黒いスーツを着ている純一に合わせるように、この日の右京は『軍服』ではなく、昔から変わらぬ素晴らしい着こなしとコーディネイトで、この日はトラッドな刺繍模様が施されている水色のネクタイに、グレーのスーツを着ていた。
彼が純一を見て一言──『洗練されてきたが、地味になっていないか?』だった。
言ってくれるなと、純一は笑い飛ばした。
そういうお前はまったく変わらず、憎たらしいくらい華やかで、似合いすぎていると返すと、右京は『当たり前だろ』と、いつもの調子で得意げに笑うのだ。
そんないつもの挨拶をすませ、丁度、昼時──。
右京が指定した横浜郊外にある、まるで個人宅のように、こぢんまりとしている洋館のレストランでランチを取ったのだ。
「葉月──元気か?」
「ああ、まずまずかね……」
「オチビの事だ、元気なわけないか──」
彼に『実は、葉月が妊娠している』と、純一は、まず最初に報告を済ませておきたく……ワインをついでもらい、オードブルが来る前、右京に告げたのだが──。
彼が、思わぬ反応と、そして……話を純一にしたのだ。
「実は……そのオチビがな──」
「ああ──聞いた。『妊娠』しているらしいな」
「!? 聞いた? 誰から──」
注がれた濃厚な色彩の赤ワインのグラスを揺らし、香りを確かめている右京の淡々とした一言に、純一の方が驚いたではないか?
「澤村から。ここに出かける前に連絡があってさ……。週末に診察する病院まで若槻の案内と付き添いで、落ち合うんだって」
「──あの子が? お前に……? 早いな、今朝、若槻に頼んだばかりだぞ」
「まぁ、良く解らないけど? そうらしいな」
何故か、右京が優雅な顔でワインの香りと戯れていたかと思ったら、昔から変わらぬ『事の裏を楽しんでいる最中』というちょっと小邪気な少年の顔で右京がニヤリと笑ったのだ。
「俺は──ただ頑張れよーと言っておいただけだ」
「お前らしいな」
純一はふと、ふてくされながら──自分もワインの香りを確かめたのだが、正直、楽しむという気分は何処かに消えたように、隼人が右京に連絡したという『意図』を探る事に、思考が傾いてしまっていた。
この目の前の『幼なじみでもある親友』は、まさに──こういう男だった。
誰の味方でもなく、いつでも誰かの間で中立で──それでいて、その中立という事で、周りを上手く動かすと言う……いや、周りの人間自らが、気持ちがなだらかに整えられてしまい、結果的に上手く動かされてしまうのだ。
そんな彼の顔は……近頃、益々、祖母であるレイチェルに似てきたような気がしてならない。
時には、祖父の源介のような『日本男児的強さ』のような男気を見せる事もあるし。
純一は……昔から『源介』に憧れていた。
そして、今の純一は『レイチェル』に導かれて成された地位でもあった。
そして、その息子達である『亮介』の武道家としての快活で躍動溢れる男の眩しさにも惹かれ、それで、小学生の時から、隣敷地に住む御園の家に『武道』を張り切って習いに行った物だ。
そして、そんな兄とは対照的に、それこそ右京の器の一番近い基礎になっただろう、繊細で観察力溢れる静かな男と見せて、内に溢れる母親譲りの『世を愛する』秘めた情熱をもつ弟『京介』の……男の静を秘める魅力にも、純一は密かに惹かれた物だった。
御園……と、言うのはそういう魅力を持っている。
そして、目の前の栗毛の男は──その血筋を見事に受け継いでいるのだ。
それを、義妹にも見るのだ。
彼女が自ら、己を殺して苦しんだり、それが苦しすぎると言うのも、人一倍に感受性が強いから、余計に痛く感じるに違いないのだ。
そしてある時から、苦しすぎた為に義妹が自然に生み出した生き方が『感じなければ良い』だったようだ。
その義妹を──ただ面倒くさそうにして、放る事は簡単なのかも知れない。
