』が、拓真が落としてしまった訓練用の要救助者人形の足下にもの凄い顔で立っている。
そして彼は無言で拓真を睨みつけ、『早く降りてこい』とばかりに、指先をくいくいと拓真に向かって動かしている。
「最悪の失敗だな」
流石の正樹先輩も、こんなミスを自分と組んでいる時にやられたためか、かなり不機嫌な顔だった。
拓真は恐る恐るロープを伝って降りた。
「タク、ここに立て」
「う、うっす……」
鳴海じゃなく『タク』と愛称で呼ばれた時の方が、拓真はゾッとする。
隊長としての顔じゃなく、人として先輩として男として怒っている顔だと思ったのだ。
「歯を食いしばれ!」
小隊長の声には洗脳されている拓真。条件反射で言われたとおりに、ぎりっと奥歯を噛みしめる。そして何が起こるか解っていたから、身体も固くして構える。
案の定、小隊長の拳がガツンと一発、拓真の頬に命中した。
「訓練だと、馬鹿にするな! 訓練で出来なければ、現場でなんか出来るものか! お前、もう、やめちまえ!」
「面目ないっす──」
拓真は目が覚めたように、姿勢を正した。
痛くて、頬を押さえたいが。でも拓真は反省の意を込めて、そこには触れようとしなかった。
そんな拓真の意を汲み取ってくれたのか、小隊長はいつものただ厳しい顔に戻った。
そして、拓真が落下させた要救助者人形に跪いた。
「どの人も、生きている、生きる可能性がある人達だ。大事に扱え。必死になって接しろ! 俺達はその僅かなことでも、生死を左右される境界線におかれた人達と運命を共にする大変な瞬間に立ち会っていることにもなる。今、ここで落下したこの方と共に、お前の心も落下したと思え。その時はお前の消防官としての心、いや人としての心も重傷、酷ければ、『死亡』もあり得るぞ」
その言葉に、まだ経験の浅い拓真はゾッとした。
要救助者がもし……今のミスで死亡となれば、拓真だって平気じゃない。むしろ、隊長が言うように『精神崩壊』してしまうほどに悔やむことになるだろう。
「一人には、大事な家族がいるはずだ。このお前が落とした要救助者も、そして『お前も』な」
隊長の静かでも厳しさに燃えている目が、拓真に強く訴えようと見据えている。
その目に、拓真はいつだって固まる。
お前にも……。大事な家族がいるだろう? その問いに拓真は、今は離れて暮らしている母を思い、そして次には……。急に、そこに横たわっている人形が、髪の長い若い女性に見えてくる。そう『緋美子』だった。──俺はたった今、彼女を粗雑に扱って、安易な気持ちで救助をしようとして落下させたのだ、と。そう思うと、急に気が引き締まる思い。
拓真の目に涙が浮かびそうになり、でも、職務中なので必死に堪えた。
「心得ました。気をつけます」
そう言うと、田端小隊長から安堵の溜息が聞こえてきた。
そしてずっしりとした彼の手が、拓真の肩を叩いた。
「いいか。胸を張れる誇りを持てる男になれ」
「はい!」
敬礼をした拓真に、小隊長はやっと笑顔を見せてくれた。
この後は、きちんとこなした。スピードじゃなく、落ち着いて、確実に、厳かな気持ちで──。
拓真が肩に背負った重たい要救助者の人形は、今は『母』と『緋美子』を背負っている気持ちだった。
──父はいない。
父親は、救助中の事故で死んだ。
つまり殉職。父親も消防官だった。
「立派な説教だったなあ。田端」
「……大隊長。いえ、俺が立派とかはないです」
また壁を登る拓真を大隊長と田端隊長が目を細めて見守っていることを、拓真は気がつかない。
「俺も若い時、あいつの親父さんにそう教わったんです」
「鳴海か……。残念な事故だったよ、あれは」
「県内大会でつねに一位を取っていた隊員でしたのに……俺の憧れでした。まさか息子をこうして部下に持つとは……」
拓真にとって、田端は兄貴的存在でもあり、初めて厳しく鍛えてくれる男性だった。
まさか、その隊長が自分の父親の昔の部下だったとは……。拓真が知るのはだいぶ後のこととなる。
彼はいつしか拓真の父親のような良き相談相手となっていく。
だが、まだ何も知らない若き拓真。
必死だった。ヒヨッ子の自分には、今はそれしかない。ひとつ、ひとつを確実にだ。
