・・Ocean Bright・・ ◆楽園の猫姫◆

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9.愛の賭け事

 あの葉月が……『親戚という囲い外』の人間に、義兄の事をほのめかしていた事に驚いていたのだ。
 しかも──隼人が知らない所で、隼人が一番気にしていただろう時期に、サラにそんな事を相談していたのかと。
 女同士──それは判っているが、葉月が自分に知られずに『自分以外の人間に相談していた』という事が、何故かショックだった。

 それは、隼人が葉月を女性として追いつめていたのか?
 それとも……あの葉月が、困った事は隼人にしか打ち明けないはず……という傲りだったのか?
 それは、今の隼人には分からないが、そういう『思わぬ気持ち』に突き落とされた感触だった。

「ウォーカー先輩から聞いた。なんだか俺の今後の事で、嬢ちゃんと何か仕組もうと狙っていたんだと。だけど、お嬢がそれを忘れるかのように休暇に入ってしまって、信じられないと、俺の所に嘆きに来たぞ」
「……ああ、ええ。私の所にも、ウォーカーキャプテンから、御園はどうしたかという連絡はありましたけど……」

 そこで、隼人は葉月の手帳に記されていた『予定』を思い出したのだが、ここでは敢えて口にしなかった。
 これは葉月とウォーカー中佐だけの間で取り交わされた『内密』と結ばれていた約束だったからだ。

「お嬢ときちんと見通しをつけてから、俺に提案してくれる心積もりだったらしいが? 嬢の方が『復帰』が不確かと言う事で──とうとう俺の所に、提案に来たよ」
「! そうだったんですか……いや、それなら良かっ……」
「良くねぇっ!」
「!」

 葉月がいなくても、そうして二人で話し合ってくれるなら『今回は助かった』と思った隼人だが……デイブはまったく益々、頭に血が上っている様子だった。

「あの〜どのように良くないのでしょうか?」
「先輩は、俺に変な期待を持たせないようにしようと、嬢ちゃんとそういう話がついていたそうだ? だけど、先輩は嬢ちゃんがいつ出てくるか判らない、だけど、時間がない。俺はここでする事はもうない、冬の転属期でフロリダに帰るしか道がないんだ! それから、先輩も今回は自分自身の次なる目標を定めて、一大決心をしたのに……それには先輩も俺も、嬢ちゃんが必要なんだよ!」
「? ですから……」
「あのウォーカー中佐がな、『引退』を決したんだ。嬢はそれを誰よりも早く知っていた。それで、先輩は俺と嬢ちゃんと三人で、新しい事を始めようと言う事を考え始めていたんだよ。それには……どうしても、嬢ちゃんが必要で、先輩の提案に、嬢は『検討しておく、見通しを立てておく』ときちんと受けてくれたとの話だったぞ!?」

『ウォーカー中佐が引退!?』

 それには隼人と達也は声を揃えて、驚いた。

「そ、それを? 葉月は知っていたと……」
「ああ! それで、現場を退く者同士、今度は現役パイロットの為の指導を一緒にしようと嬢ちゃんに持ちかけたそうだ? おかしいだろ! 嬢は、今まで『仕事』に関しちゃ、『そこまでしなくても良いのに!』と言っても、俺達以上に『突っ走ってきた女』だぞ? それが……こうもコロッと先輩との約束を忘れてしまうなんて、おかしいじゃないか!」

『そんなのは、御園葉月じゃないっ!』

 デイブは最後に声を大にして、そう叫んだのだ。

「……しかし……」

 デイブのその気持ちは、隼人にだって良く解る。
 それは確かに今までの葉月の信念だったはず──だが、彼女も一人の人間で、今回、隼人は彼女に『女性第一』で突っ走って欲しかったのだ。
 だけど、それは……デイブには言えそうになかった。
 女性となると、今度は仕事でなく『プライベート』という色が濃くなるからだ。

 だが、デイブはもっと違う方向についても話し始めた。

「それもあるけどな──もしかしてだ……。そんな嬢ちゃんが、仕事を捨ててまでという事情についてだが……。それがなんだか今、『女』として何かに捕らわれているのではないか……と、俺は思っているんだが」
「!」

 今度は……隼人と達也はそっと視線を合わせたが、なんとか悟られないように、何知らぬ顔を保とうとした。

「嬢は……その男の所に行ったのか?」
「……それは」

 流石の隼人も……ここにきて、ついに狼狽えた反応を、デイブの気迫の眼差しに圧され示してしまったようだ。
 デイブに『確信』の色が眼差しに宿り、燃えさかっていくのが分かった。

