・・Ocean Bright・・ ◆楽園の猫姫◆

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4.恋人の欠片

 やっと体内時計が正常に戻ってきた気がする。
 葉月は光を感じながら、そっと目を開けた。

 もそっとシーツを剥ぎながら起きあがる。
 今度はちゃんとガウンとお揃いになっている同柄シルクのネグリジェを着ている。
 そして──隣にいるだろう彼の姿がなかった。

 バスルームに向かう。
 その扉を開けた途端に、湿気と蒸し暑さを感じた。
 シャワーの音がする……。
 どうやら、昨夜は大人しく寝付いた義兄もすっきり眠れたのか、朝風呂を堪能している最中のようだった。

 ドレッサー側にある出窓を葉月は見上げる。
 その窓辺に、今日も快晴で雪冠の富士と煌めく湖が顔を覗かせている。

 しなやかなネグリジェの裾を揺らしながら、葉月はクローゼットに向かい、扉を開けた。

「今日はどうしよう?」

 沢山あるフェミニンな洋服。
 そして色とりどりのランジェリー。
 いくつか用意されているフレグランス。
 そしてバッグに靴。
 季節に合わせたのか、コートもベーシックカラーで三着と、水色のコートが用意され、マフラーや手袋まで揃えられているのだ。

 いつもいつも……制服だけを着てきた自分が、休日になにか着るにせよ、こんな毎日、違う洋服を選ぶ事は……なかった。

 洋服を眺めながら、まずは下着を選ばねばならない……。
 葉月が好んでいるベージュやアイボリーと言った色合いの物は、ゴージャスでエレガントな刺繍やレエスカットの物が多いが、それ以外にも上品で淡いカラーの物から、まず葉月が選びそうもない大胆なデザインの物……多数揃っているのだ。
 迷う前に選ぶ事を諦めてしまいたくなるような点数だった。
 だから──その艶やかなブラウンの糸でゴージャスな薔薇の刺繍が施してあるカフェオレ色のランジェーリー上下と、お揃いのスリップが目に付いたのでそれに身にまとう。

「なんだ、起きたのか。流石、物音がすると目覚めが良いのか? せっかくだから、ゆっくりさせようと思って、そっとしていたんだが……」
「! 兄様──お、おはよう……」
「ああ。そこのバスタオルをくれるか?」
「うん……」

 湯気が立ち込めているバスルームの扉が開き、そこから義兄がなんの遠慮もなく全裸で姿を現した。
 葉月も、バスケットに入っているバスタオルを差し出す。
 一年前は短く刈り込んでいた黒髪はすこし伸びていて、義兄がゴシゴシと結構豪快にバスタオルで拭き始める。
 そこまで全裸で堂々とされると、葉月もちょっと気恥ずかしくなって背を向け、クローゼットに戻った。

 そこでまた洋服を物色していると──。

「迷うか?」
「!」

 気配もなく彼がそこにいて、それもまた背後から抱きすくめられた。
 葉月の胸が……急にドッキリと高鳴る。

「だ、だって……こんなに沢山あるんだもの」
「どれもお前に似合うだろうから、何を選んでも、大丈夫だろう」

 茹でたてのように火照っている彼の身体の体温が、薄い下着の生地から熱く伝わってくる。
 そして、彼は長い指で、後ろからすっと葉月の顎の線をなぞって耳たぶをつまんだのだ。

 それだけで……葉月は力を抜いてしまった。
 また──ぼんやりと、何も見えなくなったように……。

「それにしても、これだけあるランジェリーからそれか? お前らしい趣味だが、変わり映えしないなぁ」

 彼の呆れた声が耳元で震える。
 そして、耳たぶを撫でていた指が、そっと胸元の美しい刺繍をなぞり始めた。
 義兄にしたら、なんてことない下心もそうはない自然な仕草なのだろう。
 実際に、彼はいつも葉月にそうして触れている。
 なのに──葉月はいつだってこうして緊張するというか、呪文をかけられたように、身体が動かなくなる。
 だから──ここで、彼が急に欲しても、葉月はきっと彼の行く手のまま、抱きしめられ、裸にされる事も逆らえないようになってしまうのだ。

