・・Ocean Bright・・ ◆飛べない天使達◆

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11.泡と化す

 湖畔の静かな夕暮れ──。
 葉月がくつろいでいたこの部屋に、大量の白い薔薇が運び込まれた。

 二人で決めた事。
 葉月は、優雅で芳醇な香りが漂う中、ひたすらヴァイオリンの弦を締めて、調律をするだけ。
 先程、水色のドレスに着替えた。
 葉月の心は、もう──落ち着いている。

 夕日に照らされる中、ヴァイオリンのアーチを握りしめ、葉月は思い返す……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 クローゼットの一番端には、夜会用に誂えられたかのようなドレスが数枚あった。
 紺色に水色……義兄が葉月の為に作らせた物だと一目で判る。
 『ふたりで行こう──』と、そう決めた彼が、いつかは葉月にこれを着せて、何処かに連れて行こうと思っていてくれたのだろうか?

(今頃、こんな事してくれて。お兄ちゃまったら……)

 葉月はそっと微笑み、でも……涙がフッと湧いてくる。

 『夢』だった。
 いつか……この人の傍に寄り添える『綺麗な女性』になる事が。
 他の誰でもなかった。
 それを切に願っていただろう心は、燃えて仕方がなくなる前に、自覚して切なさに悶える前に──葉月は、自分でも自覚しない内に押し込めてきた。
 そして、そんな義兄は、ただ──義妹の為に応えてくれているだけの事で、『最終的』には『姉を愛しているのだ』と思っていた。
 どこかで……『私も、姉様のように愛してくれる?』と、期待しながら。

 『夢』でも構わない。
 ひとときでも構わない。
 それでも──あなたに、愛されたかった。

 その気持ちが満たされるのは『夢のひととき』だけ。

 その『ひととき』の為に生きてきたのかも知れない……。

 だけど、今回はその想いが、やっと届いて。
 そして……愛している人が、本当はこんなにも自分をひた隠しにしながらも、愛してくれていた事を、痛い程に感じる事が出来た。

 なのに、この目の前のドレスは──『今夜限り』の物になった。
 そして、彼の隣に寄り添って何処かに連れて行ってもらう事も、もう……ないのだ。

 それでも、葉月は『これが夢の最後を飾る』のだとばかりに、水色のドレスを手にとって、身にまとい始める。
 ツルツルとしたサテン生地の光沢が夕日に照らされ、水色のドレスは少しばかり紫ぽい色を漂わせた。
 左肩の傷を隠すデザインである事も、兄様は忘れない。
 その分、いつも鎖骨や背中が……時には葉月のささやかな胸でも、きちんと綺麗なラインが出るデザインで仕上げてくれている。
 今回は、胸元が開いているものだったけれど、いつも兄様にとっては『小さなお嬢ちゃま』であろう表現なのか、やっぱりボウタイのリボン結び。
 きっと、この姿を気に入ってくれるだろう……そう思える『女性らしい自分』を葉月は、ふっと鏡に写して見つめ続けた。

 女性らしい、美しくあろうとする私。

 そんな自分を見つめて、葉月はふと哀しくなる。
 この姿になるのも『全ては何の為だったのか』──。

 そう──すべては『夢』だった。
 好きな男性の為に美しくありたいと言う、ささやかな……そして、女の子が誰でも持つだろう自然な気持ち。
 葉月が築きあげてきた世界では、叶わぬ夢だったのだ。
 それを諦めきれず、なのに、現実世界で諦めたかのように中途半端に生きている事を自覚をする事なく……その現実世界で出会い、自分を愛してくれた男性を、何人? 巻き込んできたのだろう?