そして義妹は、その事を良く解っているから、人には近づかない。その上、近づいても心は開かない。だから面倒くさくなる。
そして、純一には簡単に放る事が出来なかったし……『他の人間には任せたくない』と、その思いがいつも強かった。
義妹の為に……『外での一人歩き』をさせるべきだと、何度も思ったから突き放してきた。
義妹の意志は『純兄様に抱きしめて欲しい』──それだけの事。
それだけの事なのだが、それをしてしまうと、『義妹の意志』と言う物が『脱力的な甘さ』に変化してしまう事を、純一は解っていた。
義妹にとって『俺』という存在は──『甘え』そのものなのだ。
その点についてはロイが……いつも言ってくれていた。
彼も洞察力は素晴らしい、純一もそれは認めているし、一緒に仕事をする時には、彼の意見はなくてはならない物だし、必要な物だ。
それと同じように彼が言うのだ。
『純一、お前の葉月を想う気持ちは──俺だって純粋で、本物だと思っている。だが、葉月の為じゃない。お前は危険と隣り合わせの環境の男である他に──。一番肝心な所で、葉月に対して底抜けに甘すぎる。葉月をそこに巣くわせて、どうするんだ?』
『解っている』
『……だったら、俺が言いたい事を何故? いつも無視するんだ』
『無視などしていない』
いつもそんな討論の上、この点についてはすれ違いで終わる。
『どうせなら──葉月を駄目にしてでも、側で愛するのだという覚悟をしろっ! その代わり、万が一、そうなった時は、駄目になった葉月より先に死ぬなよ、お前!』
つまり、ロイが言う結論は──『純一の元では、葉月は駄目になるだけだ』と言う事だった。
この点について、では……右京は? と言うと。
純一とロイの間に関しても、いつもそうだ。
『中立』という役割を物の見事に成立させていた。
『俺は……お前の事も、ロイの事も、悪いだなんて思わないさ。どちらかが悪いと決めるなら、その悪いと結論づけた人間の中にある“とある基準”がそうさせているのだろう? ただそれだけの事で、逆に言えば、悪く言うだけの人間にだって“言う理由”があるだけの事さ。俺の場合、もし言われたりしても嘆く事もあるが、それ以上に“何故、悪く言うのか、その理由と心理”についての方が興味深い──決定的な悪徳は、神がいなくてもいずれは裁かれるもの。それは誰が決める事でもなく……この事の論理はものの見事にそうなるように成り立っている事が多いものだ。それこそ、神が置いていった事の成り立ちではないか? と、俺は思う。あとは本人次第だ』
彼はいつもそういって笑ってくれる。
実際に、純一は彼のその言葉に、何度も救われてきていた。
そしてロイも、唸らせてきたようなのだ。
そして、右京の話は続いた。
「お前さ──訓練中の母艦に忍び込んだんだって?」
「……なんの事だ」
右京は、見透かしたニヤッとした楽しそうな微笑みを持続的に純一に向けてくる。
純一は、目線をサッと反らしてしまい、その仕草一つで『ああ、そうだ』と右京に返事をしたような物だと分かっていたので……それを誤魔化すかのようにワイングラスを煽った。
「なにも訓練中じゃなくても、勤務外を狙えよ。あれ、細川のおじさんに感づかれたんじゃないか?」
「……勤務外は、葉月とあの子はほぼ一緒にいるようだったのでね。完全に離れているのは、葉月が空にいる時だ」
「あー、なるほどね。そりゃ、確実だわな」
右京は、サラッと賛同し笑い出したが……。
なんだか、馬鹿にされているような気がして、純一は顔をしかめる。
「細川のおじさんは……気が付いている。ジュールが呼び止められて。流石だな……すぐに俺の部下だと見破ったらしい。今度会ったら、俺は殴られるそうだ」
「それは甘んじて受けないとなー。そうそう、母艦に忍び込んだ話を最初に聞かされたのは『葉月』からだ。澤村は葉月には徹底的に誤魔化したようだけどな。葉月だって、こういう部分は『しっかり者』で鋭いからな。すぐにピンときたみたいだ」
