今日も明日の朝まで二十四時間勤務だ。でも拓真が直ぐに向かうのは、職場の消防署ではなく、あの薔薇の家だった。
自転車を飛ばして、そしてあの高台の坂を懸命に上る。
夏の朝は早いから、もうこの時間は太陽も燦々と輝き、蝉の声がうるさい。
真っ青な空、今日も快晴。そして、やがて香るあの花の匂い。
拓真の胸が高鳴る。
彼女と初めて言葉を交わした数日後。夜勤が明けた大交替の後、拓真は同じようにあの庭先をめがけて自転車で来てしまった。
するとその時の彼女は、ホースを持って庭中に水を撒いていた。
その日は、爽やかな水色のブラウスに真っ白なスカート姿。そして洒落っ気のない畑仕事用かと思われる大きな麦わら帽子。
でも……。朝の日射しの中、きらきらと煌めきながら撒かれる沢山の滴の中で、彼女もしっとりと白く輝いて見えた。
この時、拓真は思った。
──綺麗だな。
そんなにぱっと目を引くような美人ではないのだけれど、そのしっとりとした佇まいに、あの時の楚々とした仕草、そしておっとりとしていそうな雰囲気。拓真にはそれがとても気になって、そして、そんな女性がいいなと常に思っていたから気になった。
でも、思った。
──綺麗だな。
恋をしていると、やっと分かった。
きっと今日も水を撒いているはず。
今から出勤だけれど、遠回りをしてまで、朝早い薔薇庭へと向かう拓真。でも一日置き……。毎日だなんて、気がつかれたら嫌だなと思って……。本当は毎日行きたいけれど。それでも非番の退屈な昼下がりに、ふと来てしまうこともある。私服の時もあるし、こうして消防の作業着のままで行くことも多い。
茹だるような暑さ。
ほんっとうに、うるさい蝉の声。
でも清々しい真っ青な空。
あの香りがする。
拓真は乗っていた自転車をあの庭の手前で降りる。
降りて、手押しで向かう。ゆっくりと、一歩一歩を踏みしめ、静かに薔薇庭に差し掛かる。
本当は立ち止まってじっくりと眺めたい……。でも、あの綺麗な目と合ったら、また逃げ出してしまうだろう。そんなのを何度も繰り返してみろ? 彼女に変な男に思われて、嫌われるんだ。と、拓真はドキドキと高鳴る胸を必死で抑えつつ、自分に言い聞かせる。……もし、そうなったら、どうして頻繁にここに来てしまうのか言わなくちゃいけない。そう──『好きです』──と、言わなくちゃいけない。勿論、そうしたい……でも、そんなの出来ない! 彼女に『他に好きな人がいる』とか言われたり『貴方のような人は好きではありません』とか断られたり……。男臭いだけで、しかも消防とか言う汗くさい男の職場でただ必死な毎日を送っているだけのなんの取り柄もない若僧の拓真なんかはその可能性の方が高いと思っている。そうなったら『いっかんの終わり』だ。
まだ、見ていたい。『しっとり、おしとやかな君』を。そして、毎日、感じていたい。『君が好き』と言う気持ち。
自転車を押し進め、その垣根に差し掛かる。
水の音……。薔薇の香り。そして、目の端に、『いた』。彼女が今、拓真の視界の端っこにいる。
今日も爽やかな真っ白いブラウスを着ているようだ。ノースリーブの、そしてスカートもいつもの清楚なロングスカート。
なによりも、あの長い煌めく黒髪が、いつも目に焼き付く──。本当に大和撫子で、しっとりしているのだ。
ゆっくり歩きたいのに、立ち止まりたいのに……。その瞬間はあっと言う間に終わる。拓真の視界から、薔薇はまだ見えても、白い彼女はいなくなった。彼女が水を撒いている音が遠のき、そして薔薇の香りさえも……。
また明後日……。
拓真はこの瞬間に、とてつもなく泣きたい気持ちになる。
もっと彼女をじっくり見たい。きっと午後は庭先でスケッチをしているはずだ。非番の日には時々、その姿見たさにこっそりとやってきて、遠くから姿が見えないようにして覗いている時もある。
彼女はいつも赤い花を書いている。ちょっぴりそれが拓真には違和感があるのだ。
もし、あの庭の中で彼女に似合う薔薇を摘んでも良いと言われたら、迷うことなく大輪の白い薔薇を選ぶ。八重咲きのどこまでも真っ白い大輪の薔薇を。でも、本当は薔薇でもないような気がする。ちっちゃい白い花、それだと思う。それで充分、綺麗な人なんだと思う。
なのに赤い花を描いている。ちょっと不思議だった。
そんなときめきを追いかけれるような夏。
やがて、拓真が庭を通る時、彼女と目が合うようになった。