「何故……嬢を捕まえておかなかった」
「──」
「何故……指輪を外してしまったんだ! 嬢が断ったのか? お前の『プロポーズ』を!」
「違います。俺から外してもらうように彼女に……」
「──だろうなぁ! そう思ったよ! 嬢ちゃんは、本当に幸せそうだった。それはお前からの申し出を、あの逃げ腰嬢ちゃんが『勇気を持って』真っ正面から受けたという証拠だったはずだ! それを……お前は、嬢ちゃんに忘れられない男がいるというだけで……嬢から指輪を奪って、嬢の心を試したのか!!!」
「!」

 デイブのその勢いに、隼人はたじろぎながらも──その通りなので、反論は出来ない。
 しかし──だ!
 デイブという男は、真っ直ぐで熱血な男だ。
 彼のような男は、なんでも『シンプルでストレート』に率直に物事をみるタイプだろう。
 そういう彼だから、側面もなにもなく、目の前に確実に見える平らな面というだけの視点で、隼人をこうして責めているのは、理解出来た。
 だから──『私としては!』と、もっと深い部分の『理由』をデイブに分かってもらおうと、身を乗り出した時だった。
 それより、早くにデイブがビシッと隼人を指さしたのだ。

「お前──『本物の愛を知りたい、欲しい』という『賭け』に嬢を巻き込んだな!?」
「巻き込んだだなんて……私は、彼女が今までの『願い』から抜けでないようだから……白紙にして思うままにさせてあげようと……」
「このっ大馬鹿野郎!」
「だから……僕はですね!」

 隼人のいつもの『奥深い訳ある理論』を説こうとする前に、デイブに真っ正面から怒鳴られて、流石に隼人もカッとなりかけた時だった。

「サワムラ! お前、もっと大事な事を忘れていないか?」
「大事な事?」
「俺に言ったよな……『彼女はピルをやめている』、そして──『いつ、子どもが出来ても良い覚悟』だと。その可能性が……あるって事だよな!? それを忘れていないか?」
「……!?」

 急に……隼人の中に、血の気が引く程の『予想』が浮かんだ。
 それと同時に『葉月が、ピルをやめた!?』という、達也の驚愕の声──。

「……嘘だろ? 兄さん……葉月、ピルをやめていたって本当かよ? 可能性があるのに、葉月を送り出したとか言わないよな!?」

 達也が突然……顔色を変えて席を立った。

「兄さん! そういう状態であるのに、葉月を手放したとか……言わないよな!?」
「……」
「葉月がピルを『やめていた、やめていない』で、今回、兄さんが賭けた事は、まったく違う意味になってくるんだぞ! どうなんだよ!!」

 達也はそれだけ、叫ぶと──ガタッと力を抜いたように席に座りこんでしまった。
 彼が……茫然と額を抱えて、ふと呟いた。

「葉月──あの日の朝、気分が悪いって……それに、確か、その後もだろ!?」
「!」

 隼人も……察した時だった。
 デイブが静かに呟く。

「俺は女性に関しちゃ特に鈍感男だから、疎すぎたかもしれない。だが……こういう話を女房とした時、流石に女だな。サラは──葉月は『妊娠していたんじゃないか』と、心配していた。だからこその『鎌倉入り』ではないかと、最初は思う事が出来たんだが、サラの『嫌な予感』は的中だったって事か?」

「……俺……」

 隼人は──視界が、くらっと揺らめいた気がした。

 

『葉月が妊娠しているかもしれない!?』

 

 正直──『予測していなかった』だった。
 デイブが言う通り──隼人の頭の中は、いつからか、『葉月と義兄の決着の為なら、俺も覚悟を決めて手放す決意』だけに捕らわれていた。

『それもここの所、急に──』

 達也のそんな『悪く言えば、兄さんは裏切られたくなかったのだ』という言葉が、ここに来て急に『鮮明』に理解出来たような気がしてきた。
 そう……いつからか、急に。
 隼人は、『葉月と現実築いてきた全て』を壊すような事ばかり、突き放して、彼女に『選んでもらう事』ばかり考えていたのだ!
 彼女が自分を選んでくれた時、初めて『彼女に愛してもらっている』という『確信』を得たいだけだったのだと!

 いつもの自分なら、デイブや達也が言う通り、『今、自分がしている事により生じる全て』をちゃんと頭に描き、そして──それを守る為なら、自分が傷つく事など厭わなかったはず。
 そうだ……やはり、葉月に裏切られて、傷つく前に、『俺は俺だけを守ってしまっていた』のだと!