「……そうか」
「その空母艦の時と、今度の澤村は──違うと思うぞ」
「違う──?」
その時の右京の顔は──厳しかったが、純一と顔を合わせようとせず、あちらも誤魔化すかのように、今度はグラスを倒し照明に透かし、ワインの色を観察しているのだ。
「お前、今度は『覚悟』しておけよ。もう、澤村に怖い物はないはずだ──」
「怖れる物がない……ね」
まだルビー色に煌めくワインを……右京は真面目くさった顔で見ていたのだが、やっと純一を見据え、彼はニヤリと微笑んだ物だから、純一は態度には出さない物の、密かにおののいていた。
「……だろ? 今度は手元にあって失う恐怖を知るのは『兄貴の番』だ。もう、澤村は『失っている』し、余計な『カード』を切って自分を惑わせたりする事はない」
「なるほど? 俺が葉月を失う事に怯えるだろうと言う事か?」
「本気なんだろう?」
「ああ、本気だ。今日もお前にはっきりと言おうと決心してきた」
「イタリアに──葉月を連れて行く……だろ? 判っていて『氷月』を葉月に持たせたんだ。そうすればいいさ」
「だが……なんだか、お前は『そうはならない』と言いたそうな顔をしているな」
すると、右京はちょっと同情めいた憂う瞳を揺らして、純一を見たではないか?
その眼差しに、流石に──純一はどっきりとした。
まるで無垢な少年に……哀れんでもらっているような、そんな気分にさせられたのだ。
「“そうはならない”──かもしれない。そんな事、お前が一番、感じているのではないか?」
純一が誰にも悟られないように……いや、まだ『そこの件』については揺れに揺れている所を、右京が『ズバ』と言い当ててきたので、流石に顔色を変えてしまい、頬は強ばった。
そして、そんな純一を確かめた右京は、今度は笑っていなかった。
彼も恐ろしいまでの真剣な眼差しを輝かせる。
「少し一般論を脱してしまったかもしれない澤村の『余計なカード』。葉月がどちらの男を選ぶとか……そういう事でない意味で、澤村は送り出した。そして、『空母艦で対面』し、義妹の現恋人が、『心より何を願っているのか』それを悟った目の前の黒猫男は、『共感』してしまったので、葉月を手元にさらう覚悟を決めた──。澤村は判っていたんだ。そして、葉月を信じている。それどころか、恋敵である黒猫のお兄さんの事まで! そして、黒猫のお兄さんは、その共感した事を只今、実行中──」
「!」
「だろうと思って……俺は、澤村が葉月と別居する事を許したし、葉月にも『行く覚悟があるなら、行け』と、青い指輪を握らせたんだからな。その問題に目線が行き過ぎて、妊娠という点を見逃してしまった事は、俺も認めよう?」
「やはり……お前には、適わないな……」
純一は、降参し、ほうっと一息吐いて、力を抜く。
ワイシャツの襟周りがじっとりと汗で湿った感触があったので、少しだけ──黒いネクタイを緩めた。
「実際に、澤村がどのような理論でここまで決したかは……俺にも判らない。ただ、最終的に出した答が、『もう、黒猫の兄貴以外は駄目だ』と思ったのだろう。その点は、どちらに転ぼうとも、いつまでも一人の会えない男に対して彷徨っている葉月にも決着をつけるチャンスだと、一時の覚悟でも手放したのは潔しと思ったが──」
「思ったが?」
「参ったよ──午前中に澤村が連絡してきて、あいつ……俺に平謝りしてさ……」
「なんの? 平謝りだ……」
どちらかというと、今の葉月を挟んだ関係の中で、純一は『隼人には落ち度はない』と思っている。
全ては、『駄目な事、駄目な事と分かっているが断ち切れないまま』の状態を、十何年も決着をつけようとせずに放置した誰よりも大人であるはずの『自分』、純一自身が一番、悪いと思っている。