勿論、さあっと拓真は去っていく。でも、そうしたいのにそれを避けてばかりいた日々から進展した気がする。
毎日じゃないけれど、毎回じゃないけれど、彼女と目が合った日は何処までも幸せな日だった。
・・・◇・◇・◇・・・
暑い暑い夏は始まったばかりだ。
この日も午後は、署の建物を使っての、救助訓練。
三階までロープで駆け上り、窓をくぐって廊下に置いてある『要救助者』に見立てる重い重い人形を担いで下まで戻るという訓練。
「うおおおおー!」
朝の自転車での『通い』で彼女と目が合ったそんな日は、俄然、午後の訓練にも力が入る。
こんな暑い気候の訓練は体力を奪われるし、壁を駆け上る訓練なんか、いつもはやる気も削がれるのに、ここのところついつい張り切って登っている。
そんな時の先輩や上司の『あいつ張り切りすぎ、大丈夫か?』という戸惑う顔。
「こらあ! 鳴海! 早いだけじゃいかんと言っているだろうがー!」
「なんだこれは! 要救助者への命綱が外れているぞ。ロープの結び方掛け方も、めちゃくちゃじゃないか!?」
溢れて止まないこの気持ちを、ただ単にここで発散している拓真に、『本番だったらどうする!』と小隊長からのゲンコツが飛んでくる。
「お前、最近どうした?」
「なんでもないっす!」
「落ち着きがないぞ」
小隊長に説教される中、遠くから誰かが冷やかしてくる。
『タクは恋をしているんだ』と。まあ、誰にもこういった時には言われる『定番の冷やかし』なのだが、今の拓真にはズバリ図星すぎて、つい頬を染めてしまった。
その時の小隊長の鋭く察したような目線から、拓真は逃げたくなる。
「若者らしくて良いが……。だが、それをここでぶつけるな。『彼女』にぶつけろ」
既婚男性である小隊長が、説教としての怖い顔をしているのに、いつになく声が穏やかだった気がした。
拓真はウンとは頷かず、いつもの威勢で『おっす!』と敬礼するだけ。
『どこのだれだー』というからかいはまだ続いていたが、拓真は知らぬ振りを通した。
訓練が終わり、機材に装備を片づけていると、拓真の隣に正樹がやってきた。
「なんだ。鳴海。ついに見つけたのか。お前が夢中になれる女」
「別に……です」
あの正樹までにやついた顔で、拓真をつついて楽しんでいる。
女性慣れしているこの先輩には分からないだろうなあと、拓真は思う。
だってこの先輩は、いつだって女性の影があって、ひどい時にはこの職場に電話がかかってくる有様。もし『長谷川の困った点』をあげるとしたら……と言う大隊長の話では、その『プライベートの女性関係』だそうだ。それ以外は、いずれはレスキュー隊員に推したい優秀な人材だと言っている。
そして先輩はあっち方面でもどうやら優秀らしく、いつも一緒に仕事をしている後輩の拓真の、そう言ったところもなにやら先輩面をしたいよう?
「あの、正樹先輩。ええっと……その……」
「お。なんだ、なんだ。俺で役に立つことなら、何でも教えてあげるぞ。なんだかお前、見るからに奥手そうで、以上に不器用そうで。どうせ、ずうっとこの気持ちでいたいから、今はこのままで良いんだと思っているんだろう?」
うわっ。当たりすぎ!! と、拓真はおののいた。
そしてそれを直ぐに顔に出してしまう自分を見て、正樹先輩は『やっぱりなあ!!』と大笑いをするのだ。
拓真は敵わず、ただ顔を真っ赤にしてうなだれてしまうだけ。もう、そこを逃走したいのに、正樹先輩にがっしりと後ろから羽交い締めにされ押さえられる。
「ぐわああ。勘弁してくださいよ!!」
「まあ、まあ、まあ。どんな女の子か、それだけでもいいだろう? 教えろよ。それが分かれば、どんなふうにすれば、一発で落ちるか教えてやる」
この先輩に、知り合いであるだろう彼女のことを、こっそりと思いきって聞こうと思ったのに……。あんなに大人しそうな可憐な彼女を、男の攻撃で『落とす』だなんて、とんでもない! そんな先輩がいつもやっていそうな……そして男なら誰もが密かに思い描いているような手荒で刺激が強いこと、彼女には絶対にやりたくない! 攻めるとか落とすとか、そういうのじゃなくて……。もっと、こう……やんわりと『大切に、大切に』したいのに。
こんなに『俺の純情』を弄ばれるなら、ぜえったいにこのすかした先輩には言うものか! と思う。
そうだ。今度、この先輩の妹『早紀』が来たら、こっそり聞こう! きっと彼女の方が、あの白い彼女を良く知っているはずだ!