 葉月の振り向かない心。
 頑なに開かない心。
 何処かに消えてしまう心。
 ここ一番で、逃げてしまう心。

 それは全て! 『夢』を捨てきれなかったから?
 男性という物の始まりは『純一』であって、そして、結局──誰に触れても、触れられても、『義兄が最高』と言う気持ちしかなかった。

 その『私の完全たる世界』
 壊れるはずがない、壊れる事もない、揺るがない『夢の世界』を、揺さぶり続け、ついには自覚の扉を開かせた男性が現れた。

 その男性を『表世界』では、必死に愛したつもりだった。
 だけど──それが彼を傷つけ、そして、彼に『最大の犠牲』を与えてしまったのだ。

 『表世界』も『裏世界』もない。
 葉月が持っている世界観は『たった一つだよ』と──。
 その世界を一つにして……『さぁ。お前は何に対して必死になるべきか……答えを出すべきか』

 『逃げるなよ!』

 クローゼットの前で、葉月はハッと振り返る。
 だけど、そこには誰もいない。
 いないけど……葉月の目の前には『陽炎ではなかった人』が、眼鏡の奥から冷ややかで、厳しい眼差しを見せていた。

 そして葉月はその幻に微笑みかけていた。

 いつも『糸解き』をしようと試みた時、彼の『説明書』や『ヒント』があった。
 怖じ気づいても、彼は葉月の為なら、厳しい所でも無理押しするぐらいに前を向かそうとした。
 それが『痛い』時もあったけれど、痛い時でも、絶対に彼は『背中』を見つめてくれていた。

 

『澤村が願っているのは、サナギから綺麗に翼を広げて美しく飛ぶ姿なんだよ!』
『もう一度、一人になって、自分がどうあるべきか考え直して欲しいと言っているんだ』

 

 指輪の約束と同棲生活を解消した日の事──従兄と彼の言葉が蘇ってきた。

 

『お前と澤村はまだ……なにも始まっちゃいないんだ』

『これが俺の愛の形では……いけませんか?』

 

 『俺の愛の形』は、きっと間違っていなかっただろう。
 葉月は、ここにきてやっと『自分』というものが見えるようになってきたのだから。
 きっと隼人は葉月に『ここに辿り着いて欲しい』と願って、自らを痛めつける選択をしてくれたのだ。
 それが隼人が選んだ『愛の形』なのだ。

 葉月が『このように自分を捉えて、前を向いて生きていける』──それを願ってこうしてくれたのだと。

 

『貴女の事を女性ではなくて、どうしても救いたい一人の人間だったのではないかと思うんです』

 

「──!」

 葉月はクローゼットの棚に置いてある水色のバッグを手にとって、急ぐように、中からある物を探した。
 財布に忍ばせていた花柄の小さな巾着。
 そこに仕舞い込んでいたプラチナのクロスネックレス、そして……その十字架に輪を掛けたように組み合わさっているプラチナリング。

『ウサギさんへの餞──“勇気ある前進”だけは、忘れないで欲しくて……』
「ごめんなさい……隼人さん、隼人さん……!」
『この言葉がずっと生き残る事を──お前との一年間はとても楽しかった。無意味じゃなかった』
「やっと解った……あなたが何故、ここまで私を突き放してくれたのか──!」
『これは俺からのプレゼント。応援だよ』

 ただ音が過ぎるようにしか聞こえていなかった『隼人』からの数々の言葉が、『楽園の夢』に漂っていた葉月の頭を過ぎっていく。
 その『重み』が、まるでその握りしめているネックレスとリングにのしかかったかのように、葉月の手からスルリと落ちていった。

 

『生きる事をお前は今……選べたんだよ』

『お前が笑うと、幸せになる人間が沢山いるんだ──笑ってくれ』

 

「ああ──!」

 ふたりの男性の『願う声』が同時に聞こえた!
 膝から力が抜け、葉月は床につっぷした。
 暫く、そこで声を震わせて泣いた。

 死にたいと何度も思った。
 それに相反して、その分『生きたい』とも思っていたのだろう。
 だけど、その『生きる』がとても『辛い』。

 なにもかもが『思い通り』にならない。

 本当は貫きたかった『音楽への夢』も。
 軍人になるはずではなかった、幸せな娘としての『約束』も。
 たった一つ──大事に胸に忍ばせていた『男性──義兄への愛』も。

 なにもかも忘れたいから『自分を痛めつけてきた』

 軍人という過酷な男性社会の中で、心を痛めつけた事もあったし、身体を痛めつけた事もあった。
 その度に、『愛してくれる人々』を哀しませてきた。
 その哀しみを、自分で解っていながら『無感覚』へと高めてきた。