「──彼女が妊娠している可能性があるという自覚をすっかり忘れた状態で、彼女に『裏切り』を勧め汚名を着せたのは自分だってね」
「!」
『男として、彼女が万が一、避妊をしていない可能性がある上での交渉をしてるならば、常にその可能性について念頭に置いておくべきだったと僕は思うけどね。それなら手放すはずはないと思う』
昨日、後輩の『若槻』が、手厳しく隼人を批判していたが──向こうの『僕』はとっくにその『過ち』に自分で気が付いている事に、純一は驚かされた。
「もう、自分に出来る事も──少ないけど、彼女の為に、もう一度、向き合って謝る事だけはしたいとね……」
「確かに──妊娠していたかも知れないという自覚の点で言えば、そうなるのだろうが、しかし──あの子は……それ以上に、今ある、いや、前からある葉月の為だけを思って……」
「純一、お前、やっぱりな……」
「!」
また右京が……今度は同情めいたではなく、純一を憂う眼差しで瞳に影を落としたので、またドキリと固まってしまった。
「なぁ……純一」
「な、なんだ」
「いや……そうだな。澤村と会えば、また、色々と分かり合えるだろう。今度が『本当の対面』になると思うね。格好つけは、もうお互いに無しにしておけよ」
そして、何故か右京は……純一を見ている風でもなく、宙に視線を馳せ、慈悲深い微笑みを浮かべたのだ。
彼がワインを飲み干す。
その姿が美しく見えるのは何故なのだろう?
そして、彼はいつものように呟いた。
『誰が決した事も──間違っていないさ』
彼はいつもそう言う。
人は間違うという事に恐怖を抱き。
そして、間違わない為に必死になる。
だが、間違わない人間はいない。
だからこそ、だからこそ、誰も責められない。
そして──間違わなければ、得られない物、理解出来ない物もある……。
なのに、間違う事で、人は傷つけられ、傷つけてしまう。
そこで回り続ける『罪と懺悔と憎しみと影の輪廻』
世の中の混沌を、赤い液体に写し、彼はそれを飲み干したかのような満足げな微笑みを浮かべていた。
この後、右京とは、今ロイとの間で『愛人』を挟んで一悶着あった事と、葉月の両親がどうしているかを報告し合って、別れた。
右京は、『オチビに身体を第一にと言い聞かせておいてくれ』と……それだけの伝言だった。
彼は咎めない。本当は誰よりも可愛がっている従妹を、笑顔で送り出そうとしている。
だが、純一は、なんだかそんな従兄のあっさりとしている様子が余計に釈然とせず、それでも凛と背筋を伸ばして去って行こうとする栗毛の貴公子の姿を見送った。
・・・◇・◇・◇・・・
それは土曜日の朝になる。
純一は腕時計を眺めながら、寝室のソファーで新聞を広げて『待っている』のだが……。
まだ、葉月が支度を済ませて出てくる気配がない。
諦めて、まだそんな急ぐ時間でもないかと、窓辺に視線を置いた。
雨模様だった天気は回復し、この日は再び、快晴になる。
空は澄み切った濃い空色、木立の向こうの湖は日差しに波間を輝かせ、そして霊峰富士は冠雪にて優雅なたたずまいを悠然と見せてくれている。
その景色に、気持ちをなだめられるように……暫し、活字から離れて、無心になってみた。
その途端だった。
「お兄ちゃま? ねぇ……どっちが良いかしら〜」
待っていた彼女『葉月』が、パウダールームからやっと顔を出したのだ。
彼女は水色のコートとグレーのコートを手にしていた。
「そうだな……」
「こっち?」
彼女は今日は小さなパールビーズで縁取りされている水色のニットワンピースを選んだようだった。
そんな義妹の選んだ服装と、昨日の彼女の従兄・右京の服装が重なり──。
「あまり同じ色でまとめてもな……ベーシックにグレーにしたらどうだ? 水色が映えると思うがね」
「解ったわ♪」
葉月は妙にご機嫌で……また奥に戻っていった。
「……」
