・・Ocean Bright・・ ◆楽園の猫姫◆

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13.彼女の情熱

『う……』

 胸が重苦しく感じ、純一はふと唸りながら、楽になろうと寝返りを打とうとしたのだが……。

「?」

 まだ目覚めない神経が鈍っている中──思うように動けなかった為に、もう一度唸った。
 そして──今度は? 息苦しさだ。
 呼吸が……しにくい。
 だから、寝返りは出来なかったが、今度は顔を背け、やっと思うような呼吸が出来たと思ったら──。
 また、塞がれるように、息苦しくなった。

『うふ、うん……』
「!?」

 そんな悩ましい声が聞こえたので、やっと純一の目は、フッと力無く開いた。

「ふふ……お兄ちゃま、起きたわ」
「……葉月。お前の仕業か」

 素肌で眠っている純一の身体の上に……こちらも素肌のままの葉月が、容赦なく乗っかっていたのだ。
 そして、彼女の唇が純一の口元を……悪戯を楽しむように、愛撫していたようだ。
 それは、彼女の目的であっただろう純一の目覚めを確認しても──続けられ、また純一は唇を塞がれた。

「……ご機嫌じゃないか」
「ふふ」

 彼女は、愛らしい笑顔を浮かべて、楽しそうだ。
 それも、そうかもしれない──と、思いながら、満ち足りているような微笑みの義妹が、自分を愛してくれるそのままに、純一は任せてみる。
 何故そう思うかと言うと──ご覧の通り、お互いが裸で目覚めたのも、昨夜……遅くまで激しく愛し合ったからで──。
 しかし……と、純一は、義妹が放ち取り囲もうとしている甘い空気の中、少しだけ、忘れてはならない事を頭に残そうとしたのだが──。

 結局──純一もまだ力が蘇らない目覚めの中、それは、それは……妙に情熱的な義妹の愛撫に巻き込まれるがままに、彼女の唇と舌先にリードを任せ、自分も僅かな反応を返す。
 それだけで──途端に、義妹の悪戯めいた微笑みが、悩ましげな恍惚顔に変化する。
 純一も、それを見ただけで、急に、目が覚めたように、唇に力がこもり始める。

 そっと胸の上に乗っている葉月の背を撫でながら、もう片方の手は彼女の頬を撫で上げて、そのまま柔らかい栗毛をかきあげ、唇の奥まで……やっといつもの力で吸い上げた。

 すると義妹は生意気にも、細い指先で──純一の目覚めよい男の分身をそっと撫で始める。

「お前──」
「私が触る前から、なっていたもの……」

 だが、それとは別に徐々に狂おしい感触の為に硬直してくのを純一は、ただ……任せるように密かに楽しんでいた。
 また悪戯ぽく微笑んでいた葉月の顔が──フッと物欲しげな女の顔になる。

「……昨夜みたいに……して」
「──こらっ」

 葉月は悩ましげな顔をして、純一の肌を鷲づかみにするように、男の身体の上でツイッと、しなやかに起きあがり背を反らす。
 小さな義妹が、その時ばかりは妖艶に色めき立ち、ぼんやりとしている薄明かりの夜明けの中、純一の性感の根を身体の中に吸い込んでいく。
 何故か──それに逆らえずに、純一はそっと目を閉じ、彼女がゆっくりと狂おしそうに腰を踊らせ始めるのを感触だけで、楽しんだ。

「……葉月。お前、昨夜からずっと……体調は大丈夫なのか?」
「黙って……何も言わないでっ」
「お、おい……」

 義妹は何故か必死に……動いていた。
 翻弄されているのは、純一の方だ。
 これだけ愛する女に操られては、何も逆らう気にはなれない。

 葉月は──昨夜からずっとこの調子だ。

 

『抱いてよ、兄様──うんと激しく抱いて』

 夜更け──純一が書斎での仕事を済ませ、先にベッドで休んでいた葉月の横で身体を休めた途端に……切羽詰まったような葉月に抱きつかれた。

『……ああ、いいぞ』
『兄様──愛しているわ』
『ああ、俺もだ』

 自分にすがりつくように、爪を立てるように──義妹は必死になって純一の激しい愛撫に全てを委ねてくる。
 純一も激しくする訳がある。
 そして、義妹もそうされる事で、『紛らわしたい』何かがある。

