・・Ocean Bright・・ ◆飛べない天使達◆

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1.罪との共存

 朝食を取ると、この日──義兄は小雨の中、外へと出かけていった。
 葉月はまた、一人、二階の寝室に籠もる。

『お前は……誰よりも情熱的で、男を幸せに出来る女だ。いや、沢山の人に情熱を与えられる人間だ。ただ……お前は、それを……それを……』

 急に? 義兄が自分を突き放そうとしたように感じ、葉月は頭を抱えて振った。
 そして……何故? こんなに急に不安になるのか、自分でも分からなかった。
 『義兄様』の側にいれば、何も……こんな気持ちになる事はなかったし、ならないと思っていたし、そんな事考えた事もない。

 心の何処かで、白い服を着て、ただ鋭く前だけを、本当に前だけを見据えていた『彼女』が、また私を見ている。

 葉月は──テーブルに置いてあるヴァイオリンケースに手を伸ばした。
 それも……何かを紛らわすように。
 そう、それを手に取るしかないかのように──。

 日差しがないこの日でも、義兄が贈ってくれた『お友達』は、気高く艶々と輝いていた。
 なんだか、葉月はその『艶』に妙な嫉妬を感じる。

 その彼女を、顎に挟んで、ボウを手に取り……そっと弦を押さえ、弾いてみる。
 なにげなく思いついて選んだ曲は、エルガーの『愛の挨拶』──。

 そっと弾き始めてみる。
 なのに──何小節か弾いた所で、葉月は……とても億劫に感じて、溜め息混じりにボウを降ろしてしまった。

「……」

 外は優しい小雨。
 こんな優しい曲に合うような──。
 でも……弾けない。

 こんな事あっただろうか……?

「あったわ──何度も……」

 葉月は『彼女』の柄を持って、自分の正面に向け見据えた。
 大好きなのに、苦しくなる事がある。
 楽しい事もあるのに、向き合っていると……私を苦しめる時がある。

 それは何故?

 そう……今、ボウを降ろしてしまったように、『思うように弾けない』と感じる事が多い。
 もっと楽しく、そして、自分を疑うことなく堂々と弾いていた『少女』だった頃のような『爽快感』が得られないのだ。

 優しい曲を、優しく弾けない。
 悲しい曲は、哀しくなりすぎて弾けない。
 激しい曲は、心をかき乱されるようで、苦しくなって弾けない。

 『音』に向かうと……従兄が言うように、本当に自分のそんな『むき出しの心』に、否応なく向き合わされるような気がする事が多い。
 『音』に向かうと……ことさら、敏感に葉月の心に、感情の波動を送り込んで、うずくまりたくなるのだ。

 かと、思えば……。

 その『音』に救われる事もある。
 弾いただけで、心が洗われたり──そして、もどかしい自分を音に乗せて、外へと『私』を送り出し、表現出来る時もある。

 それだけ、従兄がいうように『音はまさに正直』であり、葉月そのものを写し出してくれる。

(それが……怖かったのかしら?)

 葉月は、ふと……ここで、ヴァイオリンと一対一にさせられて、急に、そんな風に思い、首を傾げた。
 今までは、ヴァイオリンを弾く以上に、軍人としての日々に追われ、そしてパイロットという自分を存分に走らせてくれる険しい道が、ヴァイオリンを忘れさせようとしてくれていた。
 だから──ヴァイオリンとの『不和』を口惜しく思っても、そんな事でかき消されてきたのだろう?
 そしてなんといっても……その『不和』の一番の原因は……。

 葉月はそっと、左肩に手を当てた。
 この『傷』を負い、暫くは思うようにボウを動かせなくなった時のあの悔しさが蘇る。

 『終わった』と思った。
 本当に音楽家になるのならば、幼少の頃からの日々の緻密なレッスンが不可欠だ。
 それが、出来なくなった。
 勿論──それを乗り越える程の情熱があれば、たとえ、何年かブランクが出来ても、越える事だって『人』には可能だとは思えるが。

