「アリス。もう……いいだろう?」
二人きりで向き合ったのは久しぶりだった。
そう──『話し合う』と言う純一の提案を、最初に蹴ったのはこのアリスだ。
『完全に義妹と向き合って結果が出るまで』……アリスは純一からの決定的な『別れの言葉』を避ける事にした、あの晩以来の事だ。
今、離れのダイニングテーブルで、二人きり──向き合っている。
だが、目の前の男は……哀しいくらい、アリスに真っ直ぐに向き合っていた。
少しはよそよそしく、そして面倒くさそうに接してくるかと思えば──そうではなく、アリスと向き合っている時だけの『つい最近まで私だけの彼だった』彼が、そこにいたのだ。
少しは……よそよそしく、『狡い』と思わせてくれたのなら、うんと憎めたかも知れないのに。
憎ませてもくれない彼に、アリスは余計に俯いた。
ううん──もし『狡くても』アリスは、彼を憎めないかもしれない。
それに──そう思うと『今、目の前の優しさ』の方が『狡い』かもしれなかった。
先程まで彼は『憎まれるように』仕組んでいたのだろう──。
アリスの『彼』が、やっと彼女から離れて、アリスと二人きり向き合ってくれたという落ち着きの中、彼の憎まれ役の数々を、静かに受け止めようとしていた。
「ええ、もう──気が済んだわ」
「だったら……無理して『部下』なんて気取るな」
「……」
「イタリアに先に帰っていろ。義妹はあの隠れ家には連れて行けそうもない」
「? どうして?」
「あの島では、暮らせない事情が出来た。俺は……本土の町中に義妹と新しい自宅を持とうと思っている」
「──!」
『事情』が何かは判らないが──『義妹と新宅へ移る』という言葉を聞いただけで……アリスにはさらなる追い打ちをかける衝撃的発言だ。
「……判っただろう。俺は本気だし、義妹を愛していやまない。今まで色々あって、抑えてきた気持ちが──もう、止まらない。解ってくれというのもなんだが──」
「……ううん。解ったわ」
「アリス──」
「解ったわ。本当にジュンがずっと前から私に言い続けてきたように、彼女を本気で愛しているって──判ったわ。だって、ジュン……知らないジュンを見たわ。そのジュンは……とても熱っぽくて、男らしくて、それで……血が通っているようで……そんなジュン、私は知らない」
「……」
アリスが知ってるジュンもとても優しい男だった。
だが──あんなに熱い男性である彼をアリスは知らない。
そんな事があるはずない男だと思っていたのだ。
だけど──違った。
男が、一人の異性を熱く切望する姿、そのものを、アリスの彼が『隠し持っていた』。
愛する女性の為に──隠していた事を、認識せざる得なかった。
瞳にいっぱい涙を溜め、唇を噛みしめ──アリスはやっと泣き始めていた。
そして、今度こそ……彼がそんな女を慰めようとする姿勢は、見せなかった。
ただ──目の前で泣かせてしまった女の姿を、不甲斐なさそうな……『情けない顔』でみているだけだった。
そんな『情けない顔』も出来きる人だったなんて、思いもしなかった。
アリスにとって、『黒猫のボス』は完璧で強靱で、そして──頼りがいがある素晴らしい男だった。
けど──彼も、人並みに彷徨っているし、崩れるし、そして──情けない顔もするし、なんでもやりこなせる男ではない『人』である事を──。
今頃、判るなんて──。
きっと『彼女』は知っている。
そして、アリスは『知らなかった』のだ。
もっと言うと、純一が絶対に垣間見せてくれなかったのだ。
「……暮らしの心配はしなくていい。あのまま隠れ家で、今まで通りに暮らせばいい。ジュールとエドとは、常々一緒にいる事は出来なくなるかも知れないが」
言いにくそうだが、腹をくくったかのような純一のその提案も、アリスを愕然とさせた。
いや──完全に捨てられるよりかはマシなのだろう。
今すぐアリスとて、『自立』は無理だと思っている。
人にちやほやされる仕事しかした事がない自分が、今から社会に出ようとするならば……アリスには何もない状態だった。
分かっている──そういう自分として五年、黒猫ボスに甘えてきた事は分かっている。
だけど、その純一の『暮らしの心配はしなくてもいい』という、安心感ある言葉が何故か惨めに思えて、また涙が溢れてきた。
あの隠れ家は……アリスの『家族ある幸せ』の象徴だった。
ジュンもいなくなり、ジュールとエドがたまにしかこなくなるあの家で、これからも、のうのうと暮らす意味なんてアリスにはない。
