・・Ocean Bright・・ ◆飛べない天使達◆

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9.愛を選ばない

『葉月。俺と……飛び降りてみるか? そこの崖を』

 この日も快晴──。
 東名高速の上空は、青い空と白い雲──ハイスピードで軽快に走る黒い車。
 この日、運転席に座っているのは、茶色いサングラスをかけている金髪の男性だった。

「お嬢様、暑くありませんか? 暖房が効きすぎてもいけませんからね」
「ううん……大丈夫。丁度、いいわよ。ジュール」

 義兄のお許しをもらって、この日は部下である彼に付き添いを頼んでの買い物に出かけた。
 向かっているのは『横浜』。
 そこに葉月が行きたい店があるのだ。 

 この車に乗る時、ジュールがエスコートしてくれたのは『付き添い』らしく、お嬢様は後部座席へ……だった。
 だが、葉月は敢えて、助手席に向かった。

『いいんじゃないか? 色々、話してみたらいいだろう?』

 ジュールはやや戸惑っていたようだが、見送りに出てきた義兄は、なんだか可笑しそうに、そして楽しそうに余裕で笑って、義妹と弟分部下が並んで出かけるのを見送ってくれた。

 高速に乗った今も……連れていって欲しい場所や、本日の買い物の目的などについて、ジュールと話したり……。
 今まで以上に、ごく自然に肩を並べて微笑みを交わしあって、穏やかな会話を楽しんでいたのだが──。

 ふと、窓辺の爽やかな空と高い位置にあるこの高速道路から見渡せる田園風景に見とれた瞬間──葉月は何かに、囚われる。

 

『葉月。俺と……飛び降りてみるか? そこの崖を』

 

 昨日──湖畔で義兄が言い出した言葉を葉月は噛みしめる。

 

『? そこの崖?』
『ああ、俺達が躊躇しつづけてきた“明日への崖”だよ』

 

 義兄の『飛び降りよう──』と言う決意。
 葉月は……それに『賛同した』

「……お嬢様? もし、お疲れならば、私に構わず、シートを倒してお休みになっても構いませんからね」
「え? ええ……有り難う」

 隣で運転をしている金髪の彼には、何を思いふけっているかなど……きっと、見抜かれているだろう。
 彼は葉月の心中を察したのか、微笑みを浮かべたまま、黙り込んでしまった。

 葉月もその言葉に甘えて、ウィンドウにもたれ……景色を眺めながら、そのまま思いふける事にした。

 

 

『? そこの崖?』
『ああ、俺達が躊躇しつづけてきた“明日への崖”だよ』

 

 『明日への崖』を飛び降りる事は、『私達の別れ』と『楽園への決別』を意味していた。
 今まで、葉月がどんなに躊躇して怖がっても、絶対に傍にいてくれた人のその決意は、とても厳しい物でもあった。

 高速道路を走っている空気を裂く音──。
 ふっと目を閉じて、外の景色を眺めている葉月の耳の奥には、昨日の穏やかな『湖畔の波間と風の音』が蘇る。
 そして……『お兄ちゃま』の静かで、それでいて、揺るがない数々の強い言葉達が──。

 

「悪いが──崖を飛び降りたら、お前を抱えて飛ぶ余裕はなさそうだ」
「猫に羽はないから?」

 葉月が子供のように言うと、彼が可笑しそうに笑った。

「そうだな。俺は──もしかすると? 飛び降りても地面に着地して、走るだけなのかもな?」
「だから──猫にも羽があったら飛べるって言っているのに」
「お前は飛べよ。飛べる──」
「純兄様……」
「もし──お前が飛べなくても、何処かで待っている。俺も飛ぶから、お前も頑張ってみるか? どうだろう?」
「……兄様っ」

 葉月は再び、顔を覆って泣き崩れた。
 それは『別れ』を意味している事を解っていた。
 でも……私達は、そうするべきなのだ。きっと……。

「飛び降りる時は……一緒に飛び降りてくれる?」
「ああ……」
「私も──兄様が見あたらなくなっても、何処かで絶対に飛んでいるって信じるわ」
「オチビに先を越されないようにしないとな。負けないぞ」
「義兄様……」

 彼の吹っ切れた笑顔は──昔の彼そのものだった。
 昔もそれなりに憮然としている人だったけど、今はなんだかとても満たされて爽やかそうだ。

「それで──もし、また一緒に並んで飛べるのなら、飛べばいい。だけど……この『飛行』には、もうお前を抱えては何も出来ない。俺もなにもない。今からだからな」
「……解っているわ」

