「ただいま、義兄様──」
「うん、早かったな」
夕方、葉月はジュールと買い物を終えて箱根に戻ってきた。
そして、直ぐに純一が仕事をしている書斎を訪ねる。
彼は窓辺に差し込み始めた夕日に照らされながら──コーヒーカップ片手に煙草を吸い、ノートパソコンに向かっていた。
純一は、革椅子に座って背を向けたまま、振り向いてはくれなかった。
『オチビ、邪魔するな』──小さい頃、集中している彼に無邪気にじゃれつくと、素っ気ないそんな返事を良く返された。
今もそう……そんな雰囲気だったので、暫く……それ以上、彼に触れる事を葉月は躊躇い、帰ってきた挨拶だけに留めようと思い、寝室への扉を開けた。
「買い物は──楽しかったか?」
「え? うん……」
「お前が買い物なんてね──何を買ってきたんだろうな? 後で見せてくれよ」
「私だって……たまには自分が思った買い物はするわよ?」
「特に──女性が好んでするような買い物は、お前はあまりしない。洋服も装飾品も、小物も。いったい、何が欲しいのかと考えさせられたものだ」
「そうね……」
確かに……と、葉月は首元のスカーフにそっと触れた。
小さい頃、抵抗するまでもなく決められていた『カラー』。
右京は、紺や青色に水色と青系統を選んでくれるが、純一の場合は、こうして水色が多い。
純一が言う通り、振り返れば、女性らしい買い物なんてあまり興味を抱いた事はない。
フロリダに帰っても、母が、そして父が……そしてマイクが『きっと似合うよ』と言って買ってくれた物を着る事が多かった。
バッグや靴だって……殆どが母が送りつけてきた物を抵抗無く、いや……なにも考えずにただ使っているだけだ。
自分で買った物は少ないが、自分で買うと、かなり地味で、いってみれば個性が感じられない『無難』な物が目立つ。
『いったい、何が欲しいのか?』
そんな義兄の独り言のような疑問。
「何が欲しかったか……義兄様が一番、よく知っていたわ」
葉月は彼の背に笑顔をそっと投げかけた。
彼はまだ振り向かない。
「私に、手放せなかったお友達を失わないように見守ってくれて……有り難う。彼女を大切にします」
「……そうか」
「今回も……有り難う。なにもかも……」
「……」
くわえ煙草の後ろ姿。
無言の後ろ姿。
その後ろ姿を葉月は幼い頃からずっと見て、そして……彼の気持ちが何であるのか思いめぐらせた。
お兄ちゃまの事を知りたいのは──やはり、好きだから。
黙ってばかりのお兄ちゃまが、本当は何を思っているか……知って、解ってあげたい。
だって……お兄ちゃまは、『損』ばかりしているんだもの。
何故? 『自分はこう思っているから、こうする事を選んだのだ』って、自分の事を言わないの?
だから……皆が誤解して、『お前が悪い』って言われっぱなしじゃない……?
それでもいいんだって、自己主張などしないで、裏方役ばかりしているお兄ちゃまだから……。
だから……私だけでも、解ってあげたいの。
──なんて、何度、思っただろう?
葉月はふと俯きながらも、それも、もう……義兄には必要なくなったのだと部屋に戻った。
窓辺前のソファーに腰をかけた途端だった。
純一が書斎から出てきて、葉月の向かい側に座ったのだ。
「?……なに? 義兄様?」
「葉月──あのな……」
「!?」
葉月がそこに落ち着くのを見計らって向き合いにきたかのような義兄の目線は、葉月を神妙に見つめていた。
そして──何事かに構えているようで、そして、意を決しているのだが、何か躊躇っているかのようで──?
だけど、葉月は『直感』した!
そう……別れに際して、葉月が今まで黙って見過ごしてきた義兄の環境とかいう物を、別れるからこそ、彼が『打ち明けようとしている』のだと──!