そうして拓真はちょっとだけ、長谷川正樹先輩を頼ろうとした自分を呪いながら、この『自白しろ攻撃』から逃れるのに必死だった。
なのに、この正樹先輩はちょっと意地悪なことで拓真をからかって楽しみ続ける。
羽交い締めにされてジタバタしている拓真の背から、正樹先輩はそっと耳打ちしてくる。
「お前のことだから、ぱっと目に付くイマドキの女の子じゃなくて、地味で大人しい子なんだろう?」
うう、正解。と思いながら、拓真はぎゅっと口をつぐむ。
それでも先輩は、にやっとしながら囁き続ける。
「だったら、きっと処女だ。『初めての時』には、今日の訓練のようにみっともなく慌ててがっつくな。じっくりゆっくりとことん可愛がってから、愛してあげろよ。最初が肝心だ」
やっぱりこの先輩は、女と来ればこんなことを先ず思い浮かべるのだと、拓真は思った。
それがいわゆる『セックス』の事だと──。そう思ったら、今度は心ならずとも、身体が、があっと燃え上がってしまった。
あろうことか、拓真の頭の中に、あの清楚な白い彼女が……ブラウスを脱いで、スカートを脱いで……黒い髪が綺麗に映える真っ白い、柔らかそうな肌の……そんな彼女の姿を初めて思い浮かべてしまった。
「あ、お前。やっぱり男だな」
「うわぁあ! やめてくださいよ、先輩!!」
気がつけば、けろっとした顔の先輩に男の股間を掴まれていた。
若さが溢れるそこが、てきめんに反応していたのだ。そこを先輩に見つけられ、拓真はもう恥ずかしい思いで逃げたくて仕様がない。
なのに、急に正樹先輩は拓真をぱっと解放したかと思うと、いつも仕事で手厳しくしごいてくれる時のような真剣な顔を見せていた。
「そんなに好きになったなら、さっさとものにしろ」
心より、後輩の『初めての恋愛』を応援しようとしてくれているのだと、通じた。
だが……。だからこそ、拓真は自信なく俯いて、そしてふて腐れるようにして先輩から顔を逸らした。
すると、やり手の先輩が大きな溜息。
「お前のような男はさあ。真面目すぎて、純情すぎて、真っ直ぐすぎて。あれこれ思っているうちに、本当に心にある大切なものを手に入れずに終わったりしているんだ。傍にいると苛々するし、見ていられない」
「だったら、放っておいてくださいよ……」
本当は嬉しいのに。
放っておいてください。という言葉の裏には、『まだ出来ません』という一言も含まれていた。
そして先輩はそんな拓真の怖じ気づいている心理を見抜いている。だから、また大きな溜息。
「じゃあ、お前が本気になる話をしてやろう」
「いて、痛いすっよーっ」
正樹に耳を引っ張り上げられ、彼はそこに何か差し迫ったかのような緊張した声で拓真に言った。
「そのままでも結構だと思うよ。だが思い浮かべろ。お前の大事な彼女。明日、何処の誰とも知らない男と恋人になって、めちゃくちゃに抱かれるんだ。どうだ? もうお前の手の届かないところで、彼女が喜ぶにせよ、喜ばないにせよ。奪われるんだ」
「……そ、そんな」
そんなことあるはずないと思いながら、でも拓真は『例えば』の話が、もし本当になったらと思うとゾッとした。
「それだけ好きなら、彼女を守れるな? その自信はあるんだろう? だったら、明日にでも行け!」
拓真の胸にどきゅんとした、なにか決定的なものが貫いていった瞬間だった。
『彼女を守るという自信なら、誰よりもある!』
そして『やっぱり、他の誰かに先を越されるのは嫌だ』だった。
拓真の顔に、決意が広がった瞬間だったのか、先輩がやっといつもの頼もしい顔で微笑んでいた。
「あの、先輩。なんでそこまで言ってくれるんですか」
確かに彼とは一年ほど一緒に仕事をしているが、こんなにしてくれるのはどうしてかと思った。
すると、今まで見たことがない寂しそうな表情を彼が見せたので、どっきりした。そして彼はこう言った。
「それが出来なかった男の、成れの果てが俺」
「はい? どういうことですか?」
「お前の素直さが羨ましいよ。俺は駄目なんだ、どうしても駄目なんだ」
あんなに自信に溢れている先輩の、憂う眼差しは、とても意外な顔を見せている。
だが、彼はすぐに笑顔になって、拓真に言った。
「あ、そうそう。俺のちょっとした勘がね。お前のような男は守るものが出来て、うんと伸びるタイプだと言うんだよ。だから早く、強く想える女が出来ればなあと思っていたんだ」
「よ、余計なお世話っすよ!」
先輩のその『勘』というのも有名で、正樹には思わぬ第六感があり、現場でのその閃きに先輩も大隊長もあっと驚いたことが何度かあったそうだ。だから、大隊長は正樹先輩のことを『天性だ』と言っているようなのだ。
その先輩の第六感が当たるなら、拓真は……本当に伸びる? と、言うことなのだろうか?