 神妙に答えた葉月を、彼は見守るように静かに微笑み見つめているだけだった。
 やっぱり──それは寂しく、とても不安で、そして、怖い気持ちにさせられた。
 突き放された訳ではなく、自分で決めた事だから余計に……だった。

 葉月を抱き寄せていた彼の腕にさらに力がこもり、そして……ヴァイオリンの上に置かれている葉月の小さな手を、しっかりと純一が握りしめてきた。

「お兄ちゃま?」

 葉月が訝しみながら、彼の顔を寄りかかっていた肩先から見上げると──。
 そっと軽く唇を塞がれる。
 そのまま暖かくて柔らかいお兄ちゃまの唇が、私の頬の上でそっと囁き始める。

「──短かったが。俺が生きてきた中で、一番幸せな時間だった。お前に愛されて……俺は幸せだ。これだけで、俺は生きていける」
「お兄ちゃま……私だって。本当に、愛しているわ。本当よ!」
「もう、いいんだぞ。葉月──『お兄ちゃまは、ひとりぼっちじゃない』だろ? それで充分だ」
「でも……」
「お前の目の前には、もう『黒猫の男』だけじゃない。お前なりに、沢山の人を愛して生きていくんだ。その為に──な?」

 また涙がこぼれたが、やっぱり、彼の逞しい指がそれを止めようとしてくれる。
 いつだって、何度でも。
 その仕草は、昔から──とても静かで、暖かい。
 だけど──。

 義兄の『決心』は──私の『決心』
 一緒に飛び降りる。
 今まで、暖めあってきた部屋を出て──皆がいつか飛んだだろう『崖』を飛び降りる。
 もしかすると……直ぐに飛べるかも知れない。いや? まさか?
 もしかすると……お兄ちゃまだけ上手く飛べて、私は降下するだけかも知れない。
 もしかすると……お兄ちゃまは高く飛べるけど、私は低い所を小さな翼をバタバタと不器用にはためかせて、とろとろしているだけかも知れない。
 それでも……もう、お兄ちゃまは助けにはきてくれない。
 皆はもう既に上手く空に上昇して、飛んでいる中──私は地面スレスレを、独りぼっちで飛ぶのかも知れない。

 それは──とても怖い事。

『!?』

 その時、ハッと葉月にある日の夕方が蘇る。

 潮騒の音と、そして夕空に舞う『海猫』
 そして、彼の笑顔。

『……俺が今ある力はこんなものだ』
『海に落ちるなら、俺も一緒に落ちてやる。その代わり、苦しいけど一緒に泳いでもらうぞ』
『だから……今、俺が抱いてあげている』

『私、あの翼に捕まって、引っ付いていっても良い』
『翼に捕まるから。ボロボロになっても、私が飛ばしてあげる』
『一緒に海に沈んでも……海底で手を繋いで歩くもの!』

 海猫の声と、海鳴りが消える──。

 葉月は……涙をこぼしながら、ふと笑った。

「バカね──私は。あの時も……」
「どうした?」

 そんな葉月を見守るように純一が顔を覗き込む。
 だけど……葉月はそっと一人、頭を振るだけ。

「どんな時も……自分で飛ぼうとしないクセに……ボロボロになっても飛ばしてあげるって、なに?」

 あの時も、あの時も……それでも誰かに捕まって、幸せになろうとしていた。
 それを笑って受け止めてくれた『彼』。

 そして……いつまでも、私を好きなだけ『温床の姫君の夢』に浸らせてくれた『お兄ちゃま』。

「……猫姫でなくなったら、私は何になるのかしら?」

 葉月はそっと笑いながら、肩を抱き寄せてくれる義兄の肩にもたれかかった。

「さぁな? 俺に見せてくれよ」
「うん……」

 彼の腕に力がこもり、葉月はさらに抱き寄せられる。
 最後、お兄ちゃまが甘えさせてくれる『力』。
 葉月はそのまま、身を委ねて身体中の力を抜いた。

 でも──そっと目を閉じて、拳を握る。

 

『葉月の心は今、裸んぼ……生まれたての赤ん坊と一緒だな』

 

 あの人の声。

 そう……私は『生まれたての赤ん坊』と一緒。
 そう……私は天使と一緒に生まれたばかり。

「帰るか……」
「……」

 義兄の一言──。
 葉月はドキリとして、彼の肩先から顔を上げると……ベンチの背にかけていた水色のコートを純一が肩にかけてくれた。
 散歩から、別荘に帰ろうと言う意味だったのだろうか?
 それとも『小笠原に帰るか?』と聞かれたのか?

