食器を洗い終えると、チーフであるエドに『もう離れで休んでいて良いぞ』と言われ、アリスはたった小一時間だけしか本棟にいる事が出来なかった。
本当はもっと本棟にいて、純一と彼女の様子を見てみたい気持ちもあるが……もう、今夜はこれ以上は気分的に無理そうだから、素直に離れに戻ってきた。
ぐったりと、小さなダイニングテーブルの椅子にアリスは座りこむ。
そして、栗毛の彼女が、二階に上がって暫くすると、微かにヴァイオリンの音が……一階にも流れてきた事を思いだしていた。
「さっき……彼女が手にしていたケースはヴァイオリンだったの?」
聞こえてきた音質に驚いて、アリスは黙っていられなく、側にいるエドに尋ねてみる。
「……ああ、元々、あちらの方が──」
しかし、エドは何故かそこで口ごもった。
すると、エドの隣でエスプレッソを自ら入れているジュールが、サッと横顔のまま口を開いた。
「元々は、音楽家志望だったが──事情があって、断念されたんだ。その後、彼女が選んだ道が『パイロット』だ」
「元は音楽家志望?」
アリスは、パイロットである彼女が、そんな才能を元は持っていた事に驚かされたが……だが──聞こえてくる音は、ヴァイオリンを弾き慣れた洗練された音だったから納得せざるを得なかった。
「あの……ボスが彼女にヴァイオリンを……?」
「そうだ。ああ、エド──悪いが先に一息つかせてもらう」
「どうぞ。お構いなく──」
怖々と尋ねたアリスに対し、ジュールは素っ気なく答えると、カップ片手にリビングのソファーへと去っていってしまった。
「アリス──ここを片づけてくれるか」
「え、ええ……」
彼女と純一が食事をした後のテーブルを片づけて来たエドに、食器洗いを命じられる。
ジュールは、ソファーで休憩中。
いつもの白い質素なデミタスカップでエスプレッソを味わいながら……彼もヴァイオリンの音に反応し、振り返った。
「変わらないな──」
「ああ、変わらない」
ジュールの一言に、エドも同じ一言。
男二人のいつもの静かな表情も変わらないが、唇の端が二人とも穏やかだった……。
まるで──二人きりの時間を堪能しているボスを祝福しているかのように、アリスには見える。
そんな二人だから、今までアリスを女性として側にいる事を認めてくれたなかったのだろうか?
彼等は、ボスの本心を知っていたから──身体で体当たりして、なんとか純一の側にいる事に成功した女を認められなかったのだろうか?
そう思えてきた。
アリスは、そんな今までの自分を自分で戒めるように、無言で彼女が食べた後の食器を洗う。
ヴァイオリンの音なんて、アリスには聞こえない。
いいや、聞こえているけど……聞きたくないから、聞こえないふり。
宝石でもない。
ヴァイオリン──それを彼女にプレゼントしたという純一。
宝石など……どの女にも贈れる物。
だけど──彼女にはヴァイオリン。
彼女だけに贈れる物。
彼女だから贈れる物。
純一がそれを彼女の為にそれを選らび、その音を愛している事が──アリスにも通じた。
もう何年も、何年も──彼はあの音を愛していた事。
アリスは考えつく事もできなかったし、彼から教えてもらう事もなかった。
それが──急に悲しくなってきた。
たとえ、『贅沢ばかりじゃない』とアリスは気が付けていても、結局……純一から『贅沢』をもらっていた。
『これはアリスだけに贈れる物』──なんて、そんな物、一つもなかった。
アリスは──そんな自分自身に対して、急に悲しくなったのだ。
ついこの間までは、素敵なご主人様と優雅に、溜め息が出る程の贅沢なスイートルームでゆったりしていたのはこの愛人である自分だった。
アリスが自分自身で言い出した覚悟だから、まるで立ち位置が入れ替わったように、こうして部下と同じ生活をしている事に関しては惨めには思っていない。
惨めには思っていないが、そういう煌びやかな生活が『当たり前になっていた』事に気が付かなかった自分の鈍さを……痛切に感じていた。
アリスは……先日、小笠原のハーバーでジュールと一人で帰ってきたエドと共に、純一が戻ってくるのを待っていた時の事を思いだしていた。
そこで初めて見た彼女の事を思い出す。
まるで──『若い青年のよう』と思ったのがアリスの第一印象だった。
立派な肩章と、立派なカラーバッジを胸に付けている威風堂々とした白い軍服。
そして、化粧っけのない──涼やかな顔つき。
そして、ほっそりとした……女性の曲線を感じさせない体つき。
どれもアリスとは正反対だった。
髪型にも気遣い、化粧も気合いを入れ、純一に買ってもらったお気に入りの上等お洒落なスーツを着込んできた自分がバカに思える程──。
彼女は質素で、シンプル。
なのに──? 見れば見る程? 訳の分からないじんわりした『色気』がアリスにも感じ取る事が出来たのだ。
そのかっちりとした上着に、制服に、『女』を隠しているかのようだった。
(あの坊やにも似ているわ)
パパにそっくりだったあの少年──でも、やはりこちらの女性にも面影が重なった。
それがアリスには『妙に』ショックだった。
純一と彼女──彼女はあの子の母親ではないけど……でも、二人とあの子は血で繋がっているという紛れもない『絆』というのだろうか?