 だが、義兄はそこで呆れた微笑みの息を耳元に残して、葉月から離れた。
 彼がクローゼットにひざまずく。
 しかも──ランジェリーを物色し始めたのだ。
 葉月は……そういう女性物を物色している義兄の姿が、らしくなかったので驚いて呆然としてしまった。

「や、やめてよ! お兄ちゃまがそんな事していると、おかしいわよ!」

 ついにいつもの『オチビらしい』気性が口から飛び出して、葉月は下着を握っている義兄の手から、それを奪い取った。
 そんな葉月のムキになる怒り顔を見て、義兄がケラケラと楽しそうに笑い始める。

「葉月──お前、その黒……」

 義兄は、バカみたいに笑い転げるばかりで、『黒』と言ったきり言葉も続かない有様だった。
 葉月は……そういう彼を初めて見たような気がして、逆に眉をひそめて動きを止めてしまった。

 葉月が義兄から奪い取った透けるようなレエスと紐だけという大胆な下着は……黒色だった。

「それ、そいういうお前も見てみたいな」
「バカ! こう言うのがあるのはお兄ちゃまの『差し金』だったの? 信じられないっ!」

 その下着をクローゼットに投げ入れると、また純一が葉月の足下で笑い転げている。

「まさか。ちゃんとエドの所の女性スタッフが選んだらしいぞ? 女性特有の攻略的な発想なんじゃないのか? 近頃、日本では『勝負下着』とか言うらしいなぁ?」
「それで? それを着けたらお兄ちゃまを攻略出来るって事?」

 冗談に付き合ったつもりで言い返したのに……。

「──だとしたら? そんなお前を、今夜、楽しみにしても構わないのだろうか?」
「──!」

 急に義兄の黒い瞳が、キラリと──艶っぽく輝く。
 そして、彼はひざまずいたまま、葉月をグッと自分の方へと引き寄せてきた。
 彼はそのまま葉月の胸元に顔を埋めた。

「に、兄様……」
「──今日は東京だ」
「……」

 浅黒い日に焼けた手、長い指が、スリップの紐を片側だけ、弾くように肩から落とす。

「終わったら直ぐに帰ってくる──そうだ……お前が好きそうな洋菓子を買ってくる」
「……」
「何がいい……か」

 そしてその指は豪華な薔薇の刺繍をなぞりながら、スッと……その下の素肌へと滑り込んでいくのを、葉月はただ眺めていた。

「あ……」
「なにがいいか? お前は生クリームがたっぷりのショートケーキが好物だ。だが? たまにはショコラか……それともタルトか……」

 八重咲きの桜の花びらに触れるように……柔らかい胸先の皮膚の輪郭を、その指先で撫でられる。
 空いている片手は、シルクスリップの感触を確かめるかのように、狂おしそうにゆっくりと……葉月の背を撫でている。
 その感触を義兄が微笑みながら楽しんでいるのを、葉月は見下ろしていた。

「……洋なしのタルト。あと……美味しい生チョコが食べたい」
「分かった……」

 狂おしい感触に耐えながら、弱々しい吐息声でなんとか答えると、彼は満足そうに微笑えむ。
 そして──今度は唇を素肌に這わせ、薔薇の刺繍を除けるように、くぐっていく。
 固く突きだしてしまった乳房の胸先を優しく唇で撫でていたかと思うと、最後に……。

「待っていてくれ」
「ぅんっ・・。ええ……待って・・る……」

 待っている事を約束させるかのような強さで、その胸先をきゅっと吸われ……帰ってくる事を約束する印のように、甘噛みを彼が施した。

 彼がやっと立ち上がって、葉月の栗毛を首筋からかきあげて見下ろし、再び、胸元に抱き寄せられる。

「ふう……今すぐと言いたい所だが? また今夜に取っておくとするか。俺がお前にどう攻略されるのか……じっくりな」
「そんな事、考えられないわよ──」

 彼にされるまま──触れられると何も分からなくなってしまうぐらい、痺れてしまうのに……。
 それでなくても、また『今夜、じっくり』と艶っぽい色香が漂う黒い瞳を余裕げに輝かせる彼には、逆らえそうにない──。