 その『無感覚』が、生きながらにして『死んでいる』ようにしていたに違いない。

 隼人はこの一年、中隊内でも、任務でも、そんな葉月を見て、葉月よりも先に気が付いたのだろう。

『生きるという事が、何処にあるのか見つけて欲しい』

 その過程に葉月がここまで『夢を追う』事が不可欠……いや? 『近道』だと思ったではないだろうか?
 『自分さえ、恋人というプライドを捨てれば──』なんて、きっと隼人のそんな『覚悟』で、葉月はやっと『生き返った』のだ。

 そして義兄も──!
 今日まで、彼は本当に『葉月の思うまま』に愛してくれた。
 今までは、『このままでは、良くない』と思って冷たく突き放された事も何度もあったのに、今回は本当に『良くない結果になろうが、俺はお前を連れて行く』という『覚悟』を決めてくれていた。
 そんな彼に満たされて、葉月は初めて『目覚める』。
 愛された果てに見た物は、『夢』のままの景色ではなくて、『現実』だった。
 それでも義兄は、もし葉月が『夢から覚めない』のならば、一緒に堕ちてくれる覚悟も決めていたのだろう。

 『夢の果て』を『見せよう』としてくれたのは、隼人の『犠牲』があったからだ。
 葉月は元より、きっと義兄が覚悟を決めてくれたのも、隼人の人には考えられない『葉月の為の犠牲』があったから!
 それには、葉月が『夢を見る必要』があると解っていて……!

 だから……!

「だから、私……前に進むわ。もう、あなたが傍にいなくても、『誰も傍にいてくれなくても』──私は私として『生きていく』事を……!」

 きっと、それが隼人の愛に応える事で。
 そして、義兄への依存から離れて、初めて『純一』が昔から望んでいただろう『本来の義妹』に戻り、彼を心より安心させる事が出来るのだろう。
 純一に頼り切って、彼に負担をかけ、純一も隼人同様に、彼の全てを犠牲にしてくれる覚悟だったに違いない。

 全ては……この『死にかけていた私』の為に!!

「応えなくては……あなた達に、愛されたのだから……。行かないと──!」

 今まで自分がどれだけ『愛されるだけ』の中で、甘んじて生きてきた事か──!
 今まで自分がどれだけ人を『愛する』という事に、心を投げかける事が出来ていただろうか──!?
 たった一つ、自分が貫こうとした『義兄との愛』ですら、葉月は彼のつかみ所がなくても、頼もしい依存の中で欲していた『自分の為のみの愛』だったのだ。

 床に突っ伏していた葉月は、ふと顔を上げる。
 目の前に、手からすり抜けていったクロスのネックレスとプラチナリング。
 葉月はそれを見据えて、ガシッと力強く握りしめる!

 そしてゆっくりと身体を起こした。

「パパもママも……皆、有り難う──」

 リングの裏には『勇気ある前進』
 葉月はもう一度、握り直して、上へと視線を向けて瞳を輝かす。

 

「葉月? なにをしている……? 大丈夫か?」
「! お兄ちゃま……」

 

 葉月の見繕い場であるパウダールームに、義兄が様子を覗きに現れた。
 葉月は何事もなかったように、フッと立ち上がる。

「どう? 着替えたの」
「うん……思った通り、似合っている……」
「本当? 有り難う、兄様」

 皮肉無しに、スッと素直に褒めてくれた義兄。
 そして和らぐ微笑みに葉月の心は、やはり、ときめいたり、嬉しくなったり──未だに少女のような感触は失せない。

 それがやはり哀しい。
 でも、葉月は手にしているネックレスをそっと静かに握りしめた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

『今週いっぱいで、帰りたいの──』
『分かった』

 『決別』を二人で決めた後、葉月が一言そう告げると、義兄も、そんな一言で応えただけ。
 何時、どうやって『帰る』だなんて事は、お互いに詳しくは話していない。

 『今週いっぱい』が、日曜日である事も。
 『どうやって帰るか』という帰り方も……葉月が一人で箱根から小笠原まで帰るのか、誰かが付き添ってくれるのか、義兄がそこまでは送ってくれるのか? ……なんて、そんな事は話し合っていない。