 でも、どちらにしても──純一は、とても満足に満ちた笑顔を浮かべながら立ち上がり、そして、やはり葉月に手を差し伸べてくれる。

「そうね。“行く”わ……」

 その日差しに輝く大好きな手を……葉月は笑顔で取った。
 彼の指がしっかりと、葉月の小さな手をつかみ取って、引き上げてくれる。

 飛ぼうとするまで、この手が私を導いてくれた事も──『変わらない』。
 それも……この人がここまで、一緒に来てくれたお陰なのだ、きっと。

 そして──私に天使をくれた『彼』。

 手を導かれ立ち上がった葉月は、キラキラと反射する湖面の光に眼差しを伏せて微笑む。

 もうすぐ──この手から、私は『卒業』する。
 それまでは……せめて。

 葉月はそこでやっと、唇を噛みしめ……やっぱり離れがたいと息を震わせ泣いた。
 その手を静かに引いて、彼が帰り道を辿ってくれる。

「……水色の……ドレス」
「ん?」
「最後に、水色のドレスを着て……ヴァイオリンを弾くわ。だから……お兄ちゃまは」
「そうだな。チビの顔が隠れるぐらいの、白い薔薇を用意しなくちゃな」

 彼の『ミューズ』になってお別れする。
 葉月は、手を引いてくれる純一の背中に飛びついた。

「本当は──私はミューズじゃなかったのでしょう? やっぱり、私はオチビだったんでしょう?」
「……」

 彼の背中からいっぱいに回した両腕。
 お兄ちゃまの胸を抱きしめる私の腕を、彼がそっと優しく撫でて、そっと笑いをこぼした。

「そうだな。お前──ミューズまでは、まだまだみたいだなぁ」
「!?」
「そりゃそうだ。お前みたいなチビが、そう簡単に『いい女』になるわけないよな? 俺は騙されたのかね? やだね。チビにほだされるとは、歳をとったもんだ? やはり『幻』だったかねー?」
「なに、それっ! 歳をとって騙されたって何よっ!?」

 途端に意地悪な笑みで、悪態をつき始めた義兄に、葉月もやっぱり途端に頭に血が上る。
 こっちが真剣にしんみりしていても、お兄ちゃまはいつだってこうして変なイヤミで無茶苦茶にする。
 ムードもへったくれもなくなる。
 まったく『女心分かっていない!』と──この葉月が、おかんむりになるぐらい、いつも踏みにじってくれる『憎たらしいお兄ちゃま』。

 だけど、彼がまた──あの若さを思い起こさせる爽やかな笑顔を見せてくれた。

「けど──いるみたいだな。確かに、お前の中に。今度はいつ会えるかね?」

『そういう女になれよ』

 彼の笑顔から──そんな声が聞こえてきそうだった。
 葉月も微笑み返す。

 いつか──きっと。

『忘れないでね? 愛している──』

 また手を引いてくれる彼の背に、葉月はそっと心で呟いた。
 もう……声にして言えない。
 でも……私の『愛している』

 それだけは……間違いなくここにある。
 ここが『幻の楽園』でも──。

 葉月は、その背にそっと微笑む。
 この気持ちを胸に──飛ぼうと思った。

 これからは『独り』──。
 この人を愛せた自分の『愛』と……天使を引き寄せてくれた私を存分に愛し抜いてくれた彼の『愛』を胸に。

 『独り』──その二つの『愛』を胸に、飛んでみせる。必ず──!

 

 

『独り──』

 

 葉月は、瞳をパッと開いて、車の外の景色を見つめていた。
 もう、そこには……『楽園』だったような湖畔はない。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

『葉月を小笠原に返す事にした──』

 彼がそう言ってから一日が経った。
 だからと言って、純一と葉月の様子がもの凄く落ち込んでいるとか、別れを目の前にして湿っぽくなっているという様子もうかがえず……ただ、ここ最近の様に淡々としていた。

 そして──翌日の午後。
 今──葉月を車に乗せてふたり……高速道路を走っている。

 『買い物に行きたい』と昨日、葉月に申し込まれ、ジュールは彼女のお供で横浜市内のとある宝石店へ同行していたところだった。
 葉月が言うには、『右京の御用達店で、何度か無理矢理に、連れてこられた』と言う店らしいが、ジュールが知っている限り、結構、格式がある店だったので、他を提案せずにそこへ向かった。

