「こちらになります──」
義兄の命でジュールがリビングに持ってきたのは、黒く重厚なケース。
彼がそれを義兄の傍らにそっと置いた。
「葉月──これはお前の物だ。受け取ってくれ」
「私の──?」
そして彼がそのケースを葉月にスッと差し出した。
葉月は中身が何であるかを察しながらも……それを引き寄せ、開けてみる。
「! これ──」
ケースを開けて驚き、葉月は目の前に座って頬杖をしている義兄を見上げた。
予想した通りに中身は『ヴァイオリン』──しかし! 葉月はその美しい形態と艶を見て、ただの品でない事が直ぐに判ったので驚いたのだ。
「“アマティ”だ」
「──! アマティ!?」
ニヤッと得意げに微笑みかけてくる義兄の言葉に、葉月はビックリ仰天し、思わず椅子ごと後ずさるぐらい……そのケースから飛び退いてしまった。
「こ、こんな名器を私に!?」
「ああ──弾いてみろ。久々にお前の音が聴きたい所だ」
「で、でも……」
葉月はその『名器』に対して、ひどく畏れを抱いた。
今はそれほど手にはしなく、従兄の右京のように毎日、少しずつでも音を愛でる事はしていない。
そんな自分には相応しない品物だと自分でも分かっていたから……。
すると義兄が余裕ぶっている姿勢を取り払い、また静かに葉月を見据える。
これまた──葉月が苦手としている弱くなってしまう男性の眼差しの一種。
義兄の場合は静かにひっそりと輝きをじんわり放つのだ。
「葉月──今すぐでなくても構わない。自分が取り戻せる分だけ、もう一度……弾き手になる事を試みてみないか?」
「ヴァイオリンを……もう一度?」
「ああ、そうだ。俺がサポートしてやる」
「サポートって?」
「こういう芸術活動にはスポンサーがあった方が良い。つまり俺がそれを買って出る」
「お兄ちゃまが……スポンサー?」
「そう、イタリアに行けば……いやイタリアだけでなくヨーロッパ各地、規模はそれぞれだが色々な楽団がある。その楽団のオーディションを受けても良いだろうし、お前が自分自身の芸術性を活かし、何かを企画しても良いだろう? とにかくそういう事は先の目標として、もう一度、弾き手になると言う事を考えて欲しい」
「私が……もう一度──ヴァイオリンと……」
「勿論、強制じゃない。他にしたい事があるなら、それを選ぶのもお前の意志で自由だ──だが」
『だが……』と、義兄がそこで何かを強く言いたそうに、葉月から鋭い眼差しを向けて離さなくなり、葉月も──すっかり捕まっていた。
しかし──そこで急に何かを悟ったように、義兄はフッと視線を和らげた。
「いや……俺からの『一種の提案』だと思ってくれたらいい──」
「兄様──?」
葉月には、その義兄が何を言いたかったのか……ぼんやりだが予想は出来た。
出来たが──葉月もそこは少し心残りでありながらも、今は触れたくなく、そこは流す事にした。
『もう、軍には戻れない──俺と一緒になるのなら……』
そう言いたかったのではないだろうか?
制服がなくなっている事を考えても、葉月には義兄のそんな気持ちが直ぐに理解出来る。
だけど──それが義兄の本心でありながら、彼がそこで言い留まったのは?
