午後、エドと買い物に出かけて、アリスが別荘に戻ると──純一と彼女は『ドライブ』に出かけたとかで!? ジュールが一人で留守番をしていた。
そして、買ってきた食材をエドと一緒に細々と整理していると──。
「チャオ! 来ちゃったわよ」
なんと! アリスの天敵『夏の蝶』と言われる運輸女王『ナタリー』がやって来たのだ!
毎度の如く、突然やって来たにもかかわらず、本当にチャイムなしで土足のようにリビングに現れた彼女に対し、ジュールはなにも咎めなければ、文句も言わず、そのまま迎え入れてしまうのだ。
そして──そのナタリーがキッチンにいるアリスを見つけた第一声が……『まともにやっているみたいじゃない〜』の一言だった。
「ナタリー。あまりアリスをいじるな」
「あら〜? ジュールもらしくないじゃない〜。ははぁーん、相当にジュンがお嬢様にお熱って事? それでも子猫がグッと堪えている健気さをジュールは評価しているってわけ!」
彼女が高らかに笑った。
ジュールは座っているソファーで新聞を広げ、頬杖をつき……そのソファーの背もたれに無造作に腰をかけたそんな妹分の甲高い笑い声に、ちょっと呆れた溜め息を漏らしただけ。
だが、アリスはやっぱりムッとした!
そう──その通りだからだ!
ジュールが、少しは同情してくれている事ではない。
「ジュンは、出かけているみたいね〜。車がないし……オサムも午後に会う約束をしているって聞いていたけど、もう帰ってしまったの?」
「ああ、若槻社長が帰って直ぐに、ボスはお嬢様とドライブだ」
「へぇ〜♪ ジュンがぁ? ドライブ! どっちが言い出したの? まさかジュンからドライブに行こうとか?」
「正解。お嬢様がちょっと不安定でね──」
「あのジュンがねー。やっぱり、違うのね〜」
そして、またもや……ナタリーの妖艶な流し目、そして意味ありげな眼差しが、キッチンにいるアリスにニヤリと向けられる。
アリスはグッと堪えた。
そう……確かに、ここ二日、アリスの目から見た純一は、アリスが知っている『ジュン』ではなかった。
彼の微笑みも、彼の物腰も、彼の言葉も、彼の滲み出ている感情も。
全て──指の爪の先から、髪の毛一本、そして、血の一滴と言ってもいい程、彼の全ては『葉月』という女性に向けられていた。
『部下』という立場で、この場になんとか……そう、少しでも純一の視界に写りたいという微かな願いもあったアリスのそんな気持ちなど、通じない程──。
彼の視界には、もう……『アリス』という女性はいない。
本当に、ジュールが上手く言い繕って雇ってくれるようにボスにお願いしてくれた時のように、もう『部下』でしかないかのようだった。
勿論──そういう契約をしたからの割り切りも、ボスとしてあるだろうが……。
それにしても……だった。
あの『優しいジュン』が、あんな事をアリスの目の前で『平気』でする。
彼女を自分から捕まえて、引き寄せて──膝の上に優しく抱き上げ、そして愛おしそうに満足そうに眺め、そして……彼女をいたわるように、包む込むように、どこにも逃げないように、大事に大事に撫でる彼の手。そして、熱っぽくて柔らかい眼差し。
彼の『可愛い猫』は、もうアリスではない。
いや……最初から『彼女』だった事を、ありありと見せつけられた昨夜のショックは、相当なものだった。
それとも? ジュンはワザと?
『どうしても忘れられない女がいる』と言う、あの頃、彼が必死にアリスに訴えていた事を、ここでありありと実感させる為?
それでも良い──と、突っ込み、命を『賭けた』アリスに対し、ついに折れてくれた彼だから?
これぐらいの事をしないと命を賭けたアリスには解らない……という苦渋の覚悟?