アリスにとって『彼等三人』が、家族だったから──。
初めて、独りぼっちで生きて行かねばならないと言う寂しさから救われた日々。
嫌みを言われても、素っ気なくあしらわれる事があっても──『彼等三人』は、心底では、いつだってアリスが立ち直るのを待っていてくれた。
やっと生きようと思った時──。
初めて、目の前にいる大きな男に恋をしていた。
彼には二年も拒まれたが、アリスが初めて心より『愛して欲しい』と願った男性だった。
彼はアリスに『男に愛される悦び』も『男を愛する喜び』も味わわせてくれた。
そこだった──。
『死ぬなんて思わず、もう一度、生きてみないか?』──隠れ家に連れてこられた時、ただぼうっとしているアリスに純一が最初にかけた声がそれだった。
『生きる価値がないから、いつ死んでも良い女なのだなんて……そこまで思うようになったのは、お前さんのせいじゃない』
ただ、黒猫のボスは──アリスという小さな女の子を助けたいだけ、生きて欲しかっただけ。
その延長に『男女関係』が生じていただけ。
アリスが、『助けた責任を取れ』とばかりに、彼に押し迫ったから──。
その男女関係が生まれたがために──今感じている、何もかも失うかのような痛みが『いつかはくる』と言う『契約』だったはずなのに、それを受け入れられない自分が、ここまでの状態にしたに違いない。
その『迫った時』の『武器ひとつ』で幸福感を得ていた事がこんなに『脆い事』だったなんて……。
もし、男女関係などなく──本当にただ『助けてくれた人』、『励ましてくれた人』だけで、側に五年もいたのなら──義妹の事も歓迎し、彼等と離される事もなかったかもしれない……。
アリスは──ファミリーではなかった。
ファミリーの役割を担っていない『お気楽な愛人』だけだったのだ。
ナタリーはそこを遂げられた女性なのかもしれない。
追い出される訳でもないが……もう、彼等と暮らしていける立場は簡単に崩れたのだ。
「……結局、なにもお前の為になる事は出来ず、不甲斐なく思っている」
『許してくれ』
「!」
その情けない眼差しでも、彼が真っ直ぐにアリスを見つめて、とうとうそんな事を言った!
「やめて──『許してくれ』だなんて……言わないで!」
「すなまい」
「謝らないで!」
彼をこんな風に追い込んでしまったのは、アリスである事は自覚している。
でも……惨めだった。
『お前との関係は──間違いだった』とでも言っているかのように、認めるかのように、彼が詫びている全てが……。
嘘でもいい。
『こんな事になったが、お前との毎日は楽しかった』──と、言って欲しい。
……だけど、それを聞いたらきっと、アリスはまた期待している事も分かっていた。
「もう……いいわ。彼女の所に戻って。私、あなたが言うままに従います。とりあえずイタリアに先に帰るから……」
「そうか。俺も帰ったら、顔は見せに行く」
「……」
「迎えをイタリアから呼ぶ。数日中に──来るだろう」
「解ったわ──」
もう決定的であり、アリスももう何も抗う考えも力も湧いてこなかった。
そこで──声を殺しつつ暫く、泣いた。
『なにもかも、終わった』と──噛みしめる。
彼はもう、アリスを暖かく抱きしめてはくれない。
だけど、彼は……ただ、そこで泣いているアリスを見つめているだけで、去ろうとはしなかった。
独りぼっちでは泣かせない。
そんな彼の最後の優しさが、身に沁みて……そして、それすらもアリスを哀しくさせ、余計に涙に変わっていく──。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
淡い月明かりの中──。
葉月はそっと、携帯の電源を入れてみる。
葉月のシルバーブルーの携帯電話が、暗闇の部屋の中、ぼうっとした柔らかい光を手元で放ち始めた。
「……」
センタ問い合わせを、まず押したが──メールはないようだ。
留守電も入っていない。
その予想はしていた。
達也もそう言い切っていたが、『飛び出したら追いかけない』。
そして──隼人は『行け』と送り出してくれたのだから……呼び戻しなんて考えていないはず。ただ、ひたすら葉月が帰ってくるまで待っている覚悟だったのだろう。
登録データーから、『隼人』を検索する。
出てきた──それで電話マークのボタンを押せば、すぐに彼に繋がる。
すぐに……彼に繋がる、すぐに……。
だが、葉月の指は躊躇っている。
押せば、すぐに……彼は出てくれるだろうか?