「葉月──今更かもしれない、遅いかもしれない──が、それでも……もう一度、俺とやり直さないか?」
「今更でも……? やり直す?」
「そう──もう一度、あの頃の夢を……少しでも。それで無理ならそれでもいい。だけど──お前の心の何処かで、未練があるのだろう? だったら……無駄でもやってみたらどうだろうか?」
「あの頃の夢……」
そう葉月の夢は……義兄の夢。
『私が音楽大学に入って、コンサートに出る時は、お兄ちゃま、見に来てね! その時はおっきい花束を持ってきてね! 白のバラよ』
『オチビのくせに──何をませた事を言っているんだ』
『右京兄ちゃまは、私に水色のドレスを作ってくれるって言っているもの! だから、純兄ちゃまは花束なのっ』
『わかった、わかった──その時に用意出来たらな』
『もうっ』
『わかった、約束だ。ステージに立てたら、白い薔薇を持っていく』
『本当!?』
『約束だから、お前もその約束を守れよ』
『うん!』
葉月の脳裏に、フッとそんな会話と場面が急に蘇る。
「そういえば……私、白い薔薇の花束を兄様にねだっていたわね」
「ああ……覚えている」
フッと小さく微笑みながら、葉月はそのヴァイオリンに優しくそっと触れてみる。
義兄も……穏やかに微笑んでいる。
そして葉月は、ケースからヴァイオリンの柄を持って出してみる。
リビングのライトにキラキラと光り輝くヴァイオリン──。
それを肩に乗せ、ボウを手にし弦の上に置いてみる。
呼吸を整えて、そっとボウを滑らせてみた──。
『ラ……』──まるで、女性がフッと声を出したかのような、深みがある音に──葉月の胸がビックリしたように震えた。
「すごい……人の声みたいだわ……」
「……だろう? お前の音質にきっと合うだろうと思った。お前はいつもヴァイオリンで唄うように弾く──。お前の声は“アマティ”だろうと目をつけていたんだ」
「兄様……」
「まぁ……そういう事だ。焦らなくて良い。暫くはそいつと楽しいお喋りでも楽しむ程度で良いだろう……」
ヴァイオリンを手にして、少しばかり惚けている葉月に、『冷めるから食え』と、彼はスプーンを返してくれた。
「どうぞ、ボス」
「ああ──美味そうだな。実はかなり腹減っていたんだ」
エドが持ってきたリゾットに、義兄は素直な喜びの笑顔を輝かせ、すぐに食べ始める。
その横で、ジュールが冷めた目つきで『でしょうね……』と、呟いたのが葉月には聞こえた。
葉月もヴァイオリンを静かに恐る恐るケースに戻し、横に除け、食事を再開する。
「葉月、悪いが明日から仕事に出かける事が多い。エドかジュールが必ずいるから困った事は遠慮なく言ってくれ」
「仕事って? ……裏の?」
「いや──表稼業だ。東京に出てきた故に少しばかり増えてしまった」
「そう……あの……」
「なんだ?」
「ううん……なんでもない」
長年──葉月の中で不透明だった義兄の日常生活が、これから徐々に見えてくるようになるのだろう。
そこで葉月は蓄積されている疑問について、すぐさま問いただしたくなったが、どれからどう聞けば効果的に義兄が答えてくれるのか? と──思ってしまい、今すぐには聞けそうになく、口を閉ざした。
「エドはきちんと公式の免許も持っている医師だ。体調が悪ければ、エドに言え。ジュールはなんでも相談出来る男だ、遠慮なく頼ったらいい。夕方か食事までには必ず戻るし、早く済めば直ぐに帰宅する」
「解ったわ。待っているわ」
「うん」
解ったと答えた葉月に、何故か彼は満足そうに微笑みを向けてくる。
「美味いな。エド、美味いぞ」
葉月には彼が変に上機嫌の様に見える? それもあまり見た事がない彼で、葉月でも眉をひそめたくなるぐらいの様子。
「ボス──申し訳ありませんが、後ほど、お話したい事がいくつか」
彼の上機嫌に水を差してしまうという申し訳なさそうな声で、ジュールが割って入ってきた。
「解った。二階の書斎に……食後行く」
「かしこまりました。あ……お嬢様、ミルクティーお待ち下さいね」
静かな部下の表情が、急に煌めく笑顔になったので、様子をうかがっていた葉月は驚いて我に返る。
「え、ええ……宜しくね」
「ジュール、俺にもくれ」
「かしこまりました」
何故かボスにはツンと素っ気ない声色の返事。
葉月がまた彼の様子をうかがっていると、目の前で純一が何故かクスクスと笑っているのだ。
「あいつは観察していると、結構、面白いぞ」
「なに? それ……」
「さぁな〜」
『ボス、おやめください』
キッチンに入った彼のそんな声。
純一は楽しそうに笑いながら、リゾットを頬張っていた。
そんな日常の表情を見せてくれる義兄を久しぶりに見た……。
