とにかく、駅よ。
駅に行くのよ。
あのフェリーに乗ってもいいじゃない?
アリスは意気込んで……そして、そこで立ち止まった。
日本語はしゃべれない。
所持金も少ない。
行く宛てもない。
日本を出国する術も知らない。
全て、純一任せで入国したから、パスポートだって持っていない。
行き先? そんなものない。
ただ歩いていた。
何処に行くかなんてどうでもいい。
近くに駅らしい物があれば、英語を駆使して乗り込んでしまえばいい。
そこで行き着いた所で、どうするか? なにも考えていない。
ただ──あの別荘を出たかった。
もう、純一の側にいられなかった。
ジュールやエドの顔も見たくなかった。
ただ──それだけ。
そう──それだけ。
急に……涙が溢れてくる。
そう……飛び出してきた所で『何も出来ない自分』を、何も持っていない自分を、また惨めに思って、アリスは泣き始めていた。
急に『不安』にもなった。
結局──何処へ行っても、これから先は、今まで甘えて生きてきた分のツケが待っているだろう。
もしかすると、また騙されるかも知れない。また、利用されるかも知れない。
そして……最悪、やっぱり身体を使うしか生きていく術がないかも知れない。
身体を使って生きていく覚悟があるなら、それもいいだろう。
だけど──アリスは一度、その覚悟を決めたはずなのに、それで自分を殺しかけた。
覚悟が出来ていなかったのだ。
身体一つで生きていた頃、そんな自分を責めに責めて、それで生きていく事がどうでも良くなってしまったのだ。
だから黒猫さんが、パパを殺しに来た時に、『私もやっと死ねる』と思ったんだから……!!
それぐらい、本当は、自分で嫌だったのだ。
そう言う生き方が──。
今度は出来る? その覚悟。
その自己への問いかけに、アリスはまた……泣いていた。
今度は声を上げて……そこの歩道に、ペタリと座りこんで……。
捨てられた子猫のように、声を上げて泣いたのだ。
「これは、これは……こんな朝早く女性の泣き声が聞こえてきて、何事かと思えば……」
「!?」
泣く事に夢中で、アリスがフッと泣きやみ、顔を上げると……。
そこには知らない男性が、なんだか余裕の微笑みで、アリスを見下ろしていたのだ。
「……」
その男性は──偶然?
日本人ではなかった。
栗毛で、不思議な青っぽい? 紫っぽい色の瞳をもつ、ちょっと危なげな男性の匂いを漂わせている『外国人』
ファミリーの元から飛び出してきて、一番最初に出会ったのが、英語が通じそうな男性──!
だけど、アリスはただ……涙を流して、黙って、彼を警戒していた。
でも、そんな栗毛の彼は──初対面なのに、まるで、アリスを知っているかのような余裕の微笑みを浮かべていたのだ。
「出てきてしまったのか……『ジュン先輩』から、ついに別れ話でも?」
「!」
しかも、彼は解っているかのように、急にフランス語でアリスに話しかけてきた!
それに『ジュン』を知っている!?
「俺は、こういう者だ」
ただ唖然としているアリスに、栗毛の彼が急にかしこまった怖い顔になった。
それで、彼がアリスにつきだしたのは……。
『軍証』だった!
「黒猫さん達とは、曰く付きの仲でね。俺の上司ロイ=フランクとは特に……」
「──!」
ニヤッと微笑んだ彼に、アリスはサッと立ち上がって後ずさった。
「ロイって……うちのボスを見つけたら、捕まえちゃうって言う……ジュンの敵!? の?」
彼等がこんな側をうろついている!
ジュンが危ない!?
アリスはそう思って青ざめた。
彼は軍人。
そう──あの義妹を連れ戻しに来たのかも知れない?
でも! あの義妹を連れ戻す為にあの別荘に乗り込まれると、今度はジュンが捕まっちゃう!
「敵? アハハ! そうやって教えられているんだ? 俺達の事。ま……敵と言えば、敵だけどね〜」
一人慌てるアリスをよそに、栗毛の彼は可笑しそうに、楽しそうに笑うだけだった。
「まぁ……いいや。目的は君、『アリス嬢』だったんで。これは丁度、手間が省けたかな……」
途端に彼が余裕の笑顔を消して、指をパチンと鳴らした。
すると……湖の散策道を囲う雑木林の影から、男性が一人、二人と姿を現した。
「上司ロイの命令で。黒猫ボスの愛人をさらってこいとね……」
「!?」
また、彼が不敵な微笑みを楽しそうに浮かべる。
これは……大佐嬢である義妹をさらった黒猫ボスへの当てつけ?