「もし、そうだったらどうするんだ……サワムラ。その男が、もし、俺の子として産んでくれとか、嬢を全面的に受け入れてしまったら……お前」

『取り返しがつかない事をしたんだぞ』

 デイブの無言の叱責が、眼差しだけで責めてきた。

「俺はお前みたいに、物事を細かく組み立てるような理論的頭脳はもっちゃいないがな……だが、お前程の男が、嬢ちゃんとそういう『恋愛ごっこ並』で物事を、心を、愛情を『賭け合っている』なんて馬鹿げた迷路に入り込んで、あまつさえ、それを現実、実行している事が、非常にくだらなく思える」
「あの……お言葉なんですが〜」

 隼人を全面的に責めるデイブのと間に、達也がサラッと、恐る恐る割って入ってきた。

「なんだ、ウンノ……」
「確かに、俺もそう思ったんすよ。俺も、ぐちゃぐちゃ考えるのは好きじゃないんで」
「だろうな。お前は俺と似ているからな」
「だけどっすね? 中佐──確かに葉月は、その男とは特別な関係なんすよ。この兄さんがこんな風に迷路にはまっちまうぐらい悩ますぐらいの……」

 『ほぅ?』と、デイブは頬を引きつらせながら、苦笑を浮かべていた。

「まぁ、百歩譲って、そういう『御園家シークレット』が絡んでいて、澤村でも手も足も出ない『事情』があるとしよう? それでもだ! 嬢とお前の間にある『起こりうる事実』を無視した事は……どんな理由も通用しないと思うぞ!」
「──うぅ」

 せっかく隼人をかばった達也だったが、達也自身もそのデイブの言い分に納得してしまったようだ。

「嬢から……何かサインがあったはずだ。まさか、それを拒否していないだろうな?」
「!」

 さらなるデイブの追撃に、隼人はまた固まった──。

「嬢に自覚がなさすぎる点にも、嬢自身の責任もあるとしよう。それでもだ──。あの何処までも感情表現が乏しいあの嬢が、ちょっと見せたはずのサイン、お前ならいつも見逃さなかったはず──」

『それを見逃していないか?』

 デイブのその静かな問いつめに、隼人の脳裏には……いくつかの場面が過ぎる。

 指輪を返して欲しいと、彼女の指から抜こうとした時──。
 葉月の必死の抵抗。
 その抵抗を無視して、『官舎に戻る』と言った時の……彼女の茫然とした顔。
 『愛している』と、隼人に飛びついてきた時。
 そんな彼女に翻弄されながらも──彼女が渡したくても、渡そうとしなかった『バッジ』を受け取るだけ受け取って……『行くんだ』と、突き放した。

『俺が……兄貴に会わせてやる。会って……あるがままの自分をぶつけて来い』

『やめて──!』
『何故? どうして? どうやったら、そんな事が言えるの? 私のあなたへの気持ちは嘘だって言っている!』
『私はお兄ちゃまとは、もう……何もない!』

『……私を信じてくれないの……?』

 彼女のガラス玉のように透き通った潤む眼差しが、真っ直ぐに隼人を責めていた。

『私……本当にあなたに愛されているって……これ程、強く感じた事ない……。……だから、もう……やめて? 解ったからやめて? 私は何処にも行かないし、隼人さんの側がいい……』

「俺は──」

 隼人はついに──後ろにある『大佐席』に両手をついてうなだれた。
 数々──隼人に『信じて欲しい』と懸命に投げかけてくれていた彼女が、確かに存在はしていた。
 『愛している』と──義兄の事を忘れられなくても、『隼人に愛されたい』と、隼人を求めてくれた彼女も確かに存在していた。
 彼女は……自分の心を二つに裂いて、苦しかっただろうが……何に捕らわれることなく、自分が持てあましている痛さに潰されることなく、『どちらも同じぐらい愛している』という正直な気持ちを、隼人にも告げてくれていた。
 それを──どうしても『ひとつ』にまとめたがり、二つの愛を抱えるありのままの葉月を……隼人はついに受け止める事が出来なかったのだ!

