「ボス──! やっと見つけましたよ!」
「!」
ある晩の事──純一の書斎部屋に、ジュールが駆け込んできた。
「本物だろうな?」
「ええ、勿論──。あるコレクターが手放そうとしているという情報を元に──!」
「今、それは何処にある?」
「イギリスに──」
「イギリス?」
ジュールがニコリと微笑んだ。
「義兄さんが、突き止めてくれたようで……もう、買い取りの契約をするかしないかまで、取り付けている段階だそうですよ!」
「クロウズが?」
「ええ」
「そうか──やってくれたか」
「義兄さん……すっかり見透かしていましたよ」
今度はジュールのニヤリ笑い。
純一は、そっと顔を背けた。
「お嬢様の為であるなら、これは俺も手を抜けないって……笑っていましたからね」
「ちっ。クロウズめ……余計なお世話だ」
「……そうもいかないのでしょう? 義兄も姉も……貴方には感謝をしているんですからね──」
「……」
無邪気なような? そして、爽やかな笑顔をジュールが浮かべたので、純一は内心は驚きながらも、それに気が付いている事をジュールに悟られないように、そっと目を細め、顔を背けた。
だから──ジュールは警戒なしに、まだクスクスと笑って楽しそうだった。
久しぶりに義兄とそして、その義兄を通じて姉と話す事でも出来たのだろうか……?
ジュールにとっては、表にいる唯一の家族とも言え、ジュールは接触を避けつつも、残しておきたい『場所』である事を純一は知っていたから──。
そして──『ビル=クロウズ』と言う男は、純一の事もよく知っている。
彼は立場的には部下になるが、人生では純一の先輩に当たる年上の落ち着いた男だった。
彼にはいつも『見透かされる』──。
今回も……『ついにその気になったのか……』という気持ちを持った上で、『ヴァイオリン』を誰よりも必死に探してくれたと言う事が純一には伝わってくる。
だから……ジュールも義兄に同調し、二人揃って今回の純一の決意に、全面的に擁護しているのだろう……?
「さて……ボス。アマティの手配はお任せ下さい。次は……」
「次か?」
「そうですよ。万全に受け入れ態勢を整えておきましょうよ。豪勢に──!」
そこでもジュールは無邪気に見えて、純一は眉をひそめる……そっと……。
「では……」
「はい、如何致しましょう?」
躊躇いがちに口を開いた純一の……次なる『指示』を待ちきれないジュールの様子。
弟分のその様子に、さらに躊躇いながらも、純一は告げる。
「スイートを押さえてくれ。お前が取りやすい国内のホテルだ。葉月が落ち着けるよう、じっくり一緒に滞在したい」
「勿論、私もそのつもりで……近場を考えています」
「そして、融通が利く会員制の静かなホテルが良い……。出来れば……房総は避けて欲しい。そこは違う『拠点』にするつもりだ──」
「……ああ、なるほど。では……房総以外で……」
「それから──葉月に合う洋服と身の回りの物、化粧品などを一揃え……」
「はい。それは……エドに任せるつもりです。上から下までばっちり、コーディネイトすると張り切っておりましたよ。エド直属の事務所のスタイリストをピックアップし、コーディネイトなどを始めようとしている念の入れようです──」
「そうか……。自分の好みがないようで、実際、葉月は気に入らなかったらハッキリと拒否するからな。気に入るように頼む」
「かしこまりました──。後……私たちでも心得ていない細かい事、お好みなども、思いついたら、必ず、教えてください。今回は……お願いしますよ」
「……ああ」
『指示』にハキハキと応対するジュールに対して、純一は、また──躊躇いがちに返事をした。
そして……ジュールは颯爽と、純一の書斎から出て行こうとしている。
「ジュール──」
「はい?」
ドアの前で、ジュールが振り返る。