アリスを人質にとって、交換しろとか?
あらゆる予想を浮かべたが……アリスは恐怖で足がすくみ──動かなくなる。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
この日の朝──ジュールは珍しく、うたた寝をしていた。
テーブルで、ノートパソコンの前で……頬杖を付き、そのまま。
ナタリーと出かけ、彼女といつもの会話の食事をしただけだが、色々と自分の身の回りの事を話し合ったりした。
元は王室とかいう世界にいた『世間知らず』のジュールが、外の世界に放り出された時──世の中の厳しさや冷たさを先に知っていた彼女が、それに対する冷静な目線や、接し方を色々と教えてくれたのだ。
男として成長しながら彼女を女性として守ってきた部分はあるが、ある意味、ジュールにとっては『世間の姉御』みたいな幼なじみ。
彼女には小さな子供がいる。
父親は誰だか、彼女は決して誰にも言わない。
ジュールでない事は確かだ……身に覚えがないからだ。
それからボスでもない。
ボスと彼女の関係は、かなり昔の話になるから──。
そういう彼女が、ある日突然、『子供が出来た』と言った時には、流石にジュールも驚いた。
彼女は絶対に、誰が父親か知っているはずだ。
なのに、絶対に……言わない。
それどころか──『沢山の男と寝たから、誰か判らない』とか言い放つ始末。
そんな事はない。
確かに彼女は、魅力的で、いつだって引く手あまたのように、彼女に言い寄ってくる男性がいて、時には、恋人がいたりする。
だけど、いつの事の、誰が父親か判らなくなるような、手当たり次第のようないい加減な付き合いはしたりしないと、ジュールには解る。
ジュールにそんな短い期間で終わってしまう恋人を紹介する事もしょっちゅうだったが……近頃は『息子第一』のようで、それ程、派手な異性付き合いはしなくなったようだ。
そんな彼女の息子の事を、ジュールは時には気にかける。
あまり気にかけると、ナタリーに倦厭されるので、さりげなくだ。
それで、昨夜も『どうだ? 大丈夫か?』とか『健やかに、過ごしているか』などという話に、ナタリーが面倒くさそうに答えるので、また、口喧嘩になったりで。
いつにない感情を使ったので、疲れて帰ってきたという所だった。
プライベートで女性と出かけると言っても、ナタリーと出かけるのは家族と出かけるのと似ているのに、なんだかいつもとても疲れる。
そして、それが嫌でなく、ジュールはどうしてもそうしてしまう。
彼女は気が強く、男顔負けになんでもこなす。
ジュールなどいなくても、きちんと生きていける人間だと、ジュールは尊敬さえしているのだが……。
やっぱり女性は女性であって、そこは、ジュールがちゃんと気にかけるようにしている。
ジュールがそうしなくても──嫁に行った『姉』が、今度は気にする。
『ナタリーの事を、ちゃんと気にかけてあげて下さい。お仕事も、世渡りも出来ると言っても、やはり女性です。男性として守ってあげられるのは貴方しかいないんですから──お願いします』
毎度、姉は伝言にそう添える。
姉もナタリーに色々と助けてもらった一人だからだ──。
そんな事だったので、いつにない気疲れの後遺症なのか、うとうとしていた。
だが……。
「?」
ふと、目が覚める。
なんだかそっと人の気配がしたのだ。
「ジュール!」
「……? どうした?」
エドが顔色を変えて、リビングに入ってきたので、ジュールは瞬時に目が冴える。
エドの足元に、子猫が二匹……続くように入ってきた。
今はアリスの寝室に、常時置いていたはずの……子猫が……。
「ちょっとした物音がしたんで、少し早いが起きてみたら──猫たちが廊下に出ていて……」
「!……」
「アリスがいない……!」
「なに?」
ジュールは立ち上がった。
「そうきたか……まったく。だが、そう遠くには行けないはずだ」
「どうする……?」
「探しに行ってくる。お前はここを動くな。それから……ボスには言うな」
「解った……」
ソファーの背もたれに、無造作に置いていた黒ジャケットをサッと羽織って、ジュールは直ぐに外に出た。
外はまだ暗く、だが──うっすらと湖の水面が朝霧の中、揺らめく光景が見えるように。
ジュールは白い息を吐きながら、湖沿いの車道を走った。
たまたま、うとうとと眠っていた時に出て行くなんて──ジュールとしては『やられた』というか『しまった』と言う感触だった。
(ボスから目を離すなと言われていたのに……!)