有りがたく思えるのに、ちょっと気恥ずかしくて、拓真は突っぱねていたのだが、気がつくと正樹先輩はまた真剣な顔。今度は、拓真に何かを訴えるかのように、両肩をがっしりと掴まれた。
「鳴海。余計な世話をしたいのも、俺はお前をパートナーにしたいんだよ」
「は、はい?」
そして先輩は言った。
とても切羽詰まったように……。
「俺と、レスキュー隊員を目指すんだ」
「オレンジを?」
「そう。この一年間、お前と一緒にやってきた手応えをこのまま手放したくない。俺とお前なら、強力なタッグになるはずだ!」
うわわ。いつもの先輩と違う? と、拓真はちょっと引きそうになる。
それもこんな配属されてまだ一年のヒヨッ子新人を捕まえて、『俺とお前で強力タッグ』だなんて?
「俺は真剣だからな。考えておいてくれ」
それだけ言うと、先輩は『彼女と上手くやりな』と一言呟いて、サッと背を向けて去っていった。
俺と組みたいから? それともそれだけ俺に惚れ込んでくれたから? だから、早く伸びて欲しいために、好きな女を早く捕まえろと?
それも初めて認めてもらえたようで嬉しいけれど……。
でもまだ拓真には単に可愛い後輩のために後押しをしてくれたとしか取れなかった。
だが、決意した。
そうだ。彼女が他の男に触られるようになるのを、指をくわえて見ていろと?
そんなのは、絶対に嫌だ!
『彼女にぶつけろ』
小隊長の声。
『それだけ好きなら、彼女を守れるな? その自信はあるんだろう? だったら、明日にでも行け!』
その自信はある!
それだけ『好き』になってしまったんだ!
拓真は拳を握った。
「よっし。明日、行く」
でもやっぱり怖い。
だが、先輩が言っていることを思うと、もう退けない。
当たって砕けろだ!
燃える男にはそれしかない。
・・・◇・◇・◇・・・
朝ではなく、拓真は午後を選んだ。
彼女がゆったりとしている時間を選んだのだ。
今日はいつも急ぐように自転車で駆け上がっていた坂道を、自分の足でゆっくりと歩いていく。
なんて言おうかなんて決めていない。ただ、彼女の顔を見て、溢れたその時の気持ちを言おうと思っていた。
決してしまうと、いつも感じていたどうしようもない胸の高鳴りも、不思議と落ち着いていた。
そしてもう、慣れた道。慣れてきた風景。そして……もう、良く知っている庭先に、花の香り。その拓真が愛し始めているなにもかもが目の前に迫ってきていた。それに対しても、拓真は落ち着いて歩み寄る。
暑い夏の、真っ青な空の、賑やかな蝉の声の……。
高台に吹く夏のそよ風の向こうに、砂丘がある海が見える。
そのなにもかもが、拓真を熱く甘く取り囲み、そのなにもかもが『彼女』に思えた。
今日もその華やかな庭先に来て、拓真はしっかりと『あの日』と同じ位置に立った。
同じだった。彼女はあの日と同じように、蔓薔薇の向こうでイーゼルに向かい、赤い薔薇のスケッチをしている。
そして……この日も、何かを悟ったように、緋色のパステルコンテを持っていた指先が、ピッタリと止まった。
彼女が振り向く……。
そこに拓真がいるのを分かっているかのように、振り向く。
いつもの大きな帽子のひさしから、拓真をここ一ヶ月ほど悩ませてきた黒い瞳が覗いていた。
そしてここのところ、合うようになったその眼差しが……。今日は一瞬じゃない、じいっと拓真を絶え間なく見つめてくれているのだ。
彼女が、そのまま止まっている。
拓真も一瞬固まった。
この時になって、急に心臓がばくばくと大きな音を立てるかのように激しく動き出し、つま先から脳天まで急激に血が逆流してきたかのように、拓真の身体ががあっと熱くなった。
でも……! もう逃げない!