そういう動かす事も壊す事も出来ない事実を目の当たりにした気がしたのだ。
そして──その質素な女性を連れてきた純一は、大事そうに……大事そうに彼女を胸に付けて、肩を抱き寄せ離そうとしなかった。
何故だろう?
彼女のように、女性の華やかさを感じさせない女性だと確認出来たのなら……以前のアリスなら堂々と、愛人であっても純一の側にいる事が出来た女性として胸張って対決していたはずだ。
今までも──純一と出かけた先で、彼に猛烈なアピールをする女性には何度も会ってきたが、アリスは自分が持っている『自信』で全てやりのけてきた。
それを……今回も、いざとなったら、ジュールやエド、そして純一に叱られても止められても『やってやる覚悟』だったのだ。
だけど……どうして?
彼女を見た途端に……いつもなら『敵じゃないわ』と堂々としていた自分が出てこない!?
先程まで、空で何かを賭けていた人が……アリスを震わせた女性が……もっと厳ついパイロットかと思えば……。
本当に純一が言う通りに、あれだけの飛行をやってのけた人間にしては、女性に見えなくとも『儚い少年』のようにも見えるのだ。
まったく──予想外の風貌。
そして──あれだけのことをやってのけた『大佐嬢』。
そして──そんな彼女は、アリスと同じく若かった。
純一と並んでいると、確かに多少、年の差を感じさせるぐらいの若さはあるが、とても大人しく、落ち着いていて、それでいて、どことなくジュールに似た凛とした優雅さも感じ取れる?
それで、アリスは『やってやる』という『賭け』に出る事が出来なくなってしまったのだ。
だから……とりあえずの対処法である『部下に化ける』という手が自然に出さざる得なかったのだ。
そして……本島に着くと、純一はエドを伴って、彼女を何処かに連れて行った。
アリスとジュールは、まだ純一には報告はしていないが、房総の部屋を引き払う為に、そこで別行動になった。
『お前、着替えた方がいいな。そういう服がなければ、買うか?』
『分かっているわ。それに大丈夫。それなりに持っているから』
ジュールも気が付いていたようだが、アリスも分かっていたので、荷物をまとめ、豪勢で大振りの宝飾品と華美な服は全てトランクに封印した。
そして質素なジャケットとスカートとブラウスに着替え、アクセサリーはオフィス向きになるだろう小ぶりの物に変えた。
が……やはり、それは数少ない。
長期滞在の旅行と分かって、沢山の洋服を揃えてきていたが、こうして見渡すと『勝負服』ばかり──。
『俺が必要だと思ったら、揃えよう。あまり“着たきり”部下ではボスも許すまい──。きっちり隙がないオフィス向きのたしなみが必要になるだろう』
『分かったわ。そうなったら遠慮なく、頼るから』
まさか──こういう服を自分が着るようになるとは……本当に予想外だった。
『俺の側にいる女は一流でないと困る』──という純一の為に磨いてきた事なのに、義妹と対するには何の意味もなかったようにアリスには思えてしまった。
そしてジュールに箱根に再び連れられ、ボスに報告するという時を待っていたのだ。
二日も待たされたのも……これまた予想外。
それほど──二人が密着しているのかと考えられたが……もう、遅い──止められない、どうにも出来ない。
アリスにはそれを見届ける事しか出来なかった。
悲しい胸の痛みは、たくさん襲ってくる。
だけど、今はそれに巻き込まれるわけにはいかないから……捕らわれるわけにはいかないから……感じないように努めている。
まだ、アリスは自分なりの答えも見つけていないし、納得出来る何かを掴んでいない。