 お互いに解っていて、そして、それを黙って肌と肌、心と心の間に挟んで……抱き合った。
 葉月は『愛している』を、妙に連発していた。
 我を忘れたように、瞳に涙をいっぱい溜めて。
 気が高ぶると葉月はいつも泣いたように瞳を潤ませるのだが、それとは違う泣き方だった。

 純一には解っている。
 本当は……もう一人、深く愛していた男との『離別』を決して、泣きたい義妹の本心を知っていた。
 彼女の身体と心に深く息づいてしまった『もう一人の男』を、心から追い出し、身体に残っている感触を、必死に忘れようと。

 もしかすると、こうして俺の胸の下で、無我夢中に官能の波に溺れている『女』は──『彼』との今までを思って、喘いでいるのかもしれない。
 そして、泣いているのかもしれない。
 それでも構わない。
 義妹が、誰に抱かれているとか──そんな事を忘れるかのように、心の奥で、何かと向き合って、そして忘れようと、官能の波と交互に交え、心の奥でせめぎ合う『痛い想い』に、今……集中しているとして、『俺』の事など、その麗しいガラス玉の瞳に今、映っていなくても──。
 それでも構わない。
 それなら、それで──『忘れる程、抱いてやる』だけだ。
 それが、葉月が望む事なら──。

 純一は……そんな義妹の『引き裂かれる想い』について、嫉妬も何もない。
 二人の男を愛してしまう状態にさせてしまったのは、小さな義妹に対して、もっと大人であるはずの純一が、曖昧にして──深く求めてしまったり、かと思えば、冷たく放って世界を分けてきた事が原因であるだろうが──。
 それにしても、義妹が、二人の男を同じように深く愛す事で、二人の男を捕らえてしまった事は……やはり、彼女の心根の情が深いからだろう。

 あの『澤村』が、これ程に葉月にこだわっている気持ちが、純一には解る。
 他にもっと楽に幸せにつきあえそうな女性は沢山いる。
 女は葉月だけではないはずなのにだ。
 なのに──どうしてなのだろう、どうして、こんなどっちつかずの女をあの男は諦めてくれないのだろう。
 その『気持ち』が純一には解る。

 きっと……純一と彼は『同じ物』を、葉月という女性の中で見つけてしまっているのだ。
 いや……もっと言えば、海野とかいう小僧もそうなのではないだろうか……?

 他の者が見る事がない、義妹のそんな密かなる『情熱』を、俺も澤村も……知ってしまい、他の女から見いだせなくなる程になっているのだ。

 そうして、義妹の情熱の炎を鎮めるように……。
 彼女の溢れる熱い熱気を純一は吸い尽くすように……。
 夜半になり──義妹は果てるだけ、果てて……最後には、憑き物が去ったかのように、やっと微笑み、そのまま眠った。

 だから──朝から、清々しい笑顔で、また……俺を、俺しか見えていないかのように愛そうとしている。

 

「あ、ああうんっ、に、兄様ぁ……」
「……そうだ、葉月……もっとだ!」
「あ、うっっく……」

 起き抜けのセックスは、気だるい身体の中にゆっくりと、熱の固まりが入り込んでうごめいたかと思うと……突然、それに侵され支配されるような感触で、身体が目覚める。
 そのまま、流されていく気持ちよさには、純一も適いそうもない。

 ほら、俺の身体の上で、今──たった今、義妹が燃えている。
 こんな義妹を誰が知っている? きっと俺だけだ。そう……俺だけ。
 彼女の肌の感触が、しっとりと柔らかくなり……身体のそこら中から、甘酸っぱい匂いが立ち込めていた。

 他の者達はどちらつかずのこの不器用な義妹の事を、散々言うかもしれないが……そんな風に人をそっと密かに深く愛せる義妹を純一は愛している。
 エネルギッシュに真っ正面から『愛している』と言える女や、表面に素直に出せる女とは違って、静かに心を燃やして男を愛する女なのだ。
 それをどれだけの男が気が付けただろうか?