そして、最後に彼が葉月の顎をクイッと上に向かせ、不敵に微笑みかけてくる。

「……あれほど、なのにか?」

 あれほど……が、どういう事なのか──葉月は解っていて頬を染めると、彼がクスクスと笑い声を漏らす。
 もし、義兄がそんな葉月を『あれほどの事もする』と思うのなら……それは『本能』だ。
 攻略もなにもない──。
 ありのまま──義兄に愛されたい為に解放されている自分であるに違いない。

「さて……俺も支度をしなくては」
「あ……うん、いってらっしゃい」
「お前もゆっくり休んで、のんびりしていたらいい……」
「うん……」

 最後に口づけをされ、義兄はスッと潔く葉月から離れた。
 抱きしめられている間──彼のバスタオルの下から固い感触がずっと葉月の肌に密着していたが、義兄はそこを堪えてベッドルームに出て行った。
 そんな風に、決して流されない所もあるのだ。

 なのに葉月は……純一という男の『艶っぽい男の眼差し』には、本当に適わなくて……。
 そして──その彼に真っ直ぐに見つめられ、愛されるこのひととき。
 また独り、火照った身体を置き去りにするように、意識もどこかにふんわりふわふわと漂ってしまっているような心地良さに包まれ……。
 この心地良さが身体から心から逃げていかないよう、葉月は自分で自分を抱きしめ──そっと小さく微笑んでいた。

 

☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆

 

 レエス編みの白いニットアンサンブルに、膝丈の裾がヒラリとしているの水色スカートを選んで、ベッドルームに戻る。
 義兄のクローゼットは、この部屋のこぢんまりとした物で、彼はそこで既にネクタイを結んでいた。

「似合うじゃないか。お前らしい──」

 着替えた葉月に、ニッコリ微笑んだかと思うと、義兄はすぐに真顔に戻ってジャケットを手にした。

「もう、出かける時間だ。今日はジュールもエドもここにいるから、遠慮なく、言いつけたらいい──」
「お兄ちゃま……ひとりで?」
「いや、日本の仲間と一緒で、そいつが東京で待っている。秘書が迎えにそろそろ来るはずだ」
「そう──」

 日本の仲間がどんな人かは……まだ追求する勇気もなく、葉月はただそれだけ答えて尋ねるのをやめた。

 義兄がコートを手にして、入り口に向かう。
 葉月も一緒に部屋を出た。

 

『ボンジュール、ボス』

 リビングに降りると、キッチンでは既にエドとジュール、そして金髪の彼女が控えていた。

「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます」
「オハヨウゴザイマス」

 金髪の彼女はまだ片言っぽい発音であり、どうやら昨夜から耳を澄ましてみた所、このファミリーの標準語は『フランス語』だと気が付いた。

「皆様、おはよう……」

 純一は、彼等の挨拶には無言であったが、葉月は一言挨拶を返してみる。

「エド、エスプレッソ一杯で良い」
「かしこまりました」
「葉月にはしっかり食べさせてくれ。ジュール、締めはお前のミルクティーだ」

 先程、下着を物色して子供みたいにふざけていた彼の面影はもうない。
 感情を微塵にも表さないような無表情に固まっていた。
 葉月はそのギャップにちょっぴり笑いたくなったが堪える。

「座れ。俺は急ぐが、お前はゆっくり……」
「のんびりしろって言うのでしょう?」

 やっといつもの調子で切り返すと、そこは彼は楽しそうに微笑んでくれた。
 純一が自ら椅子を引いてくれ、葉月は彼の顔を見上げながら微笑み、座った。
 今日も向かい側に義兄が席を取る。
 エスプレッソはすぐに運ばれてきた。

「ボス──今、お迎えが参りました」
「ああ──丁度良い所だ。では、ジュール、留守を頼んだぞ」
「はい、いってらっしゃいませ。ああ、外までお見送りします」
「そうか」