 いつもの『ふたり』だった。
 詳しくは話さなくとも、お互いにその時には、きちんと通じ合う。
 だから……話し合わない。

 それが『悪いやり方』なのか、それとも? 私達ならではの、誰にも真似出来ない『疎通』である『良き事』なのかは、葉月には判らない。
 だけど、いつもそうして、ここまで信じ合ってきたのだと、葉月は思っているから、『いつも通り』に黙っているだけ。

 ただ……何も義兄が言わない分、いつもなら、義兄の勝手な判断で強制的に小笠原に返される事が殆どだったのだが、今回は自分の意志もきちんと含まれているので、葉月は一人で帰る心積もりと準備はしていた。

 手荷物は、義兄が選んでくれたあの水色のハンドバッグだけ。
 義兄が一言も言わずに夜明けが来ようとしていても、それだけを手にして、こっそりとこの別荘を抜け出す心積もりだ。

 バッグの中には……『天使』

 葉月のお供は、今は『天使』がいる。

 心の奥では、大好きなお兄ちゃまから離れる事も、本当はイタリアへ行って、新しい女性としての人生を始められるかも知れない事も……まだ、その未練が疼いている事も自覚している。

 だけど……その『天使』を見ては、思い直す。
 何故? この天使と出会ったのか、出会う事になったのか?

 本当に沢山の、あらゆる、『今までの全て』が──断片的でも、それは鮮やかで、そしてズシリとした重き感触を携えて、葉月の頭の中に数々の映像が鮮烈に映し出され始める。

 それが──『大事にしてくれた仲間』であったり。
 それが──『愛してくれた彼達』であったり。
 そして──『家族』であったり。

 そして──そして……私を愛してくれた『彼』と『義兄』。

 

『あの日が存在しない違う幸せが今でも欲しい? 取り返したい? そうなっていたら……それはそれで最高な幸せを今より掴んでいたと思うよ? きっと──軍人なんかじゃない葉月がいて……ヴァイオリンを持って……お父さんが認めてくれた品の良い、もしくは……優秀な隊員と結婚していたかもな? もう──母親になっているかもしれない……』

 

『俺との出逢いは……なかっただろうね。俺といる意味……ないだろうね……。あの日を否定することは』

 『あの日の意味』を、教えてくれた彼の言葉が、やっと葉月の胸に蘇ってきた。
 葉月は──そんな事も忘れ、あの時彼の言葉を胸に刻んだはずなのに、『無にした』ような気がして、情けなくなり……今更ながら、自分の情けなさを噛みしめながら、愚かさを胸に刻みながら、ヴァイオリンの弦をキリキリと締めた。

 天使と出会ったのも、『あの日』があって、そして彼と出会ったからだ。
 新しい『意味』は、『天使の存在』だ。

 その天使を共にすべき事は……解っている。
 彼の元に戻る事じゃない。
 彼の愛に飛び込む事じゃない。

 彼に応える、彼の愛に応えるのは──。

 『あの日と戦うのは……誰でもなく葉月自身だ。だけど──あの日を否定しちゃいけない、どんなに苦しくても憎くても悔しくても!』

 きっと……そう。
 そうして、『糸解き』への『道のり』へと導いてくれ、ここまで葉月の心を満たしてくれた『彼』の願いに応えなくてはならない。

 葉月は飛ぶ。
 墜落しても飛ぶ。
 地面に粉々になっても──いや! 粉々になってたまるか!

 絶対に飛べるように、必死になる。
 その飛ぶ姿が、如何に不様でも──!

 それが『生きる事』なのだ。

 それを……彼に伝えなくてはならない。

 

「日が……沈むわ」

 ヴァイオリンの調律は終わった。
 葉月は、ソファーから立ち上がり、開け放している窓辺に向かった。
 バルコニーの向こうに見える、薄紫色の空を映す湖の日没を見つめる。