ふと、昨夜から──義妹の様子が変わったような気がしているのだが、『気のせいだろうか?』と純一は首を傾げてみる。
そう……勘違いかもしれないが、あの『アヴェマリア』の演奏を聴いて、その後からと言う気がするのだ。
昨夜はお互いに早めに床についた。
『明日は、東京に診察に行く事──分かっているな』
『ええ、分かっているわよ。お兄ちゃまとまた、ドライブね!』
徐々に追いつめられたような顔をしていた義妹が、妙な清々しさを感じさせる表情を見せるようになったのだ。
その時点で、純一は『おや?』とは思ったのだが、義妹は『眠い』と言って、すぐに寝付いた。
そして、今──朝。
彼女は、純一と『お出かけ』と言う事で張り切ってくれているのかどうかは判りかねるが、『ご機嫌』と例えるよりかは『気分爽快』と例えたくなる清々しさなのだ。
着替えていたし、コートも選んだはずなのに? そして、また十分程、葉月は籠もって出てこない。
着替え終わったので、開放感が出来たのか、今度は扉が開けたままだった。
それに気が付いて、純一もソファーを離れて、覗き込むと──。
「まだ、大丈夫でしょう? ちょっと待ってね。兄様──」
「珍しいじゃないか?」
「そう? 気分よ、気分」
「気まぐれなお前らしいな……」
そう、葉月が化粧をしているのだ。
『気まぐれ』とは、言ってみたのだが──義兄の自分からみると、義妹の『気まぐれ』には、なんだか『暗示』がいつも込められているような気がして仕方がないのだ。
彼女が『滅多にない事』を『しよう』としている時、彼女は無意識でも、何かを示している『サイン』である事があったりするので、気にしてしまうのだろうか?
ドレッサーに真剣に向かっている葉月が──本当は使い慣れているかのように、大きな筆でサッと頬骨の下にピーチ色のチークを軽やかに乗せた。
ぽっと、彼女の頬が華やいだので、純一は内心ハッと心を掴まれたように、暫し、言葉を失ったのだが──。
「お前は、そんな化粧なんてしなくても充分だ」
「普段の方が『可愛い』って、言ってくれるの?」
「……」
鏡に映っている純一をサッと見た葉月と視線が合う。
そして鏡に映っている葉月は、なんだか悪戯めいた微笑みを、見透かしたように……いや、義兄をからかう事を楽しんでいるように、小悪魔な微笑みを浮かべたのだ。
そして、純一は……毎度の如く、シラッとした表情を保とうとした。
「そんな見慣れない顔つきなんか、見ているこっちの方が違和感いっぱいに、不安になるってだけだ。どうせゴーストかゾンビみたいになるんだろ。やめておけ」
「ふふ──じゃあ、そっちの方が楽しいから、お兄ちゃまを不安にさせてあげる! もう、私の顔を違和感いっぱいにジロジロ見てくれるかもしれない兄様も面白いし、もう、目のやり場がなくて、私を見る度に、おろおろする兄様も面白そう!」
「勝手にしろ」
「うふふ」
いや『可愛い』とか『はっとさせられた』とか、素直に言うか、それに値する反応を見せれば良いではないかと、純一は思うのだが。
そこで──再び、ソファーに戻りながら、純一は違う意味ではっとした。
『元の俺っぽいじゃないか?』
と……昨日までは、『綺麗だ』とかなんだとか、結構、今まで以上に平気で葉月に言っていた気がするのだが?
葉月もそうだ。
急に、純一をちょっと困らせても楽しませてくれる『生意気オチビ』に戻った気がして?
「……うぅん?」
そう、いつのまにか以前の大半を占めていた『義兄とオチビちゃん』のテンポに戻っている気がしたのだ。
そう言えば──こんな風に感じて、急に純一は思いついたのだが『いつからだ?』とここ数日を振り返る。
なんだか、昨日まで? 違う女性と過ごしていたような? そんな感触に一瞬陥ったのだ。
だからといって、心の中にも、手の平にも『女でもある義妹』という、今まで通りの基点の上での満足感ある感触も残っているのに?