 義妹は無感情ではなく、ただ……心を閉ざしてしまったが為に表現が乏しいだけだ。
 本当は、あの『ばあや』と『姉』に負けない程……心の炎を激しく燃やしているのだ。

 そして、義妹は『俺』も『澤村』にも、甲乙はつけようとしない──。
 普通、つけてしまう物なのだろう?
 そして、何処かで割り切りをつけて、どちらかを心の奥にしまい込む物なのだろう。
 義妹は──そんな事が出来ないのだ。
 いや……頭で理解は出来ている事を、一度、二度、三度と、義妹は『割り切り整理』を試みたはずだ。
 その結果──『出来なかった』。
 そして、今──ここにいる。
 どちらの男も深く愛してしまう、愛したまま、ここにいるだけの事だ。

 『俺』を忘れられないようにさせてきた、俺がそうさせた。
 そして──愚かな俺の曖昧さの犠牲になった『彼』が、そうさせた。
 『俺達は共犯』──彼がそう言うなら、『俺は主犯だ』と、純一は彼の言葉を噛みしめる。
 義妹のそんな『どちらの男といる方──これが私の為』とか、そんな計算も損得もなにもなく、ただ馬鹿みたいに、二人の男を同じように愛してしまった義妹の心を『世間一般』の枠組みに入れて、無理に割ろうとしているのかもしれない。

 そんな二つの想いを抱え込んでいる、愛しい女と向き合って、起こるだろう嫉妬なんて。
 そんな自分本位な気持ちが、たとえ沸き上がったとしても、純一は義妹の気持ちを見つめて包む事の方が先立ち、そうしたい。
 こんなお前をどうしようもなく手放す事が出来なくて──理性で押さえ、お前の為ではないと言い聞かせてきたが──何もかも忘れても良いのなら……。
 こんな愚かな俺でも『お前を真っ直ぐに愛す事を許してくれ』──。
 それだけだ。

「あ、ああ……っ兄様? イイ? ねぇ……?」
「いいや……まだだ」
「ま、まだ? ……あう……」

 狂ったように葉月が、必死に俺を愛してくれる姿……。
 俺だけのものだと……思っていたのだが──。
 きっと澤村も『これを知っている』と、純一は思っていた。
 そう思った時──やっと僅かながらの嫉妬が生まれる。

「あっ──」
「もどかしい──俺にさせろ」
「あんっあ、いや……っ」
「嫌だと?」

 葉月の激しい愛し方に感化され、純一の身体は、すっかり目覚め、力が底から沸き上がってきた。
 上に乗っている葉月の腰を抱え、そのまま後ろに強引に押し倒し、組み敷いた。

『ふぅ──はぁ……』
『ああっん──あ・あ・・・』

 本気で義妹に向かう。
 シーツに激しい波が生まれる。
 義妹が掴んでいるだけじゃない──彼女の脇の下についている男の両手──そう『俺』の左右の手が、激しく握りしめ、引きちぎるように義妹の身体に向かって引き寄せている。
 その力の方が勝っていた。

 窓から入ってくる光が──赤みを帯びて、義妹の白い肌が、神秘的な紫色に浮かび上がった。

 閉じている繊毛のようなまつげと、うっすらと瞼を開けて覗かせているガラス玉の茶色い瞳が、俺をジッと真っ直ぐに見ている。
 柔らかくなった肌は、湯気でも立ち込めているかのように、甘酸っぱい匂いを漂わせ燃えている。
 そのしなやかな肢体が、純一の躍動に合わせて、揺れたり、もどかしそうにうごめいて、また揺れたりを繰り返す、その悩ましさ──。

 純一のミューズがまた現れる。

『……くぅ』
『……ああ』

 その細くて頼りなげな身体が、精一杯──この男の『業』とも言える『想い』を存分に受け止めてくれている。
 純一は、シーツを力一杯握りしめ、歯まで食いしばる程に、そこにいる愛しい女に全てを注ごうとした。

「あっ! お、お……にい……」

 あまりにも力がこもっていたのか……葉月の腰が逃げようとしている。
 純一は、ここ一番じゃないかと、彼女の腰に爪を立てて自分へと引き寄せた。

「は、葉月──俺は……」
「う・・・ああっ!」

 葉月の我を忘れたような叫び声に、かき消される中──純一の想いは、そこで噴き上がって、愛する女の中に激しく注ぎ込まれた。

 お前を──愛しているよ。

 グッと力が抜けていく中、純一の中の純一がそう呟いていた。
 額の汗──握りしめているシーツも、その手の平の汗で、湿っていて……純一はそっと、その拳を開いた。

 ついている両手の間には、すっかり気を奪われたかのように、葉月がぐったりと身体を横たえているだけだった。
 純一はそのまま──葉月と交わったまま、彼女の湿っている肌をゆっくりとヘソのあたりを回って、腰をなぞるように上へと撫でた。
 辿り着いた乳房を、そっと握りしめ──彼女のその胸元に、なだれ込む。

 そう──こうして、俺の業を……この女は小さな身体で、何年も受け止めてくれた。
 俺の──溜めては昇華されない想いを、十代の頃から……。
 その時の小さな身体と小さな心を、最大限に開いて、俺を受け止めてくれて、満足させてくれていた。

 そういう『深い女』なんだ。
 きっと──澤村も……何処かで葉月に存分に満たされてしまった何かがあったのではないだろうか?