『……私』
昨晩から、アリスは自分がやって来た事に対して少しずつ自分を責め始めていた。
きっと傍目に、客観的に見ただけでは、たとえアリスが身体と命を盾にして、純一を落としたという点があっても、純一も受け入れたのなら、男としての責任があると言うだろう。
なのに──『酷い状況』をアリスに突きつける事でしか、アリスを説得出来なかった純一を……彼をそこまで『悪者』に追いつめたのも『自分だった』と気が付いたのだ。
だけど──今のアリスには、その点で言えるだろう『彼の責任』を追求する気にはなれなかった。
その点で責めると、もっと自分が惨めで……そして、愛している彼を追いつめている自分は、彼を愛していない事になってしまう。
これ以上、自分本位の、自分の『保身』の為に──『三年も私と寝た男』として責めるのは、アリスにとっては、今はやりたくない、一番なりたくない自分だった。
それほど──今の自分を責めている。
そんな風に……『今までアンタはそこを解っていなかったのよ』と言う、ナタリーのニヤリとした眼差しに負けたくないが、それには降参したい気持ちは溢れていた。
でも──表面上、そこで弱さは見せたくなく、アリスはツンとしてエドと食材を片づけていた。
「──ね? エド、なんだかフルーツが多いわね? 彼女の好みなの?」
「あ? ああ……そうだな」
「ふぅん……」
日本の果物なのだろうか? 小ぶりで皮が柔らかいオレンジ、それからグレープフルーツにパイナップルにリンゴなど。
普段、ファミリーが食する以上の果実類、それから……季節外れのような色をしているトマトなどが目についた。
『ええ!? それ、本当なの!?』
『ああ──だけど、ボスは受け入れる覚悟のようだな』
『そう……ジュンもなんだか大変ね』
『間の悪い人だ』
『仕方ないわね。ジュンはいつもそうなってしまう男なのよ。なによりも自分を優先に正直にしていれば、ロイ様も怒らなかったんじゃないの? 遠慮も時には相手には不必要で失礼にあたる事もあれば、かえって取り返しがつかない結果を招いたりするからね。それで今回こそは本気になったら──“遅すぎた”って事?』
『遅すぎたのかねぇ? ボスはそうだとしても、突き進む覚悟みたいだがね』
『……そうなの。余程ね』
『遅すぎても、今から……何もかも背負う覚悟なんだろう?』
『またロイ様が、烈火の如くお怒りなんじゃないの? 物事、真っ直ぐに筋が通っていないと気が済まない人だもの』
『ロイ様はそれだけの人じゃないぞ。それに、お怒りかどうかね? 俺としては、妙に静かに感じているがね……。こんな別荘、直ぐに発見しそうなものをなぁ〜?』
『……そう? 私はわかんないけどぉ』
『ああ、そうかい? ま、いいけどな──』
「……何を話しているの?」
「さぁな」
フランス語で交わされているから、アリスにも筒抜けなのに……内容はさっぱり解らなかった。
ただ──以前、聞いた事がある『ロイ』という名にアリスは反応した。
確か、『ロイ』とやらは、ジュンを見つけたらひっ捕まえるとかいう『強敵』ではなかったか?
それに、ああやってジュールと対等に話している彼女の堂々としている態度が──アリスには妙に羨ましかった。
ジュールがまともに真っ正面向かって話をしている女性なんてそうはいない。
ここにくるまでは、アリスはボスの純一を盾に『怖い物なし』だったから、胸張って反抗する事も多々あったが……今は、その強さをもつ気力さえないし、ナタリーの様に、対等で落ち着いた会話など、ジュールはアリスとはしない。
それに? ナタリーは何を聞いて驚いたのだろう?
(ジュンが大変で、受け入れたって何?)