「に、兄さん……」

 まるで降参したかのような隼人のいつにない動揺振りに、達也も戸惑っていた。
 が──隼人は、すぐに顔を上げる。
 そこにある、大きな革椅子。
 そこにいた彼女を……堂々と足を組んで、生意気な格好で、君臨していた彼女を──。

『葉月、逃げちゃ駄目だ』
『後ろを振り向いて駄目な事は“それに捕らわれる事”……。振り向いてすべき事は“それが何であったのか、核心を捉える事”』

「……いえ。やはり、こうなるべきだったと思います。彼女の為に。いえ、彼女自身がです。きっと俺と別れても、俺以外の『彼以外』の男と再びそうなっても……同じ事が起こったはず……」

 再度、隼人が自分を律した時──やはり、デイブは溜め息をついていた。

「……解った。だが、これだけは言っておく。その男が御園と深い関係でありそうな事は、サラから聞いた」
「彼女──そこまで?」

 デイブの口から出てくる隼人も知る事がなかった葉月の姿に──隼人は再度、デイブに振り返り、唇を噛みしめる。

「嬢が幼い頃から、側にいたような男だった事をサラにも言っていたらしい」
「……珍しいなぁ? あの葉月が……」
「……」

 長年の付き合いがある達也でも、意外だったようだ。

「それで──嬢は、その男の事は忘れられないが、澤村に信じてもらいたい。けど──彼は苦しんでいる、どうすればいいか……と、いつにない女らしい顔でサラに打ち明けていたそうだ……」
「──!」
「それで──サラは、今まで澤村は葉月の曖昧な態度に傷つきながらも、ちゃんと愛してくれていたんだから、葉月も痛くても彼に信じてもらえるようにそれを伝え続ければ、伝わる──と言ったそうだ」
「……そんな話を……」

 隼人は俯く──。

 そう、何処かで何処かで──葉月を突き放さなくても良い機会があったのではないかと……急にそう思えたのだ。

「それから──なんだか嬢は、妙な変化を遂げていたぞ」
「妙な変化?」
「それが、とても良い変化だと思えて──嬢はもう大丈夫だと思っていたんだが……ある意味、まだ生じていない良い変化の前触れだったのか? 今思えば、かなり精神的に『追いつめられていた事で生じた変化』と思えてきた」
「? それは……?」

 達也と揃って首を傾げると──デイブがまた、思わぬ事を言い出した。

「ショーの後、連絡船の中で、ちょっとしたキッカケがあったのだが……チームメイトに『肩の傷の原因』を告白していた。あの嬢が、『自分の口から』だぞ。本当はパイロットでなくて、ヴァイオリニストになりたかったとまで……」
「!!」

 それには、隼人と達也もかなりの驚き、二人揃って顔を見合わせた。

「そして──こうも言っていた。『初めて軍隊に入って……あなた達のような男性に会えて、幸せだ。 皆の事、愛している、敬愛している』とね」
「葉月が……男性の前でそんな事を?」

 それは思っても見なかった事で、隼人は茫然とした。
 サラの事といい、フライトチームメイトの事といい……葉月は、葉月なりに自分自身で懸命に闘っていたではないか……と。

「今思えば……コックピットを降りるという宣告を、なんとか受け止めようとしていた嬢に拍車をかけるように……軍人としてなんであったのかという『決着』をつけさせてしまったのではないかと──その答を残して、消えちまったように思えてならなくて……」

 今度はデイブが、悔しそうに俯いた。

「なんだ──その男とやらが、御園と深い関係の昔なじみの男ならば、兄貴みたいな男だって事だな?」
「……ええ、彼女の従兄ぐらいの男性で」
「そんなに歳が離れているのか?」

 観念したように隼人が、純一の事をほのめかすと、デイブが驚く。

「……そうか。たぶん、その男は嬢のヴァイオリニストである姿をよく知っている男なんだろう? そうなるとな……嬢はもう、新しい道を開くかもしれないな……」

 そして、今度はデイブが観念したようにうなだれた。
 その哀しそうで、悔しそうなデイブの口惜しさ。
 それは、隼人も同じだ──。
 だが──それを後押しし、引き留めもせず、『彼女は絶対に帰ってくると信じている』と言い張って、そうして行かせた葉月に『帰ってきて欲しい』だなんて、馬鹿な刻印をしてまで送り出したのは自分だ。

 今頃──『義兄と向き合ったら帰ってきて欲しい』だなんて、隼人の都合良い期待を胸に、葉月は自分自身を『隼人が期待しているのは解っているが、裏切った事は変わらない、戻れるはずがない』と、責めているはずだ──彼女なら。
 その上、『妊娠している』だなんて、解ったら──もっと責めているはずだ。

 デイブの言う通りだった。
 だが──。

「俺は今日、お前をこれだけ責めたが──それはごく『当たり前』の誰もが、責める事だと思うぞ。澤村──」
「はい、良く……身に沁みました」
「だが──それでも尚、深い事情があると言う事は、もう俺には理解が出来ない範囲であって、内輪事──と言う事に『してやる』──」
「……」
「だけどな──『連絡』は絶対に! 取れ! 子供だけは確認しておけっ! お前達が、その兄貴とどんなにすったもんだしても、子供は子供だ! 嬢とお前の責任だ! 解ったな!」
「!」