 そっと微笑んだ。
 そして、瞼を閉じる。

 壊れた物も、終わる物も──それもまた『自然の中に、存在する物』なのだと……。

「日が沈んだな……冷えてきたから窓をしめたらどうだ? 薔薇の香りが逃げていく……」

 先程、様子を見に来てくれた義兄が、ワインボトルを入れたアイスバケットとグラスを手にして寝室へ戻ってきた。

「逃げやしないわ。こんなに豪勢に揃えちゃって。本当に、義兄様は『やる』と決めたら、派手なんだから」

 部屋の中は、そこら中に、薔薇を生けたバスケットが大きい物から小さい物まで──所狭しとひしめき合っている状態だった。
 まるで、おとぎ話のような世界だ……と、流石の葉月も感動を通り越して、呆気としたぐらいだ。
 それ程の数の薔薇が、この若草色を基調とした寝室に運び込まれ、葉月と純一を取り囲んでいたのだ。

「俺が派手だと? オチビに言われたくはなかったな。お前こそ、やると来たら派手……いや? 爆裂的っていうのかねぇ〜?」
「なぁに?」

 いつもの義兄と生意気な義妹の言い合いになりかけて、二人はそこで見つめ合って、すぐにお互いに笑い声をもらした。

「聴かせてくれる前に──軽く、一杯、やらないか?」
「……いいわよ」

 薔薇と水色のドレスと、そして『最後の演奏』

 お別れの『約束事』が全て揃った。
 なのに、彼は静かにそっと穏やかに微笑み、テーブルにグラスとアイスバケットを置いて、ワインボトルを取りだした。

「ロゼ・シャンパンだ。飲みやすいぞ──ジュールに譲ってもらった。が、まったく、高く売りつけてくれた」
「彼はワインも?」
「ああ。なんでも好みがうるさい凝り性でね」
「彼らしいわね。『我が信念』、一歩も譲らない人生って感じだもの」
「……だろ? これからも『仲良く』してやってくれ。強い味方になってくれる。俺にとっても大事な……」
「大事な?」
「……家族同然だからな」
「……そうね。そんな感じだわ……」

 これらも『仲良く』──。
 新しくできた関係は、続けられるのだけれど。
 でも……目の前の兄様とは、また離ればなれ。
 それも……本当は『家族』は『私達』なのに。
 今となっては、義兄の『家族』は、日常を共にしている『他人』なのだ。
 とは言え葉月も、『真一』と言う血の繋がりがなければ、目の前のお兄ちゃまとは『他人』である事に、今更気が付いてみる。
 そうだ、だから……『家族』なのに『男女関係』が成立したのではないか……と。

 葉月は、ふとそんな風に思ってしまい……ジュールという『他人』を『家族』と言った事に、僅かな『嫉妬』を感じながらも。でも、物分かり良く呑み込もうとした。
 だけど、純一の方は、葉月が拗ねる事を判っていたのか、少し可笑しそうに笑った。

「怒っているのか? まぁ……座れよ」
「お、怒るって? 何を怒るの!?」
「それ、ムキになっているじゃないか。いいから、『話がある』から、座ってくれ。『家族』としての話だ」
「……家族ねぇ」

 心を見透かされた分──今になって『家族の話』なんて、取り繕うような事を言い出した義兄に、葉月は少しばっかり嫌みたらしい眼差しを向けてしまった。
 だけど、白い布をあて栓を静かに開けようとしている義兄の表情が急に強面に引き締まる。

「ひねくれるなら、気を変えるぞ」
「わ、解ったわよ……」

 『本気』に向き合う時の彼の顔だと判って、葉月は畏れを急に抱きながら、今度は素直にソファーに座り直した。

「先日──『お前が何が欲しいか……悩まされた』と言ったな? 俺は」
「うん……そうね? それが?」
「あの後、考えた。今までも、お前には女性が喜びそうな装飾品やドレス等を贈っても、あまり使いこなしてくれていないようで……」
「だって……汗まみれの海軍パイロットよ?」
「にしても……たまに洒落る時にでも……とは思っていたが。右京が気にする程、お前ときたら『希薄な女』に成長してしまって、宝の持ち腐れになるばかりだったな」
「……」

 大きな手の中で『シュポン』と栓を抜いた純一が、淡々と、まるでお説教か愚痴のように語り始める。
 それを聞いている葉月は、またもや、彼の目の前で、右京にお説教をされる時同様の妹になり、口元を曲げる。