何か……義妹が来た事で、思ってもいない大事が起きているような予感がアリスに走る。
『あら、帰ってきたみたい!』
ナタリーのそんな声で、アリスもハッとしてキッチンから見える庭に視線を馳せる。
庭には黒いベンツが停まって、運転席から颯爽と純一が降りた所だった。
その彼が、助手席側にサッと回る。
そして──そのドアを開けて、手を差し伸べているのだ。
あの……黒猫のボスが……。
「あら、ジュンったらすっかり……じゃない。あのジュンが」
「だろう? いつもは、あそこまでじゃぁないんだけどなー」
窓辺に寄ったナタリーとジュールがそんな二人の帰宅を、にやけた顔、または呆れたような微笑みを浮かべて見守っている。
そして、純一の手を頼るように……水色のハーフコートを羽織っている栗毛の彼女が降りてきた。
だが……アリスが見た所、朝、彼女を見た時より、顔色が悪く感じるし、表情も冴えていないような気がした。
そんな彼女だから? なにか、彼女は今、ご機嫌ではないようで、それをいたわるように、純一が肩を抱いてドアを閉める。
「……リス……アリス!」
「!……な、なに!?」
アリスは……庭でお互いを必要とするかのように寄り添い、暫く見つめ合っている純一と彼女を……哀しく見つめるどころか、まるで『自分』に置き換えて夢でも見るかのように『うっとり』と見ていた自分に気が付き、エドの声でハッとする。
「ボスにはエスプレッソ、お嬢様には蜂蜜入りのホットミルクだ。すぐに入れてくれ」
「は、はい……」
チーフの命令。
ボスとお嬢様のご帰宅。
部下の気の利いたお出迎えの準備をする。
その途端に、夢でも見ているかだったような『ありえない不思議な感触』が、転落するように痛く自分の胸を、チクチクと突き始める。
アリスの『ジュン』は、素っ気ないけど、優しい人だった。
その素っ気なくて冷たいだけの男の人の、隠れた暖かさを見つけているのは『私だけ』だという自信があった。
だけど──違ったみたい。
そう……昔、ナタリーに言われて無視してしまったのだろうけど。
ナタリーにしても、『葉月』お嬢様にしても──そんなジュンの魅力を彼女たちは知っているのだ。
そして──それは後にも先にも『アリスだけの物』でもなかった。
一時的でも、ナタリーは純一に愛してもらったのだろうし、その優しさで癒され、彼女は成長したのかもしれない。
そして──『葉月』は、ずっとずっと昔から。
アリスも知らない昔から──純一の『原点』のように、彼の心を捕らえ、そして、また彼女もシンクロするように純一を愛してきたのだろう。
どこか──アリスは自分が持っていた『世界』が、とても狭く感じていた。
あの『イタリアの隠れ家』の中だけが、自分の世界だったように思えた。
アリスの毎日の登場人物は『ボス純一と、ジュール、エド』だけ……。
そのアリスの毎日の幸せを包み込んでくれていた男三人以外の登場人物が現れようとしたなら、アリスは自ら『現実だった』だろうそれらを『無視する』という形で否定し除外しようとした。
それが、ナタリーの時々の訪問であったり、そして……時に影として揺らめいていた『サッチとレイ』だったのだろう。
そして今──アリスの中に『あるべき登場人物』として心に確実に映し出されようとしている。
それが……痛い。
痛いが──アリス自身も、もう、逃れようとは思えず、痛いのに受け入れようとしている自分を感じ始めていた。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
『帰ったぞ』
純一に包まれるように抱かれて、リビングに戻ると──そこには葉月が初めて見る『栗毛の女性』がいた。
葉月が少し、戸惑っていると──。
「! ナタリー……やっと来たか。お前、どこほっつき歩いているんだ」
「?」
隣の義兄が、それは警戒がない……しかも、親しげな様子だったので、葉月は少し構える。
「チャオ。ジュールにも同じ事を言われたわよ。私だって日本に来たら来たで真面目に働いているのよ」
「あはは、そうか、そうか」
「……兄様?」
これは──『珍しいな』と、葉月でも思った。