 デイブのその進言にも、隼人はハッと目を覚まされる。

「それから──俺もお前と一緒で『諦めない』! 嬢に言っておけ! 帰ってきたら『サラのお仕置き』が待っているってな! アイツにもとことん『お仕置き』をしなくちゃならないだろうからな!」

 デイブはビシッと隼人に指さし、怒った勢いまま──サッと大佐室を出て行ってしまった。

「ひえー。サラのお仕置きなんて言ったら、余計に怖がって帰ってこないぞ、葉月……」

 デイブの迫力に圧されっぱなしだった達也が、苦笑いをこぼす。

「兄さん──? 俺が言いたかった事、コリンズ中佐が、全部言ってくれたんだけど……どうするんだよ? 俺も、連絡した方が良いと思うな。『妊娠の可能性』があるなら、今まで通りとは行かない。兄さんが連絡しないなら……俺が……」

 茫然としている隼人に、達也がなんとかさせようと話しかけてくるのだが──。

 隼人は直ぐに──携帯電話を取りだし、葉月への番号を選択していた!

「兄さん──」

 達也のホッとした声。
 だが──『電波が届かない場所にいるか電源を切っている……』という、トーキーが流れただけだった。

「くそっ!」

 大佐席に、携帯電話を乱暴に放り投げる。
 そして、隼人はそのまま……崩れるように、彼女の席に、うなだれる。
 すると……達也の溜め息。

「──どうせそんなに格好悪く『なれるのなら』さ。葉月の前でなるべきだったと思うな? どうしてあんなに格好つけちゃったんだろうなんて。──と言えるのも、俺がそうだったから。俺も……葉月の前でうんと取り乱して、狂って、それでも葉月の側にいれば……『澤村隼人』とかいう、すごい男と出会わす事もなかったかな〜なんて思うから。狂う事が出来なくて、フロリダに逃げちゃったからな〜俺。ま、葉月にも非があったという部分はお互いに散々話して、やっと今に収まったんだけどなー」

『!』

 『うるさいな、放って置いてくれ』と思う達也のその言葉に、隼人はまたハッとさせられる。

「なんだか──今ので、調子狂ったな。外で一服してこよう」

 わざとだと思うが、達也はそんな風に軽口を叩いて、煙草をくわえながら大佐室を出て行ってしまった。
 それが──今になって、静かに取り乱している隼人をそっとしてくれる為の気遣いだと……隼人には通じて、またうなだれる。

 『格好悪くなる』──と、言えば、一度、なりかけたにはなりかけたのだ。
 横浜帰省の前、葉月を奪うように縛り付けるように、彼女にあたっていた事があった。その時に、葉月がピルをやめていたと知って、それで……彼女と一緒に、『兄貴と向き合う』と決心したはずだったのに!?
 だが、隼人が決した『結婚』とやらは……責任とか、愛とかでなく? 『安心パスポート』のようだったのでは!?

 何処かで『戦いを放棄した男』になり、その戦いを彼女一人に押しつけていた気持ちになってきた。

『葉月──』

 もう一度、携帯電話を手にしてかけ直してみたが。
 同じだった──。

 だが──隼人は顔を上げて、彼女がいない大佐席を強く見据えていた。

 

☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆

 

 昼下がりの日差しに、紅葉した葉がひらひらと舞う高原の道。

 その中を、純一の運転で二人きりのドライブを、葉月はしている所だった。

「秋も終わりだな──殆ど、葉が落ちている」
「そうね……」

 葉が落ちて、細い枝先が幾重にも重なっている雑木林の向こうには、冠雪の富士がずっと窓辺についてきている。

 最初に『富士霊園』に行って、そこの庭園を義兄と散歩する。
 大きな霊園は、公園としても有名な場所であって、葉月の兄達が運転出来る歳になった頃、姉と一緒に皆でピクニックに来た事もある思い出の場所だった。

「そう──あの時、ツツジが沢山咲いていて……姉様が喜んでいたわ」
「アザレア、皐月──私が一杯咲いているとか、言っていたな」
「ピンクに赤──本当に姉様、みたいだった……」

 その霊園の一番長い階段の脇は、上までずっとツツジの植え込み。
 今は……花は咲いていないが、葉月と純一はそっと……それを見上げた。

 純一もそうかもしれないが、葉月もどうしてか──姉の事を普通に口にしていた。
 思い出すと一番痛い、姉との想い出。
 それを──義兄も静かな微笑みで、受け止めてくれ、一緒に思い出してくれている。
 二人の間で、とても自然に語れる事も、今までにない事のように葉月には改めて、思えていた。