そうして、ソファーに戻って座りこみ、両手の平を広げて見下ろし、首を傾げていると──。
「兄様──」
それなりの化粧を済ませた葉月が、日差しが差し込む中、キラリとガラス玉の瞳を輝かせ、純一を目の前に見下ろしていた。
化粧は、そんなに濃くは仕上げていなかった。
いつものナチュラルな化粧に、少しだけ彩りを添えただけ……といった風。
それでも、ちょっと伏せた眼差しが見せる瞼に輝くラメ粉の煌めきと、ピンと目元を際だたせる輝くまつげが、義妹をさり気なく華やがせたのは、否定出来なかった。
「ま……たまには“背伸びのオチビ”も鑑賞する価値ありかもな」
昨日だったら『うん、綺麗だ』と、一言──言っていたかもしれないのに。
以前通りの皮肉った『一応、純一流の褒め言葉』が出ていたのだ。
だけど──そこも、葉月は分かり切ったように、ニコリと素直に微笑みを広げた。
「お兄ちゃまっ」
「……重いだろうっ」
そんな皮肉でも、葉月にとっては『綺麗だ』と言ってもらった事と『一緒』の意味を成しているのだ。
だから──彼女は、嬉しそうに純一の膝の上に乗って、首に飛びつくように抱きついてきた。
そこで──暫く、純一を嬉しそうに抱きしめてくれる小さな葉月を、そっと両腕で包み込む。
モヘアの柔らかい毛羽立ちがある水色のニット……まるで、小動物の毛並みを連想させる。
そう、純一の『蒼い猫姫』。
その柔らかい身体を、潰さないように……そっと背中を撫でるように抱きしめた。
すると、膝の上で……子供のように、葉月がはしゃぐかと思ったら。
彼女は、純一の首に抱きついたまま……純一の首もとで、なんだか熱い吐息の呼吸をしているかのように、息を整えているように感じた。
その息づかいが──純一の胸を急に掻き乱すような? 女性的な息づかいだと気がつく。
そして、また……昨日まで、純一を捕らえていた『感触』が取り巻いてきたような気がした。
それを初めて『自覚』した瞬間だった。
「兄様も、忘れないで──」
「? なんだ……?」
純一の首元で──そんな悩ましい呼吸を整えていた葉月の熱い息が耳をくすぐった。
そして、葉月は純一の膝の上に、横座りになったまま、ジッと純一を直ぐ目の前で、真剣に見つめてきたのだ。
それは、また『女の顔』だった。
そう、また『女神的な』顔をしていたので、純一は呪文にかけられたように、そのまま黙って女に変化した義妹を見つめ返した。
「あのね……男とか義理兄とか、そういう事、全部ひっくるめて義兄様が好き」
「そうか? ありがとうよ」
それは素直に微笑み、呟いたのだが──葉月は益々真剣みを帯びた、むしろ厳しい顔になったのだ。
「本当に忘れないで──。兄様……私がいるって忘れないで……」
「どうした……急に」
そして、今度の葉月の顔は……感極まったように泣きそうな表情に崩れ、瞳が急に潤んだのだ。
「兄様は──独りぼっちじゃないわ。兄様がどんな男性であっても……『愛している』と忘れないで……」
「……葉月」
「それと同じように、私も、兄様がいるから独りぼっちじゃないって、ずっと思ってきたの。兄様は、いつだって『最後の一人』だったわ。だから、私も……兄様の最後の一人なの」
「……」
「独りぼっちじゃないって……忘れないで……」
「ああ、忘れない。俺にはお前がいる」
純一はそっと微笑んだ。
いや、微笑むのに精一杯だったかも知れない。
正直──もの凄く感動している自分がいて、戸惑った。
なんとなく──救われると言うのだろうか?