向こうの電話で『葉月』と表示されて、彼はもう出てくれないかも知れない。
いや──そこまで呆れてくれていたのなら、葉月も、『それはごもっともだ』と、かえってそちらの方が納得出来るかも知れない。
だけど、なんとなく判る。
彼は出る。
この前まで、すぐ横を向けば──眼鏡をかけて真剣に仕事をこなしている彼がいた。
話しかければ、すぐに葉月を真っ直ぐに見つめてくれる彼がいた。
葉月の言葉、仕草、表情──どれひとつとして『見落とさない』という彼の真摯な心構えが、葉月の全てを読みとって、彼が葉月という投げられたボールをキャッチして、それを、葉月に分かるように上手に投げ返してくれていたように──。
「隼人さん……」
今夜は鮮明だった。
彼の真っ直ぐな眼差しが──怖いくらいに澄んでいて、葉月を静かに見つめている。
その顔に笑顔はない。
哀しい顔しか浮かばない。
彼が決した『葉月の為』とかいう決意。
その決心をするまでに追い込んだのは、この自分だった。
(やっぱり──だめ……!)
ここで、葉月がいまどうしているかなんて……彼に知られるのは、酷なような気もした。
でも──! 葉月は胸の焼けるようなつきまとう不快感を、より一層自分に刻み込もうとした。
お腹に自覚なんてないけど、そっとさすった。
隼人があんなに自分を愛してくれた結果が、ここにある。
胸の不快感と、自覚がないお腹。
それを真っ正面から受け入れた時──やっとここに来て初めて、彼が自分を熱く求め、そして、葉月が望むまま、強く愛してくれた、めくるめく熱い数々の夜が蘇る。
あの晩の彼も、あの朝の彼も──。
息を吸って、もう一度、携帯電話に向き合った時だった。
『♪♪♪〜』
「! 隼人さん!?」
そう! 計ったように──隼人専用の着信メロディーが流れ、葉月が手にしている携帯電話がピカピカと光っていたのだ!
葉月は、わらわらと……慌てるように携帯電話を握りなおし、迷うことなく、着信ボタンを押した。
『葉月! やっと出てくれた!』
「!……」
切羽詰まった隼人の声が、意外だったので……葉月は声が出なくなってしまった。
だって──メールの一通も入っていなかったから……電話の着信履歴はなくとも、メールが一通でもあれば、隼人がいなくなった葉月にすぐに帰ってきて欲しいという気持ちがある事が分かるが、一通もないという事は、彼の覚悟通り……葉月の意志で帰ってくるまでは、触れないという心積もりだと思ったからだ。
『葉月? 葉月だろう?』
「……隼人さん」
『葉月──』
彼のホッとした声。
それを聞いただけで、どうして涙が溢れるのだろう──。
『……その、葉月……』
「?」
彼らしからぬ慌て振りで連絡をしてきたかと思ったら、今度は妙に思い悩んでいるような歯切れ悪い様子に、葉月は首を傾げる。
だが──次の瞬間だった。
『葉月──帰ってきてくれ。俺が……間違っていた。お前を手放して、行かせた事を後悔している』
「!」
『葉月──おそらく、望むままに愛されているんだろう。お前の心、今、満たされているんだろう……。それも解っている。でも、そのままでいい……兄貴を愛しているままの葉月のままでもいい。なんでもいいから、とにかく俺の所に戻ってきてくれ!』
「──隼人さん?」
あの──いつも何事にも大きく構え、落ち着いている隼人が、とても焦っている様に言葉を次々と並べる慌てように、葉月は戸惑った。
あれだけ『葉月の自己の為』と、自分を捨て『行け』と言ってくれた彼ではなくなっているではないか?