「……ここまでする意味があるのだろうか? こんな事をする意味が……葉月は……」
「──!」
そんな純一の躊躇いに、やっと気が付いたジュールが、目の前に舞い戻ってくる。
血相を変えたようなジュールの顔つきは、純一の顔をキッと睨むかのようだった。
「なんですか? 今更──」
「解っている──」
そのジュールの視線から逃げるように、純一は顔を背ける。
「勿論、貴方の不安……私だって解りますよ? ですけど、貴方も信じているのでしょう? お嬢様が来てくれるのだと……。だったら! たとえ、その『約束』が結ばれなかったとしても、貴方も、お嬢様を信じて『貴方に出来る、貴方が彼女にしてあげたい全力』を出すべきではないのですか? それをした事が『無駄な事をした』だなんて……どっちに転んでも私は無駄だなんて思いませんよ!」
「──!」
「貴方らしくない……しっかりしてください」
ジュールの力説に、純一が一瞬──気が飛んだように固まっていた。
そんな……らしくない兄貴、いや? ここまで隠し続けてきた本当は臆病である自分が顔を出し始めている彼の心境は、痛いほど分かるから、ジュールは、やるせない溜め息をついていた。
「……あんな男性が、お嬢様を後押ししていると解っては……貴方も、もう逃げられないって所でしょうね……。追いつめられたのは、兄分である貴方なのか……?」
「……かもな」
そして、純一は……そんな風にして、自分の臆病さをサラッと認めたのだ。
今までなら──彼、純一がこんなに考え込んだり、真剣に前を向かなくても、自然と『あるべき関係、壊れるはずない関係』は、易々と彼の手中にあったのだから。
どんなに葉月を泣かせても、彼女の前で悪ぶっても、突き放し……『今度こそ、義妹は俺の手から離れる』と決心しても……どうあっても、彼の『淡い期待』通りに、葉月は舞い戻ってきた。彼の心の隙間を満たすかの様に、ふんわりと戻ってきて、純一を満足させてきた。
それが『淡い期待』を見抜かれていたのでもなんでもなく……ただ、葉月が純粋に義兄を愛していたからだと……いつしか誰もが気が付いていて、皆が目を伏せ、見ぬ振りをした。誰もが──だ。
だけど──ジュールも『周囲の親族』がすることに口が挟めない立場であるから従ってはいたが、『そうではないだろう?』という密かな抵抗は、少しずつ主張してきた。
そして……やっと、周りにザワザワと波が立ち始め、それが大きなうねりとなって、彼女と兄貴を終着地点まで連れて行こうとしている『勢いある動き』をジュールは感じている。
その流れを作ったのは……勿論! 『澤村隼人』である!
ジュールはそれを見届けて、誰よりも! 彼に敬意を持った。
彼の勇気と愛は本物だった。
なかなか見られる物ではない事は、色々な経験をしてきたジュールは特に分かる。
ああいう事が『出来る』のは、論理的にはなるが、当然の事ながら『愛』があるからだ。
そう──自分の為ではない、彼女の為の『愛』だ。
理論ではいくらでも理想論として耳にする事も出来るし、口にする事も出来るが、ああも行動にし──さらに、目の前の人間数人を同時に驚かせ、信じさせられるのは希になるに違いない。
しかも初対面の男達を彼は唸らせたのだ。
このジュールが特に──。
「それでは──私は忙しいので失礼致しますね」
「ああ……」
やっとボス・純一の顔が覚悟を取り戻したかのように、しっかりとしたので、ジュールは密かに胸をなで下ろし、書斎を後にした。
純一も、いつもの凛とした背を見せ、机のパソコンに向き合ったようだ。
ジュールはいつものリビングへと戻って、いつもの定位置でパソコンに向かう。
まず──いつもの偽装的なメールにて、イギリスにいる義兄に連絡をいれる。
彼でないと解らないメールの送信だった。
もう……夕方。