葉月は目の前にいるそんな熱く切望していた彼とのこんな時間──また少しだけ、目の前が眩みそうな程、今は他の事は考えられそうになかった。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
──コンコン──
大寝室とは続き間になっている書斎があるのだが、ベッドルームと書斎とは、階段を上がると入り口は別になっている。
中からも外からも入れるようになっているのだが、ジュールは階段を上がって、その外側からの入り口のドアをノックした。
「いいぞ」
ボスの声が聞こえ、ジュールは扉を開ける。
そこには、ガウンという砕けた姿を改め、ノーネクタイの白いワイシャツ、黒いスラックス姿の純一が、窓辺に用意された机に向かい、既にパソコンと向かい合っていた。
軽い食事を終え、純一はすぐさまこの書斎に戻っていた。
葉月はまだ、ダイニングでゆっくりと食事を楽しんでいる所だ。
寝室はリビングに負けない程の広さだが、この続き間になっている書斎はこぢんまりと八畳ぐらい。
その突き当たり窓辺の黒い革椅子に座っている純一が、くるりと反転しこちらを向いてくれる。
「! ジュール、なんのつもりだ」
だが、入室してきたジュールの様子を見て、彼の表情が一変する。
「──ご紹介しておこうかと思いまして」
「紹介!? お前、『そのアリス』を連れて、そこの階段を上がってきたのか?」
「構いませんでしょう? お嬢様とは、面識あるのですから」
「そういう事ではない」
そう──ジュールはいよいよアリスを伴って、純一の所に連れてきたのだ。
「先日──彼女からの願い出により、私の一存で『雇いました』──」
「雇っただと?」
純一は立ち上がり、ジュールの背で怖々と縮こまっているアリスをグッと見つめたのだ。
「──あの、一生懸命働きます。ボス、宜しくお願いいたします!」
やっとアリスが純一の前に出て、頭を下げた。
『はぁっ』
だが、純一はあからさまに手を振り下ろし、呆れた溜め息を強く吐いている。
「アリス──お前とは近いうちに、今後についてじっくり話す予定を決めていたが、この前から、俺の勝手でないがしろにしている事は申し訳ないと思っている」
「……」
「これは“遊び”ではすまないんだぞ。解るだろう……!?」
「遊びじゃないわ。私、真剣です」
「お前──ここでだな──」
いつも子猫の我が儘には寛容な純一が珍しく、アリスに向かって懇々とした説教をしようと身を乗り出していたが……。
「ボス、彼女は遊びだと思っておりません。現に、二日前からチーフ・エドの下、真剣に働いています」
「アリスが? 働く?」
純一が眉をひそめる。
「ええ。まだ慣れていない事ばかりですが、彼女とは、私の『責任の上』で『雇用契約』もしておりますから、彼女は私達の部下です」
「契約した!?」
ここは純一も流石に驚いたようだ。
ジュールが『直に雇用する』という意味に驚愕したのだろう──つまり……。
ジュールは純一に歩み寄り、彼の机にサッと一枚の紙を差し出した。
「サインしております」
「!」
その契約書を見て、純一の顔色も流石に変わる。
変わったのだが──!
「こんなの認めない──!」
彼はその契約書を手にするなり、手早く破り捨てた。
「いいか? アリスが復職するのは構わない。だが……俺達の組織と契約を結ぶという事の意味を……ジュール、お前がこんなに軽々しく受け止めるとはどういう事だ! うちで正式に契約している女性部員もいるが、彼女等とアリスは全く……」
「それは彼女等も最初はアリスぐらいだったのではないですか?」
「ーー!」
なんとか阻止しようとする純一に対し、ジュールは水を差すように淡々と切り込む。
ただ愛人生活をしていたアリスに『黒猫』という組織での『重荷』に耐えられないだろう……という気持ちもあるだろうし、さらにアリスにはこういう影に存在する組織ではなく、まっとうに表でやり直して欲しいという気持ちがあるのもジュールには解っている。
それでも──だった。
「彼女はもう、貴方の愛人ではありません」
「!」
「もう貴方の部下です。よろしいですか?」
これも今の純一には『好都合』な状況になるだろうから、ジュールは強く言い切った。
「そうだな。アリス──もう愛人ではないな」
「──はい」
少し迷う間がうかがえたが、アリスは神妙にジュールの横で答えた。
「ボス、私が雇った部員です。こちらに全てお任せいただけませんか?」
「……」
非常に苦い表情で、純一は顎をさすり……考えあぐねている。
が──。
「解った。そういう手でくるなら、俺はもう一切、その女の責任は負わないぞ」
「当然です。もう貴方とは関係のない女性です。彼女はもう、女性ではなくただの『部下』ですよ。是非、そうして頂きたい。彼女もそのつもりですから、今までの関係を気にして、甘く扱うような事はしないで欲しい事──雇った責任を負う私からも強くお願いしたい所です。そう割り切って頂けて、安心いたしました」