 座ったばかりの葉月の目の前で、義兄は急ぐようにデミタスのコーヒーを一杯飲み干し、直ぐに立ち上がってしまった。

「では──」

 そこは、黒猫ボスの顔、視線で──葉月をチラリと見下ろし、純一は背を向ける。
 その眼差しが、あらゆる『情け』も一切断ち切らねばならないという、彼特有の厳しさを垣間見た気がし……葉月は、急に不安になって立ち上がった。
 置き去り岬で多々見送ってきた『彼』と重なったのだ。

「お兄ちゃま……!」
「?」

 不思議そうに義兄が振り向いた。

「どうした……?」
「……」

 『待っていてくれ』──その時、先程の包まれるような彼の柔和な声が蘇ると共に、葉月の胸先に、甘噛みをされた印がチクリと痛んだ。

「ううん……あの。東京についたら、ちゃんと少しは食べてね」
「ああ。そうしよう──」
「お土産──約束よ」
「勿論だ」

 やっとそれらしく微笑みを浮かべてくれた純一は、ジュールを伴ってリビングを出て行った。

 

「まー。なんだか見せつけてくれますねぇ〜」
「なにがだ」

 廊下に出て、ジュールはニヤリと純一の顔を覗き込んだ。
 またいつもの無表情なのだが……なにやら、頬が多少緩んでいるような気がしないでもなく、ジュールとしては可笑しくて堪らない所だった。

「本当は、お嬢様を側に東京に行きたくて堪らないでしょう?」
「別に──。連れていってどうするんだ」
「お土産ってなんですか〜?」
「なんだって良いだろう?」
「貴方、お店、知っているんですか?」
「失礼な。そこまで俺をバカにするか?」
「いえいえ」

 ジュールのクスクス笑いに、純一は顔をしかめながら玄関を出た。
 外には、純一が日本で事業を任せている若社長の秘書が迎えに来ていた。
 その彼と共に今から、東名高速に乗り東京へと向かう。

 さて──車に乗り込もうと、後部座席の扉を開けてもらった時だった。

「兄様──いってらっしゃい」
「!」

 そんな声が、白樺に囲まれている板張りのバルコニーから聞こえ、純一とジュールは視線を向ける。
 そこには……キリッとした朝の冷気の中、白い息を吐きながら笑顔で手を振っている葉月が見送ろうとしていた。

「……」
「なに、見惚れているんですか! 早くお返しをしてあげて下さいよっ」
「あ、ああ……」

 ジュールにつつかれて、やっと純一が片手を上げた。
 葉月はそれで、さらにニコリと愛らしく、微笑んでいる。

 純一が見とれてしまうのも無理はないかと思う程、ジュールも目を細めたぐらい──朝日の中に輝く女性の姿がそこにあった。

「やだな。まるで新婚だ」
「──なんとでも言ってくれ。じゃぁな」
「頬、緩んでいますよ。お顔、一日気を付けて下さいね」
「うるさい、大きなお世話だ。お前こそ、頼むぞ」
「解っています。ちゃんとお嬢様を見ていますよ」

 そして、ジュールはボスを乗せた車を見送った。

「お嬢様──冷えてますから……中にお入り下さい」
「ええ……」

 庭からそのバルコニーに上がる階段があり、ジュールはその下から葉月に声をかけた。
 だが──白樺と杉の林の向こう……湖沿いの車道へと出て行った車を彼女は消えるまで見送っていた。
 とても穏やかで、ふんわりとした笑顔で……。

 ジュールにとってもそれは微笑ましい光景である。
 二人が本来欲していた時間と状況、すべてが今、ここにある。
 お互いに、何かを理由にして、この状況から目を背ける努力をしつづけてきたはずだ。
 そして、その言い聞かせてきた全てを、二人は捨てた。そして『見ていた夢の続き』を再開させたのだ。
 その夢は……もう夢でなく、現実に起きている──もう、現実だ。

 なのに……どうしてだろう?
 ジュールは、微かな朝靄の中、そして朝日の中──そこで美しく咲き始めたかのような女性がこの世の物ではないような、消えてしまうような感覚に陥る。
 その違和感が、存在している事を──認めたくないのに、自覚してしまうのだった。

 

☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆

 