キッチンでは、エドが夕食の支度を始めている。
甘辛い和食の香りが漂ってきていた。
『エド……ショウユ、入れたんだけど、次はどうするの?』
『わっ。お前……醤油は最後だって言っただろ!? 砂糖は入れたのか!?』
『入れたわよ! いつ入れたって良いじゃないのよ! なんで、そんなに順番にうるさいの!?』
『素材に味が染みこむ順番って奴があるって、何度言ったら解るんだ!?』
毎度の賑やかな? アリスの指導に手を焼くエドの声に、ジュールは溜め息をついて、動かしていた指をキーボードから除け、窓辺にじんわりと滲み始めた夕焼けを眺め始める──。
あれから、この隠れ家に帰ってくると、ボスは書斎部屋にこもり……また、出てこなくなった。
ボスなりに、予想以上に認められる男であった事が、分かっていた事だろうに、目の前で見るとかなりの衝撃だったようだ。
それに──彼があれだけ真剣だから、もう……いつもの手『のらり、くらりな余裕』で『逃げる』事も誤魔化す事も出来ない。
つまり……彼の真摯な行動に『逃げ道を閉ざされ、前を向かざる得なくなった』事に気が付き、正真正銘の『真剣勝負』に向かされたのは純一の方であり、だからこそ──改めての『覚悟』を模索し、固めているようだった。
ジュールにはそう見えたので、放って置いた。
後輩のエドは、溜め息ばかりついていた。
アリスの気配がなくなる度に……ジュールの側に寄ってきては……『俺、分からなくなってきた。これでいいのかな? これでいいのかな?』なんて……青臭い同情を見せるようになっていたのだ。
つまり──『ボスの想いも貫いて欲しいが、彼の想いが真剣すぎて粗略に出来ない』──隼人という男の存在が、エドの中でも大きくなってきているようだった。
それに対する、ジュールの返答はこうだった。
『お前──“隼人様”のお考え……全然、解っていないな。ボスが想いを貫かないと、彼はお嬢様を手に入れられないと言っていたんだぞ』
『?? そんな事、言っていたかな?』
きょとんとしているエドに、ジュールは渋い顔に。
『そういう意味の覚悟であるのだと……そう言葉にしなくても、俺には通じた。だから、ボスは退かない。ここで退けば、ボスの負けだ。隼人様は、そんな勝利も望んでいないから、ボスに退かないようにする為に……あそこまで……』
その時、ジュールの脳裏に浮かんだのは、ナイフを振りかざす隼人の命がけの眼差しだった。
葉月がいなくなるから、もう……死んでも構わない……なんていう意味も多少はあっての『命がけ』だったのだろうが……ジュールはそれだけだとは思わない。
なにも余すことなく誰の為にも、満足いく結果が欲しい。
そうでなければ……同じ事の繰り返し──。
いつかはきっと、もう一度、同じ事が問題視され、皆が苦しむ。
誰の為でもなく……影で一人きりこっそりとその閉ざされた想いを抱えて、いつまでも『義兄の最後の味方』でいようとしている彼女の為──。
そして……それが、彼女を心配している人たちの為にも、最終的にはきっと良い方へ行くに違いない。
ここで『俺が覚悟をすれば……彼女を“今”自由にすれば』──。
そういう隼人が考え抜き、辿り着いた『結論』を悟ったジュールも『こんな風になれば……』と、隼人には悪いが、彼が不利になってしまうだろう『一番の方法』として考えついてはいたのだ。
だから──ジュールの思うままの『結論』を出し、それを差し出し提案してきた隼人の『本物の決意』は、ジュールの胸を強く打たないはずがなく、当然、衝撃的にジュールを虜にしたのは言うまでもない。
さらに──ジュールが頭を痛めている事が『ひとつ』。
それは……子猫の事だった。
あの子猫は、ジュールに言わせると『馬鹿』なのだが、どことなく突き落としきれない何かを感じさせるのだ。
外見『馬鹿』なのだが、ただの『馬鹿』ではないのだ。