義兄はどちらかというと、女性を鬱陶しがる方で、葉月ですら素っ気なく払われる事が多かったのだ。今回は、どういう訳かとても甘く大切にしてくれているのだが。
それに対して、どうも仕事関係の仲間だと、葉月には瞬時に予測出来たのだが──『それにしても』、隣の義兄の明るい警戒ない笑顔。
これは意外だった。
「ああ……俺の元部下で、今はヨーロッパでは運輸業界の女王と言われる女でね。うちの傘下から卒業させ、独立しているが、今もお互いに協力しあっている仲だ。ああ、お前の洋服やらバッグをエドのショップから収集したり、アマティを運んでくれたのも彼女なんだ」
「まぁ……そうでしたの」
と、葉月は驚きつつも……。
葉月は、ビジネスレディ風の黒いスーツを着ているその栗毛の『お姉様』を、機嫌良く手招きする純一に……ちょっと白けた眼差しを背中に、そっと送っていた。
判るのだ──なんとなく。
そこのキッチンにいる『金髪の彼女』もそう。
そして、妙に警戒心を解いている親しげな様子の美しい栗毛の女性も。
何故なら……『ここにいる、側にいる』か『親しげにしている』
ただ、それだけの事でも『義兄・純一』にとっては、特別だと葉月には分かる。
なにが『特別』かは、良く判明しないが──葉月特有のいつもの勘だ。
『金髪の彼女』は、まだ義兄に未練がたっぷり残っている様子なのに、義兄は素っ気ない。
『栗毛のお姉様』は、もう義兄とは男女の匂いは拭われているが、そこに義兄が『ただの関係』では、そうは女性には接する事は出来るはずない特別な親しさを葉月は感じ取れたのだ。
「あの──初めまして、葉月様……」
「!」
だが……栗毛の彼女は、なんだか堂々とした輝きを放っていたのに、葉月を見るなり急に畏れを抱いたように小さくなったので、葉月は余計に驚く。
それも、彼女の横で、彼女を見守るように、あのジュールが『心配そうに』寄り添っているのも、『いつらしからぬ』気がしたものだから、余計に──。
「こちらこそ、初めまして。葉月です……。あの、義兄がいつもお世話になっているようで……」
いっぱしに義兄についてお礼を言うと、なんだか純一が少しふてくされた顔をしたのだ。
「オチビにそう言われるようになるとは、俺もなぁ?」
「なに? お兄ちゃま!」
葉月がちょっとばかり睨むと、それを見て、『栗毛のお姉様』が笑った。
「あら。“お噂通り”……仲がよろしい事。ボス、お幸せそうで……おめでとう」
「……いや、まぁ……うん」
葉月は『おやおや』と、眉をひそめる。
艶っぽく余裕で祝福してくれた彼女に対し、ボスたる義兄が照れた様子に──。
『ははぁーん』
と、さらに白けた眼差しを向けていると、ジュールがクスッと笑いをこぼし、そこで彼と視線があった。
「ボス、お嬢様には適わないでしょうね」
「ふふ」
ジュールは葉月が何を思っているのか──やっぱり見抜いてしまっているし、そして祝福してくれたお姉様も、余裕たっぷり……いや、こざっぱりとした笑顔でジュールに同調するように可笑しそうに、優雅に微笑んだのだ。
そして、純一のこれまたバツが悪そうな、決まり悪そうな顔。だけど、その顔がちょっと照れている所もまた、素の義兄らしく……葉月は、そんな純一を引き出してしまうジュールと彼女との親しさをより一層、強く感じ取った程だった。
ジュールの横に並ぶのに、これだけ見応えある、そして見劣りしない女性も珍しいかもしれないと、葉月は思ったのだが──。
「ナタリーです。宜しく、葉月様」
「ええ、宜しく」
とりあえず、笑顔で握手を交わした。
「彼女は……ジュールの幼なじみで。同じ……『孤児院』で……」
義兄がなんだか歯切れ悪く説明し始めたのだが、葉月は『孤児院』という言葉にふと気を張った。
「レイチェルばあやが、引き取ったんだ。ジュールには姉がいて、こいつと、ナタリーと三人──」
「! そうだったの……!? お祖母ちゃまが──」
葉月が彼と初めて出会ってから十年は経っているだろう。
義兄の部下としか捉えようがなかった彼と、自分の家族がそんな深い縁であった事に葉月は驚くばかりだった。
「私が11歳の時に。孤児院で偶然、出会いました。それからずっと、貴女のお祖父様である源介様共々、私達姉弟を本当の子供のように面倒を見てくれまして……非常に感謝をしております」