ただ……やっぱり、ご主人様を失いたくなかった。
彼といた優しくてキラキラしていた日々が、懐かしくて……もう、それと別れなくてはいけないだなんて、諦めてもいない。
だから──その為にも、ここは堪えなくてはいけないのだ。
「──流石に疲れたわ」
一人きりの離れ屋。
薄明るいリビングの照明の中、テーブルから少し離れたソファーへと移動し、そこで横になった。
その内にまどろんでしまっていたようだった。
『こら──アリス、風邪をひくぞ。部屋に戻れ』
『──しかたがない。気疲れをしているのだろう。暖房をつけたまま、毛布でもかけておけ』
そんな彼等の声が途中でしたのだが、アリスは動く事も出来ず、目も開けられそうになかった……。
風の音──小鳥の声。
それで、目が覚める。
そしてアリスは初めてあれからソファーで寝入ってしまった事に気が付く。
おもむろに起きあがると、分厚い毛布が掛けられていて、部屋はやや暑かった。
「……あの」
起きあがると目の前の仕事場になっているダイニングテーブルには、いつものように徹夜をしたかのようなジュールが、書類とにらめっこをしていた。
「起きたのか。まだ──朝の五時半だ。部屋でもう一寝入りしたらどうだ?」
煙草をくわえて、書類を一人で整理しているジュールは、アリスには視線を向けずに、そう一言。
「ふわー、今朝も冷え込むな〜」
今度はリビングの入り口に、エドが現れた。
「ジュール、交代だ。朝食まで少し寝ろよ」
「ああ、そうする」
いつものやりとりの様だった。
「アリス……起きたのか。お前も朝食まで寝ていたらどうだ」
「うん……メルシー」
二人の『下っ端部下』になったとはいえ、家事に関しては、隠れ家で暮らしていた時と変わらない。
変わったのは純一の側にいられなくなった事と、彼の前に出る時の接し方が変わったぐらいで、先輩の彼等にはまだそれ程厳しい事は押しつけられていない。
昨夜から、本棟の出入りを許されたのだから、今日もジュールにどうのような用事を頼まれ、隣に出入りするようになるか分からない。
その時は、彼女に会うだろうし、純一が彼女をどれだけ愛しているかも目の当たりにするかもしれない。
その時、れっきとした自分でいる為にも、もう少し休んでおきたくて、アリスは素直にソファーから降りて、奥にある個室へ向かおうとした。
その時だった。
『チャオ──!』
外からそんな威勢良い女性の声。
しかもチャイムを激しく鳴らす音がリビングに響いた。
ジュールが顔をしかめ、エドは眉をひそめ警戒し出す。
「ああ、とうとう来たか。エド、ここへ迎えてくれ」
「ああ……もしかして、彼女?」
「──だろうな? こんな朝早く、押しかけてくるのはな。せっかちというか、時間に忙しい女だ」
『ジュール! 起きているんでしょ! アンタが寝る前にわざわざ来たんだからね!!』
その声を聞いて、アリスはサッと青ざめた。
聞き覚えのある声だったのだ!
「ジュ、ジュール!? な、なんで? 彼女が日本にいるの!?」
「俺が仕事を頼んだからだ」
「頼んだって!?」
「頼んだから、頼んだんだ。なにか都合悪いのか?」
判っているだろうに! ジュールは冷めた目つきをアリスに投げかけ、サッと逸らし煙草を灰皿にもみ消した。
エドが玄関まで迎えに行った。
『ハァイ、エド!』
『ハァイ──ジュールも待っていたみたいだぜ』
『へぇ! 待っていてくれたの?』
彼女の威勢良い声が徐々にこちらに近づいてきて、アリスは一人おろおろ……リビングを出たいのだが、その出口が入り口で彼女と鉢あってしまう事になる!