勘は備えているし、生きていく上での大切な常識や……人が捨ててはいけない『気持ち』と言う物……そう、どんなに頭の良い世渡り上手の人間でも持っていない事もある『それ』を隠し持っているのだ。
なので──徹底的に『憎めない』……残念な事に、ジュールは『突き落としたい』のに『そうしきれない』から、イライラさせられるのだ。
それは純一は既に見抜いているから、邪険にしない……むしろ、勝手に拾った事を後悔はしていないだろうが『手に余し始めている』。
そして──エドもそれを見抜いているから、ジュール同様に邪険にしきれない。
絶対に人が捨ててはいけない最低限の……そして、誰もが簡単に捨ててしまえるだろう『汚れてはいけない、脆くて儚い天使的感情』を持ち続けているのだ。
だから、彼女はいつまで経っても、『幼き子供』のようなのかもしれない。
そして、子供的だから、天使的反面『小悪魔的感情』などを振る舞っても、無邪気に受け止めてもらえるのは、まさに『子供の許される所』という現象そのものが、『黒猫兄貴衆』にいつまでも甘く許されてしまえている部分なのではないだろうか? ──と、ジュールは考える。
そんな『儚き天使的感情』が、『良き事』とジュールは見定めているが、実際、世の中の混沌としている『カオス』という世界では『一番やっかいな事』であって、それが時には人間を迷わせ、立ち止まらせる……だから、面倒くさくなり、人は大人になるにつれて、『それ』を少しずつ捨ててしまう者が殆どなのだ。
ジュールもそう……『捨ててしまいたい』一人であり、もう、ある程度は『捨ててしまっている』一人なのだ。
特別な事ではなく、世界中の誰もがそうなのだ。
それを……アリスはいったんは地べたに堕ちて、泥をすすってきたのに捨てていず、結構……人より多く持っていたりする。
彼女がそれを捨てなかったから、地にするすると誘われるまま堕ちていったと言っても過言ではないかもしれない。
ジュールはそこまで考えて、溜め息をつく。
本当にやっかいな子猫だった。
(ボスなしで生きられないのなら……言葉通りに死んだらどうだ?)
こんな事を考えるジュールの事を、人は『非道』というだろう。
合理的に考えると、そう思いたくなる事もあるのだ。
そうではないか? 彼女の『言い分』とやらは、『ジュンが助けてくれたから、もう一度生きるはめになった。だから、捨てるな』という事なのだ。
純一は、こういう責めには意外と弱い。
あの通り、甘い感情を隠し持っているので、あのように言われたら『責任』を持って世話をしてしまう性分だ。
だが──ジュールに言わせると『甘ったれた脅し』にしか見えないのだ。
(人が生きていくのは、結局は最後は自分自身だ。人を幸せに出来る力を備えるのも、その“自立”があっての事)
寄りかかるだけの愛が、他人を幸せに出来るはずがない。
いや、寄りかかる愛? あれは愛じゃない──ただの『自己的思慕』であるだけで、自分の想いを満たす為だけに持っているだけの感情に過ぎない。愛なんかではない!
ジュールにそれを……命を落として教えてくれたのは『義母』であった『皇后』であり、その彼女とまるでパートナーのように共鳴し、父を支えてきた実母だった。
そして……久しぶりに見た。
そんな義母や実母以外に、そういう事を感じさせる人間を。
それが──隼人だった。
それに比べると……アリスの今のありさまは、ジュールにすると『甘ったれ』の他なにでもない。
(……ボスはどうするつもりなんだ)
葉月を迎えよう……という動きが出始めても、純一はアリスに対して、何かを諭すという姿勢も見せなければ、今後のお互いの決めるべき方向性について、話し合おうという素振りも見せない。
(まさか……あからさまに、女性二人を一緒にいさせるとか? 対面させるとか?)