昨夜、ナタリーと別れて帰ってくると、純一に『話はついた。葉月にも説明した。アリスには迎えをよこし、一足先に帰らせる』と言う報告を受けた。
離れに戻ると、アリスは帰り支度に専念していた。
『大丈夫よ。メルシー』
彼女は、馬鹿みたいに笑っていた。
『だってね、皆が言いたかっただろう事……すごく身に沁みちゃったのよね。かえって、日本についてきて良かったわ。もう、良く解ったから──』
彼女は、そうして──ジュールにもエドにも清々しい笑顔を見せていた。
だが──ジュールはその『笑顔』を信じていなかった。
今頃、上手い演技をしやがって……と、頬を引きつらせた。
純一が悔やんでいるだろう、同じ気持ちがジュールにも生じた。
『もっと早くに、上手く……彼女を導いてやりたかった』──と。
いつか女性として、こんな風にどん底に突き落とされて傷つく前に……彼女に女性以外の目線を持って欲しくて、だから──辛くもあたったし、怒りもしてきたのに。
かえって逆効果であったのか……ジュールも、口惜しく思わせる笑顔。
そういう『機才』を持っている事を予感していたから、もっと早くに目覚めて欲しかったのだが……。
そんな『状態』である彼女が、何を思い行動を起こすか……という予測が出来そうなものを、そこすらも油断し、ジュールは『うたた寝』をしてしまったのだ。
だが──何処かで『簡単に連れ戻せる』という安心感はある。
彼女は、黒猫ファミリーの囲いを出たら、何も出来ない少女みたいなものだ。
ましてや、慣れていない異国の地。
今頃、駅に行ったとしても、始発電車もないはずだ。
そう思いながら、一本しかない車道をジュールは繁華街方面へと走る。
濃い朝霧に、杉の並木。
その隙間から、湖畔の静かな小波の音。
散策道も細かに見下ろしながら、ジュールはガードレール側を進む。
『いやっ! 離してよ!!』
「!」
そんなフランス語でわめく声が聞こえた!?
それも聞き慣れた子猫の声に間違いなかった。
(まったく──!)
アリスは、確かに『美女』だ。
歩いていれば、何処の国に連れていっても、沢山の男達が振り向く。
彼女のキャットウォークは、完璧と言っていい程、美しく、口では言わなかったが、何処のステージにモデルに出しても一等目立つだろうという存在感があるのだ。
一度だけ、エドが……『うちのコレクションショーのモデルに使えたらなー』なんて、冗談めいて言っていたが、ジュールは『きっとボスに言うのが怖いだけで、あれは本気だな』と思った事があるぐらい、人目を惹く。
それだから──早速、妙な行きずりの男にでも、捕まったか……と、ジュールは思ったのだ。
バカンス先では良くある事だが、純一が一発で、そんな柔男達を退けてしまうので、大事になる事はなかった。
だが──!
「!!」
その声の下に辿り着いた時には、そんなジュールの『安易な予想』は、驚愕に変わった!
「その……女を離せ!」
その『光景』を目にして、ジュールは構うことなく声を張り上げた。
『ジュ、ジュール……!』
アリスの目がそう言っていたが、彼女は今、体格良い黒髪の男に羽交い締めにされ、白いハンカチで口元を押さえられた所だった。
そして……その黒髪の男の目の前に立ちはだかっている男が、振り返る。
革ジャンを着ている栗毛の男が……。
そう……ジュールの宿敵『リッキー=ホプキンス』が目の前にいたから、余裕なく声を上げたのだ!
この男に、余裕など使っていたら、簡単に隙をつかれてしまうから、本気に成らざる得ないのだ。
その男に気をとられていると、その内に……アリスが軍人だろう黒髪の男の腕の中で、気を失ったようで、ぐったりと身体を折ってしまった。
おそらく、ハンカチに『クロロホルム』を染みこませていたのだろう。
「──連れて行け」
「イエッサー」
栗毛の男の冷たい声の指示に──部下だろう二人の男が、またたくまにアリスを抱え、散策道へ降りようとしている!
当然、ジュールは直ぐに一歩踏み出したのだが!
「おっと……ちょっと違うんじゃないの? 邪魔者だったんだろう?」
「──くっ」
栗毛でバイオレット色の瞳の『彼』が、不敵な笑みを浮かべ、ジュールの前に、素早く立ちはだかった。
しかも既に『間合い』をとられ、向こうは、臨戦態勢のさり気ない構えを醸し出す!