 一人きりになったダイニングテーブルに戻ると、エドが美しく盛りつけたモーニングを持ってきてくれる。
 ワンディッシュスタイルで、目玉焼きとちょっとしたサラダ、そしてクロワッサン。
 そして、ジャムが添えられているヨーグルトをデザートに。

「……?」

 葉月が少し首を傾げながら、フォークを手にすると、エドがそれに気が付いたようで──。

「何か? お気に召さない事でも? 遠慮せずに仰って下さいね。快適に過ごして頂きたいので……」
「え? いいえ……美味しそうね。頂きます」

 元気な笑顔に安心してくれたのか、エドもニコリと微笑みキッチンに下がっていった。

 葉月は一人で食事を進める。

 キッチンではエドはシンクに立ち洗い物を、ジュールはミルクティーの準備をしていた。

(やっぱり、見られているのよね……)

 葉月は感づかれないように、時々、チラッとキッチンに視線を向けると……必ず、金髪の彼女が葉月を見ている事に気が付く。
 そのまま、彼女とは視線が合わないよう──食事に集中している振りで流す。

(ああしていても、エドとジュールが何かに集中していると、彼女の動きは止まる……)

 と、言う事は『指示がなければ何も出来ない』という事になる。
 まだ──自分の判断で、先に何をすればよいか……解らないレベルなのだと。
 つまり──それなりに一個中隊の隊長でもあった葉月から見れば、確かにジュールが言う通りに『新人』なのだと、葉月にもうかがえた。

 それならそれで、新人でも構わないのだが。
 その手持ちぶさたの度に、『自分』を気にしているのはいったいどういう事なのだろうか? と、思いながら……葉月は目玉焼きに切れ目を入れた。

 ご丁寧に日本人の葉月向け? それとも義兄が日頃使っているのだろうか……食卓にはきちんと洋風の醤油さしが置いてある。
 葉月はそれを手にして、半熟の黄身に数滴落とした。

「?」

 一口……半熟の黄身を口にして、葉月は首を傾げる。
 どうしてか……この前から、『ものが美味しく見えない』のだ。
 確かに、航空ショーの前後から体調はあまり良くなかった。
 あらゆる精神面でのプレッシャーもあっただろうし、そういう『苦痛』を殺して、目の前の事をやりこなす──というスタンスが、葉月に困難な業務をやりこなせてきたのだから、今になって『苦痛の反動』がやって来ているのだと……。

 それにしても? だった……。
 目玉焼きを口にしても、匂いが胸を突く。
 こんがりサクッとして、中はふわふわしているクロワッサンを口に運ぶと……妙に口当たりが悪い気がするのだ。

(ああ……今からこんなバランスではいけないわ)

 義兄が目の前にいる時は、本当に淡い桃色の靄に包まれっぱなしで、何も他の事は考えられなくなるのに。
 こうして一人になると急に……自分がしてしまった事を振り返ってしまう。
 だが──そこも……だった。
 そこも──葉月なら『苦痛は殺す』という事が出来るはずなのだ。
 たとえば……今頃、『裏切ってしまった隼人』はどうしているのか……など。

 だが、よくよく考えていると、義兄を目の前にしている時は、正直『隼人』という男の事が、これっぽっちも浮かばない状況だった。
 そんな身勝手というか……完全なる我が本心を既にさらけ出しているのに、急に、置いてきた彼の事に関して『気に病む』なんて、そっちの方が『身勝手』だと思いついたのだ。