 俺のように──。

「はぁ……すごかった……わ」
「……」

 途端に、いつもの義妹に戻ったような声。
 息を吹き返したように、葉月がぱっちりと目を開けて、純一を胸に抱えたまま、少しだけ起きあがった。

「……お兄ちゃま」
「……」

 今──まったく、素の顔であろう自分を、純一は葉月の胸元に隠した。
 だが……そういう事も義妹は分かっていて、ただ、ひっそりと微笑み、純一の短い黒髪を指で優しくなぞるだけ。

 その笑顔を、純一はそっと見上げた。

 本当に、その時ばかりは『女神』のような清々しい笑顔をみせる。
 愛に満たされたからか? それとも、この俺の業ともいえる愛を受け止める事に満たされたからか?

 ただ──何も考えていないようなそんな笑顔で、純一を見下ろして、柔らかに微笑んでいた。

 いつもそう。
 その笑顔に出会えた時に、純一の心は救われたように、和み安らぎ──あらゆる事から満たされ、癒される。
 この笑顔にはなかなか出会えない、無感情になってしまった義妹の貴重な表情だった。

「葉月──」

 そして、純一の頬もそっと緩む。
 自然に、自分も笑顔になってしまう──そういう至福の気持ちを運んでくれる笑顔なのだ。

 純一は、葉月をそのまま膝の上に抱き上げた。

「お兄ちゃま……?」

 もう甘えたそうな義妹の顔に戻った葉月が、純一の腕に支えられ首を傾げる。
 純一はそっと口づけた後に……いつものように葉月の栗毛をかきあげた。
 そして──純一は『彼女が与えてくれた笑顔』のまま……ジッと葉月を見つめた。

 そんな純一の笑顔がまた、義妹は嬉しかったのだろうか?
 にっこりと、無邪気に微笑み返してくれる。

 本当に、そんな義妹を、こんなに愛しく感じる自分を──恨めしく感じるぐらい、純一は葉月をきつく抱きしめる。

「葉月──」
「なぁに? お兄ちゃま……」

 きつく腕の中に抱きしめ、純一は、しっとりと湿っている彼女の栗毛を鷲づかみにするように、肩先に引き寄せた。

「……笑ってくれ」
「? どうしたの……?」

 フッと、葉月が肩先から離れ、純一の顔を覗き込んだ。

「お前が笑うと、幸せになる人間が沢山いるんだ──笑ってくれ」
「──? なに? 急に……」
「お前に愛されると、たまらなく幸せになれるんだ」
「……」

 まだ、葉月は訝しそうだった。

 だけど──ここまで義妹……いや、切望していた女を愛し抜いて、純一は思うのだ。

「お前は──人を不幸な想いばかりさせる女じゃない」
「……お兄ちゃま……」
「お前、こんなに熱いじゃないか。お前、自分はそれだけ情熱的な想いを人に伝える事だって知っているじゃないか……。だから、俺だけじゃなく、沢山の人の前でそうして笑ってくれ……」
「……」

 純一が必死に訴える様に、葉月が眉をゆがめ戸惑っている。
 それでも続けた──。

「それを──忘れないでくれ。お前は……誰よりも情熱的で、男を幸せに出来る女だ。いや、沢山の人に情熱を与えられる人間だ。ただ……お前は、それを……それを……」

 純一はそこで口ごもった。
 それだけで──義妹の顔色が変わる。

「やめて──」
「葉月……」

 サッと、純一の膝から葉月が降りていく。
 それどころか──素早く逃げるように、ベッドも降り、またたくまにバスルームへと向かっていったのだ。

「……どうした。俺も……」

 純一は額の汗を拭って、うなだれた。
 本当に──なんとも察しがよい義妹だ。

 いや──?
 本当は葉月自身も、自分で分かっているのかもしれない。

 俺も義妹も認めたくない事が──何故、ここで急にちらついた?