そんな内に……彼女がエドと笑顔を交わし合いながらリビングに入ってきてしまった!
「ハァイ! ジュール!」
「ハァイ」
元気で輝く笑顔の彼女は、真っ先にジュールに駆け寄る。
だが、ジュールは挨拶はしたものの、いつもの素っ気なさで、彼女の押しかけるような勢いもなんのその、書類しか見ていないのだ。
「相変わらず、素っ気ないのね」
騒々しくやってきた彼女は……ショートボブの栗毛で青い瞳。
今日は黒いボディコンシャスなスーツに身を包んで、シックな装い……その格好で、ジュールの直ぐ側、テーブルの縁に大胆に足を組んで座りこんだかと思うと、ジュールが手にしている書類をサッと取り上げたのだ。
「お前、何処に行っていたんだ」
ジュールが呆れた溜め息を落とし、やっと側で足を組んでいる彼女を見上げた。
「フフ、せっかく日本に来たんだもの。色々とね──それに〜そっちも忙しそうだったみたいだし?」
「確かに──。それで請求に来たのか?」
「あったり前でしょ! アンタの依頼の為に、『クロウズ』の会社から運搬用の小型ジェット機を一機、購入してしまったんだからね!」
「そうか、悪かったな」
「そう思うなら──弾んでよね」
「解っているよ」
「あ、でも。クロウズったら、依頼が依頼だから、かなり『まけてくれた』事は言っておくわ。それも最新型のジェットで乗り心地も操縦具合もばっちりだったのよ! お買い得だったかも」
「はは! なるほど。しかし出費は出費だったな」
彼女のとぼけたような一言に、あのジュールが面白そうに笑って、席をたった。
その時──。
「あらぁ? 子猫がいるじゃないの──」
来るなりジュールしか目に入っていなかったような彼女が、やっとアリスがいる事に気が付いたようで、もの凄く小馬鹿にした目線を向けてきたのだ。
アリスはビクッと固まった。
彼女──彼女は妙に彼等と親しい。
もっと言うと、唯一純一が仕事でもプライベートでもジュールやエド同様に、親しく信頼している『女性』だった。
彼女がこうしてお構いなしにファミリーの中にずかずか入り込んでこれる事が、アリスには一番気にくわない事。
当然──アリスも負けていなかった。
今までの『やってのける』という自信で、彼女を邪険にしてきた。
『いい加減にしろ。彼女と俺は仕事の関係で出かけるんだ』
アリスが拗ねると、純一はいつもそう言う。
確かに──アリスが側にいる現在は、『仕事仲間』の様だった。
だけど──アリスの勘は『大当たり』だった。
『ジュンの事、ひとつも解っていない子猫のくせに。言っておくけど、ジュンの大切な想い人である“日本の彼女”以外に“彼とネられた女は自分だけ”と思っているでしょ。大間違いだわね〜。私、知っているわよ? 彼のベッドでの癖……』
その時、彼女が口走った事が……『正解』だったのでアリスは愕然とした事がある。
純一に追求すると──。
『なんの事だ? ナタリーのでまかせだ』
なんてとぼけたようだが、アリスの勘では『絶対過去に一時でも付き合っていた』と確信!
だけど──彼女だけが勝ち取っている彼女だけの純一が確かに存在していた。
彼女の名は『ナタリー』……業界では『夏の蝶──レテ・パピヨン』と呼ばれてるらしい。
それもその『夏の蝶』というネーミングは、純一がフランスで事業をしていた頃に名付けたらしいのだ。
さらに、彼女はヨーロッパでの『運輸業の女王』と言われているらしい。
彼女に頼めば、確実に迅速に──表から闇から駆け回ってくれるらしいから、黒猫達も彼女を頼らざる得ない時があるようだ。
さらに──!