 この宝石店に連れて行って欲しいと言われた時は、あまり装飾物に興味がないと聞かされていたジュールには驚きだったが……。

『知っている? 義兄様、もうすぐお誕生日なのよ』
『え? ああ……そういえば』
『小さい頃、幼いなりのプレゼントはした事はあるんだけど……。大人になって、義兄様にプレゼントをしたくても、出来なくて。いつ会えるか判らなかったから……』

 彼女が女性の顔で、そういってはにかみながら俯いた。
 女性として、慕う男性にプレゼントを渡したかった──そんな心も密かに持ちつつ、彼女は何年、殺してきたのだろう?
 そして、皮肉な事に、これが『最初で最後のプレゼント』になるのだろう。

『どうせなら──やりたかった事、全部、やっておこうと思って……』
『そうですか……』

 葉月の眼差しが車の窓に向けられて、陰る。
 やはり──別れは決しているのだろうと。

 しかし……どのように決したのだろう?
 それはまだ、ジュールにも解らなかった。

 

 平日の為、それほど混雑していないので、そんなに時間をかけず、目的地に着いた。
 そこで二人一緒に、その宝石店に入って、それらしく店員を従えての品定めをした。 

 彼女が純一に選んだのは、彼が日頃良く身につけている『タイピンにカフスボタン』だった。
 ジュールに、純一がどのような物を持っていないか一緒に見立てて欲しい──と、葉月は言い、ジュールも一緒になって品選びに参加させてもらった。

 彼女が選んだプラチナに黒メノウのアクセント、そして小さなダイヤがいくつかあしらわれているシックなセット。
 値段は、二十代の女性が男性にプレゼントするには、ちょっと驚く値段ではあったが──葉月は、元より持参していたクレジットカードを差し出して、自らの蓄えで支払っていた。

 本当は出かける前に、ボス純一から『これで欲しがった物を買ってやってくれ』と、小遣いを札束で渡されていたが……。
 ジュールはとりあえず預かったものの、『彼女からのプレゼント』となるのならば、きっと葉月はこのお小遣いを使わないだろうと思い、あえて、胸にしまったまま。

『自分のお勤めで、ちゃんと貯めていたお金なんだけど──かなり思い切っちゃった』

 なんて──結構、無邪気な顔、そして、それが出来た自分に満足そうに葉月が笑う。

『そうでしたか……でも、きっと義兄様はそれでお喜びになりますよ』

 きっと他にも、『御園系列』で親や親族から渡されている『親族だからこそ割り当ててもらっている貯蓄』もあるのだろう?
 彼女の財布には、そんなプレミアムなクレジットカードが数枚あったが、明らかに彼女個人が自分で作っただろう一般的なカードが一枚だけ入っていた。
 それがおそらく、『軍職』で自らが働いて貯めた貯蓄で払えるカードになっていたようで……ジュールが何気なく見守っていると、その一般的なカードを支払い時に差し出していたのだ。

 彼女の気持ちなのだろう。
 小笠原で乗っている赤い車も、自分でローンを組んで払っていたとジュールは聞かされている。
 だから、自分で働いて稼いで得た金銭で、自分の力で手に入れた物で……贈りたいというその気持ちがジュールにも良く伝わった。

 その選んだセットを贈り物用に包んでもらっている間──葉月は座っていた席を立って、そこらを歩き始めた。

 ジュールは店員と品選びをした席に座ったまま……彼女を一人で好きなようにさせて、見守っていた。

 今日の葉月は──黒一色のシックな装い。
 彩りと言えば、黒いラメ入りのタートルネックのセーターの首元に結ばれた水色のミニスカーフ。
 それも、あまりにも無造作に結ばれていたので、エドが綺麗に結び直してあげた……なんていう具合だった。
 彼女の『お洒落感覚』は、まだ少し疎い部分があるようで──ジュールとしてはちょっとそこは『勿体ないな』と思ってしまう所。
 あれだったら、アリスの方が余程、着こなし上手と言い切れる程だ。
 女性が女性として誰もが自然に望むだろう『お洒落心』を、何処かに置き去りにしてしまった、と言う事も知っているが、彼女は、自ら選ぶと言うよりは、自分を良く知り得る男性達に飾ってもらうという方が多い気がする。

 だが……何故だろう? 黒いシンプルなセーターに、クラシカルで上品なカットだけが特徴の黒いスカート。
 葉月の『人が多い所に出かける』と言う『心理』が良く出ていると、ジュールは思った。
 彼女が『なるべく目立ちたくない』と思って選んだだろう『地味な装い』──。
 なのに──彼女が席を立って、色々なガラスケースを眺め始める姿を、日本人らしくない容姿が気になるのかも知れないが、店内の店員達が目で追ったりしているのだ。

 シンプルな装いで、黒一色だからこそ──浮き彫りにされてしまう『品』と言うのだろうか?
 彼女の肌の色も、瞳の色も、髪の色合いも、仕草も歩くたたずまいも──その地味だからこその『ベース』から浮き彫りにされている事を彼女は気が付いているのだろうか?