「俺も──お前を愛しているよ」
初めて……素直に笑顔で葉月にそう言って、その頼りなげな柔らかい身体を喜びいっぱいに抱きしめている気がした。
ベッドで情熱的に抱き合う、奪い合うのとは……もっと違う満たされようだった。
「忘れないでね……」
目尻に少しだけ涙の雫をつけた葉月の顔は、またとても美しく見えた。
彼女も充分に満たされている事を、純一は確かめて、また──彼女を気持ちいっぱいに抱きしめた。
彼女が笑ってくれた。
昨日、あんな事を言ったから──葉月が笑ってくれたのだと……。
純一はそう思っていた。
ひとしきり安らかな寄り添いの時間を過ごし、二人はエドを伴って東京へと出発した。
・・・◇・◇・◇・・・
快晴の青い空──所々浮かぶ白い雲、そして……エドが運転する黒いベンツが快走する東名高速道路の景色は、冠雪の富士がついてくる。
葉月は、それをジッと窓を透かして、隙間から覗いた。
「お前、高速道路で窓を開けるな。排気ガスなどで、良くない空気が入ってくるだろ」
隣に座っている義兄が、呆れたように渋い顔で呟いた。
長い足を組んで……なんだか手帳を覗き込んでいたのだが。
「だって、せっかく綺麗な色合いの景色なのに、なぁに? この車の窓の色、色ガラス入れちゃって──」
「眩しい日差しが好きではないんでね」
「ふーん」
素っ気なく手帳を眺めている義兄は、いつも『オチビは邪魔するな』という──集中している時の冷たいお兄さんだったので、葉月はバタバタとした音を出している窓を閉めた。
「昔もそうだ。お前は高速道路を走ると、すぐに窓を開けたがる」
「なに。子供の時と変わらないって言いたいの?」
「ああ、その通り」
またもや素っ気ないオチビ扱いに、葉月はちょっと唇を尖らせた。
仕方なく前を向くと……フロントミラーで、エドが笑いをこらえていそうな微笑みの眼差しと目が合う。
彼は葉月と目が合うと、ニコリとした視線を返しただけで、あとは、真顔の運転に戻った。
薄茶色っぽいガラスに美しい色彩を濁らせた景色を、葉月が不満そうに眺めていると、その内に、義兄が手帳を閉じた音。
葉月が振り返ると、彼は足を組んで頬杖──ジッと薄茶色の景色をジッと見上げている。
景色を見ているというよりかは、何かを思っているという仕草と表情だった。
「……兄様。あの……」
「なんだ? もしかして、気分が悪いのか? だったら、直ぐに言え。パーキングエリアでこまめに休憩を取ろう」
「そうですよ、お嬢様」
二人の男性が、急に顔色を変えたので、葉月はおじけずいた。
勿論、胸焼けはするし、それとない吐き気はあるが、時折やってくる強い吐き気は、食後などが多い。
今は、エドが用意してくれたミントキャンディーをなめたり、レモン飲料を口に含めば、なんとなく気分は紛れている。
「違うけど……」
「ではなんだ?」
質問しようとした事を思うと、葉月はちょっと声をすぼめた。
だけど、気分不快ではないと判った途端に、これまた男二人のホッとした息づかいが伝わってくる。
エドは運転に集中、だけど、義兄の関心は、『物思い』ではなく『義妹』から離れなくなる。
別の事を、葉月は言い出していた。
だが、それも近いうちに言おうと、昨晩、決めた大切な事のひとつではあった。
「兄様……イタリアに行く前に、せめて、ロイ兄様にだけでもきちんと挨拶をしたいの」
「分かっている。それも念頭にいれている」
「ちゃんと──正式に退職をするわ」
「……そうだな」
彼の返答は、即答ではなく、何か含むような間を置いた返答だった。
「私、退職する……」
葉月は窓辺に額をつけて、少し小さく呟く。
イタリアへ行くなら、そうせねばならない。
飛び出してきて、一週間──もう、職場をこれ以上放棄は出来ないだろう。
せめて、上官と話すと言う段取りは取らねばならない。
でも、今度の義兄は──とりあえずといったような微笑みを浮かべただけだった。
それもなんだか、彼に『葉月がまだ知り得ていない何かを』見透かされているような気がしたが、葉月は『見透かされても構わない』と思ったから、たった今、思っている事は真っ直ぐに言い放っていた。
私が飛び出して……確実に感じた真実は『この人を愛している』だった。