いったい……何があったのだろう? そう、思わせる変貌ではないか?
『いや──そうだ。葉月がもう俺に会いたくない……程、俺がした事に呆れているかもしれない。それに……兄貴の所の方が幸せだと思っているかも知れない』
「……」
まるで独り言を囁くような隼人の切羽詰まった声に、葉月はなんと返答して良いか解らない。
『でも……葉月。それでもいい……俺が行かせたんだ。その覚悟だって嘘じゃなかったさ。だけど──俺と一度、会ってくれ!』
「──!? 隼人さん……本当にどうしたの?」
『頼む──葉月、会って欲しいんだ……まだ、話したい事がいっぱいある……』
切羽詰まった声が、今度は切実にそれを願うかのような涙声に変わったような気がした。
実際の表情は判らないが──電話口の葉月には、そう感じ取れて、益々戸惑った。
「あの……私も連絡しようと思っていた所で……」
『! 本当か?』
「?」
隼人の驚く声。
だけど、それは『会う事』に反応を示してくれたという喜びの声ではなく──何か、隼人が確信を得たかのような驚きの声にも聞こえなくもなく……?
『……そこに、兄貴……いる?』
「今はいないわ」
『……兄貴とも話したいんだけど』
「!?」
それには葉月も驚いた。
義兄は『会うべき』と言ってくれたが、それと同じ日に『もう一度でも会うべき』と隼人も考え直して、必死の連絡をくれた事が重なり、会う事に関して、隼人は手渡した『相手』にも無関係では終わらないという覚悟をしているように思えたから──。
「……実は、義兄様も、あなたに会った方が良いって言っているの」
『──! 彼が?』
「うん……その、実は……」
言わねばならぬ事──。
それに葉月は躊躇った。
ここで……『あなたとの子供が出来た』と喜びを滲ませて言えたなら……。
だけど──裏切った身で彼の元に帰る事は躊躇う。
彼は子供を愛してくれる。絶対に、愛してくれる、私の事も。
だけど、そこに甘える自分が許せなくなるだろう。
いや──その罪を背負って、隼人と笑顔で暮らす事の苦しさを一人で背負っていけば……それで良いのかも知れない。
子供のために……私という弱すぎる罪深い母親と、隼人という素晴らしい父親と。
だけど──葉月は泣いていた。
言えない自分に泣いていた。
罪を背負って笑って生きていく事を、一人で背負うという勇気が、何処かで持てない自分を自覚して……そんな弱さに泣いていた。
真実の父親を得る為、『嘘をついて彼を愛す事を選択する』という事が、未だに出来ないでいた。
ここで『嘘をつく』と言う事は、隼人を愛していないという事でないのが、また苦悩だった。
今はただ──義兄も隼人も愛している自分がいるから、苦しい。
だから──。
逆に言えば、それは自覚した時点で『義兄』に対しても同じ事だ。
彼が『俺の子として産んでくれ』と言ってくれた事は、父親である隼人を裏切って飛び出してきた後だけに、安心させた。
だけど──彼は父親じゃない。
そして、今度はそこで……葉月は後ろめたさを自覚している。
だから──『なんでもない』と、今ある自分を消そうとしていた。
正直──どうして良いか、解らなかった。
だから……まだ、言えずにいる。
『……何か、困っている事があるんじゃないか?』
「!」
『葉月──あるんだろう? 俺も目が覚めたぐらいの驚きで、気が付いた。やっと……だから、手放して後悔している』
「……それって……」
『やっぱり……そうなのか?』
やっと隼人らしい、静かで落ち着いて受け応えてくれる声。
そして──やはり葉月は、隼人という男と、どことなく『波長』が通じている事を、痛切に感じたぐらい、彼が言いたそうな事が予想出来た。
その予想した言葉を……躊躇っていたが……。
「──隼人さんの子供が……私の中にいる」
『!』
自然にそう言っていた。
そして、自然に言えた報告に……葉月は涙を浮かべていた。
そして、口元が喜びでほころんでいた。