 ジュールは、そんな葉月を店員と同じ眼差しで見守っていたに違いない。

 暫く歩いたところに、ショーケースとは違う、壁際に施されたガラス張りのコーナーの前で、葉月が立ち止まっていた。
 そのガラスの壁に向かって、何かを見つけたのか?
 そこでずっと彼女は釘付けになっている様子だった。

 それも──急に、何かを見つけて囚われているかのようで。
 そして……その眼差しがとても哀しい色を灯したようなのに、とても優しいような慈しむ色合いも醸し出している。
 その姿──いつだったか、陽気で情熱的な『あの女性』……そう、レイチェルが、時々、とてもやりきれないような哀しい顔をする横顔と重なって、ジュールの胸を貫いた。
 だから、席を立って、その彼女の側に近づいてみる事に──。

「何か、素敵な物を見つけられましたか?」
「え?」

 ジュールが声をかけると、葉月が我に返ったように振り向く。
 何を覗いていたのかと、ジュールも視線を向けると──そこには、小さなクリスタルのオブジェが幾つも並べられているコーナーだった。
 そこで、葉月が目の前に見ていたのは……『エンジェル』
 手の平にのせても、とても小さいエンジェルで、背には小さな羽がついていた。

『葉月とあの子の天使』

 純一がそう言っていたのを思い出した。
 その『天使』を見つめて、彼女が何を思い描いているのか──ジュールには予測でしか計れない。
 だが──先程感じた、哀しそうなのに、とても優しい慈しみの眼差しのまま、葉月は見つめてはいるが……。
 そのガラス越しのまま、その天使との距離を躊躇っているようにも見えた。
 まるで……自分が近寄ってもいけない、触ってもいけない……そんな風にジュールには見えた。

「可愛らしいですね。ちょっとで飾っても心が和みそうな……」
「ええ……そうね」
「せっかくお嬢様の目に留まったのですから、お気持ちのまま、お側に置かれたら如何ですか? 物との出会いも、そんなインスピレーションは感じるままに大切にされても良いと思いますよ」
「そうね……」

 ジュールはその天使との距離が縮まるように勧めてみる。
 だが──葉月の眼差しは、まだ、気後れしているようだ。

「ジュール、償うとは、どんな事? 謝って済む事? それとも……憎まれる事? それとも……」
「お嬢様──」

 その『償う』という言葉一つで……ジュールは、葉月はやはり小笠原に帰るのだと確信した。
 純一の独断でもなく、きちんと二人で話し合って決したのだと。
 葉月の意志で『帰る』と決めたのだと……。

「どのように償って欲しいか──それは、昔とても傷ついたお嬢様が一番お解りなのではないですか?」
「!」

 触れてはいけない部分が、露呈する事は解ってはいても、ジュールは心を鬼にして言ってみる。
 当然──葉月の顔色が変わった。

「貴女──ご自分が傷つけられて、加害者にどのような感情を抱かれましたか? どのように償って欲しいと思われましたか?」
「それは……」
「謝っても許しはしない、一生、私に許しを乞い続けろ! 乞われても、絶対に許す物か! だが、乞わぬ事は、もっと許さない! ……そう思われたりしていませんでしたか?」

 ジュールの冷めた突き刺すような眼差しに、葉月がなんだかとても怯えたように、ジュールから後ずさろうとしていた。

「ここで言いたくはありませんが……実は私も、不逞な男どもに『愛する家族』を虐げられ、奪われた『過去』がありましてね」
「!」

 ひどく驚いている葉月の反応──『ジュールが孤児になった訳』を知り、自分と同じような『被害者』としての気持ちが通ずる事が解った事も驚きの一つだったかもしれない。
 だが、ジュールは彼女の反応に臆することなく、続ける。

「少なくとも……私は、いつもそんな想いを抱いて、心を燃やしておりました。それを癒してくれたのは、貴女のお祖母様だった……。それでも、私の憎しみは、貴女と同じ……いつまでも心の奥でくすぶっている……。いつだって、自分の心一つで蘇らす事が出来ますよ。貴女も……そうでしょう? いつだって鬼になれるが、ならないように押さえ込む為の『無感情』なコントロール。似ているなと……昔から」
「そうね──その通りだわ」