 大人達が葉月からヴァイオリンを遠ざけようとしている中──義兄だけが『酷な思いをさせるかもしれない』覚悟で、葉月にヴァイオリンを持ってきてくれた。

 『辛くても絶望的でも下手でも“好きなら”触れ!』──と、『音』が好きなら、音はどんなお前でも付き合ってくれると、言って……。
 もどかしい演奏しか出来なくなっても、葉月は『上手に弾けなくなっても、好きなら弾いても良いのだ』という安心感を、義兄から得たのだ。

 だが──時が経ち……。

 肩は傷が残ったとはいえ完治したのに、元通りに動かせるようになったのに……今度は、思うような音が出せなくなったのだ。

 そう、今もそれが続いている。

 その内に──葉月は『パイロット』という道をみつけ、その息継ぎも出来ないようなノンストップの過酷な道を走る事で、それを忘れようとした。
 だけど──手放さなかった。
 これは『義兄』が『好きなら手放すな』と言ったからではない。

 葉月も自分で分かっていた。
 『まだ、好きだから──手放せない』──それ程、ヴァイオリンを愛しているという自分を。
 なのに、『思うように弾けない』という葛藤。

 

 徐々に疎遠になった『葉月の親友』。
 だけど、時には八つ当たりしたりして、鬱陶しく思いつつも、いつまでも手元に置いている親友とは、完全に縁を切る事は出来なかった。

 そんなヴァイオリンとの『葛藤』と『関係』と『夢への未練』──それを『パイロット』と言う道で目を背けていたのかも知れない?
 こうして、『軍人』とか『パイロット』という自分を捨てようとしている『今』。
 では、次なる『自分の夢』という局面に向き合って、すぐに浮かんだ『ヴァイオリン』と──ついに、十数年ぶりに『一対一』で向き合う状態が整っている。

 これが……こんなに『重い』とは、予想外だった。
 なにが『重い』のか、自分でも良く解らない。
 こんなに重くて辛いなら、何も無理して向き合う事などないのだ。今までみたいに、それとなく横に傍らに置いて、なんとなく手放さなかったように。
 だが、そう思って葉月は、そこで『焦り』を感じるのだ。
 だって──あんなに苦労して歩んできた『パイロット』を捨てた今、私に何が残っている?
 ヴァイオリンしかないではないか?
 だから──今、『一種の提案』と義兄はワンクッション置いてはくれたが、葉月には、これ以外考えられないし、なんとか『取り戻したい』という気持ちも残っているから──。

 上手く弾けないから?
 思うような音が出せないもどかしさか?

 そんな所だと思うのだが、とにかく──自分自身で『楽しい』と思っていない事は確かだった。

 葉月は小雨の音を耳にして、また、ヴァイオリンをケースに戻す。
 そして、そのソファーから、広いベッドに移動して、寝転がる。

「疲れたわ──」

 なにもかもだった。
 全てが……だった。

 義兄に全力でぶつかって、全身全霊で愛し抜く力。
 その思う存分の『力』をぶつけた満足感の反動に、『裏切りの重さ』が必ず、ついて回ってくる。
 そして──身体の不快感、本当はどこかで幸福感。

 あらゆる感情が、少しずつ、ちょっとずつ交互に、葉月の中を駆けめぐり、どれが本当か……いや、どれも本当なのだろう?
 でも、どの気持ちが正しいのか、理論で結論付けようとすると……また、とても苦しくなる。
 どれも否定しがたい、本物の気持ちなのだろう。

 身体ももう、限界なのか──非常に重たかった。
 日に日に、不快感が強くなる胸やけと、吐き気。
 そして、もう、そこまで、体力も精神もプツッと糸が切れそうな程、疲労感を……葉月はやっと感じ始めていた。

 なにもかも放り出したいと思った、今。
 急激な眠気に襲われ──葉月は、優しい雨音に身を委ねるように、その眠気に自分を任せてみる。

『音は──いつでも、どんなお前でも、向き合えば、付き合ってくれる』

 純一と右京が口を揃えてそう言っている。
 そう──この優しい『小雨の音』も……私を包み込んでくれる。

 こんな風に──弾けたらいいのに。

 葉月はすっとまどろんだ。
 やっと、なんだか疲れるばかりの現から、とても軽くなるような入りやすい暗闇にフッと溶け込むように楽になった。

 

 そして──その楽な暗闇にどれぐらい浸っていたのか解らないが、今度は、身体がふわふわとするような幻想的な光景が葉月を取り囲み始める。

 そこは──海?