不思議な色合いのバイオレット色の瞳が、薄闇の中──いつもより青みを帯び、冷めたような色を滲ませる。
「何のつもりだ──ボスが面倒を見ている女だぞ。お嬢様を手元に引き寄せてしまった当てつけか!」
「あはは! 君までそんな事を言っているようじゃぁ……彼女が家出をしても仕方がないんじゃないのー?」
「なんだと?」
相手の中佐は、からかうような微笑みを、余裕たっぷりに浮かべている。
その言葉に、ジュールは頬を引きつらせた。
何故なら……。
「だって、そうだろう? 君は、一度──彼女をロイに引き渡そうとした程だ……それなら、今、一番、彼女がいては困るだろう……?」
「……!」
ジュールが昔──ロイに無理に頼んだ事を思い出そうとした所を、まるでそれを『忘れていたなら、思い出させてやる』とばかりに……今度は、厳しい表情に変わったリッキーに言葉で先を越された。
その為、流石のジュールも一瞬、息苦しい無呼吸に追い込まれたかのような気持ちにさせられる。
「率直に言おう。ジュン先輩には『無理』だ。彼女もレイも、どちらとも上手になんとか収めようだなんて無理──それが『旧友・ロイ』の判断だ……と、言おうかね」
「いや……! ボスは、『今回こそ』は、きちんと……!」
彼が言い出した事、ロイの今回の『意志』──その判断を下した気持ちは、ジュールには良く解る。
だから──ロイに、アリスを引き渡そうと、一人でひっそり、小笠原に頭を下げに行った事もあったのだから……。
だが……今度は違う。
純一は、アリスをなんとかしようと、形はともあれ、これ以上曖昧に流されるような関係を正そうと決意はしていたのだ。
確かに、アリスを傷つけるような遅い決断だったかもしれない。
だが、純一の手で、最後まで『始末』をつけてもらい、そして、ジュールも『アリス』という『同居人』の『素質』を上手にフォローしたいとやっとその状況が整ってやる気になっていたのだから──。
「だったとしても──遅い。彼女はこちらで預かる、いや、頂く。こう言ってはなんだが? ロイは彼女を自立させる事を引き受ける気持ち、満々だ。恩を売ってやるってね。君の手間も省けて、願ったり叶ったりだろう? 何故、彼女を引き留める?」
「!」
そして、今度は彼の瞳が熱を灯したように赤帯びた紫色に、揺らめいた。
「黒猫達は──彼女には何も出来なかった。それが結果だ。だろう? 諦めてもらおう──君たちの『力量』がなかったのさ。『女一人』、易々助け出せるが『道を開けない』──そういう男達だったのさ……」
彼がニヤリと微笑んだ。
ジュン先輩がそれが上手に出来ない事には『性分だ』と笑って流す彼は、ジュールに対しては『君は側近の采配を振るいきれなかった』と冷ややかな微笑みで『非難』しているようにジュールには見える。
宿敵の彼は……アリスを外世界に『上手に返還する』自信満々のようだ。
心ならずとも──ジュール自身でも、認めたくない『感情』が沸き上がってきた!
何故なら……見えるのだ。
彼とロイが上手にアリスを導く様が──。
ジュールには解る。
彼等は『宿敵』だが、認められる男達だ。
家出まで決意したアリスなら、彼等が親切に導けば……彼等のように出来た男達が導けば、素直に進んでいってしまう気がしたのだ。
「……」
「あははは──!」
ジュールが黙り込んでしまうと、彼が勝ち誇ったように高らかに笑う。
「認めたね……」
「認めていない!」
ジュールが構えると、リッキーも余裕の笑みを消し、今度は正面から対する構えをとり、一歩後ずさった。
「彼女がいなくなったと知れば、ボスは絶対に小笠原に取り返しに行く!」
「おっと!」
ジュールの回し蹴りが、空気を静かに裂いて、リッキーの肩先をかする。
彼の頬に、ジュールの黒い革靴──それを、リッキーは寸差で避け、さらに、後退した。
本当の所は、純一がどうするかは解らない。
だが──小笠原組に、自分の同居人がさらわれたとあれば、純一だって『ああ、そうか』では終わらせないはずだ。
「まったく。往生際悪いな──。彼女は自分の意志で、今、家出を決したんだ。可哀想に……行く宛てもない、何処にどういう手段で行けばよいかも解らない。そんな一人で出歩く事も出来ないような『生活』をさせていた方がおかしい。彼女、電車の乗り方も知らないんじゃないか?」
後ずさったリッキーが、頬に多少はかすったのか、それとも裂かれた空気がかすったのを気にしたのかは解らないが、拳で頬をなぞって、微笑んだ。
「うるさい。俺達には俺達の『やり方』があっての今までだっただけだ! これからの指針もあったのに、簡単に格好良い男になれそうな時点で横取りするように邪魔をするな!」
「ああ、本当に、うるさいな……」
途端に、余裕げな笑顔だったリッキーが、瞳を輝かせる。
ジュールに向かって、冷気を放つ、本気の気をみなぎらせたのが、ジュールにもひんやりと伝わってきた。
流石のジュールも、じりっと後ずさる。
「俺達も忙しいんだ。言い合いはここまでだ」
「……!」
革ジャンの懐から、彼がとりだしたのは、サバイバルナイフ。
また、彼の瞳が冷気を帯びた青っぽい色に変色する。
そして、彼が手の甲でそのナイフをくるっと一回転させて、握りなおしたかと思うと──!