アリスにとっては、それが一番身に沁みるだろうが……そうなるとアリスとしても太刀打ちできないほど……それこそ『私、死ぬ』と言い出すだろう。
ジュールはそれでも『ああ、そうしろよ。お前の愛とやらは、その程度だった』と、突き放すが、あの純一にはそれは出来ないだろう。
(それに……お嬢様も目の当たりにするとショックだろうな……)
と、そこまで考えて、ジュールはふと……首を振った。
(いや……あのお嬢様は『あら、そうだったのね』……で、終わらせそうだな)
という様な考えが、フッと思い浮かんでしまい、ジュールは微笑んだ。
(あのお嬢様の事。義兄様に一人や二人、なんでもないおつきあいの女性がいる事ぐらい解っているだろう。判っても──その気持ちは揺るがないだろう)
だから──彼女はいつでもボスの側にやってこれるのだ。
そう……思いたい、いや、思えてきたのだ。
『まぁ……ボスの不器用な意向に任せて置くか──』
また、ジュールもヤキモキするだろうが……余計な手出しは今回はタブーである事は心得ていた。
・・・◇・◇・◇・・・
その晩の事だった。
この日の夕食は、エドが腕によりをかけた『肉じゃが』だった。
純一の大好物である──『お袋の味』と日本では代表的らしいが、それは純一にはぴったりしっくりとくる思い出の一番のものらしい。
「ふぅむ……美味いが……?」
ボスのその一言に、満足げに微笑んだのは、その隣に座っている『アリス』だった。
「ほんと!? ジュンが大好きだって聞いていたけど……ほんとに美味しい?」
「……アリス、やめろ」
いつもの無表情で食事をするご主人様の顔を覗き込むアリスに対して、冷たく不満そうに言い放ったのは、作った本人エドだった。
「本当はこんな味ではないはずなんだ」
『だろうなぁ……』
お褒めのお言葉に、満足しないエドの……敗北をくらったような顔に、ジュールは同感で、だまって箸の先にジャガイモをのせて、口に運んだ。
「いや……エドにはエドの美味さがある。それにいつもと少しだけ違うだけだ。不味くはない」
「いえ、お母様と張り合っているのではなく! 私自身が今日の出来きに納得していないんです」
ジュールにもエドの今日の反省点……というのは、一口、口に運んで納得した。
確かに『お袋の味』には適わない部分もあるだろうが……エドが参考にしているのは『飲食店並』、つまりプロの味だった。
お袋の味は、その子供でないと解らないが、プロの味というのは、大抵の人間に合うような、支持される味を目指すだろうから……。
そして──エドの和食の研究は、そこを軸に回っていて、当然……ヨーロピアンであり、世界中の食を試してきたジュールでさえ、認めている所なのだ。
エドの和食は、近頃、非常に磨きがかかっていた。
『それにしては……』というのが『今夜の出来映え』であり、ボスは『美味い』と労っても、ジュールは厳しく『いつもと違うじゃないか』と言ってみたい所だ。
(あれだな──)
ジュールは再び、こめかみに指をあてて一人唸った。
『醤油は最後!』
あの時に、エドの毎度の……そして『繊細な手順』が狂ったのではないだろうか?