 そんな霊園での散歩を終えて、また──田園風景が広がる御殿場に戻る道沿いを、義兄の車は走る。

 その途中だった。

「ん?」
「どうしたの?」

 純一が何を見つけたのか、急に路肩に車を停めた。

「ああいうの弱いんだな、俺は」
「?」

 純一が指さした先を葉月も見つめると──。

 『きのこ栽培 直販』──と、ある。

「……兄様って結構、食いしん坊よね?」
「人の事いえるか? お前だって、調子が良かったら、結構食うだろ。デザートも豪勢にな」
「なによー」

 そんな言い合いも……昔通りに戻ったようで……。
 二人で急に見つめ合って、視線を逸らしあってしまった。
 それを誤魔化す為か、それとも、そう思っていたのか純一が急に、提案を持ち出す。

「いつだったか。お前に『炊き込み飯』を作ってもらっただろ? おふくろ直伝のキノコ飯だ」
「あ、ああ……あったわね、そういう事も」

 葉月はそっと頬を一人で染める。
 そんな『乙女な自分』を思い出したのだ。
 『次にお兄ちゃまにあったら手料理を食べさせてあげたい』と思い、彼の母親である鎌倉の由子に、和食をいくつか教えてもらっていた。
 それは、義兄の為でもあって、真一を一時まで育てていた祖母の味を、甥っ子にも与えてあげたかったからだった。
 そして──いつだったか義兄に会った時に、そんな手料理をしたいから、やらせてくれと言って、披露した事があった。

 義兄は一言──『美味い』と言っただけ。
 そんな風に、返答は短い人だと承知していたから……葉月はそれだけでも嬉しかった記憶がある。
 それを……覚えていてくれた。

「あれは美味かったな。作ってくれないか?」
「え!?」
「今なら“しめじ”があるだろうな。買ってこよう。ここら辺は高原地帯でキノコも美味いんだ」
「お、お兄ちゃま?」

 彼はそのまま、少年のように胸躍らす笑顔を浮かべ、サッと運転席を降りてしまった。

「待って」
「早く来いよ」

 葉月が慌てて助手席から降りると、黒いジャケットの裾をなびかせながら、義兄が遠隔操作ロックを車にかける。
 葉月は、大股でどんどん先に進む義兄を追いかける。
 看板がある奥へと進む砂利道の前で、純一がやっと振り向いてくれる。

「大丈夫か?」
「うん」

 いつも先へ先へと消えていってしまいそうな背中が、そこで振り返ってくれて、葉月もホッと笑顔をほころばせた。
 そっと純一の片腕に自分の腕を通して頬を寄せた。
 そして──そんな葉月を一時見下ろし、純一は何も言わずに、そっと葉月に合わせるように歩き始める。

 葉月も、頬を寄せたままゆっくりと一緒に歩いた。

 

「これは立派ですね。では、これとこれ……頂こうかな」
「お目が高いね」

 きのこ栽培をしている老夫妻に、怖じ気づくことなく話しかけた純一は、すっかりその老夫妻と軽やかな会話を交わしながら、きのこを物色。
 きのこを生やす為の組み木の前で、老夫妻と楽しそうに会話をしているではないか。

 無口で無愛想でぶっきらぼう──かと思えば、こういう人と接する暖かさはどことなく感じる事が出来る人だという事は、よく知っているが、こうして目の前に出来るのは滅多にないので、葉月は思わず後ろからしげしげと、そんな純一を見つめてしまっていた。

「ほら、見ろ。こんなに大きいシメジだぞ。バターをのせたホイル焼きでも、美味いとさ。やってくれよ」
「ー!」

 まるで戦利品を獲て、喜び勇むように純一が葉月の鼻先に、キノコ類を突きだした。
 その──新鮮なキノコの香り……森の香りと混ざって鮮烈だった。

「……ご、ごめんなさい」

 その匂いは、今の葉月にはやや受け入れ難い匂いだったので、ハンカチで口元を覆い、顔を背けてしまった。
 その時の老夫妻の残念そうな顔。

「彼女──最近、子供が出来たと判ったばかりで。すみません。匂いに敏感で──」
「ああ。そうだったのかい」
「あら、おめでただったの」

 灰色の作業服を着ているおじさんと割烹着をつけている奥さんの、にっこりとした素朴な笑顔。

「新婚さんかい。いいねぇ」
「はい。今旅先ではあるのですが、今夜は彼女に夕飯を作ってもらおうかと。彼女『意外』と和食が上手いんで」
「奥さん自慢かい? こりゃ参ったね」
「本当だよ。お幸せに」