涙は──初めての嬉し涙だと、自分でも思えたぐらいの、とても自然な報告だった。
電話口の向こう──そこで、隼人が息を一瞬止めたのが判ったが、彼もすぐにほぅっとした息づかいが戻ったようだ。
『そうか……俺とお前の子なんだ』
「……たぶん、あの頃の」
『解っている──自覚はあるよ。あの頃、闇雲に必死にお前を愛していた自覚がね……』
やっと彼が照れたように笑う声。
葉月もそっと微笑んでいた。
だけど──その隼人が見届ける事のない笑みは、直ぐに消えた。
『……葉月、会ってくれるな』
「……」
『葉月?』
「……」
会わねばならないだろう──きっと。
だけど、そこで『帰ってきて欲しい』という問いには、答えられない気がした。
そこまで報告が出来た葉月が、まだ躊躇っている様子など……隼人はお見通しのようだった。
葉月の躊躇いは『裏切り』
隼人以外の男性と愛し合った事。
その男性との愛に溺れている事──。
二人の男性を同じように愛しているとはいえ、それが許されない事であり、そして──葉月が最後に赴くまま辿り着いたのは、義兄の胸の中だったのだから──。
『……裏切らせたのは俺だ。だから、お前がそれで自分を責める事はない』
「それでも、私は自分を責めるわ。あなたの前でも、あなたがいなくても──これからずっと……」
『お前が、そういうヤツだって解っていても、敢えて、言うよ──。そこまで、追い込んだのは俺だから』
「元々──そうだったのよ。隼人さんが追い込んだのではなくて、私が……だめだったの」
『戻ってくるかどうかはともかく。戻ってきたら、その時点で昨日までのお前は全部、過去だ。俺は……お前とこれからを望む』
「……隼人さん」
以前の彼のままだ。
急に、葉月に手厳しく『行け』と言って離れていった彼ではなくなっている。
いつもありのままの葉月を、『目の前のお前』を受け入れてくれていた隼人がそこにいた。
でも──! もう、遅い。
隼人が葉月に突きつけた『試練』は、もう葉月の中でうごめき、そして息づいてしまったのだ。
「ひとつだけ……聞いても、いい?」
『なに?』
隼人の優しい柔らかい返答。
それも葉月を……じれったいぐらい遅く気持ちを噛みしめて伝えようとする葉月を待つ優しさ。
「……隼人さん。私が軍人をやめても……私の事、変わらないと思ってくれる?」
『……え?』
「もう、小笠原に帰らなくても……愛し合える? もう、大佐嬢と呼ばれなくなっても、あなたと一緒に働けなくなっても、『お前は葉月だよ』って言ってくれる?」
『どうしたんだよ……。そんな事……?』
「……」
そこで暫く、沈黙が挟まったのだが──。
その沈黙に……葉月は悟る。
「解ったわ。有り難う──」
『!』
「ごめんなさい。会うわ……会うけど、今すぐ、いつ会えるかは言えないわ。また、必ず連絡するから──それは約束するわ……でも、“さようなら”」
沈黙をそんな言葉で、早々と切り上げる葉月の言葉に、隼人の息づかいが止まったのが、葉月には判った。
『待ってくれ……はづ・・・』
──プツ……──
葉月は躊躇わずに通話を切った。
「ううっ……」
自分で絶ち切ったくせに、葉月は側にあるクッションに顔を埋めて泣き始めていた。
携帯電話が、力をなくした手の中から、床に滑り落ちる。
──♪♪♪〜──
《Every breath you take…… Every move you make……》
葉月が……隼人に出会った頃、彼を想いながら選んだ着信メロディー。
ポリスの『見つめていたい』が流れ始める。
一方的に切った物だから、彼が納得しないでかけ直してくる事ぐらい……その気持ちも分かっている。
だけど……葉月は出なかった。
『ああ、それでもお前だって言えるよ』
その言葉を瞬時に答えて欲しかった自分を、葉月は呪った。
隼人だって、急にあんな事を問われたら──職務第一で、彼を振り回しながら大佐をこなしてきた葉月が、急にあんな事を言い出すだなんて、きっと予想外だっただけ。