エドは、その『原因』を知っているくせに、アリスのせいにはしない。
勿論、これが逆にジュールであっても、『小娘のせいで俺は失敗した』なんて、男として絶対に言えないし、男でなくとも『先輩』として絶対に言えない所だ。
これはエドの甘やかしでもなんでもなく、何処の『職場』でも同じ事だ。
部下の失敗は、自分の失敗。後輩への指導不足は、自分の指示ミス監視ミス。
それを声高にして『アリスがしょう油を先に入れちまった!』なんてエドが叫ぼうものなら、ジュールがそこはエドを叱りつける所だ。
もし、叱るなら……アリスに再度指導をする為に、この後、一言注意をする事。
今の席でするべき事ではないのだから──。
だから──エドは『やめろ』とアリスに言い放ったのだ。
問題は──。
純一がそれなりに褒めているのに、出来きは良くないと反発するエドとの会話に、アリスがビクッと硬直した。
それを見届けたジュールは、近頃、彼女の『馬鹿さ加減』に苛ついているから、余計に呆れて目を背けたくなったぐらいだ。
「えっと……これって……ジュンのママンの味なの?」
「……別に」
いつもの如く、『図星』でもボスはそういう『感傷的』な事には、素っ気ない素振り。
「ごめんなさい──。じゃぁ……上手に出来たなんて言えなかったわね。だって……初めて作ったんだもの……」
シュンと俯いたアリスのその健気さというか、そういう『私が一番、私はジュンの為になんでもする』と胸張っている態度を、サラッと控えるその『彼女らしい素直さ』にジュールはまたもや『イラッ』と、こめかみに何かがざざっと走り抜けていくような感覚を覚えた。
──パチ!──
ジュールは静かに箸を置いた。
静かに置いたはずなのに……誰もがそのジュールの仕草に視線を集めた。
「ちょっと急用を思い出して──それを片づけてから、すぐに戻りますから……ここは失礼します」
「ジュール……」
エドがこれまた『ジュールの口にも合わなかった』という様に受け止めたのか、いつにない落ち込んだ眼差しをする。
「いや、本当に急用だ。俺も不味くはない──いつものお前らしくない味だがね。何処かで手順を間違えたのではないか?」
「……」
エドはそこで黙りこくり、俯いた。
だが──ジュールはそう言いながら、アリスをチラリと見る。
当然──あの際、エドには『順番なんて関係ない』と反発していたアリスはやっとこさ『自分のせいだった』と気が付き、居心地悪そうにジュールから目線をそらしたのだ。
「後で、必ず食べる。取っておいてくれ」
「分かった……近頃、本当に忙しそうだな。ジュール……」
「お前こそ……張り切りすぎて寝ていないはずだ。少しは休め──」
「サンキュー」
そんなジュールとエドの会話に介さない純一は、ひたすら黙々と食事を進め……アリスもこれ以上自分がいじくられないよう、顔を伏せながら黙って食事を進めていた。
ジュールはそっと、リビングを出て、寝室に使っている部下部屋に足を運んだ。
暗くなったその部屋の灯りはつけず、窓辺に腰を下ろして、窓を開ける。
近頃、晴天続きの小笠原の上空は、満天の星がジュールの目を毎晩、楽しませてくれるようになっていた。
そこで煙草をくわえ、火を点けて──空を見つめ続ける。
先ほどまで、苛ついていたものがスッと冷まされていくのを感じ、ジュールはホッとする。
「まったく──ただの愛人だから、ああなんだ。愛人なら愛人らしく振る舞えっ」
彼女がしている事は愛人ではなくて、恋人だった。
一人の男しか目の前に見えず、盲目に走っている恋する女そのものだ。
別に……愛人に愛するなとか恋するなとかは言わない。
割り切れと言いたいのだ。
彼女があんな風に『真っ直ぐに一途で純粋』すぎるから……余計に腹が立つのだ。
愛人という『契約そのもの』が守られているのなら、どんなに哀しくても想いが適わずとも、身を退くべき所は退くべきなのだ。
それなのに……その域を超えようと『煌めくばかりの乙女』になってしまっている彼女が、そんな事をすればするほど、後で見る物、認めなくては行けない時が来たその際に、どれだけ、自分が惨めであるか、絶望するのかと思うと──。
それにもう一つ。
(アイツ──絶対に世間を知らなさすぎる)
学校を出て、直ぐに芸能界で波に乗り、その後、転落したとは言え……彼女が『自力で働いた』という経歴はほとんどない。
芸能界で女優として成功していた短い期間に、彼女は『まっとうに働いた』と思っているようだが、ジュールから言わせると『あんな程度で働いた?』になる。