 そこで、葉月が一時──そのガラス細工のエンジェルにすがるような眼差しを向けていたのだが。

「つまり──謝っても、許されても。一生消えない事を噛みしめていく事が、『償い』?」
「そう思いますが──」
「それは……とても苦しい事ね。自分で自分を戒めていく事を、簡単に緩めたり、忘れたりしてはいけない厳しい事だものね」
「お嬢様……ですけど、隼人様は貴女の事をとても愛していらっしゃる。もう、既にお許しになられていますよ……」
「だから──苦しいの」
「そうですね──解りますよ……」
「謝っても、あの人はきっと笑って迎えてくれるわ。『お帰り』って。『帰ってくるって信じていたよ』って……。それだったら、もう、二度と彼の前に現れない方が良いのかも知れないわ……」
「!」

 ジュールはこの時、葉月の心の内を知り、驚きを隠せなかった。
 純一は『小笠原に返す』と言っていたが……もしかすると? 葉月自身は『当初、決めていた通りに軍は退官。その為に小笠原に帰る』としか思っていないかも知れないと!
 だとしたら──? 本当に退官したとして? 義兄とも別れを告げて?
 それで……? たった一人きりで、宛てもない再スタートを切る心積もりを、しているのではないだろうか!? と。
 純一のあの様子だと、『軍隊に帰る』としか思っていないように、ジュールには感じられた。
 そうでなければ、あの純一は『独りになるなら……軍隊に帰らないのなら、やはり俺が側にいる』と、押し切っているはずだ。
 彼が義妹を手放すのは──彼女が今まで、自身で積み上げてきた『現実社会』での生活を続行する事を選択したからに違いない!

(これは、うっかり……見落とす所だったかもしれない!)

 愛した義兄との夢を捨て、現実、築きあげてきた『軍人職』にしても、今回の職務放棄……そして──傷つけた彼の前から姿を消す──。
 今回、自分がやってしまった事に対して、今まで、自分が持っていた『全て』を捨てる事で、彼女は『精算』とする。
 不安定で、宛てもなく、保証もない、何もかも失った寂しい所から『独り』で自分を戒めつつ、『スタート』しようと、独り密かに決してた?

 それが、彼女の描いている『償い』?

 だから──独りであんなに静かに構えていたのだろうか? ジュールには昨日の散歩後の彼女の淡々とした様子がふと急に脳裏に浮かんだ。
 そこまで、自分を責めて、消えていく──その選択も、良いだろう。
 だが──それが隼人が望む『償い』だろうか!? ジュールの脳裏にそんな事が浮かんだ。
 その途端、拳に力が入った。

「お嬢様──よろしいですか? すこし、偉そうな事を言いますよ」
「? な、なぁに?」

 もうへりくだる『ボスの義妹』への構えが消し飛んだジュールの顔は、もしかすると『長年、見守ってきたひとりの兄』の顔だったかも知れない。
 それぐらいの気持ちで、ジュールは葉月に向かった。

「彼を傷つけたから……彼の前から消える。傷つけてしまった彼の前で償う。──どちらが、お嬢様にとって、苦しい事ですか?」
「!」

 彼女の勘の良さ──葉月がハッと何か気が付いた顔になった事に、ジュールは心の中では『貴女は賢い人だ』と、それなりに満足は出来た程、葉月はすぐに気が付いたようだ。

「傷つけた相手に真向かう、彼の目の前で罪を償う事の方が苦しいのでしょう?……彼の前から消えて、独りで自分を痛めつけて、気が楽になるのは、貴女独りの勝手ですよ。彼が一番、貴女に望んでいる方向で報いる事が『償い』になるのではないのですか? 隼人様が、貴女に帰ってきて欲しくない、二度と顔を見たくない……そう思っているなら、話は別ですけどね? 彼が望む償いをするなら……」

 ジュールがそこまで言うと、葉月が思いの外、凛とした目つきでジュールの言う先を遮った。

「判ったわ……。私は彼の愛を選ぶから、帰るのではなく。あの人の愛に応える為に……帰るべき……でしょう?」
「……そう、流石、お嬢様……。彼のその優しい笑顔を心苦しく思う自分を噛みしめる。そして、彼の愛から逃げない事ですよ」
「……でも、彼は……」
「そうですね。隼人様の事だから、貴女が帰ってきたら、何事もなかったように貴女を抱きしめるかも知れない。それも──貴女は心苦しくて逃げたくなるでしょうね。それでも、隼人様が貴女を抱きたいと言ったのなら、求めるのなら──その心苦しさを独りで噛みしめて、抱かれればいいのですよ」
「……」