「これを……今更なのだが」
そういって彼が葉月に差し出したのは、『クレジットカード』だった。
どうも、葉月が既に数枚持っている『ランク』と同様の雰囲気の物だった。
「イタリアに一緒に行っても……これを使えるようにと、若槻を通して作った。お前のお財布って所かな。もう、必要ないかも知れないが、せっかくつくったから……何かあった時だけでも良い、使ってくれ……」
黒光りのプラスチックカードを義兄が淡々とした口調で差し出した。
「……当然だけど、受け取れないわ」
「解っている。お前は、この点では困る事は、まぁ……ないだろう」
「そういう意味でなくて」
「それも解っている──。俺と共ではなくなるのだから、意味のない物という事も」
「だったら──破棄して……」
「葉月──実は、この手のカードは、亮介オジキにも京介オジキにも右京にも持たせている」
「!? 義兄様の事業と関連しているカードなのに? パパ達が、断ることなく?」
「そう……俺の専用口座とリンクしている。勿論、オジキ達はそれほど利用してくれないけどな。一言で言えば、『御園ファミリーなら所持するカード』と言えばいいのだろうか?」
「御園の家族が皆持つカード?……」
それを聞いて、葉月の中で『妙な一線』が繋がったような気がして、少しばかり硬直し、義兄を見つめた。
勿論──彼も、そんな葉月の眼差しを逃げることなく真っ直ぐに受け止めてくれている。
そこには『今が言い時』と覚悟しているかのような、そんな逃げない眼差し……葉月は逆に、その眼差しから引きたくなった程だった。
そして、義兄がついに一言──。
「もう察したか? 俺だ──」
何が、『俺』なのか……葉月は、もう判っていながらも、どこか首を振りたくなった。
「レイチェルばあやの事業を全て……俺が引き継いだ」
「義兄様だったの!? お祖母様の事業を任された後継者って!?」
葉月にとっては、あまり触れる範囲でもなかった『御園資産の背景』。
葉月には、そんな『実家の背景』は、『大人』という括りにある『両親と親戚』、そして『長兄』である右京が触れて決めていく事であり、自分は『子供』という括りにされて触れる事はなかった。
いや……葉月自身も、成人してもそこを気にしなかったのは、『自分の事で精一杯』だったからだ。
何に置いても、自分の中にあるいつまでもつきまとっている『気持ち』に振り回され、それを昇華させるが如く、パイロットという生活に全てを注ぎ込んでいたのだから──。
だから気にならなかったといえば、そうなのだが──。
義兄のしてきてだろう『歩み』の中で、認めたくない事がある『疑惑』から目を逸らし続けてきた事も、『大人達』が言うがままに流してきたひとつの理由で──。
実際に祖母が取り仕切ってきた事業がいかほどに大きいかとは子供心に『すごいのだろう』とは思いつつも、その程度だった。
自分が今『お嬢様』とか『資産家の娘』として『裕福だ』と言われているのは、まさに、祖母が残した事業が元手である事ぐらいは判っていたのだが……。
だが、それが祖母が亡くなって『他人に譲って任せている』と聞かされてきた事が!?
義兄の財力の大きさも今まで何度も目の当たりにしてきただけに、それが、こうして『実家の背景』の事実に、葉月にもそれなりの予感がありながらも、やはり『実家そのものと繋がっている』という威力や大きさに驚かずにはいられなかった。
絶句している葉月に対し、純一はいつもの落ち着き払った静かな空気を漂わせたまま、続けてきた。
「つまり、御園の事業は俺が取り仕切って、ここまで伸ばした。オジキ達には株主などで落ち着いていもらっている。勿論、ばあやの息子達として俺の後ろ盾的な役割には立ってもらっているがね」
「! それで軍人を辞めたの? うちの稼業を継ぐ為に?」
「まぁ……そうなるのかな? 軍職に就いている時からばあやに熱烈に誘われてはいたんだけどな。俺にはこっちの方が向いているだろうから、やってみないかとね──」
「お祖母様、自ら? お兄ちゃまを!?」
当時、葉月は子供ではあったが、祖母のレイチェルは、ビジネスでは何事にも見る目は厳しかったと右京からも聞かされている。
その祖母が、お隣に住んでいた開業医の息子の才気を見抜いて、誘っていたという事も驚きだが、『熱烈』にと言う程、義兄の手腕を買っていた事はもっと驚きだった!
実際に、祖母の目に狂いはなかったのだろう。
義兄は自分だけでなく、ジュールやエド……さらにはあの若槻にナタリーと言った部下? 仲間と言った方が良いのだろうか? そうして人を集い、独りだけでは為しえなかっただろう事業を大幅に展開させている様子は、祖母以上だったのではないだろうか?
祖母の目に狂いはなかったという事になる!?