 だけど、言っている事は、まさにその通りではある。
 そして、葉月はそっと耳たぶをつまんだ。
 ボトルに集中していた義兄が、その仕草に気が付いた。

「例外はそれだったな。ブルーパールのピアス」
「ずっとつけている……」
「そうだな。いつも、お前の耳にはそのピアスだったな……」

 この贈り物だけは、気に入って身につけていた。
 他にも、お気に入りのピアスはあれど──結局、『馴染み具合』が良すぎたのだ、このピアスは……。
 そんな葉月を見つめる純一は、どことなく嬉しそうに微笑んでいる? ふとそう思いたくなるような、微妙な表情を純一がしている。

「……その、お洒落が何か?」
「いや、だから──『洒落る事』が、お前の『したい事、欲しい事』ではなかったのだ……と、言う事だ」
「……それで? だったら、義兄様は何に辿り着いたって言うの?」

 何が欲しいか? なんて、今頃になって──。
 そりゃ、葉月自身も、『自分が本当は何を欲していたか』なんて──近頃になって目覚めて、自覚して、覚悟を決めたが、もう……見事に『玉砕』したばかりではないか?
 『玉砕』とはいっても、それは新しき『目覚め』の為に『良い意味での崩壊』というべきかもしれないが?

 だから、葉月は呆れた口調で、また、口元を曲げてふてくされる。

 だが、そんな義兄は、やはり落ち着いた様子で葉月に何かを差し出してきた。

「先日のクレジットカードだ。お前がいらないと言っても手渡しておく。どうしても、嫌なら、自分で破棄してくれ」
「……」

 そこまで言われると、なんだか徹底的に突き返せないような気がする。
 だから、受け取るのでもなく、突き返すのでもなく、葉月は静止したまま戸惑ってしまっていた。
 その隙をついたように、さらに義兄が差し出した物。
 サイドボードに置かれていた書類袋を、彼が取りに行き、葉月に差し出した。

「この別荘の権利書──お前の名義にしてある」
「! どうして!? 売らないの?」
「売らない……お前が好きなように使ってくれ。ああ、売っても良い」
「どうして……?」
「どうしてだろうなぁ?」

 彼が緩く微笑む。
 何かを含んだように、ニヤリとした感じで……葉月をからかうように。
 でも──葉月にはそれが『照れ隠し』だと判った。

 最後に二人で素直に求め合った家だった。
 だから……かもしれない──と。
 義兄は、このような形で『想い出として取っておきたい』なんて思ったのかも知れない。
 葉月のいつもの一人独断で予想する彼の気持ち……。

「有り難う。でも、そういう事なら、右京兄様に管理を任せるわ」
「それでも良いだろう……。だが、たまには『自分の物』として『自分で管理する』のも勉強だと思うがね。ま……真一と休日を過ごす場にしてくれても構わない」
「そう……ありがとう……」
「最後はこれだ」
「?」

 最後にと、差し出したのに……それは、二つ折りにしているただのメモ用紙だった。
 葉月は、訝しみながら、それを手にして開いてみた。

「……電話番号? しかも、『若槻さん』の……」
「日本の窓口は、すべて、若槻に任せている。それは若槻の『常時連絡先』だ」
「!」
「右京も、ロイも然り。それ以上の連絡先は『万が一』を考えて、コンタクト出来ない方針を何年も通してきた。それ以上はない。ただし……若槻に言えば、何が何でも。俺が何処で何をしていようが『取り次ぎ』はしてくれる。が、今までは、右京だろうがロイだろうが、若槻から連絡があっても、全てに応対する事はなかったがね。こっちの都合任せにさせてもらっていた」
「……」

 葉月は絶句した。
 いや……義兄が『初めて』連絡方法を教えてくれたからではない。
 またもや『今頃、今更』な事をさらしてくれたので、『呆れた』為の絶句であった。

「──今更。だろうな?」
「当たり前じゃない!!」

 手にしていたメモ用紙を、葉月は握りつぶし、粗雑に義兄に向けて投げつけてしまったが、まるで判っていたかのように、彼がその丸まったメモ用紙を、片手でキャッチしてしまった。
 その上、やはり……いつもの人を食ったような微笑みを浮かべたのだ。