ジュールは、これ見よがしとも思えられそうなほど声を張り上げた。
勿論、ジュールのそのわざとらしい言い方の真意を純一は感じ取り、渋い顔をしていたし、アリスに至っては、もうボスは助けてはくれない人になったと言う『念押し』を再度されたかのように、ビクッと身体を強ばらせたのが解る。
「……契約書は認めない。仮雇用という事にしてくれ」
「そうですか。ボスがそう仰るなら仕方がないでしょう。アリス、ボスがなんとかお雇い下さった。お礼を──」
「! メ、メルシー。ご迷惑はおかけしませんし、あの……チーフとマネージャーの指示に従います」
「勝手にしろ」
アリスが怖々と礼を述べると、純一は怒りを何とか抑えたかのように、背を向けて革椅子に座りこみ──振り向かなくなった。
「では、アリス。私とボスはまだ話があるから、チーフの指示に従って下で待っていてくれ」
「下では葉月がまだ食事をしている」
「下で。待っていてくれアリス」
「……」
ジュールの指示をまたもや阻止しようとした純一だが、時には強く反発するジュールの確固たる指示に──ついに口を閉ざした。
そして──アリスも……悲しそうな眼差しを、純一の背に向けはしたが、そこは彼女も最後の覚悟で決起しているのだから、大人しく書斎を出て行った。
それに──アリスもこれでじっくり葉月を眺められると言うものだ。
そこで、アリスが粗相でもすれば、またジュールも考えなくてはならない。
その様子を見る為に、ワザとアリスと葉月を共にさせる選択をした。
ドアが閉まりきり、アリスがドア前に留まらず、階段を降りていく音を──ジュールは確認する。
それはボスも同じように耳を澄ましているようで、しばらく書斎では男二人、沈黙を保っていた。
「ったく。いつの前に」
純一が、嫌々とした顔で椅子を反転させ、ジュールに向き合った。
「いつの間に? 二日も私達の声を無視してきたでしょう? その間にです」
これまたジュールは冷めた目つきを、兄貴に向け、白々しく言い放つ。
「ああ、悪かったな──しかしだ」
「しかしもなにも。今、たった今、貴方にきちんと伺って、駄目な事は駄目、ここまでは許せるという許可は頂いたばかりですよ? どうしてもお嫌なら、きっぱり彼女を捨てて下さい。そうする寸前だったのでしょう?」
「馬鹿言うな? 捨てる? そんな事をしようとすれば、お前も黙っていなかっただろう?」
「それで? どうされるつもりだったのですか?」
「色々──暫くは、別居にてアリスが『愛人』以外の何かを見つけるように、それまでは……と思っていた」
「やぁ〜良かったじゃないですか! 彼女、愛人以外の『やりたい事』見つけたようで!」
「……」
弟分の白々しい喜びの笑顔に、純一は渋い顔で、まるで言いくるめられたように黙り込んでしまった。
「目を離すな」
「……ええ、判っております。なにもかも──」
「仕方がない。アリスらしいといえば、そうなるかね……」
「ですね──」
「お前の負担になって申し訳ないが──」
「全然。私もボスと同じように『思う所』がありますので──」
「そうか、では……頼む」
「お任せ下さい」
急に──二人の男は何か通じ合ったように真顔で頷き合った。
解っている──純一が言いたい事も、望んでいる事も、心配している事も、彼が彼自身を責めている事も──『全て』。
それでもジュールは『ボスに被された負担』だなんて思っていない。
ジュール自身も、この件では『長年の鬱積』という物があり、決着をつけ、さっぱりしたい所があるからだ。
今までは『ボスの意志下では絶対』という部下としての最終的信条を第一として破る事は出来なかった。
だが──今度はジュール自ら、手が下させるのだ。
後は、壊れるも蘇生するも、『彼女自身』の事だ。
そこで、ジュールは一息つき、一緒に持ってきた白い箱を、純一に差し出した。
「なんだ」
「ボスがお選びしたお嬢様のお出かけバッグ、拝借いたしました」
純一がエドと共に見立てたバッグがいくつかあるが、ジュールはその中から特に純一が『葉月に似合う』と気に入っていた『水色のミニバッグ』を、白箱から取りだした。
手持ちも、肩掛けもできる小ぶりのバッグ。
それをそっと差し出し、蓋を開け、その中に詰めた物を純一の目の前に並べた。
「お嬢様の制服に入っていた持ち物です。貴方からお返しした方が宜しいかと思います」
財布、そして紺色の巾着袋、そして──携帯電話。
「ん? これは……」
純一が目に留めてまず反応したのは、やはり『紺色の巾着袋』だった。
早速、彼は手にとって、中身を確かめる。
「内ポケットに大切そうに忍ばせていたようですね」
「持っていたのか? これを葉月が──」