だから、瞬時に答えられなかったに違いない。
それも──分かるんだけど……と、葉月は思いながら、それでも瞬時に答えてくれなかった隼人の中では、いつだって『お前は大佐嬢』という観念があるのだって、それが期待はずれだったのだ。
我が儘な気持ちだって、葉月も分かっている。
でも、言って欲しかった……と、いう自分が、今ここに存在している事を、葉月だって今、初めて気が付いたかのようにショックで。
そして──その答が得られなかった事もショックだった。
着信音が、一端切れた。
留守電に切り替わったからだろう。
だけど──また直ぐに鳴り、また留守電に切り替わったが……今度は……。
『葉月──それは、ヴァイオリンともう一度、向き合いたいという事なのか?』
「!」
留守電にそんな微かな声が録音されるのが、聞こえてきた。
『……葉月、それなら、俺……鎌倉まで会いに行くよ。毎週、仕事が休みになったら……会いに行く。大佐室にお前がいなくなるのは寂しいけど……』
「……」
葉月はそれを聞いて、そっと俯き、また泣き始めていた。
「もう……お願い。私の事、忘れて──」
『葉月、ヴァイオリンを弾くお前だって、俺、愛しているよ。フランスで初めて目にした時、そう……あの姿を見た時、軍人以外のお前を見た時……もう、既に俺はお前に恋していたと思うよ。ヴァイオリンを持つ葉月は、綺麗──』
隼人の声が響き、そして録音制限時間が来て、彼の声は、また切られる。
「そんな事……言ってくれなかったじゃない」
今になって、そんな事とをいう隼人を責めている自分にも、葉月は驚き。
そして──その溢れる気持ちを、切々と伝えてくれる彼の柔らかい言葉に、葉月の胸は焦がれ始める。
出会った頃──そんな気持ちを抱いてくれていた彼の気持ちを、何故? 今頃、知る事になったのか──。
だから、葉月は自分をさらに呪う。
隼人もそうだったかもしれない、だけど──葉月もそうだった。
私達──本当に分かり合っているんだけど、何処かでまだ、全部ではなかった事を。
何処かで『言わなくても解っている』と言う、そんな曖昧に認識している事柄がいっぱいあったのではないかと。
勿論、葉月が、全部を彼に覗かれたくなくて、曖昧にぼかし続け、誤魔化してきた事柄があったのは否定できないし、隼人を責めるどころか、そういうスタンスで、暮らしていたのは葉月の方がウェイトは重い。
葉月の『影』は、そういう物であって──今、ここでその『影』を自覚し始めた葉月は、その『影』が非常に重く、またもや罪深い事に気が付き、自己を落としていく。
そんな自分を──隼人に押しつけるような平然さはもうない。
だから──『忘れて』と言っていた。
「……うっ。はぁ……」
また、胸に突き上げてくる不快感。
今度は胸元で収めきれず、葉月はパウダールームへと急いだ。
また──電話が鳴る。
でも、もう……葉月には、隼人の囁きは聞こえない。
洗面所で、彼の言葉でなく、彼の爪痕が葉月をひっかくように、訴えていたから──。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
──♪♪♪〜──
「? 葉月……?」
純一が二階の寝室に戻ってくると……灯りがついていなく、どこからともなく、純一でも聴いた事があるメロディーが流れていた。
「……」
その音がする方向へ歩くと、ソファーに辿り着く。
『うえっ……う……はぁ……』
ソファー向こうのパウダールームと風呂場へと続く扉が、開け放してあり、そこからそんな吐く声が聞こえてきた。
──♪♪♪〜──
「!?」
そして、純一の足元で、ぼんやりとした光が点滅し、また先程の音楽が鳴り始めた。
昼間、義妹が必要ないかのようにテーブルに捨て置いた携帯電話──それに光が灯り、そして床に落ちているではないか。
おもむろに腰をかがめ、手に取ると──思った通り。