 純一はそのまま──明けてくる部屋の中で、そっと息を長く静かに吐き、額を抱え、背を丸めた。

 

☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆

 

 さぁ──これからやらねばならない事が、多々ある。
 そろそろ、義妹とここで溺れてばかりいる場合じゃない……と、純一はネクタイを締め、鏡に向かっていた。

 イタリアに帰る前に、やらねばならぬ事が……一つ、二つ……それから……と、頭の中で呟きながら、シャツの袖口に黒曜石のカフスボタンを付けていたのだが──。

 肩越しに振り返ると、綺麗に身を整えた葉月が、脱力したようにソファーに座っているだけだった。
 ぼんやりと……力が抜けたように。

「朝飯、食うだろう?」
「うん……」
「その前に、少し朝の段取りを済ませてくる。待っていてくれ──」
「うん……」

 ただ、こっくりと頷く後ろ姿。
 純一は……朝方の交わりの後を思い出し、溜め息をつく。
 だが──こちらも急がねばならず、書斎へと向かった。

 

「雨か……」

 この日、朝……あれだけ空が茜色に染まっていたのに、数時間の間に雲が立ち込めたようで、書斎の窓辺は滴が付き始めていた。
 小降りのようだが、柔らかな雨音が静かな書斎に響いた。

 その窓辺に向かう机に座り、純一は、自分が用途により使い分けている携帯電話の一つを取りだした。

「ああ、若槻。俺だ──昨日は、ありがとよ」

 後輩の元に連絡を入れる。
 早朝だが、向こうも既に起きている時間だ。
 だが、忙しい身分の彼を捕まえられるのは、この時間しかなかった。

「悪いが頼みがある」
『なんですか? なんでも──』

 いつもの気前の良く、明るい後輩の声に、純一は何故かホッと頬を緩ませた。

「小笠原の……四中隊大佐室の──」
『! 連絡する気になったのですか?』
「ああ、まぁな──それで……」

 純一は、思い描いている事をそのまま後輩に告げた。

『お安いご用ですよ。分かりました……任せて下さい。後で連絡します』
「なるべく、彼だけに分かるようにして欲しい──他の者に勘づかれないように頼む。ああ……ジョイがいるから上手くやってくれるかも知れないが?」
『イエッサー』

 やや、ふざけたような後輩の『懐かしい締めくくり』に、純一はまた笑っていたが──携帯電話を切って、溜め息をついた。
 暫く、窓辺を伝う銀色の水滴を眺めた……。

 小雨には、ある想いがある。
 義妹を初めて抱いた夜も──こんな柔らかな小雨だった。

 ──コンコン──

 ノックの音がして、純一は『どうぞ』と生返事のように呟き、そっと物思いから抜け出した。
 椅子を回転させて振り返ると、いつものようにジュールが軽く会釈をして入ろうとしている所だったのだが……。

「!? どうした? その顔は……!」

 純一が驚くと、弟分のジュールがいつにないバツが悪そうな顔で、俯いてしまったのだ。
 それにも驚いた。

 ジュールの頬には、大きめの絆創膏が貼られていたのだ。
 つまり、『何者かと争って、やられた』と言う事だ。

 だいたいにして、この弟分は、あまり『しくじり』をしない男だ。
 純一以上に、用意周到で、それでいて無駄な遠回りなど絶対にしないから、『絶対に自分が不利にならない、リスクない道』と言うのを、上手に選んだり、その為の道順を、上手く切り開いて進んでいく、甘い事には流される事がない冷静沈着な男だ。

「ご報告せねばなりません──まず、お詫びします」
「……リッキーが何か仕掛けてきたのか」
「!」

 純一が頬の傷を見ただけで、『今、お前とタメ張って傷つけるなら、あの男だろ』と察した事に、ジュールが驚いて顔を上げ……そして、また口惜しそうに俯いた。
 その様子で、『やられてしまった』のだと、確信する事が出来た。

「──葉月には何も、接触はなかったようだが?」
「目的はお嬢様ではありませんでした」
「? では、何を……」
「……」

 ジュールが言いにくそうにしているのだが?