「レイチェル様は、寛大に──ジュールとお姉様と同様に、私も引き取ってくれて! 学校までちゃんと行かせてくれたんです。今の私があるのは……お祖母様のお陰で、それで……私もとても感謝しておりますの……」
「私の姉は私とは違い、表の世界で結婚をし、平凡に暮らしております。姉が幸せな結婚が出来たのも、レイチェル様と……そこにいる『ボス』のお陰なのです」
そこまで話すと、葉月からすると『切れ者の彼』が、なんだかそれ以上は語り難そうにしていたので、まるでフォローするように純一が話し始める。
「まぁ──ジュールがお前に良くしてくれるのは、その恩もあるという事だな。こいつは御園の為なら俺以上になんでもする。ナタリーもだ。いつかは、そのいきさつをお前にも話しておこうと思って……今回は、ナタリーも紹介しておく」
「……そう……」
葉月としては、なんと反応して良いか分からなかった。
確かに、祖母は色々な事をしていたと右京から聞かされている。
事業家としても女傑として有名だったとも聞かされているが、そんなボランティアまでしているとは初耳で。
だからとて、あの祖母なら、『やっていそうだ』とも孫として思うのだが──まだ、それ以上に何かありそうな『感』が残っていた。
でも、それではどう追求するとか、そういう明確な線がまだ葉月には浮かばず、ここはそれで、そう聞いておいた。
「お嬢様──お祖母様に似てこられて……なんだか今日はお会い出来て、本当……懐かしい想いが。お近づきになれて光栄ですわ」
「いえ……私は……。祖母は確かに孫の私から見ても素敵な女性でしたけど……」
「お嬢様も、素敵ですわよ。すっかり素敵なレディになったと……聞かされていたので、本当にお会い出来る日を楽しみにしていたのですよ。ね、ジュール」
「あ、ええ──本当に」
ジュールが女性に促され、妙に慌てて返答する様も珍しく、葉月は首を傾げたが。
どうやら、本当にジュールと彼女は長年の絆があるようだ。
葉月の勝手な想像だが──祖母が孤児院とやらで二人を見つけるまでは……一緒に手を取り合って苦労を乗り越えてきたのではないか……? そう思えてきた。
そう──そうしてみると……『幼なじみ』とは聞かされたが、お互いが妙に通じ合っている一組の息があった男女に葉月には見える。
だけど……お熱い二人という恋愛的なオーラは感じないのだ。
不思議な雰囲気の二人だと思った。
「どうだ? たまには“二人でゆっくり”食事にでも出かけては──」
「!?」
訝しそうにしている葉月の様子を義兄は分かっているのか……彼も、今はただ『親しい女性を紹介するだけ』に留めたかったのか、急にそんな事を言い出したのだ。
葉月は『やっぱり?』なんて──少し驚いたのだ。
男女のお熱い関係は感じないが……目の前のジュールとナタリーは、ふとすると『夫妻』に見えなくもない程の雰囲気すら葉月は感じていたのだ。
「何を仰るんですか、ボスったら」
「そうよ。ジュールと顔つきあわせていても、全然ムードないしっ」
そしてこれまた、今の葉月が見ると──『慣れ親しみすぎた夫妻』が、照れを隠すかのようにツンとしあったのだ。
「今夜は、葉月が俺に飯を作ってくれるんだ。邪魔だ」
「お兄ちゃまったら……そういう言い方ある?」
なんだかそこまではっきり言い切って、『二人きりにしろ』と堂々と言った純一に、葉月はまた驚いたのだが──。
でも……それも『義兄らしい促し方』だな、と、葉月は……。
「久しぶりに──兄様にご飯を作る事になって……あの、宜しかったら一緒にと言いたい所ですけど……たまにはジュールだって、エドだって……お給仕ばかりしていないで、羽を伸ばしてきたら?」
「お嬢様……ですが」
ジュールは流石に、たとえ、お嬢様のお許しが出ても──と言う頑とした様子だったのだが……。
ナタリーの方は、ちょっぴり……その提案に対しては、全面的に断りたいという姿勢を和らげたのが分かったのだ。
ボスからの許しが出て、ジュールが折れるのを待っているかのような……そんな女性の眼差しに、葉月には見えたから──。