『私って、元黒猫部員だったのよね〜。それをジュンが名付けて卒業独立させてくれた唯一の部員って事なの。私は彼等と同居はしていないけど、ファミリー同然なの。わかる? その意味』
彼女が勝ち誇ったニッコリ笑顔で言い放った『その意味』。
その意味はアリスには関心がなく、無意味だったから考えた事もないし、アリスはアリスのやり方で彼女に対抗してきたつもりなのに、彼女は毎度、痛くもかゆくもない様子で、純一の信頼の元、親しくしているのだ。
純一だけでなく、ジュールもだった。
純一とは男女間の危うい関係もちらつかせながらも、男女以上の信頼を結んでいる様子がうかがえたが、ジュールと彼女に至っては『絶対的信頼関係』というのを垣間見る事がある。
彼女があんな風にぎゃあぎゃあ騒々しくまくし立てても、ジュールは素っ気ない顔をしても邪険にしているのをみた事がない。
『アンタはね。男と女をなんにも解っていない。私はね、自分で望んだ男とネる時は“私も望んだ”という事を認識する事は不可欠だと思っているの。たった一回でもよ。それをアンタがやっているのは子供の駄々コネじゃない。さっさとジュンを解放してあげなさいよ!』
そう突きつけられた事もあった。
『なによ! ジュンに振られて、それでこの黒猫を追い出されたんでしょ! 慰謝料で事業を始めたわけ!?』
『アンタ、バカじゃないの?』
何を言っても彼女には、冷めた目つきで最後にはいなされていた。
確かに──彼女はエドぐらいの30代の女性で、アリスよりはずっと大人で、アリスから見ても、悔しいくらいに妖艶な女性だった。
『彼とは一時の短い男女だったかもしれないけど、私はジュンという男を素直に受け入れて、別れたからこそ……今の私になったと思っているわ。まぁ、アンタには解らないでしょうけどね。私は──ジュンの心よりの願いが叶う事を、今だって願っているわよ』
そう言った彼女の顔だけは……とても綺麗で、アリスでも魅入ってしまうぐらい大人の女性の顔だった。
彼女が悟りきった『純一との関係』。
そんな事が心の何処かで引っかかりながらも──アリスは無視して来たのだ。
そんな今までを思い返したが、今、目の前で『あら、子猫』といつもの小馬鹿に見下す彼女の目線に、アリスは初めて怖じ気づいていた。
「ああ……彼女、部下になったんだ」
席をたったジュールの一言に、やはりナタリーはもの凄く驚いた顔をしたのだ。
「へぇー? アンタもやるじゃない」
『やるじゃない?』
意外にも感心しているような彼女の視線に、アリスは逆に驚いていた。
「まぁ〜そうするしか、もうジュンの側にはいられないわよね〜。さて……アンタが何処までやり通せるか見物ね」
腕を組んでニヤッと微笑む彼女に、アリスは一瞬ムッとしたのだが。
「頑張りなさいよ。自分で決めたのでしょう」
「ええ、頑張るわよっ」
いつもの調子で、アリスも自信満々取り繕った。
だけど……その時、彼女があまり見せない優しい微笑みを一瞬だけ……アリスに投げかけてくれたようで?
でも、それも一瞬で彼女は、また蝶のようにヒラリと身を翻し、テーブルで小切手を手にしているジュールの元に行ってしまった。
「これで、どうだ?」
「多すぎるわ」
「しかし──結構無理を言ったし、お前、ジェット機を買ったんだろ」
「言ったでしょう? ビルにかなりマケてもらったと。本当に最新式だったのよ。ただし、使い心地の感想を届けてくれと言う、まるで試運転を任されたような条件付きだけどね」
「まぁ……いい。これで、受け取ってくれ。本当に助かったんだ」
「いいから、書き換えてよ。その代わり……」
「なんだ?」
彼女がニコリとジュールに微笑みかけ、その怪しい輝く笑顔でジュールの顔を覗き込んだ。
「新しい事考えているの。一緒にやってみない? それから──もっと大きい仕事を私にちょうだい」
「……そういう事か。解ったいいだろう?」
「本当? 約束よぉ」
「ああ解った、それでもこれも受け取っておけ」
「いいの? 悪いわね。確かに──今回分、受け取ったわ」
彼女の甘えた言い方にも、ジュールはなにも嫌悪感がないようで、二人はいつもああして……なんだか兄妹のように通じ合っているのだ。
ジュールもあのようにビジネスでは厳しいはずなのに、彼女には緩い所がある。
「ああ、そうそう──これ、『クロウズ夫人』から預かったわよ」
ナタリーがアリスをチラリと気にしながら、ジュールに白い封書を渡したのだ。
「そうか、メルシー」
そして……ジュールはまたあまり見せない穏やかで、少し無邪気とも思えるような笑顔を一瞬浮かべ……その封書を受け取ると、サッと急ぐようにリビングを出て行ってしまった。
エドと彼女と……三人になる。
彼女はフッと真顔に戻って、エドに寄っていった。
『彼女、何処まで知っちゃったの?』
『え?』
『色々と話しづらいじゃないの!』
『俺だって一緒だよ。ジュールに任せている』
『ふーん』
そんな二人の英語での会話が聞こえてきた。
(なによ!)