「私が……夜明け前、ふと気を抜いた隙に、アリスが家を出ました。探しに向かった所、数日前から待ちかまえていたらしい彼等が、彼女を──」

『連れていった』

 その報告に、純一は眉をひそめる。

「連れていった? アリスをさらって、葉月と交換しろとか……そういう馬鹿げた事を? ロイが?」
「ボスまで……」
「なにがだ?」

 何故か『人質交換』という予想を口にすると、ジュールが苦笑を静かに漏らした。
 そこから、ジュールがリッキーと争った間に交わされた話を、事細かに報告してくる。

「ロイが? そう言ったのか?」
「はい。アリスの事は任せて欲しいと──冷静に思えば、それが彼女の為かと、私も思わなくもなく……」
「……」

 ジュールは『小笠原組』の提案を承知はしたようだが──語尾は口惜しそうに濁し、口元を引きつらせていた。
 この弟分がこれだけ悔しがっているのも……純一には分かる。

 『俺の仕上げを、分捕りやがった──』と、純一も一瞬頭にかすめたからだ。
 だが、純一はこういう時こそ、ロイの思惑に対してムキにはならない。
 ただ──また、溜め息をつくだけ。

 確かに、ロイの様にすぐに怒ったり、感情を素直にストレートに出す性分でもない自分だが、純一は……その『ロイ』という『旧友』のちょっと『嫌味』ではあるが『考え様』に対して、冷静に向き合えば、彼の言う事こそ『もっともだ』と思わされる事が多かったりする。

 今回も、自分の気持ちだけを考えれば……『確かに俺は、ここでも曖昧にして結局彼女を傷つけた。だが、ここから彼女の為になるように、じっくり時間をかけてだな……今度こそ、外世界に──』……なんて言う、『ご託』に『いい訳』と『言い分』は、このように並べられるのだが……。
 今、ロイがそうして手を打ってきた『判断』は、合理的には『早い話』である事は違いなかった。
 だから──純一もそこで取り乱さない。

「俺の不甲斐なさだな──」
「……申し訳ありません。私も阻止出来ず」
「お前だってそう思うだろう? アリスの為には『男としての手柄』なんて……争っている暇なんてないともロイは言いたいだろうな。嫌味にふっかけてくれているが、それも、俺が取り乱せば、面白いぐらいの悪戯心だな」
「そうですね──。私達は彼女と近くに日常を分かち合い過ぎました……『家族』と言っても良かったでしょうし。彼女はもうちょっとやそっとでは、私達の事を『自立のスポンサー』のように、ビジネス的にいきりなり割り切る事は出来なかったでしょうね」
「そうだな……そういう事になるか」

 それなら──真っさら、新しい信頼出来るスポンサーに出会った方が、彼女もすんなりと歩き始める決意が、早くに固められるかも知れない。

 ジュールも、『黒猫では無理だった』という事を、もう、すっかり認めたのか、落ち着いた息づかいになり、いつもの彼の冷たい横顔が整われ始めていた。

「では……これで当分はアリスの事はお任せすると言う方向で──」
「ああ。しかし、イタリアに帰る前に、正面切っての話し合いはせねば、俺も『はい、そうかね』では済ませられないし、ロイもそのつもりだろう……」
「では、『コンタクト』とられるのですか?」
「コンタクトの順番待ちで、そうなると、ロイは最後にせねば……また、『葉月を優先しろ』と怒り出すだろうからな──」
「では? 順番待ちとは、他にどなたと? ああ、右京様と会わなくてはいけませんからね。その後?」
「いや……」

 純一は、フッと椅子を回転させ──しとしとと窓辺を濡らしている雨を見つめる。

「──週末に、葉月を診察につれていくつもりだが」
「ああ。エドから聞いております。日本に来れば融通を利かせてくれる東京の医師に頼んだと……」

 純一はそこで、ジュールを真っ直ぐに見つめた。
 弟分の彼が──そんな時は、ちょっと怯えたように、兄貴分である自分の強い眼差しに構えたようにして、黙っている。

「俺は東京まで付き添う。だが──立ち会うのは『父親』だ」
「──!? ボス……?」

 きっぱりと言い切った純一の確固たる顔を、弟分のジュールは目を見開いて硬直した顔で、唖然としていたのだが──。

「そうですね──それがよろしいでしょう……手配は?」
「若槻に『仲介』を頼んだ──」
「そうですか」

 ジュールもニコリと微笑んだ。
 だが──ジュールは純一を、少し不憫そうにも見つめてくる。

 そして──純一は、ただ……その弟分が密かに労ってくれる眼差しに、柔らかく微笑む。
 そこで窓辺をしっとりと、柔らかく濡らしている雨のように──微笑んでいた。

 

☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆

 