 だから──また、葉月は外の景色を見つめて……もう海がない世界にいる事を確かめる。

 自分はイタリアに行くのだ。
 もう一度、ヴァイオリンに向かうのだ。
 手放そうとして、結局手放せなかった夢に、もう一度、向かうのだ。
 大好きな彼と一緒に──。

 もう……戻れない。
 そう強く思う、今は……。

「まだ……お元気ではなさそうですね」
「!……ジュール」

 食が進まないと見たのか、ジュールが早々にミルクティーを持ってきてくれた。

「あの……美味しいの。本当に美味しいのよ」

 エドが手がけた物が、口に合わないのではない事を葉月は必死に伝えようとした。
 すると、ジュールがクスリと笑う。

「分かっていますよ。私もエドの腕前は知っていますから──」
「お嬢様、気にしないで下さい。食べられるだけで宜しいですから……」

 エドも気にしない笑顔をキッチンから向けてくれた。

 その言葉に甘え、葉月はサラダとヨーグルトだけ平らげ、早々にミルクティーのカップに手を伸ばした。

「あら?」

 葉月がカップを手にすると、横で控えていたジュールが反応した。

「如何されましたか?」
「……このカップの模様……見覚えが……?」
「……そうですか? 私のお気に入りの一つなのですが。是非、お嬢様がお手にしているのを見てみたかったので」
「あなたのカップなの?」
「……ええ」
「そう……」

 葉月は首を傾げる。
 そして、カップをしげしげと見つめていると?
 まだ何かを待っているかのように横に控えているジュールと視線が合う。

「──私の……亡くなった祖母が、こういう雰囲気のカップを愛用していたような?」
「そうですか──偶然でしょうか?」

 葉月がそういうと、彼は満足したようにニッコリと笑顔を残して、キッチンに戻ってしまった。

『?』

 なんだか、確かめたい何かがあったようで、葉月は眉をひそめたが──そのままミルクティーを味わった。

 そして葉月は、またもや、少し気になって仕方がない事が出来て首を傾げる。
 味わっていたミルクティーの味が時々、なにか全体的に自分が求めている味でないような気がするのだ。
 でも──? 確かに、葉月が絶賛している彼の味なのだ。
 それに一口、口に含んだ時は、至極の味覚に包まれたのに? 飲み進めて行く内に、違和感は募るばかりだ。

(彼の入れ方が変わったのかしら? それとも?)

「あの……ジュール? これは何の紅茶葉?」

 葉月がなにげなく尋ねると、やはり彼も少し怪訝そうな表情を一瞬灯したように見えた。

「お嬢様お好みの、アールグレイですよ?」
「そ、そうよね」
「ええ──何か?」
「い、いいえ……」
「ミルクもこの富士近辺の牧場で搾っている物を使っていますけど」
「ええ、とても美味しいわ。有り難う」
「いいえ」

 ついに彼が……先程から続く葉月の発言に不審さを感じ取り始めたようだった。
 今度は、彼の視線が自分に張り付き始める。
 彼の場合は、とても緊張する。
 言葉の抑揚から、目線、仕草──その事細かで些細な事で、何もかも見通せる『人種』と、葉月はジュールの事を昔から位置づけている。

 こういう人間は滅多にいない。
 こういう鋭さと威圧感を持っていて、さらに上手く人をサポートする為に背後からぬかりなく世界全体を見渡せるという人種──葉月の周辺で言えばマイクやリッキーと似ていると思っているが、研ぎ澄まされた鋭さに関して言えば、彼が一番だといつも思うのだ。

 おそらく、義兄は彼のこういう所を非常に頼っているだろうと──。

「ご馳走様でした」

 そんな彼の観察から逃れるかのように、葉月はスッと席を立ち上がる。

「お好きに過ごして下さい」
「メルシー」

 途端のにっこり満面の爽やか笑顔に、葉月はちょっと苦笑いを交えた微笑みを返してしまった。

 葉月はとりあえず、二階に上がる事にする。

『お好きに……ねぇ……』

 葉月はフッと溜め息をこぼす。
 そして階段へと足を向けた途端だった。

「うっ……っく」

 先程から、何かを口にしては徐々に胸がむかついてきてはいたのだが……ついに、葉月の喉元まで突いてきた。
 口を押さえ、そのままテーブル下にひざまずいてしまった。

『お、お嬢様!?』

 部下の彼等が颯爽と駆け寄ってくるのが分かる。
 分かるが……葉月はここで吐きたくなく、胸をさすってなんとか抑えようと、息を荒くしていた。

「失礼しますよ、お嬢様──階段裏のドアがここのトイレルームですから……歩けますか?」
「……」

 ジュールが、そっと腕に触れたが、立てば吐きそうで葉月はうずくまる。
 その内に、ジュールが背をさすってくるようになった。

「我慢なさらずに──私ども、あちらに控えていますから。ジュール、これを」
「あ、ああ……」

 今度はジュールより落ち着いているエドの声が頭の上から聞こえた。
 エドがジュールに差し出したのは、銀色の小さな器だった。
 それを膝元に置かれ、彼等は女性の葉月が吐く有様を目にする事がないようにと気遣ってくれたようで、葉月の側から潔く退いていった。