 身体がゆらゆらと、水中に浮かんでいる気分だった。
 マリンブルーの海。
 少し上は、太陽の日差しが真っ直ぐに、そして柔らかに差し込んでいる海面だった。
 小魚たちが、群れを成して軽やかそうなスピードで泳ぎ去っていく。

 その小魚たちより、葉月はもっと深い所で身体を横たえて、漂っているようだった。
 しかも……胸にはヴァイオリンを神に祈るような手組みで持っていた。

──ゴーォ──

 遠いそんな音。
 それは、ゆらゆらとアクアマリン色に揺らめいている明るい海面の上。
 透き通った青い空を、銀色の飛行機が、ゆっくりと横切っている所だった。

『ホーネットだわ』

 いつも自分が乗っていた『スズメバチ機』だった。
 それが、空を美しく飛び、そして爽快に明るい光の中を、去っていった。

 なのに──その明るい海面がどんどんと遠ざかっていく。
 そう、葉月はヴァイオリンを胸に、徐々に暗い深海へと落ちていっているのだ。

 ヴァイオリンを抱えて……。
 そして身体は、横たえたまま、自力で泳ぐ事も出来なければ……ヴァイオリンを構える事も出来ない。

 ただ、胸に抱え──仰向けに寝たまま、明るい海面が遠ざかっていくのを、見ているだけだった。

『……づき?』
『?』

 深海に引き込まれていく恐怖感を初めて感じた時──明るい海面からスッと逞しい腕が伸びてきた?

「葉月──」
「!」

 ハッとして起きあがったようだ。
 それは──夢だったようで、腕を引っ張られる力の方向のまま、起きあがったつもりだったのだが、実際には……ベッドの縁に義兄が座っていて、葉月の腕を少し触れているだけのようだった。

「お、お兄ちゃま……帰ってきていたの?」
「ああ、つい今し方な。お前がうなされていたから──。で、なければ……そのまま寝かせていたけどな」
「……そう……夢を見ていたみたい」

 ホッと息を吹き返すように、葉月が胸を撫で下ろすと、純一は安心したように微笑み立ち上がった。

 時計を見て、葉月は驚いた。
 もう──夕方だったのだ!

「よく寝ていると、エドが言っていた」
「嘘──私、お昼前に横になって、そのまま……」

 すると、純一が窓辺のソファーに向かいながら、ジャケットを脱ぎ始め、溜め息を落とした。

「無理もない、疲れているんだ、お前は。……エドに叱られた。ジュールに小言を言われるのは日常茶飯事なのだがな……」
「エドが? どのような事?」

 バツが悪そうに義兄が、短い黒髪をぽりぽりとかいて、脱いだジャケットをソファーの背に置いた。

「お前が疲れ切っている様子を見て、『新婚のような気持ちは解るが、妊婦を労る生活をして欲しい』ってな。それが原因で流産する事はないが、診察をして経過が良好だと判るまでは『夜の営み』は控えて欲しいとさ──。後、『感染症の可能性が……』どのこうのとか、医者の顔で懇々と説教されてなぁ」
「まぁ……」

 それも、純一はバツが悪そうにして、葉月に、とぼけた微笑みを向けてきた。
 葉月も──そこまで義兄の部下に言わせてしまう程……葉月自身も『愛し合う事まっしぐら』に憔悴しているように見えていたのかと思うと、今更ながら、恥ずかしくなり頬を染めた。

「……ごめんなさい。昨夜は、私の方が──。お兄ちゃまはただ、私が思うままにしてくれただけなのに」
「いや──俺も自覚がなさすぎた。悪かったな……」
「……そうしていつも、最後にはお兄ちゃまが『悪く言われる』のね」
「そうか? 気にした事ないな……。俺はご覧の通りの『男』だからな。その通りを言われているだけの事だ」
「そんな事、ないわよ──お兄ちゃまは……」
「お前が、そう言ってくれるなら、それで充分だ。俺は」