「あの、私も兄様と二人でゆっくりしたいの……話したい事もあるし……」
彼等を出かけさせる為のはったり半分、本気半分の気持ちで、葉月も純一並みに言い放ってみた。
すると──。
「……そうですか。では、お言葉に甘えさせて頂きます」
「お嬢様……有り難うございます」
これまた息があったように、二人が丁寧にお辞儀したので、葉月はかえっておののいてしまった。
本当に彼等は必要以上に、葉月に対して丁寧だ。
だが──それも『恩義ある人の孫』という事もあるのだと分かったので、今はそのまま受けておく事にした。
いつも職務は第一だろうジュールが、ナタリーを伴って早速リビングを出て行ったのだ。
「エド──そういう事だ。“葉月お嬢様”からの計らいだ。お前も、今夜は好きに過ごしていいぞ」
純一が、オチビの生意気な『配慮、采配』をからかうように、キッチンにいるエドにも、今夜の仕事をやめさせようとした。
当然──そんな義兄に葉月はふてくされた。
「……そうですか。では、私は離れで休ませて頂きます」
エドも、今夜は何を言っても『ボス』は働かせてくれないだろうと悟ったのか、あっさりと退いた。
「お前も出かけても構わないんだぞ」
「ええ、その気になったら出かけさせて頂きます」
ジュールが出かけたとあって、エドとしてはそれでも密かに控えているという心情を義兄は読みとっていたようだ。
だけど──義兄も、致しかたなさそうな溜め息を落としただけで、それ以上は何も言わなかった。
「アリスも──ご苦労」
「有り難うございます……ボス」
金髪の彼女は……辛そうな顔で一礼をし、エドと共にリビングをスッと出て行った。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
「……」
僅かな間に、この広いリビングに義兄と二人きりになった。
葉月は、帰り際に純一と買った食材が入った袋を手にして、キッチンにあがる。
「ジュールと彼女──なんだかとても信頼関係が厚そうね」
「そうだな……」
義兄のいつもの短い返事。
ふとすると──それだけで会話が終わってしまうという返事なのだ。
「彼女はジュールが好きみたい……」
「本当に、お前は、そういう所は鋭いな……」
「兄様とも、怪しいカンジっ」
ちょっとふてくれさて言い放つと、別に取り繕う訳でもなく──義兄は余裕で笑っただけだった。
「ま。お前の勘がそう思うならね。否定しない──もし? そうだとしても、若い頃の話になるだろうな……」
「それはね──そうよね。オチビよりもお兄ちゃまは、お付き合いも、経験も多いでしょうからね」
「あはは」
のらりくらりと認めているようで、認めない所がまた……笑っている余裕がなんとも憎たらしい。
オチビ葉月の動向は、全て握っているくせに──と、葉月は益々、ふてくされながら、レジ袋から食材を出して並べた。
拗ねてはみたが──実際、『過去』の事なんて、本当はどうでも良い。
葉月にも男性との経験はある程度はある事で、さらに12歳も年上の義兄が……姉との間に息子を授かったとしても、死別したとあっては、彼にもそれなりの女性経験が生じる事など、歳が離れている葉月にはどうにも否定できないことぐらい分かっているからだ。
勿論──自分と関係を持っていながらも、そういう会っていない期間に『付き合いがある』と言う事に関しての、お互いの曖昧さは、義兄だけを責めた所で葉月も同じ事……。
問題は──現在だった。
「……なんだか、言いたげだな」
「べっつに……」
「彼女の事か?」
「……」
葉月が無言でシンクに立ち、まな板や包丁を探していると、純一が見透かしたように尋ねてきた。
「──分かるんだから。お兄ちゃまの事なんて……」
「それで?」
「終わった事はいいわよ。私だって同じ事だったんだから──でも……」
「でも? なんだ──」
「……」
そこで葉月は黙り込む。
『金髪の彼女の事、このままでいいの?』なんて──言えない自分である事に気が付いたのだ。
そう『隼人の事』。
裏切って、飛び出して置いてきた彼。
彼は葉月が帰ってくる事を『信じて待っている』と言い切っていた。