『う──くぅ……え……』

 そこで、葉月は声を漏らしてまで、突き上げてきた物を吐きだした。

 葉月の声が収まると、すかさずジュールが毛布を手にして葉月を包み込んだ。

「少し……そこのソファーでお休み下さい。落ち着いたら、二階でお休みされたらいいでしょう……昨夜は……」

 そこでジュールが少し、口ごもったが?

「昨夜は眠れましたか?」
「ええ……昨夜は早くから、朝までぐっすり……」

 義兄と逢瀬を交わすその時、彼はいつも義兄の側にいたのだから……今更、隠しても仕様がない事だが……。
 義兄とまた──無理をしていたのではないかという彼の言いたい事が葉月には通じた。
 彼の心配ももっともだろうから、ちゃんと答える。

「そうですか……どうぞ、静かに横になって……我慢せずに、なんでも言いつけて下さいね」
「有り難う──」

 葉月は、それしか言えなかった。
 もう、彼等の気遣いに甘えるしかない程、お礼しか言えない程……ぐったりとしか出来なかったのだ。
 ジュールに連れられるまま……ソファーで横になった。

 

☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆

 

「エド──どうした物だろうか?」
「……」
「エド?」

 葉月がソファーで落ち着いた所で、ジュールはキッチンに戻る。
 そこで、医師であるエドから、的確な意見を得ようと尋ねると……エドは対面式キッチンのシンクで、葉月をジッと見つめたまま、呆然としているようにみえた。

「エド──俺は、どうすれば少しでも良くなりそうかと、聞いているんだがっ」
「あ、ああ……ああ……そうだな」
「? 大丈夫か? お前、まさかあれだけの症状で狼狽えるだなんて言わないよな?」
「そうじゃないっ」
「──だったらなんだ?」

 ジュールは専門知識があるエドから、安心出来る対処法を得たい所なのに……いつもは、こういう事には自分より落ち着いているはずのエドが妙に狼狽えているようだったので、首を傾げた。

「……少し、黙っていてくれるか?」
「……」

 エドは親指の爪を噛んでまで……妙に切羽詰まった表情で考え込んでしまっていた。
 ジュールまで、不安になるではないか?

「お薬だけでも……あげたら?」

 そこでアリスがフッと口を挟んできた。

「そうだ、エド──胃腸薬ぐらい調合出来るだろう? ボスはいないが少し診察してみたらどうだ?」
「……いや……それは……」
「でもだな──いちいちボスの許可なんて待っていたらだな……」

 ボスの女性の身体を、医者とは言え無許可に肌を目にする触れるという事を、恐れているのだとジュールは思い、ここは先輩の自分も後押しをしたという事にしようと、躊躇っているエドを説得しようとしたのだが──。

「……俺の勘が当たっていれば……今、お嬢様に与えられる的確な薬剤は持っていない」
「!? それほどの……? 見解なのか?」

 ごく一般的な体調不良を緩和する置き薬程度なら、エドがいつだって準備してくれるし、それ以上、注射や点滴などの内科に出向くぐらいのちょっとした準備をエドはいつもしているのに……。
 『今の俺の守備ではまかなえない症状』で『だから、これは病院行きだろう』という見解だったようなので、さすがにジュールも驚いた。

「……ジュ、ジュール」
「な、なんだ──?」

 そして、まだ……困惑して落ち着きなさそうなエドの様子に、ジュールもややヒヤッとしながら、後輩のその苦い表情を真っ直ぐに受け止めてみる。

「ちょっと、お嬢様にいくつか質問したいんだが……付き合ってくれるか?」
「? か、構わないが?」
「よしっ」

 ジュールが側に控えると分かった途端に、何故かエドは安心したように急に気合いを入れ始めたではないか?
 ジュールはこればかりは、さっぱり読めなくて首を傾げながら、キッチンを降りるエドの後について、葉月の下に向かった。