 葉月が言おうとした語尾は、義兄に強く遮られた。
 そして──彼はフッと俯きつつも、微笑みを見せてくれる。
 葉月には──それも、全て解っていて……『気にした事ない』という彼の言葉は、小さなだけのこの『私』が気にかけないように彼が気遣ってくれての一言だと解っていた。

 そこでソファーに座りこんだ純一が、テーブルの上で広げたままのケースに置かれているヴァイオリンを見ている。

「今日は、ヴァイオリンと話していたのか……」
「……ええ。ちょっとだけ」
「そうか。また、その気になったら聴かせてくれ」

 義兄はそれだけ……穏和な笑顔でそういって、煙草を吸いたそうな手持ちぶさたな仕草をした。

「エドにコーヒーでも持ってきてもらうか。お前も何か飲むか?」
「そうね──オレンジジュースでも頂こうかしら」
「よし、待っていろよ」

 やっと葉月が笑顔を浮かべて、ベッドから降りたのを見て──純一がホッとしたように内線電話へと向かった。

『その気になったら、聴かせてくれ』

 葉月に『直ぐになんとかしろ』とも『頑張って元に戻ろう』とか義兄は言わない。
 今はただ──なにもかも『休んだ上で、自然とやりたい事、出来るだけの事を』と言いたいのだろう。

 なんとなく『焦っている』のは葉月自身だ。
 葉月は、大佐室を飛び出してきて、では……どうするか? という時点で、誰もがすぐに口にするだろう、誰が言わなくとも葉月自身がすぐにそれを選ぶだろう義兄が差し出してくれた『あくまで一つの提案』。
 その提案をした本人が、『それそれ、やれやれ』と、まくし立てない分……より鮮明に、焦燥感を自分で感じた気がした。

 葉月もソファーに座り、また──ヴァイオリンのケースを閉めた。

 ふと外を見ると……雨が上がったばかりのようで、湖からの夕方のやんわりとした日差しに、あちこちの雫がきらめいていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 そんな義兄の『気が向いたら──』という余裕ある言葉に、少しは安心したのだろうか?
 葉月はふとした事で、ヴァイオリンを構える気分になったのだ。

 それは夕食後の事──。

 日がすっかり暮れて、葉月は軽くしか食せなくなった食事を済ませ、一人先に、寝室に戻った。
 灯りをつける為に、カーテンを閉めようと窓辺に向かうと……。

「綺麗……こんなに星が、気が付かなかったわ」

 雨上がりのすっきりとした空に、沢山の星が煌めき始めている。
 富士高原の澄み切った濃紺の空に……ラメのような小さな銀粉のような星々。

 久しぶりに──そんな自然のあるがままの美しさに気を奪われた気がした。

 その気持ちに押されるように、葉月は──フッとテーブルに置きっぱなしのヴァイオリンを手に取った。

 窓を開け放し、葉月はバルコニーに出てみる。
 十一月の冷たい夜の空気に、急に気を引き締められたような気分にさせられ、背筋が伸びた。

 今朝のような、けだるさはない。
 今度は、れっきとヴァイオリンを構える。

 目を醒ますような、冴え渡る夜の冷気。
 雨上がりの森の香り。
 しっとりとした木立の向こうに、夜明かりに煌めく湖の静かな水面。
 そして──銀粉のような星。

 その美しいだけの、ただ、この世に存在するがままの姿で、ただ呼吸をしている者達。

 その息吹に囁き、そして途切れる事ない、風に任せるままの抵抗無き微動。
 それらが、夜気に紛れて、葉月の元にやって来た。

 それを──身体いっぱいに取り込むように、葉月は目を閉じて、弦の上にボウを置いた。

 何を弾こうとかは深く考えなかった。
 そっと呼吸をするように、息を吐くように……自然と弾き始めていたのは、シューベルトの『アヴェマリア』

 自分の手元で、音が──グッと夜空に伸びていくのがわかった。
 今、私の『無』になった感覚と気持ちが、夜空に昇っていく──それだけで、葉月の心は安らかになる。

 そう──『この瞬間』が好きなのではないのか?
 この瞬間──なんだか良く解らない自分の全てが、解き放たれる爽快感に見まわれる。
 これは『上手く弾く』という事で、爽快感を得ていた『少女』だった頃とは全く違う、満たされる感触なのだ。