それが高速の銀色の光と化して、ジュールめがけ、瞬時に飛んできた──!
「──確か、イーブンだったなぁ! 俺と君の勝敗!」
「このっ!」
今度はジュールがサッと首を僅かに傾ける──そこへ、銀色の光がかすっていった!
それと同時に、ジュールも腰に常備しているナイフをとりだし、ザッと数歩の間合いを空けようとしたのだが……。
相手は『即刻決着』を望んでいるのか、間合いなどを考慮した余裕などとらずに、迷わずに、どんどん間合いを縮め、ジュールの懐に切り込んでくる!
それを、左へ右へを避ける!
時には、腕で防ぎ、ナイフとナイフが火花を散らす。
そして──時には頭を下げ、ジュールは防戦一方に押し込まれ、ただひたすら後退をせざる得ない状態にさせられた!
彼の『先手必勝』とばかりの気迫ある、動じない冷たい表情の『強気の攻撃』は、手を緩める事なかった。
ここで、四の五の言わさず──力ずくでジュールをひざまずかせ……そこまでして、アリスを小笠原に連れて行くという『決意の強さ』にジュールは、密かに驚く。
その一瞬の『負の容認』が、彼に攻撃を許してしまう隙を次々と作っているように、気持ちも追い込まれている気分にさせられていた。
その時だった──。
「何しているの!? ジュールじゃない!」
「!」
攻防戦の真っ最中、顔は確認出来ないが、ジュールには『ナタリー』の声だと判断出来た。
それと同時に『やはり』と、力が抜けそうになった程だ。
ナタリーの素振りで、彼女がロイにも少しばかり協力しているのではないかと、予想していたからだ。
だから、リッキーがこのあたりをうろついているのではないかという事も、予想済みだった。
ナタリーはアリスをいつまでも甘やかしている純一に対しては、少しばかり口惜しそうにして良く思っていない所があるのを兄貴分のジュールは知っている。
実際に、昨夜の食事でも『話題』にはなったのだ。
だから、どこをほっつき歩いているかわからない、つかみ所がない様子をちらつかせてばかりの妹分──『ひらひらと飛んでいる夏の蝶』が、こういう事もしている事には驚きはしない。
ただ──。
「フフ──約束通り来たか」
「!」
丁度、ナイフとナイフを噛み合わせ、腕の力で押し合っていた所、リッキーが何かを見透かしたように、ジュールにニヤリと微笑んだのだ。
『あ!』
ジュールの腕が急に軽くなる。
リッキーがサッと後退したのだ。
いや……! 後退したのではなく……。
「ちょっと! 何するのよ!」
リッキーが向かったのは、ナタリーの背後で、彼女の首を腕で固めたかと思うと、白い頬にナイフを宛てたのだ。
だが、ジュールは慌てなかった。
「そんな脅し──効くと思っているのか……」
ナタリーはそれぐらいで怯えるような柔な女ではない。
それに、相手の男も、女を盾にして脅すようなやり方はしない『同類信念の男』だという安心があった。
「放してよ! なによ! ジュールと鉢あっているって事は……あの子猫に手を出したって事なの?」
「あー。今さっきね。家出してきた彼女と遭遇し、俺の部下がクルーザーで湖対岸へ連れて行ったよ」
「だったら、目的達成でしょ! 放してよ!」
そのリッキーとナタリーの会話に、ジュールは一瞬、馬鹿馬鹿しくなってきて、力を抜き……もう、諦めようとしたのだが。
「彼女も……もらっていこうかな? ああいう子猫ちゃんより、俺はこっちの方が好みなんでね……」
「ちょっ!……」
「!」
あっという間だった。
栗毛の彼の片腕が、軽々とナタリーを側にある杉の木の幹に押しつけたかと思うと、華麗とも言える手さばきで、ナタリーが着ているジャケットとブラウスのボタンを一気に上へと裂いたのだ!