「最初はまったくその気はなかったがね……それのばあやの誘いが、いかにも『婿養子的だ』と思っていた部分もあって、拒否はしていた」
「……そうなると? 姉様が結婚を考えるから?」
「……ああ。その時は、まだ……結婚など。そうだろう? 俺はその時、まだ19歳の未成年で若僧だったんだぜ。結果的には、ばあやの誘いに乗った今の方が、軍にいるよりずっと手応えも、やり甲斐も感じられる道を選べた事になるのだろうな?」
「そうだったの……! 義兄様が、うちの資産をって事!?」
「まぁ……表だってはいないが、そうなるのかね」
「その世界で……本名は?」
「場合によるかな? ばあやの系列の名で通るようにばあやが下地を敷いてくれて、形的には、ばあやのスペイン名での『養子』の様な感じの名を使う事もあるかね。俺の名が出るような経営形態は避けるようにして、仲間を頭にして動くようにしているんでね」
「結局!? 義兄様が軍人を辞めて、ううん? 捨てるように消息を絶ったのは何の為だったの?」
「……」
純一は暫く黙っていた。
葉月の胸の鼓動は速まる──。
ずっと『疑惑』だった事……それが、明らかになるのだろうか?
目の前の愛しい義兄、家族でもある彼が、いったい何の為に、このような姿を隠すような生活を選んだのか。
彼がこのような生活さえしなければ、葉月との世界は隔てられなかったはず!
ロイが言っていたように『世界が違う男だから諦めろ』なんて言われるような『恋愛』にはならなかったはずなのだから!
「お前は……俺が何かから『逃げている』と思っているようだな」
「……」
葉月と姉を奈落の底に、落としまくった『憎きイキモノ達』が、揃って『詫び自殺』をした。
葉月は子供だったとはいえ、その事実を受け入れられなかった。
あの男達が『詫びる』という感情など、何処にも持っていない事を感じていた。
詫びる為に『死』を選んだ事も、許せなかった。
いや! あの狡くて卑劣な奴らが『死』なんて『恐怖』を選ぶはずがないじゃないか!
そう思った葉月が思い描いたのが……。
──『二度と、お前達に近づかないようにお仕置きをする』──
──『二度と、お前を怖い目に合わさないようにな』──
姉が誰にも教えないと言う犯人の顔を、小さな葉月に確かめに来た彼が……そう言ったから。
そして、憎きイキモノ達が死んで直ぐに義兄は姿を消してしまった。
誰もその行く先は知らないような口振りで、そして……鎌倉の実家である谷村家では、『勘当』とか『絶縁だ』という彼の父親の怒りを葉月は目の当たりにしていた。
だから?──『もしかして、義兄はリベンジを決行した?』
それが幼い葉月の心に……大好きな義兄が姿を消してしまった衝撃と共に刷り込まれていたし、そう思っていた。
だが、周りの兄達は『純一の事を信じてやってくれ』と言う。
それは? 確かに彼は罪を犯したが、それも仕方がない事。警察に追われる身で姿を消したが、奴の事は信じてやってくれ……? 葉月は、ずっとそう思う事しかできなかった。
当然──今も、そんな話を始めただろう本人を目の前にして、硬直している葉月。
今までも、何度、問いただそうとして……言葉を呑み込み、彼といる貴重な時間を穏やかに過ごしたくて、『疑惑心』を誤魔化し、自分の中で流していくうちに考えないようにさえしてきた。
聞く勇気もなかった。
そして今──別れに際して、義兄はそれなりの事を葉月に告げようとしている様子。
(……義兄様が……殺ったの……?)
と、言ったつもりだったのに。
それは声にはならず、目線だけで彼に訴えていたようだ。
言えなかった。
言えば……彼を疑っている事になってしまう。
実際に、心では何年も充分に疑ってきた事だが……。
すると──目の前の彼がフッと余裕な笑みを浮かべた。
「ロイから聞いている。お前が、俺がなにやらやったから姿を消したと思っているとね」
「! 違うの!?」
「そう思われても良いと思って、敢えていい訳はしなかった──」
「何故!? やっていないなら、なにも姿を消さなくても!?」
「消すには訳があった。それは、あの犯人達がそろってなくなった件とは関係はない。あの学生達がそろって自殺した事は、警察側も『揃っているのが怪しい』として、俺は『被害女性の婚約者』という立場で、重要参考人として取り調べを受けたがね」
「そ、そうなの!?」
「だが──俺にはアリバイが成立した。その時、病院にいた。真一の側に……」
「!? だったら……何故? 消息を絶つような消え方をして、シンちゃんを……父親として捨てたの!?」
「……そうしたかったからだ」
「そうしたかった!? 義兄様は……生まれたシンちゃんが可哀想だとは思わなかったの!?」
「思った。が、父親という気持ちはその時に捨てる覚悟で、鎌倉を出た」
「何故!? 何の為に? それがお祖母様の事業を継ぐ為に必要な事だったの?」
「……」
途端に純一が眼差しを伏せて黙り込んだ。
「義兄様!!」
義兄と息子の真一を引き裂いたのが、もし……自分の『祖母』だったのなら!?