「そっか──いらないなら、それで良いがね」

 当然、葉月はムッとしたのだが……。
 純一がふざけていたのは、『そこまで』だった。
 彼は、急に……眼差しを陰らせ、メモ用紙を握ったまま、夜のとばりが降りようとしている窓辺に、憂う瞳を投げかけたのだ。

「純……兄様?」

 葉月も、カッとなった熱がサッと退き、そんな彼をうかがう。
 そして、暫くして──純一が、フッと溜め息をもらした。

「悪かったと思っている。なにもかも……」
「……悪かったって? 離れていた事?」
「ああ──全てだ」
「……もう、いいじゃない」

 先程、湖畔でジュールに言われた通り……『信じたい』から、義兄の素っ気ない態度も今まで、『訳がある』と思ってやり過ごしてきた。
 本当に……今更なのだ。
 葉月にしても、良きも悪きも『今更』なのだから……。

 純一は、それでも葉月に、クシャクシャになったメモ用紙を差し出した。

「今更でも、やり直させてくれ」
「やり直す!?」
「せめて……『家族』としてだ」
「──家族!」
「おまえと真一に、俺の仕事関係で『悪い事で巻き添え』になる事があってはいけない……『これ以上、我が事で悪しき事を起こしたくない』。そう思っていた……」
「義兄様……」
「だが……考えを変えた。いや、俺の考え方がマイナス過ぎたのかもしれないな。この歳になって、今更だがね。今度は……」
「今度は……?」

 葉月は、その先の言葉に『期待』を感じていた。
 だけど、がっかりしたくないから、まだ胸のざわめきをなんとか押さえて、緊張を募らせる。

「今度は……『もし、お前達に危害が近づこうと、俺が絶対に守る』──そういう気持ちに、遅れ馳せながらな……」
「純兄様──! 本当に?」
「ああ……帰る前に、俺から真一にも会いに行く」
「本当に!?」
「その為にも、お前には『叔母』として、俺の連絡先は知っておいて欲しいし、お前にも何かあっても、俺は『義兄』としてちゃんと守る」
「!」
「家族という事も、避けてきたが──俺も、いつまでも『昔の傷』に対して臆病になっていては、皐月に『何を足踏みをしているのか』と……叱りとばされそうな気になってな……」
「そう……そうなの……本当に、いいの?」
「ああ、『頼むから』、受け取ってくれないか」

 もう、『恋愛』という意味では、繋がりを断ち切ろうとはしているのだが、葉月がそれでも『最低限、持っていたい繋がり』を、純一は忘れていなかった、無にしようとはしなかった。
 それも──! 遠ざけてきた『息子』との関係を、これから『始める』と言い出したのだ。

 葉月の瞳に、熱い涙が浮かんだ。

 せめて、せめて──可愛い甥っ子との『父子』の関係が、近く歩み寄る事は出来ないのか?
 昔から、そう思っていただけに、今回の事で、純一が『考え改め』をしてくれた事は、とても感激する『変化』だった。

 だから、葉月は『頼むから』と言って、差し出されたメモ用紙を受け取った。

「確かに、では……『何かあったら』使わせてもらうわね」
「うん……頼む。なるべく、俺からもボウズには連絡出来るようにするが。なにぶん……危ない世界に首を突っ込む事もあるので、用心はしておきたい」
「解っているわ」
「お前も、一個中隊をもつ『大佐』だ。そのあたりの渡り方は信頼しているから、頼んだぞ」
「勿論よ」

 近頃、忘れかけていた『立ち向かう笑顔』を葉月が頼もしく浮かべると、彼もそれに応えるように瞳を輝かせた。

「こういう事だろ? お前が昔から……欲しがっていた事と言うのは」
「うん……」
「判っていただけに、『無理な事』と思って無視してきたが──『無理な事』と思っていたのは、俺の『決めつけ』だったな……」

 まるで、何かに打ちのめされたように純一が、致し方ない笑顔を浮かべて、頭をうなだれていた。
 何かに──降参したかのように。
 そんな『お兄ちゃま』が、いったい、どうしてこんなに『変化』したのか? 葉月は急に不思議に思えて、首を傾げてしまった。