そう……彼女だけは、アリス以上に黒猫達の極秘に通じている。
だから昔から彼女が身近な日常では最大のライバル。
そして、最終的な『強敵』は『義妹』という位置づけで、アリスは一人闘ってきたのだが……。
十分程して、ジュールが戻ってきた。
「ナタリー、ボスに会っていくか?」
「ええ、許してもらえるならね。『お嬢様』もご一緒なのでしょう?」
「ああ……」
「やっと叶ったの。ジュンも素直になれたのね」
「予想以上で俺も驚いているがね」
「あの……私もお会いしていいの? お嬢様に……」
「お前は紹介しておかないといけないだろう? きっとボスもそう言う」
ジュールのその言葉に、アリスはまた打ちのめされた。
どうして? 彼女はアリス以上に許されているのか!?
『わかる? その意味』
そういう事、だったのだろうか? と、あの時は無視してしまい、自分にとっては無意味だった事にアリスは初めて向き合いたくなる気持ちにさせられた。
「お前がアマティを短期間で持ってきてくれたんだから」
「そうだけど……」
何故か、彼女まで……『義妹』に畏れを持っているようで、アリスは流石に眉をひそめた。
「“ばあや”に本当に似てきた。お前もびっくりすると思うぞ」
「そうなの? ママンに似てきたの」
『ばあや、ママン?』──と、アリスは首を傾げた。
だけど……あの妖艶で気丈なナタリーが、まるで少女に戻ったかのように恥じらう笑顔を見せていたので、驚いたのだ。
そんな彼女のあどけないともいえる笑顔を、ジュールまでそっと見守るかのように穏やかに見下ろしているのだ。
ああしていると本当に『兄妹?』と見間違う程……二人は男女の危うさは感じないのに、何処かで強く結ばれている事を感じずにはいられないのだ。
「でも、今日は今からちょっとした仕事の依頼を日本で受けちゃって……一日、ふさがっているのよね〜」
「ああ……そうなのか。だったら──明日でもどうだ? ボスにもそう伝えておく」
「解ったわ。じゃあね。チャオ〜」
「チャオ」
調子よく小切手にキスをしながら上機嫌で去っていく彼女に対し、ジュールはいつもの無表情な固い応答──。
なのに、サッと彼女に親しみある手振りをして見送っているのだ。
(もう〜! 明日も来るわけ? 勘弁してよっっ)
ただでさえ、彼女にだけは見られたくない事をしているのに……!