 『新婚』と言われて『はい』と言い、奥さんと言われてにっこりと自然に微笑み返す義兄の様子に、葉月は唖然としてしまっていた。
 しかも、のろけるみたいに『意外と料理がうまい』だなんて──『この人誰?』と、眉をひそめたぐらいだ。

 老夫妻と別れ、また砂利道を戻る

「変なお兄ちゃま。のろけちゃって──」
「では、義理の妹ですと言えば良かったか?」
「そう言うつもりで、奥さんだと平気な顔をしたわけ?」

 妻とのろけられたら、なんだかしっくり来ないし、だけど──それが『自然な関係』に見せる為の『堂々としたはったりだった』と言われると、これまたなんだか腹立たしい……なんて、複雑さに葉月は陥る。

「これから、誰にでもそう紹介するつもりだからな──」
「……兄様」

 今度こそ、いつもの彼のように……ぶっきらぼうに言い捨て、照れを隠すように、葉月を置いてずんずんと先に歩いていってしまった。
 ちゃんと『夫婦』になる心構えは、もう彼の方がしっかり出来ている。
 それを改めて感じて、葉月はそっと微笑んだ。

「待って」

 また──彼を追いかけようと、踏み出した途端。

『うっ……』

 時たま襲ってくる吐き気にみまわれ、葉月は道ばたに寄って、しゃがみ込んだ。

「葉月──」

 義兄が砂利道を戻ってくる音がする。

「ふ……うえっ」

 胸が焼けるような気持ち悪さ。
 それが葉月を『現実』へと連れ戻す為の『訴え』のように──葉月を時々、戒める。

『俺の事、愛してくれているね』
『? も、勿論よ』
『俺に信じて欲しいと必死だ』
『そうよ』
『俺も……愛しているよ』

 いつも吐いている間に──遠く微かに、隼人の声が聞こえてくる。

『お互いに俺達は信頼しあって、お互いを思い合い、愛し合っている……』
『うん……』
『そうなのだと、俺の目に……誓ってくれないか? 何があっても、そうだと──』

 『私達』は、確かに愛し合ったし、それを誓った。
 離れても──。
 その通りに、離れても、裏切っても──葉月の身体の中で、彼の言葉は消える事はなく、忘れようと努力しても、身体自身が今度はそれを許さない。

『お前が一番だ。絶対……離さない! それだけは覚えておけよ!』

 あんなに狂ったように自分を欲し、苦しそうに私を愛してくれた彼。

『……だから、これは今は必要ない』

 なのに──とても疲れたようにして、葉月を手放した彼。
 彼の深い考えには逆らえなかった。
 どんなに『愛している』と言っても……葉月如き、無感情女の伝え方では、駄目だったのかと思った。
 義兄を忘れられない以上──彼には受け入れてもらえない。
 もう、会わないと言っても──信じてもらえない程、葉月の潜在意識が彼を追いつめていたから?

 だけど──確実に、ここに──二人が愛し合ってきた『軌跡』の欠片が、私達を結びつけようと頑張っている。
 『裏切った代償』なのか──?
 忘れさせてくれない、代償なのか?
 苦しいのは、私達の天使が『純粋に健気に』頑張っている事により、鮮烈に突きつけられる母親である自分が犯した父親への『裏切り』と、こうなる事を自覚出来なかった『浅はかさ』だった。

『葉月──これは……覚悟が出来てした事なのか? これがどういう意味かちゃんと解っているのか?』

 ピルをやめていたと判った時の──葉月を子供みたいに心配そうに見つめる大人の眼差し。
 葉月は、しゃがみ込んだまま、一人首を振った。
 『解っていなかった』──その重大さを解っていなかった。
 ただ──『信じて欲しい』だけの『賭け事』のように、葉月は安易すぎたように思えた。

 だが──『妊娠している』と解った後、二階で一人になり……何処ともなく沸き上がってる『柔らかい歓び』はあった。
 彼とは、こんな事になってしまった──なんて思う前に、素直に暖かい何かに包まれ、フッと彼の大きさが葉月を包んだのが正直な気持ちだった。
 私達は──本当に愛し合っていたのだ。と……。
 しかし、その『歓び』は次第に『重き罪』として自分を責めてくる。
 裏切りの大きさが、刻一刻と──葉月の身体の変化を通じて、押し寄せてくるのだ。

「隼人──さん……」
「……!」

 道ばたで、息切らし嗚咽を漏らす中、側に一緒にしゃがみ込んで、背中をさすっていた義兄の手が一瞬止まった事など──。
 今、引き戻されるように集中的に彷徨っている葉月には、気が付かなかった。