 心がほぐれる。
 身体中の強ばっていたような筋肉もほぐれるように、頑なだった頬が緩む。
 遠慮がちだった身体が、フッと揺れる。

 今──外で生きているただ呼吸をしているだけの美しき者達と。
 今──ただ、私を受け入れてくれるだけの正直者の音と。
 今──素直に、無になれる私。

 その軽やかさの中に──誰と一緒にいるという中に置いての『満足感』よりも、ずっと満たされる物だった。

『……は、──まで、行って……折り返す。遅れ……な、嬢』

 そんな雑音混じりのような音が聞こえてきたが、葉月は──それも今、受け入れようとして耳を研ぎ澄ませた。

『ラジャー、旋回し──キャプテンの後ろに……』

 空気を切り裂く音。
 そして、大きな鉄の塊の轟音。
 ヘッドホンの雑音。

 分厚い黒色のグローブが握っているスロットルを巧みに操る自分は──。
 そう、また──気流に同化するように、エンジン音と交信するように、空を飛んでいた。

 今、こうして音と同化する自分と……。
 空の世界に同化する自分……。

 静かで滑らかなこの美しき旋律の流れと、気流に溶け込もうとしてゆく音が──こんなにも異なっているのに『重なった』ではないか?

(似ているわ──)

 ふとそう思って、手元が急に止まった。
 その時だった。

「良いじゃないか──凄く」
「!」

 振り返ると──いつのまにか、まだ灯りもつけていない部屋のソファーに純一が座っていた。

「このまえ……午前中に弾いていた時は、お前の音はとても乱暴だった」
「……そう?」
「そいつ、怒っただろ」
「……うん」
「今、そいつ──得意げだろうな。お前に美しくしてもらって……」
「……」

 葉月は純一のそんな例え方に、いつも驚いてしまうのだ。
 この厳つい義兄の普段の様子からは考えつかないような……そんな綺麗な表現を言う時があるのだ。

『……なんだろうな? すごく無骨なくせに、美しさの的を射ているんだよな──それが妙に憎たらしい程、上手い表現でさ。けど、実演的表現の才能はないんだよな〜』

 あの美意識にはうるさい右京でも、そう認めている部分があるらしい、義兄の感性。

 葉月は、純一が言った事を、少し気にして──ヴァイオリンを見つめた。
 キラキラと夜灯りにも美しく照り輝いていた。
 それは朝方、葉月をちょっと嫉妬させるような威嚇する美しさではなく……葉月に慈悲深く微笑むような美しい煌めきに見えた。

 その風貌も芸術的な……アーチと渦巻きの冠。

「右京は男だから、良く言っていた。ヴァイオリンを弾くのは、曲にもよるが、女を抱くのと似ているってさ。音を出すのは彼女だから、指先に音への愛と気持ちを込めて震わせないと、美しき艶っぽい音が出ないとかなんとか」
「やだ……右京兄様らしいけど、エッチね」

 頬を染めてむくれた葉月に、純一がクスクスと笑い出す。

「お前は……どんな気持ちなんだ?」

 今度は、とても静かに整った柔らかい微笑みで、純一が葉月に問いかけた。
 そして、暗闇の中なのに、彼の黒くて大きな瞳が、キラリと輝いた。

「……あらゆる物との同化……共存、共感。ううん、私から抵抗無く、受け入れてみるかんじかしら?」

 今、弾いていて思った事を、そのまま呟いてみた。
 するとまた……義兄の黒い眼差しが、今度はキリッと葉月に向けられて、ドキリとした。
 なんだか……その眼差しが、誰かと重なる。

「それと同化できない時──お前は苦しいのだろうか」
「……」

 彼が何を言いたいのか……少し解らなくて、葉月は首を傾げる。
 すると、彼がなんだか解りきったように小さく微笑み、目を閉じた。

「……言葉じゃなく、お前は、感覚だったな。今ので良いと思う、そして、それは……いつもでなくても、お前の中に必ずあるもの。だから、嘆く事もないし、慌てる事もない」
「──!」
「でも、今のはいい音だった。お前も……綺麗だった」
「兄様──」