 なにも考えずに求められたら、抱かれたらいい……。
 ジュールのその冷めた声色の進言に、葉月はやはり辛そうな顔をした。
 そんなの『出来ない』と言った顔だった。
 ここで、彼が赦してくれたと、ほいほいと抱かれる女とは訳が違う。
 それはジュールにも解っている。
 言ってみれば、葉月は、隼人に『浮気をするかどうか』試され、それをしてしまったのだ。
 隼人にも彼女にそれを『試した罪』はあるだろう。そして、彼もその自身が愛するが故に彼女を試した『愚かさ』を噛みしめているだろう。
 だから、彼は彼女を許して、他の男の匂いが立ち込める恋人の身体を、何も言わずに抱こうとするだろう。
 だけど──葉月としては、そんな身体になった自分を隼人にすぐに預ける気にもならないだろう。

 世間一般路線で簡単に言えば、今回のいざこざなんて、『浮気をした、しない。俺以外の男の所に行くか、行かないか』──そう言う一言で片づくかもしれない、ありがちな『色恋沙汰』なのだ。

 だが……と、ジュールは再度、葉月に向かう。

「でも……隼人様が求めているのは、貴女を抱きたい、貴女を我が物にしたい。そんな『男心』とかいう、小さな幅の中で湧き起こった事ではなかったように思えますよ」
「男心じゃない?」
「そう──なんて言えば、良いのでしょう? そう……きっと貴女の事を『女性』ではなくて、『どうしても救いたい一人の人間』だったのではないかと思うんです……」
「……!」
「そう……あの方にとって、女である事は二の次で、貴女を救いたくて……それで……」
「私を、救う為に──あそこまで?」
「きっと──私にはそう思えます」

 すると──途端に、葉月はガラスの壁に手をついて、泣き崩れようとしていた。
 だが、場所が場所だけに、葉月はグッと堪えたようだ。

「──私一人の彷徨いに……どれだけの人を傷つけてきたのかしら?」
「お嬢様──」
「彼のその犠牲で救われるだなんて……そんな事……私……」

 どんなに救われない想いを抱えたまま愛され、そして……その愛してくれた彼に救われたのに、彼はもうボロボロに傷ついている。
 葉月はそれに気が付き、また──己の罪深さを噛みしめているようだ。

 ジュールには、その姿は……『なくてはならない試練』だと思うので、暫くは黙っていたのだが。

「そうでしょうね──。ですけどね、お嬢さま……若い内は、燃えて焼けるような気持ちを持てあまして大変だったかと思いますが……私もそう、そうして自分を暴れさせたが故に、逆に人を傷つけた事もあった。そして、そんな持てあます自分を抑える為に感情を殺し、自分らしさを見失い……そして、人と分かり合える接点を見失ったり──そんな事で、自分が傷ついたからこそ自分を守っているつもりなのに……かえって、側にいる人を傷つけていた。そういう事、沢山ありましたよ──」
「……ジュールも?」
「ええ……同じですよ。そう、私だけではない。きっと、誰もが──日常の小さな傷つけ合いの中で、どのように受け止めているかは個人差がありますでしょうがね? 私達のように徹底的に奈落に突き落とされた者だからこそ……分かり得る気持ち。貴女なら誰よりも……理解が出来る事でしょう。傷つけられる痛さも、傷つけてしまった者の事もね……」
「こんな私が?」
「そうですよ。自信を持って下さい。隼人様はね──きっと、もう……そんな貴女でありつづけてくれる事を信じている一人なのでしょう。だから、彼から逃げないで、彼の望む『人』であり続ける、そして、憎しみに打ち勝ち、貴女が自分の力で輝く姿を……見せてあげてください。それが……隼人様が望む事、それがあの方の『全力の愛』。あの方は、貴女の為に、そこまで『精一杯やった』と思っているはずです。それを……無駄にしない為にも、彼から逃げないでください。償うと言うならば……ね」
「私の憎しみの彷徨いで、もう……人は巻き込んではいけないのね……」

 憎むべき対象は『ひとつ』のはず。
 確かに、彼女は男性に傷つけられた。
 だが……その『償い』を求めるべき相手は、『愛してくれる彼等』ではないのだ。
 その彼等が同じ男性だからとて、傷つけられた事を訴えたとしても……身代わりに傷つける事は、たとえ、『被害者の彼女』でも許される事ではない事を──。
 でも──癒してくれたのは、確かに『彼等』だった。
 そして──彼等は、そんな彼女の痛々しい彷徨いを許し、そして、愛してくれた。
 その為にも、ジュールは彼女に悟って欲しい……『どうせ、憎むのならば』──を。