朝霧の中──はらりと前身頃が左右に開き、ナタリーの妖艶な白い素肌がぼんやりと空気の中に浮かび上がる。
「リッキー! ちょっと何考えている……のっ!? うっく……」
前身頃を無惨に裂かれ、素肌をさらされたぐらいで狼狽えるナタリーでもなく、彼女がそれでもリッキーに抗議をする眼差しを強く向けた途端に──ナタリーのその強気の言葉を塞ぐかのように、彼が唇を強引に奪ったのだ。
「……」
栗毛の彼が、そうして『俺をからかっているだけ』という──。
なんだか、またもや馬鹿馬鹿しいという呆れた気持ちに、いつもの平坦な気分に戻ったつもりだった。
それを見たジュールは、不思議とただそれを見ているだけだったのだが。
『うっん……あ』
急にナタリーの顔が色めいたように見えた。
激しい口づけに、容赦なく撫でられている乳房──そして……ついに、手際良いリッキーは彼女の足を持ち上げて、スカートの中にナイフを忍ばせたのだ。
そして……次にジュールが目にしたのは……。
「やめて!」
片足を容赦なく持ち上げられたナタリーの足元に……黒くて小さいレエス仕立てのショーツが落ちたのだ。
「は、放して──! これ以上は……」
「どうして……もう……俺はもう本気だよ。彼ならすぐにあっちに行くよ……。ほら、黙って見ているだけじゃないか……」
「!」
ナタリーが本気で怯えていた。
そう……いつもひらひらと男をからかってばかりの彼女が『許せる範囲』のラインを、栗毛の男が本気で越えようとしているのだ。
その証拠に、ジュールも『男もからかいだ』とたかをくくっていたのに、まるでジュールとの勝負を忘れたかのように、今目の前にある女性との交渉のみに胸を焦がし始めた息切れた声になっていた。
その声は──男が我を忘れて、今にも突っ込んでいきそうな……そういう声だったのだ。
「ジュ、ジュール!」
ナタリーのしなやかな指先が、リッキーの肩越しから震えるように伸び、怯えた瞳がジュールに向かって来た!
「──この野郎!!」
『二人でなにやっているんだ』と、先程まで呆れていたジュール。
なのに、自分が自分を止めるといういつもの『安全装置』の様な自分がこの時は間に合わなかったのか、出なかったのか!?
いや──やはり、彼に『弱点』を上手く握られていたのか!?
急に火がついたように、茶色の革ジャンを着ている彼の肩を、力一杯ひっつかんで、『大事な妹分』から力ずくで引き剥がしていた!
リッキーはいとも簡単に、ナタリーから手を放し、あっという間に身を翻し、意気込むジュールから間合いをとって、急に元の戦闘員に戻ったではないか。
ナタリーはそのまま、木の幹へと背を滑らせ、ペタリと座りこんでしまった。
「ほら……本気になった」
「!」
リッキーの勝ち誇ったような顔、笑顔。
ジュールは、また心の底から、炎が燃え上がるのを自覚した!
ナタリーをダシにして、心を弄ばれた事。
そして、ジュールが『女性への無理強い』を一等に嫌っている事を、よく知っているだろう彼が、それでもジュールをここまで『簡単に怒らせる』という、感情コントロールを簡単にやってのけられた『敗北感』を味わわされた事に──『やられた!』と思ったのだ!!
誰にも自分をここまでムキにさせる事など……あの兄貴分の純一にごくたまに『手玉』に取られる事はあっても、それは『義兄弟』とも言える彼だから、許せるが──宿敵にここまで弄ばれた事に、余計にジュールの感情は燃え上がったのだ!
「この──! 人を小馬鹿にしやがって……!」
「最初から、それぐらい本気になれっっつーの!! この気取り屋の王子様が!」
再び、対する男二人がナイフを片手に対峙する。
しかし、先程のような──お互いにどこか余裕を持っていたような、様子をうかがうようなそんな攻防戦ではなくなっていた。
何故なら、ジュールが我を忘れて『本気』であり、さらに今度は、ジュールが『強気の攻撃』に変わったものだから──今度こそ、リッキーも頬を引きつらせ、必死の防御に追い込まれ始めていた。
リッキーの背後を、杉並木まで追いつめ、ジュールは彼の肩をひっつかむほどに追い込んだ。
「俺が気取った王子だと!? 王子なんてもんはとうの昔に捨てた! 二度と口にするな!!」
肩をひっつかんで、すかさず──ジュールはリッキーのみぞおちに向けて、膝蹴りを入れる事に成功!
「くっ……!」
流石の彼も、身体を二つに折ってうなだれた──。
だが、これ程の男がああいう下世話な手段で、自分の心を弄んだ事が──まだ許せずに、ジュールはうなだれた彼の肩をさらに持ち上げ、顔を上げさせる。
そして、自分の顔の横に、力を込めた拳を振りかざした時だった!