先にした事がどうだとか、これから後、どうすべきか──なんて、そんな事以前に『それ』だった。
それを……何故か、『隼人に伝えたい』と思っている自分がいた。
彼が送り出してくれて、得た事を。
それを上手く伝えられるかは分からない。
だけど──きっと彼も『こんな答え』を待っている気がしたのだ。
そして……それが彼にとっては『酷』な解答でも、彼が期待する答でなくても。
『こういう答を得て欲しい』という形は間違っていないだろうと葉月は……瞼をふせる。
やはり……涙は出てきそうだった。
彼と私の『意味』を葉月は思う。
その『意味』は形になろうとしている。
葉月はお腹をさする。
その『意味』だって……。
──『彼に伝えたい』──
葉月の胸の中で、熱く膨れあがる想い。
それもきっと『真実』──。
そんな葉月の想いを乗せて走る車は……あっと言う間に東京に着いた。
少し混雑する一般路を、エドは、慣れたようなハンドルさばきで、葉月が予想していた以上に、短時間で目的の『私立病院』についたようだった。
「ここ?」
病院の一般駐車場に車を停めた。
純一が、葉月に答えるまでもなく、なんだか落ち着かない様子でドアを開けて外に出てしまった。
そして……エドも……。
それにつられるように、葉月もドアを開けて、外に出てみる。
黄色く色づいた銀杏並木に囲まれた駐車場は、とても広かった。
でも──やっと一台停められたという程、沢山の車が出入りしているようだった。
そんな中、やっと美味しい外の空気を吸えたとホッとしているのも束の間で、エドを置いてまで、義兄は自らうろうろと歩き出し、あたりを見渡していたのだ。
「お嬢様、ご気分は大丈夫ですか? 宜しかったらこれを……」
「あ、有り難う。エド──」
そんな落ち着かない義兄を気にする葉月の気を逸らすかのように、エドは助手席に用意していたクーラーボックスから、冷えたミネラルウォーターを差し出してくれた。
ヒーターが効いていた車内で、悶々と考えてばかりいたので、やや汗ばんでいた葉月には、その冷たそうな雫をつけているボトルがとても美味しそうに見えて、思わず操られたように手にした……時だった。
『若槻──こっちだ』
「?」
義兄が……停めている列の二列程先を狙うように、手を挙げたのだ。
(なぜ? 若槻さんが──?)
ペットボトルを受け取る葉月の横で……今度はエドが落ち着きをなくしたような、ほんの僅か彼の息づかいが止まった気がして、葉月はその方向に気を取られる。
「!」
『ああ、早かったですね。もう少し時間がかかるかと思っていたのに……』
『いや、エドが来慣れている所みたいでね』
『そうか、なるほどね!』
義兄とその後輩が合流し、先日見たように……和気あいあいの挨拶を交わしているその後ろ。
「──隼人さん」
『……』
向こうも、目の前で交わされている挨拶など、それどころではないように……こちらをすぐさま見据えてきた。
若槻の後ろに──彼より背が高い、眼鏡をかけた、紺色の軍コートを羽織っている黒髪の男性が『私』をまっすぐに見つめていた。
彼の眼差しは、やはり痛かった。
とても哀しそうで、そして……遠くでもなんだか静かに燃えているように見えた。
その彼が義兄と並んでいる光景に、葉月は頭が真っ白になる。
だけど、二人はお互いに言葉を交わすわけでもなく、二人揃って葉月を見たのだ──。
そして、若槻がそっと……隼人の背を押した。
それを弾みにするように、彼が……隼人が紺色の軍コートの裾をなびかせて……『走ってきた』のだ!
葉月の横から、エドがサッと退く。
『葉月──』
何故? あんなに哀しい目をしていたのに……葉月に向かってくる隼人は、葉月がよく知っているあの優しい笑顔を輝かせてくる。
彼の口元が、そんな風に囁いているのが、ここからでも判る。
そして、葉月は自然と涙を浮かべていた。
「葉月……」
「どうして……?」
「どうしてだろう……?」
目の前まできて、葉月にあの微笑みを降り注ぐ、隼人が笑っていた。
そこで──葉月はなんだか、どうしようもなく涙を流してしまっていた。
二人の間を、黄色の銀杏葉が、木枯らしに乗って通り抜けていく──。