どうして、曾孫にそんな事が出来る祖母であったのか! いや? それ程の理由があったのだと葉月は思う。
だったら……それを知りたい!
そして、やはりなにやら答えを探っているように躊躇っている義兄が……慎重に何かを選んでいるかのような様子の口調で答える。
「いや。ばあやの事業を継ぐ為に姿を消したのではない。姿を消すと決めたから、軍人を辞めた。辞めて、では? 何を今後すべきか……という『進路』のひとつに、ばあやの誘いがあった。その誘いに乗った。ばあやは俺の『姿を消す』と言う意味を良く理解してくれ……それで、影のような『経営者』の道を開くようになった……。『姿を消す』という理由と目的の延長線に『黒猫』という『裏組織』を作る必要性が出た。だから、表と裏の顔を持つようになったという訳だが──」
「──その『姿を消す』理由って何!? シンちゃんを捨ててまで? 『黒猫』という裏組織を作ってまで!? それ程の理由なんでしょう!?」
「……」
「義兄様──!!」
つっかかる葉月に対して、やはり純一は黙っていた。
が、今度の眼差しは向かう葉月に対して、決して逸らされることなく、真っ直ぐに逃げようとしなかった。
「お前が疑っているままだ……と言えば、お前は……俺を許さないだろうか?」
「!」
葉月の身体は凍り付く。
純一のその時の眼差しは、とても情けない程にすがるようで……そして、とても哀しい眼差しで、弱々しかったのだから!
いつだって『頼りがいある兄様』が、決してする事はないだろう眼差し。
それにも凍り付いたし……『やはり!?』という衝撃だ。
「──でも、アリバイは成立したんでしょう?」
「一応。だが……警察はいつまでも、俺を重要参考人として外さなかったようだな」
「疑われているの?」
「疑われている。もうそろそろ時効かもしれないが、俺は海外にいたので、時効の流れは停められているはずだ。まだマークはされているだろう」
「義兄様がやったの? さっき『そう思われても良いから、敢えて言わなかった』と言ったじゃない? 何かそう思わせたい訳があるの?」
「いや……ああ、お前を安心させようと思ってそうほのめかしただけだ。やはり、本当の事を言うべきだろうなぁ」
純一はそこで、急に意地悪そうに唇の端をあげて、不敵そうな笑みを余裕たっぷりに浮かべた。
葉月には一瞬……その笑顔に『邪気』が含まれた気がして、ゾッとしたし、信じたくない心を引き裂かれるような痛みで、額に汗をかき始めていた。
「じゃぁ……なに? やっぱり──!?」
「……皐月の為だった。悪夢に苦しんでいて、真一を自力で産める身体ではなくなっていた。かなり衰弱をしていて……俺も、『奴らが憎かった』!」
一瞬ぎらついた義兄の眼差しに……葉月はショックが隠しきれずにソファーの背に後ずさって固まった!
「でも……ロイ兄様も右京兄様も……! 純兄様は、何もしていない、信じてやってくれって……私にもの凄い剣幕で……」
「優しいダチでね。二人とも、俺をいつもかばってくれるんだが……」
「私は……それでも義兄様を、嫌いにだなんてならない……!」
そういいながら……『でも!』と、葉月はソファーを立ち上がった。
次に自分が自然と起こした行動は……部屋を飛び出していた!
階段を降りて、リビングの扉を飛び出した時……キッチンにいたエドが呼び止める声がしたが、それに構わずに外に出た!