 葉月はフッと自然に微笑んでいた。

「……俺は書斎にいる」
「うん──」

 それだけ言うと、彼は暗闇の部屋の向こう──書斎への扉へと細長い身体をフッと消していった。
 静かに……そっと葉月の世界感を壊さないように、そっと、滑り込んできて、去っていくというような。

 葉月は、やっと肌寒さを感じて、バルコニーから部屋に入った。
 窓を閉めて……そして……なんだかまだ、星空が惜しいような気がして、カーテンを閉めず、そのまま──ソファーに座りこんだ。

 変に力が抜けいる?
 とても力んで、意気込んで、演奏したわけでもないのに。
 むしろ、自然体で、『弾けた』のに。

 今までも……義兄が言うように『いつも』でなくても、この『一致感の爽快感』はあったのだ。
 だけど、それをこんなふうに『意味』として考えた事がなかった。

 そして──なんだか泣いていた。
 哀しいのでもなく、喜びでもなく。
 ただ、単に……涙を流していた。

 それは涙を暫く流して、『安心感』だったと気が付いた。
 なんの安心感かというと……とても気が楽になったのだ。
 ヴァイオリンを持つ意味も、好きな理由も──そして、『この親友』とどうしていきたいのか……それが、フッと判った様な気がして。

 答は、簡単だった。
 本当に簡単な事だった。

 だけど、今夜はもう……弾けそうになかった。
 だけど──とても満ち足りている。

『お前の中に必ずあるもの』

 そう、私にも『ある』のだ。
 何もないわけでなく……『ある』。

 戦闘機で生の境目を探して、生きている事を確かめていたように……。
 ここにも……『ある』。
 もう、戦闘機で、命をかけなくても確かめる事が出来る──『音』でも!
 初めてそう思えた。

 戦闘機の時は『生』だったかもしれない。
 だが、ヴァイオリンの時は『私が私である感情』──つまり『葉月が生きている』という……。
 それを、こうして……確かめる事で、手放せなかったのではないだろうか?
 本当は、優しい曲を弾きたい自分も、悲しい曲を弾きたい自分を、激しいまま弾きたい自分──そんなあらゆる心に響かされる音の波動に震える事に、怖れてはいても、『それを受け入れたい』と欲していたのではないか?
 それが、出来なくて……いつまでも出来なくて、それで、時々『正直者』すぎる『親友』を憎みたくなったり、だけど、手放せない程愛している事も事実で。

 そう言えば……先程、純一は……

『同化できない時──お前は苦しいのだ』

 問いかける様に義兄は葉月に言ったが、葉月には義兄がそう言い切った様に聞こえた

 長年、持ち続けてきた『憎しみ』に関しても、そうなのかもしれない。
 人を憎む事でしか、自分を慰められない自分が──もどかしく、好きになれないから、何もかも、抵抗感があるのかもしれない。

 では? 全てを抵抗無く受け止められる、自然体という事は何なのだろう?
 そして、葉月は、やっと目が覚めたように、一番近い時間から、振り返ってみる。

 自分が選んだ事があまりにも『正しくなさ過ぎる』事で、葉月はもう、この世に存在すべき価値はないのだと思い、それをいつだって許してくれるのが『ここ』──義兄の側ではいつも、この点で安心を得ていたのだ。
 その上、この『優しいだけの場所』で、それがまた『逃げている』と解っているが故に、それを認めない為にまた、ここで『無感情的』に流そうとしていた。
 そう──『ただこの世界に存在しているだけの事』の中で、『人間的非』は当たり前にあるべき物であり、そして、その『自分は非である』という事実に抵抗すればする程、自分が不純物の様に思えたけれど。
 そうじゃない……間違いを起こす事、人を傷つけてしまう事、そして、自分勝手な事──それらは『ごく当たり前』であり、自分はそういう『悪さ』から逃れる事が出来ない『一介の人間』である事を受け入れる事の方が『自然』なのだと……。
 そして、忘れてはいけないのは……『その悪さを自分が持っている』と言う、自分は白い人間ではないという『自覚』と、罪深さを忘れない事。