「それにしても。あの落ち着きない小僧を、あそこまで落ち着きなくさせる女の子。見てみたいなあ」
「ほんとうっすよね」
その日も遠くはなかった。
それでも、もう少し先の話。
拓真はまだ、彼女に『好きです』と言っていない。
・・・◇・◇・◇・・・
「あら、拓真さん。ここ、赤いわよ」
次の朝、大交替を終えて、拓真は真っ先に緋美子の元に向かった。
彼女も待っていてくれるのか、ここのところ、毎朝、庭にいる。
雨の日も、傘を差して待っていてくれたこともある。そういう拓真も雨の日も、自転車で行ってしまう。
「ああ、うん。訓練でへまして……。でも、隊長の愛の鞭だからさ」
「そうなの。痛い?」
「いいや。俺、この痛さ、忘れないな」
今日も垣根を挟んで、ひとときのお喋り。
まだその垣根を越えたことはない。
でも、拓真は自分のことも知ってもらいたく、消防官としてどのような日々を過ごしているかを良く彼女に話す。勿論、昨日の訓練のことも。
「素晴らしい隊長さんなのね」
「そう。俺が今、尊敬している人」
「本当に、失敗が許されないお仕事なのね。頑張ってね」
「有難う」
恋をしていることで、落ち着きがなくなっていたことを悟った失敗だった。
でも、やっぱり……。彼女に会いたいこの気持ちの熱さはどうしても止められない。
まだ腫れている頬を押さえながら、その痛みを思い出し、拓真は職務中は彼女のことは心の片隅に置くようにしていこうと思うようになった。
その分、彼女をこうして目の前にしている時は、しっかりと彼女だけのことを考えたいとも思えていた。
その緋美子が『ちょっと待っていてね』と、庭を駆けて、家の中へと消えてしまった。
やがて、彼女がまた拓真の目の前に走ってくる。
「はい。これどうぞ」
ガラスのコップに『冷たそうなお茶』。彼女はそれを手のひらに乗せて、拓真に差し出してくれていた。
「有難う」
「今日も暑そうね」
「うん。帰って一眠りかな」
そのお茶を遠慮なく手にして、拓真はひとくち頂く。
大きな氷が浮かんでいるそのお茶は、本当に冷たくて、そして拓真が味わったことがない『お洒落な匂いと味』がした。
「ミントの紅茶なの」
「うん、すっきりする」
「でしょう? 元気出してね」
まだ数回しか会っていないのに……。
彼女はもう、すっかりうち解けてくれ……。むしろ拓真の方が彼女にリードされていることもしばしば。
だが、お陰様で、拓真も彼女と自然体で接することが出来るようになった気がする。
「あ、でも。うちのお兄さんはそれ、好きじゃないの。やっぱり麦茶が良いとかいって。お父さんは、喜んで飲んでくれるのよ」
「は……。なるほど」
男の拓真には、香りのあるないはあまり関係なく、飲み慣れているのが……と、思っていると、目の前の緋美子が可笑しそうに笑っている。
「正直に言って。俺も麦茶がいいなって……」
「いや、そ、そんな。これも美味しいよ」
「嘘。本当のこと言ってよ」
緋美子がちょっと拗ねて怒った顔。
そんな顔をされると、惚れた弱みの拓真にはちょっと困る顔。
でも……。そんな顔も、可愛く見えてしまうから仕様もない。
それに、そうだ。これから、彼女と向き合うなら、こんな誤魔化しは駄目だ。
「麦茶とか飲み慣れているのがいいな」
「でしょ。そうだと思ったわ。『明日から』は、麦茶にするね」
『明日から』──。彼女は毎日会う気があると分かって、拓真はいつだってそんな彼女から言ってくれる言葉に感動している。
本当に、もう彼女が好きで好きで堪らない毎日になってきた。
それに彼女。大人しい子かと思ったけれど、慣れると結構快活に喋るし、性格もさっぱりしていて付き合いやすかった。ただ本人も言っていたが『人見知り』してしまうタイプのようだった。
(俺だけだと良いんだけれどなあ)
なんでもかんでも、初対面の男とほいほいと気軽に喋る見るからに快活な女性も悪くはないが、少なくとも緋美子にはそうなって欲しくないなと勝手な願望。
でも当初抱いていたイメージを彼女が少しずつ壊していっても、拓真は全然幻滅しないし、嫌じゃなかった。
どうしてなんだろう? 勝手なイメージを押しつけていた気もしていたが、でも、彼女を知れば知るほど、本当に好きになっていく自分がいた。
これが、恋?