「あーあ」

 気が抜けたような金髪の青年のそんな声に、隣の席にいる山中中佐は、眉間にシワを寄せた。

「ジョイ、そろそろいい加減にしろよ? なんだ式典が終わってからその調子は」
「うーん、そうなんだよね〜」
「お嬢が、体調崩して休んでいる時こそ──お前がやらないと、お嬢も安心して休めないだろう」
「……ったく、ああいう休暇の取り方ってあるのかなっ」
「……何、怒っているんだよ」
「せめて──ちゃんと、休暇を取るという手順を踏んで……」
「仕方がないだろう──あれだけの大技をやってのけて、墜落しかけたんだ。精神的ダメージもかなり激しいとかって……聞いたけどな?」
「いろんな言い方ってあるんだね」
「? なにがだよ」
「こっちの話っ」

 ジョイはプイッとそっぽを向け、生意気に山中を払うような手振りをすると、向こうの兄さんもいつにない不機嫌顔になって、黙り込んでしまった。

 俺の『幼なじみ姉ちゃん』が、いきなりいなくなった。
 勿論──『ジュン兄の所に行っちゃうんだね』という予感はあったものの……こんな風に、何もかも投げ出したような『派手な消え方』をするとは、ジョイも予想外だった。
 しかし──あの『台風お嬢』らしい、派手と言えば派手で……もっと言えば、『あの黒猫兄』の『突発的な誘い』は、今に始まった事ではないから、徐々に『こんなもんか』と思えてきていた。
 だけど、やっぱり……寂しかったし、なんだか、ぽっかり心に穴が開いたような数日を過ごしている。

『大佐、大丈夫なのですか?』
『あんな墜落寸前に直面して……それ程……?』

 初めての大役をこなし、自信に満ちた後輩達……特にテッドと柏木は、葉月が突然休暇に入ったと言う話を聞かされて、もの凄く驚いたようだ。
 そして──がっかりしていた。

『良くやったわね』

 大佐嬢の、そんな笑顔での労いを彼等は楽しみにしていただろうし……そんな大佐嬢と、これからもっと頑張りたいと思っていた矢先の……『大佐の不在』だった。
 それに、なんだか本部全体が、妙に落ち着きがない。

──ルルルルル──

 ジョイ手元の外線が鳴る。
 それを気だるい気持ちで、手を伸ばす。

「お世話になっております。小笠原総合基地、第四中隊本部、フランクです」

 日本語でのいつものご挨拶。

『あ、ジョイだね。良かった──』
「!?」

 こっちが礼儀正しく出たのに、妙に慣れ親しんだ声に『アンタ、誰?』と、ジョイは不機嫌さも手伝ってムッとした。

『本部の顔が、そんな張りのない声じゃぁ──ちょっと印象悪いねー』
「失礼ですが、どちら様でしょうか……」

 まぁ、時にはのっけから偉そうな『客』がいる事も、ごく希にある事だ。
 なんだい? まさか、うちの中隊隊員がなにか不始末でもした『クレームかい』と……しかし、ジョイはそこは相手様が仰るとおりに、にっこり微笑み、声も柔らかに明るく努めた。
 しかし──向こうは『ジョイ』と言ったぞ? と、そこでやっと首を傾げる。

『いえ、少し失礼が過ぎましたね。お久しぶりです若槻……です。以前、そちらの連隊長から、君を紹介してもらった事を、覚えていますか?』
「!」

そう言われて、ジョイが思い出す『若槻』は、一人しかいない!

「! わ、若槻って。いえ、失礼……あの。若槻社長……ですか?」
『そう、君の従兄と知り合いの。出来れば、普通のお客程度でお願いしていいかな?』

 若槻の事はジョイも知っている。
 と言っても……ロイの館に遊びに来ていた時に、従兄が『これから活躍する男だ』と紹介してくれたぐらいの事。
 それに──今となっては、同じ『IT分野』の仕事に携わる身としては、日本国内でこの男を知らなければ『もぐり』だ、『潜り』!
 それぐらい、ジョイが常々目を通す雑誌にだって良く出ている、『時の人』みたいな青年実業家に登り詰めている。

「そ、そ、その……あの、ここはですね──連隊長室ではないのですが」

 何故? 従兄である連隊長の知り合いが、こんな配下の事務室に連絡を? と、ジョイはやや取り乱してしまっていたのだが。

『分かっているよ。僕は四中隊に用があるんだけどね』
「え? あの……どのような……」
『……君のお姉さん? 元気だったよ』
「!?」

 ジョイの呼吸が一瞬止まる。
 今のお嬢を知っているという事は、彼は黒猫の事も知っているという事になる?
 彼はロイと親しい……だけど? そういうからには? 『ジュン兄』とも親しい?
 ジョイの顔は一気に引き締まった。