下積み時代もなく、直ぐに売れっ子になったアリスには、『苦労』というものはなかっただろう。
きっと誰もがちやほやとし、事務所もマネージャーも彼女を全力でバックアップしていただろう。
そして……騙されて転落。
その『不幸』はジュールも『不憫だ』と思っている事は認めよう。
不憫だが……その後の彼女の心構えというのが、どうも納得できない。
ずるずると堕ちていっても、彼女を拾ってくれたり、支えてくれる『誰か』が必ず居たのだ。
それが裏世界の『犯罪者』であってもだ。
彼女は結局、『自ら稼いで身を立てる』という事をした事がないのだ。
せっかく、悪き環境から救い出され、『お金だけが幸せじゃない』と悟ったのは良き事だったが……結局は、純一という『パトロン』がいる生活なのだ。
だから……ああやって、エドに指南を頼みながらも反発し、『私は一生懸命やった』と平気で言い張れる。
それが『愛人』だから許されているが、先ほどもジュールが思ったように、これが職務なら許されない所である。
エドとしては、ああしてファミリーの食事を『まかなう』事は、仕事の一環でやっているのだから、アリスのああいう中途半端な気持ちの上での失敗を飲み込めているし、きっとジュールもそうしてしまう所であり、今までもそういう事は多々あって、今更ながらの事なのに──。
(ああ、イライラしてきた)
ジュールは煙草の煙を深く吸い込んで、勢いよく夜空に吹き飛ばし、眉間にシワを寄せた。
近頃──こういう『今更ながら』が、どうして許せないのか……本当の所は、まったく自分でも見当が付かなく、人には言えないが持てあましている。
だから……イライラしている。
(アイツが……変わろうとしないからだ──)
星空を遠目に眺めて、ふとそう思った。
初めて……子猫の何に対して、何を望んでいるかが垣間見えてきたような気がして……そのままジュールは窓辺に足を組んで座り、ジッと考え込んでいる。
『──!!』
その時……ジュールは顔色を変え、煙草をそっと口元から外した。
そして……静かに、何事も感じなかったように、窓辺から腰を下ろし……側にあるエドがよく使っている小さくてファッショナブルな赤いノートパソコンの側にある灰皿に煙草をもみ消す。
そのまま……何気なさを装って、部屋を出る。
部屋を出て……またもやさり気ない足取りを心得たが、なんとなく自分的には足早に感じている。
まっしぐらにリビングを目指す。
リビングに戻ると……そこでも、『変わらぬ食事の風景』が保たれていた。
が──ジュールがそこに現れると、純一とエドが一斉に、ジュールを見たのだ。
「……ああ、そうだ」
純一が席を立った。
「エドは暫く……そこで、頼む」
純一の短い一言に、エドが真剣に頷き……彼も何気なく茶碗を手にして、食事を続けているが、食べているようで、エドも何かに警戒をしている素振り。
「どうしたの? ジュンまで……」
「お前は最後まで、ちゃんと食べろ。ちょっと、書斎に行く──」
「もう……なに? 皆して! 私の失敗だって言えばいいじゃない!!」
自分のせいで、今夜の食事は『美味しくなくなった』事を理解したアリスが、皆が次々と席を立った事に癇癪を起こしたが……純一はなんのそのという顔で、ジュールの元へとやって来た。
『いるな……』
『ええ──上に……二名?』
すれ違いざま──純一はジュールにそう囁くと、急ぐように書斎に戻っていく。
そこに置いてきた『情報』を盗まれていないか気になったのだろう。
(大丈夫だ──。食事を始めた時、その前には気配はなかった)
ジュールが部下部屋に入って、ほんの少しの間にその『気配』が漂い始めていたから……。
しかし──この木造の古い家とは言え、この場所を突き止められた事も予想していたとはいえ……こうも大胆に屋根裏に潜んできたのは、あれから数日経ってるにもかかわらず、初めての事だった。
『数日後、本島に帰る』
隼人と接触した後、ボスが下した判断と指示はそれだった。
そして、ここを去る準備はもう整っていた。
もう一度、あの房総のホテルに戻るのだ。
だから──純一はあの房総のホテルは『違う拠点』……つまり『アリスを置いておく場所にする』という意味で、他の場所で葉月と再会する事を望んでいたのだ。
その矢先──ついに『小笠原陣』が、こんな目の前までやって来た。
(そこまで来て……何をしているんだ?)