それとも……あ、……い、……。
拓真は首を振る。
『愛』だなんて大袈裟な。
まだ、拓真には分からない。
でも『恋』、本当にこれが『恋』。熱い想いが彼女と触れあう度に膨れ、そして深く愛おしくなっていく。
白い花が明るく笑うと少しだけ、赤い花にも見えるようになったこの頃。
「ご馳走様」
拓真の白い花はしっとりした様子のまま、今はキラキラと笑っている。
そんな彼女を見つめながら、飲み干した紅茶のグラスを彼女に返す。
「明日も出勤? 同じ時間?」
明日の朝も、ここへ遠回りに来る拓真を待っているという意味。
「煎れ立ての麦茶を、うんと冷やして待っているわね。今日はゆっくりおやすみなさい──」
拓真の手からガラスのコップを受け取ろうとする緋美子。
そんな彼女が愛おしくて堪らない。
こんな俺。こんな俺なのに──。そんな笑顔で向き合ってくれて、毎日、毎朝、待ってくれている。
コップを渡す手と、コップを受け取る手が重なり合う。
自然に触れあっただけだから、彼女はなにも気にならない顔をしている。
だからその手が、すうっとコップごと拓真から離れていこうとしていた。
その手を拓真はぎゅうっと固く繋ぎ、握りしめた。
「緋美子さん」
「……たく、ま……さん?」
「ひみこ、さん……」
彼女の小さくて柔らかい手の上に、拓真の大きな日に焼けた手が重なる。
言葉にならないこの胸の高鳴りとときめきと、そして何とも言えないこの高揚感。
風の音、蝉の声、朝の日射しに照らされているのだけれど、まるで二人のそこだけが、一瞬何もない真っ白な世界に包まれたかのような気持ちに高まる。
拓真だけ? 拓真だけがそう思っていて、彼女はまったくいつも通り? 彼女にもこっちに来て欲しい。こんなに真っ白で静寂な清らかにさえ思えるこの胸の思いが溢れそうな切なくて熱い世界に。
拓真の手が、本当にそうするように緋美子の手を自分の方に引き寄せようとしてた。
彼女の頬に、赤い薔薇が咲く──。
やがて、握りしめている彼女の指が一本だけ動いて拓真の手から抜けていく。だが、その指はもどかしそうに、一本だけが、拓真の指に上から絡みついた。僅かな、ささやかな、彼女の愛情表現?
でも、それだけで。駄目だと拓真は思った。
本当に頭の中、真っ白になった。
気がつけば、彼女の足下にガラスのコップが落ち、拓真は緋美子をそっと抱きしめていた。
「好きです。俺、貴女が堪らなく好きです」
やっと伝えられた。
また彼女の顔は見られなかった。
彼女はただ拓真の胸に頬をつけているだけで黙っていた。でも、身体は柔らかに、拓真の腕に預けてくれている。
緑の垣根を挟んで、二人はそっと寄りそう夏の朝。
でも、もうすぐ……その垣根を越えようとしていた。
今度の一日休暇の時。
彼女と出かける約束をした。
砂丘に行こうと、約束をした。