 それを受け入れる事で、自分は世の中に、存在出来るのだ。きっと。

 だから──『音』も同じ事ではないだろうか? 音は罪深き音も奏でてくれる。
 そう──感情こそあれ、人間も、息をしているだけの自然の中の自然物なのだから、そのままでも構わないに違いない。

 そして、自然に思った。

 『もう一度、彼に会おう』──葉月は、そっと胸の痛みを感じたまま、お腹を抱きかかえて、俯いた。
 今度のそれは、逃げたい痛さではなかった。
 受け入れたい痛さだった、痛いけど──この痛さから、もう、逃げてはいけない。

 そう思えて、なんだか──悪い血がすっと抜けていくような感覚に陥っていた。
 とても身体が軽くなるような、心の羽が芽生えてきたような……そんな感覚に、痛さはあるが微笑みを浮かべる事が出来ていた。

 だか、ここまで葉月が自分を受け入れてもなお……どんなに認められなくてもなお、譲れない気持ちが君臨していた。
 それはここまで、自分で気が付いても、余計に鮮明すぎる、嘘無き気持ちだ。

 それは……

 どんなにこの場が自分の逃げ場であったとしても……なに置いても……。

『私は義兄様を愛している』

 それは消えない物で揺るがない物なのだと、ここでなおさら、葉月は噛みしめていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 そして、隣の書斎にそっと退いた純一は──こちらも窓辺に見える星空を見上げ、煙草を一服していた。

 義妹の『音』──急に何かが吹き込まれたような気がした。
 彼女はまだ気が付いていないかも知れない。
 今まででも、時には『これは……』と、心を揺さぶられるような音を醸し出す事はあった。
 だからこそ、純一は愛し続けてきたのだ。

 親友の右京もそうだった。
 ただ、彼の特徴と、その従妹・葉月の特徴は異なるもので、確かに『個性』があった。
 純一が、『素晴らしい』といつも感心するのは、『右京』だった。

 彼は、この世にある全てに『美』を見いだす。
 いや、『美』と言う例えは違うかも知れないが──。
 この世の物に『全て』において『あるべき存在価値』を、それが世間一般では『良くない事』という物にも、何かそこから『意味』を見いだすと言えばよいのだろうか?

 彼も、『嫌な事』ばかりを見てきただろう。
 二人の従妹の悲劇もしかり……自分自身が持っている物に対して苦悩した事もあったようだ。
 それでも──彼はそれすらも、受け入れて『音』にすることで、自分の中に取り込んでいるのだ。

 それも……もう、彼が小さな少年だった頃から、ずっとだ。
 あれは、彼特有の『人としての才気』なのか?

 少年の頃、純一は、何事に置いても、彼がまるで大人顔負けの処理能力を発揮する事に何度も驚かされ、ただ、そんな彼に衝撃を受けて、釘付けにされてしまった事が何度あっただろう?
 そして、彼がその『感じた事』を表現したりする場が、『仕事』という生き方ではなく、『音で表す』事だった。

『音にしないと気が済まない。もしくは……造形かな』

 そこに根っからの『芸術肌』を見せつけてきた。
 なのに……彼は全身から『プロ』になりたい……という様なありありとした意志は見せようとしない。

『……つきつめると、別にプロとかなんとか、関係ないような気がして……俺はこれで満足だからさ。そういう使命感とか、欲求を持った者が自然になればいいし、どうしても表舞台のような世界にあるべき者なら、世間がそこまで流れを作ってくれるものだ。俺もいつか? そういう流れに捕まったなら逆らわないだけの事』

 ──と。どこまでも自然体なのだ。

 

 そんな彼の事を思いながら、純一は吸っていた煙草を、手元の灰皿に消した。
 何故──『右京』の事を思いだしているかというと……。

 実は本日の『外出』の目的は──『右京に会う』という事だった。
 昼間──横浜で密かに会ったばかりなのだ。

 昨日、『来週会う』と後輩の若槻に、あの時点ではそう言った物の──『澤村と葉月を再会させる』となると、やはり、右京にはその前に一刻も早く『報告』をした方が良いと思い、昨夜の内に、コンタクトを取ったのだ。

 彼は今日は、休暇を取ってまで、純一と会う為に時間を空けてくれた。

 そこで、純一は、思わぬ事を右京から聞かされる事になったのだが……。

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