純一が知っている男の名が表示されている。
純一は静かに、着信を受けた。
『葉月──だから……!』
「悪いな、谷村だ」
『!』
そんな風に自分の名字を人に名乗ったのも久しぶりであった。
が、それ以上に、向こうの青年がもの凄く驚いている事に、純一は溜め息を落とす。
「義妹は今──」
『いい。出さなくても──。きっと、義兄さんが促しても出てくれない』
「? 言いたい事があるのだろう? そんな勢いだったではないか……」
『……むしろ、義兄さんとまた話せて良かった。葉月にも話したいと言っていた所で』
「ほぅ? 何事だろうな……俺も同じ事を思っていた所だ」
『妊娠の事、聞いた』
「……そうか」
そこで──声だけ再会した男二人の間に沈黙が漂った。
妙な話易さに、純一はやや戸惑いつつ、何処かで安心を得ていた。
それは向こうの青年も同じように感じているような気がしてならない沈黙だった。
「……話して分かったかも知れないが、葉月は今、不安定で、何をどうすれば良いのか戸惑っているばかりで。少しばっかり、妙な事をして自分を律しようとしたり、昔の事を思い出したりして、自分を責めたりな……」
『ああ……仕方がない。俺がそこまで追い込んだ』
「俺もな──」
『……あはは』
「何が可笑しい?」
隼人の笑い声は……どこか捨て鉢のような脱力感が漂う笑いだった。
だが、純一にはその笑い声が、なんだか自分の中にも溶け込むような共感が出来そうな笑い声だったので、その声に囚われる。
『……だったら、俺と兄さんは共犯だったかなと……』
「なるほど?」
『兄様──?』
「! 悪いな──葉月が戻ってくる。俺から改めて連絡するつもりだ。日取りを決めるまで待っていてくれないか」
『分かった……もう、葉月には電話しない』
「いや、別にしても構わないがね?」
『とにかく、会わせて欲しい。それだけだ』
「──分かった」
そこで、二人の男は頷き合うような感覚で、同時に電話を切った。
純一は、その義妹の携帯電話を、彼女が戻ってくるまでに、元の床の上に置いた。
「お兄ちゃま……? 戻ってきたの?」
義妹が扉の前に姿を現した。
なんだかやつれたような、憔悴しきったような重い顔。
「ああ……」
「彼女……」
「話はついた。後でゆっくり話す。ああ、そうだ──今、下のリビングに戻ったら、美味そうな匂いがしてな。早く、食べさせてくれ」
「……」
義妹は、緩やかに穏やかに徹するように微笑む純一を、また……不思議そうに見つめている。
純一は、昔から義妹のその眼差しに弱く、何故か──視線を背けてしまう。
「彼に……彼から連絡があって、偶然。ちゃんと報告したわ」
「そうか……」
「彼に会うつもりだけど」
「そうしろ」
「でも……さようならも言ったわ」
「──そうか」
「義兄様とイタリアに行く……」
「ああ──行こう」
そして、純一は葉月に向き直って、微笑みかける。
まだ、義妹は……そんな純一の笑顔を、まるで試すかのように、ガラス玉の瞳で真っ直ぐに無表情に見据えてくるだけだ。
だから、純一はそのまま微笑みを絶やさずに、そっと葉月に向かって手を差し伸べた。
「猫姫──俺と行こう。俺にはお前は必要だ」
「お兄ちゃま」
やっと義妹が……純一の小さい愛しいだけの義妹が、可愛らしい笑顔を浮かべ、純一の下へ飛び込んでくる。
「お兄ちゃま……」
だけど、義妹は、泣いていた。
純一の胸板に頬を押しつけ、小さくて白い冷たい手が、シャツを握りしめ──そして、染みこみ伝わってくる涙は熱かった。
そっと、その肩をただ、抱きしめる。
彼女の気が済むまで──いくらでも。
彼女が何を思って泣いているかなんて……今まで、気にした事がない。
義妹が泣けば、純一は抱きしめてきた。
ただし、抱きしめられる『時だけ』。
一人泣かせてきた事が殆どだっただろう。
だけど──こうして飛び込んできたら、気が済むまで抱きしめてあげるのだ。