「……どうしたの?」
「いいや……なんでもない」
「……」
「さぁ……冷えている内に飲もう」

 葉月の手元に置かれたワイングラス……そこに桃色のシャンパンが注がれる。
 小さな気泡が、沢山のスパイラルのラインを描き始める。

「──飛び立ちに、乾杯……と言おうか?」
「乾杯」

 お互いにフッと微笑みながら、グラスを合わせ、二人揃って一口、呑み込んだ。

 日は沈み、グラスの向こうには、紫色の夜空が映されている。
 その静かな風情を肌に感じながら、葉月は、もう一口、口に含んだ。
 そんな風に、しとやかにグラスを傾ける葉月を、純一がジッと見つめている。

「あ。私もね! 純兄様に渡したい物があるの!」

 『欲しかった物』を、彼から贈ってもらい、葉月は嬉しさもあって、元気良く立ち上がった。
 義兄様との『熱愛』は終わってしまったけれど、でも──やはり『家族』という事は消える事はないのだから──。

 葉月がそう思って微笑んでいると……純一も嬉しそうに微笑んでくれたのだ。

「純兄様……」
「なんだ?」

 その笑顔が、昔の『お兄ちゃま』の笑顔であっても、なんだかとても『幸せそう』に葉月には見えた。
 何か、今まで硬い表情を保ってばかりだった人が、呪縛から解けたかのように。

「最後に……純兄様のそんな顔が見られて、私も嬉しい」
「葉月」
「うん……待ってね。今、持ってくるから……」

 お兄ちゃまは、『約束を破った罪』をずっと背負ってきていた。
 悪いのは『あいつ達』なのに──自分のせいだと、お兄ちゃまは、自分自身を責め続けてきた。
 そんな義兄様が行き着いたのは『闇世界』で生きていく事だった。
 でも──! 義兄様は、『帰ってきた』! 私達の所に『家族』として……。
 葉月は、ドレスの裾を翻しながら、クローゼットに忍ばせていた贈り物を取りに行こうと、微笑む。

 そう思いながら、葉月は、全てが叶った訳ではないけれど……願っていた一つの事が叶ったようで、やっぱり涙が滲んでくる。
 涙が……滲んで? 目の前の光景が『ぼんやり』していた。

『?』

 ぼんやり──だけではない? なんだが、ユラユラと揺れ始めている?

『!?』

 一歩踏み出そうとしているはずなのに、膝が『がくん』と重く落ちた気がした!?
 今度は、腰が、肩が! まるで床に引っ張られるように重く落ちていく!

 次の瞬間──! 葉月は床に倒れようとしていたようなのだが!
 誰かがフッと、腰を支えて、抱き留めてくれていた。

「葉月……許してくれ……」
『!?』
「これ以上……俺は……」

 ぼんやりとぼやけている目の前……そこには、哀しそうな、今にも泣きそうな兄様の顔があった。
 それを見て、葉月は、グラスに盛られていた事に、『やられた!』と頭の隅でひどくショックを受けたのだが、次にすぐに思い浮かんだのは……そんな事をしてしまう『お兄ちゃまの寂しい気持ち』だった。

「ひどい……いつもと一緒じゃない」
「……」
「ヴァイオリン……弾かせて……くれないの?」
「湖で聴かせてもらった……あれが最高だった。お前は綺麗だった」
「……どうして?」
「葉月……!」

 さらに、ぼんやりとぼやけてくる視界の中で、哀しみを噛みしめている『彼の顔』
 その彼に、力が入らない身体を強く抱きしめられている感触は、切々と伝わってくる。
 それが、余計に葉月に突然やって来た『別れの哀しみ』を、痛い程、身体に刻み込ませるよう……。

「じゅ……ん……にい、さま……」

 スパイラルの気泡を浮かべている、薔薇色のシャンパンが葉月の目に飛び込んできた。

「……人……魚……姫み、た…い──」
「葉月……」
「泡……なって、消え……の……猫、姫……」

 泡になって、今度は消える。
 泡が弾けた先で……『私』は、どうなる?

 もう……わかっているわよね?
 もう……わかっているものね?

 でも……やっぱり、『義兄様は勝手』だわ。

 ……また、薄桃色の靄に包まれる。
 夢の『白い薔薇』の香りにも包まれて……。

 夢の終わり。

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