どんなに葉月が『もう、こうなった以上帰れない』と決めつけていても──隼人は待っているだろう。
義兄と金髪の彼女の間が、完全に終わっていない事で、『あのままでは彼女が可哀想すぎる』なんて、もし、ここで平気で言える自分であったとしたら──葉月こそ、その前に隼人との事はちゃんとしなければならない事になる。
今朝までのように、『そう、なんでもない』と、見えている自分を消して──とっても安楽な夢の中に堕ちていく事に任せている場合ではなくなるだろう。
「お前が気にする事も、心配する事もない。彼女は俺の部下だ──故に、一部下として大切に育てたいと思ってはいるがね」
「……そお? そう言う事なら、『兄様のお仕事』には、口出し出来ませんから……」
しらばっくれていると葉月には、そう思えるが──義兄がそう言うのなら、関係があったとしても、ケリはつける気持ちはあるだろうと信じる事にした。
それならば──『私も……』だった。
葉月は、そのまま今、目の前にある『夕飯の支度』にとりあえず、集中する事にする。
だが──後で、後で……どうするか……という焦りのような『小波』が、胸の隅っこでザワザワと騒ぎ始めている感触は、もう──『なんでもない』という呪文では、収まらなくなっている。
「俺も手伝おう……ホイル焼きは俺がする」
「うん」
黒いジャケットをダイニングの椅子にかけ、ネクタイを取り払う義兄が、楽しそうに袖をまくってキッチンにやって来た。
その義兄を目にして──また、自分をチクチクとつつく感触が、フッと薄れる。
だが──その僅かに疼き始めた痛みが、今までのように『靄に包まれて』消え失せ、吹き飛ばされるという事はない──今度は、残っている。
「これでもな──ジュールとエドが出来るようになるまでは、俺がやっていたんだ」
「そうなの……じゃぁ、お兄ちゃまは黒猫ファミリーの長男って所ね」
「あはは、なるほど? ああ、このでかい奴を半分に切って、俺によこしてくれ」
「うん……わかったわ」
葉月が微笑みながら、純一を見上げると──彼がいつしか無くしてしまっただろう、楽しそうな笑顔を浮かべていた。
義兄の楽しそうな笑顔を目にして、葉月は自然と目頭が熱くなり、瞳が潤んだのが自分でも分かった。
「どうした……」
「お兄ちゃまが……楽しそうだから」
「……ああ、お前が側にいて楽しい」
「私も……楽しい。お兄ちゃまが笑っているのが……昔のように笑っているのが、嬉しい──」
「葉月……」
涙を溜めて、微笑む葉月を見下ろし──純一がまた、葉月をその大きな懐に暖めるように包み込んだ。
「葉月──お前が笑っているから、俺が楽しいと言う事を……忘れないでくれ」
「! 兄様……」
その彼の手が、愛おしそうに葉月の栗毛を撫でるのも、優しく抱きしめてくれる腕も──いつもなら、裸の時だけだった。
その手が、自然と今は──葉月をいたわってくれる。
そして合わさった視線が、義兄妹という線を越えて、熱く滲み始め──そして、艶っぽくお互いを絡める。
そうなれば、もう──言葉よりも先に、そっと目を閉じ、お互いの唇を求め合う甘い流れに巻き込まれる。
『兄様──』
私の柔らかい栗毛を愛でてくれる指も。
貴方の身体から漂ってくる青い海のようなフレグランスの香りも、ほろ苦い煙草の匂いも。
なかなか解放してくれない熱い唇が、私を吸い尽くすのも──。
貴方の全てが、熱くて、愛おしくて──そして、愛されている悦びも、貴方をこんな風に、熱く真っ直ぐに思うまま愛せる私を──。
貴方の手が……それを全てすくってくれる、今は至極のひととき。
ずっと私が夢見てきたひととき。
私が女性として憧れていた全て。
夢だろうと思っていた、全てを──貴方の手が、すくいとって包み込む。
そして彼の手の中、夢の中──私ごと、彼が大事にすくって守ってくれる『この夢』を──。
『……ジュン……』
「!」
その夢の魔法を解くかのように──葉月の目を覚ました『頼りなげな声』
当然──自分の名を呼ばれ、今、葉月をきつく抱きしめ、愛でていてくれた義兄も僅かに目を覚ましたように、葉月から唇を離した。
その頼りなげな声は、葉月の背後から聞こえたので、ふと振り返ると──リビングの入り口に、金髪の彼女が茫然と立ちつくしていたのだ──。