さらに、またもや彼女だけが許されるという光景を、さらにさらにあの『謎のお嬢様』の前で見させられるのかと思うと、アリスは逃げ出したくなるような衝動に駆られた。
『アンタが何処までやり通せるか見物ね』
彼女のあの挑発的な笑顔がフッと浮かんで、アリスは首を振る。
絶対に……負けるもんか! と──。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
湖沿いの車道に出たナタリーは、木々に囲まれ奥まった土地にひっそりと建っている木造の別荘に振り返る。
「ふふ、ごめんなさいね。ジュール……」
小切手を白い指に挟んでかざし、真っ赤な口紅の唇がニヤリと微笑む。
彼女はそのまま車道を道沿いに歩いた。
暫くすると、湖への散策歩道に降りられる階段がある雑木林に差し掛かる。
「どうだった?」
「ええ、彼女──いたわよ」
「レイも?」
「お嬢様の姿はまだ確認していないけど、ジュールの口振りだと間違いなくジュンの側にいるみたいよ」
その雑木林の小径に隠れるようにいた男性は、赤いバイクにまたがっていた。
ジーンズ姿に茶色の革ジャンを着ている栗毛ですみれ色の瞳の男性。
「ふふ、リッキー? 暫く様子を見た方が良いわよ? あの子猫、自ら『部下』になりすましてでも、ジュンの側にいたいみたい」
「ふーん? 道理で、急に房総のプライベートホテルを引き払ったわけだ」
そう──そこで、私服姿でバイクにまたがっていたのは……リッキーだった。
「案外、あなた達が手を下さなくても……あの子、へたるかもしれないわね」
「へたったままじゃいけないだろう? それではジュン先輩にとっては最悪だ」
「そんなのジュンのせいにはならないわよ。あの子が自ら選んだ『約束なき愛人の立場』を弁えず、諦め悪くしているのが一番いけないのよ」
「まぁ〜そうだけど? しかしロイはあくまでジュン先輩の責任についても放ってはいないんでね」
「でも、ロイ様にとってもジュンの側に子猫がいるのは、ちょっと不都合なのでしょう?」
「そう言う事」
「任せて、暫く都合をつけて、あそこに出入りするから」
「君を見かけて、助かったよ」
「そう思うなら……弾んでよ」
朝靄の中、バイクにまたがっているリッキーにも、ナタリーはニコリと怪しい笑顔を向けながら、手を差し向けた。
「君は本当にちゃっかりしているよ」
「あら? 黒猫びいきとはいえ、そちらも結構なお得意様で今までも色々な無理を聞いてきたわよ? 私」
「そうだった」
リッキーが呆れた溜め息を落としながら、革ジャンの内ポケットからちょっとした札束をナタリーに差し出した。
「毎度──ああ、貴方との夜のお楽しみでもいいんだけどね〜」
ナタリーはバイクの後部座席にスッと腰をかけて、リッキーの背中にもたれかかった。
「まぁ……それも考えない事もないけどね。君となら楽しそうだ」
「でっしょう〜? これ返しても良いから、いまからどう?」
手にしている札束で、リッキーの背中を筆でなぞるようにしてナタリーが煽る。
「今は暇がないんで──ね」
「あら残念」
札束で口元を覆って、恨めしそうな目線をリッキーに向けると……彼が急にクスリと微笑んだ。
「本当はそんな気ないくせに。結構、身持ちが堅い事は聞かされているよ」
「……誰がそんな事いうのよ」
「金髪の元王子様……がね。そういう女だから真に受けて手を出すなとね」
「!?」
ナタリーの顔色が変わる。
「君に手を出したら、一苦労だ。あの兄貴面の王子様に、俺は殺される。彼とは結構気が抜けない間柄なんでね。余程でないと対決したくない相手なんだ」
「あっそ」
「君も一時、ジュン先輩の所に迷い込んだみたいだけど? 素直になった方が良いよ」
「余計なお世話。チャオ!」
ナタリーはぷいっとそっぽを向けて、後ろの席から飛び降りる。
「チャオ。次回は明後日の早朝──レイの様子を聞かせてくれ」
「……ジュンは幸せそうだそうよ」
「先輩はね──だけど、レイは分からない」
「──婚約者を振りきってまで、らしいわね」
「ああ……頼むよ。こうなったらとことん行かせる覚悟でロイも放っているけど、やっぱり一介の義兄としてレイの様子は気にしているからね。俺も……」
「……分かったわ。私も色々、思う所あるのでね。任せて」
「また、礼は弾む」
「うふ。ロイ様にもお礼を言っておいてね〜チャオ」
「チャオ」
身軽にヒョイッと彼女が蝶のように駆け出し、朝靄の中に消えていった。
彼女が何処ともなく去ったのを見届けて、リッキーは携帯電話を取り出す。
「ああ──ロイ……俺だけど……」
ひっそりと息をひそめている白鷲組の追跡は、今までとは違った作戦にて進行中だった。