なによりも、こんなに胸を占めた彼女を、どうしてもどうしても欲しいから!
「こ、こんにちは! きょ、今日は暑いですね!」
『鳴海! もっと声を出せ!』── ういっす、隊長!
なんでだろう? こんな時にいつもいつも手厳しい小隊長の声が、拓真に大声を出させていた。
作業制服のままで来たせいだろうか? ついつい……! あの先輩のように、もっとソフトに男らしく紳士にと思い描いて来たのに。
ふと彼女を確かめると、やっぱり。
この前のようにとても驚いた顔をしている。
でも、そんな彼女があの日のように少しだけ笑ってくれた。
「そうですね……。お疲れさまです」
あの日は、やや警戒したようなか細い声で返してきた彼女の声が、今日はしっかりと強い響きで返ってきた。
思った通りの落ち着いた、そして優しい甘い声だった。
もうそれだけで、拓真は舞い上がり、このままこの高台に吹く風に乗って、砂丘の浜辺まで吹き飛ばされても良いと思って暫く恍惚としてしまったのだが……。不思議そうにこちらを見ている彼女に気がついて、拓真は姿勢を改める。
ええっと、ええと……『好きです』、『好きです』、『好きです』。
やっぱり出てこない。彼女を目の前にして、やっぱり言えない。
そんな拓真の心でせめぎ合う葛藤、その末に誤魔化すように口から出た言葉は……。
「よ、良かったら、その絵を自分にも見せてください!」
とにかく、彼女と関わりたくて飛び出していた一言だった。
それに本心だ。ずうっと見てみたいと思っていた。
彼女が何を思って、イメージにはない赤い花を描いているのか。直に目にしたいと……。
ハッとすると、彼女が目を丸くしたまま、拓真をただ見ていた。
声、そう……声が大きすぎるのかと、拓真は慌てた。
「どうぞ。上手くはありませんが……」
気がつけば、彼女が、あの彼女が拓真が立っている緑の垣根まで来てくれていた。
夏のそよ風に、あの長い黒い髪を艶やかになびかせて、拓真が夢に描いていた通りのしっとりとした微笑みで、スケッチブックを差し出してくれている。
拓真の震える指先が、その念願のスケッチブックを受け取る。
「有難うございます」
やっと落ち着いた声を出せるように思えた拓真は、厳かな気持ちで、そのスケッチブックを開いた。
殆どが赤いコンテを使った薔薇の花。
時には黄薔薇や桃色の薔薇、白い薔薇も少しずつ。
でもそれは何かの『筆休め』のように、赤い花のスケッチの間に挟まっているだけだった。
赤い花は様々な表情を見せている。燃えるように激しく描かれているものもあれば、しっとりとした淡いタッチで描かれたものも……。何を思って描いたのか知りたい……。拓真はそう強く思った。
でも彼女のこの赤色への執着とも思える赤い薔薇の絵には、やっぱり違和感がある。
そしてこんな大人しそうな清楚な彼女の中から、こんなに様々な感情を表すかのような『激しさ』があるようにも思えた。
でも、拓真の目の間に、しっとりと立っている彼女は、紛れもなく『白い花』だった。
だから、拓真は今度こそ、心の底から彼女に伝えたいことを、やはり『自分らしく』大声で告げていた。
「でも、自分は貴女は白い花だと思います!」
一瞬、彼女の口から小さく『え?』と聞こえたが、今度の拓真は彼女に心のままに微笑みかけていた。
本当に、そう思っているんだと。
すると彼女が頬を染めて、とても嬉しそうな愛らしい笑顔を初めて見せてくれた。
その頬にだけは、小さな赤い花を咲かせてくれた、あの夏の日。
この日を境に、彼女とは急接近をすることになる。
拓真二十歳。初めての恋愛が始まろうとしていた。