「お嬢様──お加減……どうですか?」
「ええ……ごめんなさい……」

 やっと落ち着いたエドが、葉月が横になっているソファーの床ににっこりとひざまずく。
 葉月も、落ち着いたようで、笑顔を浮かべてそっと起きあがった。

「先日──小笠原を出てこられた時もかなりの症状でしたね。少し、気になる事がありますので、いくつか質問して宜しいですか?」
「……エド先生の問診って事?」
「はい。これでも元は医者が専門ですから、ちょっと立ち入った事もお聞きしますが医者としての質問だと受け取って下さいね」
「ええ……」

「……」

 エドのソフトな対応に、葉月もきちんと『彼は医者』と受け止めてくれた笑顔を見届けつつ……ジュールはエドが何を思っているのかと、思わず身体を固くして、事の次第を眺めていた。

「このようなご気分はいつ頃からですか?」
「航空ショーの当日には確実に気分はおかしかったわ。特に朝起きてすぐ……でも、その後はショーに集中していたから、少し感じてもああいう時は感じないようにしてしまうの。分かる? そういう気持ち」
「ええ……解りますよ。職務に真剣に取り組むと、そういう風になりますよね」

 エドの受け答えに、葉月もホッとしたように肩の力が抜けたようで、ジュールもちょっと笑顔を浮かべられ見守れるようになる。

「その当日以前からは?」
「特に感じなかったけど……今思えば、多少はすぐれなかった気もするわ。でも──ただ疲れているのかとばかり、食生活も気をつけているつもりでも、当日目の前になると結構、外食に頼ってしまったりもしていたから──」
「なるほど? では……その当日が一番、身体に訴えてきたという事で、それまではまぁまぁ感じてもやり過ごしていたのですね」
「ええ……」
「……」

 そこで葉月の警戒を解く為に笑顔だったエドの表情が引き締まった。
 それを見て、ジュールは再び身体を固くする。

「失礼ですが……お嬢様、確か? ピルを常用されておりましたね? ボスから処方するように言われておりましたので……」
「え? ええ……」

「!?」

 なんだか、ジュールはエドが探ろうとしている事が……急に見えてきて、顔色を変えた!
 その見えてきた事に……身体全体が硬直し、体温も上がってくるかのような緊張を覚えた。
 それに、純一はこの件に関しても思う所あるようで、『ピルが必要だ』なんて、まだ一言も言っていない。
 その真意が分かってしまった為、事情を知っている『口うるさい』ジュールでも、敢えてまだ提案しなかった。
 なのに──エドが、葉月の警戒を解くかのように、そんなボスが指示していない事をはったりで言い放っているではないか? それもその質問の内容が──!?

「……あの」
「今はお持ちではないですよね?」

 急に質問の内容が変わって、葉月が戸惑っていた。
 だが──今度こそ、エドは医者の顔で動じない声色で葉月に問いただしている。

「──ピルは……八月にやめたの」
「──そうでしたか!」

「!!」

 葉月が急に──しんなりと、何かに観念したように俯いた。
 そして、葉月のその返答に、エドはまるで『勘が当たった!』という様にホッとしたような返事をしていたが、その次には困ったようにジュールを見上げたのだ。
 ジュールだって……まだそうとは決まっていないが……こればかりは困惑した。

「もう……お気づきでしたか?」

 そんな葉月をなだめるかのように静かにエドが尋ねると──葉月はそっと首を振った。

「生理は……いつが最後でしたか?」
「八月の末──」
「そうですか……あのお相手なのですが」
「澤村しかいないわ……」

「──」

 ジュールは……その決定的な二人の会話に絶句した……。

 

 つまり──『妊娠』!?

 

 相手は……あの『隼人』だ!
 葉月の体内に……彼の欠片が……葉月の恋人の欠片が……ここに存在している!

 暫く──リビングに白樺の梢を揺らす風の音だけが響いるだけ──。
 それほど、一同は口を閉ざし──そこは静まりかえっていた。

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