「右京様が手渡したとしか思えませんね。お嬢様はここ半年は鎌倉には行かれていないと思いますし」
「そういえば、右京もここのところ、小笠原に出入りしていたみたいだな」
「ええ、音楽隊の指導に──その時、お従兄様とお嬢様の間で、貴方の事……色々と話し合った結果だと思いますよ」
「……右京が」
純一が目を伏せ……手の平にのせたサファイアの指輪を、畏れるようにそっと指で揺らした。
「一度、右京様にもしっかりご挨拶された方が宜しいでしょう──お嬢様に持たせていたという事は、送り出す心積もりかと……。貴方についにお任せする覚悟なのでしょう。だとしたら……右京様もお嬢様に多々知られる事も覚悟かと──」
「……そうか。分かった」
純一はそういうと、その指輪を大切そうに巾着にしまい、彼女の財布と……そして携帯電話も何の気もなさそうに、指輪袋と一緒にしまい込んでしまった。
「携帯電話──宜しいのですか?」
「構わない」
「……」
間髪入れず返答されたので、ジュールとしては心外だった。
「念の為、暫く監視させていただきましたが、どなたからも連絡ございません。メールすらも」
「そうか……葉月が連絡したい意志が残っているのなら、それも仕方がない……」
「ボス……もしかして……」
「それで帰ってしまう程度なら……イタリアに連れていっても同じ事だろう……。ま、その内に充電出来ずに、電池が切れるだろう」
「……」
ジュールは黙り込む。
彼には彼なりの『逆の覚悟』もあるのだと。
だけど、愛する義妹の前では『絶対に一緒に行こう』という姿勢と本心は、絶対に崩さず、隙を与えない様にはしているだけだったのだと……この時、初めて知ったのだ。
本当は今すぐイタリアに帰れない事もない。
だけど、確かに純一は出てきたが為にやる事になってしまったスケジュールを消化仕切っていない。
東京のしかるべき稼業部員に任せられない事もないが、自分でやると言っている。
確かに、その方が間違いはないだろうが……。
『まさか、お嬢様に考える余裕を?』
そんな風にも思えた。
それに──。
「ボス──今回は、思い切りましたね。お嬢様にもう一度ヴァイオリンと向き合わすなんて……」
「そうか? 思い切っているか?」
ただのプレゼントだと思っていたジュールとしては、先程の『俺と一緒にもう一度、あの頃の夢を』と言い切った彼に驚かされていた。
驚きのあまり、口を挟めなかったのだが──後々考えてみると……。
「お嬢様にとって、ヴァイオリンと向き合うという事は……もう逃げられないという事ですよ」
「……そうだな」
「ヴァイオリンを選べなかったら……もう……」
「……」
ジュールもそれ以上先は……言うに耐えられそうもなく、口をつぐんでしまった。
そして──純一も何も言わない。
二人の男は、窓辺に現れた三日月に気が付いて、一緒に見上げた。
「この月は、満ちる時期か? それとも……」
「さぁ──知りたくありませんね」
たった今話していた事を忘れるかのように……一緒に見上げるだけだった。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
義兄はリゾットだけ手早く食すと、ジュールの『話』と言う物が気になるかのように、直ぐに二階に戻ってしまった。
『お前はここで、ゆっくり食べていたらいい』──と、微笑みかけて。
今、エドお勧めのとってもクリーミーなポテトポタージュを楽しんでるのだが、最後のお茶を飲み終わったら、葉月も直ぐに二階に上がろうかと思っている。
『エド、アリスをここに頼む。それと──』
葉月のミルクティーを作っている最中の……ジュールのそんな声がキッチンから聞こえて、葉月がふと顔を向けると──彼と視線があった。
すると、彼は急に声をひそめ、エドに耳打ちをしている。
勿論、彼等には彼等の業務がある。
葉月が割って入れない所があるのも承知なので、素知らぬ振りをした。
するとエドがこのリビングを出て行った。
(彼女が見あたらないと思っていたけど……外にいるのね)
今回、初めて顔を合わせた『義兄の新しい部下』という女性。
とても綺麗で愛らしい金髪の女性。
どこか眩しそうな煌めきが、葉月の第一印象で……ジュールやエドも身なりは一流だが、そうは華美ではないのに、金髪の彼女は少し華やかな服装だったので違和感を抱いていた。
女性の部下だからだろうか? と、葉月は思うのだが──義兄が直属に置いているなら、そういう身なりにも厳しい目と指導が行き届いているはずなのに。
ジュールとエドは、何時会っても、言葉は交わさなくても、接し方は本当に洗練されていたし、大佐である葉月から見ても、文句のつけようがない仕事振りだった。
『新人です』──ジュールがそう言っていたから、それでまだ彼女だけ、このファミリーに馴染んでいないのかとも思うし?
