あの人、本当に出ていった。
その日、鳴海凛々子は茫然失意の状態で、一人きりになった家にいた。
いつも洗濯していたオレンジ色の作業着制服も、紺色の正装制服もない。
僅かな私服と身の回りのものをひとつの鞄に詰めて、持っていっただけのよう……。それでも『消防官』として、大事にしている制服と作業着はきちんと持って出ていった。
どうして? 七年も一緒に、なんとか夫婦としてやってきたじゃないと、凛々子は唇を噛む。
たとえ、内縁でも妻が二十歳ほど若くても。
あんなに解り合えていたはずなのに、どうしていきなり『もう、お前とは暮らせない。あの街に帰る』と、夢を叶えるために勝ち得た職場も出ていったのか?
せっかくハイパーレスキュー隊の一員になって、小隊長にまでなったのに……。
これからだった。もっともっとこれから私達家族は、幸せになるはずだったのに! それなのに……。
もし、これが『幼い妻を思っての選択だ』と言うなら、受け入れられない。
すべて、私のせい?
まだ若すぎる私のせい?
歳なんて関係なかったはず。
だって、貴方は先妻の姪である私でも、愛してくれたのに──。
叔母の【緋美子】ではなくなっても、姪の【凛々子】でも変わらないと、凛々子自身は疑わなかった。
それはこうして茫然としている今だって。
凛々子は十六歳の時に、叔母の夫であった鳴海拓真の妻になった。
いろいろあって正式婚ではなく、内縁。
彼には子供が二人いて、今、二十三歳の凛々子とは同世代になる。
先妻の子、つまり叔母【緋美子】の子供は、【緋美子】の姪になる【凛々子】とは『いとこ同士』になる。
従兄弟で継子ともなる彼等も『リリ、どうしてこうなったのか』と不安がっている。
既に成人しているも同然の彼等ではあるが、実父と従姉の『おしどり夫妻』が、突然の『破局』を迎えたことに戸惑っている。
『私、拓真のところに行くわ』
凛々子の決意。
だいぶ前から東京に出てきて暮らしていたが、鳴海家の故郷となる街へと出て行ってしまった夫拓真を追いかける決意をした。
向かった街は日本海の街。砂丘のある街。
そして、そこは拓真だけでなく、凛々子にとっても、そして子供達にとっても『生まれ故郷』。
この街には、庭に沢山の薔薇が咲く一軒家を、亡くなった叔母が所有していた。
今は誰も住んでいないが、その薔薇の家の近所に住んでいる叔母の旧友に預けている。
凛々子は先ず、その亡き叔母が残した『薔薇庭の家』を頼り、故郷へと夫・拓真の後を追う。
「お嬢さん、この段ボールはここで良いですかねえ」
「はい。そこにお願い致します」
本当は『お嬢さん』なんかじゃなくて、『奥さん』なんだけれど……。
やっぱりこの私の若さでは『奥様』には見えないのかと、今の凛々子はちょっとのこと、『若い』ということでも落ち込んだ。
『この家の薔薇、すごいなー』
遠く聞こえる引っ越し業者の声。
そんなときだけ、凛々子は微笑んだ。
ここは叔母が愛した家。そして夫の拓真がその亡くなった叔母と結婚後、暮らしていた家だ。
そして凛々子も今でもこの家を愛している。
ついに、この薔薇庭の家にやってきた。
今年も見事に咲き始めた庭の数々の薔薇。預けた知人が大事に大事に手入れをしていてくれた。
凛々子にもその感謝の気持ちが胸の中で熱く沸き上がる。
東京へと出ていった時、そのままだった。
そういえば、その家を預けていた叔母の親友となる女性には、高校生の息子がいたはず。
凛々子は彼が幼い時に少しばかりあっただけで、それ以来となる。
少しだけ気になる、その息子のことが……。何故かと言えば『勘』と『血筋』とでも言おうか。
沢山の薔薇が、初夏の風にふわふわと揺れる午後。
凛々子はついにこの叔母の家にやってきた。
さあ、あの人を捕まえて、もう一度、やり直したい。
今、ここに生きているのは、私【凛々子】。
叔母の【緋美子】は死んだのだ。
だから凛々子である私を、もう一度愛して欲しい。叔母を愛したままでも構わない。今までだってそうだったのに、どうして夫婦として七年経った今になって、彼は私を切り捨てる覚悟を固めたのか、知りたい……!
明るくて、真っ直ぐで、そして熱血野郎で、いつまでも若々しい少年のように大らかな、夫の拓真。
彼のあの笑い声が聞きたい……!
彼がいなくなった家は、本当に暗闇が襲ってきたかのような。それだけ、明るさがなくなった家。そんな家になんか、一人では居られない。
この薔薇の家なら、少しはこの沢山の花が、彼がいなくても慰めてくれるだろうか?
私は【凛々子】。死ぬまで鳴海拓真の妻でいる覚悟。
でも夫の拓真は、先妻である叔母【緋美子】の写真を飾らない。
そして、仏壇の奥に隠すように置いていた『位牌』。あってないものと触れもしないし、その存在も認めていなかったのに。
夫・拓真の家出で、凛々子が一番ショックだったのは、その『位牌』を僅かな荷物と共に、彼が持っていったことだった。
つまり、彼は『死んだ妻』を手にして、旅立っていたのだ。