「えっと……」
思わず、葉月が義兄を押しのけて離れようとすると──。
「義妹と二人きりにして欲しいと言ったはずだ」
「……に、兄様……」
純一は、葉月を潰すかのような勢いで、胸の中に、そして両腕できつく抱きしめたのだ。
彼女の……目の前で。
それを、ワザと見せるかのように──。
「何故、ここに来る」
ボスの問いに──彼女の返答はない。
まるで葉月には、彼女の表情は見せまいとばかりに純一は、葉月の頭をきつく胸に抱きかかえているのだ。
「エドの命令か」
「ち、違います」
やっと彼女の震える声が葉月にも聞こえた。
「邪魔をしないでくれ──俺は今、義妹と楽しんでいるところだ」
「!」
純一はそういいながら……葉月の頬に口づけてきた。
それもあからさまに、耳まで噛んで──肩を抱いていた手先が、そっと柔らかく、葉月の乳房をセーターの上から包み込んでいた。
『やめて』と、彼を突き飛ばそうと腕に力を込めた時だった。
「アリス、何している。いなくなったと思ったら──! こっちに来るんだ」
「……い、いや。もう、私ダメよ」
エドの声と、彼女が抵抗する声がした。
「ボス、申し訳ありません──ちょっと目を離した隙に……お邪魔致しました」
「……ジュン! お願い……話したい事があるの。聞いて──」
「そういう事は……今じゃなくてもいいだろうっ? ボスが一人の時に申し出ろ!」
「ジュン……ごめんなさい! 今まで──私、自分の事ばかり……ジュンが生かして助けてくれた意味を、私はあなたの責任とばかりに押しつけていて、ごめんなさい──だから……」
「!」
彼女とエドが、入り口で揉み合っている気配しか、抱きしめられているだけの葉月には分からなかったが……。
彼女の『やっと出た、それらしい叫び』を耳にして、葉月の身体をきつく抱きしめていた義兄の腕が──スッと糸がほどけるように、解けていったのだ。
「……話してくる」
「ええ──」
純一が葉月の横を──冷たい空気を漂わすようにスッと通り過ぎていった。
『離れに行く。エド、ここにいてくれ』
『はい……』
金髪の彼女の肩を抱く義兄の姿を葉月は見送った。
エドが代わりに……何故か申し訳なさそうにリビングに入ってきた。
「あの──お嬢様」
「そんな顔、しないで……エド。まるで自分の責任みたいな顔しないで」
「いえ……その、彼女は部下で」
「そんな誤魔化し、もう、いらないわよ」
「お嬢様──」
葉月が笑いながら、胸元の袷を直すと、エドがどう反応して良いのか分からないような戸惑った顔をしていた。
あの……葉月を叱りながら潜入を導いてくれた『プロ顔』の彼が、困った顔。
葉月は可笑しくなって、また、笑い出していた。
「……手伝ってくれる? 義兄様が戻ってくるまでには出来上がるわ」
「かしこまりました。お手伝いさせていただきますね」
「きっとエドの方が上手だから、私の方が教えられるわ」
「あの……」
「なあに?」
エドの緊張した面持ち。
「あの、何があってもボスはお嬢様を一番に想っていた事は、信じて下さい。ただ──ボスは彼女の事を……」
「解っているわ」
葉月が微笑むと、エドはやっとホッとしたような顔をしたのだ。
やっと彼が、葉月を和まそうと余裕の笑顔で、横に並んでくれた。
エドとは……当たり障りない世間話に徹した。
そうすると、エドも固さが取れて、とても気楽そうに楽しそうに話し相手になってくれる。
エドと一緒に作った夕飯は、小一時間でだいたいが終わってしまった。
だが──義兄は帰ってこない。
エドが様子を見てくると心配したが、葉月は『そっとしておいて』と止めた。
「二階で休んでいるから──義兄様が帰ってきたら……呼んでね? それまでエドは今度こそ、ここでゆっくり休んでいたらよろしいわ」
「かしこまりました──。お嬢様、楽しかったですよ」
葉月はそっと微笑んで、一人──二階に上がった。
そして──灯りも点けず、独り。
窓辺のソファーに腰をかける。
爪の先みたいな形をしている小さな三日月の、柔らかい明かりが葉月を包み込んでいた。
テーブルには……携帯電話。
葉月はそれを手に取った。