この黒猫という組織の核に当たるだろう男三人組がいつも一緒にいるのに対して、女性も一緒にいる事が、こうして、冷静になって考えてみると、どうも葉月には違和感ばかり感じて仕方がないのだ。
しかし──今は彼等が言うままに信じ、様子を見るしかないだろうと……。
そして──ジュールが厳かに、立派な美しいカップに入れたミルクティーを差し出してくれた。
葉月はティーカップを傾け、一人食後のお茶を味わっている。
その内に、エドがその金髪の彼女を連れて、リビングに戻ってきた。
そして……ジュールが彼女を従え、二階に上がっていく。
自分が義兄と籠もっていた部屋に扉がひとつあり、義兄が眠っている間にそこを覗いたら──仕事部屋だと一目で判った。
そこが義兄が言う所の書斎だろうと、葉月は二階に上がる二人を見つめる。
彼女を一目見て、葉月はまた違和感を持った。
何故なら、今日の彼女はとてもシンプルで控えめな黒いスーツ姿だったのだ。
一目でその違いが分かる。今日の彼女なら『黒猫の部下』と言われたら、葉月も納得する『キャリアウーマン風』のスタイルにまとめているではないか?
先日のあの華やかさなら、何か特別な目的があったのだろうか? とも思える落差だったのだ。
だが、そういう事も、気にしても今は仕様がない。
お茶をゆっくり飲む事にした。
今、部屋に戻っても義兄は書斎でお話し中だろうから……と。
暫くすると、金髪の彼女だけが階段を降りてきた。
『?』
葉月は──彼女の俯く表情にまた……違和感を感じる。
何か失敗でもして? ボスに叱られたのだろうか? ──予想するなら直ぐにそういう事が思い浮かぶ程、泣きそうな顔をしていたのだ。
そして彼女は、葉月の方に顔を上げる。
彼女と視線が合う──が、彼女は軽く会釈をして、キッチンに控えているエドの側に身を寄せ、そのまま立っているだけだった。
美しい陶器の中に揺れるミルクティーを葉月はカップを揺らしながら見下ろした。
「……」
色々な事をやっと考え始めていた。
『二日経っているとしたら……』
昨日の月曜日は、日曜開催である式典の振り替え休日だ。
そして──今日から、出勤しているはずの平日。
『……その前に……式典の夜、ロイ兄様のご自宅でパーティがあったはず』
それには両親も出席していだろうから、娘が現れない事を不審に思い、事の次第が発覚し──とても慌てているはずだ。
さらに──両親は月曜日の昼には……『久しぶりに鎌倉に寄る。それから自己負担にて成田からアメリカに帰る』と言っていた。
だとしたら? 二日経った今日は、まだ鎌倉にいるはず──。
どんなに怒っているだろう──?