「俺に遠慮はいらない。一人で泣くぐらいなら、何もかも言ってくれ。お前をこんな状態に追い込んだのは俺だ……そして、澤村を追い込んだのも俺だ」
「!」

 とても落ち着いた低い声。
 目が覚めたように、顔を上げると、そこには静かに葉月の背をさすって、そして静かに葉月を見下ろしている純一がいた。

「お兄ちゃま……私」
「顔、あげろ」
「……」

 涙にいつのまにか濡れていた。
 口元も……汚れていたようで、純一はポケットから取りだした紳士ハンカチで葉月の口元と目元を、優しく拭いてくれた。
 大きな手で、そして──とても静かな合間の中、彼の仕草もとてもゆっくりと落ち着いている。

「お兄ちゃま──!!」
「!? 葉月……」

 葉月は直ぐ隣にいるとても大きくて何もかも包んでくれる義兄の胸に飛び込んでいた。
 急な勢いで飛び込まれ、純一も流石に砂利道の上に、葉月を抱えたまま、尻をついたぐらいに──。

「早く、早く──私を遠くに連れて行って! もう、何もかも忘れたいの! 早く──! 連れていって……どこか……遠く……お兄ちゃまと私だけ……」
「葉月──」

 黒いジャケットの襟を握りしめ──葉月は彼の薄桃色のワイシャツに頬を押し当てた。
 そこでむずがる子供のように、頬を押し当てても……義兄は直ぐには葉月を包み込むようには抱きしめてはくれなかった。
 なんだか──その両手が……躊躇っているように感じて、葉月が不安になり顔を上げると……。

「分かっている……どんなお前でも、俺はお前を見捨てない。こうして抱いている、ずっと──」
「……兄様」

 やっと──彼が葉月を強く抱きしめてくれる。

 兄様は、こんなに罪深き弱き私を、見捨てたりしない。
 兄様は……何があっても最後には私をこうして受け入れて、ありのまま愛してくれる。

 それにホッとして、彼の手で一緒に立ち上がった時だった。
 せっかく立ち上がったのに──義兄は、また葉月を見上げるようにひざまずいてしまったのだ。

「お兄ちゃま?」
「だが、“オチビ”──」
「!」
「でもな、葉月──」
「なに?」

 彼が葉月を哀しそうに見つめ、そしてもどかしそうに──葉月の片手を、何か諭すように五本の指を一本も逃さず組み、強く握ってきた。
 『オチビ』という兄様の顔は、哀しそうな大人の顔。

「これだけは、忘れないでくれ」
「な、なに?」
「誰が父親になるとか、澤村という恋人を裏切ったとか、そういう前に。お前は確実に『母親』になる。それだけは、誤魔化さず、逃げず、強くなって欲しい。分かるな……?」
「……うん」
「お前は真一を愛してくれた。だから──自分の子供を強く愛していけると信じている」
「……」
「それから、俺の気持ちは変わらない。お前を連れて帰りたいし、お前とその子を守っていきたい。だがな……やはり、これは俺が主張する前に、お前と『澤村』の間で、一度は必ず話し合わなければいけないと思う──分かるか?」
「でも──今更……」
「今更? まだ、間に合う。誰の子供か分からないというならともかく、今までのように父親が死んでしまったわけでもなく──今回はちゃんと判っているし、存在している事だ。診察を終えて、きちんと分かったら、澤村に報告する。これを、俺は勧める。俺と澤村、どの男と共にするという以前の問題だ。分かるか?」

 葉月は……素直にこっくり頷いていた。
 自分でも不思議に感じるぐらいに──素直に、自然に。
 どこかで気持ちが少し楽になった気がした。

「分かっている。お前は澤村を愛しているし、俺の事も──。ちゃんと通じている。なにも今の自分を無理に否定する事はない」
「兄様──」
「ただ……今は、お前が側にいてくれる事。俺はとても幸せに感じている。俺を愛してくれる事を……感謝している。だから、俺の為と、自分を殺して苦しむのはやめてくれ。それぐらいなら、俺の前で、堂々と……アイツの事も好きなんだと、言ってくれ……」

 『ふたつの愛』を、抱えたままの葉月を彼は抱きしめてくれる。

「さぁ……帰ろう」
「うん」

 夕暮れになり始めた高原の雑木道──。
 純一の胸に包まれて、葉月は歩き出す。
 冷えてきた晩秋の風の中でも、義兄の懐は昔のまま……とても暖かくて、居心地が良すぎる。

 何処かで──そんな義兄の広い懐で、何でも安心してきた自分を……初めて怖く感じたように思えていた。 

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