夕暮れに染まる湖畔に、向かうしかなかった。
──義兄様が、五人に復讐していた! 手を汚していた! だから、罪人として姿を消した!──
湖畔にたどり着いて……葉月は、水が打ち返す波打ち際にひざまずいて、声を殺して泣いた。
・・・◇・◇・◇・・・
夕日が入り込む寝室のソファーで純一は独り。
義妹に拒絶された後の空気に苦笑いを浮かべながら、煙草をくわえて、銀色のジッポーライターで火を点ける。
煙を一吹きした時、書斎のドアが開いた。
「聞いていたのか?」
「たまたま聞こえたので……」
出てきたのはジュールだった。
「私は、損なバカ兄貴を持って……何というか、呆れるというか……」
「丁度良いだろう? 葉月に嫌われるならもってこいだ」
「バカですね。あんなに信じてくれていた女性を、ここまで信じさせて引っ張り込んで。では、今から『さよなら』だから、今度こそ、徹底的に嫌われるようにしてしまおうと?」
「……そんなはずないだろう」
純一が途端に、怒ったようにふてくれさた。
ジュールも少し溜め息をこぼす。
何故なら──今の彼の『告白』は、ジュールがからかったような『徹底的な、さよなら』の為でもなんでもなく、純一にとっては『一世一代の告白』に違いなかったからだ。
ただし……『告白』の一部に『嘘』があった。
「貴方が復讐に手を染めたのではないと……言ってあげられないのですか?」
「……言いたくない」
「……葉月お嬢様に、それだけでも告げても良いと私は思いますけど」
「オチビは勘が良い。俺がリベンジをしたのではないと判れば……」
そこで純一は口ごもるが、ジュールはハッキリとその後を口にした。
「皐月様がやった事だと──知られるのが怖いのですか? しかも、犯人の一人と差し違え、『殺された』のだと。それとも……」
その後の事はジュールも口を濁す。
そういう『話』だった。
この『話』の『真実』を語るとすれば、長くなる──ので、ジュールはあれこれ思いめぐらせながら、そこで話を止めたのだが。
「ジュール、新しい情報を得てから暫くになるが、まだ……見つからないのか?」
「……また、一足早く、消息を絶たれまして……部員達に次なる捜索網をかけさせているのですが」
「まったく、アイツだけは……どうしても!」
「私も、あの男だけは逃がすつもりはないのですが……口惜しい所ですね。流石、『御園を貶めよう』と主犯格に選ばれた男だけありますね」
「まだ、葉月が『軍内』という囲いの中、ロイの監視下にあるから安心しているが……」
「そう、何かの拍子に生き残っているお嬢様が狙われるとも限らない……」
二人の男の眼差しに闘志の光が一緒に宿った。
だが、すぐに和らげたのはジュール。
「可哀想に……きっと、貴方が『自分がやったのだ』と、そう言ってもお嬢様は貴方を信じるでしょうね。お別れしても……。貴方にとっては余計な事と思われますでしょうが、私がなだめておきますからね……。そうさせて下さい、そうせずにいられないから、そうさせて下さい……」
「……勝手にしろ」
苛ついた様子で、灰皿に煙草をもみけした純一が……次には苦悩するように独りで頭を抱え込みうなだれていた。
その姿を見なかったようにして、ジュールは寝室を出る。
向かう先は──葉月が飛び出しただろう外だ。
湖畔だろうと思って出向くと、泣き崩れている葉月の背後を守るように、エドがそっと控えていた。
ジュールが来たのを見計らって、エドがそこを退き別荘に戻った。
葉月は静かに水が打ち返す岸辺で、子供のように膝を抱え、そっと泣き続けていた。
だが、ジュールの気配に気が付いて、手の甲で目元から流れる涙を抑え、泣きやむ。
「やっぱり、信じられない。お兄ちゃまは何か訳があって、嘘を言っている……」
そう呟いた葉月に、ジュールはホッと安心の一息をついて微笑んだ。
そして、彼女の横に静かにひざまずく。
「そう──『信じる』と言う事は、そう言う事ですよ。相手が言うままを信じるだけではない。自分で真実を探す事ですよ……きっとね」
ジュールの言っている事を理解したのか、葉月は愛らしくこっくりと頷いたかと思うと、それまで打ちひしがれていた少女のような顔を途端に消し、煌めく眼差しで湖水を見据えた。
「誰も教えてくれないのなら……私が探す。そして、信じるしかないのなら、真実が判るまで、信じるわ。だって──私は何年も……疑いはしたけど、疑う中で信じる事を選び続けてきたんだもの……」
「そうですね……そうしてあげてください」
そんな彼女の健気さが、ジュールには純粋に愛おしく思えて、そっと葉月の背をさすって慰めていた。
すると、そんなジュールの顔を葉月が、煌めく眼差しで見据えてくる。