「一つ、箱を用意して──そこに入れています。私の場合。恨みたい相手をそこに閉じこめて、決して、他の人には影響しないようにね」
「そうなの?」
「私の場合はです。そこで何度でも、その相手に向かっています、私。酷ければ、何度でも殺していますかね? それも苦しいので、この頃は、その箱を捨てられないのですが、覗く事はやめるようになりました」
「……」
「勿論──先に生きてきた者としての偉そうな言い分かもしれませんが。専用の箱を用意する発想に辿り着くまで何年、箱を開けて覗く事が、もう嫌になるまで何年……と、そこまでになるには何年もかかりましたよ。そして、まだ、その箱を捨てられないですしね」
「そう……。でも、憎むべきは、箱の中だけにするっていうのは……やるべきことかもしれないわね……」

『あの……』

 先程、二人を相手にしてくれた女性店員が、こちらの会話の雰囲気を嗅ぎ取って、近寄らずに遠くで待ちかまえているのは分かっていたのだが。
 会話が止まったのを見計らって、声をかけてきた。
 ジュールは、葉月の崩れた様子が落ち着くまで、もう少し、控えてもらおうかと、その女性に頼もうとした時だった。

「この天使のオブジェ……これも、頂きます。別に包んで下さい」
「あ、はい……! かしこまりました」

 葉月が笑顔で……振り切ったように、天使を自分で引き寄せた。

 女性店員は、ガラス越しにディスプレイされているその天使のクリスタルを白い手袋の手で丁寧に包んで、また精算に去っていく。

「お嬢様──」
「有り難う──ジュール。私……あの子と一緒にもう一度……ううん、最初から、今度は自分だけでやり直すわ」
「ええ、今度はどのようなお嬢様になられるか、私も楽しみに見守らせて頂きますよ」
「有り難う……」

 その葉月がこぼした笑顔に、流石にジュールはドッキリと固まった。
 その笑顔は……ジュールも見た事もない、透明感溢れる笑顔だった。

 きっと彼女はもう……大丈夫。
 ジュールはそう思った。

 本当は……『もう一度、イタリアへ行く事、考え直してみませんか?』なんて、隙あらばあの損な兄貴の為に骨を折ってやろうか? なんてもくろんでいたのに……。

『あーあ、もしかすると──兄貴も、こっちのお嬢様を見守る方が楽しみになったのかもしれないなー!?』

 なんて……少し口惜しい気持ちにさせられたぐらい。
 あの兄貴には、やっぱり何処か適わないのだろうか? と、言う……なんとも妙に複雑な気持ちにさせられた。

「お腹すいちゃった。ジュール、少し遅くなったけどランチにしましょうよ」
「そうですね。お義兄様から頂いたお小遣い、ここで豪勢に使いましょう」
「そうね! お祖母ちゃまのお話、いっぱいしましょう」

 急にちゃっかりの義妹の顔に輝いて、ジュールもふと一緒に心が軽くなり、微笑んだ。
 それに──なんだか、御園の家族の一員にしてもらえたような嬉しさもこみ上げてくる……。

 俺も散々、荒れて暴れた。
 それをレイチェルという女性が、どんなに突っかかっても、心を燃やしても存分に受け止めてくれた。
 そんな彼女が……今度は、孫娘を傷つけられて、人を憎むと言う事に身を焦がし、彷徨っていたのに──ジュールは彼女に甘えるばかりで、そんな心中に気が付かず救えなかった。
 人を憎む事や、救われない心の痛さを、どうすれば癒されるかなんて──自分が誰よりも知っていたはずなのに──。
 でも──もしかすると、『今日』……ジュールは、敬愛している女性が一番望んできた形で、恩が返せたのかも知れないと……。
 彼女が望んでいた孫娘の笑顔──それを少しだけでも、取り戻す事に。

 車に乗ると、彼女はすぐに包んでもらった天使のオブジェを手の平にのせて眺めていた。
 いつまでも……愛おしそうに見つめて──。
 彼女の新しいパートナーになったのかもしれない?

 ジュールにはそんな風に見えてしまったのだ。

 彼女は『小笠原に帰る』──。
 愛してくれた人の『愛』に応える為に。
 それは……選ぶ事じゃない、応える為──彼女は、飛び立つだろう。

 きっとその応えるべき愛は『ふたつ』。
 それが彼女が得た『愛』なのかもしれない。

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