彼がその『拳を握る隙を待っていた』と言うような、その瞬間を逃さないとばかりに、ギラリと恐ろしいばかりの眼差しを輝かせたのだ!
「黒猫は揃って、気取り屋ばっかりだ──! 子猫ちゃんも、レイにも……そこの彼女にも! それぐらい我を忘れてでも女を幸せにしてみろってなぁ!! それが、俺とロイが言いたい事だよっっ!!」
一瞬の隙をつかれたジュールが、今度は彼に胸ぐらを掴まれる!
それに構わずに、ジュールが放った拳は、『軌道』を狂わされ、彼の耳横をかすって、杉の木に打ち込む結果となる。
今度はリッキーに『主導権』を奪われる!
胸ぐらを掴んだ彼は、直ぐにはジュールを殴るという戦法には出ず、ジュールの身体を力一杯地面へと振り落とした。
よろめいたジュールの隙を縫って、彼がしたのは、よろめいたジュールの背後を取る為に……ジュールの利き腕を掴み上げ、後ろ手に背中にねじり上げ……そこにある杉の木にジュールを押しつける事。
「御陰様で──! 可哀想な男が、どれだけ、泣きたくても泣けずに、一人の女の『心の重り』の為に、身も心も犠牲にしたか……頭冷やせ──っ!!」
「うっく──!」
ドシン……という衝撃がジュールに走った。
リッキーに簡単に、杉の木に叩きつけられ、背後を固められた!
それでも、ジュールが巻き返しを図ろうと、縄抜けの如く、腕を切り返しほどこうとした途端──。
『ヒュッ』という冷たい鋭利な空気が、自分の耳元をかすめ……ジュールの身体は瞬時に凍り付いた。
そう……木肌にナイフが突き刺さったのが視界の端に移った。
そして……新しくえぐられた木の鮮烈な香りと共に、自分の頬になま暖かい感触が、滑り落ちていくのを感じたのだ。
さらに、後ろには今まで以上にない『冷気』を感じる。
背後を取った男が本気で怒っている静かな冷たい『オーラ』が、ジュールを凍らせた。
「空母艦で澤村君に会って……どれほどの男か解ったんだろう?」
「あ、ああ……お嬢様にふさわしい男だ。だが……」
その気配の通りに──彼の本気の語りは、先程まで自分をからかっている物ではなかった。
だから、ジュールも素直に応じる。
「解っている。そこは俺も君も同じ考えだろう……。俺個人は先輩とレイは、今度こそ納得いくまで向き合うべきだと思っていたからな……。だが、傷ついた者達がいる事を忘れないで欲しい──」
「解っている。“隼人様”の事は、二人が出した決断がどのような物でも……最後までないがしろにはしないつもりだ」
「隼人様……ね。そうか、安心した。レイをさらって、はい終わりなんて事なら、俺も許せなかったんで、ここまでした」
「……」
彼の本気の怒りの源。
それが判って、ジュールは流石にうなだれて、力を抜いた。
その脱力を悟ったのか、リッキーがやっと冷たい闘志を和らげ、ナイフをすっと引いた。
だが、腕への戒めは解かずに、彼が話し出す。
「ジュン先輩に、伝言してくれ。子猫ちゃんに構う暇があるなら、レイをしっかり見守って欲しい。と……」
「!? お嬢様を……」
「そう──他の事を何も考えず、いつものように、沢山の人を救おうと出来もしない事を一遍に背負うような事はせず、全神経を『レイ』に傾けろ──それがロイの伝言だ」
「──!」
「先輩は優しすぎるが故に、出来もしないのに、いっぺんに沢山背負い込むから、何もかもが中途半端になる。黒猫のお嬢ちゃんもそう、レイもそう。だから、ロイがこっちは引き受けるから……『俺達の義妹をお前に頼む』と言っているんだ。だから──諦めろ」
「そちらの意向がそれなら……承知した」
「レイを連れて行く事に関しても、ロイはそれが二人の長年の思いの結果なら、認めると言っている。その代わり……『万が一』、レイを返してくれるなら……」
「お嬢様を返すなら?」
「二度と会わないと言う『決裂』を持って……いつものようにレイの気持ちを中途半端にしたまま『帰すな』というロイの気持ちだ。解るよな? 『殿下君』──」
未だに『殿下』とからかう彼に、ジュールは唇を噛みしめたが──。
今回は……『俺が黒星だ』と敗北を認めていたから……こっくりと頷いた。
その途端に、彼がサッとジュールの背後から退いた。
「だから──アリス嬢の事はもう、何も考えるな。こちらで面倒を見る」