俺の小さな義妹の願いは……ただそれだけなのに。
何故……それをもっと早くにしてあげられなかったのか──。
いい訳は沢山ある。
だけど──それは、理由にはならない事を純一は解っている。
小さくて弱い三日月の明かりが、俺達を包み込む。
闇の中だからこそ……煌々と輝く事が出来る弱い光が……。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
一晩が明け──日の出前。
薄い朝霧が立ち込め始めた外は、まだ暗い。
「さようなら──ごめんね。無責任に置いていく事、許してね。でも……きっとここのお兄さん達は可愛がってくれるから……」
アリスの足元には、赤いリボンと青いリボンをしている黒子猫。
いや……こんな遠い異国に連れてきてから一ヶ月以上経っているが、引き取ってきた時より『彼女達』は、みるみる成長し……近頃は、悩ましい身体の曲線を醸し出すようになっていた。
『サッチとレイ』
ちょっとしたカマかけと悪戯心、そして──ご主人様の本心を探る為につけた『嫌味だったかもしれない名前』を、アリスは近頃、呼べないでいた。
特に──青いリボンをしている『レイ』。
水色のバッグ、水色のスカート、水色のコート。
純一が揃えただろう彼女の『カラー』は、青色ばかりだった。
義妹が『レイ』だと……アリスには判った。
『丸々している方がサッチで、こっちのほっそりしているのがレイだ』
純一が、この子猫それぞれを見分けるように付けた理由も──判った。
『義妹・レイ』は、ほっそりしている。
純一が抱きしめると、折れそうな背中。
純一の手が乳房を包むと、すっぽりと収まってしまう程のスレンダーな体つき。
アリスとは違って、あんなに貧相とも言える体つきなのに、彼女が純一の腕の中で、放っている『女性の匂い』は芳醇に香るように、アリスの嗅覚を刺激する程だった。
あの白く固い立派な軍服を脱いだ彼女の、何とも言えない女性としてのオーラは……意識した色気でもなんでもない。
それがとても自然であり、それを純一の中で、彼女は発揮し──そして、純一を捕らえて放さない魔法を持っているようにアリスには見えた。
アリスが使えなかった、いや、持っていると思ったのに──純一にはかけられなかった『彼の為の呪文』を彼女だけが持っていたのだ。
それでも、アリスは……最後に赤いサッチにも青いレイにもキスをし、顎の下を指で掻くように撫でて立ち上がった。
リビングは通らない。
そこでは、毎日、夜通し起きているジュールがいるから。
そして──日の出前、そろそろエドが起きる時間だ。
その前に、キッチンの勝手口から『出て行かねばならない』。
アリスの『計画』通り──二人の男には悟られることなく……外に出る事が出来た。
物音を立てないように、かなり慎重にしたつもりだ。
手荷物は一つだけ。
ボストンバッグを一つだけ。
想い出の品だけ詰めて……とりあえず持っている所持金を少しだけ。
別荘に振り返らずに、アリスは湖に沿う車道へと出て、歩道を歩き始める。
自分でも解っている……無謀で、無茶な事をしているのだろうと。
こうして飛び出してみると……本当に何も出来ない自分を、一歩踏みしめる事に、重く感じる。
それも──昨夜、ベッドに入ってから『予測』はしていた。
それでも出てきた。
飛び出してきて……それで、彼等が探しに来てくれるなんて。
そんな甘えも、何処かで自覚していた。
だけど──アリスの足はただ前へ前へと早く、逃げるように別荘を離れていく。
『駅、駅は何処?』
アリスはひたすら……湖沿いの車道を歩く。
湖畔の線が、うっすらとした夜明けの明かりに浮かび上がり、対岸の景色が朝靄の中見えてきた。
別荘の周りは閑静な雑木林と車道ばかりだが、対岸にはフェリー乗り場や、ホテルなどの町並みが見えた。
そこを目指そう!
冷え込む朝の冷気の中……アリスは着てきた黒いカシミアのコートの襟を立て、まっしぐらに歩き出す。