それはジュールにも予想が出来ない。
いや、予想するならば──ここまで来たなら、『徹底的追い払い』の為に、直ぐにでも彼等が『勝負』を仕掛けてくるはずだという事。
ジュールの指先は……神経をそこに集中させるかのように、ゆっくりと腰にある銃へとさり気なく近づかせていく──。
だが──。
エドが立ち上がり、スッとキッチンへと移動した。
ジュールにも分かった。
『気配』が消えたのだ──。
ジュールの頭上から……キッチンへと……キッチンから、ボスの書斎部屋の方向へと遠ざかって行き、途中で消えた。
純一が書斎から出てくる。
「エド──外回りを頼む。気をつけろ──」
「ラジャー」
エドはそのまま……勝手口から、息を潜めるように腰に備えていた銃を片手に、静かに外に出て行った。
「俺の方は大丈夫だ」
「私達の部屋も……先ほどまで私がいたので……」
「……なにもしないで帰ったか……?」
「エドがなにも見つけなければ……そうなのでしょう。私も、外を確認してきます」
「ああ……」
ジュールはリビングにある玄関から、外へと出る。
「ど、どうしたの?」
「ネズミかな? うるさいから、二人がちゃんと外へ出たか確認しに行った」
「そんなネズミがいたら、サッチとレイが悪戯しちゃうわ! そんな猫にはしたくないのよ!」
「……だよなぁ?」
そんなアリスの言葉に、ジュールは呆れたが、純一は可笑しそうに笑いつつも、何も分からない『女性』に何かあってはと、側を離れようとはしなかった。
小さな平屋建てのこの家を一周──途中でエドと鉢あった。
「見てくれ、ジュール。あそこ……除けられている」
「本当だ。やってくれるな──」
鉢あった地点で、エドが屋根を見上げていた。
そこに、屋根の骨組みの高さになる位置の板が一枚、除けられていた。
「足跡は残して行きやがったな……馬鹿だな」
「……らしくないな?」
エドのプロに対する『馬鹿』呼ばわりには、ジュールも同感だったが、なんだか一瞬、腑に落ちなかった。
「渚に足跡もあった。もう海中だな──クルーザーに何も仕掛けられていないか点検しなくては」
「頼んだぞ、エド。もう……明日にはここを立った方がいいな」
「ああ──今夜はその準備を急いでしよう」
二人は頷き合って、それぞれの今後の対策へと動き回る。
「帰ったか──」
「ええ──」
「明日とは言わずに、今夜たつ──遅くてもだ」
「解りました」
純一も同じ判断であったが、ジュールより急ぐスケジュールを立ててきた。
が、それにはジュールも賛成だった。
『えーー! いきなり? ここを出るの!?』
『もう、ここでの仕事は終わった』
『……』
アリスは毎度の如く、キンキンとまくし立てていたが……純一の『ここでの仕事は終わった』に急に黙り込んでしまっていた。
それを見て……ジュールは思った。
アリスとしては、この父島滞在中に、サワムラにも義妹にも会えなかった事を不満に思ったのだろうが、純一の『終わった』の一言に、『イタリアに帰る』という意味とも取れたので、そうであるなら……このまま帰りたいと思ったのだろうと……。
アリスもその後は何も言わずに、素直に素早く、帰り支度を真剣に始めていた。
夜半遅くに──黒猫ファミリーはこの父島の別荘をスッと去っていく事が出来たのだ。
とりあえず、向かったのは……セスナを置いている島まで。
そこから本島へ、房総へと帰る手はずは、既に整っていたのだ。
だが──これが、あのバイオレット瞳の『彼』の思うつぼだった事は……ジュールはついに気付かなかったのだ。