葉月は急にそんな事もふと思いついて、不安になっていたのだが。
──『これはお兄ちゃんの命令だ。パパとママには言うな。後の事は俺に任せてくれ。純一も、そうなればやらねばならない事も出てくるから、俺達に任せていればいい』──
──『フロリダの親父さんにおふくろさん──それから右京には俺からきちんと説明する。何も心配せずに、任せて欲しい。』──
兄二人が口を揃えて言った事は、葉月のどうしようもない諸行をかばってくれる為に、負担になってくれている様にも思えたのだが。
それにしては? 葉月がこうなる云々より先立つものがあるような言い方だったような……そんな気もするのだ。
だが──やはり今は、義兄に任せて、様子を見た方が良いし、自分も……。
そう思い、葉月は側にある『新しい相棒だ』と紹介されたばかりのヴァイオリンケースに視線を馳せた。
『もう一度、あの頃の夢を──』
そんな事……考えた事もなかった。
いや……『もし、ヴァイオリンを続けていたら』とか『本当になりたかったのに……』という歯がゆい気持ちが胸を掻きむしるように襲ってきた事は、昔はよくあった。
それがいつしか本当に『諦めの境地』に辿り着き、それは葉月の中で封印され、二度と開けられる事はないと思っていたのに……。
確かに──こうして軍人である自分を捨てるかのように飛び出す事が出来たのは、初めての事だった。
こんな風に飛び出す勇気があったのだから……軍人を捨てる覚悟で出てきたのだから……もう、葉月には何もないと言っても良い。
それなら──ヴァイオリンを再度始める勇気だって……あっても良いのではないか?
義兄はそう言いたいのだろうか?
正直──考えてもいない話が飛び出したので、葉月としては考えはまとまらないし、戸惑っているばかりであるのが現状だった。
そんな事を考えていると、最後の一口を飲み干す所で──丁度、ジュールが階段を降りてキッチンに戻ってきた。
「宜しかったら、おかわりお作りしますよ」
彼のニッコリに、葉月も微笑み返し──でも、そっと首を振った。
それでも彼は満足そうに、微笑みを絶やさない。
葉月は慌てて、ロイヤルコペンハーゲンの『フローラダニカ』のカップをソーサーに戻した。
そして『ご馳走様』とキッチンにいる彼等に微笑み、席を立つ。
「兄様は……お仕事を始めているのかしら?」
「ええ、おそらく──ですが、お側にいて喜ぶのはきっと義兄様の方ですよ。一曲、早速、聴かせてあげて下さい」
「そ、そう……」
ジュールのにっこりに……そしてその言葉に葉月は頬を染めながら、傍らにあるヴァイオリンケースを引き寄せる。
「宜しかったら……後日、私どもにもお聞かせ下さい」
「ええ……それまでにまともに弾けるように、勘を戻しておかないといけないわね」
「ありのままで充分です」
「メルシー、ムッシュ……」
そんな彼の柔らかさに、葉月は妙に癒されるような気がして……そのままヴァイオリンを手にして、二階を目指した。
「兄様──」
葉月はベッドルームから続いている扉をノックする。
「どうした? もう食べ終わったのか?」
すぐに義兄がドアを開けてくれた。
「お仕事──いつ終わるの?」
「いや? 別にそれほど立て込んでいないが……」
「これ──有り難う。大切にするわ」
葉月がヴァイオリンケースを差し出すと、義兄はとても嬉しそうな笑顔を浮かべている。
葉月は……それを見ただけで、妙に涙が出てきそうになった。
「一曲、聴かせてくれ──今宵にふさわしい、月光に似合う曲が良い。ああ、今度はピアノも探さないとな……」
「ドビュッシーの月光なら、右京兄様の方がお上手よ」
「じゃぁ……トロイメライ……かな」
「兄様はグノーのアヴェマリアが好きなのでしょう?」
「いや……今夜はトロイメライだ……」
そう言うと、純一はベッドルームの灯りを消し、窓辺へと向かった。
ソファー前に広がる大きな窓辺の、若草のカーテンをサッと両手で開けると、サッと淡い月光が彼を照らし始める。
「……さぁ、聴かせてくれ」
そこのソファーに座りこんだ義兄が、葉月を笑顔で手招きする。
「ずっと弾いていなくて」
「かまわない。ありのままの音で。お前のありのままの歌声は、いつも変わらない」
葉月は、彼の足下にある低いガラステーブルにケースを置いて、そっとヴァイオリンを取り出す。
『トロイメライ』
その曲を弾くと……否が応でも思い出す。
葉月の初めての血潮が吹き出した熱い秘密の夜の事を。
義兄も……今夜はそれを思い出しているのだろうか?
葉月はそう思いながら、ボウをそっと揺らし始めた。
『夢想』のはずなのに──そこには『夢』がある。
本当に──これは現実なのだろうか?
目の前で月光の中、頬杖をしながら満足げに微笑んでいる彼の顔。
それも──葉月にはまだ夢のような心地で見えるだけだった。