その眼差しに……ジュールは息をのみ、そして、何かに囚われたように動けなくなった程──。
何処かで、いつか……? その眼差しには適わなかったような、古い記憶を揺さぶられるような疼きを巻き起こした眼差しに、ジュールはフッと視線を避けてしまったという、それ程の眼差しだ。
「ジュールは知っているみたいね。あなたが『信じてあげろ』というなら……やっぱり『何か』があるのね!」
「いいえ? 私はただ、あのボスは訳もなく、罪に手を染めはしない人だと言いたいだけですよ」
当然、何もかも知っているジュールではあるが、ここで葉月に全てを知られたくない気持ちは、純一と同じだったから誤魔化した。
しかし、ジュールから見ても、誤魔化しても『誤魔化しになっていない』事は明白。
だが、ジュールは動じない。
何故なら、葉月が選ぶだろう『これから』を、心底、信じる事が出来るからだ。
でも、葉月は──やはりジュールのそれなりの誤魔化しなど、お見通しで、今は腑に落ちない感触を不満に思ったようで、その素直な気持ちをジュールにぶつけてきた。
「そうっ! いいわ……!!」
しかし、葉月はすぐに落ち着いて……湖水に哀しげな眼差しを落としながら、静かに、ジュールが期待するままの姿を見せてくれたのだ。
「あなたが今言った通り……『信じる』事を、これからも私は選ぶわ。義兄様とお別れしても、家族には変わりないもの」
「そうですね……そう言ってあげて下さい。きっと……義兄様もそれを最後に、胸に刻んで……前を向く事が出来る事でしょう。私からも、お願い致します」
「ええ……そうするわ……」
そして……ジュールがもう一度、葉月を労るように背をさすると、葉月は一筋の涙を微笑みながら流しつつ──手の側に転がっていた小石を拾い、それをポンと、水面に投げたのだ。
そこから静かに音もなく広がる波紋を──。
ジュールは、何か悟りきったような彼女と共に一緒に暫く眺めていた。
「……なんだか怖いわ」
「……大丈夫ですよ」
今までは、自分が生きている事すら、陽炎のように眺めていただろう彼女は、きっと今後は守ってくれていた義兄が避けてきてくれた『痛さ』も、真っ正面から突きつけられる事になるだろう。
葉月は既に、その『痛さ』がいずれ襲いかかってきて、そうしてそれを己独りで受け止めていく物だと言う事は覚悟が出来ているかのような……そんな『怖い』という呟きに、ジュールには聞こえた。
波紋が大きく……遠くまで広がっていく。
何故か、ジュールは身震いをした。
出来るならば──この彼女に、二度と『悪夢の続き』など味わわせたくない!
それは純一が、あのように嘘をついてまで避けている気持ちと一緒なのだ。
そして……自分が守れなかった『女性達』を思うと、自然と、生き残っている葉月だけは、守りたいという気持ちにさせられた。
彼女に真実を話す必要はない。
何故なら、その前に、兄貴と俺が……必ず! 彼女の悪夢の根元を絶つ決意は何年もあるのだ。
いや……彼女の為だけではない、『御園』という自分達の『柱』を揺るがす事には、当然、立ち向かう!
事が終わってから、兄貴がどんなに嘘をついても……時が来た時にでも、誰かが告げてあればいいのだ。
しかし……葉月の手によって広がる水面の波紋。
そこになにやら、不安をもってしまったのは……『勘』なのだろうか?
それとも──『予感』なのだろうか?
ジュールの身震いは珍しく、止まらなかった……。
次の日──。
純一が、白い薔薇の注文をジュールに言いつけてきた。
それが、バカみたいに驚く本数であって、中には大きな花束にして水色のリボンをかけて欲しいという要望まであった。
二人でどのように、いつ別れるかはジュールは聞かされていないが、それだけの花を準備して欲しいという大仕掛けに『その日』をジュール予感していた。
純一の妙な『告白』の後──戸惑っていたのは告白をした純一の方であって、葉月の方が決めた通りに『信じる』と言うまま、今までのように『疑惑はあれど、知らぬ振り』を通そうと堂々としているようにジュールには見えた程だ。
きっと……彼女は『今から』……自分なりに『真実』を探すと決めたから。
もう、義兄の口から問い正そうだなんて微塵も思わなくなったのだろう。
しかし──きっと誰も、彼女には事実を簡単には告げないだろう。
純一は、そこに安心しているようだが、義妹の落ち着き振りは腑に落ちないようで、なんだか不安そうな様子だった。
白い薔薇が届いたのは日曜日の夕方。
ここ二週間あまり──二人が最後の愛を紡いだ寝室に運び込まれた。
そして、そこには水色のドレスを着込んでいる葉月が、優雅な微笑みを携えて、ヴァイオリンの手入れをしていた……。