ジュールが振り返ると、彼はそれだけ言ってサッと散策道へと素早く身を消してしまった。
「くそっ──!」
だが……ジュールはそうして力を込め、一瞬悔しがった物の……何故か力が抜けて杉の幹へと座りこんでしまっていた。
頬を撫でると、指先に血が付いていた。
「隼人様の本当のお怒りが、乗り移っていたのかな……」
栗毛の宿敵中佐が一人の男を想って、本気になったのだから──適わなくて当然だったかも知れないと、ジュールは力無く微笑んでいた。
ふと、気が付くと……向かい側の杉の幹には、まだ茫然としているナタリーがいたが、ジュールが微笑んでいるのを見て、安心したように立ち上がった。
そして、彼女がジュールの隣にペタリと座りこんで、腕を頼るように頬を沿わせてくる。
「ごめんなさい……ただ、あの子猫には、黒猫以外の外の世界を垣間見る事も大事だと思ったの。」
「ああ、そうかもしれないな」
「お任せするには一番安心出来る人たちじゃない。それに彼やロイ様が言っている事も……一理あって正しいと思ったから……だから」
「もう、いい……」
腕に頭をもたれているナタリーの栗毛をジュールはそっと撫でた。
何故か、とても暖かく感じる彼女の体温。
「でも……」
「?」
「彼──キスがとっても上手だったわぁ〜♪ あれだけの手際なら、抱かれたらきっと損はないわね」
「お前なぁ……!」
「あんっ!」
ジュールはナタリーを振り払って立ち上がった。
「ジュールも彼を見習ったら〜? もうちょっと情熱的な男になりなさいよっ」
「うるさい。帰るぞ!」
「もう!」
ジュールがツンと歩き出すと、ナタリーがふてくされながら後をついてくる。
解っている──。
ナタリーも『らしからぬ雰囲気』を自ら壊したくて、思ってもいない事でリッキーを持ち上げてジュールをからかって誤魔化したのだと。
あんなに怯えた眼差しをした彼女を見たのは、久しぶりだった。
「うふふ……っ」
「なんだ、ご機嫌だな……」
「フフ……だって。ううん、内緒っ」
後をついてくるナタリーがご機嫌な訳もジュールは解っている。
『俺が本気で彼女を助けようとしたから……』なのだろう……。
だけど、ジュールは素知らぬ振りで前を歩く。
また──気取り屋だと、あの栗毛の彼に叱られるかも知れないが──と、溜め息を落としてしまった。
だけど、彼女は楽しそうにまだ笑っている。
今は、それでいいか──。
「さて……ボスにどう報告するかな……」
「大丈夫よ。私からもジュンに言うから!」
「お前が一枚噛んでいるとなると、ボスは余計に困惑するかもなー。悪戯も程々にしておけよ」
「だぁって、ジュンが甘いからいけないのよ。私をここまでにしてくれた男なんだから、出来ないはずないわよ」
「……お前と子猫は違う」
「違うって?」
「むしろ、お嬢様と子猫はそっくりかもしれないな」
「なにそれ……」
訝しそうなナタリーを伴って、ジュールは指の跡がくっきりと残っている手首をみつめた。
その頃──散策道を沿って、部下との合流地点へと向かうリッキーは、側にある木に手をついて、冷や汗を流していた。
「くっそ、あの王子様。ダイレクトにあばらにやってくれたな……」
歩けば、あばらのあたりがかなり痛む。
どうやら……ヒビぐらいはいっていそうだと、リッキーは息を切らしながら歩いている所だった。
「また──イーブンか」
あっちは『負けた』と思ってるだろうが……。
リッキーとしても、『負傷をする』という事は屈辱的な結果に変わりなかった。
だが──笑っていた。
「……俺達の『甘えん坊姫』。これで──ジュン先輩の物になるだろうかな?」
リッキーはその木に寄りかかって、フッと立ち止まり──朝靄に揺れる湖の水面を暫く見つめた。
彼女の『兄貴の一人』としては──可愛い甘えん坊姫『レイ』が今、幸せならばと微笑んだのだが。
彼女の『軍人先輩』としては──ただ甘い夢の波にさらわれて、甘えん坊姫へと力を抜いてしまっただろう大佐嬢の事を……残念にも思う。
『中佐──今、そちら近くの桟橋に向かっています』
「ああ……」
『? 何かありましたか? お声が……』
「……なんでもない」
部下の察しよい声に、リッキーはいつもの中佐に引き戻されるように、脇腹を押さえて歩き始める。
湖が茜色に染まる。
夜明けだった。