 従兄と、あの黒猫兄は、敵対はしているが、妙な所で『繋がって』いたり、上手い『ギブアンドテイク』で、表世界と裏世界を渡っている事を知っていた。
 つまり──この社長は……ロイのただの知り合いでなく、『兄貴達の仲間だった』と、直ぐに悟る事が出来た。

「そうですか……安心致しました。それで──? ご用件は?」
『いや、流石──ロイ先輩の従弟だけあって、察し良いね』

 その若槻の気の良い声に、ジョイは『やっぱり』と、余計に緊張をした。
 『先輩』と呼ぶという事は……そうだ、確か……この人は『元・横須賀隊員の経歴持ち主』だったと、ジョイは思いだし、妙に兄達との繋がりに納得した。

『澤村君と話したいんだけど……』
「あちらで……何か?」
『あちら様が──コンタクトを取りたいと……』
「まさか──」
『いやいや! 殺伐とした事じゃないよ──彼女と彼には大事な事だから……と言う“あちら様”のご希望があってね』
「!?」

 ジョイは、純一の事は嫌いじゃない。
 むしろ──葉月と一緒で、ちょっと意地悪だが、どことなく触れた暖かさが幼心に残っているくらいで。
 そんな純一が、隼人が邪魔だからとて、『おびき出して力づくで決着をつける』なんて強引な事はしないと信じられる。
 だから──。

「かしこまりました──。しかしですね……折り返しの連絡にさせて下さい。中佐は今……離席中です」

 大事を取って、ワンテンポ置いてから、隼人に引き継ぐ事に決めた。
 すると、若槻の軽やかな笑い声が聞こえてきた。

『流石だね──闇雲に取り次がない……。きっとロイ先輩は、合格と、言ってくれるだろうね。分かったよ──こちらの連絡先を言おう。あ、そうだ、きっと澤村君は、“彼女の事”と言えば、察する事があると思うよ』
「!? そうですか……」
『僕直通の携帯電話番号を言うよ──』
「お願い致します」

 ジョイは若槻が言う番号をメモに取る。
 そして、彼はにこやかな挨拶をして、サッと退いてくれたので、ホッとした。
 が……額には汗を滲ませていた。

 それを手にして……本当は『離席』なんかしていない隼人がいる大佐室に入った。
 運良く? 彼一人で、相棒の海野中佐は不在だった。

 音も静かな自動ドアを入ってきたジョイに……彼は気が付かない。
 ノートパソコンも開いているし、手元にはいつものように、沢山のデーターROMに書類が雑然と散らばっているのに……。

 彼はぼんやりと窓辺に視線を馳せていた。
 ううん……窓辺前にある革椅子のようだ。
 そこに、『彼女』の幻を描いて、見つめているのだと、ジョイの胸は彼に同調するようにギュッと痛んだ。

「隼人兄……?」
「ああ、なんだろう?」

 すぐに彼の眼鏡の奥の瞳が、いつものように穏和に和らいだ。
 先程まで、何処かを彷徨っているかのように、とても哀しい色を灯していたのに。

「実は……」

 ジョイは、そっと小声で──隼人とコンタクトを取りたがっている『社長』の話をして、『兄達』とどのように繋がっているかという事を隼人に説明してみる。
 すると──若槻社長が言った通りに……『黒猫側がコンタクトを取りたがっていて、連絡先がこの社長だ』という事に、みるみる間に隼人の顔色が変わったのだ。

「サンキュー。良く取り次いでくれた。ジョイ──悪いけど、これは連隊長にも言わないでくれ」
「? ……何があったの……?」
「ごめん……今は言えないけど。葉月と会う事になると思う」
「! そうなんだっ」

 ジョイは……『いつの間に!?』と、驚いたが……。
 若槻社長のメモを握りしめた隼人の目の色が、急に輝いて、彼は携帯電話を片手に大佐室を出て行ってしまった。

 その後──隼人が急に……。
 『週末、本島に行くから留守にする』と言い出したのだ。
 皆は『鎌倉に帰省している大佐の様子を見に行くんだ』と思っただろう……。

 でもジョイは……。
 そして、達也も悟っていたようだ。

 葉月に会える様になったんだ。
 そして──これが隼人の最後のチャンスだろうと……。

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